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3.存在生命との語らいから 光速にとび乗る

3.存在生命との語らいから 光速にとび乗る

ずっと昔、私がカナリヤを飼っていたことがあります。そのカナリヤがある夜のこと夢にあらわれてきて、こう言うのです。「明日、たまごをうむよ」と。そこで私は朝一番に鳥の巣を見にいったのです。するとたまごが一コ、ポトンと産んであるんですね。小鳥がきて言うんです、明日たまごを産むからって。そんなのおもしろいですね。

 

小鳥なんか、まあ生きていますからね、通じやすいし。お花も、植物として生きてあるから、通じやすいですけどね。湯のみだとか、そんなようなものになってくると、生きたような状態って、あまり感じられないですね。または絵に画いた虫とかは、生きてある、とはなかなか感じられないですね。けれども、そういう生きたとか死んだとかいう生物生命、そんなことを通りこして、存在生命というものの中でグウーッと自分の意識を動かし始めたら、そういうおもしろい世界がみえてくるわけです。そういう神経で、そういうような物の見方で、そういうふうな如実に生きた線を自分はもちながら、物理の世界へ入っていけるわけです。

 

時間の世界とか、空間の世界とかに入っていくと、本当に生きて、ピンピンね。時間なら時間がビビビーッと動いて生きているような時間がもしあったとしたら、それに触れられるわけです。もし空間があって、その空間がビリビリーッと生きてあったとしたら、そういうものに触れられるわけです。物理学の世界でも、そういう存在生命にふれる神経がないとね。ただ電子がそこにある、というような感覚的な世界と違ってもっと奥の、生きてある物理学の世界に入れないわけです。如実に生きてある、生きてあったら、あっちからまた教えてくれるわけです。

 

そういう点、ニュートンにしても、アインシュタインにしても、やっぱりその世界と語らいをしていたことがよくわかります。語らいをしていなかったら、自然というのは秘密を明かさないですね。自然というのは人に自分の内奥を開けないですね。開けてもいいような人に開けます。アインシュタインというのはそういうやわらかい語らいをもって、自然の中に入っていったんでしょうね。話が語らいというところにいきましたね。

 

語らいかけはそのものと語らうんですから、あっちもこっちに何か言ってくれます。この湯のみに「元気か」なんて言っても、何の反応もありません。ないけれども何かやっぱり言っているんです。「元気、元気」と言っているのかもわかりませんし、「お前も元気か」と言っているかもわかりません。しかし、聞こえてはきませんよね。聞こえてはきませんが、元気かと言ったら、元気だと言っているような気がしてくるんです。これは自分で創っているのかもわかりません。創っていてもかまわないのです。糸車の糸をこう引っぱっているようにね。そのうち本物があらわれてくるわけです。

 

波動の世界というのはね、にかよった波動を自分でこしらえていくとそんなものが聞こえてくるのです。全く疑っていたり、また違う状態でいたらだめですね。例えば、穴に入っている狸をこん棒で追い出そうとしても、なかなか出てはこないですけど、狸のような気持になって入っていったら、狸もこっちへくるかもわからないですね。そんな意味で、湯のみと話をして「おい、元気かい」と言ったら「元気だ」という反応を自分でこしらえた方がいいんですね。そういう語らいをすると、糸車の糸をひっぱってたぐっているように、本当の波動、心の波動というんですか、存在生命がもっている、その生きたものが語らってくれるわけです。

 

仏像を生きていると言ったら、その仏像が喜んでこちらに姿をあらわして、ちょっとでも神秘の扉を開いてくれたように、同調するような波動を自分でつくっていくと、だんだんそれがあらわれてくるんですね。まあ、さそい水ですね。ガッチャンガッチャンという昔のポンプに、スカッスカッといって水が上がってこないときには、さそい水というのがいりますね。バケツいっぱいビューッと入れてガチャガチャとすると、水がビューッと出てくる。さそい水が必要なんです。

 

だから「おい、元気か」と言ったら「元気です」と言って、いなくても言っているように、自分でこしらえるんですね。語らいですね。語らってくると、だんだんそれの声が聞こえてくるのです。こんな遊びというか、遊戯とか、そんな訓練は必要ですね。こういうことは、やらないといけないんです。聞いて「ああ、おもしろいなあ。そんなこともありうるだろうな。けれど、そんなことをしている暇はない。」なんて言っていたら、もう、一生入れないですね。聞いただけでなく、やっぱりやらないとね。こんなことをやったら愉快だと思いますね。

 

いっぺんでもやってみようかということで、いっぺんぐらいやるかもしれませんが、しかし、何も聞こえてこなかったら、しまいに止めてしまって、先生の言ったことはウソだ、ということになりますね。まあ、そんなことはいいですが、気長くやっていると、そのうち湯のみがしゃべったり、テープレコーダーがしゃべったり、電気の傘がしゃべったりすることがいっぺんでもあるかもわかりません。まあ、話をもうひとつ横へずらしましょう。

 

私がね、南無妙法蓮華経を一生懸命やっていた折に、ハエがブンブンと空中を飛んでいても、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経って聞こえるんです。これは間違って聞いているのとは違うんですよ。本当なんです。私ばかりではないんです。そういう関係者はそんなふうに聞こえるんです。ハエがブルブルブルーッといっても、本当にそのハエが南無妙法蓮華経の音を出してるわけです。それはいつも自分の南無妙法蓮華経という波動の中に入っているから、それに同調して同じ波動を出しているのがわかるわけです。

 

もうひとつ実例を言うと、私がアメリカにいたとき、日本からの郵便物が、今日は誰それの郵便物が入っている、というのがいっぺんにわかるんです。というのは、その人の声が聞こえてくるんです。郵便物の中に、書いたその人の心がちゃんと入っているわけです。えらいものですね。今日はAさんの声が聞こえたから、Aさんのが入っているだろうと思うと、百発百中入っている。あるとき、Aさんの声も聞こえてくるし、またBさんの声も聞こえてきた。二人の声が聞こえてくるのでどっちかなあ、と思っていってみたら、二人の手紙が入っていました。アハハ、そんなのおもしろいですね。これは現実の問題です。だから湯のみが震動を送って何か言っている声も、聞こえる可能性があるわけです。まあ言えば、そういう世界へ入れると、大分、奥へ入っています。

 

事実、こういうことがちょっとでも経験されないと、物理学へいくら入ってもだめでしょうね。表面で終わります。あちらが語らいかけてくれないと、こちらも語らいながら、その中へ許しを得て入っていかないと閉ざされた世界、不思議な世界、人間には見せない世界、すなわち神秘の世界というのがあるわけです。

 

例えば悪人がいっぱいいてね、そこにものすごい秘密があらわれたら大変なことが起きますね。そのように、神秘というのはなかなか扉を開けないのです。いい人間でないと、また時代がよくないと、神秘の扉を開けないのです。

 

そのように、神秘の扉というのは必要に応じて、ある人を通じてあけるわけです。物理学の世界は非常に重大なポイントをもっているのだから、よけいにこういう本当の声を聞く態度で物理の世界へ入らないといけないですね。宗教家もむろんそうですが、とくに物理学者がもって欲しいですね。大分わかってきましたね、入っていき方が。やっぱり、この歩みを実際知って経験してこないと、私の世界へ入ってこれないです。

 

そこで、いっぺんにまた話を横へ飛ばしますけれど、光速の問題に入ります。光速瞑想というのを私が始めていますが、いつも言うおもしろい話があるんです。ある人が私のところにきて「先生、私、沖縄へ行って、三ヵ月星を見ていました。毎晩、毎晩、見ていましたけど、ピュアーにぶつからなかった。」と言うんです。ぶつかるはずないです。私のやり方と違うのですから。ただ見ているだけではだめですね。それは、目で星の光をとらえているだけです。私のは、とらえているんですね。星の光をひっつかまえるのと見ているのとは、違うんです。光速でとんでいる星の光を、パッとひっつかまえることができるんですね。できるし、またそうしなければ、効果がないんです。ピシャッとひっつかまえるわけです。ものすごい速さで飛んでいるやつに乗っかれるわけです。それをひっつかまえられるんですね。普通の人はそんなひっつかまえる早業というのはないわけです。ただ見ているだけです。

 

 走っている急行列車を見ているのと、急行列車にバァッと飛び乗るのと違いますね。それだけの相違があるわけです。見ているだけだったら、その急行列車の中味がわからないですね。急行列車が走ったというだけでね。私の場合は、それにとび乗るわけです。それは今言ったように、目に見えないものに飛び乗る訓練をしているでしょう。存在生命なんて目に見えないけど、それにビシャッとひっつく。ひっついて、それと語らったりする訓練ができているから、ビシャッとひっつけるんです。だから星を見て、星の光と、その距離に乗れるんです。だから光の速さに距離をかけることができるわけです。それはハイデッガー哲学の存在生命論で訓練したのが役立ったわけです。インドのヴェーダーンタ哲学だけではだめなんです。

 

インドのヴェーダーンタでは、哲学的に考えて根源に到達するのだとか、あるいは神を熱烈に礼拝し、そのお功徳によって根源にたどりつくのだとか言っていますが、そんなことではどうしようもないのです。この宇宙というものは、歴史的な時間を経て現れてきているのですから、その根源にたどりつこうと思えば、やはり、歴史を時間的にカムバックしていかなければならないのです。問題は時間にかかっています。そこで私は、星の光の速さと、星のもっているものすごい距離をかけたら、ものすごい速さで時間をカムバックしていけるであろう。そして、必ず<始まり>に到達できるであろう、と自分の頭で計算したわけです。そしたら計算した通りに、カムバックしてあったんです。二ヵ月くらいのうちに、根源にボカーンとぶつかったわけです。

 

という話です。すると大体わかりますね。ずーっと始めからの歩みがおもしろいですね。歩み方が、如実に生きてありますものね。