閉じる


はじめに

《電子書籍化にあたって》

 この電子書籍は、著者である亀仙人が開設しているブログ「マルクス研究会通信」に連載したものをそのまま電子書籍化したものです。電子書籍化にあたり重複するところを削除したり、誤植等を訂正していますが、ブログ掲載の形式はほぼそのまま受け継いでおり、やや読みにくいところもありますが、その点、ご了解ください。
 また著者自身の、その後の認識の深まりにもとづいて、一部分ですが書き加えたり、書き換えたところもあります。その点、ブログと若干異なる点もありますが、電子書籍のものが最新のものとご理解ください。


『資本論』第3部草稿(現行版第5篇)の研究(29-1)

『資本論』第3部第1草稿・第5章(現行版・第29章「銀行資本の構成部分」)の解読

   〔大谷禎之介《「銀行資本の構成部分」(『資本論』第3部第29章)の草稿について--第3部第1稿の第5章から--》(『経済志林』63巻1号収載)の訳文を利用〕

 

 

 第28章該当部分の草稿の解読は、電子書籍として一まとめにしたことでもあり(これは、「マルクス研究会通信」と「『資本論』学習資料室」というブログに「リンク」を貼ってあるので、そこからダウンロードできる)、今回から引き続き第29章該当部分の草稿の解読を開始する。これから紹介するものも、以前、私が所属していたマルクス主義同志会(以下、「同志会」と略。なお現在、この組織は名称を変えているが、これを書いた時点のものをそのまま使うことにする)の支部における学習会のレジュメとして提出したものである。ただし学習会そのものは、何時ものことながら、第28章と同様に、最後まで行かないうちに頓挫してしまった。なお、発表するものは、支部に提出したレジュメそのものではなく、必要な手入れをしてあることはいうまでもない。

 

《はじめに》

 

 2009年11月に開催された関西労働者セミナーのテーマは、「恐慌の歴史を学ぶ」であったが、同志会の代表であった林紘義氏の報告「08年金融恐慌と現代資本主義」をめぐって一定の論争があった。それはサブプライム・ローンの証券化をめぐる問題であった。林氏はそれを国債を例に上げて、説明したのに対して、亀仙人は、それはマルクスがいうところの架空資本として捉えるべきだと主張したのであるが、林氏は国債は架空資本ではない、国債を資本還元しても無意味だと主張し、ここに一つの論争問題が発生したのであった。
 これは『資本論』の第29章でマルクスが論じている架空資本の理論を如何に理解するかということと直接関連しており、その後、林氏は自説を擁護して機関紙『海つばめ』No.1110とNo.1111で自らの主張を展開したのであるが、亀仙人は林氏の『資本論』の理解は間違っていると主張したのである(この『海つばめ』の記事に対する批判は、「マルクス研究会通信」で別途連載している「林理論批判」のなかで紹介している)。そこで、私の所属していた支部では、自分達で『資本論』をしっかり研究して、果たして何が正しいのかを学ぶことが何よりも重要であることを確認し、支部として第29章を理論活動として取り組むことにした。そして、以前にもマルクスの草稿の第28章該当部分を詳しく支部として学習会を行なって研究した経緯もあり(そのときも同志会内でこの部分の解釈をめぐって一定の論争があった)、今度も、やる限りは、エンゲルス版ではなく、マルクスの草稿そのものを学習しようということになった。以下は、そのためのレジュメである。このレジュメは第28章該当部分のそれと同様に、極力、『資本論』のそれ以前に出てくる問題についても、関連する限りで、分かりやすく解説しながら、説明することにしたいと考えている。また第28章該当部分の学習のレジュメと同じように、各パラグラフごとに解説していくことにする。

 

《第29章の位置》

 

 われわれは、まず草稿の第29章該当部分は、『資本論』の第3部草稿(「主要草稿」とも「第1草稿」とも呼ばれている)の第5章(エンゲルス版では第5篇)「利子と企業利得(産業利潤または商業利潤)とへの利潤の分裂。利子生み資本」(エンゲルス版の表題「利子と企業者利得とへの利潤の分裂。利子生み資本」)のなかでどういう位置を占めているのかを確認することから始めることにしたい。
 大谷禎之介氏は、その法政大学での最終講義(経済志林 72(4), 19-20頁)のなかで、以下のような第5章の全体の構成を明らかにしている。

 

第5章の構成

A.  利子生み資本の理論的展開

  I .利子生み資本の概念的把握

  (1) (草稿:「l) 〔表題なし〕」) (エンゲルス版:「第21章 利子生み資本」)
  (2) (草稿:「2)利潤の分割。利子率。利子の自然率」)(エンゲルス版:「第22章 利潤の分割。利子率の「自然」率」)
  (3) (草稿:「4) 〔表題なし,4は3の誤記〕」) (エンゲルス版:「第23章 利子と企業者利得」)
  (4) (草稿:「5)利子生み資本の形態における剰余価値および資本関係一般の外面化〔5は4の誤記〕」) (エンゲルス版:「第24章 利子生み資本の形態での資本関係の外面化」)

 II. 信用制度下の利子生み資本の考察(草稿:「5)信用。架空資本」)

  (1) 信用制度概説
   (a) 信用制度の二側面とその基本的な仕組み(エンゲルス版:「第24章 信用と架空資本」の初めの約4分の1)
   (b) 資本主義的生産における信用制度の役割(エンゲルス版:「第27章 資本主義的生産における信用の役割」)
  (2) 信用制度下の利子生み資本(moniedcapitaI)の分析
   (a) monied capitalをめぐる概念上の諸混乱(草稿:「I) 〔表題なし〕」) (エンゲルス版:「第28章 流通手段と資本。トゥックとフラ一トンとの見解」)
   (b) monied capitalの諸形態。架空資本としてのmoniedcapital(草稿:「II) 〔表題なし〕」) (エンゲルス版:「第29章 銀行資本の構成部分」)
   (c) 実物資本との関連におけるmoniedcapitalの分析(草稿:「III)〔表題なし〕」) (エンゲルス版:「第30章 貨幣資本と現実資本 I 」.「第31章 貨幣資本と現実資本II」.「第32章 貨幣資本と現実資本III」)
  (3) 地金の流出入。信用システムの貨幣システムによる被制約性(草稿:ノート「混乱」のあと,本文として書かれた部分) (エンゲルス版:「第35章 貴金属と為替相場」)

B. 利子生み資本にかんする歴史的考察(草稿:「6)先ブルジョア的なもの」) (エンゲルス版:「第36章 先資本主義的なもの」) 

 

 つまり大谷氏によれば、第5章は大きく分けて、〈A. 利子生み資本の理論的展開〉と〈B.利子生み資本にかんする歴史的考察〉に分かれ、さらに前者は〈I .利子生み資本の概念的把握〉と〈II. 信用制度下の利子生み資本の考察〉とに分かれる。そして後者は、さらに三つの部分〈 (1) 信用制度概説〉〈 (2) 信用制度下の利子生み資本(moniedcapitaI)の分析〉〈 (3) 地金の流出入。信用システムの貨幣システムによる被制約性〉に分かれるのであるが、このうち(2)の部分は、マルクス自身による I 、II、IIIの表題なしのローマ数字による番号が打たれた部分に分けられている。第29章該当部分は、このうちのIIに当たるわけである。その内容を大谷氏は〈monied capitalの諸形態。架空資本としてのmonied capital〉としている。
 こうした第5章(篇)全体の構成の捉え方は、その内容に即して考えるに妥当なものと言うことができる。ここで注意が必要なのは、の〈 I .利子生み資本の概念的把握〉については、マルクス自身によって、 (1)(4)の節番号が打たれ(但し、上記に説明されているようにマルクス自身は番号を打ち間違っているのであるが)、 (2)(4)にはマルクス自身による表題も書かれており、全体としてこの部分はかなりの程度まで完成されており、エンゲルスはそれを第21章~第24章として編集したのである。それに対して、の〈 II. 信用制度下の利子生み資本の考察〉の部分は、マルクス自身によって〈 5)信用。架空資本〉と表題が書かれていて、 IIIIの項目番号が付けられているものの、マルクスが資料集めのために書きつけたものも色々と間に挟まっており、エンゲルスが第3部の編集でもっとも手こずったところなのである。エンゲルスが編集に手こずった主要な理由は、その部分のマルクスの草稿の完成度が低かったからでもあるが、それ以上に、エンゲルスがアイゼンガルテンによる聞き書き稿をもとに編集したからであると大谷氏は指摘している。つまりマルクスの草稿ではテキスト(本原稿)の部分と資料集めのための部分とが区別できるようになっていたのに、それを無視して編集用の聞き書き稿を作ってしまったからだというのである(テキストとして書かれたものは、原稿用紙を半分に折って、折りあとで上下に区別し、上半分に本文を、下半分には原注や補足を書いているのに対して、資料集めのために書いたものは、折りあとを無視して、上下びっしり書いているということである。エンゲルスはこのマルクス草稿の特徴を理解しなかったようだと大谷氏は推測している。どうやら第3部草稿を刊行したMEGAの編集部もそれを理解していなかったようでもある)。だからエンゲルスは本来は資料のために書いている部分も第25章の後半や第26章第33章第34章の全部、第35章の一部に採用して、一つの章を作り上げるというような操作をやってしまっていて、マルクスの草稿の展開を見えにくくしてしまっているわけである。
 だからマルクスが〈 5)信用。架空資本〉と番号を打って表題を書いた部分は、エンゲルス版の第25章~第35章全体を含むものだったわけである。ところがエンゲルスは、この表題を第25章の表題として採用して〈第25章 信用と架空資本〉としたのであったが、しかし草稿ではこの部分では架空資本についてはほとんど論じていなかったのである。だからエンゲルスはマルクスが資料として書きつけた部分から架空資本について言及したものや、エンゲルスが独自に集めたものを加えて、この第25章を作り上げているわけである。
 しかしマルクスの本来の意図は、エンゲルスが第25章~第35章に分けた部分全体の表題として〈信用。架空資本〉を考えていたのである。この部分でマルクスが課題としたのは、大谷氏が指摘するように〈信用制度下の利子生み資本の考察〉であった。この課題については、現行版の第27章の最後のあたりでマルクス自身によって次のようにいわれている(但しこの部分もエンゲルスによって手が入れられて、現行版では、マルクスの本来の意図が正しく伝えていないので、われわれは草稿を見ることにする)。

 

 〈これまでわれわれは主として信用制度の発展{そしてそれに含まれている資本所有の潜在的な止揚を,主として生産的資本に関連して,考察した。いまわれわれは,利子生み資本そのもの{信用制度による利子生み資本への影響,ならびに利子生み資本がとる形態}の考察に移るが,そのさい総じて,なお若干のとくに経済学的な論評を行なわなければならない〉(『経済志林』52巻3・4号(43)-(44))

 

 マルクスがここで〈これまで〉と述べているのは、現行版で第27章に該当する部分であり、先の大谷氏の第5章(篇)全体の構成で見ると、〈 (1)信用制度概説〉の〈 (b) 資本主義的生産における信用制度の役割〉の部分なのである。そして〈そのさい総じて,なお若干のとくに経済学的な論評を行なわなければならない〉とマルクスが述べているのは、マルクス自身が I と番号を打った部分、大谷氏によると〈(a) monied capitalをめぐる概念上の諸混乱〉にあたり、現行版では〈第28章 流通手段と資本。トゥックとフラ一トンとの見解〉に該当するわけである。
 だからわれわれがこれから検討する第29章該当部分(つまりマルクス自身がIIと番号を打った部分)は、ここでマルクスが〈いまわれわれは,利子生み資本そのもの{信用制度による利子生み資本への影響,ならびに利子生み資本がとる形態}の考察に移る〉と言っている問題が、最初に本格的に取り組まれている部分なのである。
 大谷氏は、この第29章該当部分の解説のなかで、〈第5節の表題は「信用。架空資本」でしたが,マルクスがここに「架空資本」 と書いていたのは,エンゲルス版第25章の部分ではなくて,ここのところ(IIと番号が打たれたところ--引用者)で銀行資本の架空性を明らかにすることを念頭に置いていたものと考えられるのです〉(前掲最終講義31頁)と述べているが、確かにそう考えられなくもないが、しかしマルクス自身は「5) 」全体の表題として〈信用。架空資本〉を考えていたのであるから、この表題にある〈架空資本〉がII(第29章該当部分)だけに妥当すると考えるのは必ずしも正しくないだろうと思う。やはりマルクス自身は、〈利子生み資本そのもの{信用制度による利子生み資本への影響,ならびに利子生み資本がとる形態〉として〈架空資本〉こそがもっとも重要なものだと考え、それこそが考察の対象であり、解明されなければならない問題であると考えていたと捉えるべきではないかと思うわけである。この点、大谷氏の位置づけは若干物足りない面が残るのである。

  同じことはマルクスが〈III〉と番号を打った部分の課題についても言える。大谷氏はこの部分の課題を〈実物資本との関連におけるmonied capitalの分析〉として、次のように述べている。

 

 〈ここでマルクスがなにをやっているかと言えば,要するに,monied capitalがどのようにreal capitalから自立して運動するか,real capitalにどのように反作用するか,それにもかかわらずreal capitalによってどのように制約され,規定されざるをえないか,ということを資本の運動の時間的経過のなかで観察し,解明するということなのですね〉(同32頁)

 

 確かに大谷氏の説明は、その通りであり、なにも間違っているわけではないのであるが、しかし、この部分でマルクスが追究しているものの説明としてはやはり物足りなさは否めないのである。マルクスが解明しようとしているのは、現代資本主義でも大きな問題になっている金融バブルの理論的解明なのである。マルクスは〈 5) 〉と番号を打った部分全体の表題を〈信用。架空資本〉と書いたということは、まさにこの部分全体で解明しようとしたのはこの課題(金融バブルの解明)だったと言えるであろう。それは信用制度のもとで利子生み資本の形態が生み出した“幻想的な怪物”であることを明らかにし、それが不可避に破裂、崩壊せざるをえないことを論証することだったと言えるのである(だから同じように、バブルの崩壊を論証している第35章該当部分の大谷氏の説明にも一定の物足りなさを感じざるをえないのである)。

 その意味では、“サブプライム金融恐慌”に代表される現代資本主義を理論的に解明することを課題とするわれわれが徹底的に研究し、そこから学ぶ必要のあるところもまさにこの部分なのである。現代資本主義に特徴的な金融バブルを解明するキーワードは「架空資本」であり、その概念が解明されているのが、すなわちこれからわれわれが学習する第29章該当部分なのである。そうした重要な位置づけを確認して、次からその内容に踏み込んで研究し、学んで行くことにしよう。


『資本論』第3部草稿(現行版第5篇)の研究(29-2)

『資本論』第3部第1草稿・第5章(現行版・第29章「銀行資本の構成部分」)の解読

 〔大谷禎之介《「銀行資本の構成部分」(『資本論』第3部第29章)の草稿について--第3部第1稿の第5章から--》(『経済志林』63巻1号収載)の訳文を利用〕

 

 

《大谷氏の「前書き」について》

 

 大谷氏の草稿の翻訳文(『経済志林』)には、大谷氏自身による前書きが書かれている。この前書きについても、一言論じておくことにしたい。
 まず大谷氏は〈「架空資本」の意味ないし内容について〉は、以前にも論じたと書いている。これは《 「信用と架空資本」(『資本論』第3部第25章)の草稿について(上) 》(『経済志林』第51巻第2号)に掲載されたものであり、これから「架空資本」について研究するわれわれにとっては、やはり興味深いものと言える。しかしその内容は、ほとんどわれわれがこれから検討する第29章該当部分の草稿に対する大谷氏自身による考察である。よって、これについては、マルクス自身の書いた本文を段落ごとに検討するのであるから、その中で必要に応じて検討することにしよう。
 大谷氏は、この以前論じたものの要点を、6点にわたってまとめている。このうち(1)、(2)、(3)、(4)については、すでに最初のレジュメでも紹介したので検討は省きたい。ただ(4)に関連して、少しだけ書いておきたい。
 (4)で架空資本という語が出てくるのは〈これ以降III以降--引用者)でもただ数箇所でてくるだけである。だから,この語がどのような意味で使われ,どのような重要性をもっているのかは,これらの部分(つまりIIの部分、29章該当部分--引用者)に示されていると考えるべきであろう〉と述べている。また(6)でも〈 「III」 (「II」とあるのは「III」の誤植--引用者)以降の数箇所に出てくる「架空資本」が,「II」ですでに論じられたそれの範囲内のものであることは明らかであるから,結局,表題「5)信用。架空資本」における「架空資本」の「架空」とは,基本的にこの「II」で明らかにされている架空性と考えられなければならない〉とも述べている。こうしたことから大谷氏は「5) 」の表題の「架空資本」はIIで論じられていると考えたのであろう。しかしすでに述べたように、やはりこうした理解は一定の根拠があるとはいうものの、やはり不十分といわざるをえない。確かに「III」以降でマルクスは「架空資本」についてあまり論じていない(大谷氏が引用しているのは3カ所だけである)。せっかく「III」(すなわち現行版の第30-32章該当部分)における考察の前提として「II」で架空資本について論じながら、肝心の現実資本を何倍も上回って蓄積される貨幣資本の蓄積(蓄蔵)の運動の実際を論じるときに、架空資本の存在についてほむしろ省いて言及しなかったというのは(もちろん、とりあえずは問題を限定するためにこうした措置をマルクスはやっているわけであるが)、やはりこの「III」の部分での考察が十分最後までできなかったからではないかと私は思っている。この「III」については、引き続いて研究する予定なので、これ以上のことは言わないが、それが不十分に終わった大きな理由は、第2部「資本の流通過程」の第3章(現行版では「篇」)「流通過程および再生産過程の現実的諸条件」(現行版の表題は「社会的総資本の再生産と流通」)における拡大再生産論が、第3部の第5章(現行版では篇)を考察している時には、いまだ手つかずだったところにあると私は考えている。特に現実資本の蓄積に必要な潜勢的貨幣資本の蓄蔵が社会的総資本の再生産の観点からどのように関連しているのかということがいまだ未解明だったが故に、それを何倍も上回る架空な貨幣資本の蓄積についても十分論じることができなかったのではなかったかと思うのである(そして「拡大再生産と蓄積」を論じた、第3部第8稿では、まさに現実資本の蓄積と潜勢的貨幣資本の蓄蔵との関連が解明されており、だからそこではこの第3部第5章(篇)でとりかかりながら未解明に終わった問題の幾つかの基本的な解決が与えられていると私は考えている。そしてそれはすでに公表している「第2部第8稿の解読」のなかでも指摘しているので興味のある方は参考にして頂きたい)。そもそも「架空資本」の「架空性」というものも、再生産論を踏まえて始めて明らかになるような性格のものではないかとも私は考えているのである。
 (5)の部分では、この「II」でマルクスが論じている問題の要点をまとめるような内容になっている。だからここで書かれている問題は、これからわれわれがIIの本文を解読していくなかで明らかになる問題である。だから本文を解読する以前に論じるのはあまり適当とは言えない。ただこの部分を頭に入れて本文を読めば、理解に役立つ面がある。だからいくつかの点について今この時点で浮かぶ疑問点を上げておき、それを実際の本文の検討のなかで、検証していくことにしたいと思う。

 (1) 大谷氏は〈 ①いわゆる「利子生み証券」の所有者にとってそれが資本であるのは,つまりいわゆる擬制資本は,収入の資本還元による純粋に幻想的な観念にすぎない〉と述べている。ここで大谷氏は「いわゆる」を着けながらも「擬制資本」という用語を使っている。しかしマルクス自身は少なくとも大谷氏の翻訳文のなかでは「擬制資本」という用語は使っていない。どうして「利子生み証券」を「擬制資本」と大谷氏はいうのであろうか、それは「架空資本」とどう違うのか、それを使い分ける意味はどこにあるのか,こうした疑問を、とりあえずは提起しておきたい。

 (2) で大谷氏は〈手形や他行銀行券をも含めて,自己価値ではない,金にたいするたんなる支払指図であって,純粋に架空なものである〉と述べている。この大谷氏が問題にしている本文の箇所(われわれが付けた段落の番号では【27】になる)も色々と解釈上の問題がありそうであるが、まず大谷氏は〈他行銀行券〉について言及しているが、マルクス自身は何も述べていないこと、また確かにマルクス自身も、〈銀行業者の資本の最大の部分は,純粋に架空なものである〉と述べて、そのなかに〈すなわち債権(手形と公的有価証券)および株式(将来の収益にたいする所有権原,支払指図) 〉と書いており、これを読む限りでは「手形」も〈純粋に架空なもの〉ということになっている(35頁)。しかし他方でマルクスは「手形」を「その他の有価証券」と区別して、両者は〈本質的に区別されるもの〉とも述べている(15頁)。割り引かれた手形は確かに銀行にとっては利子生み証券なのであるが、手形自体(もちろん、それが融通手形のようなものではないかぎりでの話ではあるが)は、〈純粋に架空なものである〉とは言えない(これは大谷氏も同じ意見である)。ではどうしてここでマルクスは〈純粋に架空なもの〉と言っているのか。大谷氏は〈これは,さきの「いわゆる利子付き証券」についていわれていた「架空資本」とは異なる視点からの架空性である〉と述べているのだが(上記に紹介されている第25章該当部分の解説の67頁)、果たしてそうした理解は正しいのかどうかである。これも本文解読のなかで検証しなければならない。

 大谷氏は6項目にわたる要点を説明したあと、次のように述べている。

 

 〈以上のように見ることができるとすれば,表題「5) 信用。架空資本」における「架空資本」とは,「信用とは,架空なものと見つけたり」,といったような意味合いで言われているものではまったくなく,またしたがって蓄積された「貨幣資本」の大部分が,たんに信用から成っているという意味だけから架空だと言われているのでもない。そうではなくて,それは,銀行のもとに形成され運用されているmonied capitalについて,それを構成するものが利子生み資本の成立を前提にし,それによって生み出される架空な貨幣資本の諸形態であることを明らかにするところにあったのだと言わなければならない。〉(4-5頁)

 

 もしこれが「5)」の表題にある「架空資本」の含意されている内容だというならやはり不十分としか言いようがない。しかしその理由については何度も述べてきたので、ここでは論じない。
 ここで大谷氏が言っているように「信用」ならすべて「架空」かというとそうではない。「商業信用」は再生産過程内の信用であり、決して「架空」ではない(だからその内部で流通している限りでの手形も「架空」ではない。ただ銀行によって割り引かれ、銀行が保持する手形については若干違っており--マルクスが「純粋に架空である」と述べているのはこれであるが--、注意深い検討が必要である)。また「貨幣信用」(これは大谷氏によれば、一般には「銀行信用」と言われているものであるが、マルクス自身は「銀行信用」という言葉で別の意味を持たせているという)についても、それが再生産過程外の信用であり、銀行による貸し付けだからすべて「架空」かというと必ずしもそうとは言えない。銀行はさまざまな産業資本や商業資本において遊休している貨幣資本を集中して、それを必要とする資本に貸し付ける機能を持っているが、こうした遊休貨幣資本が現実の商品価値の実現形態であるなら、そしてそれを銀行がただ媒介して貸し付けるだけなら、その貨幣は決して架空ではないからである。なぜなら、それを借りて蓄積する資本家は、それを本来所有している資本家に代わって蓄積を行なうに過ぎず、そこにはどんな架空性もないからである(もっとも銀行の貸し付けは通常はそうしたものに止まらないのであるが)。だから何が架空であるかは、再生産の観点から捉えて始めて明らかになるのである。
 またそのあと「信用。架空資本」の「信用」が一定の制限された内容であり、それは利子生み資本の運動諸形態を考察するに必要なかぎりで考察される「信用制度、銀行制度」を意味している等々と述べられている内容は、その限りではまったく異論のないところである。それでは、いよいよ本文の解読に移ろう。

 

 

《本文の段落ごとの解読》

 

【1】

 

 〈[519]|335上| II.こんどは,銀行業者の資本〔d.banker's Capital〕がなにから成っているかをもっと詳しく考察することが必要である。〉

 

 ここから「II」が始まっているが、しかし、マルクスはこのように、〈こんどは,銀行業者の資本〔d.banker's Capital〕がなにから成っているかをもっと詳しく考察する〉と言いながら、すぐにそれに取りかかるのではなく、次の【2】パラグラフ以降において、「 I 」の、つまりエンゲルス版では第28章に該当する部分のまとめというか、結論を書いている(だから、ここで述べている銀行業者の資本が何からなっているかの考察は、実際には、われわれのパラグラフ番号で言うと、【8】から始まっているのである)。

 ところでどうして、マルクスは、ここから銀行業者の資本が何からなっているかをもっと詳しく考察する必要があると考えたのであろうか。少しこれまでの展開を振り返って考えてみよう。
 「利子生み資本」というのは、その概念は 1)4) (それぞれの詳しい内容は、前回〔29-1〕の最初に紹介した大谷氏の考える「第5章の構成」を参照。これはエンゲルス版では第21~24章に該当する)で明らかにされているのであるが、主要には銀行があちこちから集めた貨幣を産業資本や商業資本に貸し出すものである。だから、 1)4) (第21~24章)で「利子生み資本」の概念を展開したあと、 5)から(この 5)には「信用。架空資本」なる表題が書かれている)実際の「利子生み資本」の運動の考察に取りかかるわけだが、しかしそのためには、利子生み資本が運動する場である信用制度(銀行制度)をまず必要な限りで論じておく必要があった。利子生み資本に「固有の運動」というのは、以前、第28章該当部分の学習会のレジュメの冒頭部分でも紹介したが、「貸借」、つまり「貸し出し」と「返済」である。だからその運動を論じるためには、その実際の貸借を行う銀行などの信用制度も論じなければならないわけである。ただ信用制度そのものの本格的な考察は、マルクスのプランでは『資本論』の枠を超えた、もっと後の部分(これは競争などともに、資本の「特殊」な考察として位置づけられていた)で展開されるべきものなので(だから『資本論』は資本の「一般的」な考察に限定されている)、  5)の最初のエンゲルス版の第25~27章に該当する部分では、利子生み資本の運動を論じるために必要最小限に限って信用制度について論じるとマルクスは断っている(だから第25~27章と言っても、エンゲルスが勝手に付け加えたものを除外すると、本文としてマルクスが論じている部分は、第25章の前半と第27章だけであり、分量としてはわずかであり、内容も簡単なスケッチ程度のものでしかない(もちろんスケッチ程度だからどうでもよいというのではなく、項目的に簡潔に書いているが、それだからこそ極めて重要な示唆が含まれたものである)。こうした草稿の状態も前記の大谷氏の「第5章の構成」を参照して頂ければよく理解できるであろう。
 マルクスは「 I 」と番号を打ったところから、銀行学派の批判を行うのであるが、これはどういう意義があるのであろうか。
 いわゆる通貨学派と銀行学派との論争というのは、簡単にいうと銀行券の発行を制限すべきか、その必要はないかという点を巡っての論争であった。通貨学派はリカードの貨幣数量説にもとづいて、銀行券の発行を金貨幣が持っている貨幣数量の調節作用に合うように制限する必要があると主張したのに対して、銀行学派はその必要はない、というのは銀行券(兌換)は流通の必要以上には流通に出回らないからだと主張したのである。
 信用制度が発展すると、流通に必要な貨幣(通貨)は、基本的には銀行が供給するようになる。銀行が供給するのだから、その限りでは、それは「利子生み資本」の運動なのである。しかしこのことを理解している人は、今日でもほとんどいないと言っても過言ではないほどなのだ。第28章のレジュメでも指摘しておいたが、「通貨をじゃぶじゃぶ供給せよ」とか「貨幣を潤沢に」とか「過剰流動性」だとか、いろいろと今日でも言われているが、それらはすべて直接的にはまず「利子生み資本」の問題なのである。ところが、多くの人は直接に政府によって1万円札(あるいはドル札でも同じだが)がどんどん流通に押し出されていくものであるかに錯覚している(情けないことに、同志会の代表委員である林紘義氏や田口騏一郎氏も同類であり、米国政府が印刷機を回してどんどんドルを世界中にばらまいているなどと考えている)。マルクスは銀行学派が商品市場と貨幣市場との区別が出来ずに混乱していることを現行(エンゲルス版)の第33章でも論じているが、こうした混乱はいまだに自称マルクス経済学者においても見られるのである。
 おっとっと! ついつい脱線してしまったが、本論に返ろう。
 銀行学派が銀行券は過剰発行されることはないと主張する論拠は、例え銀行券が過剰に発行されても、すでに「通貨」が流通が必要とするに十分であるなら、それらはすぐに銀行に返ってきて「資本」の貸し付けに転化するからだ、というものである。つまり彼らは、もっともらしく「通貨」と「資本」との区別をその理由にしたのである。だからマルクスとしては、銀行学派が主張する「資本」の貸し出しというのは、果たして「利子生み資本」という意味での「資本」なのか、彼らはそれを正確に概念として理解した上で、そのように主張しているのかを問題にする必要がある、あるいは「利子生み資本」の運動を科学的に論じる前に、一見すると同じようにmoneyed Capitalとしての「資本」の運動を問題にしているかに見える銀行学派のそうした主張を批判的に論じておく必要があると考えたわけである。そして批判的な検討の結果、銀行学派の言う「資本」というのはただ彼らの銀行業者的な利害に立ったものでしかない(帳簿上彼らの自己資本の持ち出しになるケースを「資本の貸し出し」と称しているだけである)ことを暴露した。だから第28章該当部分(「 I 」の部分)では、マルクスは冒頭のパラグラフで「利子生み資本」という用語を使いながら、この「II」と番号が打たれた冒頭部分、つまり【2】以降の数パラグラフで、銀行学派批判の「結論」を論じるなかで再び「利子生み資本」という用語を使っている以外には(つまり最初と最後でしか使っていない!)、第28章該当部分、つまり「 I 」の本論では、まったく「利子生み資本」という用語は使わずに、ただ銀行学派の主張する「通貨」や「資本」という用語をそのまま使って、実際は、彼らはそれらをどのような意味で使っているのかを明らかにして、彼らの主張の混乱や矛盾をつくという形で批判を展開しているわけである。
 だからこの「II」から、マルクス自身の科学的な概念を使って、問題を本格的に論じることになるわけである。通貨学派や銀行学派は、イングランド銀行や地方銀行が発行する銀行券が手形割引や担保貸し付け等々のさまざまな形で産業資本や商業資本の要請に応じて、貸し出されることを問題にしている。銀行学派はそうした銀行による貸し出しが、好況期と逼迫期とで、流通の二つの分野(「収入と流通」と「資本の流通」)で、どのように変化するかといった問題を論じ、そうしたことも「通貨」と「資本」との区別の問題として論じたわけである。そうした銀行が貸し出す銀行券を論じるためには、一般に銀行業者の資本というのはそもそもどういうものから成っているのかを明らかにしておく必要があるとマルクスは考えている。大谷氏も指摘するように、〈銀行のもとに形成され運用されているmonied capitalについて,それを構成するものが利子生み資本の成立を前提にし,それによって生み出される架空な貨幣資本の諸形態であることを明らかにする〉(前記、前書き)必要があったわけである。そして実際に、銀行から貸し出される貨幣資本(moneyed Capital)が産業循環の局面によってどのように変化するかというような問題はエンゲルス版第30~32章該当部分において(「III」と番号が打たれたところで)問題にされるわけである。そういうわけで、銀行学派批判が終わったあとで、そうした銀行から貸し出される利子生み資本の運動を論じる前に、まずは銀行業者の資本そのものを問題にしなければならないというわけである。

 ところで今述べたように、 【2】以下の数パラグラフは、実際には、第28章該当部分(「 I 」と番号が打たれた部分)と関連したものなのである。ではそれらはどのように関連しているのか、それを少し論じておこう。
 まずこの【2】【7】は大きくは二つに分かれる。 【2】【4】の部分とそれ以降の部分( 【5】【7】 )である。 【2】【4】の部分は、銀行学派批判の結論である。それに対して、 【5】【7】の部分は、銀行学派批判への補足である。マルクスは【5】の最初に〈 I )については,さらに次のような疑問も起こるであろう〉と書き出している。これを見ても、それ以前の部分(つまり【2】【4】の部分)が「 I 」について論じているとの意識がマルクス自身にもあったことが分かる。つまり本来は【4】で、マルクスとしては銀行学派批判(つまり「 I 」の課題)は終わったわけである。しかし「 I 」について、まだ言うべきことがあるとして、付け加えているのが、この【5】【7】の部分なのである。しかも、大谷氏によれば、「この3パラグラフの左側には、インクで上下をやや右に折り曲げた縦線が引かれて、この3パラグラフがひとまとまりのものであることを明示している」(第28章、『経済志林』61巻3号272頁)らしい(しかしなぜかMEGA第II部第4巻第2分冊ではこの縦線が表記されていないのだが)。つまりマルクスとしては、この三つのパラグラフは「 I 」の適当なところに挟み込む予定で書かれたと思われるのである。この点については、以前、書いた第28章該当部分の学習会のレジュメのなかで、それが第28章該当部分の【44】パラグラフの後に挿入されるのが適当であることも述べておいた(ところがエンゲルスも大谷氏も第28章該当部分の最後に、だから【51】パラグラフの後にそれらをくっつけている)。

 このように、これから検討する【2】【7】の各パラグラフについては、すでに第28章の学習会のレジュメのなかで一応の検討は加えてあるわけである。そしてそれらの実際の内容は、第28章で論じているものと直接結びついたものであるから、それらを検討するためには、どうしても第28章の内容に戻る必要が出てくることになる。出来たら第28章のレジュメにもう一度目を通して頂くのがもっともよいのであるが、それも面倒だろうから、出来るだけ第28章の内容を思い出しながら解説していくことにしよう。


『資本論』第3部草稿(現行版第5篇)の研究(29-3)

『資本論』第3部第1草稿・第5章(現行版・第29章「銀行資本の構成部分」)の解読

 

 〔大谷禎之介《「銀行資本の構成部分」(『資本論』第3部第29章)の草稿について--第3部第1稿の第5章から--》(『経済志林』63巻1号収載)の訳文を利用〕

 

 

 (今回は、第【2】パラグラフからの解読であるが、前回も紹介したように、この【2】【7】までのパラグラフは、本来、「 I ) 」で、つまりエンゲルス版では第28章に属するものであり、しかも【2】【4】は、「 I ) 」(第28章)のいわば結論というべき位置にあるのである。だから第28章該当部分の解読を思い出しながら、以下、解説していくことにしよう。なお【5】【7】の解読は次回に回す。)

 

【2】

 

 〈いま見たように,フラートンその他は,「流通手段」としての貨幣と「支払手段」としての貨幣との{地金の流出が関わるかぎりでは,また「世界貨幣」としての貨幣との}区別を,「Circulation」《(currency)》と「資本」との区別に転化させる。〉

 

 ここで〈いま見たように〉というのは、第28章全体を指しているとも捉えることも出来るが、第28章の最後のパラグラフを直接引き継いでいると考えるのが正しいように思える。
その最後のパラグラフ( 【51】 )というのは、次のようなものである。

 

 〈フラ一トン等々が,「購買手段」としての貨幣と「支払手段」としての貨幣との区別を,「 通貨〔currency〕」と「資本」とのまちがった区別に転化させていることはまったく明白である。その根底にはまたしても「Circulation」についての銀行業者の偏狭な観念があるのである。〉

 

 この最後で〈その根底にはまたしても「Circulation」についての銀行業者の偏狭な観念がある〉とマルクスが述べているが、〈 「Circulation」 〉が翻訳されずに、そのままになっている(その前の【2】でも〈 Circulation」《(currency)》と〉と翻訳されないままであるが、この場合は〈 currency 〉とあるから、「通貨」であることは明らかである)。このように翻訳しない理由について、大谷氏は第28章の冒頭のパラグラフにつけた注3)のなかで次のように述べている。

 

 〈3) circulation, Zirkulationは,言うまでもなく「流通」の意味にも,「通貨」の意味にも,さらに銀行用語ではイングランド銀行券の「流通高」の意味に用いられる。そしてこの第28章部分では,この語がこの3つの意味で自在に使われている。エンゲルス版でもZirkulationが,同様にこれらの意味で使われているが,エンゲルスはまたしばしば,これらをドイツ語で(Zirkulationsmittel,Umlaufsmittel,Summe der Zirkulationなどのように)訳し分けてもいる。邦訳ではそれらのそれぞれに,エンゲルスの独訳によったりして,1つの訳を与えている。もちろんそのような訳し分けが不可能であるわけではないが,どちらとも断定できない微妙なケースがあるほか,マルクスが意識的にこの語の両意性を生かしていると考えられるところもあるので,本稿では,草稿でのcirculationまたはCirculationを,この語のまま掲げることにする。〉 (前掲215頁)

 

 ただまあ、われわれとしてはそう言われても、困ってしまうわけであるが、この場合は、恐らく「流通」と訳するのが適当であろうと思える。つまり銀行学派はスミスに倣って、流通を「収入の流通」と「資本の流通」とに分けるのだが、しかしマルクスが批判しているように、こうした分け方はやはり間違っているのである。というのは労働者が彼らの収入を支出して生活手段を購入する場合を「収入の流通」だと言っても、しかしそれは労働者に生活手段を販売する小売業者(彼らも資本である)にとっては、その同じ過程は彼らの商品資本を貨幣資本に転換する過程であり、まさに「資本の流通」でもあるからである。だから流通をこのように分けて考えるのは、スミスに影響された偏狭な観念だとマルクスは言っているわけである(ただマルクスも「商業流通」と「一般流通」に分けて考えているが、これはまた違った概念である)。
 銀行学派たちは、粗雑な観察によって、流通のこの二つの面での貨幣の直接的な違いに注目する。つまり「収入の流通」の場面では、もっぱら鋳貨や少額の銀行券が使われており、それらは主に「購買手段」として機能する。他方、「資本の流通」の場面では、そのほとんどが信用によって取引が行われて、手形や小切手等々が流通し、貨幣はただそれらの相殺の帳尻を最終的に決済するために流通に出てくる。つまり「支払い手段」としてである。だから彼らは「通貨」と「資本」との区別を、流通のこうした偏狭な観念にもとづいて、一方の「購買手段」としての貨幣を「通貨」とし、他方の「支払い手段」としての貨幣を「資本」としたわけなのである。マルクスが言っているのはこのことである。
 またマルクスは〈地金の流出が関わるかぎりでは,また「世界貨幣」としての貨幣との)区別を〉とも述べているが、これも第28章で言及されていたが、地金の流出の場合も、融通された銀行券は地金との交換のためにすぐに銀行に還流してくるのであるが、それを銀行学派はそれは「資本」の貸し付けだからそうなるのだというわけである。それに対して、マルクスは確かに地金を輸出する場合は、それは「資本」として出てゆくのであるが、しかし逼迫期の地金の輸出は、資本を海外に投下するために輸出されるのではなく、むしろ輸出した商品が海外の市場で売れずに在庫として積まれ、そのために国内の輸出産業が資金繰りに困り、銀行からの融通を受けて、それを地金に換えて、支払いを迫られている海外の原材料の輸出業者に支払うために輸出するのであり、そういう場合は、その地金は国際的な決済手段として出てゆくのであり、その限りではそれは「資本」の問題ではなく、やはり「貨幣」の問題なのだ、と批判していた問題のことである。そうした問題をここで結論的に述べているわけである。

 

【3】

 

 〈「資本」がここで演じる役割が奇妙なものであるために,この銀行業者経済学は,かって①啓蒙経済学が,「貨幣」は資本ではないのだ,と念入りに教え込もうとしたのと同じ入念さで,じつは貨幣は②「とりわけすぐれた意味での」資本〔das Capita1“κατ'εξoχην”〕なのだ,と教え込むことになっている。


 ① 〔注解) 「啓蒙経済学Caufgekla吋eOkonomie)」Jという語でマルクスが考えていたのは,金銀の姿態での貨幣を,重金主義者とは違ってもはや唯一の富かつ絶対的商品とは見なさず,せいぜい「資本の最も無関心で最も無用な形態」(〔MEGA,II/4.2,〕S.625.31-626.1)と見なしていたブルジョア経済学者たちのことである。マルクスが啓蒙経済学者としてとくに強調したのはアダム・スミスである。スミスは金銀貨幣を社会の純生産物を減少させるような高価な流通車輪と見なし,この流通車輸はより廉価な流通手段によって置き換えられることができるし,置き換えられなければならないとした。--MEGA,IV/2,S.345,および,「地金。完成した貨幣制度」,MEGA,IV/8,S.7,を見よ。--重金主義者たちと区別しての啓蒙経済学者たちについては,マルクスは『経済学批判。第 1分冊』でも自分の見解を述べた (MEGA,II/2,S.208を見よ。)。そこでマルクスがはっきりと強調したのは,計算貨幣および価値章標としての貨幣が,それとともにまた,さらに進んで信用によって金属貨幣が排除されることが,資本主義的システムの展開とともに金銀は社会的富の絶対的代表者であることをやめる,という幻想に役立つ,ということである。
 ② 〔注解〕 κατ'εξoχην--とりわけすぐれて〔vorzugsweise〕。もしかするとマルクスが考えていたのは,アリストテレスの次の一命題であったかもしれない。--Aristoteles I,9 1256 b 40-1257 a 1 = I,3 ,10 8tahr.
 「ところが,生計術には第2の種類があって,それはとくに(vorzugsweise),また当然,貨殖術と呼ばれ,これによれば富や財産の限界は存在しないように見える。」--『資本論』,第1巻をも見よ。(MEGA,II/5,S.107.30-45 und 108.22-32.〔MEW,Bd.23,S.167.12-40.〕)
 〔MEGAでは,まずアリストテレスからの引用のギリシア語原文が掲げられているが,そこにはκατ'εξoχηνという語は出てこない。そのあとにつけられたドイツ語の訳文にvorzugsweiseという語が出てくるだけである。
 マルクスはこの語を,『資本論』の諸草稿のなかでしばしば使っており,MEGAでは,そのたびに注解でそれのドイツ語訳を挙げている。けれども,注解のなかにこのような奇妙な蛇足が付けられているのはここだけである。おそらく,ここではこの語に引用符がつけられているので,編集担当者はこの「引用」の出所について説明しなければならない,と考えたのであろう。〕

 

 このパラグラフについては、MEGAの二つの「注解」と大谷氏の(大谷氏らしいというか)長い注がある。注解については上記に紹介したが、大谷氏の注はありまにも長いために全体の紹介は割愛せざるを得なかった。その注は、「とりわけすぐれた」というギリシャ語による用語の使用例を網羅したものであり、それ自体としては、当面の問題とはあまり関係せず、あまりわれわれの関心を引くものではない。ただその引用例の一番最後のものは、大谷氏も指摘するように、〈内容上,いま見ている当該のパラグラフでの,啓蒙経済学についての記述に完全に対応するものである〉から参照する必要があると思えるので、その部分だけ紹介しておこう。

 

 〈「啓蒙経済学は, 「資本」を職掌上で(exprofesso)取り扱っているあいだは,金銀を,事実上最もどうでもよくて最も無用な資本形態として,最大の軽蔑をもって見くだしている。この経済学が銀行制度を取り扱う段になると様相が一変して(the aspect of things turns) ,金銀は,資本と労働との他のどんな形態を犠牲にしても維持されなければならない,とりわけすぐれた意味での資本(das Capital par excellence) となる。」(MEGA,II/4.2,S.625-626.)〉

 

 さらに、ここでは大谷氏が『貴金属と為替相場』(第35章)のところで論じているものが、このパラグラフを理解する上で参考になると思うので、少し長くなるが紹介しておこう。大谷氏は〈5. 理論上の二元論と「信用主義から重金主義への転回」 〉と題して、次のように述べている。

 

 〈資本主義的生産が未発展の段階に対応する重金主義の思想では,一般商品から区別される金銀だけが貨幣であり絶対的商品であったのにたいして,発展してきた資本主義的生産に対応する「啓蒙経済学」では,流通手段としての金銀を高価な無駄なものとみなして,これを信用で置き換えることを主張するようになる。こうして,「啓蒙経済学は「貨幣」は資本ではないのだと念入りに教え込もうとし」(MEGA,II /4.2,S. 519;拙稿「銀行資本の構成部分」の草稿について」,9ページ),「発達したブルジョア的生産では,商品の持ち手はずっとまえから資本家になっており,彼のアダム・スミスを知っており,金銀だけが貨幣であるとかそもそも貨幣は他の商品とは違って絶対的商品であるとかいう迷信を見くだして嘲笑している」(MEGA,II /2,20 8;『資本論草稿集」③,372ページ)。
  ところが,「この経済学が銀行制度を取り扱うことになると様相は一変し,金銀は,資本と労働との他のどんな形態を犠牲にしても維持されなければならない,とりわけすぐれた意味での資本(Capitalpar excellence)となる」(MEGA,II /4.2,S.626;本稿,118ページ)のである。〉
(『経済志林』40頁)

 

 要するに金銀は、資本主義が未発達の段階では、それだけが貨幣であり、富であり、絶対的商品だと思われているのであるが、資本主義が発展してくると、金銀は、高価な浪費とされ、それを代用する価値章標に置き換えられ、金銀は無駄なものとされる。ところが、信用制度が発展してくると、金銀は、信用制度の軸点になり、それが少なくなると信用制度全体が揺らぐことなり、何を犠牲にしてでも、その流出を抑える必要が出てくるわけである。そうした意味で、再び金銀は何物にも換えがたい、とりわけすぐれた意味での資本として扱われるというわけである。

 また大谷氏は同じところで〈 「資本」がここで演じる役割が奇妙なものであるために〉とマルクスが述べていることを説明して、次のように解説している。

 

 〈「「資本」がここで演じる役割」と言われているのは,moneyed Capitaという資本が果たす独自の「奇妙な」役割であり,これこそがこのあとの考察の中心課題であることを示唆しているものである。〉

 

 つまりこの第29章(「II.」と番号を打ったところで)の中心課題は「moneyed Capital」としての貨幣資本だというわけである。

 またマルクスが〈じつは貨幣は「とりわけすぐれた意味での」資本〔das Capital “κατ'εξoχην”〕なのだ〉と述べていることについても、次のように解説している。

 

 〈ここでマルクスが「とりわけすぐれた意味での資本」と言っているのは,トゥックでたとえば次のような表現をとっているものである。

 「第3107号。(トゥック)利子率の上昇はイングランドの有価証券(海外からの)への投資を生じさせます。外国の有価証券はわが国から,海外で実現されるべく,送られます。同じ原因が,わが国の商人によって海外の商人に与えられた商人信用の縮小を引き起こします。それはまた,そうでなかったら輸出されなかった諸商品の譲渡を引き起こします。すなわち,それらの商品は,そのような場合には,価格にさえおかまいなしに,債務の決済の手段として送られます。そしてそれが輸入を妨げます。要するに……それは,それのより簡明ですぐに使える形態での,すなわち金での資本を,出て行くのにまかせるのではなく,わが国にはいるように強いるのです。」(MEGA,II/4.2,S.614-615;拙稿「信用制度下の流通手段」および「通貨原理と銀行立法」の草稿について」,175ページ。)〉 (同上41頁)

 

 利子率の上昇は海外からの有価証券への投資を呼び起こして、金地金の国内への流入を強制するとトゥックは主張しているようだが、その場合の金を〈より簡明ですぐに使える形態での、……資本〉と述べているわけである。つまりこの意味ではこの金はGeldcapitalとしての貨幣資本なのであるが、それとトゥックはmoneyed Capitalとしての貨幣資本とを混同して、「資本」と述べているように思える。

 

【4】

 

 〈ところが,もっとあとの研究で明らかにするように,そのようにして「貨幣資本〔Geldcapital〕」が「利子生み資本」の意味での「moneyed Capital」と混同されるのであって,前者の意味では資本はつねに,それ自身がとる「商品資本」および「生産資本」という形態とは区別されたものとしての「貨幣資本〔Geldcapital〕」なのである。〉

 

 ここでマルクスが述べていることは、先のトゥックの議会証言の例がもっともよく示しているといえる。第28章で展開されているところでは必ずしも、この点での銀行学派の「混同」はもう一つよく分からなかったのだが、上記の引用文ではそうした混同が明瞭に見られる。
 この二つの貨幣資本の区別の重要性については、第28章該当部分のレジュメの冒頭部分でも強調しておいたが、一方は再生産過程内で物質代謝を媒介する貨幣資本であり、他方は再生産過程外での--だから剰余価値の分け前を巡る争いに関わる--貨幣資本であるという本質的な区別がある。
 以上で、「 I ) 」と番号を打った部分--銀行学派の主張の批判検討--は終わったわけである。だからマルクスは銀行学派の主張の根本的な間違いは、通貨とmoneyed Capitalとしての貨幣資本との混同だけではなく--この混同は、現在のブルジョア経済学者はもちろん、ほとんどのマルクス経済学者にも見られ、だから林紘義氏他同志会の面々にも見られるものである--、やはりGeldcapitalとしての貨幣資本とmoneyed Capitalとしての貨幣資本との「混同」にもあると考えていたことが分かるのである。


『資本論』第3部草稿(現行版第5篇)の研究(29-4)

 

『資本論』第3部第1草稿・第5章(現行版・第29章「銀行資本の構成部分」)の解読

 〔大谷禎之介《「銀行資本の構成部分」(『資本論』第3部第29章)の草稿について--第3部第1稿の第5章から--》(『経済志林』63巻1号収載)の訳文を利用〕

 (今回、解読する【5】【7】パラグラフは、本来は、マルクスが「I)」と番号を打った部分(エンゲルス版第28章該当部分)に移されるべきものであり、よって第28章該当部分の解読の最後のあたりで一定の考察を加えたものである。しかし第29章該当部分の解読をするにあたり、もう一度、補足的にとりあげることにする。)

 

【5】

 

 I )については,さらに次のような疑問も起こるであろう。いったいこのような《逼迫の》時期に足りないものはなにか,「資本」なのか,それとも「支払手段」としての規定性にある「貨幣」なのか? そして周知のように,これは1つの論争である。〉

 

 このパラグラフからは、すでに述べたように、第28章の【44】パラグラフの後に挿入されるべきではないかと私は考えたのであるが、なぜそう考えたのを理解して貰うために、その【44】パラグラフを紹介しておこう。

 

 〈購買手段としてのCirculation(「通貨」--引用者)が減少するよりも高い程度で支払手段としてのCirculation(「通貨」--同)が増加するとすれば,たとえ購買手段としての機能における貨幣が量から見てかなり減少したとしても,総Circulation(「流通量」--同)は増大するであろう。そしてこのことは,恐慌中のある諸時点で現実に起こるのである。フラ一トン等々は,支払手段としての銀行券のCirculation(「流通」--同)がこのような圧迫の時期の特徴だということを示さないので,この現象を偶然的なものとして取り扱うのである。「銀行券を手に入れようとする激しい競争はパニックの時期を特徴づけるものであり,また,ときには,1825年の終りのように,地金の流出がまだ続いている時にさえも,一時的でしかないとはいえ突然の発券増加をひき起こすこともあるのであるが,ふたたびこのような競争の実例について言えば,私の考えるところでは,このような実例は低い為替相場の自然的な,あるいは必然的な付きものとみなすべきではない。このような場合の需要は,Circulation〔」〕 (購買手段としてのCirculation(「通貨」--同)と言うべきであろう) 〔「〕のための需要ではなく,蓄蔵のための需要であり,流出が長く続いたあとに恐慌の終幕で一般的に生じる狼狽した銀行家や資本家の側からの需要であり,また,金の流出がやむことの前兆である。」〉大谷訳267-8頁)

 

 つまり逼迫期(恐慌時)には購買手段としての通貨は一般に減少するが、支払い手段としての通貨に対する需要が極めて強くなるので、流通する通貨総量としては一時的とはいえ増大する場合があることをマルクスは指摘しているのである。これは第28章のレジュメでは1825年の恐慌時のイングランド銀行券の発券高の推移を示すグラフを紹介してあるので、それを見ていただきたい。

 さて、このパラグラフについては第28章のレジュメのなかで解読したので、その部分をここに転載するだけにしておく。

 

 【マルクスはこれは当時の〈1つの論争〉であり、それは〈周知〉のことであると述べている。これは恐らく第26章に該当する部分で、マルクスが通貨学派のオウヴァストンの議会証言を引用しながら批判して取り上げている問題と同じなのであろう。そこではオウヴァストンは、議会で「資本」や「貨幣」という言葉であなたは何を実際に考えているのか、用語を混同しているのではないかと追求されているが(マルクスはオウヴァストンが「私は用語を混同していません」と答えたのに対して、「つまり貨幣と資本とを混同していないというのであるが、それは、彼がこの二つを決して区別していないという理由からである」とも批判している)、その詳しい紹介は当該箇所を検討するなかで見ていくことにしよう。】

 

 と、ここでは、第26章の当該箇所を示さずに終わっているが、今回は、その部分をここで紹介しておこう。

 

 第3758号。では,閣下は,逼迫〔pressure〕の状態のもとでは割引率が高いためにこの国の商人がおちいる困難は,資本を手に入れることにあるのであって,貨幣を手に入れることにあるのではない,と言われていると解してよろしいのでしょうか?--あなたは二つのものをいっしょにしていますが,私はそれをそういうかたちでいっしょにしているのではありません。彼らの困難は資本を手に入れることにありますが,彼らの困難はまた貨幣を手に入れることにもあるのです。……貨幣を手に入れることの困難と,資本を手に入れることの困難とは,同じ困難その進行の二つの続いて生じる段階で見たものです。」ここで魚はまたもや動きがとれない。第1の困難は,手形を割引させること(または有価証券担保の前貸を受けること)である。それは,資本を,または資本の商業的代理物的を,貨幣に転換する〔convert〕 ことの困難である。そして,この困難は,ほかの困難を度外視すれば,高い利子率に表現される。しかし,貨幣を受け取ってしまえば,第2の困難はどこにあるのか? 支払だけが問題ならば,貨幣を支払うことにどんな困難があるだろうか? また,買うことが問題ならば,そのような逼迫の時期に買うことになにか困難があったなどということを聞いた人があるだろうか? それに,かりにこれが穀物,綿花,等々が騰貴している特別な場合のことだと仮定すれば,この困難は,「貨幣の価値」に,すなわち利子に現れるのではなく、ただ商品の価格に現われることができるだけのはずである。しかしこのような困難ならば,彼が今では商品を買うための貨幣をもっているということによって,克服されているではないか。〉(179頁)
 〈第3819号。「私は用語をけっして混同してはいません。」(つまり貨幣と資本とを混同していないというのであるが,それは,彼がこの二つをけっして区別していないという理由からである。) {だから,商品が資本の形態であるかぎりでは,そして商品が売買ではたんに商品であるかぎりでは,資本と商品とについて逃げ口上を言うことができるであろう。}〉
(188頁)

 

 このように逼迫期に必要なのは貨幣なのか資本なのかが論争になっていたわけである。

 

【6】

 

 〈まず第1に,逼迫が「地金の流出」に現われるかぎりでは,要求されるものが国際的支払手段だということは明らかである。ところが,国際的支払手段としての規定性にある貨幣は,金属的現実性にある金,それ自身価値のある実体《(価値のかたまり)》としての金である。それは同時に「資本」であるが,しかし商品資本としてのではなく,貨幣資本としての資本であり,商品の形態にあるのではなく貨幣{しかもこの言葉のすぐれた意味での貨幣〔Geld im eminenten Sinn des Wortes〕であって,この意味では貨幣は一般的な世界市場商品のかたちで存在する}の形態にある資本である。ここでは,貨幣(支払手段としての)にたいする需要と資本にたいする需要とのあいだには対立は存在しない。対立は,貨幣という形態にある資本と商品という[520]形態にある資本とのあいだにある。そして,資本がここで取ることを求められている,そしてそれが機能するために取らなければならない形態は,資本の貨幣形態なのである。〉

 

 この部分についても、それほど難しいことは何も言っていないので、以前のレジュメから紹介しておく。

 

 【このようにここではマルクスは銀行学派の言葉ではなく、マルクス自身の概念を使って論じている。ここで「貨幣資本」と言われているのは、Geldcapitalであることは明らかである。つまり『資本論』第2巻で出てくる生産資本や商品資本と区別された資本の循環過程で貨幣形態をとる資本のことである。つまり地金は貨幣資本として流出するのだが、しかしその資本としての性格が問われているのではなく、国際的支払手段としての、つまり世界貨幣としての機能が問われているのだ、というのがマルクスの述べていることである。だからここで「貨幣」と言われているものも「本来の貨幣」のことであり、「貨幣としての貨幣」であることは明らかである。これもマルクスがこの28章の冒頭のパラグラフで呈示していた定冠詞のない貨幣であり、科学的な概念の一つである。】

 

【7】

 

 〈こうした地金の需要を度外視すれば,そのような逼迫期にはなんらかの仕方で「資本」が不足している,と言うことはできない。{穀物騰貴,綿花飢饅, 等々のような異常な事情のもとではそういうこともありうる。しかしそれは,けっしてこういう逼迫期の必然的な,または通例の付随現象ではない。それゆえまた,貨幣融通〔monetary accomodation〕にたいする圧迫が存在することからこのような資本欠乏の存在を結論することは,一見しただけでもできないのである。} 反対である。市場は供給過剰になっている。「商品資本」は市場にあふれている。だから,逼迫の原因は,とにかく「商品資本の欠乏」ではないのである。この問題には他の諸点を片付けたのちに立ちかえる。〉

 

 この部分も以前のレジュメによって代用。

 【ここでは、マルクスは〈こうした地金の需要を度外視すれば〉と述べ、その前のパラグラフで検討した〈地金の需要〉の場合は、その限りではそれは貨幣「資本」に対する需要でもあるとしている点に注意が必要である。だからそうした国際的支払手段に対する需要(だからそれは貨幣「資本」に対する需要である)を「度外視すれば」と述べている。つまり国際的支払手段に対する需要を度外視すれば、逼迫期に「資本」が不足しているといったことはないというのである。つまり支払手段としての貨幣「資本」以外には商品資本も生産資本も過剰になっているということである。ただ穀物や綿花の不作で、穀物騰貴や綿花飢饉が生じるような異常な事情のもとでは、確かに穀物や綿花というその限りでは商品「資本」の不足が生じることになるのだが、そうした農作物の不作と逼迫期が重なるというのは偶然であって、決して逼迫期の必然的な付随現象ではないとも指摘している。だから支払手段に対する貨幣融通に対する圧迫から、一般的に逼迫期ににおいて「資本の欠乏」をいうのは間違いである。むしろ「資本」(商品資本)は市場に溢れているのだというのが、マルクスの言いたいことである。

 マルクスは『経済学批判』では次のように述べている。

 

 《つまり、国際的交換手段としての金の役割は、資本としてのその形態規定性から生じるのではなく、貨幣としての金の特有な機能から生じるのである。同様に金が、またはそのかわりの銀行券が、国内商業で支払手段として機能するときにも、それらは同時に資本でもある。しかし、商品の形態での資本は、たとえば恐慌が明白に示すように、金または銀行券のかわりをすることはできないであろう。だから、金が支払手段になるのは、やはり貨幣としての金と商品との区別によるのであって、資本としてのそれの定在によるのではない。》 (草稿集第3巻428頁)

 

 このようにマルクスは国際商業と同様に、国内商業でも支払手段として機能する貨幣は、同時に資本でもあると指摘している。しかし、商品の形態での資本は、逼迫期に明確になるように、金または銀行券の代わりをすることは出来ないのであり、だから貨幣が支払手段になるのは、その資本としての定在によるのではなく、商品と区別された貨幣としての定在においてなのである。このような意味で、それは支払手段なのであり、だからそれは「資本の問題」ではなく「貨幣の問題」だと言い得るのである。】

 

【補足】

 

 前回(29-3)、【4】パラグラフ(つまり「 I) 」の結論部分)の解説のところで貨幣資本(Geldcapital)と貨幣資本(moneyed Capital)という二つの貨幣資本の区別の重要性について、第28章のレジュメの冒頭部分でも強調していることを指摘したが、同じような問題を、大谷氏は「貴金属と為替相場」の草稿の考察の最後の当たりで論じていることに気づいたので、その部分を紹介しておきたい。これは2008年のサブプライム金融恐慌などの金融諸現象を理解する上でも重要なところであり、十分吟味して読む必要がある。それにこの一文は、大谷氏自身も--明確に述べているわけではないが--架空資本の架空性とは何かについて、再生産論を踏まえて初めて明らかになると考えているようにも思える部分でもある(なお下線は引用者である。大谷氏が「商品」と括弧付きで書いているものは、利子生み資本の投資対象としての金融商品や土地等であり、一般の商品とは異なるものであることに注意が必要である。だからこの場合の「商品」やその「売買」は外観であって、実際の内容は利子生み資本に固有の運動の「貸借」であることも注意して読んで頂きたい)。

 

 〈「マネーが世界を駆けめぐる」現代の資本主義世界では,実物資本ないし再生産から自立化したmonied capitalの諸形態,架空資本の諸形態としてのいわゆる「金融商品」--株式,証券,オプション,デリパティブ,土地,その他の利殖機会--や「商品」としての土地の流通に必要とされる貨幣の量が巨大なものに膨れあがっている。このような貨幣も中央銀行が発行する銀行券ないしそれへの請求権の一部であって,社会的再生産を媒介する流通に必要な貨幣量と揮然一体となって,銀行の預金の一部をなしている。そこで,一見したところ,このような「商品」の流通に必要な貨幣の量も「流通に必要な貨幣量」の一部であるように見える。しかし,このような「商品」の流通に必要な貨幣量は社会的再生産を媒介する流通に必要な貨幣量とは本質的に異なるものであって,これとははっきりと区別されなければならない。それは,ありとあらゆる投資(利殖または投機)の機会ないし可能性がとる形態としての「商品」の流通に必要な貨幣であると同時に,その購買に支出されるのは,生産資本ではなくて増殖先を求めるmonied capitalであり,買われたのちにもこの「商品」はけっして再生産過程にはいらず,架空のmonied capitalの諸形態の一つにとどまる。さらに,流通貨幣の具体的な実存形態としての鋳貨準備(流通手段および支払手段の準備ファンド)とは区別される蓄蔵貨幣の形成は,現代ではそのきわめて大きな部分が,そのような増殖先を求めるmonied capitalの形成にほかならず,巨大なものに膨れあがったmonied capitalは,「商品」として買うべき増殖機会を見いだせないときにはmonied capitalとして銀行のもとに滞留するほかはない。そこで,架空なmonied capitalの流通のための「必要貨幣量」は,銀行制度を中心とする信用システムのなかで, したがってまたmonied capitalの運動と実物資本の運動との絡み合い--マルクスがまさに「5)信用。架空資本」の本論で解明しようとしたもの--のなかで,本来の社会的再生産のための「流通貨幣量」とどのように区別され, どのような仕方で絡み合っているのか, ということが問われることになる。現代の資本主義諸社会とその総体としての現代資本主義世界のなかで生じているこのような問題を具体的に分析するためには, 「資本の一般的分析」のなかで,架空資本としてのmonied capitalがとる形態としての「商品」の流通に必要な貨幣--これは結局のところmonied capitalそのものに帰着する--と実物的な社会的再生産を媒介する流通に必要な貨幣との関連が,しかも産業循環としての社会的再生産の運動の諸局面との関連において,理論的に解明されていなければならない。言うまでもなく,そのさいなによりもまず,兌換制のもとでの動きが明らかにされなければならない。マルクスが提起しながら,まだ答え終えていないと感じていた難問の一つはこの問題であって,このような意味でのmonied capitalと貨幣量との関連という問題の解明は,現代の具体的な諸問題の解明に連繋するものではないかと考えられる。〉 (93-4頁)

 

 ここでは大谷氏は〈マルクスが提起しながら,まだ答え終えていないと感じていた難問の一つはこの問題であって,このような意味でのmonied capitalと貨幣量との関連という問題の解明は,現代の具体的な諸問題の解明に連繋するものではないかと考えられる〉と述べている。確かにマルクスが「5)信用。架空資本」の本論とした「III) 」(現行版では第30-32章に該当)のなかではこの問題は十分展開されているとはいえないのであるが(その理由についてはすでに指摘したが、ただマルクスはこれもすでに指摘したように現行版の第33章では銀行学派が商品市場と貨幣市場との区別ができていないことを批判しており、その意味では原則的な回答そのものは明らかだったもいえる)、ただ『資本論』ために最後に執筆された草稿である第2部第8稿においては、この問題を原則的に解決し、この両者は、現実には、確かに渾然一体となっているが、しかし概念的には明確に区別され、両者にはまったく関連がないことを指摘している。つまり社会的な再生産を媒介するに必要な貨幣量とmoneyed Capitalという形態をとっている貨幣量とは無関係なのである。これは商品市場と貨幣市場との区別にも通じるのであるが、貨幣市場において流通する貨幣(といってもそれはmoneyed Capitalとしての貨幣資本であるが)は、商品市場において流通する貨幣(これこそ言葉の真の意味での「通貨」であるが、今日では「預金通貨」や「国際通貨」などとも言われるように、「通貨」の概念そのものも混乱している)とはおよそ関係がないのである。マルクスは第2部草稿の第8稿で拡大再生産のために必要な貨幣量を論じたところで、こうした問題を基本的に解決したのである。再生産を媒介する貨幣は基本的には(金原産地とそれが資本家によって最初に流通に投じられる場合を除いて)W-G-Wであって、つまり何らかの商品の価値の実現形態であって、その必要量は商品の価格総額(と流通速度、および信用の状態)によって決まっており、これは『資本論』の第1巻第1篇で貨幣の抽象的諸機能とその流通法則として明らかにされているものである。こうした第1篇で解明されている諸規定(諸機能)と諸法則は、貨幣がそれ以上の具体的な形態規定性(機能諸規定)を帯びようともまったく変わらないものなのである。より具体的な諸規定は抽象的な諸規定(諸機能)の根拠をより具体的に内容豊かに明らかにするだけであって、抽象的な諸規定において明らかにされた諸法則そのものが変わるわけではないからである。それに対して、moneyed Capitalはこうしたものとは本質的に区別されるものなのである。というのは、これらは再生産、つまり社会の物質代謝には直接には関連しないものだからである。それらはすべて再生産の外部における信用(貨幣信用)に基づくものであり、だから物質代謝を媒介する貨幣量とは本質的に区別されるものなのである。物質代謝を媒介する貨幣の質的内容(規定性)や量的諸法則は、あくまでも物質代謝そのもの(価格総額)とその状態(流通の速度や信用状態)に規定されている。しかしmoneyed Capitalの運動は、それに究極的には制限されながらも、相対的に自立したものとして存在し、また運動するのだからである。
 大谷氏もレキシコンの「貨幣」篇の栞No.14で〈 「『貨幣』篇への補足」について〉で貨幣の三つの規定について述べているが、最初の二つの規定は社会的物質代謝に関連するが、第三の規定はそれらとは本質的に異なるものなのである(但し大谷氏は社会的物質代謝との関連で論じているわけではないが)。この第三の規定は〈発展した生産関係のもとで貨幣そのものがまったく新たな形態規定を受け取る〉ものと述べられている。また利子生み資本の概念を論じている草稿の第21章該当部分の前書きにおいても、〈 「貨幣資本論」と「貨幣市場としての資本」 〉と題して、この両規定における貨幣の違いについて、次のように述べている。

 

 〈これは(貨幣市場で対象となる貨幣、すなわちmoneyed Capitalは--引用者),「全生産過程の最も表面的な,そして最も抽象的な形態としての貨幣流通」の分析によって明らかにされる貨幣の最も抽象的な形態諸規定が,資本の展開のなかでより具体的に規定され,より具体的な内容規定をもつようになるということ(これはこれとして重要なことではあるが)とは異なる,貨幣そのものの展開,貨幣そのものが資本関係の発展によって新たなより高次の規定性をもつものに転化していく過程である。〉 (7頁)

 

 こうしたことからも「Geldcapitalとしての貨幣資本」と「moneyed Capitalとしての貨幣資本」との区別が如何に重要であるかが分かるであろう。マルクスが銀行学派の混乱も根本的にはこの両者の混同にあると見ている所以でもあるだろう。そしてこうしたことは銀行学派に限らず、現代の自称マルクス経済学者たちにさえも(同志会の林紘義他の諸氏にも)分かっていないのである。
 また上記の一文は、少し先走って指摘すれば、後に( 【27】パラグラフで)問題になるのであるが、マルクスが銀行にある蓄蔵貨幣の一部が証券(紙)からなっており、だから「純粋に幻想的なもの」だと述べていることとも関連している。つまりここでマルクスが述べている蓄蔵貨幣というのは、あくまでもmoneyed Capitalの準備金なのである。だからそれらは蓄蔵貨幣とはいうものの、「貨幣としての貨幣」としてのそれとは異なり、単なる紙でできていたり、単なる帳簿上の記録(預金)でしかなく(もっとも現代なら大型コンピューター上のデジタル信号でしかないのであるが)、だから「純粋に幻想的なもの」なのである。

 

【補足の補足】

 

 大谷氏は、最近、氏が20年もの歳月をかけて研究され、その都度、『経済志林』誌上で発表してこられた『資本論』第3部第5章(現行版では第5篇)草稿の研究の成果を『マルクスの利子生み資本論(

全4巻)』(桜井書店2016.6.10)として上梓された。

 その第4巻「信用制度下の利子生み資本(下)」では、最初に紹介した一文も部分的に手がいられて再掲されているのであるが、それが間違ったものに改悪されているのである。その間違いは、氏の利子生み資本論の研究を台無しにしかねないものですらある。

 上記の一文のなかでは氏は、〈架空資本としてのmonied capitalがとる形態としての「商品」の流通に必要な貨幣--これは結局のところmonied capitalそのものに帰着する--〉と、いわゆる「金融商品」の流通を媒介する貨幣を、利子生み資本そのものとする理解を示している。ところが新著では、こうした観点が抜け落ちて、「金融商品」の流通に必要な〈貨幣量も、「商品」の流通に必要な貨幣の量としては、広義の「流通に必要な貨幣量」であ〉(261頁)るとしているのである。こうした理解は、「利子生み資本論」の概念そのものに関わる問題であり、そこで間違うことは決定的ですらある。極めて残念なことであるが、その批判的検討は、またその機会があると思うので、そうした事実だけをここでは補足して伝えるだけにする。

 



読者登録

亀仙人さんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について