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1.歴史とは 明るいもの

1.歴史とは 明るいもの

今日は1984年1月6日です。今から、ハイデッガー哲学に入れるような入口を話していきます。神戸の甲東園というところに、ハイデッガー哲学の研究家で、大江精志郎という偉い人がおられます。もう、そうとうなお年ですが、私がまだ青年だった頃、その方にご縁があって、ハイデッガー哲学にふれさせていただいたわけです。一番初めに友人につれられて私が大江先生のお宅を訪問したとき、大江先生は私に「ハイデッガー哲学を私はやっています。あなたはヴェーダーンタ哲学をやってるんですね。」「ところで、ヴェーダーンタ哲学とはどんなのですか」と言われました。まだ私も若かったので、ヴェーダーンタ哲学をやっていても、いっぺんでまとまったことを言えませんでした。まあ、そういうようなことから入っていって、ハイデッガー哲学の入口にふれていったのです。

 

大江先生は「この宇宙ができたのには、歴史がありますね」と言われた。なるほど、歴史があります。いつかずーっと昔に、この宇宙はできたわけですから、当然、過去、つまり今日までのできた時間というものがあります。「歴史というものは、明るいものですねえ」続けてこう言われた。そのとき私が考えていた明るさといったら、光が明るいとか暗いとしか考えていなかったんでしょうね。「歴史って明るいですね」と言われたとき、とっさにはどういうことかわからなかったんです。今考えるといっぺんにわかるんですけれど、そのとき初めにピシッとわからなかったから、わからないままに半時間か1時間、大江先生の話を聞いていました。しかし、初めにわからなかったことが、自分には問題だったんです。そこで、その初めに言われた1つのことを家に帰ってから考えたのです。

 

歴史って明るいですね。宇宙がここにあります。いつかできたんでしょうね。できたという時間的な流れ、それを見てみると明るいです。歴史、これは明るいものです、ともういっぺん自分でいいかえしたわけです。すると、いっぺんにわかったんです、明るさが。まあ、例えば子供がいて親がいる、親が子を産んだ、明るさがありますねえ。憎くて子供を産んだということはないでしょう。宗教的にいうと愛情とかね。しかし、愛情といってしまうともう哲学と違うから、そういう言葉を用いずにいったら、やっぱり明るさがありますね。子供の口へ食べ物を入れてやる、これも明るいですねえ。大江先生が言われた明るさということがわかるわけです。宇宙がいつか大昔にできあがったわけです。そのできあがった過程とか、今日までの歴史、明るいものがありますねえ、と自分でつぶやいたらわかってきたのです。

 

歴史って明るいものがありますね、ということになりますと、時間って明るいものがありますね、といっても通るわけです。歴史的な時間ですね。明るいものがありますねというように、これを明るさに置きかえて表現してくれたのです。それはハイデッガーの哲学かどうかはわからなかったけれど、大江先生はそう言われたんです。

 

このようにしてハイデッガー哲学の入口を、少し教えて下さったわけです。そこからいっぺんにヴェーダーンタの方へひっついてしまったんです。ヴェーダーンタの方では宗教的にいってますね。宇宙の根源をブラフマンと名づけて、それは大昔から、宇宙ができる以前からあるもので「始めもない、終わりもないもの」だと。始めもない、終わりもない、なにかおかしな存在ですが、ヴェーダーンタ哲学ではそういうものがある、といっているわけなんです。それで、その双方でいわれていることを考えてみますと、それは生きてある、という言葉で置きかえられるわけです。死んであるのとは違うわけです。明るい歴史があるということは、生きてあるわけです。死んであったらそんな動きというものはないですね。そういう簡単なとらえ方で、生きてある、と私がうけとったのです。

 

そうしますと、存在しているもののすべてが、その生きてあるものの基盤の上に立っているということになります。すると、その根源的なものはすべての親玉だ、ということになりますね。いいかえしますと、明るさの親玉であり、生きてあるもとの親玉だといえます。しかもそれは、死ぬとか生きるといったようなことと違う、生きてあるものなのです。そして、それが「ある」限りにおいてはエネルギーがあるように、脈うっているととらえられます。ハイデッガーはそれを「存在」と名づけたのです。その生きてある親玉である存在に、意識を向けただけでふるえてきます。一種の電気的なショックをうけるわけです。

 

こういうような入り方で、ハイデッガー哲学に入っていったのです。ヴェーダーンタ哲学ではブラフマンとは、生きてあるとか、死んであるとか、またはエネルギーがあるとはいわないで、それは「始めもなく、終わりもない」といっています。それはそれで納得はいくんですが、それではどんなものかということになると「そんなものと違う。いや、そんなものでもない。否、否、否・・・」とすべての考えたことをうち切って、人間がそれに近づくための言葉、考えを、全部、否定しているわけです。否定されてしまうと、入っていかれないですね。しかしハイデッガー流にいくと、そういうものと違うではあろうけれども、生きてあるとか、明るいというように、入っていきやすいわけです。

 

こういうものかというと、いやそれと違う、お前の言っていることは全部違う、というように否定してしまうから、ヴェーダーンタ哲学ではとりつきようがない。禅宗なんかもそういうきらいがありますよね。否、否、否、お前の考えはみな違うというようにね。そういうふうに、ヴェーダーンタ哲学にしても、否、否、否、でやられるから、ごまかされているような状態です。だからそれ以上の進歩というものがなかったわけです。ところが、ハイデッガーだったら、歴史というものは明るい。すると根源というのは明るさの根源であるというように、すべては明るいと頭の中で想定して入っていけるわけです。明るいといっても、人間が考えるような明るさとは違うだろうけれども、暗いものとは違う、ということがわかるわけです。こんな電燈の明るさ、暗さなどということと違って。まあ、明るさを感じさせるようなものなのでしょうね。

 

そのように、ヴェーダーンタ哲学では、否、否、否、で近づいていけなかったものが、はしごだんを上がるように、ハイデッガー哲学では登っていけたわけです。明るさの根源であるとか、生きてあるものだとか生きてあるものの親玉であるとかいえば、そこへ近づいていけるのですね。それはやっぱり、ヴェーダーンタ哲学の恩恵ですね。近づいていけるはしごだんがあったわけです。それが明るさであるとか、生きてあるとか、脈うっている、というような状態を自分にわからせてくれたんです。それが非常に良かったですね。ヴェーダーンタ哲学とハイデッガー哲学が私の中でうまく交りあって、互いの欠点をうめあったともいえます。このようにしてハイデッガー哲学からうけた恩恵というものは、大きいものだったわけです。さて、そこから話をもう少し奥にすすめます。