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(1)

 部屋の隅に置いた有明ありあけ行灯あんどんの火が、不完全燃焼を起こしているらしく、火皿から黒い煙が細い帯のように立ち昇っている。それが悪臭を放つせいで、葉よう次じも連れの女も、息を吸うときは口からでなければならなかった。うっかり鼻呼吸しようものなら、青生臭い脂の臭気に粘膜を刺激されて嘔吐えずきそうになる。泊まっているのは一泊二食付で一人百文程度の安宿だ。廉価な魚油ぎょゆを用いるのは仕方がないことではあったが、これでは半分悪夢に魘うなされているようなものだと、葉次は不満だった。

二人はしばらく裸のまま布団に横たわっていたが、やがて女の方から葉次に絡ませていた腕をそっと抜き取った。それから、蛇のように滑らかな動きで上半身を起こし、葉次に背を向ける形でその場に端座した。外箱の上にのせた火ひ袋ぶくろから漏れる灯りが、女の腰から臀部までを仄かに黄金き色いろく染め上げる。それでもなお青白く見える女の肌を、汗が筋を引いて流れていった。

葉次は視線を、その露になった部分から上方へと移動させ、長い黒髪に隠れた肩のあたりを遠慮がちに眺めた。

 女は畳の上に脱ぎ捨ててあった絹の長襦袢を手に取る。腰のあたりで襟を整えて持ち直し、右手首を二度ほど回しながら片袖を持ち上げていく、その仕草のたおやかなこと。とても自分より六歳も下だとは思えない。

「ちょいと待ちな」

 それまで黙って様子を見守っていた葉次が、やにわに声を発した。

「はい、なんでございましょう?」

女は絹きぬ衣ころもを持つ手を止め、後ろを振り返りかける。

「いや、いい。気にしないでくれ」

 一寸置いて、藪蛇になるのはご免とばかりに、葉次は己の好奇心を制した。

ところが、女は葉次の内心を見透かしたらしく、羽織りかけていた襦袢を腰元に落とすと、髪を片側に寄せて見せた。

「これが気になるのでございましょう」

女の背には、天鵞絨びろうど色いろの扇を幾重にも重ねたような文様が入っていた。一枚の扇は銭貨せんかほどの大きさで、着物の襟で隠れるぎりぎりの箇所から、肩甲骨の半ばあたりまで続いている。末尾の一枚はまだ色を入れている途中なのか、他のものよりやや薄く感じられた。

葉次は観念して、先刻引っ込めた問いを口にした。

「それは、入れ墨か?」


(2)

 話は半刻ほど前まで遡る。葉次は薬箱で角ばった風呂敷を背負い、夕暮れ時の宿場町しゅくばまちを歩いていた。薬屋を営む父の遣いで、隣町の茶屋まで塗り薬を届けた帰りであった。

「そろそろ置き薬が切れる頃合だろう」という父親の予測どおり、茶屋のばあさんが常用している軟膏は残りわずかとなっていた。

薬の補填をしてやったあと、ばあさんの長話に付き合っていたら、すっかり遅くなってしまった。また一月ひとつき後くらいに訪ねるという約束をして、葉次は急ぎ足で茶屋を後にした。

 月に一度の訪問は、もとは父の仕事だった。しかし三月みつきほど前から、足腰が痛むと云いって遠出を渋る父に代わって、葉次が出向くようになっていた。それをいいことに、彼は毎回適当な女を旅はた籠ごに連れ込んでは、一夜の享楽に耽っていた。

 しかし、この日はなかなか目ぼしい女が見つからない。「今日のところは飯盛女めしもりおんなのいる宿でも取ろうか」と葉次はあきらめ半分で細い路地に入った――。

その直後、いきなり背後から腕を引かれた。とっさにその手を振り払い、脇差わきざしの鯉口こいぐちを切りながら振り返った。物もの盗とりかと思って薄闇に目を据えると、意外にも相手は女であった。頬かむりをしているので相貌ははっきりしないが、見た感じ齢よわい十七、八といったところか。

「何者だ」

腰刀にかけた手はそのまま、葉次は誰何すいかした。女だからといって侮れない。虫も殺さぬ顔をしていると思って油断したら、美人局つつもたせや掏摸すりであったという話もよく耳にする。それにさっき、茶屋のばあさんから、「ここ数カ月、近くの町で若い男の変死が相次いでいるらしい」という話を聞かされたばかりだった。呆ぼけ老人の話すことだから鵜呑みにはできないが、用心するに越したことはない。

「事情があって名は名乗れませぬ。ですが、あなた様に危害を加えるつもりもございません。ただ、何も云わずにこの身を匿かくまって下さる方を探しております」

 女は葉次の顔と腰元を交互に見やりながら、押し殺した声でそう云った。その様子を見て、葉次は「おや」と思った。女の声はか細く震えており、心なしか顔も青ざめているように感じられたからだ。はて、このように気弱な女に盗人ぬすっとがつとまるだろうか。芝居を打っていないとも云いきれないが、どうもそうは見えない。

「いくら怪しくないと云われても、名は名乗れぬ、事情も説明できぬときちゃあ、信じろって方が無理な話だ」

「おっしゃるとおりでございます。ですが、わたくしにはお願いするより他に手立てがないのです」


(3)

「そうは云われても……」

 盗人の類でないなら、新参の私娼が逃げ出して来たか。人ごみに紛れるためか着ているものは質素であるが、なるほど器量は良さそうだ。葉次は思案顔で、娘の涼しげな目元や椿の蕾に似た唇を検あらためた。まさか、遊女の足抜けではあるまい。廓くるわから脱け出すのは至難の業だと聞いている。それに、この女の喋り方、高貴な家の出であるに違いない。このように考えを巡らすうちに、先ほどまでの警戒心もいくらか薄れ、下心すら湧いてきた。

 ところが、女は葉次の沈黙を返答と受け取ったらしく、「わかりました、ここはあきらめます。無理を申し上げてすみませんでした」と、もと来た道を引き返し始めてしまった。

「あっ……ちょ、ちょいと待ちな」

考える暇もなく葉次は女を引き留めていた。  

「どこへ行く気だい?」

「さあ。とにかく、他に人を探すしかありません」

 別の男の存在が見えた途端、葉次はこの女を手放すのがどうにも口惜しくなった。そこで、一抹の不安を抱えたままではあったが、女を連れて適当な宿を取ることに決めた。

 夕餉ゆうげを済ませて二人きりになると、葉次はさりげなく帯をゆるめながら、どうやって女を押し倒そうかと頭を悩ませた。女の身の上があやふやな以上、下手に迫るのは危険だ。葉次はひとまず着物を解とき、用意されてあった布団の上に横たわった。すると、女がごく自然な動きで隣に寄り添ってくるではないか。ためしに手を腰に回してみると、自ら身体からだを密着させてきた。

「かまわないのか」

 女は頷き、上目遣いに見つめ返してくる。その下瞼の粘膜が、充血してうっすらと桜色に染まっていた。

 

「入れ墨ではなく本物の鱗うろこだと云ったら、信じて下さいます?」

「まさか」

 葉次は鼻で笑い飛ばした。

「あら、さっき触れられたときに、何かお気づきになりませんでした?」

 女は意外そうな顔をすると、正面に向き直り、手際よく襦袢を羽織って立ち上がった。袖を通して腰紐を結ぶと、またもとの位置に腰を下ろす。それから、側に脱ぎ捨ててあった着物を探り、中から柘植つげの櫛くしを取り上げた。

「気づくって、何に――」

 云いかけて、「たしかに、彫り物にしては妙な手触りをしていたな」と思い出した。前から抱きしめた折に触れたその場所は、硬くざらつき、わずかにぬめりを帯びていた。それで、皮膚病でも患っているのかと薄気味悪くなり、女に気取けどられないようにこっそり確認したら、堂々と入れ墨が彫ってあったのでぞっとしたというわけだ。

なるほど、鱗であれば納得がいく。しかし、世の中にそんな馬鹿げた話があってなるものか。葉次は元来、化け物や妖あやかしの類を信じない質たちであった。

「もしそれが本物なら、お前さんは物ものの怪けということになるな」

 咳払いをして、葉次はそう応じた。光の鈍くなった銅鏡の前で髪を梳いていた女が、手を止めて首を葉次の方へひねった。

「いいえ。ですが、」そこで、女の右目に妖しげな光が閃いたように見えた。「それに近しい存在ではあるやも知れませぬ」

「初めてこれが現れたのは、」と、女は流し目で自分の背中を見やった。「三月みつきほど前のことでございました」

 聞きもしないのに、女はひとりでに語り始めた。


(4)

 女はさる大名の一人娘であり、その事件が起こるまでは、広大な屋敷で何不自由なく暮らしていた。敷地内には錦鯉が五十匹以上も放たれた大きな池の他に、黄金の鯉が一匹泳いでいるきりの小ぢんまりとした池があった。後者は龍神が棲すんでいるという伝承があり、屋敷の者はもちろん、近所に住む者たちまでもが神聖なものとして崇めていたらしい。

女はこの池をいたく気にいっており、つらいことや悲しいことがあるたびに、水面を覗き込みながら考えに耽るのが常であった。

 あるとき、女の父親がお上かみに不義理を働いたとかで、二千石以上もあった領地をすべて取り上げられることになった。屋敷に住んでいる者たちも近々追い出されてしまうという。

 どうにもこうにも立ち行かなくなり、女は身売りされることになった。幸か不幸か、女は百年に一人の美女と称されるほどの美貌の持ち主であったため、吉原の遊郭が高額の前借金ぜんしゃくきんを提示してくれたのだ。

「お前に我が一族の存続がかかっている。すまんが、耐えてくれ」

 両肩をつかんでそう諭してくる父の手には、痛みを覚えるほど強い力が込められていた。女はそこに、娘を犠牲にせねばならぬ悔しさよりも、「逃げてくれるな」という無言の圧力を感じた。己の行く末よりも、そのことの方が哀しかった。

 その晩、女は件くだんの池の前に屈み込み、文字通り滝のような涙を流した。すると、女のすすり泣く声に呼応するように、黄金の鯉が輝き始めたではないか。望月もちづきよりもまばゆい光を放つそれは、あっという間に涙を伝って女の目の中に入り込んでしまった。

 滝を登った鯉は当然、龍に変化へんげする。

 かくして女は、龍神を右目に宿すことになったのだった。

 

「それじゃ、やっぱりあんたは足抜けなのかい」

 葉次が問うと、女は勿体もったいをつけるようにゆっくりとした動作で頭を左右に振った。

「私はその日のうちに屋敷を出たので、廓には入らずに済んだのです」

「なら、ここまでどうやって生き延びてきたんだい。屋敷から金目のものでも持ち出したか?」

「いいえ、その頃には、屋敷のものは何から何まで持って行かれてしまって、価値のあるものなどひとつも残っておりませんでした」

「それじゃ、一体どうやって」

「龍神を宿したその日から、声が聞こえるようになったのです。それに従っている限りは、米でも金でも必要なものは必要なときに手に入るので、これまで窮することはありませんでした」

 龍神の声は木霊こだまに似た不思議な響きを持っているらしい。すんなり屋敷を出ることができたのも、声の導きによるものだったと。


(5)

 しかしそれ以降、代償のように、女の身体には鱗が現れ始めた。肌を覆う鱗の数は日を追うごとに増してゆき、それにつれて、なんとなく自分の意思が喰われていく感覚もあったという。しかし、自分が自分でなくなる恐怖に怯えながらも、「女郎として落ちぶれるよりは」という打算から、女は龍神の声に自らの運命をゆだねることにした。

 それからまもなくして、女は、直前までの記憶がすっかり抜け落ちた状態で、往来の真ん中に立ち尽くすという事態に陥った。自分がどこにいるのかも、それまで何をしていたのかも思い出せない。どうにもできずに呆然としていたら、近くにいた男が親切に声をかけてくれた。ところが、人の好よさそうな相手の風貌に安心して、言われるままに従ったところ、まんまと手籠めにされてしまった。恨めしいやら情けないやら、いっとき自暴自棄になったが、落ち着きを取り戻してみると、鱗が一枚消えていることに気がついたのだという。

「男の生命力に触れると、一時的に龍神の力が弱まって鱗が一枚消える。そこから七日間は完ぺきに正気を保っていられます。鱗を完全に消し去れば、龍神の支配からは逃れられるのかもしれません。しかし、それだと結局私は路頭に迷うことになります。だからそれよりも、適度に正気を保ちながら、龍と共存していくことを選んだのです」

そう云いながら、女は膝ですり歩くようにして葉次の側に寄ってきた。それから、耳元に唇を近づけてこうささやく。こんなはしたない言葉は口にしたくないけれど、ある程度精力の強い男でないと鱗は消せません。実はあなたを選んだのも、絶倫だというお噂を耳に挟んでのこと。

「さっき、一枚だけ鱗が薄くなっていたのにお気づきになられまして?」

「ああ」

「あともう少しで消えそうなのです。龍神の息遣いが乱れている今が好機。どうか後生ですから――」女は白蛇のような腕を葉次の首に這わせて乞う。「私をお助けになると思って、もういちど……」

 ほんの一瞬、葉次は妙な感じを覚えた。しかし、女の胸元から匂い立つ麝香じゃこうの香りに目が眩むと、あとはもう我を失ったように女の湿った肌に貪りついた。

幾度目かの絶頂を迎えた末、ついに男は精根尽き果て動かなくなった。半開きの瞼は隈くまで縁取られ、つややかだった肌は杉木すぎきの表面のように乾きひび割れている。

 その隣で女がむくりと起き上がった。背中の鱗は、消えてなくなるどころか、むしろ先刻よりも濃くなっている。そしてその向こう、女の影を映し出しているはずの壁一面に、黒く巨大な龍の影が、螺旋を描くようにして蠢うごめいていた。


この本の内容は以上です。


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