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消しゴム

 真っ白な紙をこすり続けて一時間が経つ。俺の解釈が間違えているのかもしれないが、物語ははじめからではなく、途中から描いたほうがいいと聞いたことがある。八つの角を順番に潰していきながら、丸くなってきた消しゴムをなおもこすり続ける。どうせならば、この汚れたデスクの上をまんべんなくこすれば、掃除の代わりにもなったろう。しかし、真っ白な消しかすに魅せられた俺は、いつまでも白紙の上で行ったり来たり。発端は、使い切ったためしがないよね。とかさ。気づくとどこかに行っちゃうよね。とかさ。ふと、そんな他愛もない会話があったことを思い出したから。実は消しゴムには俺の知らない性質や能力があったりして。そもそも使い切れないものなんだよ。必ずどこかに行ってしまうものなんだよ。そんなことを考えるようになったら、何も予定していない休日に新品の消しゴムのパッケージを剥いでいた。既に消しゴムははじめの大きさから半分を下回っている。人間の年齢で言えば四十路といったところか。ちょうど俺くらいではないか。「不惑」という言葉が浮かんで鼻で笑う。それは成長した結果でなく、単に感覚が鈍りはじめでいるだけではないのか。嗚呼、不惑。思わず消しゴムをこする手に力がこもる。一度決めたことだから最後までやり切ろう。消しゴムの四十路は俺の四十路とは訳が違う。俺は二十歳の頃まで身体を作り上げ、不惑に至るまで無駄な肉を盛り付けてきた。それに対して消しゴムは、完成された身体で世に送り出され、ひたすらに身を削り続ける。不意に俺は手を止めた。やはり消しゴムは使い切られる前に俺たちの手元を離れるべきではないか。そして、その先には消しゴムの楽園なんてものがあってさ、風化するまでの余生を楽しむのさ。こんなおっさんに見張られながらこすり続けられるなんて、こいつも不憫な消しゴムだね。嗚呼、いつになったら私はこの濁った目を盗んで逃げ出すことができるのかしら。消しゴムの悲痛な叫びが指先から伝わってくる。でもね、おまえだけじゃない。俺だって身を削ってはたらき続けているのだよ。贅沢なんて求めなくとも日々は過酷だ。それは生物の宿命のようにも思える。肉を食らって肉を盛る。どんな生物だって肉を獲るために日々必死だ。無数の命を食らっては、生涯を通じて一つ二つの命を生み出し、それを育んでは息絶える。それに比べて消しゴムはどうだ。他人の手によって次々生み出され、文句も言わずに身を粉にする。なんだよ。こいつらは馬鹿に潔いじゃないか。文句の一つでもたれてみなよ。痛いの辛いの言ってみなよ。嫌みの一つも言ってみなよ。こんな晴れた休日になに馬鹿なことしているんだと鼻で笑ってみなよ。なんだよ。こっちがまるで駄目みたいじゃないか。こいつがその気なら、俺だって黙ってこいつを粉にし切るまで。白紙の上を行ったり来たり。時折、向きを変えて、行ったり来たり。また向きを変えて、行ったり来たり。次第に消しゴムは球体に近づく。身の上に心配ある事情だっけ?惨状だっけ?あれ?それって円の面積だっけ?円周だっけ?俺は基本的に理系だから数字は嫌いでないのだが、公式というのがどうしても頭に入らない。ジョウテイタスカテイカケルタカサワル2。そこまではよかった。イメージができるじゃないか。しかし、πとか出てこられるともう。イメージできないものはなかなか頭に入らないんだよ。 限りなく球体に近づいた消しゴムに手のひらをあてて紙の上で転がす。俺の行為はいつしかこすり切るという目的から球体にするという目的にすり替わっている。限りなく球体に近いそれを親指と人差し指で摘んで目の前に持ち上げる。それは、一つの衛星のようで、目の前を行ったり来たりさせてみる。俺の頭の周りをグルグルと回り続けてくれればいいと思いはじめる。なかなかいないだろう。頭の周りを衛星が回り続ける男。でも、俺がそれを望んだとして、消しゴムはどうだ。こいつは真っ白な消しかすになることを望むか。俺の手を離れて消しゴムの楽園へ向かうことを望むか。俺はしばらく考えた挙句、窓を開けた。続いて、ボールのようにも見えるこいつを思い切り遠くに投げ捨てた。そして、泣いた。少しだけ。

 

 課題「消しゴム」


どこかでボーンと弾けた

 蒸し暑い夏の夜、二三度に設定された冷房の直下でブランケットにくるまる。嗚呼贅沢。五・二インチの画面に目をあてながらぼんやりと情報を送っていれば、どこかでボーンと弾けた。

「今日どこかで花火か?」親父の問いかけに、「知らん」と答えながら、将軍様が打ち上げた大陸間弾道ミサイルを思い描いている。親父だってそう思ったに違いない。花火なんて鳴ったろうか?俺は耳をすます。ジェイアラートはスマホにもくるのかしら。突然震え出したら俺も焦るわ。横浜市熱中症予防情報。この季節、俺のスマホにくる大半のメールは yokohama@bousai-mail.jp 。林文子も再選。明日の熱中症ランクは「原則運動中止」です。未曾有の異常気象の中でも俺は死ぬほど寒い。ICBMの弾頭に花火を入れておいてはどうかしら。速射連発打ち上げのスターマイン。日本への到達が一〇分、グアムへの到達が三〇分。「たまや~」、「かぎや~」とコンピューター制御で次々に弾頭から打ち下ろされる三号、四号玉。島根県、広島県、高知県の上空を通過するアーチ状の巨大なワイドスターマインが夜空を彩る。愛媛も含めた四県に設置されたPAC3が四尺玉で応戦。それは北の地平線から南の地平線へ延びる天の川に架けられた大橋のようでもあり、つまりは何千万羽と飛び交うカササギの群衆、年に一度だけ落ち合うことのゆるされた織姫星と牽牛星を渡す。盆も過ぎたけれど。

「おまえ何ニヤニヤ笑ってんだ?」

 親父はひどく顔面を崩壊させて俺を見る。

「俺って結構ロマンチストだろう」

 親父の口が阿呆と動いた。

 

課題「花火」


ぬれせんべい(改)

「ぬれせんべい かって のりこむ ちょうしでんてつ」

「日本全国鉄道かるた」の絵札には、銚子電気鉄道デハ七〇〇。幼い息子はぬれせんべいが電車の愛称だと勘違いしているようだ。

「電車じゃないぞ。ぬれせんべいってのは」

 魔が差した。

「銚子の妖怪だ」

 語感は妖怪ぬりかべに近い。しかし、俺は妖怪あかなめを思い浮かべた。水木しげる著「カラー版妖怪画談(岩波新書)」を手に取る。パラパラとめくれば、灰色の顔に真っ赤な舌がペロリと伸びた妖怪あかなめ。その姿と紹介文から妖怪ぬれせんべいを思い描く。

 誰もいない夜の台所に出ては,堅焼き煎餅を舐めることでしっとりさせてしまう。煎餅をなめるだけで何をする訳でないが、十分に気分が悪い。 「ぬれせんべいがくるぞ」と言えば、誰もいい気持ちがしないから、茶箪笥を掃除する。いわば教訓的な妖怪とみるべきであろう。

 俺は息子のベッドタイムストーリーを考える。気持ち悪すぎてもだめだ。時折、茶箪笥から顔を出す、どこかにくめない妖怪でありたい。まずは妻へのピロートークで実践練習。彼女は話の序盤で眠りについた。子供を寝かしつける本来の目的としては申し分ないが、何処か面白くない。翌晩、俺は更に色をつけて枕元で妖怪ぬれせんべ~。

「こんなに煎餅がしっとりしているのに、まだ茶箪笥の掃除をしないのか。その夜、妖怪ぬれせんべいは米粒大の卵を吐き出し、茶箪笥をびっしり埋め尽くす。翌朝、何も知らずに扉を開ければ、次々に孵化する妖怪ぬれせんべ~」

 話に熱がこもれば、彼女は暗闇の中で起き上がる。

「いい加減にしてよ!気味が悪い!食器棚を掃除しろって、はっきり言えばいいじゃない!」

 俺は思いがけない反応に狼狽し、「ちがうちがう」と腕を振りながら後ずさる。踏みつけられた息子が悲鳴をあげる。驚いた彼女は照明のリモコンを探して畳をバンバン叩く。そして、食器棚からケケケと聞き慣れない笑い声がした。

 

課題「怪談」


ちぎりえ

 あれほど貸してくれるなと言ったのに、風邪で休んだ週末、あいつは随分と汚い手を使ってきた。
 玄関からあまり聞き慣れない親父の声がする。そして、声が止んだかと思えば、ノックもなく部屋の戸が引かれた。
「おい、ともだちが暇だろうからって本持ってきたぞ」
 親父は、三〇〇頁は優に越えるだろうハードカバーをベッドの上に放り投げた。嫌み一つ無いあいつの紅顔が思い浮かび、その本はコンクリートブロックのように重くのしかかってきた。
あいつを知ったのはつい最近、吊革につかまって本の中に入り込んでいた下校時のこと。
「本、読むんだ」
 途端、俺は現実に引きずり出された。きめ細かい肌に張り付いた笑顔。次に何を言い出すのか。俺は不安に顔をひきつらせながら、表紙を隠すようにゆっくり本を下ろした。
「その作家が好きなら、次はこれ読むといい」
 スクールバッグから取り出された一冊は、どっちがタイトルでどっちが作者名なのか。そんなことすら判断できない代物だった。
「読み終わったら貸すよ」
 先に下車するあいつに俺は苦笑いで首を振る。遠慮したと勘違いしたのだろう。あいつは微笑みながら手を振った。
 活字が好きだ。音楽よりも、動画よりも、顔のない相手とのSNSよりも、紙をめくって文字を追いかける作業がなにより好きだ。この時間だけはまわりの一切を遮断して没頭することができた。
 俺は腹を圧迫する本に手をあてる。作者名かもしれない題名のそれはきっと素晴らしいものなのだろう。俺はその手触りに堪えられず、次の瞬間には頁を捲っていた。
 気づけば部屋は薄暗く、満足感とともに本を閉じると大きな不安が襲いかかってきた。「その作家が好きなら、次はこれ読むといい」まったくあいつの言う通りだった。俺はこの本を何と言って返すべきか。手に力が籠もる。作中の一文を引っ張り出し、顔をひきつらせながら思ってもいない言葉を並べて顔色を窺うのか。すると、あいつは俺とは異なる一文を引っ張り出して、まったく共感できない言葉を連ねる。俺は苦笑いを浮かべながら阿呆のように五度も頷く。言葉を交わすほど糞が塗られ、俺を魅了したはずの作品が目も当てられない愚作へと仕上がっていく。
「だぶんだ、だぶんだ」
 俺は雄叫びをあげながら真っ二つに本を引き裂いた。親父は勢いよく部屋の戸を引いた。
「おまえ、大丈夫か?」
 俺は引き裂かれたそれを咄嗟に布団の中に隠した。
「飯、食えるか?」
 俺は頷く。親父の飯は炒り卵と釜揚げシラスに生野菜。茶の代わりに汁物でもあれば上々だ。俺は親父の背中について台所へ向かい、二膳分の冷や飯を電子レンジにかけた。
 野球中継を眺めながら飯をつつく。親父は俺との間合いを計りながら沈黙を埋める。
「熱どうだ?」
「三七.七」適当に呟いて咳込んでみせる。
「朝まで熱引かなかったらベッドで寝てろ。明日は仕事に行くけど平気か?」
「大丈夫」
 早々に晩飯をすませてベッドへ戻る。布団に手を突っ込むが本はもとに戻っているはずもなない。仮病を引き伸ばしたところで意味がない。あいつが次の本を持って、この本を回収しに来る可能性だってある。俺は真っ二つの本を手にとって、一枚破く。また、破く。
「来る、来ない」なんて。
 小学生の頃、担任にちぎり絵を誉められたことがあった。「星空」なんてタイトルをつけて有り得ない色を散りばめればいい。そんなことくらい見抜いていた。
 俺は掛け布団を退けて、真っ白なシーツの皺を伸ばした。そして、本をちぎる。文字の画数、文章の密度でコントラストが決まり、それを十六階調に分類した。ちぎり絵よりもギャザリングアートに近いか。一晩中、モノクロのパーツを並べる作業はひどく退屈で、あいつの笑顔を思い返すことはひどく苦しい。
 朝になって体温計を咥えると本当に三七.七℃を示していた。ノックもせずに部屋の戸を引く親父は、掛け布団に包まって床の上で丸くなった俺を見下ろす。
「おまえ、大丈夫か?」
「三七.七」
 俺は自慢げに体温計を渡した。親父は体温計を見もせずベッドの上に目を凝らす。
「ともだちか?」
「だぶんだ、だぶんだ」
 早く部屋を出ていってくれればいいと願うが、親父は部屋を出るタイミングを逸していた。そして、これが狂ったふりであることくらい見抜いていた。


ボクノフネ

 前向きなニュースといえばオリンピックを除くスポーツニュースと将棋の話。天気予報は連日未曽有の異常気象。大半のニュースは傷だらけの地球と心ない阿呆が引き起こす惨劇や失笑劇。
そんな中、新しい元素が発見された。発見されたというより、合成されたというのが正しいそうだ。年に数個しか合成できない原子は一〇〇〇分の一秒という速さで崩壊を繰り返し、既知の元素へと姿を変えてしまう。そんなものが一体なんの役に立つのか。難解な言葉を並べ立てられた記者会見に素人は目を瞬かせるばかり。科学立国の悲願であった。子どもたちに夢を与える研究だ。そう言われてもいまいちピンとこない。
 入れ替わり入れ替わり流れゆくニュース。視聴者ウケしないものは直ぐにメディアから消え去った。防衛大臣や特命担当大臣が連発するエラーと、学園新設に関する首相らの虚偽答弁はもう少し停滞しそうだ。なんであんなに平気で嘘ばかりついていられるのか気が知れない。その図太さといったら凡人には到底考えられないレベル。
「やっぱり天才っているんだよ。努力すればなんでもできるってウソウソ」
「急にどうした?」
 ユートは、荒削りな笑いを誘うボブという名のパンツをはいたスポンジが大騒ぎするテレビの前で、ウンウンと何度も頷いている。
「画面の向こうの出来事は、全部凡人が作り出した夢の話なんじゃないのって疑うよ」
「そのスポンジのことか?」
 あいつは首を横に振ってスマホの画面を差し出した。テレビ観てないなら消せよ。
「こいつなんて俺と同い歳して、デビュー戦から一四連勝だってよ。見た目はあんまりパッとしないのにな」
 おまえだってパッとしてないよ。そう言いたいところだが、見てくれは俺が授けた遺伝子の問題。いつまでたってもあいつが凡であることも、きっと俺のせいなのだろう。財産があるわけでもなし。健康以外に取り柄もなし。嗚呼、つまらなし。
「悪かったね」
 鼻を吹かして拗ねてみせる。あいつは眉を持ち上げて首を傾げる。その大人びた仕草に、俺はカウンターを繰り出した。
「夏休みの自由研究は計画たてたのか?」
 ユートに代わってスポンジが悲痛の声をあげた。テレビ消せよ。続いてあいつは肩を落とす。ドリルなんかは嫌いでない。読者感想文だって苦手でない。しかし、自由研究ってのはなんだよ。そいつが残っていることに毎度悩まされる。
「なんだよ、その無責任な課題は」
 ユートは続けて「自由だって言うならやらないってものありじゃねぇの」と、毎度お決まりのぼやきとともにため息をついた。俺はふと年に数個しかできず、一〇〇〇分の一秒という速さで崩壊する新しい元素を思い出す。あれから研究は進み一〇〇分の一秒くらいには長持ちするようになったろうか。
「なぁ、新しい元素が発見されたニュース覚えてるか?」
 ユートは警戒感を示す。自由研究に面倒な提案でもされると思ったのだろう。俺が眉を持ち上げれば、あいつは首を振る。俺はなんだかあのニュースがとても好きなのだ。水兵リーベの一文字を手に入れた。今まで地球上に存在しなかった新しい物質が生み出された。何か期待してしまうではないか。虚偽答弁を繰り返す阿呆を目覚めさせる起爆剤にならないかしら。傷だらけの世の中を慰める治療薬にならないかしら。ニンゲン社会にはまだまだ希望があるのではないかしら。
「おい親父」
 俺はふと目を覚ます。
「どうした?ぼぅっとしてたぞ」
 俺は目を瞬かせる。
「今、なんて言った?」
「親父」
 あいつだって突然飛び越える。
「って呼んでいいかな?」
 もちろん。
「自由研究終わったらな」
 あいつは複雑な笑みを浮かべて曖昧に頷いた。
「BREAK ON THROUGH TO THE OTHER SIDE BREAK ON THROUGH TO THE OTHER SIDE」
 この場にふさわしいものだと確信は持てないが、俺はそんな歌を口ずさみながらパソコンに向かう。そして、「新しい元素」と検索した。昨年それに名前が付いたということ以外、その後の研究に関する公開情報は確認できなかった。研究論文に纏まるまで中途半端な情報は公開できないのだろう。気になりはじめると妄想は膨らむ。随分長持ちするようになったろうか。年に五個ほど作れるようになったろうか。マウスに振りかけると毛が伸びたりして。火星には大量に存在する物質だったとか。原子力に代わる高効率な発電技術につながるとか。もし、ユートが新元素を発見したら「ユートニウム」だな。「ニウム」ってなんだ。検索しようと打ち込めば「荷有無」と変換された。
「父さん」
 不意に呼ばれて「荷有無」を削除した。
「父さん?」
「だって、自由研究終わってからなんだろう」
 俺は片一方の頬を膨らませて、二、三頷く。そうだったな。父さんに戻ってしまうのも少し寂しい気がする。
「決まったのか?」
「決まった。黄砂について調べるよ」
ユートはスマホを捲りながら思いがけない回答を示した。社会系だったか。
「中国の陰謀だとかゴビ砂漠はゴミ溜め砂漠だとか言いながら洗車してるじゃない」
 俺の顔は熱くなる。記憶にございません。あいつは親父のためだと胸を張る。そして、俺の頭上に手を伸ばすとプリンターから一枚の用紙を引っ張り出して、ペンを片手にスマホを捲りはじめた。
「スマホで済ます気か?」
「駄目なん?」
「図書館くらい行ってこいよ」
「なんで?」
 うまい答えが見つからないまま「信憑性」と呟き、「ニウム」を検索する。「ium」はラテン語における中性名詞の語尾なのだとか。国際純正・応用化学連合の命名法により、金属元素の語尾にも「ium」をつけようということになっているのだそうだ。ネット情報とはいえ、ラテン語である、国際○×連合の命名法である。
「なるほど」と言わざるを得ない。
「黄砂の多くは中国内陸部タクラマカン砂漠から舞い上がり偏西風に乗って三月から五月くらいに日本に飛んでくる。黄砂と言ってもその粒子は一〇〇〇分の二から五ミリメートルくらいで、砂と言うより土の粒子くらいの大きさでっす」
ユートは書き上げたものを満足気に読み上げる。
「なんだ。それで終わりか?」
「ウチのお父さんはゴビ砂漠をゴミ溜め砂漠と呼んでいますが、どちらかと言うとタクラマカン砂漠から飛んでくることが多いでっす」
「要らんことは書かんでいいでっす」
「じゃ、あと何書けばいい?」
「アジアの地図でも書いて砂漠の場所でも示しておけば?偏西風ってなんだか分かるか?」
「分かんない」
 俺だってわからない。調べてみろと言う前に、あいつの親指は素早くフリックしはじめた。

 そんなあいつがまさか新元素を合成することになるとは。あの頃の俺には夢にも思わなかった。名前はもちろんユートニウム。元素番号一二一番。髭面の中にも瞳のまわりにあの頃の面影を残す記者会見で、夏休みに親父と自由研究について話をしたことがきっかけだったと感謝の言葉を付け加えた。
そうだったろうか。
 ユートは高等学校を卒業すると、俺が散々に文句を言い続けた黄砂に関する研究を続けるべく、それを専門にする数少ない大学の環境学研究科で大気環境学を学んでいたはずだ。一体いつから実験物理学へと転身したのか。黄砂を研究していた頃には単身タクラマカン砂漠にも足を運び、現地の研究者とも交流を重ねた。中国国内では黄砂という言葉は一般的でなく砂塵天気と呼ばれる。その中でも規模の激しいものは砂塵暴天気と呼ばれ、黄砂とともに吹き荒れる強い風により死者も出るという。車を汚されただけで文句を垂れているこっちの状況とは比較にならない。ユートは、わがままな親父の小言につき合わされていたことに気づき、研究分野を変えたのだろう。それでも彼の地に魅せられたのか、新元素の合成は中国内陸部に設置されたワンリーライナックと呼ばれる巨大な線形加速器によって成された。
 日本人科学者によるその研究成果は、久しぶりに前向きなニュースとして取り扱われ、ほんの少しだけ視聴者を明るい気持ちにさせた。実は、ユートニウムに合成に関する話は、五年も前からあいつに聞かされていた。聞かされたと言ってもメールでの連絡だ。真っ先に俺に伝えたかったと。でも、論文化されて記者会見が行われるまでは黙っていて欲しいと。なんだか狐につままれたような気持ちになったが、ようやく記者会見でテレビ画面に映し出された時には、思わず記者たちと一緒に小さな拍手を送ったものだ。それでも胸を弾ませて喜ぶことはできなかった。単に新元素合成に対する意義が理解できなかったからだろうか。
 二人で自由研究の相談をしたあの夏から三〇年が過ぎたことになる。一時期、この国は着実に戦時体制を整えていると国民は危惧していたが、この島国を挟む国どうしは相変わらずのにらめっこを続け、国内政治はエラー連発で停滞している。かつては「記録に無い」「記憶に無い」「怪文書みたいなものじゃないですか」が流行であったが、近年では「素人ですから」「これからきっちり向き合っていきたい」「しっかりお役所の原稿を読ませていただく」が主流になった。どこまでも軽くなろうとする政界で開き直って胸を張る。それでも俺たちはまだ彼らを追い出すことができない。
問題は彼らに限ったことではないのだ。特にここ数年、全てにおいてやる気がでない。春先になると、なんだかとてもいい気分がして、目尻が垂れる。かといって口角を持ち上げることすら億劫だ。誰もが夢遊病者のように街を徘徊するようになった。
「母さん、今年も気持ちのいい春が来たね」
「私は、あなたのお母さんではありません」
 そいつは困った。
 俺は車のボンネットを覆う黄砂を指で拭い、ぺろり舌先で舐めてみる。黄砂の鎮静作用には数年前から気づいている。もちろん、それは黄砂粒子そのものの作用ではない。二から五マイクロメートルの黄砂粒子に吸着した一オングストロームの粒子たち。黄砂が特に多く日本にやってくる春先、俺はユートの暮らす遥か向こうの大陸に目を細める。同じ頃、ワンリーライナックの稼働は最盛期を迎える。



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