目次
プロローグ
旅は素敵なチャンス
初まりを始める
留年は放浪の始まり
なぜ夢は育ったのか?
期は熟した
叩けよ、さらば開かれん
フランス パリ
空白の1日
パリへ飛ぶ 3月16日
初めてのパリは誕生日 3月17日
パリの微熱 3月18日
真夜中の迷い人 3月18日の夜
涙と雨と春のパリ 3月19日
イングランド フェーバーシェム
いきなり仕上げのイングランド
親切なイギリス紳士の正体とは?
お金と心の値段の天秤掛け
イギリスへの一歩は、新しい始まり
イギリスで働くための「いろはのい」
ロンドン南部の古都
農場で働く前のゆったり日:カンタベリー
辿りついた小さな村:フェーバーシェム
ホームレスは一挙に一軒家住まい
イギリスの農場に初出勤
旅は人を育てる…かも
一人ぼっちと孤独は違う
本場イギリスで初めてのティーブレイク
ドラッグストア初入店
リンゴの木と野うさぎと戦闘機
道すがらナゾのキノコを獲る
こだわりのマツタケ風炊き込みご飯
覚悟を決めて…食べる
車持ちのアルバイト生
スリリングなイギリスでの初運転
交差点はロータリー
数千本のリンゴの木と付き合う
スペイン語しか話せないイギリス人
生意気スペイン人とチームを組む
マイペースな困ったちゃん
イギリスで正規の給料をもらう
悪魔の同居人と過ごす花の金曜日の夜
ラガービールでとりあえず乾杯
スペイン人と酒飲み対決
星空に飛んだスペイン人
二日酔いと快晴のウィークエンド
感謝する日曜日
農作業が本格化
イギリスの訛りに困惑する
過激なフルーツ収穫
「見る」と「やる」では大違い
困るから考える
価値ある労働者とは?
三笠の山に出でし月かも
国に帰る…かな?

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旅は素敵なチャンス

太陽はどこでも平等に地上を照らしますし、お月様は、どこからでも見えるのですが、人が暮らす場所によって感じ方や捉え方も違うということを体験できる素敵なチャンスが旅だといえます。これは日本人である自分自身への旅、インナートリップという自分を再発見する旅≒外国への旅行と考えています。「そんなに哲学的に考えなくてもさぁー、気楽にイタリアでワイン飲めればいいじゃん」という人もいるでしょうし、世界遺産を訪れることで知識の底辺を広げる人もいるでしょう。はたまた屁理屈好きの旅好きもいるでしょう。みんな違ってみんな良いのですから私の旅もまた良しとしましょう。

およそ半年に及ぶ第一回目のケチケチ旅行は、フランスのパリから始まり、南はスペインから北はフィンランド、西はギリシャから東はイギリスまで14カ国を渡り歩きました。当時20歳だった自分にとって、何もかも新鮮で、その年齢の時に旅をする事で手に入れたものは、大変新鮮であったし、衝撃的でもありました。今やっとその旅について会得したものを書きたいというモチベーションに達しました。既に当時から40年を経過しているのですが、不思議なことに昨日のことのような気がします。


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最終更新日 : 2017-06-13 16:52:41

留年は放浪の始まり

高校卒業後、宮崎大学に入学した後、二年生になった時からの1年間を、宮崎大学の付属住吉牧場で住込み体験をすることになった。この1年間の寮生活については、ほとんど一冊の本になってしまうため、いずれじっくりと書く機会を作ろうと考えているが、そのあたりはとりあえず端折って、その寮を出ることになった。そのタイミングで私は、幼少のころから温めていた夢であるヨーロッパ放浪の旅を実行に移すことを決心した。学生の一人暮らしであったから、さほど所帯道具は多くなかったのだが、荷物はまとめて、一旦を長崎の実家に送り返すことにした。誠に誠に思い出の詰まった牧場での生活とは離れがたく忘れ難かったが、次の目標としてヨーロッパへの渡航を定めたので、大変賑やかで、楽しく若者の馬鹿さ加減を堪能した寮生活の思い出は、とりあえず思い出の箱に仕舞い、その準備のために頭を切り替えて、渡航準備の手続きなどで忙しい日々を送った。

一旦長崎の実家に帰郷した。私は、母に「小さいころ、僕が外国に行きたいと行ったら、大学に入学したら行っていいと言われたので、行ってくるね。」と伝えると仰天していた。小学校の時に「外国に行きたいのであれば、大学に入ってから行きなさい。」と言ったことはスッカリ忘れていたようで、なにを考えているやら…。」と呆れ顔であったが、詳細を話すと、あまり強くは反対せずに同意してくれた。ただ「いつ行くのか?」という問いに「明後日」と答えるとさすがにビックリしていたが、もう出発ギリギリであったので認めざるをえないという感じだった。私としてもせっかく入った大学を休んでまで外国に行くことを計画しているとはなかなか言いがたく、話す機会が春休みになってしまったという事情もあった。いずれにしても父や弟、まだ小学生の妹にしても驚いてはいたものの、まあ賛成してくれた。家族としばらく会えないという寂しさはあったが、すでに航空チケットも手配済みであった、いわゆる「賽は投げられた。」という状況であったし、この時点では躊躇する自分を、自分が背中を押す格好になっていた。


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最終更新日 : 2017-06-13 16:54:21

なぜ夢は育ったのか?

生まれて初めての長期旅行であり、しかも単身で行き先が海外ともなれば、不安に押しつぶされるかとも思ったが、想像ができないだけにあまり実感がなかったというのが実際だった。唯一残念なことと言えば、大学の付属牧場から宮崎市内にある本学部へ講義を受けるための登校用に乗っていたホンダのオフロードバイク「XL125」を手放すことだった。一年間私を運んでくれた愛車であったが、渡航費用の一部にするために泣く泣く手放したのだ。単気筒のオフロードバイクは、私の世界をうんと広げてくれた。売らずに実家にでも置いておけばよかったかとも思ったが、夢を実現するためには犠牲も必要だ。両方の手に何かを持っていれば、次に現れるチャンスが目の前を通り過ぎる時に、手が空いていないために見逃すことになる。せめて片手はいつでもチャンスが掴めるように開いておかないといけないと思う。それが私のポリシーだ。今まで生きて目の前を通り過ぎるチャンスを何度見逃しただろう。その時代のその瞬間に現れるチャンスが二度あるなんてことは期待できない。だから、チャンスが見えた瞬間に考え、目の前をすぎる瞬間に掴まえなければならないのだ。

この旅を始めるキッカケは、実は小学校の一年生くらいの時まで遡ることになる。当時すべての家庭にテレビがあるわけではなく、私の家にもまだなかった頃、近所の家に夕方上がり込んでテレビを見ていた。母が、夕食ができたと迎えに来るまで粘って他所の家でテレビを見ていたわけだ。その状況を母が父に愚痴って、我が家にもなんとかテレビがやってきたのだ。当時の番組は今と比べてさほど充実していたわけでもないだろうが、食事中に箸を口に運ぶのも忘れて見入っていたと記憶している。当然母親が、注意をするわけでその影響力は今のスマホに通じるものがあった。話が少々反れてしまったが、数少ない番組の中でNHKの「NHK特派員紀行」という海外報道番組があった。私は世界の全容を理解しているわけではなかったし、番組に出てくる日本以外の国の位置についての教養ももちろんなかった。しかし日頃見たことのない異国のドキュメンタリーが、不思議で面白かったのだ。それから40年以上も経っているのだけれども、今でもはっきりと目に焼き付いている場面がある。アマゾンのはるか奥地にあるマナウスという開拓地についての報告だった。私は、その不思議な国のその場所に行ってみたいと強く思った。画面のテレビの中(向う側)にある知らない世界に強烈に惹かれたのだ。これが海外へ行ってみたいという動機付けの始まりだとはっきり思っている。私は、母親に外国に行きたいとねだったが、まさしく実現不能なことを要求していたわけで、しかも海外であり、当時海外旅行などというものは一般庶民にとっては、高嶺の花だった。私は、時より思い出しては母親に同じことをせがんでいたと思う。母はしつこい私に閉口したのだろうか、「大学に入ったら行っていいよ。」などとごまかして私を黙らせていたと記憶している。私は当時からシンプルな頭の構造をしていたので、「あぁそうか!」と納得したのだ。私は、大学というところに入ったら外国に行っていいのだと明快な答えをもらって大いに納得した。小学校を卒業し、中学生になっても時より母に「外国に行きたい」と懇願したが答えはいつも同じであった。「大学生になったら行っても良い」と…。私の中にはその度にその夢が確かな目標に変化していった。


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最終更新日 : 2017-06-14 16:31:38

期は熟した

教育学部のフランス語の他に、NHKのラジオ講座でフランス語と英会話の勉強も始めた。 もちろん学校の授業が終わったら、アルバイトがあったため、その番組の放送時間に合わないことも多かった。 そこで放送用のテキストをいつも携帯し、暇な時には自習した。 わずかな時間を惜しんで、自分の夢を実現するための様々なことをこなしていった。 さほど辛くはなかった。 なにせ今の私は大学生である。 母が小学生の時に約束してくれた、「大学生になったら外国に行っても良い」というその大学生である。 全てのことを犠牲にしてその夢を実現するというほどの情熱ではなかったものの、目標として揺るがないものがあったので、過密スケジュールも苦にはならなかった。 渡航費用も大学二年の終わり頃には60万円ほど貯まっていた。

それでも問題はいくつかあった。 一体どのようにして外国行きの航空券を手に入れることができるのか? 渡航のためにどのような準備をすればよいのか? 当時はインターネットなどという便利なものは一切なく、どちらかと言えば、ゆったりした田舎気質の宮崎では、そのような情報を探すことは難しかった。 それでも本屋で外国旅行の本を本屋で立ち読みし、少しづつ情報を集めていった。 なかなか答えが見つからない中、ある日の夕方、NHKのラジオ番組をさほど注意も払わずに聞いていると、岩崎さんという人が主催する世界ケチケチ旅行研究会に関するトーク番組が放送された。 その話の内容はまさしく私が探し求めていた情報そのものだった。 格安の海外航空券や個人旅行の際の注意点など十数分のインタビューではあったが、一挙に私の前にヨーロッパへの道が開けた。 急いで寮の外へ走りだし、近所の赤電話を掴んでNHKに電話し、先ほど出ていた岩崎さんに連絡したい旨を告げた。 一念あれば道は開けるである。 岩崎氏の連絡先の住所を聞いた私は、夢中で連絡をとって、最大の問題だった「フランスへの航空券」を手に入れることができた。 今にして思えば、当時は個人情報なんだかんだとうるさくはなかったのである。 期は熟した。 そしてその日はやってきた。


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最終更新日 : 2017-06-14 16:09:16

叩けよ、さらば開かれん

私の家族は、昭和46年に長崎郊外の時津町に一軒家を建てて住むことになった。 私は、中学生になっていた。 その数年後、当時の音響メーカー大手のTorio社製で、木目が美しく、まるで調度品のようなステレオレコードプレーヤーがやってきた。 母がそのプレーヤーで、クラシックのLPレコードや往年の名歌手である越路吹雪のレコードをよく聞いていた。 その中にやや暗い色調の白黒写真がジャケットになったEP版のレコードがあった。 そこにはヨーロッパ風の街路灯に照らされ、雨に濡れた石畳の道がプリントされていた。 ある日、私は何気なくそのレコードをかけてみると、聞いた瞬間から引き込まれるような太くて低い女性ボーカルの巻き舌の歌が聞こえてきた。 エディット・ピアフであった。 私は生まれて初めて歌を聞いて感動した。 そしてその刹那、私の血の中に間違いなくこのレコードと関わる民の血が流れていることを確信した。 大げさではなく素直にこの歌の故郷が私のソコであると直感したのだ。 行くべき場所はその時に決まっていた。 ソコとは、フランスである。 高校卒業後、一浪はしたもののなんとか第一志望の宮崎大学に入学した私は、入学後すぐにアルバイトを始めた。 皿洗いからウェイター、工事現場や夜の怪しげなエロ本屋、寿司屋にハンバーガーショップなど、掛け持ちで日銭を稼いだ。

言葉の問題があった。 というのも私が通っていた農学部では、必修外国語は英語とドイツ語で、フランス語を学ぶチャンスはなかった。 そこで農学部から数キロ離れた、教育学部で開講されているフランス語の授業にモグリで顔を出すことにした。 しばらくの間、その授業を担当する教授は、無断で出席する学部内の生徒ではない私のことを、知ってはいたものの黙認していた。 私も授業をうけるための費用を払っていないので、教室の一番後ろで小さくなってノートを取っていた。 多分、冷やかしの学生だろうと思って無視していた教授が、無遅刻無欠席の正体不明の学生がいることが気になったのか、ある日の授業の終りに私の方へ近づいてきた。 「君は教育学部の学生ではないね?」 「はい、農学部です。」 バレたのであればしかたがないので、来週からはフランス語は独学だなぁと覚悟を決めた。 「農学部の必修の外国語はたしかドイツ語でしょ?なぜ君は私の授業を受けているのかな?」 「いつかフランスに行きたいと考えています。でも農学部ではそのフランス語を勉強することはできないので、教務課には未届けでこの授業を聞きに来ています。」 「教務に届けを出していないのであれば、試験を受けることも単位を取ることもできないのに、それでもいいのですか?」 「はい、それは承知で受けています。」 「そうか、どうしたものかなぁ…。」と困惑した顔の教授に、 ダメ元で「エディット・ピアフが好きなんです。彼女の歌を聴いて、その歌詞を、その歌の伝えたいことを理解したいと思ってこの授業を受けています。」と本当ではあるが、多少大げさに説明した。 すると教授の顔が急に明るくなり、「君はシャンソン歌手のエディット・ピアフを知っているの?なぜ彼女を知っているんだね。」 「母の持っているレコードジャケットが気に入って、聴いてみたのが彼女との出会いです。それ以来、その歌声に魅了されて彼女と彼女の歌が好きになりました。」 教授は履いているスリッパを机の角を使って脱いだり、履き直したりしながら私の話を聞いていた。 しばらく考えた後、「まあ、授業の邪魔にならないようにするのであれば、私の授業を受けに来ても良いでしょう。テストも受けて結構ですが、点数は出せませんし、先ほど言ったように単位も認められませんよ。いいですか?」 私はモグリの学生から晴れて、単位認定ナシの学生に昇格した。 翌週、授業を受けるために階段教室の最上段に座っていると、教授は私に手招きして、もっと前の席に来るようにと勧めた。 私は、恐縮しながらも中段まで降りて座ろうとすると、さらに手招きし、結局一番前の席に座ることになってしまった。 さらに「今日から出席黙認の中村くんです。フランス語の勉強をしたくて、農学部から越境して聴講に来ています。みなさん、彼に負けないように頑張ってフランス語を学習して下さい。単位は出ませんが、テストは受けても良いと彼には言っています。いわゆるモグリの学生さんですが、試験の点数では彼に負けないようにしてくださいよ。」 教室内は爆笑の渦になり、皆が私に注目した。 隣の女学生が「スゴイですね。私も頑張らなくちゃね。」と声を掛けてくれた。 私は照れながら挨拶を返し、静かに授業は始まった。 強い思いは通じるんだなぁと考えながら、黒板に書かれるフランス語の文法をノートに書き写した。 隣りに座っている女学生の爽やかな化粧水の匂いが、時々風にのって私を通り過ぎた。 夢の扉が少し開いた気がした。


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最終更新日 : 2017-06-14 16:11:01


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