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2.空間はすべてのものの故郷の入口

2.空間はすべてのものの故郷の入口

今までの話は、ブラフマンとか根源というものは明るいとか、生きてあるとか、自分たちの足場としては入っていきやすい足場でした。もちろん、そんな安っぽいものではないでしょうけれどね。しかし、宗教的に愛とか慈悲とかいわれると、もう、とっぴょうしもない方向へひっぱられてしまうんです。宗教はときどき、愛とか慈悲とか、そういうような山師的なことをいいます。そういう宗教的な用語を使わずに、明るさがあるとか、生きてあるという、そういう表現というのはおもしろいですね。そういう言葉で表現するというのはたいしたことです。

 

さて、その次はどういうことを聞いて欲しいかというと、私が自分で勉強しながら考えた、分かりやすい考え方というのがあるのです。それは、ここに湯のみがありますね。湯のみがここに「ある」ということは宇宙がここに「ある」とか、星がここに「ある」ということと同じですね。ここに湯のみが1つ「ある」ということと、ここに宇宙が1つ「ある」ということを研究するのは同じです。そこで考えました。湯のみがここにあるということは、一体なんなんだろうか?それはそこに湯のみを存在させるだけの空間があるから、湯のみをそこに置けたわけです。ここに「空間」という言葉が現れたのです。ハイデッガー哲学の中に空間があったかどうかはわかりませんけれども、自分はこう押しすすめて自分をまとめていったわけです。

 

(湯のみがここにある。あるということは、存在物が存在しているということである。存在物が存在しているということは、存在物を存在させるだけの基盤である空間がある。)ということで、空間ということが問題になったのです。例えば、自動車を駐車場に入れられるということは、その自動車を入れるだけの空間があるということです。空間があるから、存在事物が存在し得るのであるということがいえます。そこから存在生命論に入るわけです。

 

そうすると、この空間というのは一体なんなのか。ものを置かすだけの働きがあるわけです。働きがあるということは、生きてある、ということがいえるわけです。働きがあるということは、働きがないということと違う。働きがないといえば、死んであるとか、閉鎖されてあるとか、そういう表現でも考えられますが、この湯のみがここに置けるということは、開かれてあるわけです。開かれてあるということは、働きがあるわけです。ものを置かすだけの働きがあるんです。そこです。そこで、その生きて働いているものを、自分の中で生きてつかまえることができたんです。これはハイデッガーもそうしてひっつかまえたであろうし、私は宗教方面でそんなものをとらえる神経ができていましたから、それをひっつかまえることが容易だったわけです。

 

この空間というのは開かれてある。それで湯のみが存在しえた。それと同じように、宇宙という存在事物がここに存在しているということは、その宇宙を存在さすだけの空間がここにあったわけです。なければ宇宙は存在しえないわけです。というふうに、母胎に空間があるんですね。空間が母胎なんです。このように空間というものが見つけられ、さらに空間が生きているとわかったわけです。アインシュタインが空間を運動の場に登場させたように、私は空間を脈うって開き、かつ生きてあるものとして登場させたわけです。そうなったらもう空間の中へ、どんどん入っていけるわけです。

 

存在事物が存在しうるということは、存在事物を存在させるだけの開かれた空間があるということです。空間が母胎になっている。そして、それが脈うち、生き、開いている。開き、それは待っているということです。このように開き、待っているものがあるということは、ありがたいですね。こちらがもう脈うってくる、いきいきしてくる。

 

そのいきいきした「空間」が根源、即ち、すべてのものの故郷の入口であるかもしれないですね。今日読んだ入っての解説したヘルダーリンの詩にあるように、故郷という意味がはっきりしてきます。「帰郷」故郷へ帰るということが、我々にとって大切なことなんです。ハイデッガーはよく故郷に帰ると言います。これはヴェーダーンタ哲学と同じです。しかし、ここに「空間論」が登場したことはすばらしいです。我々はいま、空間という故郷の扉を開けたんです。ちょうど魚が水を得たようなものです。魚は泳ぎますね。泳いでいるうちに、そのお水の青さとか、温度とか、自由さを徐々にみつけるように、私のその空間の中で泳ぐことが始まったのです。

 

 ところが、私がズーッと書いた詩の中にもありますが、その故郷へ帰るのは、故郷を見つけても帰れなかったのです。故郷がそこにある。その故郷の臭いとか、音とか、脈はくを聞いたわけです。しかし、聞いたけれど、その脈はくの中に入れないのです。そうなれない、その苦しさで、何年間かもだえたわけです。そういうときの詩があります。「家をとび出した男がいた。彼は自分のもとの家へもどってきた。もどってきてドアをコンコンとノックしたが誰もいないし、その扉も開いてくれない。確かに自分が住んでいた家でありながら、その家の鍵がさびついていて開かない。」というように、自分の苦しかった当時のことが書かれています。

 

自分は故郷を長く留守にしていたので、鍵がさびついていて開かない。コンコンとノックしても、戸を揺さぶっても、扉は開いてくれなかったというわけです。それでその扉の前に座った青年は、泣きおとしにかかったというのです。必死だったんですね。そしてそれを開けたのが光速瞑想だったのです。ついに人類未踏の「光速瞑想」をみつけ出したわけです。

 

結局、宗教や哲学でギリギリのところまでいっても、やはり科学的に入っていかないと、その故郷の扉は開いてくれないのです。しかしそれにいきつくまでには、ハイデッガー哲学の存在生命論が大いに助けとなったわけです。それは、いくら意識を光速でとばすといっても、光速そのものの乗り物にとび乗るには、ものすごいスピードと、その光速という生きたもの(光速がもつその存在生命)にひっつかなければ、光速の乗り物にとび乗ることができないのです。こうなってきますと、私が光速で宇宙をとび、星の歴史の彼方にある根源にぶつかることができたのは、やはり、ハイデッガーの「存在生命論」のおかげなのです。そこで次はその存在生命論について、詳しく説明していきます。