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はじめに

 

 私の福音書シリーズは七巻で構成されているが、それぞれの巻が、普通に本一冊分のボリュームを持っている。それを「×7」で読むというのは、一般的な読者にとって、かなりの読書量だと言えるだろう。


 しかも、そこに書いてあるのは、おそらく読者にとって「これまで誰も教えてくれなかった事」である。ということは、既存の知識が、読書のための土台や前提にならないということだ。だから、決して、取っつきやすい内容だともいえない。


 つまり、私の「福音書シリーズ」は、読書としてのハードルが、けっこう高い本なのである。表現自体は平易だと思うが、その内容に、難解なものが含まれている、と言わざるをえない。


 そこで、ここに読者の理解を助けるものとして『「再臨のキリストによる福音書」入門』を上梓することにした。いわば「福音書シリーズ」の概説である。


 ここでは、七つの福音書の内容が、ごく簡単にまとめられ、並べられている。


 たしかに、文章の簡略化のために、もともとの内容を曲げた部分もある。しかし、そこは読者が、各々の福音書を読んでくれた時に矯正されるだろうから、それほど心配はしていない。


 とにかく重視したのは、本編の長大な内容を、一掴みにできるだけの簡略性である。私にとって、ここで、それ以上に求めるべきものは何もない。


 願わくは、どうか本書が、本編の「福音書シリーズ」と読者とを結び付けてくれますことを。

 

 

 

福音書シリーズのタイトル一覧

 

第一福音書 『テロス第一』

キリスト教の完成と終末について


第二福音書 『ヘルメスの杖、上』

小錬金術


第三福音書 『ヘルメスの杖、下』

大錬金術


第四福音書 『太陽をまとった女』

自叙伝


第五福音書 『ヘイマルメネー』

星辰的宿命と、神話の現実化


第六福音書 『テロス第二』

再臨、審判、終末


第七福音書 『インターレグナム』

二つの王国の媒介

 

 


第一福音書

テロス第一


 キリスト教の完成と終末について

 

 

人間の神化・神の人間化

 

 まず「テロス」という言葉について説明しておこう。


 テロスとは、ギリシア語で「完成、終末」という意味である。その言葉どおり、私の福音書シリーズは、キリスト教に完成と終末をもたらすという役割を負っている。とくに第一福音書は、その役割のシンボル的作品であると言えよう。そこで「テロス」という言葉を直接タイトルに使った。


 『テロス第一』は、福音書シリーズの「枠組み」を規定している本である。

 

 

 上図を見てほしい。これは、第一福音書で使用した図版を単純化したものである。


 ここには二つの矢印が書かれている。上向きの矢印である「人間の神化」と、下向きの矢印である「神の人間化」である。


 そして二つの矢印は、上下の「人間=神・神=人間」で橋渡しされている。


 この数少ない情報が、第七福音書を除いた「福音書シリーズ」で描かれることの全てである。ここには福音書シリーズの基本的な枠組みが、ほぼすべて網羅されていると言ってよいのである。


 上図の情報を、文学的に表現すると、次のようなことになる。

 

 人間は、悟りによって霊的に上昇していき、ついに神に到る。それが「人間の神化」である。


 そうして人間が神になりきり、完全に、神と人間が重なり合った状態が、上方の「人間=神・神=人間」である。ここでは仮に、それを果たした者を「神」と呼んでおこう。


 その神は、今度は人間を救うために、地上に降りてくる。彼は、人間を救うに相応しい姿をとるために、人間として生まれてくる。これが「神の人間化」である。


 地上において、神が人間になりきり、完全に、人間と神が重なり合った状態が、下方の「人間=神・神=人間」である。彼は「人の子となった神」である。

 


両方向から解釈できる一存在

 

 上述した「神と人間のドラマ」は、単純であるが、恐ろしく壮大でもある。


 しかし、その壮大なドラマが、実際に「神の悟りに到った人間」においては、まるで一コマ漫画のように、余すことなく、十全に表現されている。


 彼は、そのままの状態で、神でもあるし、人間でもある。


 よって、彼の存在を「人間の神化」とも解釈できるし、逆に「神の人間化」とも解釈できるのである。

 

 

 

 つまり、神の悟りに到った人間は、自分を「人間の神化」に擬して語ることも出来るし、また自分を「神の人間化」として語ることも出来る訳だ。彼はその両方を語る資格を持っていると言える。

 


福音書シリーズの枠組み

 

 この福音書シリーズは、まさに、そういう語り口で綴った文書である。


 すなわち、上記のうちの「人間の神化」の部分を詳細に語ったのが、第二、第三福音書なのである。そして、第三福音書の最終章において、人間は神に到る。もっと正確に言えば、キリスト教における「神の定義」を認識することになる。それはつまり「人間=神・神=人間」の成就である。


 そして、その続きとして、第六福音書において「神の人間化」が語られることになる。つまり、下向きの矢印に乗って「人の子となった神」が地上に現れる。


 この「人の子となった神」の略称である「人の子」とは、他でもない、イエス・キリストの自称名詞である。人の子――その意味することころは、救済宗教における救世主(キリスト)に他ならない。


 そして新約聖書によれば、終末のときに、再臨のキリストが、人々の前にその姿を現わすという。よって第六福音書は、キリスト教の終末を告げ知らせる本となる。


 だからこそ私は、第六福音書にも「テロス(完成、終末)」の文字を与えた。それはまた、キリスト教の完成と終末について論じた『テロス第一』の直接の続編であるがゆえに、最終的なタイトルを『テロス第二』に決めた。


 ――このようにして、『テロス第一』は、福音書シリーズに、その構成上の「枠組み」を与えている。少なくとも、第二、第三、第六の福音書は、『テロス第一』によって、厳密にその枠組みを与えられている。


 それ以外の福音書は、この基本的な枠組みへの、追加的なカスタマイズだと考えてよい。第四、第五福音書は、自伝的要素が強い作品であり、第七福音書は、キリスト教の終末の後にやってくる「転換」について述べた作品だからである。

 


なぜ福音書は全七巻なのか

 

 福音書シリーズは、全七巻で構成されており、そうなった理由が、『テロス第一』の終章で語られている。それについて、ここで簡単に触れておこう。


 かの『ヨハネの黙示録』によれば、霊的な世界には、誰も解くことができない「七つの封印を施された巻物」というものがあるらしい。しかし、イエス・キリストだけは、この封印を開くことが出来るという。イエスが七つの封印を解くと、それが黙示録のドラマのスタート合図となる。


 私は「再臨のキリスト」を自称する者であり、自分ならば七つの封印を解けると思っている。


 そして実際に、私によって「七つの封印」は解かれたのだ。
 そうして開示されたが「七つの福音」であり、それを文章化したのが、この福音書シリーズである。


 よって福音書は、どうしても七つなければならない。


 しかも、福音はスクロール(巻物)であって、コデックス(冊子)ではないという。だから、スクロール・バーを用いて文章を読んでいく電子書籍は、まことに「巻物としての福音書」のあり方に相応しいのである。
 
 

 


第二福音書

ヘルメスの杖、上

 

   小錬金術

 

 

悟りの階梯

 

 第二、第三福音書は、第一福音書で語られた「上向きの矢印」の詳細を明かすものである。


 この「上向きの矢印」は、換言すれば「人間の神化」である。すなわち、人間が神に向かって上昇していく軌跡であり、神の座まで続く"悟りの階梯"である。


 第二福音書では、その階梯の八合目ぐらいまで描写している。それを図示すると、以下のようなものになる。

 



 では、これら五つの段階を、簡単に説明していくことにしよう。

 


混在的一者

 

 赤ン坊としての主体が、母親の胎内で安らい、憩っている状態。あるいは、出産されてから10か月ぐらいまでの主体。


 この、母親に完全に保護されている主体は、非常に無力である。


 肉体的にだけではない。意識性、思弁性、弁別性、いずれも非常に弱い。分別がないと言ってもよいだろう。


 だから、主体の意識の中で、自分と他人を分けるものは、ほとんどない。一番身近にいる母親も、彼は自分自身だと思っている。そのため、母親が自分の欲求にそぐわないと、彼はそれを不当と感じて、泣きじゃくることになる。赤ン坊である主体が、もしも言葉を話せたなら、母親に、


「お前は私だろう。なのに、なぜ私の思い通りにならない」と喚きながら言うだろう。

 


教育の段階

 

 共同体(家庭→学校→職場→国民意識)から与えられる教育を通して、主体は、だんだん自分と他人の違いを知っていく。


 他人が、自分の思い通りにはならないこと。他人が多く集まったところ(共同体)には、その多人数が共存できるような「社会的ルール」が現出すること。その共同体で暮らすためには、自分もまた、社会的ルールに従わなければならない事を知っていく。


 しかし、国家という大きな共同体もまた、世界史的に見れば、国際正義的に見れば、そのあり方を誤ることがある。そこで、主体が「より正しくあろう」と思うならば、彼は共同体の正しさを超えて、自分自身で正しさを考えなければならなくなる。

 

 

自我の確立

 

 自分自身で考えた正しさであるならば、それは「主体の正しさ」であって、「共同体の正しさ」とは別のものである。たとえそれが、共同体の正しさである「法律」と一致していたとしても、それは、二本の平行線が、偶然同じ地点で止まったということに過ぎない。


 だから、この段階の主体の正義は、法律と一致することも、法律と一致しないこともある。


 共同体とは、基本的に「他人の集合体」であり、これと自分を弁別した主体は、「自他二元」の境地にある。すなわち「自分と他人とは、別原理のもとにある」という認識を持ったということである。


 ここに到って、主体は「決して他人ではありえない自分」を確立することになる。これが「自我の確立」ということである。

 


アルベド侵入

 

 自我の確立段階は、自律性の極限であって、主体が「自主的な努力」によって成長できる限界点である。そのため、この先の主体の成長は、「他力によるもの」へと移行することになる。


 といっても、他力を与えるものは、主体の外部にある訳ではない。それは主体の深層心理に存在しているのであり、いわば「内的客観」が主体の成長を促すのである。


 そして、この深層心理、内的客観は、もっとも奥深いところで「無限、永遠、救済」に結びついている。これを私は「アルベド」と呼んでいる。アルベドとは、錬金術の用語である。


 このアルベドが、主体に、インスピレーションとして働きかけ、他力的な助力を与える。このことを私は「アルベド侵入」と呼ぶ。そのアルベド侵入の規模は、主体の成長とともに拡大され、ついに主体は、アルベドとの合一の寸前まで到達することになる。

 


恩寵の原理 (アルベド参入のメカニズム)

 

 恩寵の原理は、主体がアルベドと合一する際に働く「心理的メカニズム」である。


 そもそもアルベドは、混在的一者(=母子一体感)の、霊的、高次元的な写し絵である。アルベドは「母の子宮」のようなものであり、主体がここに参入するためには、産道を遡流できるような"小ささ"を獲得しなければならない。アルベドと主体をつなぐのは、「狭き門」なのである。


 そのため、アルベドへの参入儀式においては、恩寵の原理が働くことになる。


 主体は、その瞬間、寂しさと、虚しさと、罪の意識に、苛まれることになる。彼の心は限りなく頼りないものとなり、小さいものとなり、胎児のように無力なものとなる。

 

 この胎児のような無力さに、アルベドの母性本能が惹起される。アルベドは主体を抱き、主体を容れ、主体と合一する。かくして、母性愛的救済力によって、主体とアルベドの合一が起こる。


 ここまでが、第二福音書『ヘルメスの杖、上』の内容である。

 
 

 

 

  

 

 


第三福音書

ヘルメスの杖、下

 

 大錬金術

 

 

神への到達

 

 第三福音書は、基本的には、第二福音書の続きである。上向きの矢印は、本書の最後において、ついに神の座標まで到達することになる。


 これは哲学史上、神学史上の奇跡であり、あらゆる求道者が「見たいと望みながら、決して見ることが出来なかった真理」の現前に他ならない。だから本書は、福音書シリーズの中でも、最も注目されてよい書なのである。


 ところが、第一福音書と、この第三福音書は、シリーズの中にあって、極端に閲覧数が少ない。しかも第三福音書は、僅差で最下位である。


 もちろん、今のところそうだというだけで、これから先のことは分からない。それでも私にとっては十分すぎるほど意外である。両巻に挟まれた第二福音書は、かなりの閲覧数なのに、この差は全くもって不可解である。

 


アルベド、ニグレド、ルベド

 

 それはさておき、第三福音書では、アルベド、ニグレド、ルベドの順で、主体の成長が語られることになる。いずれも錬金術の用語で、それぞれ「白化」「黒化」「赤化」を意味する。


 その進展の順序を図示すると、以下のようになる。

 

  

 まず最初に、アルベドの内容が語られることになる。


 前巻の最後のところ、「恩寵の原理」では、主体とアルベドがどのように合一するのか、その仕組みについて説明した。それに対して本書では、主体が合一したところの「アルベドとは、どんな内容を持った真理であるのか」について語られることになる。


 アルべドは実に豊かな内容を持った真理なので、その説明の手段として、様々なバリエーションを提示することができる。しかし、ここでは出来るだけ的を絞り、「アルベドとは、存在の原理である」という説明だけをしておこう。

 


アルベド(存在の原理)

 

 アルベドは、空間的に見ると「無限」である。そして、無限に含まれない空間はない。ゆえに無限とは、空間という存在そのものであって、換言すれば、これを、空間における「存在の原理」と呼ぶことが出来る。


 次に、アルベドは、時間的に見ると「永遠」である。そこには、過去、現在、未来、の全てがあり、この永遠に含まれない時間はない。ゆえに永遠とは、時間という存在そのものであって、換言すれば、これを、時間における「存在の原理」と呼ぶことが出来る。


 そして、アルベドは、倫理的に見ると「救済」である。すべての空間とすべての時間を内包する、アルベドによって救済されない人間はいない。救済とは、アルベドとの合一のことである。


 アルベドの救済は、すべての人間の個性に適応され、永遠の時間によって、絶対に、その成就の時を迎えることになる。いな、永遠そのものであるアルベドの中では、その成就は、すでに既成事実となっている。


 これはすべての人間に対する福音である。それゆえ倫理的にも、これを「存在の原理」、あるいは「存在する全ての人間に適応される原理」と呼ぶことが出来る。

 


アルベドからの下降

 

 アルベドの「無限、永遠、救済」は充分に神的なものであるが、それでもなお、キリスト教の神概念とは一致しない。存在の原理、存在の神では、どうしても新プラトン主義的な、汎神論の範疇に留まってしまうからだ。


 創造神を戴く、キリスト教における神の定義は「無からの創造」である。そして、「これを詳しく言えば「虚無からの存在の創造」ということになる。


 アルベドにおいては「存在そのもの」「存在の原理」は現出した。しかし、まだ「無」「虚無」が現れていない。これでは「虚無からの存在の創造」という内容を作るためには、片手落ちと言わざるを得ない。あるいは「材料が足りない」とも言えるだろう。


 そこで主体は、神の座標に到るまえに、アルベドの高みから下降し、地表すら穿ち、ついに地下の暗闇の中で「虚無」を見つけ出さなければならない。その虚無こそが「ニグレド」である。

 


ニグレド(虚無の原理)

 

 ニグレドとは、すなわち「自分自身を虚無と感じるほどの、徹底した自己放棄」である。


 主体は、この段階において、他人の意識の中に溺れ、自分を見失い、ついには単なる衝動的なエネルギーと化す。


 それは匿名的なエネルギーであって、もはや誰のエネルギーであっても構わない。そこに、主体が主体である意義は何もない。このようにして主体は、自らをもって「虚無」を体現することになる。


 その具体的な「虚無に到る手段」としては、群衆心理に身を任せるほか、性的オルギア、音楽と踊りによる興奮などを挙げることが出来る。しかし、このあたりの事情は、内容として、非常に暗く淀んでおり、誤解を生みやすい。そこで、ここでは、これ以上の叙述は避けることにする。


 ただ、ニグレドが――アルベドの「存在の原理」に倣うならば――「虚無の原理」と呼べるものであることは明記しておこう。

 


ルベド(創造の原理)

 

 アルベドにおいて「存在の原理」を体験した主体が、さらにニグレドの「虚無の原理」を体験するとき、それら二つの原理が合成されて「虚無からの存在の創造」の相が現れる。

 

 

 すなわち「無からの創造」であり、「創造の原理」の現出である。


 それはキリスト教における「神」の現前であり、主体にとっては、「神の認識」「神の悟り」への到達である。これによって「上向きの矢印」は、ついに神の座標にまで届いたことになる。ニグレドへの下降さえも神に到る道であり、これもまた「上向きの矢印」に含まれると考えていい。


 錬金術においては、この「創造の原理」「無からの創造」は、ルベドと呼ばれる。日本語では「赤化」と訳されるが、これは「夜の暗闇から生まれる暁の赤い光」を寓意する言葉である。


 暁の赤い光は、やがて白日の太陽の光へと結ばれる。その景色には「虚無、創造、存在」のメタファーがある。

 


神の人間化への展望

 

 主体は神の座標に立ち、かくして「人間=神・神=人間」は成就した。第一福音書で提示した、あの上方の到達点である。


 よって、福音書シリーズの流れは、これより「人間=神・神=人間」を頂点とした反転現象、すなわち「神の人間化」に続くべきだ。もっと文学的に表現するなら「人の子となった神の現出」「キリスト(人の子)の再臨」へと、話が続いて然るべきなのである。


 しかし、その話の流れは、第六福音書まで留保されることになる。


 それは、第四、第五福音書において、私の自叙伝が描かれることになるからである。
 
 


第四福音書

太陽をまとった女

 

 自叙伝

 

 


福音書シリーズの中央

 

 何かを七つ並べたら、その真ん中は四番目になる。したがって、全七巻で構成される福音書シリーズにおいては、第四福音書が、その中央を占めることになる。


 どうしてそうなったか。いや、むしろ、どうして私はそうしたのか?


 別に、よくよく深い意味がある訳ではない。が、新約聖書における福音書も、基本的には伝記的な文章なので、やはり私の福音書シリーズも、その中心には、伝記的な文章が置かれて然るべきなのではないかと思ったのである。


 もっとも、伝記とは言っても、それを再臨のキリスト自身が書くのである。したがって、どうしても「自叙伝」にならざるを得ないが、当然のこと、自分よりも自分に詳しい人はいない。だから、自叙伝においては、他人による伝記よりも詳しく、生々しい"伝記"が出来あがる。


 実際に読んでみると分かるが、これは赤裸々なまでの自伝文学である。その生々しさは、新約聖書におけるそれとは、まったく比べ物にならない。

 


ロクデナシの告白

 

 ヨーロッパの三大自伝文学として、アウグスティヌスの『告白』、ルソーの『告白』、ゲーテの『詩と真実』が挙げられる。


 ゲーテはそうでもないが、アウグスティヌスとルソーは――あくまで私見だが――読むと「この主人公は、ものすごいロクデナシだなあ」と思わずにはいられなくなる。


 そして、私の第四福音書も、まさに、この「ロクデナシ自伝」の系統に立っている。どうしようもないロクデナシが、生々しく自分について語ったのが、この『太陽をまとった女』なのである。


 そんな第四福音書は、三部に分かれており、それぞれの部に、然るべき時に、私を然るべき悟りに導いてくれた女性が配されている。それが「月に待つ女」「太陽をまとった女」「地に憩う女」の三人である。


 彼女たちの存在は、私にとって必須だった。というのも、私は女性なしでは悟りに到れない、ちょっと特殊なタイプの求道者だからである。

 


第一部「月に待つ女」

 

 月はアルベド(白化)のシンボルであり、人格的に言うと、聖母マリアがその象徴を担っている。他には月の女神である、イシスやアルテミス。ゲーテの「永遠に女性的なるもの」などがそうだ。


 処女にして母であるマリア――私にとってそれは、自作の小説『アトラス』の主人公である、チェリアと重なり合う。彼女もまた、14歳の少女にして、霊的なる母性の持ち主だった。


 小説『アトラス』を執筆したのは20歳の頃だが、チェリアという主人公を形成するために、私はまず、14歳のときに、同級生への初恋を経験しなければならなかった。はじめて付き合った女性でもある彼女こそは、チェリアの直接のモデルだった。


 しかし、シーナという名の、その初恋の相手から、卑怯にも私は逃げ出した。


 そして、その逃亡劇の中で、私は闇と汚れに塗れてゆき、その汚れ切った苦しみの中で、焦がれるようにして「母性による救済」を求めた。いや、救いを求める中で、ついに霊的な母性に出会ったというべきだろう。


 その救いを確かなものとして感じるために、20歳の私は『アトラス』という小説を執筆した。そして、その主人公であるチェリアと格闘し、彼女によって救いに導かれたのである。

 


母性による救済

 

 ただし、ここで注意すべきは、小説の書き手は、私ではなく、私の手を操る霊的存在だったということである。つまり執筆は霊的な儀式であり、チェリアは宗教的な啓示だったのだ。


 チェリアは、小説のクライマックスで、霊的な母性の体現者となった。その姿を見て、私は涙を止められなくなった。

 

 

 

 「アトラス」第9章の挿絵


 そう、自分が汚れているからこそ、私は、母性愛の美しさを敏感に感じ取ることが出来た。チェリアの前に、私は圧倒され、心潰され、どこまでも小さな魂となった。そして、その小さな魂を、チェリアの霊的な母性が包み込んでくれた。


 かくして私は、小さな胎児を、母体が包み込むような形でもって「母性による救済」と合一した。それは母性原理の真理である、アルベドの真理を体験したということである。そして、このアルベドとは、第三福音書のところで述べたように「存在の原理」である。

 


第二部「太陽をまとった女」

 

 私は、アルベドとの合一によって「存在の原理」を体験した。しかし私は、その悟りに、いつまでも留まっていることは許されていなかった。


 アルベドは、いわゆる神秘主義者たちの体験と同じものだが、歴史上に数多と現れた神秘主義者たちの次元から、さらに一頭地を抜くことを、私は固く運命づけられていたのである。


 私は「存在の原理」を超えて、「創造の原理」に辿り着かなければならなかった。そして、かかる「創造の原理」を手に入れるために、私は「虚無の原理」を体現している女性を愛した。


 というのも、私は、どんな手段を使ってでも、「虚無」を、この心のうちに取り込まなければならなかったからである。そうしなければ、「存在そのもの」と「虚無」の合成物であるところの、「虚無からの存在の創造(=創造の原理)」が作れない。

 

 つまり、合成作業をするのに必要な"材料"が足らなくなるということである。

 

 

人格的虚無を愛する


 では、私が愛した女性を紹介しよう。


 陽子(仮名)は、他人の意見ばかり尊重して生きているうちに、自分の主体性を完全に見失ってしまった女性だった。彼女は言った、「自分がいなくなっていました」と。


 ここには確かに、文字どおりの「人格的虚無」がある。そんな彼女と心を重ね合わせたとき、私の心の中に「虚無」が流入してきた。


 かくて、私の心の中で「存在の原理」と「虚無の原理」が揃った。「存在そのもの」と「虚無」が揃った。そして、それらが合成されたのが、上述の「虚無からの存在の創造」である。それはまた「無からの創造」「創造神」「創造の原理」とも呼ばれる。


 錬金術の用語を使うならば、これが「ルベド(赤化)」と呼ばれているものである。夜の暗闇と昼の白日を結び付けるのは、いつだって暁の赤い光だからだ。

 


第三部「地に憩う女」

 

 いつしか陽子は離れ去り、私は妻と出会った。私は結婚したのである。穏やかな日常性の中で、私の宗教性は次第に霧散していった。そこに現出したのは、普通の夫であり、普通の父であり、普通の家庭生活である。


 しかし、私の心の深層に押し込まれた宗教性は、10年の沈黙を経たのち、ついに悲鳴を上げたのである。このままではいけない、と。

 

 その叫びに感応するように「超新星」が降って来た。それは、どこかで生まれた霊力の塊だという。そして、その超新星の霊的なエネルギーが、私の宗教性を再び賦活させ、また新しい悟りをももたらした。


 この時の出来事から四年、私は「再臨のキリストによる福音書」を書き上げた。こうして今の私があるのである。

 
 

 



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