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蛇の目でお迎え

 雨なんか降らないじゃないか。晴れの日に傘を持ち歩きたくないんだよ。

 あたしに文句言わないでよ。天気予報士じゃないんだから。文句言うなら自分でチェックしてよね。

 最近では後半部分が省略されている。

「雨なんか降らないじゃないか」

「あたしに文句言わない」

 小言を言う相手がおまえ以外にいないのだ。うまいこと聞き流してくれ。おまえは玄関で靴を脱ぐ俺を出迎えもせずに雑誌をめくっている。随分あからさまに聞き流してくれるじゃないか。怠慢な態度ではないく成熟したスタイルだと思いたい。「ただいま」と「おかえり」のキャッチボールよりも一言余計な文句が言えるこんな日が嫌いではない。

「今日雨降る?」

「降らないみたいよ」

 靴を履きながら少しがっかりしている俺がいる。すると、こんな日もある。

「雨降ったじゃないか」

 駅前から歩いて七分、小走りで五分。駅前にコンビニはあるが、五分のためにビニール傘を買う気もしない。

「あたしに文句言わない」

 そう言いながらタオルを握ったおまえが駆けてくる。俺は案山子になってゆっくり回る。水滴を拭う俺とおまえのコンビプレーも上達した。一周回ればタオルを受け取り貧相な頭をかきむしる。風呂なら聞かずとも沸いている。晴れであろうが雨で降ろうが仕事から帰ればはじめに風呂と決めているから。まず疲れた身体を湯で癒したいと俺が言い出したことか、汚れた身体をまず洗いなさいとおまえが言い出したことか、どちらが決めたことなのかは忘れた。

 湯に浸かり指先で肩を押しながら首を回す。次はビジネスリュックにしようか。若者ぶっているようでもあり、身体への負担を第一に考えざるを得ない爺さんのようでもあり、未だ肩掛けバッグにこだわっている。

 子供のいない静かな食卓。上の階から時折にぎやかな足音が響く。顔の知れた子らだから悪い気はしない。「にぎやかだね」とは言わない。「ごめんね」なんて返されても飯が不味くなるだけだ。

「もしもーし」

 おまえは食卓塩を持ち上げてそれを耳にあてる。何でもかんでも携帯電話と間違えることが流行ってるようだ。

「なに?」

「明日、ちょっとママの様子を見てきてもいいかな?」

「どうした?」

「なんか、この前の入院から弱っちゃってね。特に何もないんだけどたまに顔出したほうがいいかなって」

「そうか。よろしく言っておいてくれ」なんて、適当なことを返す。

 休日は別々に過ごすことが多くなった。

「今日雨降る?」

「降らないみたいよ」

 おまえは実家へ、俺は隣駅のデパートへカバンを見に行く。

「夕飯前には帰ってくるから」

「いいのか?」

「お菓子でも食べながら、二、三時間も喋ってればいいの」

 俺は一駅で電車を降り、おまえを見送った。二、三時間もよく喋っていらえるものだ。

 カバンはすぐにどうでも良くなり、本屋へ足を運んだ。手に取った文庫本を数ページ立ち読みしていれば、ふと書斎の机に積まれていた気がして棚へ戻す。続きをじっくりと読みたい。結局、何も買わずにマンションへ戻ることにした。駅を降りて空を見上げる。天気予報はどうもあてにならない。

 半分は漫画本で占められている書斎に隠り、机の上から例の文庫を見つける。リクライニングチェアに腰掛け小説の中へ。しばし現実から抜け出す。女に振られた男があの手この手で必死に復縁を迫る頃、携帯電話が震えた。「そろそろ帰ります」の後ろに笑顔のアイコン。心底ホッとした。

 時計を見上げてから窓を目にする。ざらざらの型板ガラスで外の様子は分からないが、時間の割にやけに暗い。立ち上がって、玄関の戸を押し開ければ案の定。

「雨か。あいつ傘持ってなかったよな」

 俺は小説世界を引きずったまま、傘を持って駅に向かおうなどと考える。あいつはひどく驚くだろう。その顔を拝んでやるのもまた一興。そして、二本の傘を持って家を出た。童謡『あめふり』なんかを鼻歌に駅へ向かった。

 しばらく待っていれば地味な格好をした女が現れた。思わず口元が緩む。しかし、自動改札から出てきたおまえは小さな折り畳み傘をバッグから取り出した。俺は阿呆な顔して口を開けた。「あ」と声を漏らした瞬間、おまえは俺に気づく。そして、小さな笑みを浮かべながらそれを耳にあてた。


美しいからだ

 何故腹の肉が落ちないのか、ここら辺で本気になって考えてみたい。直立二足歩行している時や仰向けで寝ている時には差ほど気にならない。しかし、布団の中で横を向いた時、椅子に腰掛けている時など、どうしたって垂れ下がるその存在が気になって仕方ない。物心ついた時から腹の周りには一回り余計な肉が巻きついている。
 これは俺に与えられた試練の肉ベルトなのだ。さながら孫悟空の緊箍児。頭に巻きついているあれね。緊箍児ならば三蔵法師が呪文を唱えた時だけ苦しめば済むが、この肉緊箍児は始終俺を辱めている。一向に外れる気配がない。俺は生涯を通じて肉に苦しめられながら生きていくことになるのだろうか。
 からだを覆っていた泡を洗い流し、深いため息をつきながら風呂椅子に腰掛けている。首を垂らしたアングルから広がる絶望的な光景。肉緊箍児、陰毛、陰茎、臑、臑毛。人類の雄どもに与えられた中途半端なこの毛が身体の醜さを助長する。どうせならば獣のように全身を毛で覆ってくれればよかった。
 風呂の戸がノックされた。
「あい?」
「大丈夫?もう夕飯の用意できてるんだけど。冷めちゃうよ」
「あぁ、大丈夫。ちょっと考えごとしてただけ」
 俺は最後に手桶で湯を肩から浴びると、風呂椅子から立ち上がる。そして、湯船に漂う陰毛をすくって排水溝に流したら、手桶を湯船に放って風呂場を後にした。
 脱衣場を兼ねる洗面所には不必要に大きな鏡が張り付いており、否が応でも醜いからだを映しながらバスタオルで湯を拭う羽目になる。意を決して鏡と向き合い、肩幅程度に脚を開く。少しだけ腹に力を入れれば、中途半端に毛を散らしたこのからだもそれほど悪くない。しかし、餓鬼の頃から巻かれている肉緊箍児のせいで、消えることのない皺が気になる。何も機能しない乳首と臍の間につうと引かれた一本の折り目。三段腹というのは、ある程度痩せているヒトのものよね。俺は二段派。捻り運動がいいと聞いたような気がするから、背中を拭きながらぐるり腰を回す。そして、十分に全身の水気を拭いとって体重計に乗るときには、決まって腹を凹ませた。
 もし、有名人にでもなってプライベートジムのCM出演依頼が来たら、俺は絶対に断らないだろう。昔から忍耐力だけはあるのだ。与えられたことを完遂する能力には長けていると自負する。しかし、この労働に追われる日々に、自ら高い金を払ってまでどうしてやっていられよう。
「どうしたぁ?」
 カーテン越しに再び君の声がする。君はどこまでも優しい。さっさと旦那に夕飯を食わせて食器を洗いたいのが本音だろうが、そうと言わないだけ優しさがあるではないか。
「あいあいもう出ます」
 テーブルには、キャベツが敷かれた豚肉の生姜焼き、ワカメと豆腐の味噌汁、そして、湯気をたてる白米。口の中には唾液が湧き出し、椅子を引いて腰掛ければ、再び肉緊箍児が飛び出す。そいつを掴んで溜息一つ、途端に君が緊箍呪を唱える三蔵に見えてきた。二七歳の若さでこの世を去った美人女優のせいで女三蔵が定着してしまったけれど、本来の玄奘三蔵は男の僧だったはずよ。そして、君が差し出すものはシャクシャク音を鳴らす遊環のついた錫杖ではなく、糖質抑えめの発泡酒。五〇パーセントオフならば二本呑んでも平気よね。俺は懲りずにプルタブを鳴らす。飯の前に風呂に入るのは、何よりこいつを美味くいただくためでしょう。
「いただきます」
 ひとまず発泡酒を一口。
「お疲れさま」
 いつもの通り絶妙なタイミングで君は言う。いつもの通り絶妙なタイミングで君は言うのだ。いつもの通り絶妙なタイミングで君は言うのだから日々は素晴らしい。
 続いて、俺は豚肉を摘まみ上げて口へと運んだ。十分に咀嚼して喉の奥へと流し込んだ後、再び発泡酒で喉を潤す。嗚呼、至福。続いて、白米を十分に噛み締めて甘味を堪能したなら、塩辛い味噌汁で流し込む。気を緩めると、背中が丸まって肉緊箍児が飛び出してくる。俺はその都度、背筋を伸ばして、椅子に深く掛け直した。
「私、胃下垂なのぉ」
 なんて自慢するようにボヤきながら、甘い肉を好きなだけ食らって、酒を呷ってみたいものだ。
「なんか言った?」
 台所で水仕事をする君が水道を止めた。途端、夜のアパートが静まり返る。
「いや、何でもない」
 俺はもう一缶のプルタブを鳴らすと、そいつを片手に立ち上がり、テレビリモコンを手にとった。電源を入れれば、だらしないからだで半裸になった芸人が、情けない声で吼えていた。笑いをとっているのか、笑われているのか、俺は腹を引っ込めて苦笑い。すると、君は台所から屈託のない笑い声を響かせた。
 布団の中で戯れる時は決まって電気を消してと言う。
「なんで?」
「恥ずかしい」
 本当は、あんたの醜いからだに目も当てられないからと言いたいのではないか。大体、女のほうが悪趣味だと思うのだ。なんでこんな中途半端に体毛を生やして、汗腺が開きっぱなしの醜いからだに抱かれることを拒まないのか。俺だったら一秒だって耐えられない。そして、柔らかい君に頬を埋めながら、嗚呼、男で良かったと深く思うのだ。
「いきそう」
「いいよ」
 君の包容力は半端ない。
 翌朝、ニュース番組を眺めながら鯵の干物をほじる。連日、スポーツ選手の活躍を目にしながら背筋を伸ばして腹を凹ませる。終了のホイッスルが鳴り響き、ユニフォームを脱ぎ捨ててフィールドに倒れ込む男たち。勝ってはしゃぎ回る姿より、負けて崩れ落ちた姿に男を思う。嗚呼、男とは本来あのようにあるべきなのであろう。腹に関してのことだ。
 朝の通勤列車は混雑率二五〇パーセント。身動き一つとれず、中吊り広告を読むくらいしかやることがない。それでも、サラリーマンにとってこの中吊り広告というものは世間を広く浅く見渡す上で有用な情報源の一つである。特に雑誌の広告となれば隅々まで読んでしまう。週刊誌の芸能情報なんて、見出しさえ眺めておけば話題に頷くくらいのことはできるだろう。
 その日、中吊り広告に首を上げれば、鍛え上げられた男の写真と一緒に、腹割だの、腹凹だのとどこかで見た覚えのある言葉が並んでいた。おそらく、それだってかつて電車の中吊りで見た覚えだろう。雑誌名とともに、その新語と腹の写真がすっかり結びついている。
 腹八分目、仕事は六分目。外回りを早めに切り上げて、帰りには本屋へ立ち寄った。思い立ったらまずは本屋だ。ネットに溢れる情報はどうも信用ならない。何が本当で何が嘘なのか、俺にはうまく拾い上げることができない。そして、金を払って手に入れた情報は、それだけ価値あるものに思え、金額に比例した効果が得られるような気がするだろう。
 平日のまだ陽が沈む前の本屋は、立ち読みする餓鬼やら主婦やらが並び、スーツ姿のサラリーマンが踏み込むには少々気まずい雰囲気が醸し出されている。俺は首を窄めてひとまず雑誌のコーナーへ向かった。何を思い立ったかって、腹の肉を本気でどうにかしてやろうと思った訳だ。となれば、真っ先に思い浮かぶのは電車の中吊りで見たあの雑誌だ。
 しかし、これも肉緊箍児の呪いだろうか、男性向け健康雑誌の腹割・腹凹特集号にはなかなか手を伸ばせない。あんな現実離れした表紙を見せられては、どうしたってある程度できあがったからだを持ち合わせていて、更にもうちょっとやってやろうかなという上級者でないとレジには運べない。もしくは、君と二人でヘラヘラ笑いながら手でもつないで阿呆のようにレジへ向かうかだ。これが胃下垂を手に入れろ特集号で、景気の悪そうな男が済まなそうに腹を晒している表紙だったなら、俺は一人でも気後れせずにレジへ運ぶ事ができただろう。
 馬鹿なことを考えながら実用書コーナーへと移る。そして、平積みの本を眺めていくと、あるスポーツ選手のトレーニング方法を紹介する四六判の並製本が目に留まった。皆が話題にしそうな世界大会くらいしかテレビ観戦をしない俺であっても、その選手はなんとなくお茶の間アイドル的な存在として認識されている。その本を手に取り、ペラペラとページを捲れば、「腹を凹ませたい」という項目があるではないか。このトレーニングとストレッチを続ければ、いずれアスリートの腹が手に入るというわけか。俺は決意を堅め、腹に力を込めながらレジへ向かった。
 意気揚々と君の待つアパートへ帰り、温かい夕食を済ませると、俺はほろ酔い気分で買ったばかりの本を捲る。そして、腹を凹ませるために必要なページを広げると、次々カメラでタブレット端末へと撮り込んでいった。
「これさえこなせば」
 俺は、鼻息を荒らげながら、撮り込んだ写真を指で送っていく。既に大きな一仕事を終えた気になっている自分に「これから、これから」と言い聞かせながら、満悦顔でタブレットを眺めていると、君が大きな顔を寄せてきた。
「もしかして、痩せようなんて考えてる?」
「ちょっとね」
 少し間を起き、君は不安げな声をあげた。
「それって私もかな?」
 タブレットを下ろして君と向き合えば、何故か申し分けなさそうに、その大きなからだをほんの少しだけ萎縮させている。首を下げたまま上目遣いで俺をのぞき込むようにすれば、その大きな肉饅頭のような顔の下に、くっきりと二重顎が浮かびあがった。
「まさか」
 そんな愛おしい顔をされたら、その大きなからだを抱きしめざるを得ない。
「もしかして、私のため?」
 君はいつも気にしているけれど、俺は本当に大きな君が好きなのだ。だから、君のからだが大きくなって僕の二倍になったら約束どおり町の教会で結婚しようよなんて、少しおどけながらプロポーズをした。
「二人のためだよ」
 君は十分頑張った。どうしたって俺がもっと頑張らなければいけない。君の大きく美しいからだから身を離すと、俺は自分の腹の肉を強く摘まんで痛みに耐えた。ようやく肉緊箍児の呪いを解く秘技書を手に入れたのだ。それを伝えようとして口を噤む。この場に相応しい言葉ではないように思えたから。だから、俺は黙って君の手を取る。そして、解呪の先にのびる二人のバージンロードに目を細めた。


落としたもの

「あんた、なんでそんなに忘れ物が多いの?」
 うるせえばばあ。俺は忘れ物が多いのではない。落とし物が多いのだ。これはもう病気ではないかと思うくらいに物を落とす。
「あんた、今日も忘れたの?」
 うるせえばばあ。なんで母は同じものを持ち帰らずにいる息子のそれを忘れ物だと言い張るのだろうか。
「明日は忘れないで頂戴よ」
 うるせえばばあ。そう言う俺も、これが忘れ物なのか、落とし物なのか、はじめは分からなかった。これが落とし物と知ったのは、拾い上げる君が現れたから。
 学校の帰り、電車のシートに浅く腰掛け、スマホを弄りながら足を投げ出していると、ガチャベルトでスカートを裾上げした君が俺の足を跨いだ。
「はい、落とし物。この前、おべんとばこ落としたでしょう」
 君はトイ・ストーリーのナプキンの結び目を摘まんで、弁当箱を差し出した。軽く赤面した。こんなことになるまで気にならなかったけれど、こんな歳になってまでトイ・ストーリーだったのかよ。俺のナプキン。
 手にしたナプキンはパリッとしていて、洗濯した上にアイロンがかかっているようだ。弁当箱も洗ってあるのだろう。君の親の厚意であったとしても。
「どこに落ちてた?」
「昇降口で落としたでしょう。あの時、叫んだんだよ、私」
 言われてみれば、はじめて聞く声ではない気がする。
「おべんとばこぉって、叫んだ?」
「おとしものぉって、叫んだよ」
 次はペンケースで、その次はスマホだった。
 スマホの時は焦ったけれど、その一方で戻ってくる確信があった。大ごとにはしなければ、母にうるさく言われることもなかった。
 黙って二晩を過ごせば、案の定、君が現れた。
「はい、落とし物」
スマホケースには三つ目のエイリアンが貼り付いている。俺はまた赤面した。
「めっちゃ助かったよ」
 君は鼻で笑って少しだけ口元を緩めた。落とし物は決まって君が電車を下りる間際に手渡される。だから、一言二言しか言葉を交わすことができない。
 すまほぉって、叫んだ?
 同じようなことを聞いても芸がない。つまらない男だと思われたくはないが、芸などない。少し言葉が行き交えばそれでよかった。俺は三つ目のエイリアンを指さす。
「こいつの名前知ってる?」
「知らない」
「リトルグリーンメン」
 夜は早めに布団に潜って君を思い返す。何より見た目がよかった。女は見た目が八割。いや十割だね。蕎麦かよ。無理に笑いを堪えたら豚鼻がなった。
「あんた、何やってんの?」
 カーテンに仕切られた向こうで、姉はまだ机に向かっている。
「鼻がつまってる」
「風邪?」
「大丈夫」
「あんた、最近忘れ物が多いって母さん愚痴ってるよ」
「忘れ物じゃない。落とし物なんだよ」
「なにそれ?」
「いや、なんでもない。寝る」
 俺は落とし物の神に感謝する。わざとじゃないんだ。本当に。あなたの落としたのは金の斧ですか?そういうやつかよ。銀の斧ですか?おまえ誰だっけ。イソップ童話?でも本当に。わざとじゃないんだ。わざとやったら君は拾えない。そんな気がしている。それに、キモいだろ。
 それなのに、
「あんた、わざとやってない?」
 俺は差し出された生徒手帳に手を伸ばして、舌を打つ。もしもの為に用意していた言葉があった。ただの照れ隠し。俺は随分と酷いことを口走ってしまった。
「おまえ、俺につきまとってない?」
 まさか蹴られるとは思わなかった。でも、目の前のキモい男がシートに浅く座っていたら、横っ面を蹴るものかもしれない。
 家に帰ればまた弁当箱がなかった。
「あんた、なんでそんなに忘れ物が多いの?」
「うるせえばばあ」
 ようやく声に出た。母は目を丸くした。気持ちのいいものではなかった。泣かれたら堪らん。沈黙を破る姉。部屋から飛び出してくるなり俺をひっぱたいた。蹴られたのと反対の頬。続いて、姉は目を丸めた。俺が泣いていたから。
「忘れ物じゃなくて、落とし物なんでしょ」
 姉の優しさに、俺は涙を流して笑った。

 

 課題「落とし物」


消しゴム

 真っ白な紙をこすり続けて一時間が経つ。俺の解釈が間違えているのかもしれないが、物語ははじめからではなく、途中から描いたほうがいいと聞いたことがある。八つの角を順番に潰していきながら、丸くなってきた消しゴムをなおもこすり続ける。どうせならば、この汚れたデスクの上をまんべんなくこすれば、掃除の代わりにもなったろう。しかし、真っ白な消しかすに魅せられた俺は、いつまでも白紙の上で行ったり来たり。発端は、使い切ったためしがないよね。とかさ。気づくとどこかに行っちゃうよね。とかさ。ふと、そんな他愛もない会話があったことを思い出したから。実は消しゴムには俺の知らない性質や能力があったりして。そもそも使い切れないものなんだよ。必ずどこかに行ってしまうものなんだよ。そんなことを考えるようになったら、何も予定していない休日に新品の消しゴムのパッケージを剥いでいた。既に消しゴムははじめの大きさから半分を下回っている。人間の年齢で言えば四十路といったところか。ちょうど俺くらいではないか。「不惑」という言葉が浮かんで鼻で笑う。それは成長した結果でなく、単に感覚が鈍りはじめでいるだけではないのか。嗚呼、不惑。思わず消しゴムをこする手に力がこもる。一度決めたことだから最後までやり切ろう。消しゴムの四十路は俺の四十路とは訳が違う。俺は二十歳の頃まで身体を作り上げ、不惑に至るまで無駄な肉を盛り付けてきた。それに対して消しゴムは、完成された身体で世に送り出され、ひたすらに身を削り続ける。不意に俺は手を止めた。やはり消しゴムは使い切られる前に俺たちの手元を離れるべきではないか。そして、その先には消しゴムの楽園なんてものがあってさ、風化するまでの余生を楽しむのさ。こんなおっさんに見張られながらこすり続けられるなんて、こいつも不憫な消しゴムだね。嗚呼、いつになったら私はこの濁った目を盗んで逃げ出すことができるのかしら。消しゴムの悲痛な叫びが指先から伝わってくる。でもね、おまえだけじゃない。俺だって身を削ってはたらき続けているのだよ。贅沢なんて求めなくとも日々は過酷だ。それは生物の宿命のようにも思える。肉を食らって肉を盛る。どんな生物だって肉を獲るために日々必死だ。無数の命を食らっては、生涯を通じて一つ二つの命を生み出し、それを育んでは息絶える。それに比べて消しゴムはどうだ。他人の手によって次々生み出され、文句も言わずに身を粉にする。なんだよ。こいつらは馬鹿に潔いじゃないか。文句の一つでもたれてみなよ。痛いの辛いの言ってみなよ。嫌みの一つも言ってみなよ。こんな晴れた休日になに馬鹿なことしているんだと鼻で笑ってみなよ。なんだよ。こっちがまるで駄目みたいじゃないか。こいつがその気なら、俺だって黙ってこいつを粉にし切るまで。白紙の上を行ったり来たり。時折、向きを変えて、行ったり来たり。また向きを変えて、行ったり来たり。次第に消しゴムは球体に近づく。身の上に心配ある事情だっけ?惨状だっけ?あれ?それって円の面積だっけ?円周だっけ?俺は基本的に理系だから数字は嫌いでないのだが、公式というのがどうしても頭に入らない。ジョウテイタスカテイカケルタカサワル2。そこまではよかった。イメージができるじゃないか。しかし、πとか出てこられるともう。イメージできないものはなかなか頭に入らないんだよ。 限りなく球体に近づいた消しゴムに手のひらをあてて紙の上で転がす。俺の行為はいつしかこすり切るという目的から球体にするという目的にすり替わっている。限りなく球体に近いそれを親指と人差し指で摘んで目の前に持ち上げる。それは、一つの衛星のようで、目の前を行ったり来たりさせてみる。俺の頭の周りをグルグルと回り続けてくれればいいと思いはじめる。なかなかいないだろう。頭の周りを衛星が回り続ける男。でも、俺がそれを望んだとして、消しゴムはどうだ。こいつは真っ白な消しかすになることを望むか。俺の手を離れて消しゴムの楽園へ向かうことを望むか。俺はしばらく考えた挙句、窓を開けた。続いて、ボールのようにも見えるこいつを思い切り遠くに投げ捨てた。そして、泣いた。少しだけ。

 

 課題「消しゴム」


どこかでボーンと弾けた

 蒸し暑い夏の夜、二三度に設定された冷房の直下でブランケットにくるまる。嗚呼贅沢。五・二インチの画面に目をあてながらぼんやりと情報を送っていれば、どこかでボーンと弾けた。

「今日どこかで花火か?」親父の問いかけに、「知らん」と答えながら、将軍様が打ち上げた大陸間弾道ミサイルを思い描いている。親父だってそう思ったに違いない。花火なんて鳴ったろうか?俺は耳をすます。ジェイアラートはスマホにもくるのかしら。突然震え出したら俺も焦るわ。横浜市熱中症予防情報。この季節、俺のスマホにくる大半のメールは yokohama@bousai-mail.jp 。林文子も再選。明日の熱中症ランクは「原則運動中止」です。未曾有の異常気象の中でも俺は死ぬほど寒い。ICBMの弾頭に花火を入れておいてはどうかしら。速射連発打ち上げのスターマイン。日本への到達が一〇分、グアムへの到達が三〇分。「たまや~」、「かぎや~」とコンピューター制御で次々に弾頭から打ち下ろされる三号、四号玉。島根県、広島県、高知県の上空を通過するアーチ状の巨大なワイドスターマインが夜空を彩る。愛媛も含めた四県に設置されたPAC3が四尺玉で応戦。それは北の地平線から南の地平線へ延びる天の川に架けられた大橋のようでもあり、つまりは何千万羽と飛び交うカササギの群衆、年に一度だけ落ち合うことのゆるされた織姫星と牽牛星を渡す。盆も過ぎたけれど。

「おまえ何ニヤニヤ笑ってんだ?」

 親父はひどく顔面を崩壊させて俺を見る。

「俺って結構ロマンチストだろう」

 親父の口が阿呆と動いた。

 

課題「花火」



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