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『資本論』第3部草稿(現行版第5篇)の研究(29-10)

『資本論』第3部第1草稿・第5章(現行版・第29章「銀行資本の構成部分」)の解読

 

 〔大谷禎之介《「銀行資本の構成部分」(『資本論』第3部第29章)の草稿について--第3部第1稿の第5章から--》(『経済志林』63巻1号収載)の訳文を利用〕

 

 (今回も架空資本の運動が問題になっているが、それを説明するために、今度は、株式が例に挙げられている。だからこれに関連して、混乱した主張を展開している林紘義氏や大谷氏についても、その所説を批判せざるを得なかった。)

 

【17】

 

 〈[523]債務証書--有価証券--が, 国債の場合とは異なり,純粋に幻想的な資本を表わしているのではない場合でも,これらの証券の資本価値は純粋に幻想的である。さきほど見たように,信用制度〔Creditwesen〕は結合資本を生み出す。この資本にたいする所有権を表わす証券である株式,たとえば鉄道会社,鉱山会社,水運会社,銀行会社等々の会社の株式は,現実の資本を表わしている。すなわち,これらの企業で機能している(投下されている)資本,またはそのような企業で資本として支出されるために社団構成員によって前貸しされている貨幣額を表わしている。(もちろん,それらの株式がただのいかさまを表わしているということもありうる。)しかしこの資本は二重に存在するのではない。すなわち,一度は所有権原の,株式資本価値として存在し,もう一度はこれらの企業で現実に投下されているかまたは投下されるべき資本として存在するのではない。それはただ後者の形態で存在するだけであって,株式は,この資本によって実現されるべき剰余価値にたいする所有権原でしかないのである。Aはこの権原をBに売り,またBはCに売るかもしれない,等々。このような取引は事柄の性質を少しも変えるものではない。この場合,AまたはBは自分の権原を資本に転化させたのであるが,Cは自分の資本を,株式資本から期待されうる剰余価値にたいする,たんなる所有権原に転化させたのである。〉

 

 ここからマルクスは、架空資本の独自の運動を説明するために、同じ架空資本である株式の説明をまず行おうとしている。マルクスの意図としては、架空資本の形成を国債を例に説明したあと、国債と株式を例に架空資本の運動を説明しようということである。だからマルクスの考えとしては、国債も株式も架空資本の運動としては同じだ、ということである。しかしマルクスは同じ有価証券(債務証書)でも、国債が表すものは〈純粋に幻想的な資本〉であるが、株式の場合はそうでない、という両者の相違からまず説明を始めているわけである。しかしいうまでもなく、この一文でマルクスが強調しているのは、有価証券が代表するものは国債と株式とでは異なるが、しかしそれらが架空な資本価値として現れる限りでは、どちらも純粋に幻想的なものだという点では同じなのだということなのである。だから国債と株式とが代表するものが違うということから、それらが架空資本としてもまた違ったものであるかに理解するのは、実際は間違いなのである。しかしこうした間違った理解に立っている人の何と多いことよ(林氏も残念ながらその中には含まれている)。しかしこの点については、すぐにまたふり返るとして、まずマルクスが続いて述べていることを検討しておこう。

 マルクスは〈さきほど見たように,信用制度〔Creditwesen〕は結合資本を生み出す〉と述べている。ここで〈さきほど見たように〉というのは、エンゲルス版では、第27章に該当する部分で論じたことを指している。そこでは〈信用制度についてこれまで《われわれが》一般的に述べる機会をもったのは,次のことであった〉と書き出して、箇条書き的に三つのことを上げているが、その第三番目として次のように述べている。

 

 〈III)株式会社の形成。これによって第1に,生産規模のすぎまじい拡張〔が生じ〕,そして私的諸資本には不可能な諸企業〔が生まれる〕。同時に,従来は政府企業 〔だった〕ような諸企業が会社企業〔社会的企業〕になる。第2に,即自的には社会的生産様式を基礎とし,生産手段および労働力の社会的集中を前提している資本が,ここでは直接に,私的資本に対立する社会資本〔会社資本〕(直接に結合した諸個人の資本)の形態を与えられており,資本の諸企業が,私企業に対立する社会企業〔会社企業〕として〔現われる〕。それは,資本主義的生産様式そのものの限界の内部での,私的所有としての資本の止揚である。第3に,現実に機能している資本家が(他人の資本の)単なるマネージャーに転化し,資本所有は単なる所有者,単なる貨幣資本家に転化すること。〉 (大谷訳33-34頁)

 

 また次のような叙述も見られる。

 

 〈信用は,個々の資本家または資本家とみなされている人に,他人の資本他人の所有の(それによってまた他人の労働の)--相対的に言って--絶対的な処分権を与える。……成功も失敗も,ここでは同時に集中に帰し,したがってまた法外きわまりない規模での収奪に帰する。収奪はここでは直接生産者から小中の資本家そのものにまで及ぶ。この収奪は資本主義的生産様式の出発点であり,この収奪の実行はこの生産様式の目標であるが,しかし最後にはすべての個々人からの生産手段の収奪〔に終わる〕。生産手段は,社会的生産の発展につれて,私的生産手段であることを《も私的産業の生産物であることをも》やめ,それはもはや,《それが結合生産者たちの社会的生産物であるのと同様,》結合生産者たちの手にある生産手段,したがって彼らの社会的所有物にほかならない。ところがこの収奪は,資本主義体制そのものの内部では,対立的に、少数者による社会的所有の横奪として現われるのであり,また信用は,これらの少数者にますます純粋な山師の性格を与えるのである。《所有はここでは株式の形で存在するのだから,その運動そのもの,つまりその移転は取引所投機のまったくの結果となるのであって,そこでは小魚は鮫に呑みこまれ,羊は狼男に呑みこまれてしまう。》株式制度のうちには,すでに,この形態に対する対立物があるが,しかし株式制度それ自身は,資本主義的な制限の内部で,社会的な富と私的な富という富の性格のあいだの対立を新たにつくり上げるのである。〉 (同38-39頁)

 

 このようにこの部分では、「株式制度」についての歴史的な位置づけが与えられているが、しかし「株式」そのものについての考察はそれほどなされていない。株式については、ただ〈所有はここでは株式の形で存在するのだから,その運動そのもの,つまりその移転は取引所投機のまったくの結果となるのであって,そこでは小魚は鮫に呑みこまれ,羊は狼男に呑みこまれてしまう〉という説明が見いだされる程度である。

 だからこの第29章該当部分においては、マルクスは〈この資本(=結合資本--引用者)にたいする所有権を表わす証券である株式,たとえば鉄道会社,鉱山会社,水運会社,銀行会社等々の会社の株式は,現実の資本を表わしている〉と「株式」そのものの説明が行われているわけである。以下、このパラグラフでマルクスが株式について説明している内容を少し分析的に考察してみよう。

 マルクスは「株式」について、いくつかの説明を行なっている。

 (1)結合資本に対する所有権を表す証券である。
 (2)現実の資本を表している。例えば、鉄道会社や鉱山会社、水運会社、銀行会社等々の企業で機能している(投下されている)資本,またはそのような企業で資本として支出されるために社団構成員によって前貸しされている貨幣額を表わしている。
 ここで株式が表している「現実の資本」として、マルクスは現実に機能している(投下されている)資本、つまり「生産資本」と、そのような生産資本として投下された(前貸された)「貨幣資本(Geldcapital)」(額)を表していると述べている。
 (3)しかしこの資本は二重に存在するのではない。すなわち,一度は所有権原の,株式の資本価値として存在し,もう一度はこれらの企業で現実に投下されているかまたは投下されるべき資本として存在するのではない。それはただ後者の形態で存在するだけであって,株式は,この資本によって実現されるべき剰余価値にたいする所有権原でしかないのである。
 ここで〈この資本〉と述べているのは、(2)で述べている「現実の資本」、すなわち「生産資本」または「貨幣資本(Geldcapital)」のことである。だから〈株式の資本価値〉と述べているのは、例えば株式の額面が100万円だとすると、所有権原を表す株式そのものが100万円の資本価値として存在するのではなく、100万円はすでに投下されて現実の資本(生産資本)になっているか、あるいは投下されるために社団構成員によって前貸された貨幣額(貨幣資本Geldcapital)として存在するだけであって、株式そのものが100万円の資本価値として存在しているのではないと述べているわけである。だから額面100万円の株式を持っており、だから現実の資本に対して按分比的に100万円に相当する所有権原をそれは表しているのだと言ってみても、額面100万円の株式そのものが100万円の価値として存在しているわけではないのだから、彼らはただ株式という紙切れを持っているだけなのだから、それが表している現実の資本を勝手に処分したりする権原そのものは実際上はないわけである(もちろん、彼が構成員になっている社団がそうした判断をする場合は話は別である)。だから株式そのものは、結局は、将来実現されるであろう剰余価値に対する所有権原でしかないのだ、というのがマルクスの説明なのである。
 これらの説明を読むと、(1)と(2)は株式が「表す」ものが、(1)は結合資本に対する「所有権」であり、だからこれは現実の株式会社の所有権を表すと考えることができる。(2)は「現実資本」すなわち、これらの企業で機能している資本、またはそのような企業で資本として支出されるために社団構成員によって前貸されている「貨幣額」を「表している」となっている。だからこの(2)は(1)の内容をより具体的に見ていると考えることができる。すなわち「現実資本」というのは、「実物資本」、すなわち実際に機能している資本(生産資本)という意味であり、株式はそれを「表している」わけである。または、そうした企業で資本として支出されるために前貸された貨幣額を「表している」とされている。だからこの後者の場合は、株式の額面が「表している」ものと考えることができる。そしてこの貨幣額を前貸している主体を「社団構成員」と述べている。つまり「株主」は「社団」を構成し、個人株主はその構成員であるとの認識がここで示されていると考えることができる。この「社団」は今でいう「株主総会」のことであろう。だから(1)と(2)を総合して考えるなら、現実の株式会社を所有しているのは、個人株主で構成されている社団であると言えるであろう。個人株主は、その社団の構成員として、その持ち株の按分比に応じて、株式会社を所有している、すなわち所有権原を持っているといえるわけである。
 (3)は株式は、この資本(つまり現実の資本、あるいは前貸されている貨幣額)によって実現されるべき剰余価値に対する所有権原でしかない、とされている(この場合は「所有権原を表している」という表現ではなく、「所有権原でしかない」と述べていることに注意)。
 この(3)の書き方には注意が必要である。まず「実現されるべき剰余価値」というのは、これから実現されるであろう剰余価値ということであり、将来生み出されるであろう剰余価値に対する所有権原である。しかも「所有権原でしかない」という書き方は、それはその前の(1)(2)では、結合資本に対する所有権を「表したり」、現実の資本、または前貸された貨幣額を「表したり」しているのだが(つまり「表している」だけだとも読めるのだが)、しかし、実際には将来実現されるであろう剰余価値に対する所有権原でしかないのだ(だからその「表している」ものの実際の内容はそういうものだ)、という含意として読み取ることができるであろう。
 そしてその後に書いていることは、「剰余価値に対する所有権原でしかない」ということをさらに、株式を転売するA、B、Cの人物を使って具体例で説明していると考えることができる。株式を最初に所有していたAからBに株式が販売され、さらにBはCに販売した場合、〈このような取引は事柄の性質を少しも変えるものではない〉とある。つまり株式が結合資本の所有権を表す証書であるとか、現実の資本を表すものであるとか、あるいは将来の剰余価値に対する所有権原であるという事柄そのものは何も変わらないと述べているのである。株式から得られる配当が、その株式が転売されたからといって配当でなくなるわけではないのである。ただそれを購入した、例えばCの私的な立場からすれば、それは彼の投下した利子生み資本に対する「利子」であると観念されるのであるが、そうであっても、しかし客観的にはそれが配当であるという事柄そのものは何も変わらないのだと言いたいのである。〈AまたはBは自分の権原(これは剰余価値に対する所有権原である)を資本に転化させた〉とあるが、もちろん、ここで「資本」というのは貨幣資本(moneyed Capital)、すなわち「利子生み資本」に転化させたということであろう。というのは、例えば増資等で新たな株式を直接購入するということは(Aの場合)、現実の資本の所有権あるいはそこから生み出される剰余価値に対する所有権原を入手することであり、そのこと自体は、決して彼の貨幣を利子生み資本として貸し付けたことを意味しない。なぜなら、利子生み資本の場合は、貸し付けた貨幣価値に対する所有権原は保持し続け、一定期間後には返済されることを前提しているのであるが、しかしAの場合、株式に前貸された貨幣はそうした返済を前提にしたものではないからである。ところがAもBも彼らが保持している権原を表す株式を転売した時点で、彼らが前貸した貨幣額を回収するのであり、その限りでは、彼らの私的な立場からすれば、彼らが最初に投じた貨幣価値を利子生み資本に転化させて、その返済を受けたことになるのである。だからマルクスはここでAまたはBは自分の権原を資本(利子生み資本)に転化させたと述べているのである。そしてCの場合は彼の資本(利子生み資本)を〈株式資本から期待されうる剰余価値にたいする,たんなる所有権原に転化させたのである〉と説明されている。つまりCにおいては、彼が投じる貨幣が資本(利子生み資本)であるのは、彼の私的な立場からいえることに過ぎず、客観的には彼が手に入れた株式は単に実現されるであろう剰余価値に対する所有権原でしかないわけである。ただ彼もそれをDに販売した時点で、やはり彼の私的な立場において前貸した貨幣を利子生み資本に転化することになるわけである。株式に投下された貨幣価値が利子生み資本となるのは、あくまでもその当事者の私的な立場からに過ぎず、株式そのものが客観的に意味しているもの(結合資本に対する所有権を表し、あるいは実現されであろう剰余価値に対する所有権原であるということ)は、だからそうした転売が繰り返されても何も変わらないのだ、とマルクスは述べているわけである。

 しかし注意が必要なのは、これらの一連の説明は、「株式」とはそもそも何かを説明しているのであって、「架空資本としての株式」の説明ではないということである。もっと分かりやすくいえば、これらの説明は株式の額面に書かれている貨幣額、例えば100万円の額面が何を表しているのかを説明しているのであって、その額面100万円の株式が実際に証券市場で売買される場合のその株式の市場価値、例えば200万円とか300万円の値がつく、そうした資本価値を説明しているのではないということである。そして「架空資本としての株式」というのは、この証券市場で実際に売買されている200万円や300万円の株式の資本価値のことなのである。だからこれらの一連のマルクスの「株式」の説明を、「架空資本としての株式」の説明だと誤解すると混乱することになるのである(株式を「擬制資本」として、国債などの「架空資本」と区別して論じるべきだと考えている人たちが間違っているのもこの点なのである)。先にも指摘したように、架空資本としての国債も株式も純粋に幻想的なものであり、その限りでは同じものだとマルクスは考えているのである。これはとにかく重要なことなので強調しておきたい。
 だからもう一度、分かりやすく説明すると、国債と株式との違いはその額面が表しているものの違いである。つまり額面100万円の国債に書かれている100万円は〈純粋に幻想な資本〉を表しているだけであるが、額面100万円の株式の100万円は現実資本に対する按分比的な所有権を表している(つまり現実資本の総額が1億円なら、額面100万円の株式は、現実資本の100分の1の所有権を表しているわけである)。確かにこの点では両者には相違がある。しかしそれらが売買される価格(あるいはその基準となる市場価値=資本価値)、すなわち架空な資本価値(架空資本)としては、例えば額面100万円の国債が80万円で売買されているとしても、あるいは額面100万円の株式が300万円で売買されているとしても、確かに両者の資本価値には違いがあるが、しかしそれらが同じように幻想的なものだという点では、まったく同じなのである。一方は確定利息を平均利子率で資本還元し、他方は配当をやはり平均利子率で資本還元したものであり、その限りでは純粋に幻想的なものだからである。

   ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・

 さて、このパラグラフの冒頭、マルクスは〈務証書--有価証券--が, 国債の場合とは異なり,純粋に幻想的な資本を表わしているのではない場合でも,これらの証券の資本価値は純粋に幻想的である〉と述べている。一見すると同じ架空資本でも、マルクスは国債と株式とでは違いがあるかに述べているように見える。実際、そのように捉えている人が多いということはすでに指摘した。そして何を隠そう、わが御大将(林紘義氏)もその一人であらせられることもすでに指摘した。すなわち次のように主張されておられる。

 

 〈この国家証券が代表する“資産”はすでに戦争などで消尽されてしまっていて、現実にはどんな痕跡も残っておらず、そういう意味で、いわば“純粋の”空資本であることが語られているにすぎないのであって、ここでは直接に、収入の資本還元の理論を論証しようとしているわけではないのである。〉 (『海つばめ』No.1111)
 〈マルクスが、国債について――とりわけ当時のイギリスの国債について――、「国債なる資本にあっては、一つのマイナスが資本として現われる」とか、「資本は、幻想的なもの、空資本であるにとどまる」などと言っていることを、その言葉だけ取り上げて論じても、サブプライム問題の理解には何の意味も持たないばかりか、有価証券一般についても、正しい観念とは言えないのである。まして、事業会社(産業資本)が発行するような社債の場合はなおさらである。
 というのは、債券はそれ自体としては紙切れであり、債務証書であって、生産手段でも何でもないが、それは債権者
(「債務者」の間違い?---引用者)によって、その貨幣資本が現実的資本に転化され、機能すること――現実的に機能していること――を少しも否定しないのである。それは産業会社の株券がそうであるのと同様である。
 この点では、例えば社債は、一般的には「擬制資本」であり得ても、マルクスが「空資本」(純粋の擬制資本)と述べた、当時のイギリスの国債とは区別されるし、されなくてはならない。
(このように林氏も「擬制資本」と「架空資本」とを使い分け、両者の区別の必要を主張している。--引用者)

 マルクスは、銀行などが株や債券などの証券を有するばあい、それらを現実資本とは区別して「空資本」(擬制資本)と呼んだが、しかしその場合でも、空資本一般から「純粋に幻想的な資本」(例えば、地代を利子率で「資本還元」された「価値」もしくは幻想的な「資本」である「土地価格=地価」など)を、さらに区別している。この点についても、マルクスの言葉を参考までに引用しておこう。
 「鉄道、鉱山、交運等々の会社の株式〔事業会社の社債なども含めて――林〕は、現実の資本を、すなわちこれらの企業に投下されて機能しつつある資本を、またはかかる企業における資本として支出されるために株主によって前貸されている貨幣額を、表示する」(二二二頁)〉
(同上)

 

 最初の引用文では、林氏は国債について〈“純粋の”空資本である〉と「純粋」にわざわざ“ ”を入れて強調しているが、二番目の引用文では、どうやらその理由らしきものが分かる。林氏はマルクスが国債は架空資本だと述べていることを持ち出してもサブプライム問題や有価証券一般やさらには社債などの場合にはなおさら何の説明にもならないのだと述べている。その理由はどうやら、債券というのは確かに債務証書だが、それによって貸し付けられた貨幣資本が現実資本に転化され、機能することを少しも否定しないからだというのである。それは産業会社の株式がそうであるのと同じだ、と。つまり国債の場合は、ただ浪費されるだけだが、債券として表される債務証書の場合は、場合によっては現実資本に転化される可能性はあると言い張るわけである。確かに社債や株式はそうであろう。しかしサブプライムローンはどうであろうか、それは住宅ローンであり、その限りでは決して現実資本に転化されるのではなく、ただの消費者ローンと同じではないのか。だからこそ、林氏はサブプライムローンの証券化を国債を例に上げて説明したのではないのか、それなのに、マルクスが国債を架空資本と言っているからといって、サブプライムローンの説明にそれは適用するのは間違いだというのである。しかも奇妙なことに、その理由として持ち出すのが、社債や株式のような現実資本に投下される可能性のあるものもあるからだというのである。これでは林氏の論理は自分の身を捩じったようなわけの分からないものになっている。この混ぐらがってわけの分からない林氏の論理を丁寧に解きほぐしてみよう。

 最初の引用文については、すでに何度も批判してきた。だから二つ目の引用文を詳細に検討してみよう。まず林氏は〈マルクスが、国債について――とりわけ当時のイギリスの国債について――、「国債なる資本にあっては、一つのマイナスが資本として現われる」とか、「資本は、幻想的なもの、空資本であるにとどまる」などと言っていることを、その言葉だけ取り上げて論じても、サブプライム問題の理解には何の意味も持たないばかりか、有価証券一般についても、正しい観念とは言えない〉と主張している。国債について、〈とりわけ当時のイギリスの国債について〉とわざわざ断っているのは、マルクスが国債を例に架空資本の形成を論じているのは、当時のイギリスの特殊事情によるのだと言いたいわけであるが、しかしこれも無意味な難癖に過ぎないことはすでに指摘した。実際、林氏自身も永久国債であろうが、償還期限のある国債であろうが同じであることを次のように認めざるを得ないのである。

 

 〈マルクスがどんな国債を頭において書いたか分からないが、当時イギリスの国債で重要な地位を占めていた“永久国債”(有名なコンソル債)であった可能性が高いであろう。というのは、普通、「その債務者に解約通告をなすことができ」ないと概念規定されるのは、永久国債だからである。もちろん、普通の国債も、償還期限(満期)が五年とか一〇年とか定められていて、「その債務者に解約通告をなすことができ」ないという点では、永久国債と同じだが、とりわけ永久国債についてこの概念が言われるのは、永久国債といっても、政府の方から、その都合によって、その意思によって随時償還がなされ得るということがあったからであろうか。〉 (No.1111)

 

 林氏はマルクスが対象としているのはコンソルという永久国債だから〈「その債務者に解約通告をなすことができ」ないと概念規定〉したと言いたいのであるが、しかし他方で普通の国債でも償還期限が来る前に「その債務者に解約通告をなすことができ」ないという点では同じであることも認めざるを得ない。しかし永久国債について、そうした「概念規定」(これが国債の「概念規定」だと林氏は考えるわけであるが、果たして林氏は「概念」とはそもそも何であるのかを知っているのだろうか?)が問われるのは、〈政府の方から、その都合によって、その意思によって随時償還がなされ得るということがあったからであろうか〉などとも述べている。とするなら、ますます永久国債と償還期限がある国債とは同じであることを示しているのではないのか。あらかじめ償還期限が決まっているか、それとも政府の都合で随時償還期限を決めるのかの違いでしかないわけだから(そればかりかあらかじめ償還期限が決まっている国債でもその償還期限が来ても、借り換えによって、さらにその償還期限が無制約的に延長され得るのだから)、ますます両者の違いは無くなるのである(もっとも『平凡社大百科辞典』によると、議会の承認で償還可能とされたのは1923年以降だから、マルクスが生きていた当時はそうしたことは無かったのではあるが)。そして国債を架空資本であると、それこそ「概念規定」する上で、国債に償還期限がついているかいないかということはどうでも良いことであるのは、これまでの架空資本の形成、すなわちその「概念」についてしっかり学んできたものにとっては自明のことなのである(なぜなら、償還期限があろうが無かろうが、それらが証券として転売されるかどうかということこそが架空資本にとって本質的なことなのだからである)。償還期限の有無が何か国債が架空資本であるかそうでないかを左右するかに(マルクスの当時の国債は永久国債だから架空資本だが、現代の国債は償還期限があるからそうでない等々と)考えているところに、林氏が架空資本のなんたるかをまったく理解していないことをむしろ暴露しているのである。

 ところで問題なのは、林氏が〈マルクスが、国債について、「国債なる資本にあっては、一つのマイナスが資本として現われる」とか、「資本は、幻想的なもの、空資本であるにとどまる」などと言っていることを、その言葉だけ取り上げて論じても、サブプライム問題の理解には何の意味も持たないばかりか、有価証券一般についても、正しい観念とは言えない〉と主張していることであった。

 林氏は〈その言葉だけ取り上げて論じても〉というが、〈言葉だけ取り上げて論じ〉るというのはどういうことなのか。誰がそんなことをしたのであろうか。確かにマルクスが論じているものを理解もせずに、ただその言葉だけをアレコレ引用して論じても、無意味なことは確かである。しかしマルクスの文章を理解していないというのなら、それは林氏にこそ当てはまるのではないだろうか。これまで論じてきたことを見ても、林氏こそマルクスが論じている内容を慎重且つ厳密に吟味してその内容を正確に理解しようとしていないことは明らかである。それとも林氏は〈マルクスが、国債について、「国債なる資本にあっては、一つのマイナスが資本として現われる」とか、「資本は、幻想的なもの、空資本であるにとどまる」などと言っていること〉は、〈サブプライム問題の理解には何の意味も持たないばかりか、有価証券一般についても、正しい観念とは言えない〉と主張するのであろうか。確かに林氏はマルクスの架空資本の理論は〈サブプライム問題の理解には何の意味も持たない〉と主張するわけである。しかし〈有価証券一般についても、正しい観念とは言えない〉というのはどういうことであろうか。マルクスは銀行資本の現実の構成部分である「その他の有価証券」、すなわち「いわゆる利子生み証券」を説明するために、国債を例にそれらが架空資本であることを説明しているのである。とするなら、この林氏の主張はマルクスの主張を真っ向から否定することになるし、ならざるを得ないであろう。マルクスが国債を例にして架空資本の形成について論じているが、そんなものは〈有価証券一般についても、正しい観念とは言えない〉と林氏は主張するわけだからである(もっとも厳密を期すなら、林氏は「有価証券一般」を問題にしているが、マルクスが問題にしているのは「有価証券一般」ではなく、「商業的有価証券(手形)」を除いた「その他の有価証券(=利子生み証券)」を架空資本として問題にしているのである。こうしたマルクスが厳密に区別しているものについても林氏はまったく無頓着であり、その理解の粗雑さは否めない。一体〈その言葉だけ取り上げて論じて〉いるのは誰なのか?)。

 とにかくもう一度話を元に戻そう(どうしても林氏の主張を検討すると脱線してしまうのだが)。ここで私が論じたいのは、架空資本と擬制資本とを区別し、それらを使い分ける必要を主張する俗説についである。そしてその俗説に染まっている林氏の御説の批判的検討である。
 要するに林氏の言いたいことは、債券は紙切れであり、債務証書だが、しかしそれによって貸し出された貨幣が貨幣資本(この場合はGeldcapitalである)として、現実資本に転化する場合もある(株式や社債の場合はまさにそれだ)、だから何も表していない国債と一緒には論じることは出来ない。前者(つまり社債や株式)は「擬制資本」でありえても、マルクスが「架空資本」(純粋な擬制資本?)と述べたものとは区別されなければならない、というものである。
 このように国債と株式とを区別して、前者は架空資本だが後者は擬制資本というべきだという主張は何も林氏の発明ではない。それは結構ひろく言われている俗説であり、林氏はただそれに追随しているだけなのである。
 実際、われわれはこの第29章の草稿の大谷氏の前書きを検討したときに、次のように問題点を指摘しておいた(29-2を参照)。

 

 [(1)大谷氏は〈①いわゆる「利子生み証券」の所有者にとってそれが資本であるのは,つまりいわゆる擬制資本は,収入の資本還元による純粋に幻想的な観念にすぎない〉と述べている。ここで大谷氏は「いわゆる」を着けながらも「擬制資本」という用語を使っている。しかしマルクス自身は少なくとも大谷氏の翻訳文のなかでは「擬制資本」という用語は使っていない。どうして「利子生み証券」を「擬制資本」と大谷氏はいうのであろうか、それは「架空資本」とどう違うのか、それを使い分ける意味はどこにあるのか,こうした疑問を、とりあえずは提起しておきたい。〕

 

 実際、大谷氏は『図解・社会経済学』でも次のように述べている。

 

 〈[株式]すでに見たように、銀行制度は株式資本という結合資本を生み出す。この資本への所有権を表す証券である株式は、それ自体としては、それぞれの企業で投下されている資本の一部を表している。しかし、株式はじつは、この資本がもたらす剰余価値の一部にたいする権利名義でしかない。株式も典型的な架空資本なのである(株式の場合には、架空資本ではなくて「擬制資本」という訳語が当てられることが多い)。〉(371頁、太字と下線(同書では傍点)は大谷氏による)

 

 このように大谷氏は〈株式も典型的な架空資本なのである〉と株式それ自体が架空資本であるかに理解している。そして株式の場合を擬制資本という訳語が当てられる場合が多いと述べているのである。このように大谷氏においても理解が曖昧であることを暴露しているのである。さらに大谷氏は次のようにも主張している。

 

 〈以上が,第5章 5)で出てくる「架空資本」の最初のものであるが,見られるように,これはいわゆる擬制資本たる利子付証券のことである。マルクスは,それらの価値は総じて「純粋に幻想的」であるが,とくに国債では「資本」そのものが「純粋に幻想的」であり,さらに譲渡できない収入源泉までも「資本」とみなされる場合--その極は労働力--を「純粋に幻想的な観念Jだとし……ている。〉(第25章該当部分の草稿の「上」64-5頁)

 

 マルクスが架空資本としての「資本価値」という場合、規則的な貨幣利得が、それをもたらす理由は何であれ、すべて利子生み資本のもたらす利子とみなされ、だからその利子もたらすと想像された利子生み資本の価値のことである。だからそうした貨幣利得は、その時の平均利子率で還元されて、それをもたらす資本価値が計算されたわけである。だからこそまたそれらは純粋に幻想的な、ただ想像されたものに過ぎないのであり、だから「架空資本」とマルクスは規定したのである。ところが大谷氏によると、この「資本価値」は「資本」と「価値」とに二つにわけられて、国債は「価値」だけでなく、「資本」そのものが「純粋に幻想的であり」、それに対してそれ以外の利子付資本は「価値」のみが「純粋に幻想的」だというのである。しかしこれはマルクスの架空資本の概念から考えるなら、決して正しい理解とは言い難いであろう。こうしたことから大谷氏も国債とその他の有価証券とは同じ架空資本であっても区別される必要があるというわけである。
 しかしこうした主張はすべて間違いであることはすでに指摘した。彼らは国債と株式の額面が表すものの違いを、それらが架空資本として運動し、存在しているものとの区別が出来ていないのである。大谷氏の主張にも、株式そのものを架空資本と捉える誤った理解が一方であることは明らかである。しかし国債や株式もそれ自体としては決して架空資本ではないということが、こうした俗説を唱える人たちには理解されていないのである。そうではなく、国債も株式も、それらが架空資本であると言いうるのは、そられが証券として市場で売買されるところに成立する概念なのである。国債も株式も、それらが転売されないなら、一方は単なる借用証書に過ぎないし、他方もただ現実資本や剰余価値に対する権利証書に過ぎないのである。しかしそれらが証券として売買されることによって、それらは架空な資本価値を持ち、架空資本として運動することになるのである。そうしてそうしたものとして架空資本を理解するなら、国債も株式も架空資本としてはまったく同じであり、その資本価値は純粋に幻想的なものでしかなく、同じような独自の運動を行うのである。


『資本論』第3部草稿(現行版第5篇)の研究(29-11)

 

『資本論』第3部第1草稿・第5章(現行版・第29章「銀行資本の構成部分」)の解読

 

 

 〔大谷禎之介《「銀行資本の構成部分」(『資本論』第3部第29章)の草稿について--第3部第1稿の第5章から--》(『経済志林』63巻1号収載)の訳文を利用〕

 

 (今回は【18】パラグラフであるが、前回同様、架空資本の独自の運動が取り上げられている。現代的な問題とも関連させて解読していくことにする。)

 

【18】

 

 〈 (1)国債証券であろうと株式であろうと,これらの所有権原価値自立的な運動は,これらの所有権原が,それらを権原たらしめている資本または請求権のほかに,現実の資本を形成しているかのような外観を確認する。つまりこれらの所有権原は商品になるのであって,それらの価格は独特な運動および決まり方をするのである。/(2)それらの市場価値は,現実の資本の価値が変化しなくても(といっても価値増殖は変化するかもしれないが),それらの名目価値とは違った規定を与えられる。/(3)一方では,それらの市場価値は,これらの権原によって取得される収益の高さと確実性とにつれて変動する。たとえば,ある株式の名目価値,すなわち当初この株式によって表わされる《払込》金額が100ポンド・スターリングであり,その企業が5% ではなく10% をもたらすとすれば,この株式の市場価値は,200ポンド・スターリングに上がる,つまり2倍になる。というのは,5% で資本還元すれば,それは今では200ポンド・スターリングの架空資本を表わしているからである。この株式を200ポンド・スターリングで買う人は,このように投下された彼の資本から5%を受け取る。企業の収益が減少するときには逆になる。この市場価値は,ある部分は投機的である。というのは,この市場価値は,ただ現実の収入によってだけではなく,予期された(前もって計算されうる)収入によって規定されているのだからである。/(4)しかし,現実の資本の価値増殖不変と前提すれば,または,国債の場合のようになんの資本も存在しない場合には,年々の収益が法律によって確定されているものと前提すれば,これらの有価証券価格利子率に(利子率の変動に)反比例して上がり下がりする。たとえば利子率が5% から10%に上がれば,5%の収益を保証する有価証券は,もはや50〔ポンド・スターリング〕の資本しか表わしていない。利子率が5% から2[1/2]%に下がれば,5%の収益をもたらす有価証券は100 〔ポンド・スターリング〕から200〔ポンド・スターリング〕に値上がりする。《というのは,それらの価値は,収益が資本還元されたもの,すなわち収益が幻想的な資本にたいする利子としてそのときの利子率で計算されたものにイコールなのだから。》/(5)貨幣市場〔money market〕の逼迫の時期にはこれらの有価証券の価格は二重に下がるであろう。すなわち第1には,利子率が上がるからであり,第2には,こうした有価証券を貨幣に実現するためにそれらが大量に市場に投げ込まれるからである。この下落は,これらの証券によってそれの保有者に保証される収益が国債証券の場合のように不変であろうと,それによって表わされる現実の資本の価値増殖が鉄道,鉱山等々の場合のように再生産過程の撹乱によって影響されるおそれがあろうと,そのようなことにはかかわりなく起こるのである。嵐が去ってしまえば,これらの証券は,失敗した企業やいかさま企業を表わすものでないかぎり,ふたたび以前の高さに上がる。恐慌のときに生じるこれらの証券の減価は, 貨幣財産の集積の一手段である。〉

 

 ここから架空資本の独自の運動が考察されるのであるが、このパラグラフは長いので、われわれは便宜的にそれを五つの部分に分けて考えるために、「/」を挿入して、それぞれの部分に番号を記した。その番号ごとに解読を進めていくことにする。

 

 まず(1)の部分である。

 

 (1)〈国債証券であろうと株式であろうと, これらの所有権原価値自立的な運動は, これらの所有権原が,それらを権原たらしめている資本または請求権のほかに,現実の資本を形成しているかのような外観を確認する。つまりこれらの所有権原は商品になるのであって,それらの価格は独特な運動および決まり方をするのである。

 

 すでに述べたように、マルクスは架空資本の自立的な運動を考察しようとしているのであるが、まずその書き出しを〈国債証券であろうと株式であろうと〉と書いている。つまりこれから論じる架空資本の自立的な運動としては、国債も株式も同じことが言えるとの認識がマルクスにあることはこれを見ても明らかであろう。次にマルクスが問題にするのは、国債や株式そのものではなく、それらの〈所有権原の価値〉であるということである。国債も株式も年々一定額の貨幣利得をもたらす。一方は国債の「利子」と観念され、他方は配当、つまり実現された剰余価値である。つまり国債も株式も、一方は「租税」にたいする、他方は「剰余価値」にたいする、所有権原なのである。しかし今問題なのは、単なる〈所有権原〉ではなく、〈所有権原の価値〉である。これは何かというと、国債や株式がもたらす規則的な貨幣利得は「利子」とみなされることから、その「利子」を生み出す資本=利子生み資本が想像され、そうした一定の資本価値の所有権を保持しているから利子がもたらされると想像されているわけだ。だから〈所有権原の価値〉とは、その所有しているとされる想像された利子生み資本の価値のことである。だからここでマルクスが〈所有権原の価値〉を問題にしているということは、すでに「利子--資本」の転倒にもとづく架空資本としての資本価値を問題しているということなのである。
 そうした〈所有権原の価値〉すなわち架空資本としての資本価値は、〈自立的な運動〉を行なうと考えている。そしてその自立的な運動が〈それらを権原たらしめている資本または請求権のほかに,現実の資本を形成しているかのような外観を確認する〉というのは、〈それらを権原たらしめている〉というのは、株式も国債もともにそれぞれ名目的な額面貨幣額が記されており、その額面額が株式の場合はその配当率にもとづいて規則的な一定の貨幣額を請求する権原をその所有者に与えており、国債の場合も確定利率にもとづいて、その額面に応じた年間貨幣額を租税から請求する権原をその所有者に与えているということである。つまり株式も国債もそれぞれの額面の名目的な額に応じて、一方は配当率によって、他方は確定利率によって、一定額の規則的な貨幣利得をその所有者が得る権原があるということである。しかし株式も国債も、そうした貨幣請求権とは別に、その架空資本としての資本価値の自立的な運動によって、あたかも〈現実の資本を形成しているかのような外観を確認する〉のだというのである。そしてそうした外観にもとづいて、それらは商品になり、すなわち売買され、またそうした商品として〈それらの価格は独特な運動および決まり方をする〉のだという。ここで〈現実の資本を形成しているかのような外観〉というわけだから、それらは決して〈現実の資本を形成して〉いないのに、〈形成しているかのような外観〉、つまり見かけ上そのように見えるということである。だからそれらは商品として売買されるわけである。しかし実際はそれらは商品でもないし、その売買は普通の商品の売買という意味での売買ではないのである。それらはすべて見かけ上のものである。これはエンゲルス版の第21章以降において利子生み資本の概念が説明された所でも、貨幣そのものが商品となり利子がその価格となって、売買される外観をとったのと同じことが言えるのである。株式も国債も一見すると商品として売買されているように見えるが、実際は、そうではなく、それらは利子生み資本の運動なのであり、だからそれらは貨幣の貸し付けと返済の運動を行なっているに過ぎないわけである。例えば株式を証券市場で購入する貨幣資本家は彼の私的な立場からは、彼の所有する貨幣を利子生み資本として投下するわけであり、その意味では彼がそこから得る配当は彼の貨幣資本(moneyed Capital)の果実(利子)である。そして彼がその株式を売り飛ばしたなら、彼はその彼自身が貸し付けた貨幣資本の返済を受けたことになるのである。だから架空資本としての株式の売買も基本的には利子生み資本としての貨幣の運動と同じであり、貨幣の貸し借りが商品としての貨幣の売買という外観を得たのと同じなのである。国債の場合も同じであり、国債の購入も購入者は彼の私的な立場からは利子生み資本を投下したのであり、彼が国債を販売するときは、彼の貸し付けた資本(利子生み資本)の返済を受けたことになるのである(株式や国債の場合、「購買」が利子生み資本の「貸し付け」であり、「販売」が利子生み資本の「返済(回収)」である。貨幣商品の場合は「販売」が利子生み資本の「貸し付け」であり、「購買」が利子生み資本の「借り入れ」であった)。

 

 (2)〈それらの市場価値は,現実の資本の価値が変化しなくても(といっても価値増殖は変化するかもしれないが),それらの名目価値とは違った規定を与えられる。

 

 ここには〈市場価値〉と〈名目価値〉という用語が使われている。ここで〈市場価値〉をあまり厳密に考える必要はないように思える。マルクスは第10章で「市場価値」について次のように述べていた。

 

 〈これらの商品のあるものの個別的価値は市場価値よりも低い(すなわちそれらの生産に必要な労働時間は市場価値が表わしている労働時間よりも少ない)であろうし、他のものの個別的価値は市場価値よりも高いであろう。市場価値は、一面では一つの部面で生産される諸商品の平均価値と見られるべきであろうし、他面ではその部面の平均的諸条件のもとで生産されてその部面の生産物の大量をなしている諸商品の個別的価値と見られるべきであろう。 〉(全集25a225頁)

 

 つまり市場価値というのは、同じ商品種類において個別の商品の価値の平均価値という意味である。しかしマルクスは同時に〈最悪の条件や最良の条件のもとで生産される商品が市場価値を規制するということは、ただ異常な組み合わせのもとでのみ見られることであって〉(同)とも述べており、だから異常な組み合わせの場合には、こうした意味での市場価値とは異なるケースもありうることを意味している。よって、ここではわれわれにとって重要なのは、〈市場価値はそれ自身市場価格の変動の中心なのである〉(同)というマルクスの説明であろう。すなわちここで、マルクスが述べている〈市場価値〉は〈市場価格〉の中心をなすものという意味での〈市場価値〉と考えることができる。つまり国債や株式が実際に売買される価格(=市場価格)というのは、直接にはそれらの需給によって日常的に上下するのであるが、〈市場価値〉というのは、そうした日々変動する〈市場価格〉を規制し、その変動の中心をなすものなのである。これらの「架空資本」の「資本価値」はまったく純粋に幻想的なものだとマルクスは説明してきた。「市場価値」とはこれまでマルクスが述べてきた「資本価値」と基本的には同じものと考えられる。だからそれらの〈市場価値〉も同じように幻想的と考えるべきものである。しかし、現実にはそうした市場価値を中心にした市場価格でそれらは証券市場において売買されており、そうした自立的な運動を行なっているわけである。
 だからここでマルクスが〈市場価値〉と述べているのは、マルクスがこれまで述べてきた資本価値、すなわち架空資本のことであり、〈名目価値〉と述べているのは、国債や株式の額面が表す(代表する)価値のことである。

 

 (3)〈一方では,それらの市場価値は,これらの権原によって取得される収益の高さと確実性とにつれて変動する。たとえば,ある株式の名目価値,すなわち当初この株式によって表わされる《払込》金額が100ポンド・スターリングであり,その企業が5% ではなく10% をもたらすとすれば,この株式の市場価値は,200ポンド・スターリングに上がる,つまり2倍になる。というのは,5% で資本還元すれば,それは今では200ポンド・スターリングの架空資本を表わしているからである。この株式を200ポンド・スターリングで買う人は,このように投下された彼の資本から5%を受け取る。企業の収益が減少するときには逆になる。この市場価値は,ある部分は投機的である。というのは,この市場価値は,ただ現実の収入によってだけではなく,予期された(前もって計算されうる)収入によって規定されているのだからである。

 

 ここでは最初は〈一方では,それらの市場価値は,これらの権原によって取得される収益の高さと確実性とにつれて変動する〉というように、〈それらの〉とか〈これらの〉というように、国債と株式をともに想定して論じているが、〈たとえば〉以下は株式を例に上げて論じている。だからマルクスとしては、株式の例は国債にも基本的には妥当すると考えていることが分かる。しかしとにかく今は架空資本としての株式について、マルクスが述べていることが問題である。ここで〈株式の名目価値〉というのは、株式の額面が表す貨幣額である。それは〈当初この株式によって表わされる《払込》金額〉のことであり、それが今は〈100ポンド・スターリング〉である。そして〈その企業が5% ではなく10% をもたらすとすれば〉というのは、配当率が5%ではなく10%だということである。そうすると、〈この株式の市場価値は,200ポンド・スターリングに上がる〉というのは、市場利子率(平均利子率)が5%と仮定されており、だから100ポンドの10%=10ポンドを5%で資本還元すれば、10÷0.05=200ポンドになるというわけである。だから〈今では200ポンド・スターリングの架空資本を表わしている〉ことになるわけである。
 だから〈この株式を200ポンド・スターリングで買う人は,このように投下された彼の資本から5%を受け取る〉。つまり彼は彼の私的な立場からは彼の貨幣200ポンド・スターリングを利子生み資本として貸し付けて、その価格(利子)として、その5%、つまり10ポンド・スターリングを受け取るわけである。それは彼がそれを機能資本家に貸し付けて5%の利子を得るのと基本的には同じなのである。彼の200ポンド・スターリングは彼の私的な立場からは利子生み資本であるが、しかし客観的にはそうではない。
 しかし証券市場で購入した株式の場合は、〈企業の収益が減少するときには逆になる〉。つまり配当率が10%ではなく、5%になる場合、彼は前貸した200ポンド・スターリングに対して、たった5ポンド・スターリング、すなわち平均利子率の半分(2.5%)しか得られないことになる。そして同じことであるが、彼の手にした株式の市場価値は、いまでは半分の100ポンド・スターリングになってしまうであろう。そして彼が手にする5ポンド・スターリングはこの100ポンド・スターリングの5%になるわけである。
 だから〈この市場価値は,ある部分は投機的である。というのは,この市場価値は,ただ現実の収入によってだけではなく,予期された(前もって計算されうる)収入によって規定されているのだからである〉。つまり今は配当率10%で200ポンド・スターリングの市場価値を示しているが、しかし将来的には配当率が15%になると〈前もって計算されうる〉なら、その市場価値は200ポンド・スターリングではなく、15÷0.05=300ポンド・スターリングになるわけというわけである。
 ところでマルクスは、最初に〈一方では,それらの市場価値は,これらの権原によって取得される収益の高さと確実性とにつれて変動する〉と述べていたが、この株式の例は、〈取得される収益の高さ……につれて変動する〉ことは分かったが、〈確実性〉というのは、いま一つはっきりしなかった。確かに株式の場合も〈予期された(前もって計算されうる)収入によって規定されている〉というのは、その〈収益の……確実性〉によって規定されていると考えることもできる。しかし収益の確実性ということでわれわれがすぐに思い浮かべるのは、いわゆる「リスク」ということである。株式の場合もその株式会社がどの程度の安定した収益をあげるかどうかは、一つのリスクと考えてもよいが、リスクとしてわれが思い浮かべるのは、サブプライムローンの証券化である。サブプライムローンの証券化の過程は、いろいろに説明されているが、次のような図がある。

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 この図でシニア、メザニン、エクイティというのは、サブプライムローンを証券化したものをそれぞれのリスクによって階層化して区別したものである。「AAA格」というのはもっと安全なものと格付会社によって格付けされたものであり、だからリスクの低い証券であることを示している。だからリスクの低い証券の場合は当然、その確定利息は低いのである。それに対してエクイティはもっともリスクの高いものであり、だから確定利率も最も高いというわけである。だから一般にサブプライム・ローンというのは、低所得階層など信用度の低い階層を相手にしたローンであるから、リスクの高いローンであり、だから高い利回りで貸し付けられる。ところがそれが証券化される過程で、そのローン債券がプールされて全体のリスクを沈殿させ、そのリスクの高低によって階層分けされ(それをトランシェという)全体としては高いリスクで分散しているものを、そのリスクのほとんどをエクイティやあるいはその一部をメザニンに集め(沈殿させ)、その代わりにシニアの部分(上澄み部分)を、安全な証券(リスクの低い証券)として販売しよう(だから低い利回りで利子生み資本をかき集めよう)とするものなのである。これがいわゆる「金融工学」などと言われる詐欺的理論のカラクリなのである。
 もう少し具体的な数値を入れて考えてみよう。まずサブプライムローンの利息を10%として、そのプールされた貸し付け総額が100億円だとしよう。そうすると年々の利子所得が10億円入ることになる。この10億円のキャッシュフローをもとに証券化されると考えるわけである。いま平均利子率が2%とすると、これらの市場価値の総額は500億円である。だからもしそれをSPV(特別目的媒体、あるいは特別目的事業体とも訳される)が細分して証券化し,しかしその証券の総額を500億円なる価格で販売したなら、SPVは何と400億円という貸し付け金額の4倍もの利益を得ることになる。しかしもちろん、こんなことはできない。というのは、サブプライムローンが10%と高利率なのは、それはリスクが高いからであり、それが証券化されたからといってリスクが低くなるわけではないからである。だから平均利子率で販売できないわけである。しかしここに金融工学が登場するわけである。つまりプールされた債権全体に分散している高いリスクを、沈殿槽で沈殿させる汚泥のように、リスクをそのプールのなかで沈殿させると、その上澄部分がリスクをほとんど含まない安全な証券として販売できるというわけである。つまり低い利率で販売できる(低い利率で利子生み資本を借り受けることができる)。例えば、5%の確定利息で販売するなら、トリプルAでしかも5%の利率なら、日本の年金機構などは喜んでそれを買うわけである。日本の国債を買うよりも利息が高いから運用利回りが高く、しかも安全であるからである。こうした結果、SVPは、低い利息で借りた貨幣資本を、高い利息で貸し付けてその利ざやを荒稼ぎしたことになるわけである。これがサブプライムローンの証券化の最大の目的なのである。
 林氏は証券化は債権の流動化そのものに意義があるかに主張するのであるが、もちろん、そうした流動化の意義を否定する必要はないが、しかしそれだけなら、格付けによって階層化する必要もまたないわけである。        
 ところでこうしたリスクによる利回りの高低は、国債についても言いうるのである。もちろん、例えば日本の国債の場合には国内ですべて販売されているから、こうしたことは必ずしも当てはまらないが、世界を見渡すとさまざまな外債が販売されている。一般に新興国の国債ほど高い利回りで販売されているが、それはそれだけリスクが高いからである(リスクが高いから高い利回りでないと売れない)。日本の国債もアメリカの大手格付け会社ムーディーズが、2002年5月に「日本の債務状況を向こう数年間予想した」結果として、ボツワナ以下に引き下げていることは周知のことである。主要国の長期国債の格付けは下図のようになっているらしい。
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 (4)〈しかし,現実の資本の価値増殖不変と前提すれば,または,国債の場合のようになんの資本も存在しない場合には,年々の収益が法律によって確定されているものと前提すれば,これらの有価証券価格利子率に(利子率の変動に)反比例して上がり下がりする。たとえば利子率が5% から10%に上がれば,5%の収益を保証する有価証券は,もはや50〔ポンド・スターリング〕の資本しか表わしていない。利子率が5% から2[1/2]%に下がれば,5%の収益をもたらす有価証券は100 〔ポンド・スターリング〕[524]から200〔ポンド・スターリング〕に値上がりする。《というのは,それらの価値は,収益が資本還元されたもの,すなわち収益が幻想的な資本にたいする利子としてそのときの利子率で計算されたものにイコールなのだから。》

 

 次は価値増殖が不変と前提した場合である。あるいは国債の場合には、そもそもそれが代表する資本そのものがないわけだから、その増殖もなく、ただ確定利息として年々租税からの支払額が前もって決まっているだけであるが、そうした場合、つまり〈年々の収益が法律によって確定されているものと前提すれば,これらの有価証券価格利子率に(利子率の変動に)反比例して上がり下がりする〉。ここで〈有価証券価格〉と言われているのは、その前に〈所有権原価値〉とか〈株式の市場価値〉と言われていたものと同じと考えるべきであって、市場価格のことではないと思われる。
 だから市場の利子率が5%から10%に上がると、配当率が5%の株式の場合、あるいは確定利息が5%の国債の場合も、額面が100ポンド・スターリングであっても、その市場価値(所有権原の価値)は50ポンド・スターリングになるわけである。なぜなら、年々の貨幣利得は5ポンド・スターリングであるが、平均利子率が10%のために、それで資本還元すると、5÷0.1=50[ポンド・スターリング]だからである。つまり年々5ポンド・スターリングの貨幣利得は、この場合50ポンド・スターリングの想像された利子生み資本の生み出した利子とみなされ、50ポンド・スターリングの利子生み資本の所有権原を持っていると想像されるわけである。
 だからまた市場利子率が5%から2.5%に下がると、100ポンド・スターリングの額面で確定利息や配当率が5%であるなら、それらの有価証券(国債と株式)は、200ポンド・スターリングに値上がりする。というのは、同じように年々5ポンド・スターリングの貨幣利得が2.5%で資本還元されるから、5÷0.025=200だからである。
 だから利子率が上がれば価格は下がり、下がれば上がる。すなわち〈有価証券価格利子率に(利子率の変動に)反比例して上がり下がりする〉わけである。
 〈 《というのは,それらの価値は,収益が資本還元されたもの,すなわち収益が幻想的な資本にたいする利子としてそのときの利子率で計算されたものにイコールなのだから》 〉とマルクスはその理由について述べている。つまり年々5ポンド・スターリングの収益は、200ポンド・スターリングの想像された利子生み資本が、その時の利子率にもとづいて利子としてもたらしたものと考えられるからだというのである。

 

 (5)〈貨幣市場〔moneymarket〕の逼迫の時期にはこれらの有価証券の価格は二重に下がるであろう。すなわち第1には,利子率が上がるからであり,第2には,こうした有価証券を貨幣に実現するためにそれらが大量に市場に投げ込まれるからである。この下落は,これらの証券によってそれの保有者に保証される収益が国債証券の場合のように不変であろうと,それによって表わされる現実の資本の価値増殖が鉄道,鉱山等々の場合のように再生産過程の撹乱によって影響されるおそれがあろうと,そのようなことにはかかわりなく起こるのである。嵐が去ってしまえば,これらの証券は,失敗した企業やいかさま企業を表わすものでないかぎり,ふたたび以前の高さに上がる。恐慌のときに生じるこれらの証券の減価は, 貨幣財産の集積の一手段である。

 

 〈貨幣市場〔moneymarket〕の逼迫の時期〉、つまり資本の循環が停滞する時期(再生産過程が攪乱する時期)には、資本家たちが、自分たちが振り出した手形の満期が近づきそれを決済する現金が必要なのに、受け取った手形が支払われないために、現金が不足し、そのためにとりあえず銀行に一時的な貨幣融通を要請したり、手持ちの有価証券を売って現金に変えようとする人たちが多くなる。そうした時期には、有価証券の価格は二重に下落する。第一に、誰もが現金を必要とするから銀行に対する融通の要求が強く、貨幣資本に対する需要が高いために、利子率は上がるからであり、第二に、誰もが有価証券を販売しようとするから、有価証券の供給が多いのに、だれもそれを買おうとせず、需要が少ないからである。
 〈この下落〉、つまり逼迫期の有価証券の下落は、この証券が国債のように年々の貨幣利得が確定していて不変であっても、あるいは株式のように現実資本の価値増殖が、再生産過程の攪乱によって影響される恐れがあろうとも、そうしたことに関わりなく起こるとマルクスは指摘している。つまりこうした点でも,つまり逼迫期の価格の下落という点でも、国債と株式とには、架空資本の運動としては、同じだとマルクスは述べているわけである。こうした叙述を見ても、マルクスが架空資本としては国債も株式も同じものであり、両者に相違はないものとして見ていることが分かるであろう。

 だから架空資本(有価証券)の市場価格は、次のような要因によって決まってくる。

 (1)まずそれらの権原によって取得される収益の高さと確実性によって。株式の場合は、まず配当率の高さによって、債務証書の場合はリスクの高さによって確定利息の高低が決まり、その確定利息によって有価証券の価格も規定される。
 (2)次に配当率や確定利息が決まっていて、変動しないとすれば、有価証券の価格は、市場利子率(平均利子率)の変化に反比例して変動する。
 (3)さらに有価証券の価格は、証券市場におけるそれらの証券の需給に応じても、直接に変動する。

 以上の要因によって実際に証券市場で売買されている有価証券の市場価格は決まってくるわけである。

 そして〈嵐が去ってしまえば,これらの証券は,失敗した企業やいかさま企業を表わすものでないかぎり,ふたたび以前の高さに上がる〉。だからこの場合は株式について妥当することであろう(もっとも国債も国家が破産すれば同じであるが)。株式の場合も、企業が倒産する場合だけでなく、投機がもっとも盛んになる狂乱期には1847年恐慌時の鉄道投機のように、まったくイカサマの鉄道敷設計画をでっち上げる等のことが行われたのであり、だから倒産したり、そうした投機にもとづくものでないかぎりは、嵐が去れば、こうした有価証券の価格は本来の高さにもどるわけである。1847年のいかさまの鉄道投機について、少し紹介しておこう。

 

 〈この投機の最盛期は1845年の夏と秋であった。これらの株式の価格はたえず上がり、投機の利益は国民のほとんどすべての階層を渦中に投げ込んだ。公爵も伯爵も、種々の鉄道線の重役会に席を占めるという収入のある栄誉をえようとして、商人や工揚主たちと張り合った。……1ペニーでも貯えのある者、いささかでも信用を利用しうる者は、鉄道株の投機をした。……イギリスおよび大陸の鉄道組織の現実の拡張と、それと結びついた投機との基礎のうえに、この期間にしだいに、ローや南海会社の時代を想起させる思惑の上部構造がつくり出されていった。幾百という線が成功の見込みがすこしもないのに企画された。そこでは、企画者自身が実際に実行することなどはぜんぜん考えていなく、一般に、重役たちで供託金を食いつぶすこと、株式を売って詐欺的利潤をうることが狙いであった。〉 (三宅義夫編『マルクス・エンゲルス恐慌史論』上20頁)

 

 〈恐慌のときに生じるこれらの証券の減価は, 貨幣財産の集積の一手段である〉。恐慌時に低落した株式は、それを利用して特定の貨幣資本家に集中されるわけである。株式市場では、常に小さな個人株主が大株主の犠牲になり、それらに飲み込まれる。大株主は、さまざまな情報網によって、上昇した株を下落前に売り抜けて、濡れ手に粟のぼろ儲けをしたあと、低落した株式を今度は再び買い集めて、またその上昇を待って一儲けするわけである。こうした過程を通して貨幣財産は特定の貨幣資本家にますます集中する。


『資本論』第3部草稿(現行版第5篇)の研究(29-12)

『資本論』第3部第1草稿・第5章(現行版・第29章「銀行資本の構成部分」)の解読

 

 〔大谷禎之介《「銀行資本の構成部分」(『資本論』第3部第29章)の草稿について--第3部第1稿の第5章から--》(『経済志林』63巻1号収載)の訳文を利用〕

 

 (今回は【19】【22】パラグラフである。この部分は、これまでの考察されてきた架空資本である有価証券はそもそも何を表していのかということを論じており、それまでの考察の一つの中間総括的な位置をしめているように思える。)

 

【19】

 

 〈これらの有価証券の下落(減価)または上昇(増価)が,これらの証券が表わしている現実の資本の運動にかかわりのないものであるかぎり,一国民の富の大きさは,減価および増価の前もあともまったく同じである。「1847年10月23日には,公債や運河・鉄道株はすでに114,752,2254ポンド・スターリング減価していました。」a)この減価が,生産や鉄道・運河交通の現実の休止とか,現実の企業の見放しとか,なにも生み出すことがなかったような企業への資本の固定とかを表わすものでなかったかぎり,この国民は,この名目的な貨幣資本の破裂によっては,一文も貧しくなってはいなかったのである。〉

 

 これらの有価証券、とくに株式の高騰や下落が現実資本の価値増殖と無関係のものであるなら、すなわち、単に投機的な思惑による高騰であるとか、あるいは単に貨幣逼迫による利子率の高騰による下落によるだけなら、これらの有価証券の当落によっては、一国民の富の大きさそのものは、その減価や増価の前後において何の変化もないわけである。
 ここで〈名目的な貨幣資本の破裂〉とあるが、これは先に出てきた(【18】の(2))〈名目価値〉とは同じではない。後者は国債や株式の額面価値(価格)のことであり、前者は利子率の変動やさまざまな投機的思惑によって膨れ上がった架空資本の市場価値(価格)の破裂を意味していると考えるべきであろうからである。

 

【20】

 

  〈【原注】|337下|a)モリス(イングランド銀行総裁),〔(〕『商業の不況』,1847-48年。[第3800号。]|〉

 

 この部分は【19】の本文につけられている原注であるが、本文で引用されているものの典拠を示すものになっている。このイングランド銀行総裁の議会証言は『資本論』現行版の第26章でも、エンゲルスの編集によるものだが、紹介されている(全集25a528頁)。
 しかしこの部分は、大谷氏によると、マルクス自身が本文として書いたものではなく、大谷氏は「雑録」として分類しているが、〈のちに使用する材料として抜粋を行なっている部分〉に過ぎないものなのである。それをエンゲルスは他の諸章と同じような本文として取り扱っているわけである。そもそもこの現行版の第26章の表題「貨幣資本の蓄積 それが利子率に及ぼす影響」というのは、この章の冒頭で紹介されている『通貨理論論評』からの抜粋の前に、その内容を要約してマルクスが書いたコメントに過ぎないものであって、それをエンゲルスが勘違いして全体の章の表題にしてしまったものなのである。だから表題とそれ以降の第26章に採用されている抜粋の全体の内容とはまったく合っていない代物なのである。いずれよせに、大谷氏が「雑録」として、草稿を翻訳・紹介している関連部分を大谷氏の論文から紹介しておこう(下線はマルクスによる強調。太字部分は今回引用されている部分。「第2675号」等とあるのは議会報告『商業的窮境』に記載されている証言番号である)。

 

 〈〔第2675号。〕「1847年には,輸入された食糧の代価として,少なくとも900万ポンドの金が(750万はイングランド銀行から. 150万はその他の源泉から)輸出されました。」(〔議会報告書『商業的窮境』,1847-48年。245ページ。) 〔第3800号。〕「1847年10月23日には,公債および運河・鉄道株はすでに114.752.225ポンド減価していました。」 (同前. 312ページ。モリス,イングランド銀行総裁。)第3846号。(同じモリスがロード・ベンティンクに尋ねられる。)「あなたは,債券やあらゆる種類の生産物やに投下されていたすべての資産が同じように減価したということ,原綿も生糸も未加工羊毛も同じ低落価格で大陸に送られたということ,そして,砂糖やコーヒーや茶が強制売却で投げ売りされたということを,ご存知ではないのてすか?--食糧の大量輸入の結果生じた地金流出に対抗するためには,国民がかなりの犠牲を払うこともやむをえませんでした。」第3848号。「そのような犠牲を払って金を取り戻そうとするよりも,イングランド銀行の金庫に眠っていた800万ポシドに手をつけるほうがよかった, とは考えられませんか?--いや,そうは考えません。」このヒロイズムへの注釈。ディズレイリW.コッ トン(イングランド銀行理事,前総裁)に尋ねる。第4356号。「1844年に銀行株主に支払われた〔配当〕率はどれだけでしたか?--その年には7%でした。」第4357号。「では. 1847年の配当は?--9%です。」第4358号。「銀行は今年は株主に代わって所得税を支払うのですか?--そうです。」第4359号。「1844年にはそうしましたか?--そうしませんでした。」第4360号。「それならば,この条例は株主に非常に有利に作用したわけです〔ね?〕第4361号。「結果は,この条例が通過してから株主への配当は7%から9%に上がり,条例以前は株主が支払っていた所得税もいまでは銀行が支払うということですね?--まったくそのとおりです。」/〉 (《「信用と架空資本」(『資本論』第3部第25章)の草稿について(中)--第3部第1稿第5章から--》『経済志林』51巻3号1993年-45頁)

 

【21】

 

  〈|338上|すべてこれらの証券が表わしているのは,実際には,「生産にたいする蓄積された請求権」にすぎないのであって,この請求権の貨幣価値または資本価値は,国債の場合のように資本をまったく表わしていないか,または,それが表わしている現実の資本の価値とは無関係に規制される。〉

 

 ここでも〈すべてこれらの証券〉と言われているのは、これまでの展開から考えても、国債や株式のことである。マルクスは国債や株式も、それらが表しているのは、〈実際には,「生産にたいする蓄積された請求権」にすぎない〉と述べている。これまで国債と株式が何を表しているのかについて、マルクスがどのように説明してきたのかをもう一度、振り返ってみよう。
 国債の場合は、国家が借りた資本は食いつくされてもはや存在せず、国債は〈純粋に幻想的な資本を表している〉だけであるだから〈国家の債権者がもっているものは第1に,たとえば100ポンド・スターリングの,国家あての債務証書である。第2に,この債務証書は債権者に国家の歳入すなわち租税の年額にたいする定額の,たとえば5%の請求権を与える。第3に,彼はこの100ポンド・スターリングの債務証書を,任意に他の人々に売ることができる〉(【10】)というものであった。
 株式は、結合資本にたいする所有権を表し、現実の資本を表している。すなわち、これらの企業で機能している(投下されている)資本、または資本として支出されために社団構成員によって前貸されている貨幣額を表している。しかし例えば額面の100万円の株式は100万円の資本価値を持っているわけではない。資本価値としては、現実に投下されたものしか存在しないわけである。だから株式は、そうした現実に投下された資本によって実現されるべき剰余価値に対する所有権原でしかない、というのがマルクスの説明であった(【17】)。ここで「実現されるべき」というのは、単に商品資本の剰余価値部分として形成されたというだけでなく、それがさらに貨幣資本の剰余価値部分としても実現されたもの考えるべきであろう。
 しかしこうした国債や株式が表すものが、ここでは〈実際には、生産に対する蓄積された請求権に過ぎない〉のだと説明されているわけである。しかし注意が必要なのは、ここでは国債や株式そのものがそうしたものとして説明されているのであって、架空資本としての国債や株式のことではないことである。言い換えれば、国債や株式の額面価格(価値)が表しているものが、〈実際には、「生産に対する蓄積された請求権」にすぎない〉と言われているわけである。そして注目されるのは、〈「生産にたいする蓄積された請求権」〉が鍵括弧に入っていることである。それは一体何を意味するのであろうか。
 そもそも〈「生産に対する蓄積された請求権」〉とは何であろうか?
 支払手段としての貨幣の機能から生まれる債権・債務関係によって流通する信用諸用具を代表する「手形」は、「貨幣の支払を求める権利」あるいは「貨幣請求権」を表している(それは逆にいえば貨幣の支払約束証書でもある)。しかしここで言われているのは、「貨幣」に対する請求権ではなく、〈生産に対する……請求権〉なのである。国債の利子支払や株式の配当も、いずれも貨幣によって支払われる、だからそれらも貨幣による支払を求める権利、貨幣請求権を表しているといえないこともない。しかし、マルクスはそうした規定を与えるのではなく、〈生産に対する蓄積された請求権〉だと述べているわけである。
 国債は租税の年額に対して一定額の支払を請求する権利を表し、株式は現実資本が実現するであろう剰余価値に対する所有権原、つまり実現された剰余価値(利潤)からの支払を請求する権利を表している。租税もその源泉を剰余価値に求めることができるわけだから、マルクスがここで〈生産に対する……請求権〉と述べているのは、「生産され実現された剰余価値に対する請求権」とも考えることができるかも知れない。しかしそれならそのようにどうしてマルクスは書かないのであろうか。
 そもそも〈生産に対する請求権〉というのは、極めてあいまいなものである。なぜなら、生産に対して何を請求するのかも書かれていないからである。生産に対する請求権と言っても、生産の結果に対する請求権なのか、それとも生産の過程に対する請求権かさえも分からない。そもそも〈請求権にすぎない〉という書き方は、それはただ請求する権利を表しているだけで、それが実際に行使されるかどうかは状況次第によるとも解釈可能である。権利というのは法的な問題であり、例えば「基本権人権」などいうものは憲法に謳われている限りでは、言論の自由や思想信条の自由を表しているが、ブルジョア社会の現実は、それが実際には有名無実であり、一つの欺瞞であることを暴露している。同じように〈生産に対する請求権〉というものも、極めて漠然としたものであり、ただ漠然と生産に対して一定の蓄積された何らかの請求権を表しているだけで、それが具体的に生産に対して何を請求するのかもあいまいであり、しかもそうした権利が現実に行使されるのかどうかも状況次第という極めて漠然としたものなのかも知れない。つまりマルクスが有価証券が表しているものは、〈実際には,「生産にたいする蓄積された請求権」にすぎない〉という場合、そうした生産に対する極めて漠然とした請求権を意味している過ぎないのだという含意かも知れないのである。しかしいずれにせよ、今の時点で即断するのはやめておこうと思う。だからこの問題については最終的な確定は保留しておくことにする。

 

【22】

 

  〈すべて資本主義的生産の国には,膨大な量の《いわゆる》利子生み資本またはmoneyed Capitalがこうした形態で存在している。そして,貨幣資本蓄積という言葉で考えられているのは,たいてい,この「生産にたいする請求権」の蓄積,および,これらの請求権の市場価格(幻想的な資本価値)の蓄積のことでしかないのである。〉

 

 〈すべて資本主義的生産の国には,膨大な量の《いわゆる》利子生み資本またはmoneyed Capitalがこうした形態で存在している〉という場合の、〈こうした形態〉というのは、先に述べられている有価証券ということであろう。だからこの一文で述べていることは、資本主義の国においては、膨大な量の利子生み資本の投資対象として、こうした有価証券が存在しているということであろう。そして〈貨幣資本蓄積という言葉で考えられているのは,たいてい,この「生産にたいする請求権」の蓄積,および,これらの請求権の市場価格(幻想的な資本価値)の蓄積のことでしかないのである〉。
 後にマルクスはIII)において(現行の第30~32章において)、〈この信用の件(Creditgeschichte)全体のなかでも比類なく困難な問題〉(『経済志林』64巻4号146頁)として〈第一に本来の貨幣資本の蓄積。これはどの程度まで,現実の資本蓄積の,すなわち拡大された規模での再生産の指標なのか,またどの程度までそうでないのか?〉(同)という問題を上げているのであるが、〈貨幣資本の蓄積〉という言葉で考えられているものは、たいていは、〈生産に対する請求権〉の蓄積、あるいは請求権の市場価格(幻想的な資本価値)の蓄積だというのである(ただIII)で実際に中心的に問題になっているのは、そうした「架空な貨幣資本」を除いた、「貸し付け可能な貨幣資本」に限定されたものなのではあるが)。
 この後者で言われているものの蓄積、すなわち〈これらの請求権の市場価格(幻想的な資本価値)の蓄積〉というのは、それまでに述べられていたものが、有価証券そのもの、つまり有価証券の額面が表すものであったのに対して、今度は、「架空資本としての有価証券」、つまり証券市場で実際に売買されている市場価格(資本価値)の蓄積のことを指していると考えることができる。


『資本論』第3部草稿(現行版第5篇)の研究(29-13)

『資本論』第3部第1草稿・第5章(現行版・第29章「銀行資本の構成部分」)の解読

 

 〔大谷禎之介《「銀行資本の構成部分」(『資本論』第3部第29章)の草稿について--第3部第1稿の第5章から--》(『経済志林』63巻1号収載)の訳文を利用〕

 

 (今回は第【8】パラグラフで、〈銀行資本〔Bankcapital〕は,1)現金(金または銀行券),2)有価証券,から成っている。有価証券は,さらに二つの部分に分けることができる。〔一つは〕商業的有価証券(手形)であって,これは流動的なもの〔floating〕で,本来の業務はこれの割引のかたちでなされる。〔もう一つは〕その他の有価証券(公的有価証券,たとえばコンソル,国庫証券,等々,およびその他の有価証券,たとえばあらゆる種類の株式〔)〕,要するに利子生み証券であって,手形とは本質的に区別されるもの《(場合によってはまた不動産抵当証券〔mortgages〕も)》である〉と分類されていたうちの、〈商業的有価証券(手形)〉の考察が始まる。因みに、マルクスはここで分類された銀行資本の構成部分を、考察順序としては上記に揚げた順序とは逆に行っているのである。)

 

【23】

 

 〈さて,銀行業者資本〔Banquiercapital〕の一部分はこのいわゆる利子生み証券に投下されている。この証券そのものは,現実の銀行業者業務では機能していない準備資本の一部分である。〔銀行業者資本の〕最大の部分は,手形,すなわち生産的資本家または商人の支払約束から成っている。貨幣の貸し手〔moneylender〕 にとっては,この手形は利子生み証券である。すなわち彼は,それを買うときに[525]満期までの残存期間の利子を差し引く。だから,手形が表わしている金額からどれだけが差し引かれるかは,そのときどきの利子率によって定まるのである。a)/〉

 

 ここで〈銀行業者資本〔Banquiercapital〕〉というのは、われわれが以前(29-5)、第【8】パラグラフに関連して考察したもの(ここを参照)の分類からするとどれに該当するのであろうか。ここではこの〈銀行業者資本〔Banquiercapital〕の一部分〉が、これまで考察してきた〈いわゆる利子生み証券〉に投下され、さらにその〈最大の部分〉は、手形からなっているということだから、それは図示すると、次のようになる。

Photo
  これに現金(金または銀行券)を加えるなら、それは【8】パラグラフでわれわれが〈銀行資本〔Bankcapital〕〉あるいは〈銀行業者の資本〔d.banker's Capital〕〉について、次のような説明を加えていたものと同じと考えるべきであろう(【8】パラグラフの考察で紹介している図を参照)。

 

 「“銀行業者がその営業をするための資本”というような意味と考えられる。つまり銀行業者が営業をするために保持している資本全般を意味するものが〈銀行資本〔Bankcapital〕〉あるいは〈銀行業者の資本〔d.banker's Capital〕〉ということができる」

 

 だから〈銀行業者資本〔Banquiercapital〕〉も同じような意味として捉えるべきであろう。

 だからこのパラグラフは次のように解釈できる。

 

 銀行業者が営業をするための資本の一部分はこれまで考察してきた国債や株式などの〈いわゆる利子生み証券に投下されている〉。〈この証券そのものは,現実の銀行業者業務では機能していない準備資本の一部分である〉。

 

 銀行業者の〈現実の銀行業者業務〉というのは、産業資本や商業資本に利子生み資本を貸し付けて、利子を得ることであるが、しかしとりあえずそうした貸し付け先のない貨幣資本〔moneyed Capital〕は、差し当たりは利子生み証券に投下されているわけである。これらが準備資本をなすのは、必要とあれば、すぐに売却して貸し付け可能な貨幣資本に転換可能だからである。本来の業務である産業資本や商業資本への貸し付けは、それらの資本の循環を待って初めて返済を受けることができるのであるが、有価証券への投資は、その点、必要とあらばいつでもそれを売却すれば、いつでも返済可能な形態にあり、だからそれらに投下されているものは準備資本と考えることができるわけである。

 

 ところで大谷氏は〈〔銀行業者資本の〕最大の部分〉に注3)を付けて、次のように説明している。

 

 〈3)「銀行業者資本の最大の部分」--d.bedeutendste Theilというこの語は,先行する「銀行業者資本の一部分」と区別される,「銀行業者資本」の「最大の部分」と読まれなければならない。長谷部訳でも岡崎訳でも,この語は「その最大〔の〕部分」と訳されているが,その場合には,直前の「この証券そのもの〔es… dies〕」の「最大の部分」ないし「現実の銀行業者業務では機能していない準備資本」の「最大の部分」と読まれざるをえない。不適訳であろう。したがってまた,同じ読み方をしていた筆者の旧稿での記述(「信用と架空資本」の草稿について(上)」,『経済志林』第51巻第2号,1983年,65ページ)も訂正されなければならない。

 

 つまり長谷部訳や岡崎訳では、このいわゆる利子生み証券に投下された銀行業者資本の最大の部分となり、これでは文章としては成り立たない。というのは「このいわゆる利子生み証券」というのは、それまで考察してきた国債や株式を指すのであり、その最大の部分が手形から成っているというのでは意味が通じないからである。因みにこの「不敵訳」は新日本新書版でも同上製版でも改まっていない。ところで大谷氏がここで訂正している「信用と架空資本」の草稿について(上)」では、わざわざ次のように訳している。

 

 〈 「さて,銀行業者資本の一部分はこのいわゆる利子付証券に投下されている。この証券そのものは,現実の銀行業務では機能していない準備資本の一部分である。〔この準備資本の--引用者〕最大の部分は,手形,すなわち生産的資本家や商人の支払約束から成っている。」(Ms.I,S. 338; MEW,Bd . 23,S. 487.) 〉(ここで「引用者」とあるのは引用している大谷氏自身のことである)。

 

 まだ長谷部訳などの場合は、その前後の文脈を正確に読み取るなら、「その最大の部分」の「その」が何を指しているのかを正しく理解することも可能なのであるが、大谷氏のように、わざわざ訳者自身が間違った挿入文を入れてしまうと、どうしようもないといわざるを得ない。この場合は明らかに「不適訳」であることは間違いない。

 だからこの部分は、次のように解釈できる。

 

 銀行業者が営業をするための資本の最大の部分は、手形、すなわち生産的資本家または商人の支払約束からなっている、と。

 

 つまり〈現実の銀行業者業務〉というのは、産業資本や商業資本への利子生み資本の貸し付けであると先に述べたが、その貸し付けの形態はさまざまなのであるが(エンゲルスはそれを1)無担保貸し付け、2)担保貸し付け、3)手形割引に分けている)、その最大の部分は手形割引で貸し付けられるということであろう。第28章では、エンゲルスは彼の挿入文のなかで、手形割引を、「まったく普通の売買である」と説明して、それが利子生み資本の貸し付けの一形態であることを見誤っていたが、手形割引は確かに直接的には銀行が業者が持参した手形を「買う」という外観をとるのであるが、しかし、あくまでもそれは利子生み資本の貸し付けの一形態なのである。

 ところで、この部分にも大谷氏は注5)を付けて、次のように説明している。

 

 〈5) 〔手稿異文〕ここに,次のように書いたのち,消している。--「手形は,それらの名目価値とそれらの市場価値との区別がないという点で,上で考察した有価証券とは区別される。手形は,満期になると今度は,振り出されたときの貨幣額よりも大きい貨幣額に転化する。」〉

 

 この一文をマルクスは最終的には消したのであるが、その内容をみると、興味深いことが分かる。というのは、ここではマルクスは、手形は、〈上で考察した有価証券〉、すなわち国債や株式のような〈いわゆる利子生み証券〉とは区別されるとしているからである。そしてその区別の根拠を〈名目価値とそれらの市場価値との区別がないという点〉だとしている。ところが本文をみると、〈貨幣の貸し手〔moneylender〕 にとっては,この手形は利子生み証券である〉とまったく逆の規定を与えているかに思えるからである。
 実は、この問題については、すでにわれわれは、【8】パラグラフの考察のなかで、次のように指摘しておいた。

 

 【ここでマルクスは、有価証券を、商業的有価証券(手形)とその他の有価証券に分けて、後者の説明として〈要するに利子生み証券であって,手形とは本質的に区別されるもの……である〉と述べている。これを読む限りでは、手形は「利子生み証券」に入らないように思えるのであるが、後に見るように、割り引かれた手形については、銀行から見れば、それは利子生み証券だとマルクスは述べている(【23】参照)。この点、やや疑問が残るが、それはそれが問題になるパラグラフ(【23】)で検討することにして、ここではとりあえずは、手形は利子生み証券には含まれないものとして理解しておくことにしよう。】

 だからわれわれはこの問題を考えなければならない。ししかしこの問題については、すでに以前、国債や株式について考察したところで回答は出ているのである。【17】パラグラフで、株式について、〈株式は,この資本によって実現されるべき剰余価値にたいする所有権原でしかないのである。Aはこの権原をBに売り,またBはCに売るかもしれない,等々。このような取引は事柄の性質を少しも変えるものではない。この場合,AまたはBは自分の権原を資本に転化させたのであるが,Cは自分の資本を,株式資本から期待されうる剰余価値にたいする,たんなる所有権原に転化させたのである〉と述べていた。ここで〈AまたはBは自分の権原を資本に転化させた〉のであるが、しかし〈このような取引は事柄の性質を少しも変えるものではない〉と述べられていた。この一文について、レジュメでは次のように説明した。

 

 【株式を最初に所有していたAからBに株式が販売され、さらにBはCに販売した場合、〈このような取引は事柄の性質を少しも変えるものではない〉とある。つまり株式が結合資本の所有権を表す証書であるとか、現実の資本を表すものであるとか、あるいは将来の剰余価値に対する所有権原であるという事柄そのものは何も変わらないと述べているのである。株式から得られる配当が株式が転売されたからといって配当でなくなるわけではないのである。ただそれを購入した、例えばCの私的な立場からすれば、それは彼の投下した利子生み資本に対する「利子」であると観念される。にも関わらず、客観的には配当であるという事柄は何も変わらないと言いたいのである。〈AまたはBは自分の権原(これは剰余価値に対する所有権原である)を資本に転化させた〉とあるが、もちろん、ここで「資本」というのは貨幣資本〔moneyed Capital〕、すなわち利子生み資本に転化させたということであろう。というのは、株式を購入することは、現実の資本の所有権あるいはそこから生み出される剰余価値に対する所有権原を入手することであり、そのこと自体は、決して彼の貨幣を利子生み資本として貸し付けたことを意味しない。なぜなら、利子生み資本の場合は、貸し付けた貨幣価値に対する所有権原は保持し続け、一定期間後には返済されることを前提しているのであるが、しかし株式に前貸された貨幣はそうした返済を前提にしたものではないからである。ところがAもBも彼らが保持した権原である株式を転売した時点で、彼らが前貸した貨幣額を回収するのであり、その限りでは、彼らの私的な立場からすれば、彼らが最初に投じた貨幣価値を利子生み資本に転化させて、その返済を受けたことになるのである。だからマルクスはここでAまたはBは自分の権原を資本(利子生み資本)に転化させたと述べているのである。】

 

 だからこの場合も、手形そのものは、マルクスが【8】パラグラフで述べていたように、他の利子生み証券とは〈本質的に区別される〉ものなのである。しかしその手形を銀行業者が割り引いて、銀行業者が保持しているならば、それは銀行業者資本の投下対象となったのであり、だからそれは銀行業者の立場からみれば、すなわち銀行業者の私的な立場からみれば、それは彼の利子生み資本を投下したものだから、その限りでは利子生み証券なのだとマルクスは述べているわけなのである(だからそれは利子生み資本の循環としては、一定期間後には利子を伴って還流してくることが期待されているのであるが、ただ手形割引の場合は、その利子分を先取りしているわけである)。だからこの場合も手形が手形であるということには何の変りもないのである。すなわち,それはそれを振り出した業者が一定期間後には額面の貨幣額を支払うという約束証書であるという〈事柄の性質を少しも変えるものではない〉わけである。そしてこの手形の客観的な性質においては、手形は株式や国債などの利子生み証券とは〈本質的に区別される〉ものなのである。しかし銀行業者の私的な立場からみれば、銀行業者に利子をもたらすものであり(銀行はそれを先取りするのだが)、よってそれは利子生み証券なのだということなのである。
 だから銀行業者はそれを買う(割引く)ときに、満期までの残存期間の利子を差し引くわけである(これが手形「割引」と言われる所以である)。だから手形の表している金額(すなわち額面金額)からどれだけ差し引かれるかは、そのときどきの利子率と満期までの残存期間によって定まるわけである。

 

【24】 

 

 〈【原注】|338下| a)手形は,「割引かれる財貨,すなわち随時に貨幣に転換される機会をもった財貨」になるのであって,「このような,為替手形〔bill〕または約束手形〔note〕 の額面からの割引あるいは控除は,手形の経過すべき期間についての額面にたいする利子に等しいものであって,〔貨幣への〕転換の価格として支払われるのである。」(ソーントン(H.)『大ブリテンの紙幣信用の性質と効果とについての研究』,ロンドン, 1802年,26ページ。)/〉

 

 これは〈手形は利子生み証券である。すなわち彼は,それを買うときに満期までの残存期間の利子を差し引く。だから,手形が表わしている金額からどれだけが差し引かれるかは,そのときどきの利子率によって定まる〉という部分につけられた原注a)である。ここで引用されているソーントンの著書は邦訳されている。マルクスが引用している部分を邦訳から前後を含めて紹介しておこう(ただし旧仮名遣いを改めてある。下線部分はマルクスが引用していると思われる部分)。

 

 〈これまでのところでは、為替手形や約束手形はもともとその振り出しを必要としたと思われる単純な目的のためにのみ作成されると考えてきた、また、そのことは常に手形の振り出される形式によっても表明されているのである。ところで、今度は、両種の手形ともさらにもう一つの特質、すなわち、割り引かれる物(アーチクル)、もしくは随時に貨幣に転換される便宜を備えた物(アーチクル)としての性質を持っていることを述べねばならない。この場合、為替または約束手形の額面からの割り引きあるいは控除は、手形の経過すべき期間についての額面に対する利子に等しいものであって、貨幣への転換の代価として支払われるのである。ニューヨークからロンドン宛に振り出され且つ債務の移転に役立つものであるというように、前のところで述べた為替手形も、その支払われる期日如何にかかわらず、同じように上述の目的に適うであろう。〉(邦訳52頁、『ソーントン・紙券信用論』渡辺佐平・杉本俊明 訳、実業之日本社 s.23.2.20発行)


『資本論』第3部草稿(現行版第5篇)の研究(29-14)

『資本論』第3部第1草稿・第5章(現行版・第29章「銀行資本の構成部分」)の解読

 

 〔大谷禎之介《「銀行資本の構成部分」(『資本論』第3部第29章)の草稿について--第3部第1稿の第5章から--》(『経済志林』63巻1号収載)の訳文を利用〕

 

 (今回からは、【8】パラグラフで分析していた銀行資本の構成部分の最初に出てくる〈1)現金(金または銀行券〉が対象になる。つまり構成部分として一番最初に上げられているものが、最後に分析されるわけである。)

 

 

【25】

 

 〈/338上/最後に,銀行業者の「資本」〔d. "Capital“d. bankers〕の最後の部分をなすものは,彼の貨幣準備(金または銀行券)である。預金は{長期について約定されているのでなければ}預金者がいつでも自由にできるものである。それは絶えず増減している。b) しかし,ある人がそれを引き出せば他の人がそれを補充するので,「一般的な平均額はあまり変動しない」のである。/〉

 

 ここに出てくる〈銀行業者の「資本」〔d. "Capital“d. bankers〉も、先のパラグラフの〈銀行業者資本〔Banquiercapital〉と同じであり、【8】に出てくる〈銀行資本〔Bankcapital〉や〈銀行業者の資本〔d.banker's capital〉と同じもの、すなわち「銀行業者が営業をするために保持している資本全般を意味するもの」と考えるべきであろう。そしてその最後のものが〈彼の貨幣準備(金または銀行券)である〉。先に【8】パラグラフの解読の時に掲載した図をもう一度紹介しておこう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 これまでこの図示されている銀行資本の構成部分に沿って、それぞれについて分析してきたわけである。【9】【21】パラグラフでは、このうちの「②その他の有価証券(利子生み証券)」が取り上げられ、架空資本の概念が明らかにされ、その独自の運動が解明された。【22】【23】パラグラフでは「①商業的有価証券(手形)」が取り上げられた。だから最後に残っているのは「1)現金(金または銀行券)」というわけである。だから考察の順序としては、上図の番号で示すと、2)の②→①→1)ということになる。
 ところが、マルクスは「現金」について説明するのではなく、すぐに「預金」の説明に移っている。これはどうしてであろうか。それは銀行資本の現実の構成部分である「現金」を、マルクスが〈彼の貨幣準備(金または銀行券)〉と説明していることを考えれば分かる。つまり銀行資本の構成部分をなす「現金(金または銀行券)」というのは、「預金」の支払準備だということである。つまり預金者が預金を引き出しに来た場合に、いつでも応じられるように準備しているのが銀行資本の構成部分である「現金」だということなのである。
 だからマルクスは、続けて、〈長期について約定されている〉もの、つまり「定期預金」のようなものではない限りは、預金は、〈預金者がいつでも自由にできるもの〉だから、〈それは絶えず増減している〉が、〈ある人がそれを引き出せば他の人がそれを補充するので,「一般的な平均額はあまり変動しない〉と述べているのである。だからある銀行の預金総額が例えば100億円だとしても、毎日引き出しに来る人の合計額は5000万円ぐらいであり、しかもある人がその日に現金100万円を引き出したと思ったら、別の人が同じ日に現金100万円を預金に来るという具合で、だから銀行が預金の引き出しのために常に準備しておかなければならない現金はだいたい1000万円ぐらいでよいというようなことになるわけである。

 

 

【26】

 

 〈【原注】/338下/b)「銀行の手中であろうと銀行業者の手中であろうと,商人たちが持っている貨幣は,いつでもきわめて大量ではあるが,絶えざる変動のなかにある。」(J.ステューアト,第4巻, 228ページ。)|〉

 

 この原注は、ただ銀行の手中にある現金は常に変動していることを指摘したものとして、紹介しているだけのようである。だからエンゲルスは編集の過程では削除したのであろう。先の原注aを削除したエンゲルスの編集には疑問符がつくが、今回はどうであろうか。



【27】

 

 〈/338上/銀行の準備ファンドは,資本主義的生産が発達している諸国では,平均的には,蓄蔵貨幣として現存する貨幣の量を表現しており,そしてこの蓄蔵貨幣の一部分は,それ自身また証券から,つまり,けっして自己価値ではない,金にたいするたんなる支払指図から成っている。それゆえ,銀行業者の資本の最大の部分は,純粋に架空なものである(すなわち債権 (手形と公的有価証券)および株式(将来の収益にたいする所有権原,支払指図) 〔)〕。この場合次のことを忘れてはならない。すなわち,銀行業者の金庫のなかにあるこれらの証券が表わしている資本の貨幣価値は,その証券が確実な収益にたいする支払指図(公的有価証券の場合のように)であるか,または現実の資本にたいする所有権原(株式の場合のように)であるかぎりでさえも,まったく架空なものであって,それはこれらの証券が表わしている現実の資本の価値からは離れて調整されるということ,あるいは,これらの証券がたんなる収益請求権である(そして資本ではない)場合には,同ーの収益にたいする請求権が,たえず変動する架空な貨幣資本で表現されるのだ,ということである。そのうえに,この架空な銀行業者資本〔die βfiktive Banker's Capital〕の大部分は,彼の資本を表わしているのではなく,利子がつくかどうかにかかわらず,その銀行業者のもとに預託している公衆の資本を表わしている,ということが加わる。〉

 

 このパラグラフと次の【28】パラグラフとは、【25】パラグラフで銀行業者の「資本」の最後の部分をなす「現金」について、「預金」とその「貨幣準備」との関連で考察したのに対応させて、まずこの【27】パラグラフでは、銀行の「準備ファンド」の性格を考察し、次の【28】パラグラフでは、「預金」のより深い考察がなされていると考えることができる。
 
 ところで、このパラグラフの解読に着手する前に、やっておくべきことがある。このパラグラフでは〈蓄蔵貨幣〉という用語が出てくる。しかも〈この蓄蔵貨幣の一部分は,それ自身また証券から,つまり,けっして自己価値ではない,金にたいするたんなる支払指図から成っている〉という文言も出てくる。しかしわれわれの理解では、蓄蔵貨幣というのは、『資本論』第1部第3章「貨幣または商品流通」第3節「貨幣」の中に出てくるものである。つまり定冠詞のつかない「貨幣」、第三の規定における「貨幣」、あるいは「本来の貨幣」と言われるものであり、金無垢でできているものでなければならないような性格のものでは無かったのか。ところがここではマルクスは蓄蔵貨幣の一部は「証券」(Papier--これはドイツ語では「紙」のことである)から、自己価値ではない単なる支払指図からなっているなどと述べている。果たしてこの蓄蔵貨幣というのは、われわれが『資本論』の冒頭で学んだ蓄蔵貨幣とはどう違うのか、それが問題である。われわれはそもそも「蓄蔵貨幣」とは何なのか、という根本的なことを、まずもって再検討しておかなければならないのである。実は「蓄蔵貨幣」は『資本論』全3巻にわたって出てくるカテゴリーであり、それらをつぶさに検討して行くと、なかなか一筋縄では行かないものであることが分かってくるのである。
 大谷氏は「貨幣の機能II」(『経済志林』62巻3・4号)のなかで、「蓄蔵貨幣」についてかなり詳細な検討を加えている。われわれはそれをも参考にしながら、この概念について検討することにする。ただしこの問題にはあまり多くを割けないので、結論だけを述べることにする(だから興味のある方は、大谷氏の論文を参照して頂きたい)。大谷氏は①『経済学批判』の原初稿、②『経済学批判』、③『1861-3年草稿』、④『資本論』第3部第1稿(第19章該当箇所)、⑤『資本論』第3部第1稿(第28章該当箇所)、⑥『資本論』第1部、という六つの文献からの引用文を紹介して、それらの引用文のなかに出てくる蓄蔵貨幣のマルクスの使用例を考察しながら、検討を加えている。
 それらを踏まえて「蓄蔵貨幣」を大まかに分類して図示すると次のようになると思われる。
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 最初の「蓄蔵貨幣」と「(1)本来の蓄蔵貨幣」が二重線で結ばれているのは、本来の蓄蔵貨幣こそが、蓄蔵貨幣の本源的な概念をなすものだからである。またマルクスが「それ自体としての蓄蔵貨幣」と述べているものは、(1)と(2)を含んだものであることを示している。
 さて、ここでは蓄蔵貨幣を大きく5つに分類したが、ここで(1)と(5)のみが、金貨幣か金地金で無ければならないが(しかし世界的な信用システムが発展している今日では(5)は必ずしも地金形態に限定されない)、それ以外の(2)~(4)はマルクス自身は必ずしもそうしたものに限定していないということである。
 例えば大谷氏は「価値章標は蓄蔵貨幣となりうるか」と題して、次のようなマルクスの一文を紹介している。

 

 〈「鋳貨は,それ自体として,すなわちたんなる価値章標として孤立させてみれば,ただ流通によってしか,また流通のなかでしか存在しない。たんなる価値章標は,それを貯める場合でさえも,ただ鋳貨として貯めることができるだけである。というのも,価値章標の力〔Macht〕は国境のところで終わるのだからである。この場合には貨幣蓄蔵は,流通の過程そのものから生じる,もともと流通の休止点にすぎない貨幣蓄蔵の諸形熊,すなわち,流通に予定された,鋳貨の蓄え〔Vorrath von Münze〕としての貨幣蓄蔵の形態,または国内鋳貨そのもので行なわれうる諸支払のための準備としての貨幣蓄蔵の形態以外まったく問題になりえない。つまり,本来の貨幣蓄蔵は問題になりえない。というのは、価値章標としての鋳貨には,貨幣蓄蔵の本質的要素が,すなわち,それが果たす社会的機能を別としても,ただ象徴的なだけの価値ではなくて,価値そのものの直接的定在でもあるがゆえに,特定の社会的関連から独立した富である,ということが,欠けているからである。したがって,価値章標にとってそれがそのような章標であるための条件となっている諸法則は,金属貨幣にとっては条件とはならない。というのも,金属貨幣は鋳貨の機能に縛りつけられてはいないからである。」 (MEGA,II/2,S,30-31.)〉

 

 このようにマルクスは鋳貨準備だけではなく、支払手段の準備も、価値章標によって可能であるとの理解に立っていることが分かるのである。大谷氏も〈要するに、価値章標は鋳貨の準備ファンドとも支払手段のための準備ファンドともなりうるのであって、この両者が「流通過程そのものから生じる、もともと流通の休止点にすぎない貨幣蓄蔵の諸形態」と見なされうるかぎり、価値章標は蓄蔵貨幣となりうる、と言いうるのである〉と結論している。
 そしてこうした主旨からすれば、(2)も同じように必ずしも金貨幣や地金形態でなければならない理由とはならないであろう。それはただ非自発的に流通が中断されて、商品の変態が第一変態で止まっているような状態、あるいは何らかの理由で支払差額が残っている状態を意味するのだからである。だからこれらもただ鋳貨がそのまま流通を停止しているとも考えることが可能だからである。
 また(4)の資本の流通過程から生じるものについては、大谷氏は紹介していないが、次のようなマルクスの言明がある。

 

 〈事態を現実に起きるとおりに見るならば、あとで使用するために積み立てられる潜在的な貨幣資本は次のものから成っている。
 (1)銀行預金。だが、銀行が現実に動かすことができるのは、比較的わずかな貨幣額である。ここではただ名目的に貨幣資本が積み立てられているだけである。現実に積み立てられているものは貨幣請求権であって、それが貨幣化されうる(いつか貨幣化されるかぎりで)ものであるのは、ただ、引き出される貨幣と預け入れられる貨幣とのあいだに均衡が成立するからでしかないのである。貨幣として銀行の手のなかにあるものは、ただ相対的にわずかな金額だけである。
 (2)政府証券。これはけっして資本ではなく、国民の年間生産物にたいする単なる請求権である。
 (3)株式。思惑的なものでないかぎり、それは、一つの会社に属する現実の資本にたいする所有証書であり、またこの資本から年々流れ出る剰余価値にたいする指図証券である。
 すべてこれらの場合には貨幣の積み立てが行なわれるのではなく、一方で貨幣資本の積み立てとして現われるものは、他方では貨幣の不断の現実の支出として現われるのである。貨幣がその所有者によって支出されるか、それとも彼の債務者である別人によって支出されるかということは、少しも事柄を変えないのである。
 資本主義的生産の基礎の上では貨幣蓄蔵そのものはけっして目的ではなく、むしろ流通の停滞の結果であるか--というのは通常よりも大きい貨幣量が蓄蔵貨幣形態をとるのだから--、または回転のために必要になる積み立ての結果であるかであり、あるいはまた、最後に、蓄蔵貨幣は、ただ、一時的に潜在的な形態にあってやがて生産資本として機能するべき貨幣資本の形成でしかないのである。〉
(第2部全集526-7頁)

 

 だから資本の流通過程それ自体から生じる蓄蔵貨幣(潜勢的な貨幣資本)には、さまざまな形態がありうるということである。またこうした準備ファンドで注意が必要なのは、〈準備金として機能している貨幣資本がその所有者のためには準備金の機能を果たしながら社会のためには現実に流通しており(銀行預金が絶えず貸し出されるように)、したがって二重の機能を果たしている〉(第2部全集422頁)場合があるということである。つまり準備ファンドとして蓄蔵貨幣の形態をとっているといっても、それは特定の当事者の私的な立場からのみそういえる場合があるのであって、そうした場合には、社会的には、あるいは客観的には必ずしもそうしたものではない場合もあるということに注意する必要があるわけである(この点、先の大谷氏の考察は貨幣取扱資本との関連においてやや不十分なところがある)。

 

 さて、やや前置きが長くなったが、こうした蓄蔵貨幣についての一般的な考察を踏まえて、われわれは今問題になっている【27】パラグラフの解読に取りかかることにしよう。このパラグラフは途中でさまざまな挿入文が括弧で括って入っており、ごちゃごちゃしていてややこしいので、適当な部分で区切って、一つ一つ考察していくことにしよう。

 

 〈銀行の準備ファンドは,資本主義的生産が発達している諸国では,平均的には,蓄蔵貨幣として現存する貨幣の量を表現しており,そしてこの蓄蔵貨幣の一部分は,それ自身また証券から,つまり,けっして自己価値ではない,金にたいするたんなる支払指図から成っている。〉

 

 ここで〈銀行の準備ファンド〉として述べている内容は、【25】パラグラフで述べていた〈貨幣準備(金または銀行券)〉だけではなく、【23】パラグラフで言及していた〈準備資本〉をも含めたものである。つまり銀行業者の資本が、〈現実の銀行業者業務〉として投下先を見いだせない(機能できない)ので、とりあえず準備資本として有価証券に投資されているような場合も含むのである。だからその一部が〈それ自身また証券から,つまり,けっして自己価値ではない,金にたいするたんなる支払指図から成っている〉というのはわれわれにとっては頷けることである。というのは、【23】パラグラフでは〈銀行業者資本〔Banquiercapital〕の一部分はこのいわゆる利子生み証券に投下されている。この証券そのものは,現実の銀行業者業務では機能していない準備資本の一部分である〉と述べられていたからである。
 だから問題は〈銀行の準備ファンドは,資本主義的生産が発達している諸国では,平均的には,蓄蔵貨幣として現存する貨幣の量を表現して〉いるということについてである。どうしてこのようなことが言えるのかは、貨幣取扱資本の機能について知る必要がある。マルクスは第25章該当箇所で、信用制度(銀行制度)の本来の基礎が商業信用にある一方で、他方の側面は貨幣取扱業の発展に結びついていると指摘していた。つまり銀行は貨幣取扱業としての側面も持っているわけである。少しその部分から紹介しておこう。

 

 〈すでに前章(これは現行の第19章「貨幣取扱資本」部分をさす--引用者)で見たように,商人等々の準備金の保管,貨幣の払い出しや受け取りの技術的諸操作,国際的支払(したがってまた地金取引)は,貨幣取扱業者の手に集中される。貨幣取扱業というこの土台のうえで信用制度の他方の側面が発展し,〔それに〕結びついている,--すなわち,貨幣取扱業者の特殊的機能としての,利子生み資本あるいは貨幣資本(マニド・キャピタル)の管理である。貨幣の貸借が彼らの特殊的業務になる。彼らは貨幣資本(マニド・キャピタル)の現実の貸し手と借り手とのあいだに《媒介者として》はいってくる。一般的に表現すれば,銀行業者の業務は,一方では,貸付可能な貨幣資本(ゲルト・キャピタル)を自分の手中に大規模に集中することにあり,したがって個々の貸し手に代わって銀行業者がすべての貨幣の貸し手の代表者として再生産的資本家に相対するようになる。彼らは貨幣資本(マニド・キャピタル)の一般的な管理者としてそれを自分の手中に集中する。他方では,彼らは,商業世界全体のために借りるということによって,すべての貸し手に対して借り手を集中する。(彼らの利潤は,一般的に言えば,彼らが貸すときの利子よりも低い利子で借りるということにある。)銀行は,一面では貨幣資本(マニド・キャピタル)の,貸し手の集中を表わし,他面では借り手の集中を表わしているのである。〉 (「信用と架空資本」(『資本論』第3部第25章)の草稿について(中)、13頁)

 

 また大谷氏は先に紹介した論文のなかで、第19章該当の草稿からかなり長い引用を行っているが、その部分も重要なので、紹介しておこう。

 

 〈資本のうちの一定部分はたえず蓄蔵貨幣として存在していなければならず(購買手段の準備,支払手段の準備,遊休していて貨幣形態のままで、充用を待っている資本),また資本のうちの一部分はたえずこの形態で還流してくる。このことは,支払や収納や簿記のほかに,蓄蔵貨幣の保管を必要にするのであり,これはまたこれで一つの特殊な操作である。つまりそれは,実際には,蓄蔵貨幣をたえず流通手段や支払手段に分解することであり,また,販売で受け取った貨幣や満期になった支払から蓄蔵貨幣を再形成することである。……
 貨幣の払い出し,貨幣の収納,差額の決済,貨幣の保管,等々は,これらの技術的操作を必要とさせる諸行為から分離して,これらの機能に携わる資本を貨幣取扱資本にするのである。……
 資本主義的生産過程から(生産がまだ資本主義的に営まれていないところでさえも商業一般から生じるように)次のことが生じてくる。第1に,蓄蔵貨幣としての貨幣の形成,すなわち,今では資本のうち支払手段および購買手段準備金として《つねに》貨幣形態で存在しなければならない部分の形成。これは蓄蔵貨幣の第1の形態であって,それが資本主義的生産様式のもとで再現する(また総じて商業資本が発展するさいに少なくともこの資本のために形成される)のである。どちらも国内流通ならびに国際的流通のため〔のものである〕。この蓄蔵貨幣はたえず流動しており,たえず流通に注ぎ,またたえず流通から帰ってくる。
 第2の形態は,遊休していて目下のところ運用されていない(貨幣形態にある)資本,あるいは,蓄積されたがまだ投下されていない資本〔である〕。この蓄蔵貨幣形成それ自体によって必要となる機能は蓄蔵貨幣の保管,簿記,等々である。しかし,これらのことには,
 第2に,買うときの貨幣の支払,売るときの収納,支払金の支払と受領,諸支払の決済,等々が結びついている。これらすべてのことを,貨幣取扱業者はなによりもまず,商人や産業資本家の単なる出納代理人として行なうのである。……
 貨幣取扱業は,蓄蔵貨幣を形成するのではなく,この蓄蔵貨幣形成が自発的であるかぎり(したがって遊休資本の表現または再生産過程の撹乱の表現でないかぎり),それをその経済的最小限に縮小するための技術的手段を提供するのである。というのは,購買手段および支払手段のための準備金は,資本家階級全体のために管理される場合には,各個別資本家によって管理される場合ほど大きい必要はないからである。〉
(「貨幣取扱資本」(『資本論』第3部第19章)の草稿について、286-301頁)

 

 だから産業資本や商業資本が彼らの蓄蔵貨幣(それは鋳貨準備であったり、支払準備であったり、世界貨幣の準備であったり、とりあえずは投資する前の貨幣であったり、固定資本の償却費用であったり、等々であるが)のほとんどを銀行は預金として引き受けるわけである。先の蓄蔵貨幣の分類のうちで(1)を除く、ほとんどが銀行に預金として集中してくるわけである。しかもそれらは〈経済的最小限に縮小〉されて存在しているわけだから、それらは資本主義的生産が発展している諸国では、社会的には蓄蔵貨幣として現存する量をほぼ表現しているといえるわけである。というのは、産業資本家や商業資本家は彼らの蓄蔵貨幣を実際の流通や投資に必要な限りで、銀行から引き出すのであるが、銀行の準備ファンドというのは、そうした産業資本家や商業資本家の引き出しに応じることのできる必要最小限を充すものでなければならないからである。その量は経験的に決まってくる。ただ産業資本家や商業資本家たちが彼らの蓄蔵貨幣を銀行に預金している場合、これらの再生産的資本家たちにとっては蓄蔵貨幣であっても、しかし彼らの預金は、すでに銀行にはなく、ただ記録だけがあるだけに過ぎない場合もあるわけであって、だから銀行の準備ファンドは、再生産的資本家たちにとっての蓄蔵貨幣の総額よりかなり少ないものであることは確かであろう。
 そして問題なのは、こうした銀行の準備ファンドの一部分(【25】で問題になった貨幣準備のうち金は除く)は、証券から、つまり自己価値ではない、金にたいする支払指図からなっているわけである(金に対する支払指図という点では貨幣準備の一部を構成する銀行券にも妥当するであろう)。

 

 〈それゆえ,銀行業者の資本の最大の部分は,純粋に架空なものである(すなわち債権 (手形と公的有価証券)および株式(将来の収益にたいする所有権原,支払指図) 〔)〕〉

 

 ここで〈銀行業者の資本の最大の部分〉というのは、その前の〈銀行の準備ファンド〉と同じではない。というのは、われわれは【23】パラグラフで〈〔銀行業者資本の〕最大の部分は,手形,すなわち生産的資本家または商人の支払約束から成っている〉という一文を知っているからである。だからここで言われている〈銀行業者の資本の最大の部分〉というのは、その前に言われていた〈銀行の準備ファンド〉プラス〈手形,すなわち生産的資本家または商人の支払約束〉と考えるべきであろう。そうすれば、括弧のなかでマルクスが述べていることも自ずと理解できるようになる。つまり、マルクスは括弧のなかで、〈債権 (手形と公的有価証券)および株式(将来の収益にたいする所有権原,支払指図) 〉を上げているが、だからここに手形が入っているのも頷けるのである。そして手形も含めてマルクスが〈純粋に架空なもの〉と述べているのは(それ以外のものが純粋に架空なものであるのは何も問題にはならないのであるが)、【23】パラグラフではこのような割り引きされた〈手形は利子生み証券である〉とも述べていたことを思い出せば、納得行くであろう。手形そものはそれが「真正」であるなら(つまり「空」手形や詐欺のための手形や手形貸付による手形等ではないなら)、架空とはいえないが、しかし割引されて銀行が保有する手形は、銀行にとっては「利子生み証券」であり、その限りでは「架空なもの」なのである。また手形も有価証券であるかぎり、マルクスがここで述べている〈けっして自己価値ではない,金にたいするたんなる支払指図〉であることもまた間違いない事実であろう。
 以前にも指摘したことがあるが、銀行が割り引いて保有する手形が、架空なものであるということは、再生産の観点から考えると明瞭に理解できる。ここに資本家Aがおり、彼が生産した商品を信用で資本家Bに販売し、Bが発行した約束手形を持っているとしよう。この場合の手形は決して架空なものではない。というのはこの手形は資本家Aが生産した商品の価値の有価証券の形態における実現形態だからである(それは期日が来れば確実に金貨幣に転換されうる)。しかし彼がその手形を銀行に割り引いて貰い、その代わりに銀行券を入手したとすると、その結果、銀行が保有することとなった手形は、すでに架空なものでしかないのである。というのは、銀行はただ銀行の信用だけで発行した銀行券の代わりに手形を持っているわけだからである。また資本家Aは自らの商品の価値の実現形態をすでに銀行券という形で先取りしたわけだからである。だからもはや銀行が保有する手形は、すでにそうした現実の商品価値の実現形態ではなくなっているのである。だからこうした割引手形は〈純粋に架空なもの〉ということができるのである。

 

 〈この場合次のことを忘れてはならない。すなわち,銀行業者の金庫のなかにあるこれらの証券が表わしている資本の貨幣価値は,その証券が確実な収益にたいする支払指図(公的有価証券の場合のように)であるか,または現実の資本にたいする所有権原(株式の場合のように)であるかぎりでさえも,まったく架空なものであって,それはこれらの証券が表わしている現実の資本の価値からは離れて調整されるということ,あるいは,これらの証券がたんなる収益請求権である(そして資本ではない)場合には,同ーの収益にたいする請求権が,たえず変動する架空な貨幣資本で表現されるのだ,ということである。〉

 

 まずこの文章で注意深く読まなければならないのは、〈これらの証券が表わしている資本の貨幣価値〉と〈これらの証券が表わしている現実の資本の価値〉とは異なるものであるということである。前者は証券が表す額面ではなく、それが資本価値として売買される場合の市場価値を意味しているのである。それに対して後者は額面を意味している。そしてマルクスはこれらの〈資本の貨幣価値〉が〈まったく架空なものであ〉ると述べているわけである。
 この文章を注意深く分析すると、次のような構成が見えてくる。まず〈銀行業者の金庫のなかにあるこれらの証券が表わしている資本の貨幣価値〉が主語になって、それらは〈まったく架空なものであ〉ると結論づけられている。そして〈これらの証券〉として、具体的には、一つは〈確実な収益にたいする支払指図(公的有価証券の場合のように)〉と、もう一つは〈現実の資本にたいする所有権原(株式の場合のように)〉が例として上げられていて、そうしたものの場合にも、やはり〈まったく架空なものであ〉ると言明されているわけである。
 そしてそれに続く一連の文章は、それらが〈まったく架空なものであ〉ることのさらなる説明であると考えられる。ただその説明の順序が今度は逆になっているのである。つまり最初の〈それはこれらの証券が表わしている現実の資本の価値からは離れて調整されるということ〉というのは、もう一つの例として示された〈現実の資本にたいする所有権原(株式の場合のように)〉について述べているのである。つまり株式の市場価値は、株式が表している現実の資本の価値から離れて調整されるという事実を指摘しているわけである。それに対してその次に述べていること、〈あるいは,これらの証券がたんなる収益請求権である(そして資本ではない)場合には,同一の収益にたいする請求権が,たえず変動する架空な貨幣資本で表現されるのだ〉というのは、実は〈銀行業者の金庫のなかにあるこれらの証券〉の具体例として最初に述べられていた〈確実な収益にたいする支払指図(公的有価証券の場合のように)〉が〈まったく架空なものであ〉ることの説明なのである。つまり国債のような〈収益請求権(そして資本ではない〉のようなものは、同一の収益(例えば額面100万円に確定利息として5%がついているなら、毎年5万円の収益が約束されている)に対して、その時々の市場利子率の変動に応じて、その5万円の収益が〈たえず変動する架空な貨幣資本で表現される〉わけである。例えば市場利子率が1%なら、5万円は500万円の想像された利子生み資本の1%の利子とみなされ(資本還元され)、よって額面100万円の国債は500万円の資本価値(資本の貨幣価値)をもつことになるというわけである。

 

 〈そのうえに,この架空な銀行業者資本〔die βfiktive Banker's Capital〕の大部分は,彼の資本を表わしているのではなく,利子がつくかどうかにかかわらず,その銀行業者のもとに預託している公衆の資本を表わしている,ということが加わる。〉

 

 さらに銀行業者資本の大部分は、公衆が銀行業者のもとに預託しているものだということがつけ加わるわけである。つまりそれだけ銀行業者の資本というのは、架空なものであるばかりでなく、他人のもので営業しているような性格のものであるということなのだ。

 

 

 

 

 

 



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