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 モンゴルが武力によってユーラシアに巨大な遊牧帝国を築いた、チンギス=ハンやその子・孫たちの時代・十三世紀。

 腕っ節の強さがものをいう戦乱の時代というイメージからか、女性の地位が低いように思われているが実はそうではない。

 

 少し時代は下るが、十四世紀に黄金のオルド(キプチャク=ハン国)の首都サラーを訪れたアラブの旅行家イブン=バットゥータは、モンゴル系諸ハン国で女性が強い発言権を持ち、大きな影響力を行使していることを不思議に思い、興味津々で観察している。

 

 また、一般的にテュルク・モンゴル系の遊牧騎馬民族では女性が部族の長になる事はないといわれているが、そういう例が全くないわけではない。そもそも夫の死後、監国(摂政)として女性が統治する例は数多い。

 

 モンゴル諸ハン国の一つイル=ハン国の宰相ラシード=アッディーンが編纂した『モンゴル史(集史)』から、そうした女性の一人・オルガナを紹介しよう。


オゴデイ家・トルイ家の権力闘争に巻き込まれて大混乱の中、チャガタイ家の当主となったオルガナ

 オルガナは、チンギス=ハン家の姻戚・オイラドの王族クドガ=ベキ家のトレルチ=グレゲンの娘である。チャガタイの孫カラ=フレグに嫁いだ。

 カラ=フレグの父モエトゥゲンはバーミヤーンの戦いで戦死していたので、チャガタイはカラ=フレグを後継者に指名していた。

 

 オイラドの女性は美人で有名だという。オルガナもよほど美しく聡明であったらしく、彼女をいたく気に入ったチャガタイは、「我が嫁(ベリ)」といってかわいがった。「クビライ=カァン紀」に「オルガナ=ペリ」と書かれているのはそのためである。

 

 ちなみに、オルガナ=ハトゥンの姉妹たち、クイク(またはグユク)=ハトゥン、オルジェイ=ハトゥンはフレグに、イルチクミシュ=ハトゥンはアリク=ブケに、ベキはジョチ=ウルスのトカンに嫁いだ。また、父の姉妹であるオグル=トゥトミシュはモンケに嫁いでいた。

 こうした政略結婚によって、クドガ=ベキ家はモンゴル帝国における安定した地位を築いていった。彼女の平穏で恵まれた家庭生活は約束されたかに見えた。

 

 しかし、一二四一年に第二代皇帝のオゴデイが崩御し、前後してチャガタイが死去すると、モンゴル帝国内部の状況は流動的になってくる。

 

 当初、チャガタイの指名通りにチャガタイ家のハン位にはカラ=フレグが就いた。

 

 長いごたごたの末にモンゴルの第三代皇帝となったグユクは、チャガタイの意向を無視して、チャガタイ家の当主にチャガタイの第五子イェス=モンケを指名した。

「子供がまだいるのに、孫が位を継ぐなどということがあってもいいのだろうか」と言って。

 

 イェス=モンケはグユクと親しかったというのもあるが、グユク自身がオゴデイの長子でありながら、オゴデイの後継者として指名されていなかったというのも関係しているのだろう。オゴデイが生前後継者に指名していたのは、グユクの弟クチュの忘れ形見シレムンであり、その関係はイェス=モンケとカラ=フレグの関係に似ている。

 

 さて、オルガナ=ハトゥンの夫・カラ=フレグはチャガタイ家の当主の地位を失ったが、二人の間にはムバーラク=シャーという息子が生まれている。

 

 グユクの皇帝としての治世は二年にすぎなかった。一二四八年にグユクが崩御すると、再び皇帝の位を巡り、チンギス=ハンの子供たちを家祖とする家系の間で内紛が始まった。最終的には、オゴデイの血統ではなく、チンギス=ハンの末子トルイの長子であったモンケが皇帝の座に座した。

 

 モンゴル第四代皇帝になったモンケは、オゴデイ家およびその側に組みした一派に対して大粛正を行った。イェス=モンケにもその矛先が向けられた。イェス=モンケは、チャガタイ家の当主となった経緯からわかるようにグユク派であった。彼はトルイ家の人間が帝位に就く事にも強硬に反対した。

 

 モンケを皇帝に推戴するために開催されたクリルタイ(会議)には、オルガナとカラ=フレグも夫婦そろって出席した。新たに皇帝となったモンケの裁定で、カラ=フレグはチャガタイ家の当主に返り咲くことができた。しかし、イェス=モンケを処刑せよとのモンケのヤルリク(勅書)を携えて、所領に戻る途中でカラ=フレグは亡くなってしまう。

 夫に代わって勅命を遂行した後、オルガナは再びモンケの指示を仰ぐ。その結果、オルガナ=ハトゥンがチャガタイ家の当主となったのである(一二五二年)。

 

 なぜそのような事が可能であったのか。

 監国(摂政)と呼ばれる女性は数多い。たとえば、上述のオゴデイ死去後、グユクが即位するまで六年間監国であったドレゲネ。グユクの死後監国であったオグル=ガイミシュ。あるいは、トルイの死後、トルイ家を取り仕切っていたソルカクタニ=ベキ。

 しかし、オルガナの場合は堂々たるチャガタイ家の当主である。

 

 それはたぶん、オルガナがチンギス=ハンの孫娘であったことと関係があるのだろう。オルガナの父・トレルチは「グレゲン(婿)」という称号を帯びているが、これは「チンギス=ハン家の婿」を意味する。彼はチンギス=ハンの娘チチェゲンを娶ったためにこの称号で呼ばれた。トレルチとチチェゲンの娘・オルガナは、チンギス=ハンの外孫ということになる。

 

 チンギスの血が何よりも尊ばれる時代であったので、当時の氏族社会においては父の氏族・オイラドに属している女性ではあっても、チャガタイ家の当主という地位に相応しい人と誰もが認めたわけである。

 

 こうしてチャガタイ家の当主となったオルガナは、カラ=フレグとの間に生まれた息子ムバーラク=シャーを守りつつ、家臣の意見をよく聞いてチャガタイ家を九年の間平穏に治めた。


クビライとアリク=ブケの帝位争いに翻弄されながらも息子のムバーラク=シャーをチャガタイ家の当主に就ける

 一二五九年、モンケが南宋攻略中に病死し、再びチンギス=ハン家の血で血を洗うお家騒動が始まると、チャガタイ家もその真っ直中に巻き込まれる。

 

 オルガナの実家のオイラドは、アリク=ブケの牧地に近い。また、前述のようにオルガナの姉妹がアリク=ブケに嫁いでいる。

 末子相続のモンゴルでは、モンケの末弟アリク=ブケの地位は高く、次の皇帝に就くのが順当だと思われていた。ベルケ治下のジョチ=ウルスでもアリク=ブケを支持して、「アリク=ブケ皇帝」の名を刻した貨幣を発行している。チンギス=ハンによって「法の守護者」とされたチャガタイを家祖とするチャガタイ家としては、なおのこと正当な後継者アリク=ブケの側に組みするのが自然であっただろう。

 

 そんなアリク=ブケ派がチャガタイ家当主に居座っているのは、クビライにとってはなはだ不都合である。クビライはオルガナを逮捕するよう、アビシカをチャガタイの本営に派遣した。アビシカは、モンケによってバトゥの許に送られて処刑されたブリの次子で、幼い頃からクビライのオルドで暮らし、常に彼の傍らにいたという。

 一方、チャガタイ家に親クビライ政権ができては困るアリク=ブケは、アビシカを途中で捕らえて処刑した。更にチャガタイの第六子バイダルの子・アルグをチャガタイ家のハン位を継ぐようヤルリク(勅令)を与えて送り込み、アムダリヤの警備を命じた。フレグとクビライの連携を阻止するためである。

 当然オルガナはこの措置に不満で、自らアリク=ブケのオルドに赴き、強く抗議した。

 

 その間にアルグは、アリク=ブケの意向に反してクビライ側に寝返ってしまうのである。これ以後、チャガタイ家は皇帝の忠実な家臣ではなく、自立の君主となる道を模索する。怒ったアリク=ブケはアルグを罰する軍隊を差し向けたが、アルグに退けられる。

 

 次にアリク=ブケは、自ら出撃してチャガタイ家の冬営地アルマリクを占領する。しかし、アリク=ブケの不適切な占領政策とクビライ側からの補給線の封鎖によって食糧が極度に不足した。アリク=ブケ軍は戦わずして崩壊、アルグと和平を結ぶ以外にこのどん詰まりの状況を打開する手段はなかった。

 

 最後の切り札として、アリク=ブケが取り出したのがオルガナ=ハトゥンだった。

 オルガナは、前述のようにアリク=ブケのオルドにいた訳だが、今度は講和の使者として、マスウード=ベイとともにアルグの許に向かった。

 

 この「贈り物」を受け取ったアルグは、マスウード=ベイをディーワーンの長官にして徴税を任せ、自分はオルガナと結婚した。万人が認めるチャガタイ家当主になるには、チンギス=ハンの孫娘の権威が是非とも必要だったのだろう。

 これ以後、アルグはますます盛んになり、アリク=ブケを防ぎつつ、背後を脅かすカイドゥの浸食を退けることができるようになった。

 

 このアルグも、アリク=ブケがクビライに降伏した翌年、一二六五年頃死去する。

 オルガナは家臣たちとよくよく相談したうえで、ムバーラク=シャーをチャガタイ家のハン位に座らせた。これが母としての最後の望みであったのか、これ以後、『集史』にオルガナの名前を見い出すことはできない。

 

 ムバーラク=シャーは、皇帝となったクビライの勅書を持ってチャガタイ家に乗り込んできたボラクにハン位を譲ることになるが、その時にはもう歴史の表舞台にオルガナ=ハトゥンの姿を見ることはないのである。


この本の内容は以上です。


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