閉じる


第1章 見えない三本の柱


3 地魔

 アサジの仕事を中断させた豪雨が降り始めたころ、彼の家には、いつもと変わらず、オロティアが布団のうえに座っている姿がありました。


 そうやって、いつもどおりに窓から見える景色を眺めていたオロティアなのですが、不意に雨がふりだし、その雨脚がもはや弱まることがないことを悟ると、めったに戸外に出ることのない彼女も、この時ばかりは、どうしても玄関の外へ出ていかなければなりませんでした。庭で飼っている鶏たちを、雨で体を冷やしてしまう前に鳥小屋に入れてやるためです。


「さすがにこの雨では、大事な家畜を、外に放り出しておく訳にはいかないものね」


 そう言って起き上がると、どうしても萎えた足がグラつくのを抑えられませんが、それさえ乗り切ってしまえば、危なげではありますが、オロティアが歩けないことはありません。彼女は雨をしのぐための外套を着ると、おそるおそる屋外へと出ていきました。

 

 

 

 小さな庭では、けたたましいぐらいに鶏が鳴きわめいています。おそらく雨に脅えて興奮しているのでしょう。


「そんなに騒がないで。いい子だから小屋の中に入ってちょうだい」


 オロティアがそう言うのも聞かず、興奮した鶏たちは柵の中でめいめい勝手に暴れています。それどころか、こうした鶏たちのうちの一羽が、何を思ったか、かがんだオロティアに向かって突進していき、その鋭い嘴でオロティアの右手を突き刺しました。


「あっ!」


 そう叫ぶと、健康体から程遠いオロティアの体は、いとも簡単にその場に倒れてしまいました。

 

  そうして泥の上に、いえ、泥の中にと言うべきでしょうか。そこに仰向けになると、オロティアは何度も起き上がろうとしながらも、長い時間、自分の体をどうすることも出来ませんでした。頭を持ち上げようとする度に目がくらんでしまい、結果、その上半身を立たせることすら出来なかったのです。


 そんなオロティアの体を、ただ豪雨がいつまでも打ちつけていました。

 

 

 やがて頭が朦朧としてきて、鶏たちの鳴き声が遠いものに感じられるようになりました。鶏につつかれた右手がズキズキと痛み、自分でもそこから血が流れているのが分かります。が、その手も、雨と泥のなかで次第に冷たくなっていきました。


 と、そのとき、オロティアの耳に聞きなれた声が届きました。


「母さん!」


 悲痛な情感は伝わってきますが、そうやって叫ぶ息子の声までがオロティアには遠く感じられます。彼女が熱を出しているのは明らかでした。


「なんだって、こんなことに」


 泥まみれのオロティアを背負ったアサジは、泣きたい気持ちをこらえ、どうにか沈着さを保って家に入りました。背中ごしにオロティアが呟きます。


「ごめんね、母さん失敗しちゃったから、アサジが鶏たちを鳥小屋に入れてやってね」


「鶏だって? よしてよ、そんなの今はどうでもいい。それより手から血が出てるじゃないか。こんなに傷口を汚しちゃって......母さん、早く服を脱いで。そのままの恰好じゃ寝かせられないよ」


 母の服を脱がせたアサジは、すぐさまオロティアの傷口を洗いました。


「母さん、だるいかもしれないけど、無理にでも乾いた服に着替えて、それから布団に入るんだよ。僕はお医者のメーテスさんを呼んでくるから」

 

 

 

 医者のメーテスが到着したときには、オロティアの熱はすっかり彼女の意識を覆ってしまっていました。荒い寝息をたてて横になっているオロティアの姿は、どう見ても重病人のそれでしかありません。


 病気がちのオロティアと顔なじみになっている村医者が顔をしかめて言いました。


「ひどい熱だし、なんといっても元が弱いオロティアの体だ。薬は置いていくが、アサジ、まず一週間は気が抜けないものと思え」


 このように言われたアサジは、まだ幼い身でありながらも、まったく眠りにつくことなく母の看病を続けました。二日にわたって、必死な気持ちがずっと彼のまぶたを押し上げていたのです。


(目をつぶりたくない。一度でも視界から母さんが消えてしまったら、それきり二度と会えなくなるような気がする)


 そうして、その調子のままに迎えた三日目。


 外は曇り空ですが、それでも朝が訪れたことを知ると、アサジは、もはや我慢できそうにない睡魔のなかにまどろんでいきました。ところが、そのまどろみが眠りへと変わっていこうとするその時に、アサジの耳に懐かしい声が聞こえてきたのです。


「アサジ......」


 それはもちろん、いつの間にか意識を取り戻していたオロティアの柔和な声でした。そうとうの汗をかいたので幾分かやせて見えますが、そこには、以前となにひとつ変わらない母の優しい眼差しがありました。

 

「だ、大丈夫なの、母さん」


 オロティアが、睡眠不足のために血色が悪くなった息子の手を握りしめて答えました。


「うん、大丈夫。それよりお前、ずっと看ていてくれたの?」


「ん、まあね」


 アサジは照れて笑いましたが、母親の元気な顔を見て、それまで抑えていた眠気が一気に吹き出してきたのでしょう。いきなり大きなアクビが出そうになって、アサジはそれを無理やり呑み込もうとしました。


 しかし、いかにも不自然なことをしたために妙な声を出してしまい、その声を聞いたオロティアともども笑いが止まらなくなってしまいました。


「やだ、お腹いたい。アサジ、もう、病人をこれ以上苦しませないでちょうだい」


「だって、アハハハハ」


 そうして笑ったまま、オロティアは息子を自分のほうに引き寄せました。そして、アサジが嫌がるのを宥めるのに時間がかかったものの、まもなく親子はひとつの布団のなかで寄り添いました。オロティアは息子と二人で眠ろうというのです。

 


「ねえアサジ、腕まくらして」


 母の唐突な願いに照れながらも、アサジはその手をオロティアの頭の下に滑り込ませました。オロティアがアサジのほうを向くと、こめかみにアサジの温もりが伝わり、その温もりが、なぜか彼女の目頭を熱くさせました。


 そうしているうちに、屋根をたたく雨の音が部屋のなかを騒がせましたが、暖かな布団のなかで温もりを分け合っている二人には、その音が心地よい子守歌のように感じられるのでした。

 

 

 

 この日の夕方に親子が目をさますと、オロティアの体は、もうすっかり、とまではいかないものの、かなり元通りちかくまで回復しており、アサジが仕事に復帰するのに何の支障も与えないまでになっていました。


 ただし、なお一抹の不安が残るので、アサジは自分の仕事を、いちおう午前中のみに専念させることを決め、午後は母の世話に徹することに決めました。


 収入が減ることは必至でしたが、しかし都合のいいことに、別のところから、日々の食物を得られるメドが立ったのです。


 以前にアサジを殴った男、あの赤髭を生やした"オジサン"ですが、ふと彼がオロティアの見舞いに訪れました。そうして男は、オロティアに向かって、自分が毎日アサジに食材を持たせると約束したのです。


「心配するな。仕事場でアサジ君に食物を渡すから、君は、仕事から帰ってきた息子から、それを受け取ればいい」


 赤髭の男としては、むかし好いた女が病気だということで、少しでも力になってあげたかったのでしょう。もっとも、昔と変わらず、今もオロティアを好きなのでしょうが。なんにせよ、この赤髭の男からの差し入れのぶん、オロティア家では、そう生活に困ることにはならなさそうでした。

 

 

 

 午前中は水運びの仕事、午後は母の世話。一週間あまりもこうした暮らしが続き、日々の平穏さのなかに、アサジの不安も大方は洗い流されていきました。ことに夕方に母と粥を食べるのは、少年にとって何より楽しい一時となっていました。なにしろ、赤髭の男の差し入れによって食事の内容が非常に充実していたのです。


 アサジはこの日も、赤髭の男から渡された魚をだいて帰宅し、近ごろでは習慣じみてきた動作でもって、母に代わって厨房に立ちました。


 テピト・テアナでは米が貴重品なので、粥は少量の米と、たいがいは白身の魚をすりおろしたものを混ぜて炊かれます。赤髭の男はオロティアのために、毎日新鮮な魚を仕入れているらしく、彼女は、その粥の味に大変満足していました。


 ところが、今日にかぎって、オロティアは夕食の膳を前にして浮かない顔をしており、粥もいつもの半分ほども食べずに匙を置きました。


「どうしたのさ、こんなに残しちゃって」


 アサジが、そう心配して尋ねると、


「べつに食欲がないっていうんじゃなくて、どうもね、何だか物が噛みにくいの。思うように口を動かせないような感じで。大した事はないんだけど、でも今日はいいわ。ほんとうに美味しいお粥なのに、ごめんね、明日は食べるから」


 と、このように詫びながら息子の頭をなで、そうして手を動かすたびに「心配ないわよ」と繰り返して言いました。その愛撫は、しだいに冗談じみた激しさを増していき、アサジが笑って逃げ出すまで、しつこいぐらいに続けられました。

 

 

 

 ですが、翌日の昼食でもオロティアは食事を残し、アサジと一緒の夕食においても、やはり前日と同じような残し方をしました。


(こんなに残すなんて絶対におかしい)


 母の様子に不吉なものを感じたアサジは、ふたたび医者のメーテスを家に呼びました。そして、彼によってオロティアの問診が行われたのですが、アサジは、この問診を済ませた医者の表情のなかに、自分を底なしの不安に引き入れずにはおかない、ひどく沈痛な翳りを見ることになりました。


 そのメーテスがアサジを家の外へと連れ出します。


「まずいな、ものが噛みにくくなったり喋りにくくなるのは"地魔"の典型的な症状なんだ。右手の傷から地の毒が入ったらしい......こいつは危ないかもしれないぞ」


「危ないって、先生どういうことですか」


 アサジは、しがみつくような目でメーテスに尋ねます。

 


「あ......いや、とにかく栄養をとることが肝要だ」


「ごまかすなんてやめてよ。まるで助からないみたいじゃないか、助けてよ!」


 しかしメーテスは、黙ってオロティアの家から離れていってしまいました。


 地魔とは、私たちの言葉でいう破傷風のことで、当時のテピト・テアナでは不治の病とされていたのです。つまりオロティアの病気は、治る見込みがないということです。そのため、医者のメーテスには、この親子にかけてやる言葉が見つからなかったのでした。


 アサジは泣きたくて仕方ありませんでしたが、母を心配させないためにはそうもいきません。しかし、空がアサジの代わりに泣いたのか、この日からテピト・テアナでは切れ目のない、強い雨の日々が始まりました。

 

 

 

 以後、オロティアの病状は悪化の一途を辿っていきました。


「ア、 アサジ、何だか話しにくくって......ごめん、今日はご飯は食べら、れない」


 たいして日が経たないうちに、オロティアは食事がまったく取れなくなり、そのかわり、全身に震えの兆候が見られるようになりました。


「どうすればいいんだよ!」


 アサジはそう嘆くこと度々でしたが、嘆いて何が変わる訳でもありません。


 しかも、生活の為には、アサジはそれでも働かなければならず、仕事中、自分と離れた場所で苦しんでいる母を思うと、その不安は、母と一緒にいるときよりもずっと深刻なものになっていくのでした。


 そのような不安を抱きつつ、アサジが砦の貯蔵庫で働いていると、ふと彼に向かって声をかける者がありました。


「どうしたのです、あなた。そんなにも辛そうな目をして」

 


 アサジが、ほとんど何も見ていないような目を向けると、その声が、なんと島の巫女の声であることが分かりました。巫女セフィーネが、アサジのその絶望の淵を呈しているような姿を見かねて声をかけてきたのです。


 アサジは、初めて間近で見る巫女の美しさに圧倒されました。そして、その感銘のなかで、かつて母が言っていた言葉が急に思い出されるのでした。すなわち、


「島の巫女は、天上の世界の意思を伝える人なのよ」という言葉です。


 そのためアサジは巫女に向かって叫びました。まさに思いの全てをぶちまけるようにして、泣きながらです。


「天の意思を伝えてくれるという巫女さま。誰より偉い巫女さま。どうか、その天の力で僕の母さんを助けてください。不思議な力で母さんの命を救ってください! お願いします。どうかお願いします!」
 


福音書シリーズのご案内

 

福音書シリーズ

 

 旧約の預言者ダニエルによれば、再臨のキリストは2017年5月15日に現れるという。まさにその日からネット上に現れた「再臨のキリストによる福音書」シリーズ。

 

第一福音書 テロス第一  キリスト教の完成と終末について

完成と終末を意味するギリシア語である「テロス」。宗教の完成状態を提示し、キリスト教がその完成に達するか否かを論じる。

 

第二福音書 ヘルメスの杖、上 小錬金術

「神の人間化」の体現者であるイエスに対して、ヘルメスは「人間の神化」の象徴である。そしてヘルメスは錬金術の主催神だった。このヘルメス神がもつ杖をなぞりながら、私たちは神の高みへと昇っていく。

 

第三福音書 ヘルメスの杖、下 大錬金術

小錬金術のあとを受けて、ついに人は神の王座に辿りつく。それは「人間=神」という視座であり、これが達成したとき、人は「人の子となった神」となる。イエスは自分のことを「人の子」と呼んだが、これはまさに「人の子となった神(=キリスト)」のことである。

 

第四福音書 太陽をまとった女 自叙伝

私は一体どんな人生を歩くことで「人間の神化」を体現したのか。その答えがここにある。これはきわめて生々しい回想録である。

 

第五福音書 ヘイマルメネー 星辰的宿命と、神話の現実化

イエスは「人の子となった神」たるキリストであるが、彼は本当の意味では「人間になりきれていなかった」。だが、この書において、イエスは本当の人間となる。彼の影であるディオニュソスと一体化することによって。

 

第六福音書 テロス第二 再臨・審判・終末

第三福音書で「人の子となった神」になった私。それは現代にキリストが再臨したということである。再臨のキリストは、自らと教会とを裁き、その存続を否定する。

 

第七福音書 インターレグナム つなぎの王国

私によってキリスト教は、その終わりの時を迎えた。そして、それは多くの迷えるクリスチャンの発生を意味している。私はキリスト教に引導を与えた者として、キリスト教文明とは異なる、キリスト教以上の教えを提示しなければならない。その教えは「別のもの」が持っており、私の役割は、キリスト教と別のものをつなぎ合わせることである。

 

 

「再臨のキリストによる福音書」入門

 福音書シリーズ七巻を概説した入門書。まずこの書を読んでから、福音書シリーズに本編に入っていくのが、もっとも分かりやすいだろう。

 


キリストの再臨

 福音書シリーズを読むキッカケとなるべく編まれた、軽めのエッセイ。写真をふんだんに取り入れているので、楽しんで読むことが出来るだろう。

 

 


    
 
    


奥付



【2017-09-04】アトラスⅠ


http://p.booklog.jp/book/116880


著者 : 正道
著者プロフィール:http://p.booklog.jp/users/seidou1717/profile


感想はこちらのコメントへ
http://p.booklog.jp/book/116880



電子書籍プラットフォーム : パブー(http://p.booklog.jp/
運営会社:株式会社トゥ・ディファクト




この本の内容は以上です。


読者登録

正道さんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について