閉じる


<<最初から読む

8 / 21ページ

蛇の目でお迎え

 雨なんか降らないじゃないか。晴れの日に傘を持ち歩きたくないんだよ。

 あたしに文句言わないでよ。天気予報士じゃないんだから。文句言うなら自分でチェックしてよね。

 最近では後半部分が省略されている。

「雨なんか降らないじゃないか」

「あたしに文句言わない」

 小言を言う相手がおまえ以外にいないのだ。うまいこと聞き流してくれ。おまえは玄関で靴を脱ぐ俺を出迎えもせずに雑誌をめくっている。随分あからさまに聞き流してくれるじゃないか。怠慢な態度ではないく成熟したスタイルだと思いたい。「ただいま」と「おかえり」のキャッチボールよりも一言余計な文句が言えるこんな日が嫌いではない。

「今日雨降る?」

「降らないみたいよ」

 靴を履きながら少しがっかりしている俺がいる。すると、こんな日もある。

「雨降ったじゃないか」

 駅前から歩いて七分、小走りで五分。駅前にコンビニはあるが、五分のためにビニール傘を買う気もしない。

「あたしに文句言わない」

 そう言いながらタオルを握ったおまえが駆けてくる。俺は案山子になってゆっくり回る。水滴を拭う俺とおまえのコンビプレーも上達した。一周回ればタオルを受け取り貧相な頭をかきむしる。風呂なら聞かずとも沸いている。晴れであろうが雨で降ろうが仕事から帰ればはじめに風呂と決めているから。まず疲れた身体を湯で癒したいと俺が言い出したことか、汚れた身体をまず洗いなさいとおまえが言い出したことか、どちらが決めたことなのかは忘れた。

 湯に浸かり指先で肩を押しながら首を回す。次はビジネスリュックにしようか。若者ぶっているようでもあり、身体への負担を第一に考えざるを得ない爺さんのようでもあり、未だ肩掛けバッグにこだわっている。

 子供のいない静かな食卓。上の階から時折にぎやかな足音が響く。顔の知れた子らだから悪い気はしない。「にぎやかだね」とは言わない。「ごめんね」なんて返されても飯が不味くなるだけだ。

「もしもーし」

 おまえは食卓塩を持ち上げてそれを耳にあてる。何でもかんでも携帯電話と間違えることが流行ってるようだ。

「なに?」

「明日、ちょっとママの様子を見てきてもいいかな?」

「どうした?」

「なんか、この前の入院から弱っちゃってね。特に何もないんだけどたまに顔出したほうがいいかなって」

「そうか。よろしく言っておいてくれ」なんて、適当なことを返す。

 休日は別々に過ごすことが多くなった。

「今日雨降る?」

「降らないみたいよ」

 おまえは実家へ、俺は隣駅のデパートへカバンを見に行く。

「夕飯前には帰ってくるから」

「いいのか?」

「お菓子でも食べながら、二、三時間も喋ってればいいの」

 俺は一駅で電車を降り、おまえを見送った。二、三時間もよく喋っていらえるものだ。

 カバンはすぐにどうでも良くなり、本屋へ足を運んだ。手に取った文庫本を数ページ立ち読みしていれば、ふと書斎の机に積まれていた気がして棚へ戻す。続きをじっくりと読みたい。結局、何も買わずにマンションへ戻ることにした。駅を降りて空を見上げる。天気予報はどうもあてにならない。

 半分は漫画本で占められている書斎に隠り、机の上から例の文庫を見つける。リクライニングチェアに腰掛け小説の中へ。しばし現実から抜け出す。女に振られた男があの手この手で必死に復縁を迫る頃、携帯電話が震えた。「そろそろ帰ります」の後ろに笑顔のアイコン。心底ホッとした。

 時計を見上げてから窓を目にする。ざらざらの型板ガラスで外の様子は分からないが、時間の割にやけに暗い。立ち上がって、玄関の戸を押し開ければ案の定。

「雨か。あいつ傘持ってなかったよな」

 俺は小説世界を引きずったまま、傘を持って駅に向かおうなどと考える。あいつはひどく驚くだろう。その顔を拝んでやるのもまた一興。そして、二本の傘を持って家を出た。童謡『あめふり』なんかを鼻歌に駅へ向かった。

 しばらく待っていれば地味な格好をした女が現れた。思わず口元が緩む。しかし、自動改札から出てきたおまえは小さな折り畳み傘をバッグから取り出した。俺は阿呆な顔して口を開けた。「あ」と声を漏らした瞬間、おまえは俺に気づく。そして、小さな笑みを浮かべながらそれを耳にあてた。


リノベーション

 これと言って取り柄はない。あまり世間を知らないが、一般的に世間知らずと罵られる程ではなく、一般道を転がってきた。

 生活保護費、一六〇億円削減

 スマホに流れるニュースを目にしても、正直、あまり怒りを覚えることはない。それでもドイツ車の停めてある戸建てを見つけてボヤきはする。

「何したらこんな風になれるんだよ」

 三五年ローンで購入した中古マンションに帰れば、料理の上手い女房と娘が待っている。我ながら上手くまとめ上げたものだ。鼻で笑ってエレベーターを降りれば、カレーの臭いが漂ってきた。途端に腹が鳴り、この臭いの源泉が我が家であればいいと願う。

「おかえりなさぁい」

 娘はまだまだ可愛いもので、玄関の前で俺を迎え入れる。両手を広げたポーズは抱っこの催促だったか、仕事鞄を預けると頬を膨らませたようにも見えた。重たい鞄を抱えてヨロヨロと進む娘。その背中を手のひらで支えながら、キッチンに首を伸ばせば、女房が湯気の立つ寸胴鍋をかき回していた。人生はまずまずだ。

 

 出る杭は打たれる。

 限りなく球体に近い毬の中に収まって、俺はハムスターのようにあっちへコロコロ、こっちへコロコロ。打つべき杭がなければ打たれようもない。仕事は七割でこなす。率先して変革をもたらそうなどとは考えず、そんなことはやりたい奴に任せればいい。変化というやつが面倒なんだよ。ひどく面倒くさいから、ひょいとかわして、あっちへコロコロ、こっちへコロコロ。声の大きいやつは、俺のことをとても物分りの良い男だと評価する。声の小さいやつが何を言ったって、俺の耳には届かない。

 そんな俺でも、この家を選ぶことに関しては随分と時間をかけた。大きな買い物だ。さすがに不動産屋の言いなりとはいかない。一度購入した家を売り買いするなど考えていない。となれば生涯で最大の買い物だろう。慎重にもなる。

 その頃はまだ家族がいなかった。不動産屋に何を問われても、生活に対するビジョンがない。俺の生活はどこへ向いている。仕事に打ち込む質ではなく、週末くらいは多少快適に過ごしたい。俺の人生はどこへ向いている。死ぬまでに名言を残したいなどとは思わない。動物である限り、子孫くらい残したほうがいいかもしれないが、誇れる遺伝子など持ち合わせていない。ビジョンがなければいけないか。夢の無い人生は許されないか。とにかく安泰に暮らしていたいのだ。週末には安らかな気持ちで安酒を舐めたいのだ。

「ですよねぇ。分かります。誰だってそういうものです」

 チャラい不動産屋は適当に頷く。早く決めろと言わんばかりに何度も頷く。そして、延々車を回した挙げ句、リノベーションされたという中古マンションへたどり着いた。

「ところでリノベーションとはなんだ?」

「あ、単に痛んだところを修繕することがリフォーム。それに対して、新築の時以上に、さらに生活環境を向上させて価値を高める工事のことをリノベーションって言うんですよ」

 男は「新築の時以上に」と念押ししながら、車を下りる。日本人による造語だろうかとスマホを叩いてみれば、英単語として存在していた。修理、修繕のほかに革新、刷新という意味があるそうだ。思わず鼻が鳴った。

 あの時もそうだった。エレベーターを降りたらカレーの臭いが漂ってきた。思わず腹が鳴り、その音が聞こえたのだろうか、男は俺を子馬鹿にしたような笑みを浮かべながら鍵を開ける。すると、カレー臭はまさにその家から漂ってくるではないか。

「リノベーションですよね?」

「はい、リノベーションです」

「誰か住んでるの?」

「まさか」

 生活感を演出するために、カレーの臭いでも発生させているのか。眉をひそめながら、男に差し出されたスリッパに足を突っ込んだ。

 リノベーションというだけあって、外観の割に内装は新築のように輝いていた。玄関から延びる五メートルほどの廊下の両脇には一つずつ扉があり、廊下の突き当たりには一三畳程度のリビングダイニングキッチンが広がる。

「こちらへどうぞ」

 男は突き当たりの扉を開いて、俺をまずLDKへと招いた。リビングスペースにはソファーやソファーテーブル等が見える。

「なに?家具があるの?」

「部屋のイメージがつきやすいように、少々家具が置かれています。使っていただけるならそのまま差し上げます。撤去もできますよ」

 カレーの臭気は扉の向こうから流れ込んでくる。

「さ、どうぞ」

 俺は臭いにつられるようにLDKへと踏み込んだ。そして、すぐに足が止まる。カウンターキッチンへと目をやれば、湯気の立つ寸胴鍋をかき回す女が立っていたのだ。

「こんにちは」

 女は良くできた笑顔を俺に向けて小さく頭を垂れた。

「こんにちは」

 オウム返しの後、男に目を向けた。

「部屋のイメージがつきやすいように、少々家族が置かれています。一緒に暮らしていただけるならそのまま差し上げます。撤去もできますよ」

 すると、背後から小さな子供が駆け寄ってきた。

「おかえりなさぁい」

 何を催促しているのか、小さな娘は瞳を輝かせながら両手を広げた。

 俺は一般道をひた走り、三流大学を卒業し、二流企業へなんとか潜り込む。その五年後には長期入院に備え生命保険に入り、一〇年を節目に家の購入を検討しはじめた。

 そして、足りないものと言えば、自分の家族を持つことだった。

「リノベーションか」

 俺は小娘を見下ろしながら呟いた。そして、ろくに内見もせず男に告げた。

「ここにしようかな」

 男の顔は輝いた。案件が成立した喜びというより、面倒な客から解放された喜びではなかろうか。ふらふらと部屋の中を歩いて回れば、後ろから小さな娘がついてくる。女は鍋をかき回しながら、時折、微笑みを送る。

 俺はソファーに手をかけて呟く。

「気に入っているソファーがあるから、これは要らないや」

「あ、そうですか」

 すると、男は何か言い出しにくそうにしてから、一歩俺に近寄る。

「私が貰ってもいいですか?」

「別に構わないけど。ソファーテーブルは貰っておこうかな」

「分かりました。ありがとうございますっ」

 その絵顔をよく見れば、思っていたよりも若そうだ。欲しかったものが手に入ると分かれば、途端に早口になる。

「では、早速店舗に戻って手続きを進めましょうか。この物件はWEBでも公開されていますんで。先に契約される方がいるとマズいんで。速いモン勝ちみたいなものなんですよ」

 男はそそくさと廊下に出ると、そこで振り返る。

「あ、奥さんとお子さんどうします?」

 俺はいつまでもついてくる小娘の頭に手を添える。

「これは、もらっておこうかな」

 男は小さな笑みを浮かべ、頷いた。

「では、急いで戻りましょう」

 店舗に戻ると、ベテランのスタッフが加わり、購入の手続きやローン審査の話が進んだ。団体信用保険の話になれば、女の顔を思い返していた。

 

 俺はカレーをよそって、ダイニングテーブルにつく。女房はカウンターキッチンの向こうから、時折、笑顔を見せる。

「こんにちは」

 夜だといっても言うことは変わらない。娘は俺の横に立ち、いつまでもこちらを見上げている。

「おかえりなさぁい」

 今時、こんなものでリノベーションと言えるのか。入居当初、男に文句をつけたこともあったが、この二体の人形は生活をイメージするために用意されただけのものだという。

 俺はカレーを口に運びながら、明日の夕飯は何にしようかと考えている。豚汁か、シチューか。寸胴鍋に材料を入れて時間をセットすれば、それなりのものは食える。会社勤めの身にはありがたいが、たまには揚げ物なんかも食いたいと思うのだ。


ハンマーとイエローサブマリン

 これは釘を打つ道具ですか。

 いいえ、これはネズミを潰す道具です。多くの場合、うまくヒットすれば身動きがとれなくなり、あとは頭蓋骨を砕くだけでおしまいです。ところでこれと言うのは金属片に木材の突き刺さったこれのことで間違いないですね。

 いいえ、こちらの黄色いアーモンド状の形をしたモノのことです。

 失礼しました。こちらはイエローサブマリンです。みんなで楽しい旅をする潜水艦です。バンド演奏も加わって何不自由なく楽しく暮らせる潜水艦です。

 それはあまり魅力的ではないですね。

 そうですか。なぜでしょう。

 私は今三本の釘が打ちたいのです。それならば金属片に木材の突き刺さったこれのほうが向いているかと思いますよ。

 でも、これはネズミを潰す道具ですよね。

 イエローサブマリンよりはるかに釘が打ちやすいかと思います。

 ほかに何か釘を打つのに適当な道具はありませんか。

 うちにはネズミを潰す道具とイエローサブマリンしかありません。

 それではほかのお店にあたるとしましょうか。

 おそらくどこのお店に行っても釘を打つための道具なんてありませんよ。

 大抵のニンゲンはネズミを潰す道具で釘を打つものです。

 しかし、ネズミを潰す道具で釘を打つなんてあまり気持ちのいいものではないですね。

 ところで、おたくは今までどのようにして釘を打っていたのですか。

 私の右手は釘を打つのにとても良い形状をしていたのですが、先日事故を起こしまして。ほらこのように手首からポッキリ。

 これはこれは大変なことです。

 ネズミを潰す道具というよりはイエローサブマリンに似た形状をしていました。

 はてさて、そちらの左手は実にネズミを潰す道具と似た形状をしているではありませんか。

 私はネズミなど潰しません。

 いえいえ、左手で釘を打ってみてはいかがでしょうか。

 なるほど、確かにそうかも知れません。実は長いこと右手で釘を打つことに疑問を感じておりました。

 あなたの右手はイエローサブマリンだったのかも知れませんよ。みんなで楽しい旅をする潜水艦です。バンド演奏も加わって何不自由なく楽しく暮らせる潜水艦です。

 それはとても魅力的ですね。

 あなたの右手をこちらを新調してはいかがでしょう。

 確かにポッキリ折れてしまった右手よりもにぎやかそうです。

 今なら取り付けるための釘三本もサービスしますよ。


転校生

「俺ならばそうは描かない」

 筆を握って首を振る。青とか、赤とか、黒とか、山吹とかさ。もっともっと色を散らすよ。窓からはカバが顔を出して、枝にはタコなんか頭足類がぶら下がっていても悪くない。

「オトナはさ、そういうのを求めているのだから」

 クリムトは眉を顰めた。

「そうだよ。オトナはそんな俺たちの絵が好きなんだ」

 そうすれば、いつまでも眺めていたい絵ですなんて、絵画としては最大級の誉め言葉が添えられる。クリムトは器用なんだけど、どうも要領が悪い。

「この前なんてさ、リレーの練習で前のヤツが転けたから、俺、その場で立ち止まったんだ。なんでか分かるか?」

 クリムトは首をかしげた。

「あれはちょっと露骨だったかな」

 俺は転校生のクリムトに小学生としての立ち振る舞いを教える。きっと俺たちは仲良くなる。こういう誰が見てもいい感じの絵を描いてしまう奴、ちょっと羨ましくもあるけれど、嫌いではないんだ。

 

お題:クリムト作「北オーストリアの農家」


穏やかな生活

 幸せかと聞くあなたは何を期待したのか。家畜らとボロ小屋で暮らしている。あいつらはブーブー、そいつはモー。こいつのタマゴを茹で、そいつの乳を吸う。そして、一九〇〇年頃だったろうか、キャンバスに筆を入れた。この穏やかな生活を描いておくのも悪くないと思ったのだ。マゼンタはそいつの健康的な血、シアンはあいつを絞めたチアノーゼ、イエローはこいつのタマゴ。私は幾度も色を重ねた。絞めたなら勿論いただく。肉は代謝を活発にし、皮は身体を温めた。臓器は冷凍保管しよう。いずれ役立つと直感したのだ。長生きを望んだことはないが、死を急ぐ必要もなかった。春は春の色、秋は秋の色、キャンバスは生命体のように表情を変えた。気づけば、色を重ねはじめてから一世紀を越えた。孤独を感じたことはない。実際、孤独ではないのだ。臓器のほとんどはあいつらのものと入れ替えた。そして、皮だって同じものを羽織っているのだ。

 

お題:クリムト作「北オーストリアの農家」



読者登録

puzzzleさんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について