目次

閉じる


(1)

 やけに視界が狭いと思ったら、制服とまちがえて着ぐるみを着てきてしまったらしい。教室の窓ガラスに映ったピンク色のうさぎを見て、ぼくはようやくそのことに気がついた。

いくら自由な校風で有名な高校とはいえ、着ぐるみはさすがにまずいだろう。一限目が終わったら、保健室まで替えのジャージか何かを借りに行こうか。

 しかし、何だか妙だ。クラスメイトはおろか先生さえ、ぼくの服装のことに触れてこないのはなぜだろう。自分の友だちや生徒が突然着ぐるみで登校してきたら、驚くなり突っ込むなりしそうなものだが。

 ためしに消しゴムを落としてみた。

「落としたよ」と隣の席の女子が拾い上げてくれる。礼を言って受け取ると、彼女は何事もなかったかのようにノートを取る作業に戻った。ピンク色の布に包まれた手に触れたというのに、無反応だった。

 休み時間に入ってクラスメイトと談笑している間も、まるで全員が裏で示し合わせているみたいに、着ぐるみのことは完全にスルーされていた。あまりにみんないつもどおりなので、そのうち、自分は裸の王様なんじゃないかという気さえしてきた。

結局、着替えに行くことのないまま、昼休みを迎えてしまった。

その日、掃除当番に当たっていたぼくは、いつものメンバーで弁当を食べたあと、クラスの男女三人と教室の清掃に取りかかった。床を掃いて机の上や窓などを拭くだけなので、四人で手分けすれば十五分とかからない。手早く済ませてしまおうと、ぼくは教室後方にある掃除用具入れからホウキを取り出した。

掃き始めてすぐ、ある異変に気がついた。床がやけに砂っぽいのだ。気のせいかと思って上靴の底をこすりつけると、歯で金平糖を噛み砕くのに似た感触を覚えた。

うちの学校は一階のロッカーで上靴に履き替える規則になっている。本来ならば砂土が教室に持ち込まれることは有り得ない。さては、誰か校則を破って土足で教室に上がっているな。あとでこっそり犯人探しをしてやろう。

密かにそんなことを企みながら砂をかき集めた。ところが、隅の方にどんぶり一杯分ほどの砂山を作っても、一向に足元のざらつきはなくならない。やはり何かがおかしい。

脇の下に冷や汗が滲んでくるのを感じながら、それでも手を動かし続けていると、一緒に掃除をしていた男子の一人が、

「なあ、いつまでやってんの。もういいだろ? さっさと捨てて遊びに行こうぜ」

 と声をかけてきた。それから、ぼくの足元に屈んで、チリトリを構えてくれる。

「でも、まだ砂が……」

 と、ほとんど混乱状態で訴えると、

「砂? なんのこと?」

 と、彼は怪訝そうに首を傾げたのだった。


(2)

 午後の授業が始まってまもなく、テレビの砂嵐をきめ細かくしたような音が聞こえ始めた。音はガラス一枚を隔てた曖昧さで響いてくる。発信源を探してきょろきょろするうちに、自分の机の上が砂まみれになっていた。そこでやっと、着ぐるみの中から砂がこぼれていることに気がついた。

 なるほど、砂が詰まっていたのか。どうりで体が怠かったわけだ。

 ぼくはペンケースの中からカッターを取り出して、両方の手首の辺りに切れ目を入れた。そのまま腕をだらりと垂らして砂を床に排出する。どうせみんなには見えていないのだから問題ないだろう。

しかし、予想に反して倦怠感はひどくなっていった。やがて、視界を埋め尽くすような眠気がやってきた。

「おい、×××」

先生や友だちに起こされて、何度も「はっ」となりながら、ぼくは眠りの波に揉まれていた。

「体調が悪いなら保健室へ行きなさい」

 何度目かの息継ぎの際、先生からそう促された。

 保健係の女子に付き添われて保健室へ向かったが、着いてみると中は無人だった。鍵が開いていたので、彼女の勧めでとりあえずベッドに横になる。

「着ぐるみなんて着てるから気分が悪くなるのよ」

 吐き捨てるようにそう言って、女子生徒は立ち去った。なんだ、やっぱり気づいてたのか。

「……脱いだら楽になるのか?」

 藁にもすがる思いでベッドから脱け出し、すぐ近くにあった全身鏡の前に立った。じっくり観察すると、着ぐるみのうさぎは瞳孔が開ききっているように見えた。

 チャックがなかったらどうしよう、と恐る恐る背中を向ける。そこにはきちんと銀色のファスナーがついていた。右手を上から背後に回すと、ギリギリつまみに指先が届いた。あとは下に引っ張ればいいだけなのに、なぜか体が動かない。

 悪寒のようなものを感じながら、ぼくは強引に指に力を込めた。思いのほかファスナーの滑りがよかったせいで、勢いがあまってしまった。穴の中にずっぽり埋まった手にパニックを起こし、叫びながら背中を鏡に映したら、中は完全な空洞になっていた。

 ――あ。

 気づくと同時に、着ぐるみは紙のようにぺしゃりとつぶれてしまった。

 

   *

 

 天井から水のように滑らかに砂が流れ落ちてくる。それはアメーバのように自由な動きを表現しながら、丸や三角といった図形を作ったり、尖ったり、塊になったり、立体化したり、人型になったり、赤や青に変色したり、内側から膨らんだり、萎んだり、風に乗って舞ったり、花火のように放射したり、浮いたり、沈んだり、熱を持ったり、光ったりと、目まぐるしく変化を続けていた。


この本の内容は以上です。


読者登録

水流苑まち(つるぞの・まち)さんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について