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はじめに

 さきに「再臨のキリストによる福音書」全7巻を上梓した。

 

 ここでは、その福音書シリーズの窓口となるような、軽めの話をしてみたい。

 

 真面目な話は、本編のほうで沢山しているから十分だろう。こちらでは、なるべく素のままの自分を出していきたいと思っている。

 

 そもそも、普段は軽いノリの人間だと思われているほうなのだ。日常生活においては、真面目な話などは、ほぼしていない。

 

 写真なども多く使って、等身大の自分を表現する努力をするとしよう。

 

 

 

 

 


四つの「イエス」

  

kyosuke Anjyiという方が、ブログの中で、ノストラダムスの予言を紹介している。

 

  それは決して、込み入った詳細な文章ではない。

 それとは反対に、ノストラダムスの予言詩から、キーワードだけを抜粋し、じき現れるであろう救世主(再臨のキリスト)の特徴を、ごくシンプルに、羅列状に並べているだけのものである。

 

  その項目は22個に及ぶが、ここでは、冒頭にある五つの項目に注目したい。ノストラダムスによれば、救世主の特徴とは、以下のようなものである。

 

1、日本人

 

2、男性

 

3、天才

 

4、水のある近くで生まれた子供が三人いる。

 

5、長男

 

 とのことである。

 

 

 

 これを、私を指したものと仮定して、検証をしてみる。

 

 

1、日本人

 

  イエス。私は日本人である。日本人である父と母から生まれて、日本に住んでいる。日本国籍を持っている。

 

 

2、男性

 

  イエス。私は男性である。戸籍上、男性である。男性性器を持っており、女性性器は持っていない。

 

           著者近影   

 

 

3、天才

 

 これについては、不問としたい。

 いや、自分の才能ではなく、天からの恵みを曳いて活動を行っているという点では、私は、間違いなく天才であろう。この点で言えば、本物の宗教者は、みな天才である。

 だが、単純な質問として「あなたは天才ですか?」と問われて、いきなり「はい、そうです」と答えたのでは、世間的に不遜の謗りを免れない。

 

 

4、水のある近くで生まれた子供が三人いる。

 

  イエス。ただし文章が長いので、内容を二つに分けて検証してみる。

 

 一つめ、子供が三人いる。イエス。私には三人の娘がいる。

 

 

 

 別にノストラダムスを意識した訳ではないし、ノストラダムスの、どの予言詩に、このことが書かれているのかも知らない。というか、こんな些細な予言のために、わざわざ子供をこさえるほど酔狂な人間もいるまい。

 

 二つ目、水のある近くで、子供たちは生まれている。イエス。子供たちが生まれた産婦人科は、千波湖、あるいは笠原水源から近い。

 

  だが、それ以前に、産婦人科や、我が家を擁している「水戸」という地名が、すでに水との関連性を、想起させずにはおかない。

 

   水に戸、水戸、古代の日本では、これで「みなと」と読ませたらしい。

 

 港とは、海と陸との接点であり、まさに陸にとって、水の世界との戸口である。つまり、水戸が――そのニュアンスにおいて――ノストラダムスが言ったとおりの「水のある近く」であることは疑いを容れない。

 

 

5、長男

 

 イエス。私には三人の姉がいて末っ子だが、兄はいないので長男である。

 

 

 以上のように、ノストラダムスが残した「救世主の特徴」に対して、四つの「イエス」を答えることが出来た。このような返答ができる確率は、決して高いものではないだろう。

 

  もちろん、これらの条件が揃っても、その人物が救世主としての仕事、再臨のキリストとしての仕事を果たしていなかったなら意味はない。

 

  それを検証して頂くためにも、読者には、是非「再臨のキリストによる福音書」を読んでもらわなくてはならない。

 

 


43歳、童顔

 昔、私が派遣社員をやっていた時のことだ。その派遣会社の、自分担当のスタッフ(女の子)に、自分が今31歳だと告げた。すると、それまで双方とも敬語でしか喋った事がなかったのに、急に彼女が砕けた調子になって笑い出した。そして失礼にも、こう言ったのである。

 

「あははは、すっごい童顔! あははははは」

 

 私は呆気に取られたが、彼女の笑いは止まらなかった。ずいぶんとウケたものである。

 

 多少ブルーにならざるを得ない思い出だが、改めて見ると、確かに私は童顔である。

 日常生活でも、だいたい実年齢から10歳引いたぐらいの年齢に見られる。

 

 これは家系によるもので、姉などは15歳ぐらい若く見られるし、母親もやはり若く見られる。

 ついでに言うと、今年小学生に上がった娘(三女)は、まるで三歳児みたいに見える。つまり、ゆっくりと年をとる家系なのだ。

 

 今の私の実年齢が43歳だから、普通に見たら、きっと33歳ぐらいに見えるだろう。

 

 

 

 これは私にとって好都合である。

 

 でも読者にとっては「?」だろうから説明が必要だろう。

 

 私は「キリスト教の足りざるところを埋める」ことを役割の一つにしているので、独身者の宗教になってしまったキリスト教に、「家庭生活」という要素を加えなければならなかった。

 

 そのため、人生経験の中に、結婚生活や子育ての期間を組み込まなければならなかったが、当然そのぶんだけ、イエスよりも年を取ってしまった。その追加年齢が、およそ10年分ぐらいあるだろう。

 

 しかし、再臨のキリストを演出するならば、その風体は、33歳ぐらいに見えてこそ相応しい。

 

 というのも、イエスは、およそ33歳で十字架にかけられたと考えられているからだ。そのイエスが蘇って現れた“感じ”を演出するならば、やはり、その姿が33歳ぐらいに見えたほうがいい。そのほうが説得力がある。

 

 そして多分、私は33歳ぐらいに見える。

 

 となれば、私の童顔は、家庭生活の期間を持たなければならなかった私への、神からのプレゼントのような気がしてくる。

 

 

 

 

 

 

 


スリムなイケメンという呪縛

 

暗黙の呪縛

 

 キリスト教には、ヴィジュアルの面で、ある暗黙の呪縛があると思う。

 それが「もしイエスが姿を現わしたとしたら、その姿は“スリムなイケメン”でなければならない」ということである。

 

 現代人の誰一人として、歴史上のイエスを見たことはない。その姿形の記録も残っていない。しかし、それでもクリスチャンは皆、イエスは「スリムなイケメン」だったと思っている。

 

 

  レオナルド 最後の晩餐から

 

 つけ加えると、イエスは、やや中性的で、女性に対して親しげな雰囲気がある。フェミニストと言ってもいい。そいいうイメージが強い。

 

 ミケランジェロの有名な「最後の審判」には、驚くほどマッチョで男らしいイエスが描かれているが、あれは、むしろ例外的なものだろう。

 

ミケランジェロ 最後の審判から

 

 私たちのイメージの中のイエスは、そのオーソドックスなものとしては、やはり「スリムなイケメン」であり、副次的には「中性的なフェミニスト」であると思う。

 

 

イエスへの恋、夢幻

 

 このテンプレートは、当然のごとく「再臨のキリスト」にも適用される。

 

 

 つまりクリスチャンたちは――とくに女性のクリスチャンたちは――もし「再臨のキリスト」を自称する者が現れても、彼が「スリムなイケメン」でなければ、決して彼を「再臨のキリストである」とは認めないということだ。

 

 なぜなら、女性クリスチャンは、基本的にイエスに恋をしているからである。

  

 なにしろ、イエスの姿は、彫像や絵画によって、実に格好よく、理想的な姿でもって描かれている。それがイエスだという刷り込みがある。

 

 そのイケメンが、あれだけの宗教的偉業を成し遂げた事になっているのだ。それは女性なら、恋に落ちずにはいられないだろう。

 

 さて、恋とは夢であり、美しき幻である。

 

 その夢幻を、誰かに破られたとしたら、その暴挙を行った者を憎まずにはいられない。排斥せずにはいられない。それが女ごころである。

 

 そして「再臨のキリスト」を、肥えた不細工が名乗ったら、それは、まさしく女性信徒の夢幻を破る暴挙となる。だから、彼は、たとえ真実の教えを携えてきたとしても、再臨のキリストとは認めてもらえない。憎まれ、排斥されるだけだ。

 

 

 これが仏教ならば全然問題にはならない。

 

 一般に仏陀のイメージは、かの仏像のような「ぽっちゃり」「おじさん」「ずんぐりむっくり」であり、ほとんど「フォルムとしての、ヴィジュアル的価値」は持っていない。その後光さえ輝かしければ、物質的な姿かたちは何でもいいという感じである。

 

 

 そもそも、仏伝を読むかぎり、仏陀には、女性への親しみが薄い雰囲気がある。だから比丘尼たちも、仏陀には恋が出来ない。恋がしづらい。むろん例外はあるだろうけれども、かなり真実を突いていると思う。

 

 この点で、キリスト教は、まさに仏教と正反対の事情を持っているのであり、その審美眼はまことに厳しい。本当に呪縛と言っていいほどの「イメージ保持」の問題がある訳だ。

 

 

スリムなイケメンを作る

 

 私は、かなり早い段階で、この問題に気がついていた。

 

 だから出来うるかぎりの努力で、自分を「スリムなイケメン」に近づけようとした。

 

 

 

 どんなに深い真実を説いたとしても、もし再臨のキリストとして認められなかったら、今回の仕事の半ばは失敗と言わざるを得ないからである。

  

 そこでダイエットに励んでみた。正直、年を取って、体が脂を求めなくなってきた事情もあるのだが、それでも、ダイエットをしている事は事実である。10年前よりは、8㎏ぐらい痩せているだろう。

 

 朝はコーヒーのみ。昼はサラダと豆腐とヨーグルト。夜だけは、好きなものを好きなだけ食べて、ダイエット・ストレスをリセットしている。

 

 

 また、どんなに痩せても、ウェストだけは膨らむのが中年太りの悲しいところなので、そこは筋肉で抑え込むしかない。という訳で、毎日、腹筋運動と腕立て伏せを続けている。各100回ずつ。

 

 ただしムキムキになるのは嫌なので、それ以上はしない。

 

 この涙ぐましい努力(本当はそれほど負担を感じていないのだが)の上に、今の私のスタイルがある。

 

 顔はどうしようもないが、スタイルは作れるから作ってみた。

 

 はたして女性のクリスチャンは、ヴィジュアルの面で、私を「再臨のキリストでもよい」と認めてくれるだろうか。

 

 

 たぶんだが、ロン毛と髭がなくとも、女性クリスチャンは許せるのだ。そこは重要ではない。そんなものの有無では、夢や夢幻は壊れないからだ。 

 

 だが「スリムなイケメン」だけは譲れないだろう。それがなければ夢幻が壊れるからだ。

 はたして、そんな彼女たちの審美眼に、私の姿は許容されるだろうか。

 

 

 

 

 

 


大予言者ノストラダムス

 1999年以前のノストラダムス・ブームはスゴかった。

 

 しかし、世界が滅亡するとされた「1999年の7の月」に、その滅亡の兆しすらなかったので、いきおいノストラダムスは、2000年代には「忘れられた予言者」になってしまった。

 

 

 

 今回は、そんなノストラダムスについて語りたい。

 

 そもそもノストラダムスは、実は、1999年に世界が滅ぶ、とは一言も言っていない。

   それは、ある予言詩の一つの“解釈”でしかなかったのだ。

 

 

 1999年7の月、

  恐怖の大王が空から降ってくるだろう。

  アンゴルモアの大王を蘇らせるために、

  その前後の期間、

  マルスは幸福の名のものとに支配するだろう。

 

 というのがその詩で、恐怖の大王とマルスが、世界滅亡のキーワードになったようだ。

 

 

 その解釈を行ったのが、ノストラダムス研究家である五島勉氏である。

   が、そんな五島氏は、同詩の別解釈として、1999年7月を「17」という数字に還元したことがあった。

 

   それは、1+9=10。10→1、1+9=10→1、さらに1+9=10→1、となる。つまり1999を単純化した数は1であり、これに「7の月」を加えれば17になる、というもの。

 

 

 この流れで言えば、かの有名な予言は、

 

「17に象徴される時代を迎えるとき、最後の審判を携えた、恐ろしいキリストが再臨するだろう。モンゴロイドの大王(仏陀)をよみがえらせるために。その前後期間には、戦争が起こるだろう」

 

  という文章として変換することが出来る。

 

 これは第七福音書の内容そのものだし、北朝鮮を中心にして、戦争はすでに起こりかけているようにも見える。

 

 実際、ノストラダムスがもっとも重要視したのは、キリストの再臨についての予知である。

  そして彼は、フランスの修道院との協働のもとに、それが「いつであるか。どこであるか」について答えを出した。

 

 

 彼の『ノストラダムスの黙示録』と呼ばれる文章には「73年、オクトーブル(オクト=8)の月が、大規模な転換の始まり」と書いてある。

 

 このあたりは第七福音書に詳しいが、私は「1973年8月」に生まれており、その生まれ持った使命が、「キリスト教に終末を与えて“別のもの”に、新時代を明け渡す」ことにある。

 

 別のもの、とは有り体に言えば「再誕の仏陀」であり、モンゴロイドの大王である。つまり私は、時代に「大規模な転換」をもたらす訳である。

 

 

 私の誕生は、したがって「大規模な転換の起点」であり――私が再臨のキリストであった場合――ノストラダムスは、まさに完璧な予言を残したことになる。ここには、まさに極上の神秘がある。

 

 

  

 

 

 



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