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人の拠り所

 

「人の拠り所」(二〇一七年八月一〇日《一八時七分》記)

 本当は題名に、「最後の」を付けて、「最後の人の拠り所」とするつもりであったが、その「最後の」は付けるのをやめた。というのは、「いつでも」という意味を持たせたかったからである。そう、「いつでも、人の拠り所は一つ所にある」という認識で読んで頂きたい。

 「人の拠り所」は、いつでも、キリスト教の神様の下(もと)にある。人には、必ず善性があり、その善性は、神様の下から生れた。それを以て、人は今、この地上で生きている。善性の反対、悪の心は、固より人が生み出したものである。神様は人に、この善と悪の二つの選択肢を与えられ、その二つから、「自分がするべき行為」を選べるようにして下さった。詰り、人は「悪の心よりなる行為」を避けようと思えば、避けられるのである。それをするか否か、ということが問題になり、人は必ず、その善の行為を行なわなければならない。自分でその善の行為を選び続けることが、キリスト教における信仰の道に従う事となり、その事は神様に喜ばれる。人は固より、神様に喜ばれる生き方をしなければならない。そうする事で、人として成る。

 ここで俺は、この地球上の全ての人に、キリスト教の神様を信じよ、と言う。これは「勧め」ではなく、断っての願いである。かくゆう自分も、人にそれだけを言える資格というか実力は、自分が知る限りで無い。だから、俺は俺で、ここで皆に言う「信仰の道」への精進をしなければならない。だけれど、その信仰の道を進んで行く行為は、一人でするものではなく、この地球上の全ての人が一緒に、協力し合って、して行くものであると思う。「信仰の道」とは、神様を信じる事に全てがある。「信じる事」、この事が、人生を生きる上で、簡単なようで実に難しい事である。けれど人には、これが必ず出来る。神様により、そう信じている。地球上に生きる全ての人と共に、一人一人が、他の人達と協力し合って、信仰の道を共に進んで行くのだ。そうしなければならない。人は恐らく、一人で「神様が創られた本来の人」に成るのではなく、皆で協力し合って、皆と共に「成るものだ」と信じる。どうか地球上に今生きている全ての人―兄弟姉妹―よ、共に神様の下で拠り頼み、神様の下に帰ろうではないか!

 ここで、この上記を受けて、俺は現在の日本という国に、

「国教を、キリスト教に改めよ!」

と強く訴え願う。この事については、既に以前に記したが、何度でも言う。永遠に生きる限り、永遠にこう言う。その国の信教をキリスト教に改める事により、その国の全てのものは潤う。その「全てのもの」は余す事なく人に関わるものであり、人にとって生きる上で、大切なものとなる。その「大切なもの」は全て、神様の下にある。神様の下から生れるものが、全ての人にとって、完全な糧になり、救いと成る。

      *

天にまします 我らの神よ

願わくは 御名(みな)を崇めさせたまえ

御圀(みくに)を来(きた)らせたまえ

御心(みこころ)の天になるごとく 地にもなさせたまえ

我らの日用の糧を 今日も与えたまえ

我らに罪を犯す者を我らが許すごとく 我らの罪をも許したまえ

我らを試みに会わせず 悪より救い出したまえ

国と力と栄えとは 限りなく なんじのものなればなり アーメン

      *

皆の者、聖書を開けて見よ。そして読め。そこに書かれてある全ての言葉は、全ての人の救いになる。そして聖書を片手に、キリスト教会へ行き、神様の為に、自分が出来る事を、神様に祈りながら教えて貰い、その上で人生を懸けて全うし続けよ。この地球は、神様の手の平の中にある。何をしていても、そのしている人は、いつでも神様に見られている。そして神様は、いつでもその見る者を憐れんで下さり、全身・全霊の底から励まして下さり、人が全身を挙げて勇気を持てる力を与えて下さり、人の全てを救われる。

 この地球上に生きる全ての人よ、いつからでも「遅い」という事はない。いつからでも信仰の道に入る事は、神様からその入る者に与えられたタイミングによるものであり、その者が信仰の道に入るのに至上の環境を与えて下さる。それは必ず、その者が人として、その信仰の道に入れるように創られている。だからその者が、「信仰の道に入れない」と嘆く事はない。

 地球上の全ての人よ、キリスト教の神様を信じよ。そして、神様に喜ばれる行為を人として為せ。俺は、生涯を懸けて、全世界に生きる全ての人に、永遠にそう訴え続ける。

 

 

「恐れるものはない」

 神様が一緒に居て下されば、人は何も恐れる事はない。

 俺は神様に甘え続けている。

 その甘えが、いつ終われるとも分らず、ただ「長い目で見守り下さい」と一つ覚えのように言い、無責任にも、その神様の下・目前で、人として不様で、体たらくな人生を生き続けている。けれども、自分の老年において、俺は神様により成熟されて、その時こそ、全身全霊を以て、神様の為に成る仕事・神様に喜ばれる仕事を、私事として成し続けて生きたいのである。

 

「愛するとき」

 人を愛するとき、裏切られる事を考えてはならない。本当に、「裏切られてもよい」と思い切り、その人を愛する事こそが、愛するという事である。そうなる為には、愛する人はその人の為に、捨て身にならなければならない。けれどその捨て身は決して投げ遣りのものではなく、神様の愛に守られたものである。この点に、本当に愛せる者と、未だ愛していない者との差がある。

 

 


この本の内容は以上です。


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