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『資本論』第3部草稿(現行版第5篇)の研究(29-12)

『資本論』第3部第1草稿・第5章(現行版・第29章「銀行資本の構成部分」)の解読

 

 〔大谷禎之介《「銀行資本の構成部分」(『資本論』第3部第29章)の草稿について--第3部第1稿の第5章から--》(『経済志林』63巻1号収載)の訳文を利用〕

 

 (今回は【19】【22】パラグラフである。この部分は、これまでの考察されてきた架空資本である有価証券はそもそも何を表していのかということを論じており、それまでの考察の一つの中間総括的な位置をしめているように思える。)

 

【19】

 

 〈これらの有価証券の下落(減価)または上昇(増価)が,これらの証券が表わしている現実の資本の運動にかかわりのないものであるかぎり,一国民の富の大きさは,減価および増価の前もあともまったく同じである。「1847年10月23日には,公債や運河・鉄道株はすでに114,752,2254ポンド・スターリング減価していました。」a)この減価が,生産や鉄道・運河交通の現実の休止とか,現実の企業の見放しとか,なにも生み出すことがなかったような企業への資本の固定とかを表わすものでなかったかぎり,この国民は,この名目的な貨幣資本の破裂によっては,一文も貧しくなってはいなかったのである。〉

 

 これらの有価証券、とくに株式の高騰や下落が現実資本の価値増殖と無関係のものであるなら、すなわち、単に投機的な思惑による高騰であるとか、あるいは単に貨幣逼迫による利子率の高騰による下落によるだけなら、これらの有価証券の当落によっては、一国民の富の大きさそのものは、その減価や増価の前後において何の変化もないわけである。
 ここで〈名目的な貨幣資本の破裂〉とあるが、これは先に出てきた(【18】の(2))〈名目価値〉とは同じではない。後者は国債や株式の額面価値(価格)のことであり、前者は利子率の変動やさまざまな投機的思惑によって膨れ上がった架空資本の市場価値(価格)の破裂を意味していると考えるべきであろうからである。

 

【20】

 

  〈【原注】|337下|a)モリス(イングランド銀行総裁),〔(〕『商業の不況』,1847-48年。[第3800号。]|〉

 

 この部分は【19】の本文につけられている原注であるが、本文で引用されているものの典拠を示すものになっている。このイングランド銀行総裁の議会証言は『資本論』現行版の第26章でも、エンゲルスの編集によるものだが、紹介されている(全集25a528頁)。
 しかしこの部分は、大谷氏によると、マルクス自身が本文として書いたものではなく、大谷氏は「雑録」として分類しているが、〈のちに使用する材料として抜粋を行なっている部分〉に過ぎないものなのである。それをエンゲルスは他の諸章と同じような本文として取り扱っているわけである。そもそもこの現行版の第26章の表題「貨幣資本の蓄積 それが利子率に及ぼす影響」というのは、この章の冒頭で紹介されている『通貨理論論評』からの抜粋の前に、その内容を要約してマルクスが書いたコメントに過ぎないものであって、それをエンゲルスが勘違いして全体の章の表題にしてしまったものなのである。だから表題とそれ以降の第26章に採用されている抜粋の全体の内容とはまったく合っていない代物なのである。いずれよせに、大谷氏が「雑録」として、草稿を翻訳・紹介している関連部分を大谷氏の論文から紹介しておこう(下線はマルクスによる強調。太字部分は今回引用されている部分。「第2675号」等とあるのは議会報告『商業的窮境』に記載されている証言番号である)。

 

 〈〔第2675号。〕「1847年には,輸入された食糧の代価として,少なくとも900万ポンドの金が(750万はイングランド銀行から. 150万はその他の源泉から)輸出されました。」(〔議会報告書『商業的窮境』,1847-48年。245ページ。) 〔第3800号。〕「1847年10月23日には,公債および運河・鉄道株はすでに114.752.225ポンド減価していました。」 (同前. 312ページ。モリス,イングランド銀行総裁。)第3846号。(同じモリスがロード・ベンティンクに尋ねられる。)「あなたは,債券やあらゆる種類の生産物やに投下されていたすべての資産が同じように減価したということ,原綿も生糸も未加工羊毛も同じ低落価格で大陸に送られたということ,そして,砂糖やコーヒーや茶が強制売却で投げ売りされたということを,ご存知ではないのてすか?--食糧の大量輸入の結果生じた地金流出に対抗するためには,国民がかなりの犠牲を払うこともやむをえませんでした。」第3848号。「そのような犠牲を払って金を取り戻そうとするよりも,イングランド銀行の金庫に眠っていた800万ポシドに手をつけるほうがよかった, とは考えられませんか?--いや,そうは考えません。」このヒロイズムへの注釈。ディズレイリW.コッ トン(イングランド銀行理事,前総裁)に尋ねる。第4356号。「1844年に銀行株主に支払われた〔配当〕率はどれだけでしたか?--その年には7%でした。」第4357号。「では. 1847年の配当は?--9%です。」第4358号。「銀行は今年は株主に代わって所得税を支払うのですか?--そうです。」第4359号。「1844年にはそうしましたか?--そうしませんでした。」第4360号。「それならば,この条例は株主に非常に有利に作用したわけです〔ね?〕第4361号。「結果は,この条例が通過してから株主への配当は7%から9%に上がり,条例以前は株主が支払っていた所得税もいまでは銀行が支払うということですね?--まったくそのとおりです。」/〉 (《「信用と架空資本」(『資本論』第3部第25章)の草稿について(中)--第3部第1稿第5章から--》『経済志林』51巻3号1993年-45頁)

 

【21】

 

  〈|338上|すべてこれらの証券が表わしているのは,実際には,「生産にたいする蓄積された請求権」にすぎないのであって,この請求権の貨幣価値または資本価値は,国債の場合のように資本をまったく表わしていないか,または,それが表わしている現実の資本の価値とは無関係に規制される。〉

 

 ここでも〈すべてこれらの証券〉と言われているのは、これまでの展開から考えても、国債や株式のことである。マルクスは国債や株式も、それらが表しているのは、〈実際には,「生産にたいする蓄積された請求権」にすぎない〉と述べている。これまで国債と株式が何を表しているのかについて、マルクスがどのように説明してきたのかをもう一度、振り返ってみよう。
 国債の場合は、国家が借りた資本は食いつくされてもはや存在せず、国債は〈純粋に幻想的な資本を表している〉だけであるだから〈国家の債権者がもっているものは第1に,たとえば100ポンド・スターリングの,国家あての債務証書である。第2に,この債務証書は債権者に国家の歳入すなわち租税の年額にたいする定額の,たとえば5%の請求権を与える。第3に,彼はこの100ポンド・スターリングの債務証書を,任意に他の人々に売ることができる〉(【10】)というものであった。
 株式は、結合資本にたいする所有権を表し、現実の資本を表している。すなわち、これらの企業で機能している(投下されている)資本、または資本として支出されために社団構成員によって前貸されている貨幣額を表している。しかし例えば額面の100万円の株式は100万円の資本価値を持っているわけではない。資本価値としては、現実に投下されたものしか存在しないわけである。だから株式は、そうした現実に投下された資本によって実現されるべき剰余価値に対する所有権原でしかない、というのがマルクスの説明であった(【17】)。ここで「実現されるべき」というのは、単に商品資本の剰余価値部分として形成されたというだけでなく、それがさらに貨幣資本の剰余価値部分としても実現されたもの考えるべきであろう。
 しかしこうした国債や株式が表すものが、ここでは〈実際には、生産に対する蓄積された請求権に過ぎない〉のだと説明されているわけである。しかし注意が必要なのは、ここでは国債や株式そのものがそうしたものとして説明されているのであって、架空資本としての国債や株式のことではないことである。言い換えれば、国債や株式の額面価格(価値)が表しているものが、〈実際には、「生産に対する蓄積された請求権」にすぎない〉と言われているわけである。そして注目されるのは、〈「生産にたいする蓄積された請求権」〉が鍵括弧に入っていることである。それは一体何を意味するのであろうか。
 そもそも〈「生産に対する蓄積された請求権」〉とは何であろうか?
 支払手段としての貨幣の機能から生まれる債権・債務関係によって流通する信用諸用具を代表する「手形」は、「貨幣の支払を求める権利」あるいは「貨幣請求権」を表している(それは逆にいえば貨幣の支払約束証書でもある)。しかしここで言われているのは、「貨幣」に対する請求権ではなく、〈生産に対する……請求権〉なのである。国債の利子支払や株式の配当も、いずれも貨幣によって支払われる、だからそれらも貨幣による支払を求める権利、貨幣請求権を表しているといえないこともない。しかし、マルクスはそうした規定を与えるのではなく、〈生産に対する蓄積された請求権〉だと述べているわけである。
 国債は租税の年額に対して一定額の支払を請求する権利を表し、株式は現実資本が実現するであろう剰余価値に対する所有権原、つまり実現された剰余価値(利潤)からの支払を請求する権利を表している。租税もその源泉を剰余価値に求めることができるわけだから、マルクスがここで〈生産に対する……請求権〉と述べているのは、「生産され実現された剰余価値に対する請求権」とも考えることができるかも知れない。しかしそれならそのようにどうしてマルクスは書かないのであろうか。
 そもそも〈生産に対する請求権〉というのは、極めてあいまいなものである。なぜなら、生産に対して何を請求するのかも書かれていないからである。生産に対する請求権と言っても、生産の結果に対する請求権なのか、それとも生産の過程に対する請求権かさえも分からない。そもそも〈請求権にすぎない〉という書き方は、それはただ請求する権利を表しているだけで、それが実際に行使されるかどうかは状況次第によるとも解釈可能である。権利というのは法的な問題であり、例えば「基本権人権」などいうものは憲法に謳われている限りでは、言論の自由や思想信条の自由を表しているが、ブルジョア社会の現実は、それが実際には有名無実であり、一つの欺瞞であることを暴露している。同じように〈生産に対する請求権〉というものも、極めて漠然としたものであり、ただ漠然と生産に対して一定の蓄積された何らかの請求権を表しているだけで、それが具体的に生産に対して何を請求するのかもあいまいであり、しかもそうした権利が現実に行使されるのかどうかも状況次第という極めて漠然としたものなのかも知れない。つまりマルクスが有価証券が表しているものは、〈実際には,「生産にたいする蓄積された請求権」にすぎない〉という場合、そうした生産に対する極めて漠然とした請求権を意味している過ぎないのだという含意かも知れないのである。しかしいずれにせよ、今の時点で即断するのはやめておこうと思う。だからこの問題については最終的な確定は保留しておくことにする。

 

【22】

 

  〈すべて資本主義的生産の国には,膨大な量の《いわゆる》利子生み資本またはmoneyed Capitalがこうした形態で存在している。そして,貨幣資本蓄積という言葉で考えられているのは,たいてい,この「生産にたいする請求権」の蓄積,および,これらの請求権の市場価格(幻想的な資本価値)の蓄積のことでしかないのである。〉

 

 〈すべて資本主義的生産の国には,膨大な量の《いわゆる》利子生み資本またはmoneyed Capitalがこうした形態で存在している〉という場合の、〈こうした形態〉というのは、先に述べられている有価証券ということであろう。だからこの一文で述べていることは、資本主義の国においては、膨大な量の利子生み資本の投資対象として、こうした有価証券が存在しているということであろう。そして〈貨幣資本蓄積という言葉で考えられているのは,たいてい,この「生産にたいする請求権」の蓄積,および,これらの請求権の市場価格(幻想的な資本価値)の蓄積のことでしかないのである〉。
 後にマルクスはIII)において(現行の第30~32章において)、〈この信用の件(Creditgeschichte)全体のなかでも比類なく困難な問題〉(『経済志林』64巻4号146頁)として〈第一に本来の貨幣資本の蓄積。これはどの程度まで,現実の資本蓄積の,すなわち拡大された規模での再生産の指標なのか,またどの程度までそうでないのか?〉(同)という問題を上げているのであるが、〈貨幣資本の蓄積〉という言葉で考えられているものは、たいていは、〈生産に対する請求権〉の蓄積、あるいは請求権の市場価格(幻想的な資本価値)の蓄積だというのである(ただIII)で実際に中心的に問題になっているのは、そうした「架空な貨幣資本」を除いた、「貸し付け可能な貨幣資本」に限定されたものなのではあるが)。
 この後者で言われているものの蓄積、すなわち〈これらの請求権の市場価格(幻想的な資本価値)の蓄積〉というのは、それまでに述べられていたものが、有価証券そのもの、つまり有価証券の額面が表すものであったのに対して、今度は、「架空資本としての有価証券」、つまり証券市場で実際に売買されている市場価格(資本価値)の蓄積のことを指していると考えることができる。


『資本論』第3部草稿(現行版第5篇)の研究(29-13)

『資本論』第3部第1草稿・第5章(現行版・第29章「銀行資本の構成部分」)の解読

 

 〔大谷禎之介《「銀行資本の構成部分」(『資本論』第3部第29章)の草稿について--第3部第1稿の第5章から--》(『経済志林』63巻1号収載)の訳文を利用〕

 

 (今回は第【8】パラグラフで、〈銀行資本〔Bankcapital〕は,1)現金(金または銀行券),2)有価証券,から成っている。有価証券は,さらに二つの部分に分けることができる。〔一つは〕商業的有価証券(手形)であって,これは流動的なもの〔floating〕で,本来の業務はこれの割引のかたちでなされる。〔もう一つは〕その他の有価証券(公的有価証券,たとえばコンソル,国庫証券,等々,およびその他の有価証券,たとえばあらゆる種類の株式〔)〕,要するに利子生み証券であって,手形とは本質的に区別されるもの《(場合によってはまた不動産抵当証券〔mortgages〕も)》である〉と分類されていたうちの、〈商業的有価証券(手形)〉の考察が始まる。因みに、マルクスはここで分類された銀行資本の構成部分を、考察順序としては上記に揚げた順序とは逆に行っているのである。)

 

【23】

 

 〈さて,銀行業者資本〔Banquiercapital〕の一部分はこのいわゆる利子生み証券に投下されている。この証券そのものは,現実の銀行業者業務では機能していない準備資本の一部分である。〔銀行業者資本の〕最大の部分は,手形,すなわち生産的資本家または商人の支払約束から成っている。貨幣の貸し手〔moneylender〕 にとっては,この手形は利子生み証券である。すなわち彼は,それを買うときに[525]満期までの残存期間の利子を差し引く。だから,手形が表わしている金額からどれだけが差し引かれるかは,そのときどきの利子率によって定まるのである。a)/〉

 

 ここで〈銀行業者資本〔Banquiercapital〕〉というのは、われわれが以前(29-5)、第【8】パラグラフに関連して考察したもの(ここを参照)の分類からするとどれに該当するのであろうか。ここではこの〈銀行業者資本〔Banquiercapital〕の一部分〉が、これまで考察してきた〈いわゆる利子生み証券〉に投下され、さらにその〈最大の部分〉は、手形からなっているということだから、それは図示すると、次のようになる。

Photo
  これに現金(金または銀行券)を加えるなら、それは【8】パラグラフでわれわれが〈銀行資本〔Bankcapital〕〉あるいは〈銀行業者の資本〔d.banker's Capital〕〉について、次のような説明を加えていたものと同じと考えるべきであろう(【8】パラグラフの考察で紹介している図を参照)。

 

 「“銀行業者がその営業をするための資本”というような意味と考えられる。つまり銀行業者が営業をするために保持している資本全般を意味するものが〈銀行資本〔Bankcapital〕〉あるいは〈銀行業者の資本〔d.banker's Capital〕〉ということができる」

 

 だから〈銀行業者資本〔Banquiercapital〕〉も同じような意味として捉えるべきであろう。

 だからこのパラグラフは次のように解釈できる。

 

 銀行業者が営業をするための資本の一部分はこれまで考察してきた国債や株式などの〈いわゆる利子生み証券に投下されている〉。〈この証券そのものは,現実の銀行業者業務では機能していない準備資本の一部分である〉。

 

 銀行業者の〈現実の銀行業者業務〉というのは、産業資本や商業資本に利子生み資本を貸し付けて、利子を得ることであるが、しかしとりあえずそうした貸し付け先のない貨幣資本〔moneyed Capital〕は、差し当たりは利子生み証券に投下されているわけである。これらが準備資本をなすのは、必要とあれば、すぐに売却して貸し付け可能な貨幣資本に転換可能だからである。本来の業務である産業資本や商業資本への貸し付けは、それらの資本の循環を待って初めて返済を受けることができるのであるが、有価証券への投資は、その点、必要とあらばいつでもそれを売却すれば、いつでも返済可能な形態にあり、だからそれらに投下されているものは準備資本と考えることができるわけである。

 

 ところで大谷氏は〈〔銀行業者資本の〕最大の部分〉に注3)を付けて、次のように説明している。

 

 〈3)「銀行業者資本の最大の部分」--d.bedeutendste Theilというこの語は,先行する「銀行業者資本の一部分」と区別される,「銀行業者資本」の「最大の部分」と読まれなければならない。長谷部訳でも岡崎訳でも,この語は「その最大〔の〕部分」と訳されているが,その場合には,直前の「この証券そのもの〔es… dies〕」の「最大の部分」ないし「現実の銀行業者業務では機能していない準備資本」の「最大の部分」と読まれざるをえない。不適訳であろう。したがってまた,同じ読み方をしていた筆者の旧稿での記述(「信用と架空資本」の草稿について(上)」,『経済志林』第51巻第2号,1983年,65ページ)も訂正されなければならない。

 

 つまり長谷部訳や岡崎訳では、このいわゆる利子生み証券に投下された銀行業者資本の最大の部分となり、これでは文章としては成り立たない。というのは「このいわゆる利子生み証券」というのは、それまで考察してきた国債や株式を指すのであり、その最大の部分が手形から成っているというのでは意味が通じないからである。因みにこの「不敵訳」は新日本新書版でも同上製版でも改まっていない。ところで大谷氏がここで訂正している「信用と架空資本」の草稿について(上)」では、わざわざ次のように訳している。

 

 〈 「さて,銀行業者資本の一部分はこのいわゆる利子付証券に投下されている。この証券そのものは,現実の銀行業務では機能していない準備資本の一部分である。〔この準備資本の--引用者〕最大の部分は,手形,すなわち生産的資本家や商人の支払約束から成っている。」(Ms.I,S. 338; MEW,Bd . 23,S. 487.) 〉(ここで「引用者」とあるのは引用している大谷氏自身のことである)。

 

 まだ長谷部訳などの場合は、その前後の文脈を正確に読み取るなら、「その最大の部分」の「その」が何を指しているのかを正しく理解することも可能なのであるが、大谷氏のように、わざわざ訳者自身が間違った挿入文を入れてしまうと、どうしようもないといわざるを得ない。この場合は明らかに「不適訳」であることは間違いない。

 だからこの部分は、次のように解釈できる。

 

 銀行業者が営業をするための資本の最大の部分は、手形、すなわち生産的資本家または商人の支払約束からなっている、と。

 

 つまり〈現実の銀行業者業務〉というのは、産業資本や商業資本への利子生み資本の貸し付けであると先に述べたが、その貸し付けの形態はさまざまなのであるが(エンゲルスはそれを1)無担保貸し付け、2)担保貸し付け、3)手形割引に分けている)、その最大の部分は手形割引で貸し付けられるということであろう。第28章では、エンゲルスは彼の挿入文のなかで、手形割引を、「まったく普通の売買である」と説明して、それが利子生み資本の貸し付けの一形態であることを見誤っていたが、手形割引は確かに直接的には銀行が業者が持参した手形を「買う」という外観をとるのであるが、しかし、あくまでもそれは利子生み資本の貸し付けの一形態なのである。

 ところで、この部分にも大谷氏は注5)を付けて、次のように説明している。

 

 〈5) 〔手稿異文〕ここに,次のように書いたのち,消している。--「手形は,それらの名目価値とそれらの市場価値との区別がないという点で,上で考察した有価証券とは区別される。手形は,満期になると今度は,振り出されたときの貨幣額よりも大きい貨幣額に転化する。」〉

 

 この一文をマルクスは最終的には消したのであるが、その内容をみると、興味深いことが分かる。というのは、ここではマルクスは、手形は、〈上で考察した有価証券〉、すなわち国債や株式のような〈いわゆる利子生み証券〉とは区別されるとしているからである。そしてその区別の根拠を〈名目価値とそれらの市場価値との区別がないという点〉だとしている。ところが本文をみると、〈貨幣の貸し手〔moneylender〕 にとっては,この手形は利子生み証券である〉とまったく逆の規定を与えているかに思えるからである。
 実は、この問題については、すでにわれわれは、【8】パラグラフの考察のなかで、次のように指摘しておいた。

 

 【ここでマルクスは、有価証券を、商業的有価証券(手形)とその他の有価証券に分けて、後者の説明として〈要するに利子生み証券であって,手形とは本質的に区別されるもの……である〉と述べている。これを読む限りでは、手形は「利子生み証券」に入らないように思えるのであるが、後に見るように、割り引かれた手形については、銀行から見れば、それは利子生み証券だとマルクスは述べている(【23】参照)。この点、やや疑問が残るが、それはそれが問題になるパラグラフ(【23】)で検討することにして、ここではとりあえずは、手形は利子生み証券には含まれないものとして理解しておくことにしよう。】

 だからわれわれはこの問題を考えなければならない。ししかしこの問題については、すでに以前、国債や株式について考察したところで回答は出ているのである。【17】パラグラフで、株式について、〈株式は,この資本によって実現されるべき剰余価値にたいする所有権原でしかないのである。Aはこの権原をBに売り,またBはCに売るかもしれない,等々。このような取引は事柄の性質を少しも変えるものではない。この場合,AまたはBは自分の権原を資本に転化させたのであるが,Cは自分の資本を,株式資本から期待されうる剰余価値にたいする,たんなる所有権原に転化させたのである〉と述べていた。ここで〈AまたはBは自分の権原を資本に転化させた〉のであるが、しかし〈このような取引は事柄の性質を少しも変えるものではない〉と述べられていた。この一文について、レジュメでは次のように説明した。

 

 【株式を最初に所有していたAからBに株式が販売され、さらにBはCに販売した場合、〈このような取引は事柄の性質を少しも変えるものではない〉とある。つまり株式が結合資本の所有権を表す証書であるとか、現実の資本を表すものであるとか、あるいは将来の剰余価値に対する所有権原であるという事柄そのものは何も変わらないと述べているのである。株式から得られる配当が株式が転売されたからといって配当でなくなるわけではないのである。ただそれを購入した、例えばCの私的な立場からすれば、それは彼の投下した利子生み資本に対する「利子」であると観念される。にも関わらず、客観的には配当であるという事柄は何も変わらないと言いたいのである。〈AまたはBは自分の権原(これは剰余価値に対する所有権原である)を資本に転化させた〉とあるが、もちろん、ここで「資本」というのは貨幣資本〔moneyed Capital〕、すなわち利子生み資本に転化させたということであろう。というのは、株式を購入することは、現実の資本の所有権あるいはそこから生み出される剰余価値に対する所有権原を入手することであり、そのこと自体は、決して彼の貨幣を利子生み資本として貸し付けたことを意味しない。なぜなら、利子生み資本の場合は、貸し付けた貨幣価値に対する所有権原は保持し続け、一定期間後には返済されることを前提しているのであるが、しかし株式に前貸された貨幣はそうした返済を前提にしたものではないからである。ところがAもBも彼らが保持した権原である株式を転売した時点で、彼らが前貸した貨幣額を回収するのであり、その限りでは、彼らの私的な立場からすれば、彼らが最初に投じた貨幣価値を利子生み資本に転化させて、その返済を受けたことになるのである。だからマルクスはここでAまたはBは自分の権原を資本(利子生み資本)に転化させたと述べているのである。】

 

 だからこの場合も、手形そのものは、マルクスが【8】パラグラフで述べていたように、他の利子生み証券とは〈本質的に区別される〉ものなのである。しかしその手形を銀行業者が割り引いて、銀行業者が保持しているならば、それは銀行業者資本の投下対象となったのであり、だからそれは銀行業者の立場からみれば、すなわち銀行業者の私的な立場からみれば、それは彼の利子生み資本を投下したものだから、その限りでは利子生み証券なのだとマルクスは述べているわけなのである(だからそれは利子生み資本の循環としては、一定期間後には利子を伴って還流してくることが期待されているのであるが、ただ手形割引の場合は、その利子分を先取りしているわけである)。だからこの場合も手形が手形であるということには何の変りもないのである。すなわち,それはそれを振り出した業者が一定期間後には額面の貨幣額を支払うという約束証書であるという〈事柄の性質を少しも変えるものではない〉わけである。そしてこの手形の客観的な性質においては、手形は株式や国債などの利子生み証券とは〈本質的に区別される〉ものなのである。しかし銀行業者の私的な立場からみれば、銀行業者に利子をもたらすものであり(銀行はそれを先取りするのだが)、よってそれは利子生み証券なのだということなのである。
 だから銀行業者はそれを買う(割引く)ときに、満期までの残存期間の利子を差し引くわけである(これが手形「割引」と言われる所以である)。だから手形の表している金額(すなわち額面金額)からどれだけ差し引かれるかは、そのときどきの利子率と満期までの残存期間によって定まるわけである。

 

【24】 

 

 〈【原注】|338下| a)手形は,「割引かれる財貨,すなわち随時に貨幣に転換される機会をもった財貨」になるのであって,「このような,為替手形〔bill〕または約束手形〔note〕 の額面からの割引あるいは控除は,手形の経過すべき期間についての額面にたいする利子に等しいものであって,〔貨幣への〕転換の価格として支払われるのである。」(ソーントン(H.)『大ブリテンの紙幣信用の性質と効果とについての研究』,ロンドン, 1802年,26ページ。)/〉

 

 これは〈手形は利子生み証券である。すなわち彼は,それを買うときに満期までの残存期間の利子を差し引く。だから,手形が表わしている金額からどれだけが差し引かれるかは,そのときどきの利子率によって定まる〉という部分につけられた原注a)である。ここで引用されているソーントンの著書は邦訳されている。マルクスが引用している部分を邦訳から前後を含めて紹介しておこう(ただし旧仮名遣いを改めてある。下線部分はマルクスが引用していると思われる部分)。

 

 〈これまでのところでは、為替手形や約束手形はもともとその振り出しを必要としたと思われる単純な目的のためにのみ作成されると考えてきた、また、そのことは常に手形の振り出される形式によっても表明されているのである。ところで、今度は、両種の手形ともさらにもう一つの特質、すなわち、割り引かれる物(アーチクル)、もしくは随時に貨幣に転換される便宜を備えた物(アーチクル)としての性質を持っていることを述べねばならない。この場合、為替または約束手形の額面からの割り引きあるいは控除は、手形の経過すべき期間についての額面に対する利子に等しいものであって、貨幣への転換の代価として支払われるのである。ニューヨークからロンドン宛に振り出され且つ債務の移転に役立つものであるというように、前のところで述べた為替手形も、その支払われる期日如何にかかわらず、同じように上述の目的に適うであろう。〉(邦訳52頁、『ソーントン・紙券信用論』渡辺佐平・杉本俊明 訳、実業之日本社 s.23.2.20発行)


『資本論』第3部草稿(現行版第5篇)の研究(29-14)

『資本論』第3部第1草稿・第5章(現行版・第29章「銀行資本の構成部分」)の解読

 

 〔大谷禎之介《「銀行資本の構成部分」(『資本論』第3部第29章)の草稿について--第3部第1稿の第5章から--》(『経済志林』63巻1号収載)の訳文を利用〕

 

 (今回からは、【8】パラグラフで分析していた銀行資本の構成部分の最初に出てくる〈1)現金(金または銀行券〉が対象になる。つまり構成部分として一番最初に上げられているものが、最後に分析されるわけである。)

 

 

【25】

 

 〈/338上/最後に,銀行業者の「資本」〔d. "Capital“d. bankers〕の最後の部分をなすものは,彼の貨幣準備(金または銀行券)である。預金は{長期について約定されているのでなければ}預金者がいつでも自由にできるものである。それは絶えず増減している。b) しかし,ある人がそれを引き出せば他の人がそれを補充するので,「一般的な平均額はあまり変動しない」のである。/〉

 

 ここに出てくる〈銀行業者の「資本」〔d. "Capital“d. bankers〉も、先のパラグラフの〈銀行業者資本〔Banquiercapital〉と同じであり、【8】に出てくる〈銀行資本〔Bankcapital〉や〈銀行業者の資本〔d.banker's capital〉と同じもの、すなわち「銀行業者が営業をするために保持している資本全般を意味するもの」と考えるべきであろう。そしてその最後のものが〈彼の貨幣準備(金または銀行券)である〉。先に【8】パラグラフの解読の時に掲載した図をもう一度紹介しておこう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 これまでこの図示されている銀行資本の構成部分に沿って、それぞれについて分析してきたわけである。【9】【21】パラグラフでは、このうちの「②その他の有価証券(利子生み証券)」が取り上げられ、架空資本の概念が明らかにされ、その独自の運動が解明された。【22】【23】パラグラフでは「①商業的有価証券(手形)」が取り上げられた。だから最後に残っているのは「1)現金(金または銀行券)」というわけである。だから考察の順序としては、上図の番号で示すと、2)の②→①→1)ということになる。
 ところが、マルクスは「現金」について説明するのではなく、すぐに「預金」の説明に移っている。これはどうしてであろうか。それは銀行資本の現実の構成部分である「現金」を、マルクスが〈彼の貨幣準備(金または銀行券)〉と説明していることを考えれば分かる。つまり銀行資本の構成部分をなす「現金(金または銀行券)」というのは、「預金」の支払準備だということである。つまり預金者が預金を引き出しに来た場合に、いつでも応じられるように準備しているのが銀行資本の構成部分である「現金」だということなのである。
 だからマルクスは、続けて、〈長期について約定されている〉もの、つまり「定期預金」のようなものではない限りは、預金は、〈預金者がいつでも自由にできるもの〉だから、〈それは絶えず増減している〉が、〈ある人がそれを引き出せば他の人がそれを補充するので,「一般的な平均額はあまり変動しない〉と述べているのである。だからある銀行の預金総額が例えば100億円だとしても、毎日引き出しに来る人の合計額は5000万円ぐらいであり、しかもある人がその日に現金100万円を引き出したと思ったら、別の人が同じ日に現金100万円を預金に来るという具合で、だから銀行が預金の引き出しのために常に準備しておかなければならない現金はだいたい1000万円ぐらいでよいというようなことになるわけである。

 

 

【26】

 

 〈【原注】/338下/b)「銀行の手中であろうと銀行業者の手中であろうと,商人たちが持っている貨幣は,いつでもきわめて大量ではあるが,絶えざる変動のなかにある。」(J.ステューアト,第4巻, 228ページ。)|〉

 

 この原注は、ただ銀行の手中にある現金は常に変動していることを指摘したものとして、紹介しているだけのようである。だからエンゲルスは編集の過程では削除したのであろう。先の原注aを削除したエンゲルスの編集には疑問符がつくが、今回はどうであろうか。



【27】

 

 〈/338上/銀行の準備ファンドは,資本主義的生産が発達している諸国では,平均的には,蓄蔵貨幣として現存する貨幣の量を表現しており,そしてこの蓄蔵貨幣の一部分は,それ自身また証券から,つまり,けっして自己価値ではない,金にたいするたんなる支払指図から成っている。それゆえ,銀行業者の資本の最大の部分は,純粋に架空なものである(すなわち債権 (手形と公的有価証券)および株式(将来の収益にたいする所有権原,支払指図) 〔)〕。この場合次のことを忘れてはならない。すなわち,銀行業者の金庫のなかにあるこれらの証券が表わしている資本の貨幣価値は,その証券が確実な収益にたいする支払指図(公的有価証券の場合のように)であるか,または現実の資本にたいする所有権原(株式の場合のように)であるかぎりでさえも,まったく架空なものであって,それはこれらの証券が表わしている現実の資本の価値からは離れて調整されるということ,あるいは,これらの証券がたんなる収益請求権である(そして資本ではない)場合には,同ーの収益にたいする請求権が,たえず変動する架空な貨幣資本で表現されるのだ,ということである。そのうえに,この架空な銀行業者資本〔die βfiktive Banker's Capital〕の大部分は,彼の資本を表わしているのではなく,利子がつくかどうかにかかわらず,その銀行業者のもとに預託している公衆の資本を表わしている,ということが加わる。〉

 

 このパラグラフと次の【28】パラグラフとは、【25】パラグラフで銀行業者の「資本」の最後の部分をなす「現金」について、「預金」とその「貨幣準備」との関連で考察したのに対応させて、まずこの【27】パラグラフでは、銀行の「準備ファンド」の性格を考察し、次の【28】パラグラフでは、「預金」のより深い考察がなされていると考えることができる。
 
 ところで、このパラグラフの解読に着手する前に、やっておくべきことがある。このパラグラフでは〈蓄蔵貨幣〉という用語が出てくる。しかも〈この蓄蔵貨幣の一部分は,それ自身また証券から,つまり,けっして自己価値ではない,金にたいするたんなる支払指図から成っている〉という文言も出てくる。しかしわれわれの理解では、蓄蔵貨幣というのは、『資本論』第1部第3章「貨幣または商品流通」第3節「貨幣」の中に出てくるものである。つまり定冠詞のつかない「貨幣」、第三の規定における「貨幣」、あるいは「本来の貨幣」と言われるものであり、金無垢でできているものでなければならないような性格のものでは無かったのか。ところがここではマルクスは蓄蔵貨幣の一部は「証券」(Papier--これはドイツ語では「紙」のことである)から、自己価値ではない単なる支払指図からなっているなどと述べている。果たしてこの蓄蔵貨幣というのは、われわれが『資本論』の冒頭で学んだ蓄蔵貨幣とはどう違うのか、それが問題である。われわれはそもそも「蓄蔵貨幣」とは何なのか、という根本的なことを、まずもって再検討しておかなければならないのである。実は「蓄蔵貨幣」は『資本論』全3巻にわたって出てくるカテゴリーであり、それらをつぶさに検討して行くと、なかなか一筋縄では行かないものであることが分かってくるのである。
 大谷氏は「貨幣の機能II」(『経済志林』62巻3・4号)のなかで、「蓄蔵貨幣」についてかなり詳細な検討を加えている。われわれはそれをも参考にしながら、この概念について検討することにする。ただしこの問題にはあまり多くを割けないので、結論だけを述べることにする(だから興味のある方は、大谷氏の論文を参照して頂きたい)。大谷氏は①『経済学批判』の原初稿、②『経済学批判』、③『1861-3年草稿』、④『資本論』第3部第1稿(第19章該当箇所)、⑤『資本論』第3部第1稿(第28章該当箇所)、⑥『資本論』第1部、という六つの文献からの引用文を紹介して、それらの引用文のなかに出てくる蓄蔵貨幣のマルクスの使用例を考察しながら、検討を加えている。
 それらを踏まえて「蓄蔵貨幣」を大まかに分類して図示すると次のようになると思われる。
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 最初の「蓄蔵貨幣」と「(1)本来の蓄蔵貨幣」が二重線で結ばれているのは、本来の蓄蔵貨幣こそが、蓄蔵貨幣の本源的な概念をなすものだからである。またマルクスが「それ自体としての蓄蔵貨幣」と述べているものは、(1)と(2)を含んだものであることを示している。
 さて、ここでは蓄蔵貨幣を大きく5つに分類したが、ここで(1)と(5)のみが、金貨幣か金地金で無ければならないが(しかし世界的な信用システムが発展している今日では(5)は必ずしも地金形態に限定されない)、それ以外の(2)~(4)はマルクス自身は必ずしもそうしたものに限定していないということである。
 例えば大谷氏は「価値章標は蓄蔵貨幣となりうるか」と題して、次のようなマルクスの一文を紹介している。

 

 〈「鋳貨は,それ自体として,すなわちたんなる価値章標として孤立させてみれば,ただ流通によってしか,また流通のなかでしか存在しない。たんなる価値章標は,それを貯める場合でさえも,ただ鋳貨として貯めることができるだけである。というのも,価値章標の力〔Macht〕は国境のところで終わるのだからである。この場合には貨幣蓄蔵は,流通の過程そのものから生じる,もともと流通の休止点にすぎない貨幣蓄蔵の諸形熊,すなわち,流通に予定された,鋳貨の蓄え〔Vorrath von Münze〕としての貨幣蓄蔵の形態,または国内鋳貨そのもので行なわれうる諸支払のための準備としての貨幣蓄蔵の形態以外まったく問題になりえない。つまり,本来の貨幣蓄蔵は問題になりえない。というのは、価値章標としての鋳貨には,貨幣蓄蔵の本質的要素が,すなわち,それが果たす社会的機能を別としても,ただ象徴的なだけの価値ではなくて,価値そのものの直接的定在でもあるがゆえに,特定の社会的関連から独立した富である,ということが,欠けているからである。したがって,価値章標にとってそれがそのような章標であるための条件となっている諸法則は,金属貨幣にとっては条件とはならない。というのも,金属貨幣は鋳貨の機能に縛りつけられてはいないからである。」 (MEGA,II/2,S,30-31.)〉

 

 このようにマルクスは鋳貨準備だけではなく、支払手段の準備も、価値章標によって可能であるとの理解に立っていることが分かるのである。大谷氏も〈要するに、価値章標は鋳貨の準備ファンドとも支払手段のための準備ファンドともなりうるのであって、この両者が「流通過程そのものから生じる、もともと流通の休止点にすぎない貨幣蓄蔵の諸形態」と見なされうるかぎり、価値章標は蓄蔵貨幣となりうる、と言いうるのである〉と結論している。
 そしてこうした主旨からすれば、(2)も同じように必ずしも金貨幣や地金形態でなければならない理由とはならないであろう。それはただ非自発的に流通が中断されて、商品の変態が第一変態で止まっているような状態、あるいは何らかの理由で支払差額が残っている状態を意味するのだからである。だからこれらもただ鋳貨がそのまま流通を停止しているとも考えることが可能だからである。
 また(4)の資本の流通過程から生じるものについては、大谷氏は紹介していないが、次のようなマルクスの言明がある。

 

 〈事態を現実に起きるとおりに見るならば、あとで使用するために積み立てられる潜在的な貨幣資本は次のものから成っている。
 (1)銀行預金。だが、銀行が現実に動かすことができるのは、比較的わずかな貨幣額である。ここではただ名目的に貨幣資本が積み立てられているだけである。現実に積み立てられているものは貨幣請求権であって、それが貨幣化されうる(いつか貨幣化されるかぎりで)ものであるのは、ただ、引き出される貨幣と預け入れられる貨幣とのあいだに均衡が成立するからでしかないのである。貨幣として銀行の手のなかにあるものは、ただ相対的にわずかな金額だけである。
 (2)政府証券。これはけっして資本ではなく、国民の年間生産物にたいする単なる請求権である。
 (3)株式。思惑的なものでないかぎり、それは、一つの会社に属する現実の資本にたいする所有証書であり、またこの資本から年々流れ出る剰余価値にたいする指図証券である。
 すべてこれらの場合には貨幣の積み立てが行なわれるのではなく、一方で貨幣資本の積み立てとして現われるものは、他方では貨幣の不断の現実の支出として現われるのである。貨幣がその所有者によって支出されるか、それとも彼の債務者である別人によって支出されるかということは、少しも事柄を変えないのである。
 資本主義的生産の基礎の上では貨幣蓄蔵そのものはけっして目的ではなく、むしろ流通の停滞の結果であるか--というのは通常よりも大きい貨幣量が蓄蔵貨幣形態をとるのだから--、または回転のために必要になる積み立ての結果であるかであり、あるいはまた、最後に、蓄蔵貨幣は、ただ、一時的に潜在的な形態にあってやがて生産資本として機能するべき貨幣資本の形成でしかないのである。〉
(第2部全集526-7頁)

 

 だから資本の流通過程それ自体から生じる蓄蔵貨幣(潜勢的な貨幣資本)には、さまざまな形態がありうるということである。またこうした準備ファンドで注意が必要なのは、〈準備金として機能している貨幣資本がその所有者のためには準備金の機能を果たしながら社会のためには現実に流通しており(銀行預金が絶えず貸し出されるように)、したがって二重の機能を果たしている〉(第2部全集422頁)場合があるということである。つまり準備ファンドとして蓄蔵貨幣の形態をとっているといっても、それは特定の当事者の私的な立場からのみそういえる場合があるのであって、そうした場合には、社会的には、あるいは客観的には必ずしもそうしたものではない場合もあるということに注意する必要があるわけである(この点、先の大谷氏の考察は貨幣取扱資本との関連においてやや不十分なところがある)。

 

 さて、やや前置きが長くなったが、こうした蓄蔵貨幣についての一般的な考察を踏まえて、われわれは今問題になっている【27】パラグラフの解読に取りかかることにしよう。このパラグラフは途中でさまざまな挿入文が括弧で括って入っており、ごちゃごちゃしていてややこしいので、適当な部分で区切って、一つ一つ考察していくことにしよう。

 

 〈銀行の準備ファンドは,資本主義的生産が発達している諸国では,平均的には,蓄蔵貨幣として現存する貨幣の量を表現しており,そしてこの蓄蔵貨幣の一部分は,それ自身また証券から,つまり,けっして自己価値ではない,金にたいするたんなる支払指図から成っている。〉

 

 ここで〈銀行の準備ファンド〉として述べている内容は、【25】パラグラフで述べていた〈貨幣準備(金または銀行券)〉だけではなく、【23】パラグラフで言及していた〈準備資本〉をも含めたものである。つまり銀行業者の資本が、〈現実の銀行業者業務〉として投下先を見いだせない(機能できない)ので、とりあえず準備資本として有価証券に投資されているような場合も含むのである。だからその一部が〈それ自身また証券から,つまり,けっして自己価値ではない,金にたいするたんなる支払指図から成っている〉というのはわれわれにとっては頷けることである。というのは、【23】パラグラフでは〈銀行業者資本〔Banquiercapital〕の一部分はこのいわゆる利子生み証券に投下されている。この証券そのものは,現実の銀行業者業務では機能していない準備資本の一部分である〉と述べられていたからである。
 だから問題は〈銀行の準備ファンドは,資本主義的生産が発達している諸国では,平均的には,蓄蔵貨幣として現存する貨幣の量を表現して〉いるということについてである。どうしてこのようなことが言えるのかは、貨幣取扱資本の機能について知る必要がある。マルクスは第25章該当箇所で、信用制度(銀行制度)の本来の基礎が商業信用にある一方で、他方の側面は貨幣取扱業の発展に結びついていると指摘していた。つまり銀行は貨幣取扱業としての側面も持っているわけである。少しその部分から紹介しておこう。

 

 〈すでに前章(これは現行の第19章「貨幣取扱資本」部分をさす--引用者)で見たように,商人等々の準備金の保管,貨幣の払い出しや受け取りの技術的諸操作,国際的支払(したがってまた地金取引)は,貨幣取扱業者の手に集中される。貨幣取扱業というこの土台のうえで信用制度の他方の側面が発展し,〔それに〕結びついている,--すなわち,貨幣取扱業者の特殊的機能としての,利子生み資本あるいは貨幣資本(マニド・キャピタル)の管理である。貨幣の貸借が彼らの特殊的業務になる。彼らは貨幣資本(マニド・キャピタル)の現実の貸し手と借り手とのあいだに《媒介者として》はいってくる。一般的に表現すれば,銀行業者の業務は,一方では,貸付可能な貨幣資本(ゲルト・キャピタル)を自分の手中に大規模に集中することにあり,したがって個々の貸し手に代わって銀行業者がすべての貨幣の貸し手の代表者として再生産的資本家に相対するようになる。彼らは貨幣資本(マニド・キャピタル)の一般的な管理者としてそれを自分の手中に集中する。他方では,彼らは,商業世界全体のために借りるということによって,すべての貸し手に対して借り手を集中する。(彼らの利潤は,一般的に言えば,彼らが貸すときの利子よりも低い利子で借りるということにある。)銀行は,一面では貨幣資本(マニド・キャピタル)の,貸し手の集中を表わし,他面では借り手の集中を表わしているのである。〉 (「信用と架空資本」(『資本論』第3部第25章)の草稿について(中)、13頁)

 

 また大谷氏は先に紹介した論文のなかで、第19章該当の草稿からかなり長い引用を行っているが、その部分も重要なので、紹介しておこう。

 

 〈資本のうちの一定部分はたえず蓄蔵貨幣として存在していなければならず(購買手段の準備,支払手段の準備,遊休していて貨幣形態のままで、充用を待っている資本),また資本のうちの一部分はたえずこの形態で還流してくる。このことは,支払や収納や簿記のほかに,蓄蔵貨幣の保管を必要にするのであり,これはまたこれで一つの特殊な操作である。つまりそれは,実際には,蓄蔵貨幣をたえず流通手段や支払手段に分解することであり,また,販売で受け取った貨幣や満期になった支払から蓄蔵貨幣を再形成することである。……
 貨幣の払い出し,貨幣の収納,差額の決済,貨幣の保管,等々は,これらの技術的操作を必要とさせる諸行為から分離して,これらの機能に携わる資本を貨幣取扱資本にするのである。……
 資本主義的生産過程から(生産がまだ資本主義的に営まれていないところでさえも商業一般から生じるように)次のことが生じてくる。第1に,蓄蔵貨幣としての貨幣の形成,すなわち,今では資本のうち支払手段および購買手段準備金として《つねに》貨幣形態で存在しなければならない部分の形成。これは蓄蔵貨幣の第1の形態であって,それが資本主義的生産様式のもとで再現する(また総じて商業資本が発展するさいに少なくともこの資本のために形成される)のである。どちらも国内流通ならびに国際的流通のため〔のものである〕。この蓄蔵貨幣はたえず流動しており,たえず流通に注ぎ,またたえず流通から帰ってくる。
 第2の形態は,遊休していて目下のところ運用されていない(貨幣形態にある)資本,あるいは,蓄積されたがまだ投下されていない資本〔である〕。この蓄蔵貨幣形成それ自体によって必要となる機能は蓄蔵貨幣の保管,簿記,等々である。しかし,これらのことには,
 第2に,買うときの貨幣の支払,売るときの収納,支払金の支払と受領,諸支払の決済,等々が結びついている。これらすべてのことを,貨幣取扱業者はなによりもまず,商人や産業資本家の単なる出納代理人として行なうのである。……
 貨幣取扱業は,蓄蔵貨幣を形成するのではなく,この蓄蔵貨幣形成が自発的であるかぎり(したがって遊休資本の表現または再生産過程の撹乱の表現でないかぎり),それをその経済的最小限に縮小するための技術的手段を提供するのである。というのは,購買手段および支払手段のための準備金は,資本家階級全体のために管理される場合には,各個別資本家によって管理される場合ほど大きい必要はないからである。〉
(「貨幣取扱資本」(『資本論』第3部第19章)の草稿について、286-301頁)

 

 だから産業資本や商業資本が彼らの蓄蔵貨幣(それは鋳貨準備であったり、支払準備であったり、世界貨幣の準備であったり、とりあえずは投資する前の貨幣であったり、固定資本の償却費用であったり、等々であるが)のほとんどを銀行は預金として引き受けるわけである。先の蓄蔵貨幣の分類のうちで(1)を除く、ほとんどが銀行に預金として集中してくるわけである。しかもそれらは〈経済的最小限に縮小〉されて存在しているわけだから、それらは資本主義的生産が発展している諸国では、社会的には蓄蔵貨幣として現存する量をほぼ表現しているといえるわけである。というのは、産業資本家や商業資本家は彼らの蓄蔵貨幣を実際の流通や投資に必要な限りで、銀行から引き出すのであるが、銀行の準備ファンドというのは、そうした産業資本家や商業資本家の引き出しに応じることのできる必要最小限を充すものでなければならないからである。その量は経験的に決まってくる。ただ産業資本家や商業資本家たちが彼らの蓄蔵貨幣を銀行に預金している場合、これらの再生産的資本家たちにとっては蓄蔵貨幣であっても、しかし彼らの預金は、すでに銀行にはなく、ただ記録だけがあるだけに過ぎない場合もあるわけであって、だから銀行の準備ファンドは、再生産的資本家たちにとっての蓄蔵貨幣の総額よりかなり少ないものであることは確かであろう。
 そして問題なのは、こうした銀行の準備ファンドの一部分(【25】で問題になった貨幣準備のうち金は除く)は、証券から、つまり自己価値ではない、金にたいする支払指図からなっているわけである(金に対する支払指図という点では貨幣準備の一部を構成する銀行券にも妥当するであろう)。

 

 〈それゆえ,銀行業者の資本の最大の部分は,純粋に架空なものである(すなわち債権 (手形と公的有価証券)および株式(将来の収益にたいする所有権原,支払指図) 〔)〕〉

 

 ここで〈銀行業者の資本の最大の部分〉というのは、その前の〈銀行の準備ファンド〉と同じではない。というのは、われわれは【23】パラグラフで〈〔銀行業者資本の〕最大の部分は,手形,すなわち生産的資本家または商人の支払約束から成っている〉という一文を知っているからである。だからここで言われている〈銀行業者の資本の最大の部分〉というのは、その前に言われていた〈銀行の準備ファンド〉プラス〈手形,すなわち生産的資本家または商人の支払約束〉と考えるべきであろう。そうすれば、括弧のなかでマルクスが述べていることも自ずと理解できるようになる。つまり、マルクスは括弧のなかで、〈債権 (手形と公的有価証券)および株式(将来の収益にたいする所有権原,支払指図) 〉を上げているが、だからここに手形が入っているのも頷けるのである。そして手形も含めてマルクスが〈純粋に架空なもの〉と述べているのは(それ以外のものが純粋に架空なものであるのは何も問題にはならないのであるが)、【23】パラグラフではこのような割り引きされた〈手形は利子生み証券である〉とも述べていたことを思い出せば、納得行くであろう。手形そものはそれが「真正」であるなら(つまり「空」手形や詐欺のための手形や手形貸付による手形等ではないなら)、架空とはいえないが、しかし割引されて銀行が保有する手形は、銀行にとっては「利子生み証券」であり、その限りでは「架空なもの」なのである。また手形も有価証券であるかぎり、マルクスがここで述べている〈けっして自己価値ではない,金にたいするたんなる支払指図〉であることもまた間違いない事実であろう。
 以前にも指摘したことがあるが、銀行が割り引いて保有する手形が、架空なものであるということは、再生産の観点から考えると明瞭に理解できる。ここに資本家Aがおり、彼が生産した商品を信用で資本家Bに販売し、Bが発行した約束手形を持っているとしよう。この場合の手形は決して架空なものではない。というのはこの手形は資本家Aが生産した商品の価値の有価証券の形態における実現形態だからである(それは期日が来れば確実に金貨幣に転換されうる)。しかし彼がその手形を銀行に割り引いて貰い、その代わりに銀行券を入手したとすると、その結果、銀行が保有することとなった手形は、すでに架空なものでしかないのである。というのは、銀行はただ銀行の信用だけで発行した銀行券の代わりに手形を持っているわけだからである。また資本家Aは自らの商品の価値の実現形態をすでに銀行券という形で先取りしたわけだからである。だからもはや銀行が保有する手形は、すでにそうした現実の商品価値の実現形態ではなくなっているのである。だからこうした割引手形は〈純粋に架空なもの〉ということができるのである。

 

 〈この場合次のことを忘れてはならない。すなわち,銀行業者の金庫のなかにあるこれらの証券が表わしている資本の貨幣価値は,その証券が確実な収益にたいする支払指図(公的有価証券の場合のように)であるか,または現実の資本にたいする所有権原(株式の場合のように)であるかぎりでさえも,まったく架空なものであって,それはこれらの証券が表わしている現実の資本の価値からは離れて調整されるということ,あるいは,これらの証券がたんなる収益請求権である(そして資本ではない)場合には,同ーの収益にたいする請求権が,たえず変動する架空な貨幣資本で表現されるのだ,ということである。〉

 

 まずこの文章で注意深く読まなければならないのは、〈これらの証券が表わしている資本の貨幣価値〉と〈これらの証券が表わしている現実の資本の価値〉とは異なるものであるということである。前者は証券が表す額面ではなく、それが資本価値として売買される場合の市場価値を意味しているのである。それに対して後者は額面を意味している。そしてマルクスはこれらの〈資本の貨幣価値〉が〈まったく架空なものであ〉ると述べているわけである。
 この文章を注意深く分析すると、次のような構成が見えてくる。まず〈銀行業者の金庫のなかにあるこれらの証券が表わしている資本の貨幣価値〉が主語になって、それらは〈まったく架空なものであ〉ると結論づけられている。そして〈これらの証券〉として、具体的には、一つは〈確実な収益にたいする支払指図(公的有価証券の場合のように)〉と、もう一つは〈現実の資本にたいする所有権原(株式の場合のように)〉が例として上げられていて、そうしたものの場合にも、やはり〈まったく架空なものであ〉ると言明されているわけである。
 そしてそれに続く一連の文章は、それらが〈まったく架空なものであ〉ることのさらなる説明であると考えられる。ただその説明の順序が今度は逆になっているのである。つまり最初の〈それはこれらの証券が表わしている現実の資本の価値からは離れて調整されるということ〉というのは、もう一つの例として示された〈現実の資本にたいする所有権原(株式の場合のように)〉について述べているのである。つまり株式の市場価値は、株式が表している現実の資本の価値から離れて調整されるという事実を指摘しているわけである。それに対してその次に述べていること、〈あるいは,これらの証券がたんなる収益請求権である(そして資本ではない)場合には,同一の収益にたいする請求権が,たえず変動する架空な貨幣資本で表現されるのだ〉というのは、実は〈銀行業者の金庫のなかにあるこれらの証券〉の具体例として最初に述べられていた〈確実な収益にたいする支払指図(公的有価証券の場合のように)〉が〈まったく架空なものであ〉ることの説明なのである。つまり国債のような〈収益請求権(そして資本ではない〉のようなものは、同一の収益(例えば額面100万円に確定利息として5%がついているなら、毎年5万円の収益が約束されている)に対して、その時々の市場利子率の変動に応じて、その5万円の収益が〈たえず変動する架空な貨幣資本で表現される〉わけである。例えば市場利子率が1%なら、5万円は500万円の想像された利子生み資本の1%の利子とみなされ(資本還元され)、よって額面100万円の国債は500万円の資本価値(資本の貨幣価値)をもつことになるというわけである。

 

 〈そのうえに,この架空な銀行業者資本〔die βfiktive Banker's Capital〕の大部分は,彼の資本を表わしているのではなく,利子がつくかどうかにかかわらず,その銀行業者のもとに預託している公衆の資本を表わしている,ということが加わる。〉

 

 さらに銀行業者資本の大部分は、公衆が銀行業者のもとに預託しているものだということがつけ加わるわけである。つまりそれだけ銀行業者の資本というのは、架空なものであるばかりでなく、他人のもので営業しているような性格のものであるということなのだ。

 

 

 

 

 

 


『資本論』第3部草稿(現行版第5篇)の研究(29-15)

『資本論』第3部第1草稿・第5章(現行版・第29章「銀行資本の構成部分」)の解読

 

 〔大谷禎之介《「銀行資本の構成部分」(『資本論』第3部第29章)の草稿について--第3部第1稿の第5章から--》(『経済志林』63巻1号収載)の訳文を利用〕

 

 (前回の【27】パラグラフの解読の中で、次のように指摘した。

 

 〈このパラグラフ(つまり【27】パラグラフ)と次の【28】パラグラフとは、まず【25】パラグラフで銀行業者の「資本」の最後の部分をなす「現金」について、「預金」とその「貨幣準備」との関連で考察したのに対応させて、最初にこの【27】パラグラフでは、銀行の「準備ファンド」の性格を考察し、次に【28】パラグラフでは、「預金」のより深い考察がなされていると考えることができる。〉

 

 つまり今回の【28】パラグラフは、〈「預金」のより深い考察がなされている〉のであるが、この問題に関連して、いわゆる現代の問題である「預金通貨」についてもかなり詳しく論じることとなった。)

 

【28】

 

 〈預金はつねに貨幣(金または銀行券)でなされる。準備ファンド(これは現実の流通の必要に応じて収縮・膨張する)を除いて,この預金はつねに,一方では生産的資本家や商人(彼らはこの預金で手形割引を受けたり貸付を受けたりする)の手中に,または有価証券の取引業者(株式仲買人)の手中に,または自分の有価証券を売った私人の手中に,または政府の手中にある(国庫手形や新規国債の場合であって,銀行業者はこれらのうちの一部を担保として保有する)。預金そのものは二重の役割を演じる。一方ではそれは,いま述べたような仕方で利子生み資本として貸し出されており,したがって銀行業者の金庫のなかにはなくて,ただ銀行業者にたいする預金者の貸し勘定〔Guthaben〕として彼らの帳簿の[526]なかに見られるだけである。他方では,商人たち相互間の(総じて預金の所有者たちの)互いの貸し勘定が彼らの預金にあてた振出しによって相殺され互いに帳消しにされるかぎりでは,預金は《貸し勘定の》そのようなたんなる記録として機能する(その場合,それらの預金が同一の銀行業者のもとにあってこの銀行業者が別々の信用勘定を互いに帳消しにするのか,それとも別々の銀行業者が彼らの小切手を交換し合って互いに差額を支払うのかは,まったくどちらでもかまわない)。〉

 

 このパラグラフは、先の【27】パラグラフの解読の冒頭でも述べたように、【25】パラグラフで銀行業者の「資本」の最後の部分をなす「現金」について、「預金」とその「貨幣準備」との関連で考察したのに対応させて、【27】パラグラフで「準備金」が考察されたのに対応させて、「預金」が考察の対象になっている。そしてこの部分は現代的な問題でもある、いわゆる「預金通貨」の概念とも深く関連してくるのである。しかしその検討は後に行うとして、とりあえずは、われわれはこのパラグラフそのものの詳しい解読から始めることにしよう。

 ここではまず〈預金はつねに貨幣(金または銀行券)でなされる〉と述べられている。これはいわゆる一般的には「本源的預金」と言われるものと考えて良いであろう(マルクス自身がこうした用語を使っているのかは知らないが)。というのは、マルクスは第28章該当部分において、次のように述べていたからである。

 

 〈銀行は,紙券のかわりに帳簿信用を与えることもできる。つまりこの場合には,同行の債務者が同行の仮想の預金者になるのである〉(「流通手段と資本」(『資本論』第3部第28章)の草稿について、262頁)

 

 つまり銀行は産業資本家や商業資本家が持参した手形を割り引いて、銀行券を手渡す(貸し出す)代わりに、帳簿信用を与えることもできるわけである。つまり預金設定を行い、割り引いた手形の代金を帳簿上に書き加えて手形持参人名義の預金として設定するわけである。だからこの場合、預金は事実上手形によってなされたことになる。しかしマルクス自身は、この場合は銀行から貸し出しを受けた業者が〈仮想の預金者になる〉と述べており、預金者が銀行に貨幣(金または銀行券)を持参して行う「本源的な預金」と区別しているように思える。
 ところでエンゲルスは編集において〈貨幣(金または銀行券)で〉の部分を〈貨幣で、すなわち金または銀行券か、これらのものにたいする支払指図で〉と修正したのであるが、しかしこの修正はマルクスの意図をむしろねじ曲げるものといえるように思える。エンゲルスにしてみれば、商業実務に通じているが故に、手形や小切手等、支払指図での預金が日常的に行われている経験にもとづいてこうした修正を施したのであろうが、しかし、マルクスの意図としては、そうした支払指図による預金は、すでに銀行による貸し出しの一形態であり、貨幣を持ち込んでの預金とは明確に区別されるべきものなのである。
 とにかく、われわれは、マルクスの言明にもとづいて、ここでは預金は常に貨幣(金または銀行券)でなされるものと考えることにしよう。

 

 次の〈準備ファンド(これは現実の流通の必要に応じて収縮・膨張する)を除いて,この預金はつねに,一方では生産的資本家や商人(彼らはこの預金で手形割引を受けたり貸付を受けたりする)の手中に,または有価証券の取引業者(株式仲買人)の手中に,または自分の有価証券を売った私人の手中に,または政府の手中にある(国庫手形や新規国債の場合であって,銀行業者はこれらのうちの一部を担保として保有する)〉という部分に出てくる〈この預金は〉というのは、正確には「この預金された貨幣(金または銀行券)は」という意味である。つまり預金された貨幣(金または銀行券)は、銀行に留まっているわけではなく、すぐに一定額の準備ファンド(これは預金者の引き出しに応じるために銀行に準備しておくべきものである)を除いて、直ちに貸し出されたり、運用される、ということである。そしてその貸し出し先や運用先が、その次に書かれている内容である。

 (1)〈一方では生産的資本家や商人〉に貸し出されるが、それは手形割引や貸し付け(担保貸し付けか、無担保貸し付けか)によってなされるわけである。
 (2)〈または有価証券の取引業者(株式仲買人)〉に貸し付けられる。
 (3)〈または自分の有価証券を売った私人の手中に〉。つまりこれは銀行が預金された貨幣(金または銀行券)で私人から有価証券を購入した場合のことである。
 (4)〈または政府の手中にある〉。つまり政府に貸し出されるわけである。そしてその場合には銀行業者は国庫手形や新規国債を担保として保有することになるわけである。これはあるいは新規国債を銀行が引き受ける場合も入るかも知れない。

 

 その次からは預金の機能が考察されており、これは現代的な意味でも極めて重要である。

 

 〈預金そのものは二重の役割を演じる。一方ではそれは,いま述べたような仕方で利子生み資本として貸し出されており,したがって銀行業者の金庫のなかにはなくて,ただ銀行業者にたいする預金者の貸し勘定〔Guthaben〕として彼らの帳簿の[526]なかに見られるだけである

 

 ここでマルクスは〈預金そのものは〉と書いているが、これはその前の〈この預金は〉という場合とは若干異なる。その前の場合は、「この預金された貨幣(金または銀行券)は」という意味であった。しかし今回の〈預金そのものは〉は、それだけではなく、預金として銀行の帳簿に記録されたものも含まれているわけである。そしてその上でそれは〈二重の役割を演じる〉とされている。
 一つは「預金された貨幣(金または銀行券)」は、すでに見たように、利子生み資本として貸し出される(有価証券の購入も利子生み資本の運動であり、よってその貸し出しである)。だから銀行業者の金庫の中にはそれらはなくて、ただ銀行業者にたいする預金者の貸し勘定として銀行の帳簿上にあるだけである。預金そのものは銀行にとっては債務であり、預金者は銀行に債権を持っていることになる。以前紹介した銀行の貸借対照表をもう一度紹介してみよう。
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 このように預金は銀行にとって負債の部に入るわけである。
 そしてこの銀行の帳簿上にある預金の記録が独特の機能を果たすわけである。すなわち--

 

 〈他方では,商人たち相互間の(総じて預金の所有者たちの)互いの貸し勘定が彼らの預金にあてた振出しによって相殺され互いに帳消しにされるかぎりでは,預金は《貸し勘定の》そのようなたんなる記録として機能する(その場合,それらの預金が同一の銀行業者のもとにあってこの銀行業者が別々の信用勘定を互いに帳消しにするのか,それとも別々の銀行業者が彼らの小切手を交換し合って互いに差額を支払うのかは,まったくどちらでもかまわない)〉。

 

 この預金の機能こそ、世間では「預金通貨」と言われているものなのである。具体的な例で紹介しよう。

 今、銀行Nに商人aと商人bがそれぞれ預金口座を持っていたとしよう(この場合、マルクスも述べているように、a、bが別々の銀行に口座を持っていても基本的には同じであり、ただ若干複雑になるだけである)。今、商人aは商人bから商品を購入した代金100万円をN宛の小切手で支払うとしよう。すると商人bはその小切手をNに持ち込み、預金する。するとNはaの口座から100万円を消し、bの口座に100万を書き加える。そうするとaとbとの取引は完了したことになる。この場合、aの預金はbに支払われたのだから、預金が「通貨」として機能したのだ、というのが預金通貨論者の主張なのである。しかしマルクス自身は、こうしたものを「預金通貨」とは述べていない。ただ〈たんなる記録として機能する〉と述べているだけである。実際、預金は決して「通貨」のようにaの口座からbの口座に「流通」したわけではない。ただ帳簿上の記録が書き換えられただけなのである。だからここでは貨幣はただ計算貨幣として機能しているだけなのである。

 ただここに問題が発生する。マルクスは〈商人たち相互間の(総じて預金の所有者たちの)互いの貸し勘定が彼らの預金にあてた振出しによって相殺され互いに帳消しにされるかぎりでは〉と述べているが、しかし今見た具体例では何も相殺もされていないではないか、というのである。ただaの口座がbの口座に振り替えられただけであって、aがbに100万円の貸しがあり、同じようにbもaに100万円の貸しがあり、それらが互いに相殺されたというようなことではない、だから先の具体例は、マルクスがここで預金がただ記録として機能する場合とは異なるのであり、先の具体例には「相殺」の事実は無く、あくまでも預金そのものが支払手段として、よって「通貨」として機能したと捉えるべき事例なのだ、というのである。果たしてそうした主張は正しいのかどうか、それが問題である。実は、この問題については、私とT氏との間で長い論争があり、まだ決着がついたとはいえないのであるが、その紹介は後に譲って、もう一人の預金通貨論者である大谷禎之介氏に登場してもらうことにしよう。

 「預金通貨」の概念を肯定する大谷氏は「信用と架空資本」の(下)で次のように述べている。少し長くなるが紹介しておこう。

 

 〈草稿317ページの下半部には,さらに,上の「a)」と「b)」との両方への注記として書かれた「注aおよびbに」という注がある。この注にある引用はボウズンキットからのものであるが,そのうちのはじめの2つ(82ページ, 82-83ページ〉は,エンゲルス版には取り入れられていない。この省かれた2つの引用の存在は注目に値する。第1のものは次のとおりである。
 「預金が貨幣であるのは,ただ,貨幣の介入なしに財産(property)を入手から人手に移転することができるかぎりでのことである。」
 ボウズンキットの原文ではここは次のようになっている。
 「預金が流通媒介物の一部をなすことについてのいっさいの問題は,私には次のことであるように思われる,--預金は,貨幣の介入なしに,財産を人手から入手に移転することができるのか,できないのか? 貨幣の全目的が預金によって,貨幣なしに達成されるかぎりでは,預金は独立の信用通貨をなすものである。預金が貨幣によって支払をなし遂げ,財産を移転するかぎりでは,預金は通貨ではない。というのは,後者の場合には,支払をなすのは銀行券または鋳貨であって,預金ではないからである。」(J.W.Bosanquet,Metallic,Paper,and Credit Currency,London 1842,p. 82.)
 ボウズンキットは,「金属通貨」と銀行券たる「紙券通貨」とから為替手形と預金とを「信用通貨」として区別するが,この後者の2つは,それらが「貨幣なしに財産を人手から入手に移転する」かぎりで「通貨」たりうるのだとしている。マルクスがここを要約・引用したのは,預金の振替が,手形の流通と同じく信用による貨幣の代位であり,最終的に貨幣なしに取引を完了させるかぎりではそれは「通貨」(
?どうして「貨幣」ではなくて「通貨」なのか--引用者)として機能しているのだ,という観点によるものであろう。
 上に続く要約・引用の部分では,貸付のために設定された預金はそれだけの通貨の増加であるとされている。
 「預金は,銀行券または鋳貨がなくても創造されることができる。たとえば,銀行家が不動産所有証書等々を担保として6万ポンドの現金勘定を開設する。彼は自分の預金に6万ポンドを記帳する。通貨のうち,金属と紙との部分の量は変わらないままだが,購買力は明らかに6万ポンドの大きさまで増加されるのである。」
 以上の2つの引用が注目に値するのは,さきの本文パラグラフに関連してマルクスが手形のみならず預金をも考慮に入れていたことが,これによってはじめて明らかとなるからである。信用による貨幣の代位,貨幣機能の遂行は,信用制度のもとでは,銀行券流通と預金の振替という新たな形態をもつようになるが,その基礎が手形とその流通とにあるのだということ,このことをマルクスがここで考えていたことは疑いない
。〉(「信用と架空資本」(『資本論』第3部第25章)の草稿について(下)10-11頁)

 

 大谷氏はマルクスがボウズンキットから要約・引用したのは,預金の振替が,手形の流通と同じく信用による貨幣の代位であり,最終的に貨幣なしに取引を完了させるかぎりではそれは「通貨」として機能しているのだ,という観点によるものであろうと考えている。つまりマルクスも預金は通貨として機能するという観点に立っていたのだが、しかしエンゲルスは、意図的にそうした預金の通貨としての機能について述べている部分をカットしているのだ、と言いたいのである。
 しかし、今回の【28】パラグラフを見ても分かるが、マルクス自身は預金の振替について、〈商人たち相互間の(総じて預金の所有者たちの)互いの貸し勘定が彼らの預金にあてた振出しによって相殺され互いに帳消しにされるかぎりでは,預金は《貸し勘定の》そのようなたんなる記録として機能する〉と述べているだけであって、決して〈「通貨」として機能する〉とは述べていないのである。これを「通貨」というのは、「通貨」概念の混乱でしかないのである。

 

 では、先に紹介した問題はどのように考えたら良いのであろうか。先の具体的な例は、果たしてここでマルクスが述べているような「相殺」の事例といえないのかどうかである。この点については、これまで私とT氏との間で一定の長い込み入った議論があるが、その一部を紹介することにしよう。次に紹介するのは私のT氏に宛てたメールである。

 

 【Tさんは大要次のように主張します。a、b間の預金の振替の場合は「相殺」ではない(aの預金が減って、bの預金が増えただけだから)。マルクスが29章で預金が「単なる記録として機能する」として述べているのは、「相殺」されるケースだけであり、だからこの場合はマルクスが述べているケースには当てはまらない。この場合は、「相殺」ではないのに、現金が介在しないケースとして捉えるべきであり、だからこの場合は、マルクスが論じている預金の「二番目の役割」とは異なり、いわば「三番目の役割」ともいうべきものである。この場合、aの預金は「支払手段として流通した」と捉えることができる(実際、aの債務は決済されており、aの預金はaの口座から、bの口座に「移動」したのだから、これを「流通した」と言って何か不都合があるだろうか)。だからこの決済に利用された預金は「広い意味での流通手段」ということができ、だから「預金通貨」と言っても何ら問題ではない、と。
 さて、ここでTさんが預金が決済に使われながら「相殺」にならないケースとして述べているのは、もう一度具体例を上げて言うと次のようなものです。aはbから100万円の商品を購入するが、その支払をaの取引銀行であるN銀行に宛てた100万円の小切手で支払い、それを受け取ったbはやはり自身の取引銀行であるN銀行にそれを持ち込んで預金する、するとaの預金口座からは100万円が減り、bの預金口座には100万円が追加される、つまりここでaの預金100万円はbの口座に「流通」し、aのbに対する債務を決済したのだから、aの預金100万円は支払手段として機能したのである。だから預金はこの場合は「広い意味での流通手段」であり、「通貨」として機能したといえる。だから「預金通貨」という概念は有効である、とまあ、こういう話なわけです。
 問題なのは、a、b間の預金の振替というのは、何も「相殺」にはなっていない。ただaのbに対する債務がaの預金によって(すなわち預金がaの口座からbの口座に「移動」することによって)決済されただけではないか、というTさんの主張です。果たしてこうした主張は正しいのかどうかが十分吟味されなくてはなりません。
 ここで問題なのは、Tさんはaとbとのあいだの債権・債務関係だけを見ていることです。確かにaが同じように信用でbから商品を購入し、その支払を後に現金で行うなら、その場合はその商品流通に直接係わっているのは、その限りではaとbとの二者だけであり、a、bの関係だけを見て論じればよいわけです。しかしTさんの述べているケースは、このケースと同じではなく、a、bは互いに預金口座をN銀行に持っており、その振替で決済を行ったのです。つまりこの商品流通には、N銀行という第三者が最初から係わっているのです。だからわれわれはこの一連の取引を、最初からa・b・Nという三者の関係として捉える必要があるわけです。Tさんは、a、b間の問題に銀行という別の問題を持ち込むと言いましたが、そうではなく、それは「別の問題」ではなく、最初から銀行はa、b間の関係の中に仲介者として存在していたのです。それをTさんは都合よく捨象し、それでいて預金という銀行が介在しないとありえない問題を論じていたというわけなのです。
 だからわれわれは最初からa、b、N銀行という三者の債権・債務関係として先の一連の取引を考えなければならないわけです。それを考えてみましょう。

 (1) まずaが100万円をN銀行に預金します。つまりNはaに100万円の債務を負い、aはNに対して100万円の債権をもちます。
 (2) 次に、aはbから100万円の商品を信用で買う契約をし、商品の譲渡を受けて、それと引換えにNに対する支払指図書(N宛の小切手)をbに手渡します。aは譲渡された商品を消費します(生産的にか、個人的にか)。この場合、aがbに手渡した小切手は、Nにとっては自行の支払約束(手形)ということができます。なぜなら、小切手はaが振り出したものですが、その支払いを実際にするのはN銀行だからです。
 (3) bは受け取った100万円の小切手をNに持ち込み、預金します。すると、Nは自身の支払約束が自分自身に帰って来たので、もはや100万円を支払う必要がなくなります。Nはただaの口座から100万円の記録を抹消し、bの口座に100万円の記録を追記すれば済むわけです。

 このように、この一連の取引は、明らかにNにとっては、自身の振り出した支払約束(手形)が自分自身に帰って来たケース(商人Aが振り出した手形が、商人A→商人B→商人C→商人Aという形でAに帰って来たケース。つまり商人Aが信用で商人Bから商品を購入して約束手形を発行した場合、それを受け取った商人Bが、商人Cから信用で商品を購入して、その代金の代わりにAが発行した手形に裏書きして手渡し、次に商人Cがやはり商人Aから信用で商品を購入してA発行の手形をAに手渡した場合、この一連の商品取引による信用の連鎖は相殺されて、貨幣の介在なしに決済されたことになる場合)と類似していると考えられ、だからそれは相殺されたと考えることができます。だからまたNは現金を支払う必要はなかったのだと言うことができます。だからNはただ帳簿上の記録の操作を行うだけで、一連の取引を終えることができたわけです。だからここでは預金は、明らかに「たんなる記録として機能した」と言うことができるでしょう。マルクスもまた次のように述べています。

 《諸支払が相殺される限り、貨幣はただ観念的に、計算貨幣または価値尺度として機能するだけである》(『資本論』第1部全集版180頁)。

 この場合、もしbがN銀行と取引がなく、aから受け取った小切手をN銀行に提示して現金の支払いを求めるなら、相殺は成立せず、現金が出動する必要があるわけです。これはCがAとの取引がないため、Bから受け取ったA発行の手形を満期がきたので、Aに提示してその支払いを求めるのと同じであり、やはり一連の債権・債務の取引に相殺が成立しなかったことになるでしょう。
 確かにa-b間では、相殺はないかに見えます。aは自身の債務を決済したに過ぎないからです。しかし同じことは、A→B→C→A間の一連の信用取引を見ても、B-C間だけを全体の信用取引から切り離して見れば相殺はないように見えます。BはCに対する自身の債務をただAに対する自分の債権、すなわちAが発行した支払約束で決済しただけだからです。しかし、A→B→C→Aの一連の債権・債務関係の全体を見るなら、Aの発行した手形がA自身に帰ることによってこの一連の信用取引の連鎖は相殺されており、だからこの一連の取引は現金の介在なしに終わっているわけです。同じことは、N→a→b→Nの一連の債権・債務関係のつながりについても言いうるのではないでしょうか。つまりNの支払約束がN自身に帰ることによって、この信用取引全体が相殺されたので、現金の出動がなかったのだといえるのだと思うわけです。だから信用取引が3者以上にわたり、その取引全体が相殺されている場合、その一連の信用取引の特定の部分だけを全体から切り離して取り出し、その二者のあいだでは相殺はないではないか、と主張する(すでにお分かりだと思いますが、これがTさんの主張です)こと自体が不合理ではないかと思います。
 もちろん、われわれが類似させて検討してきたこの二つの信用取引はまったく同じではありません。A→B→C→Aは商業信用の問題なのに、N→a→b→Nは商業信用に貨幣信用(銀行信用)が絡んでいるからです。だからこれをまったく同一視して論じると恐らく間違いに陥るだろうということもついでにつけ加えておきます。今回はあくまでも債権・債務がつながった一連の信用取引として類似したものとして、そこから推測したに過ぎません。】

 

 実は、このメールそのものはもっと長いのであるが、後半部分はカットしたのである。その部分で論じている問題はなかなか難しく私自身にもよく分からないところがあるからである。
 もう一つT氏に対するメールを紹介しておこう。

 

 【これも以前、「預金通貨」と関連して、また前畑雪彦氏の論文にも関連して色々と議論になりました。それに関連する興味深い、マルクスの一文を見つけたので、紹介しておきます。

 

 〈{通貨currencyの速度の調節者としての信用。「通貨〔Circulation〕の速度の大きな調節者は信用であって,このことから,なぜ貨幣市場での激しい逼迫が,通例,潤沢な流通高〔a full circulation〕と同時に生じるのかということが説明される。」(『通貨理論論評』)(65ページ。)このことは,二様に解されなければならない。一方では,通貨〔Circulation〕を節約するすべての方法が信用にもとづいている。しかし第2に,たとえば1枚の500ポンド銀行券をとってみよう。Aは今日,手形の支払でこれをBに支払い,Bはそれを同じ日に取引銀行業者に預金し,この銀行業者は今日この500ポンド銀行券でCの手形を割引きしてやり,Cはそれを取引銀行業者に支払い,この銀行業者はそれをビル・ブローカーに請求払いで〔on call〕前貸する,等々。この場合に銀行券が流通する速度,すなわちもろもろの購買または支払に役立つ速度は,ここでは,それがたえず繰り返し預金の形態でだれかのところに帰り,また貸付の形態でふたたび別のだれかのところに行く速度によって媒介されている。たんなる節約が最高の形態で現われるのは,手形交換所において,すなわち手形のたんなる交換において,言い換えれば支払手段としての貨幣の機能の優勢においてである。しかし,これらの手形の存在は,生産者や商人等々が互いのあいだで与え合う信用にもとづいている。この信用が減少すれば,手形(ことに長期手形)の数が減少し,したがって振替というこの方法の効果もまた減少する。そして,この節約はもろもろの取引で貨幣を取り除くこと〔suppression〕にもとついており,完全に支払手段としての貨幣の機能にもとついており,この機能はこれまた信用にもとづいている{これらの支払の集中等々における技術の高低度は別として}のであるが,この節約にはただ2つの種類だけがありうる。すなわち,手形または小切手によって代表される相互的債権が同じ銀行業者のもとで相殺されて,この銀行業者がただ一方の人の勘定から他方の人の勘定に債権を書き替えるだけであるか,または,銀行業者どうしのあいだで相殺が行なわれるかである。一人のビル・ブローカー,たとえば〔オーヴァレンド・〕ガーニ商会の手に800万-1000万〔ポンド・スターリング〕の手形が集中するということは,ある地方でこの相殺の規模を拡大する主要な手段の一つである。この節約によってたんなる差額決済のために必要な通貨〔currency)の量が少なくなるかぎりで,それの効果が高められるのである。〉(「貨幣資本と現実資本」〔『資本論』第3部第30-32章〕の草稿について、165-6頁)

 

 このマルクスの一文で興味深いのは、マルクスは「銀行券」については「通貨」と述べていますが、しかしそれらが「たえず繰り返し預金の形態でだれかのところに帰」るとは言っていますが、その預金を「通貨」などとは考えていないことです。むしろ預金を使った振替決済を「通貨の節約」と述べていることです。
 さらに重要なのは、手形や小切手にもとづく銀行での預金の振替決済を「相殺」と述べていることです。例えば〈手形または小切手によって代表される相互的債権が同じ銀行業者のもとで相殺されて,この銀行業者がただ一方の人の勘定から他方の人の勘定に債権を書き替えるだけである〉とマルクスが述べている場合、ここで〈一方の人の勘定から他方の人の勘定に債権を書き替える〉というのは、当然、一方の人の預金の口座から、他方の人の預金の口座に債権を書き替えることを意味していることは明らかでしょう。それをマルクスは〈同じ銀行業者のもとで相殺されて〉いると述べているのです。また銀行が違っている場合もやはりマルクスは〈銀行業者どうしのあいだで相殺が行なわれる〉と述べています。そしてそうしたケースをすべて「通貨」の節約をもたらすものとして紹介しており、通貨としては相殺の〈差額決済のために必要な通貨〉だけを問題にしていることです。だから「預金通貨」論者は、マルクスが「通貨」の節約と述べている同じ過程を、「通貨」そのものであるかに述べていることになります。これを見ても「預金通貨」論がマルクスの主張とは相いれないことは明らかではないでしょうか。】

 

 いずれにせよ、預金による振替決済は、この【28】パラグラフでマルクスが述べているような相殺が行われているケースなのであり、だからこそ貨幣の介在なしに取引が完了したといえるのである(貨幣は、ただ観念的な計算貨幣あるいは価値尺度として機能したに過ぎない)。そしてこの場合は、マルクスもいうように、預金はただ記録として機能しているだけで、それを「通貨」というのは間違いだということである。

 


『資本論』第3部草稿(現行版第5篇)の研究(29-16)

『資本論』第3部第1草稿・第5章(現行版・第29章「銀行資本の構成部分」)の解読

 

 〔大谷禎之介《「銀行資本の構成部分」(『資本論』第3部第29章)の草稿について--第3部第1稿の第5章から--》(『経済志林』63巻1号収載)の訳文を利用〕

 

 

 (今回、解読する【29】パラグラフは、解読本文でも明らかにしているように、マルクスが「II」と草稿で番号を記した部分(現行版の第29章該当部分)の、ある意味では「まとめ」と考えられる。しかし、MEGA編集部においても、それを翻訳紹介している大谷氏も、その点について何の言及もしていない。しかし第29章該当個所(マルクスが「II」と番号を打った部分)の本文は、基本的にこのパラグラフで終わっていると考えられる。)


【29】

 

 〈利子生み資本および信用制度〔Creditwesen〕の発展につれて,同一の資本が,または同一の債権にすぎないものでさえもが,さまざまな手のなかで,さまざまな仕方でさまざまな形態をとって現われることによって,すべての資本2倍になるように見え,またところによっては3倍になるように見える。この「貨幣資本」の大部分は純粋に架空なものである。たとえば,預金のすべてが(準備ファンドを除いて),銀行業者への貸し勘定にほかならないが,保管物のかたちではけっして存在しない。預金は,それが銀行業者たちにとって振替取引に役立つかぎり,彼らによって貸し出されたのちにも彼らにとって資本として機能する。彼らは,これらの貸し勘定の差引計算によって,存在しない預金にたいする相互の支払指図を支払い合うのである。|〉

 

 さてこのパラグラフは草稿の338頁上段の最後に位置する(「|」がそれを示している)。そして次の【30】パラグラフから草稿の339頁が始まるのであるが、この339頁には上下の区別が記載されていない。この点について大谷氏は何の注記もしていないが、これまでの大谷氏の説明によれば、こうした場合は、マルクスは339頁を上下の折り跡を無視して上から下までびっしり書いていることを意味している(*)。そしてその場合は、それは本文でも注でもなくて(注の場合は頁の下段に書かれる)、今対象にしている問題に関連する資料を収集して一定の考察を加えたノートと考えてよいであろう。しかし以前にも指摘したが、エンゲルスはこうしたマルクスのノートの取り方を理解せずに編集原稿を作成したために、こうしたものもすべて本文に加えてしまっているわけである。ただ、エンゲルスの場合は、途中から秘書を雇って口述筆記で編集原稿を作成せざるを得なかったこともあり、やむを得ない面もある。ところがどうしたことか、MEGA第II部第4巻第2分冊の編集者も何の区別もなしに【30】パラグラフ以下も本文として取り扱っているのである(MEGA同巻526頁参照)。もっとも大谷氏によればMEGAの編集者もこうしたマルクスのノートのとり方を理解していないらしいから、あるいは当然なのかも知れない。しかしそうしたマルクスのノートのとり方の特徴を解明して、マルクスの意図を正しく読み取っているはずの大谷氏も、今回の場合、この点について何も述べていない。他のところではMEGAの編集の誤りについてはその都度指摘しているのにである。あるいは大谷氏も【30】パラグラフ以下が本文ではないということを見落としているのかも知れない。

 (*)この339頁が上下無区別に上から下までびっしり書かれているということは、例えば、337頁上段や338頁上段の行数(但し大谷氏の翻訳文の行数であるが)を数えると、それぞれ337頁上段=77行、338頁上段=75行であるのに対して、339頁=123行となっていることを見ても明らかと思える。

 

 いずれにせよ、マルクスのノートの取り方を考慮すれば、この【29】パラグラフは、「II」(エンゲルスが「銀行資本の構成部分」と表題をつけた部分)の本文としては最後のものであると理解しなければならない。つまりマルクスは「II」の本文をこのパラグラフでもって締めくくっているのである。
 しかしもちろん、マルクスは引き続いて、このパラグラフに関連すると思われる抜き書きやそれに対する一定のコメントを書きつけており、だからその限りでは、さらに本文を書き続ける予定ではなかったとは断言はできないわけである。しかし、いずれにせよ、草稿としては、マルクス自身が本文と意図して書いたものは、ここまでであることをわれわれは確認しておこう。

 

 さて、それはさておき、本文の解読に取りかかろう。
 マルクスは〈利子生み資本および信用制度の発展つれて〉と述べている。以前にも(【13】パラグラフ)、〈利子生み資本一般がすべての狂った形態の母であって、例えば債務が銀行業者の観念では商品として現われる〉と述べていたが、架空な貨幣資本が何倍にも膨れ上がって見えるというのも、やはり利子生み資本と信用制度の発展がもたらす〈狂った形態〉の一つであろう。2008年の世界的な金融恐慌でも暴露されたが、今日の金融資産とその取り引き額は、現実資本の取り引き額(貿易額等)の何倍にも膨れ上がっているが、こうした金融バブルの現象を理論的に説明するためにも、われわれは利子生み資本の概念をしっかり理解し、その運動諸形態についてのマルクスの理論から真剣に学ぶ必要があるわけである。(*)

 

 (*)知人が送ってくれたサププライムローン問題のレジュメの一部を紹介させて頂くと、次のような事実が紹介されている。


 〈債券市場を支える、貸付可能な貨幣資本はどんな規模なのか推定するほか無いが、世界の株式時価総額・債券発行残高・預金を合計した推計07年10月に約187兆ドルのピークだったようで、同じころの世界のGDP合計の3.45倍だ。'90年からのGDP増加率約2.4倍と比較すると、貨幣資本の増加は4.6倍。〉

 

 マルクスは〈同一の資本が,または同一の債権にすぎないものでさえもが〉と述べているが、ここで〈同一の資本〉というのは、「同一の貨幣資本」という意味であろう。そして〈同一の債権〉というのは、例えば国債や株式など利子生み証券の類と考えてよいであろう。つまり貨幣資本(moneyed Capital)がそうした債権に投下されたものと考えることが出来る。そうしたものが〈さまざまな手のなかで,さまざまな仕方でさまざまな形態をとって現われることによって,すべての資本2倍になるように見え,またところによっては3倍になるように見える〉というわけである。ここで注意が必要なのは、マルクスは〈見え〉とか〈見える〉と言っているのであって、決して「すべての資本が「2倍になる」とか「3倍になる」と言っているわけではないということである。つまりそれらはすべて「見えている」だけであって、だから外観に過ぎないのだというのがマルクスの理解ではないかと思う。まだここではどうしてそれらが〈2倍になるように見え,またところによっては3倍になるように見える〉かについては何も述べていない。【30】パラグラフ以下では少しそうした問題も論じられているように思えるが、しかしマルクスとしては「III」と番号を記したところで本格的に論じるつもりだったからではないかと思える。つまり貨幣資本の蓄積と現実資本の蓄積との関連を論じる予定だったところでである(しかし実際はマルクスは「III」の中では架空な貨幣資本については捨象して、「貸付可能な貨幣資本」に問題を限定して論じているのではあるが)。

 次に〈この「貨幣資本」の大部分は純粋に架空なものである〉とあるが、ここで貨幣資本が鍵括弧に入っており、しかもこれまでの貨幣資本には必ず(moneyed Capital)という英文が添えられていたのに、それが無い。ということは、この原文は「Geldcapital」ということである(そして実際MEGAを見ると「“Geldcapital”」となっている)。ではこの場合のGeldcapitalは、『資本論』第2部で出てくる生産資本や商品資本と区別される資本の循環過程における一形態である貨幣資本(Geldcapital)を意味するのか、というとそうではないのである(*)。この点については、大谷氏の詳細な検討があるので、少しその概要を紹介しておこう。

 大谷氏は《「貨幣資本と現実資本」(『資本論』第3部第30-32章)の草稿について》(『経済志林』第64巻第4号)の最初の考察部分のなかで、「若干の基本的なタームについて」論じているが、そのなかで「(3)貨幣資本(moneyed Capital)と貨幣資本(Geldcapital」と題して、この問題を論じている(同74頁以下参照)。その詳細については、各自直接同論文を検討されることをお願いするが、その概要は次のようなものである。
 大谷氏が〈マルクスの草稿では,信用制度下の利子生み資本としての貨幣資本には圧倒的にmonied capitalという英語表現のタームが使われ,それにたいして資本の循環形態としての貨幣資本にはほとんどGeldcapitalというドイツ語のタームが使われている〉と説明していることについて、川浪洋一氏は異論を唱え、〈彼(マルクス--引用者)は,利子生み資本あるいは貸付可能な貨幣資本の意味では,概ねmoneyed capitalという用語を使っている。それに対し,貨幣的財産の意味ではGeldkapitalという用語を使っている〉(『貨幣資本と現実資本』,有斐閣,1995年,91-92ページ)と主張したのである。それに対して、大谷氏は次のような見解を対置している。

 

 〈一般に,貨幣形態にあるために,あるいは貨幣として見られるために「貨幣資本」と呼ばれるものには,概念的にはっきりと区別されなければならないさまぎまのものがあり,しばしばそれらが混同され,同一視される。マルクスはそれらのなかから,まず『資本論』第2部で,資本がその循環のなかでとる形態である「貨幣資本〔Geldcapital〕」を概念的に把握した。さらに,第3部第4章で,貨幣形態で「貨幣取扱資本」のもとに滞留し,遊休している,産業資本や商業資本の準備ファンド, したがってそれらにとっての遊休貨幣資本を概念的に把握した。そして,第5章の「1)」-「4)」で利子生み資本という独自の資本形態を概念的に把握し, 「5)」では,まず信用制度下の利子生み資本の独自の姿態を「貨幣資本〔monied capital〕」と呼んだ。そのなかの「II)」では,利子生み資本の成立を前提として資本化された「蓄積された,労働にたいする所有の請求権」である「架空の貨幣資本」が概念的に把握された。そして最後に,「III)」では,この「架空の貨幣資本」とはとりあえず区別される「貸付可能な貨幣資本」が分析の中心的な対象に据えられているのである。これらのものすべてが,最広義では「貨幣資本〔Geldcapital〕」なのであり,マルクスはこの言葉で, あるときは「生産的資本」および「商品資本」から区別される,循環中の貨幣形態にある資本を指し,あるときは貨幣資本〔moniedcapital〕を指し、あるときは「貨幣財産としての貨幣資本」を指しているのである〉(同79頁)

 

 だから要するに「貨幣資本〔Geldcapital〕」という場合には、第2部で問題になる資本の循環形態としての貨幣資本だけではなくて、さまざまな意味合いがあるということである。ここで問題になっている鍵括弧付きの「貨幣資本」はどういう意味合いを持っていると理解すればよいのであろうか。大谷氏の説明によれば、それはmoneyed Capitalを含んだ貨幣財産と理解するのがとりあえず妥当なところではないかと思える。その〈大部分は純粋に架空なもの〉だというわけである。ここでマルクスが「大部分は」と述べているのは、大谷氏も指摘しているように、中には架空でないものも含まれるという含意であろう。実際に産業資本に貸し出される貨幣資本(moneyed Capital)そのものは必ずしも架空ではない場合もありうるであろうからである。

 

 (*)実はこうした貨幣資本(Geldcapital)は、これ以外にも、これまでわれわれが検討してきたところでも見られたのであったが、われわれはそれを見過ごしてきたわけなのである。川浪氏が例として上げているものであるが、例えば【19】パラグラフの次の一文-- 

 

 〈この減価が,生産や鉄道・運河交通の現実の休止とか,現実の企業の見放しとか,なにも生み出すことがなかったような企業への資本の固定とかを表わすものでなかったかぎり,この国民は,この名目的な貨幣資本の破裂によっては,一文も貧しくなってはいなかったのである。〉 

 

 ここに出てくる〈この名目的な貨幣資本〉の原文は〈dieses nominellen Geldcapitals〉である。
 さらには【22】パラグラフの次の一文-- 

 

 〈すべて資本主義的生産の国には,膨大な量の《いわゆる》利子生み資本またはmoneyed Capitalがこうした形態で存在している。そして,貨幣資本蓄積という言葉で考えられているのは,たいてい,この「生産にたいする請求権」の蓄積,および,これらの請求権の市場価格(幻想的な資本価値)の蓄積のことでしかないのである。〉 

 

 ここに出てくる〈貨幣資本蓄積〉も原文は〈Accumulation des Geldcapitals〉である。
 さらに【27】パラグラフの次の一文-- 

 

 〈この場合次のことを忘れてはならない。すなわち,銀行業者の金庫のなかにあるこれらの証券が表わしている資本の貨幣価値は,その証券が確実な収益にたいする支払指図(公的有価証券の場合のように)であるか,または現実の資本にたいする所有権原(株式の場合のように)であるかぎりでさえも,まったく架空なものであって,それはこれらの証券が表わしている現実の資本の価値からは離れて調整されるということ,あるいは,これらの証券がたんなる収益請求権である(そして資本ではない)場合には,同一の収益にたいする請求権が,たえず変動する架空な貨幣資本で表現されるのだ,ということである。〉

 

 ここに最後に出てくる〈架空な貨幣資本〉も原文は〈fiktivem Geldcapital〉である。
 そしてもう一つは、今、われわれが問題にしているパラグラフの「貨幣資本」(“Geldcapital”)なのである。これらは一応、とりあえず大谷説にもとづくなら、すべて最広義の意味での、つまり何らかの貨幣形態をとった資本という意味での貨幣資本と理解するのが妥当なのであろう。

 

 次にマルクスは、その例えとして預金を上げている。その部分を考察するために、もう一度、その後半部分を書き出しておこう。

 

 〈たとえば,預金のすべてが(準備ファンドを除いて),銀行業者への貸し勘定にほかならないが,保管物のかたちではけっして存在しない。預金は,それが銀行業者たちにとって振替取引に役立つかぎり,彼らによって貸し出されたのちにも彼らにとって資本として機能する。彼らは,これらの貸し勘定の差引計算によって,存在しない預金にたいする相互の支払指図を支払い合うのである

 

 これは利子生み資本がさまさまな資本家や銀行などを通して、同じ貨幣資本が2倍にも3倍にも見えるようになるが、それらのほとんどは架空な貨幣資本だと述べたあと、それを受けて〈たとえば〉となっているので、〈預金のすべてが(準備ファンドを除いて)〉、そうした架空な貨幣資本なのだということてある。というのは預金は準備ファンドを除けばすべて直ぐに銀行から貸し出されて、銀行には保管物という形では存在しないからである。にも関わらず、それらは依然として、銀行にとっては資本として機能するのであり、だから貨幣資本として存在しているように見えるわけだから、預金は、架空なものとしてただ帳簿上だけで存在するものと、銀行から貸し出されて再生産資本家たちの手にあるものと両方存在するかのように見えるわけだから、少なくもこの段階で2倍に見えるわけである。銀行のただ帳簿上存在するに過ぎない預金も銀行にとっては立派に資本として機能するのは、彼らはこれらの帳簿上の預金の振り替えによって、互いに自行に対する支払指図を交換することによって、支払ったことにする(相殺する)わけだからである。だからただ帳簿上にしかない預金でも、しかし預金者は自分の預金に対して小切手を切って、自らの支払を決済したのだから、それは彼にとってはそれは依然として銀行に保管物として存在しているかのように現象するわけである。
 なぜ、こうした支払がただ帳簿上の記録にすぎないものの機能によって決済可能なのであろうか。それは支払手段としての貨幣の機能の一つに相殺があるからである。さまざまな債務の連鎖が最終的に差し引きゼロになれば、それは債務証書の交換だけで最終的に決済が済んでしまう。そして債務の連鎖は、銀行がそこに介在することによって集中されることになり、より容易に相殺が可能になるからである。さまざまな債務が銀行の債務に変換され、銀行間の債務の相殺によって、すべての債務が決済されてしまうことになる。現在では、銀行間の債権・債務も中央銀行の当座預金の振り替えによって最終決済されるようになっており、債権・債務の決済にはほとんど現金が不要になっている。現在の決済システムがどうなっているのか、『日本銀行の機能と業務(2011年版)』から紹介しておこう(67頁から)。



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