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オゴデイ家・トルイ家の権力闘争に巻き込まれて大混乱の中、チャガタイ家の当主となったオルガナ

 オルガナは、チンギス=ハン家の姻戚・オイラドの王族クドガ=ベキ家のトレルチ=グレゲンの娘である。チャガタイの孫カラ=フレグに嫁いだ。

 カラ=フレグの父モエトゥゲンはバーミヤーンの戦いで戦死していたので、チャガタイはカラ=フレグを後継者に指名していた。

 

 オイラドの女性は美人で有名だという。オルガナもよほど美しく聡明であったらしく、彼女をいたく気に入ったチャガタイは、「我が嫁(ベリ)」といってかわいがった。「クビライ=カァン紀」に「オルガナ=ペリ」と書かれているのはそのためである。

 

 ちなみに、オルガナ=ハトゥンの姉妹たち、クイク(またはグユク)=ハトゥン、オルジェイ=ハトゥンはフレグに、イルチクミシュ=ハトゥンはアリク=ブケに、ベキはジョチ=ウルスのトカンに嫁いだ。また、父の姉妹であるオグル=トゥトミシュはモンケに嫁いでいた。

 こうした政略結婚によって、クドガ=ベキ家はモンゴル帝国における安定した地位を築いていった。彼女の平穏で恵まれた家庭生活は約束されたかに見えた。

 

 しかし、一二四一年に第二代皇帝のオゴデイが崩御し、前後してチャガタイが死去すると、モンゴル帝国内部の状況は流動的になってくる。

 

 当初、チャガタイの指名通りにチャガタイ家のハン位にはカラ=フレグが就いた。

 

 長いごたごたの末にモンゴルの第三代皇帝となったグユクは、チャガタイの意向を無視して、チャガタイ家の当主にチャガタイの第五子イェス=モンケを指名した。

「子供がまだいるのに、孫が位を継ぐなどということがあってもいいのだろうか」と言って。

 

 イェス=モンケはグユクと親しかったというのもあるが、グユク自身がオゴデイの長子でありながら、オゴデイの後継者として指名されていなかったというのも関係しているのだろう。オゴデイが生前後継者に指名していたのは、グユクの弟クチュの忘れ形見シレムンであり、その関係はイェス=モンケとカラ=フレグの関係に似ている。

 

 さて、オルガナ=ハトゥンの夫・カラ=フレグはチャガタイ家の当主の地位を失ったが、二人の間にはムバーラク=シャーという息子が生まれている。

 

 グユクの皇帝としての治世は二年にすぎなかった。一二四八年にグユクが崩御すると、再び皇帝の位を巡り、チンギス=ハンの子供たちを家祖とする家系の間で内紛が始まった。最終的には、オゴデイの血統ではなく、チンギス=ハンの末子トルイの長子であったモンケが皇帝の座に座した。

 

 モンゴル第四代皇帝になったモンケは、オゴデイ家およびその側に組みした一派に対して大粛正を行った。イェス=モンケにもその矛先が向けられた。イェス=モンケは、チャガタイ家の当主となった経緯からわかるようにグユク派であった。彼はトルイ家の人間が帝位に就く事にも強硬に反対した。

 

 モンケを皇帝に推戴するために開催されたクリルタイ(会議)には、オルガナとカラ=フレグも夫婦そろって出席した。新たに皇帝となったモンケの裁定で、カラ=フレグはチャガタイ家の当主に返り咲くことができた。しかし、イェス=モンケを処刑せよとのモンケのヤルリク(勅書)を携えて、所領に戻る途中でカラ=フレグは亡くなってしまう。

 夫に代わって勅命を遂行した後、オルガナは再びモンケの指示を仰ぐ。その結果、オルガナ=ハトゥンがチャガタイ家の当主となったのである(一二五二年)。

 

 なぜそのような事が可能であったのか。

 監国(摂政)と呼ばれる女性は数多い。たとえば、上述のオゴデイ死去後、グユクが即位するまで六年間監国であったドレゲネ。グユクの死後監国であったオグル=ガイミシュ。あるいは、トルイの死後、トルイ家を取り仕切っていたソルカクタニ=ベキ。

 しかし、オルガナの場合は堂々たるチャガタイ家の当主である。

 

 それはたぶん、オルガナがチンギス=ハンの孫娘であったことと関係があるのだろう。オルガナの父・トレルチは「グレゲン(婿)」という称号を帯びているが、これは「チンギス=ハン家の婿」を意味する。彼はチンギス=ハンの娘チチェゲンを娶ったためにこの称号で呼ばれた。トレルチとチチェゲンの娘・オルガナは、チンギス=ハンの外孫ということになる。

 

 チンギスの血が何よりも尊ばれる時代であったので、当時の氏族社会においては父の氏族・オイラドに属している女性ではあっても、チャガタイ家の当主という地位に相応しい人と誰もが認めたわけである。

 

 こうしてチャガタイ家の当主となったオルガナは、カラ=フレグとの間に生まれた息子ムバーラク=シャーを守りつつ、家臣の意見をよく聞いてチャガタイ家を九年の間平穏に治めた。