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『資本論』第3部草稿(現行版第5篇)の研究(29-6)

『資本論』第3部第1草稿・第5章(現行版・第29章「銀行資本の構成部分」)の解読

 

 〔大谷禎之介《「銀行資本の構成部分」(『資本論』第3部第29章)の草稿について--第3部第1稿の第5章から--》(『経済志林』63巻1号収載)の訳文を利用〕

 

 (前回(29-5)紹介した【9】パラグラフから、マルクスは「架空資本」の説明に移っていることを指摘したが、マルクスはさらに「架空資本」を、具体的な例を上げて説明していく。次の【10】パラグラフからは国債が例に上げられている。国債を架空資本と見るか否かは、セミナーにおいて林氏と私とが対立した点でもあり、よって当然、関連して林氏の主張を批判的に取り上げることとなった。)

 

【10】

 

 〈事柄は簡単である。平均利子率を《年》5%としよう。すると,500ポンド・スターリングの資本は(貸し付けられれば,すなわち利子を生む資本に転化されれば)毎年25ポンド・スターリングをもたらすことになる。そこから,25ポンド・スターリングの年収入は,どれでも,500ポンド・スターリングの一資本の利子とみなされる。しかしながらこのようなことは,25ポンド・スターリングの源泉がたんなる所有権原または[521]債権であろうと,あるいはたとえば土地のような現実の生産要素であろうと,この源泉が《直接に》譲渡可能である,あるいは「譲渡可能」であるような形態を与えられている,という前提のもとで以外では,純粋に幻想的な観念であり,またそういうものであり続ける。例として,一方では国債,他方では労賃をとって見よう。国家は||336上|自分の債権者たちに,彼らから借りた資本にたいする年額の「利子」を支払わなければならない。{この場合,債権者は,自分の債務者に解約を通告することはできず,ただ自分の債務者にたいする債権を,自分の権原を,売ることができるだけである。} この資本は国家によって食い尽くされ,支出されている。それはもはや存在しない。国家の債権者がもっているものは第1に,たとえば100ポンド・スターリングの,国家あての債務証書である。第2に,この債務証書は債権者に国家の歳入すなわち租税の年額にたいする定額の,たとえば5%の請求権を与える。第3に,彼はこの100ポンド・スターリングの債務証書を,任意に他の人々に売ることができる。利子率が5%であれば{そしてこれについて国家の保証が前提されていれば},Aはこの債務証書を,その他の事情が変わらないとすれば,100ポンド・スターリングで《Bに》売ることができる。というのは,買い手《のB》にとっては,100ポンド・スターリングを《年》5%で貸し出すのも,100ポンド・スターリングを支払うことによって国家から5ポンド・スターリングという額の年貢を確保するのも,同じことだからである。〉

 

 マルクスが最初に述べている部分、すなわち〈平均利子率を《年》5%としよう。すると,500ポンド・スターリングの資本は(貸し付けられれば,すなわち利子を生む資本に転化されれば)毎年25ポンド・スターリングをもたらすことになる〉という部分は、通常の「資本-利子」の観念、つまり利子生み資本の範疇が確立した現実を述べている。そしてその後に述べていること、すなわち〈そこから,25ポンド・スターリングの年収入は,どれでも,500ポンド・スターリングの一資本の利子とみなされる〉は、そこから生じる転倒した観念(「利子-資本」)を説明しているわけである。だから〈しかしながらこのようなことは,25ポンド・スターリングの源泉がたんなる所有権原(株式など--引用者)または債権であろうと(つまり価値は貸し出されて第三者に譲渡されるが、その所有権は保持しているような場合であり、すべてのローンに妥当する--同)あるいはたとえば土地のような現実の生産要素であろうと(これは25ポンドが地代の場合である--引用者)この源泉が《直接に》譲渡可能である,あるいは「譲渡可能」であるような形態を与えられている,という前提のもとで以外では,純粋に幻想的な観念であり,またそういうものであり続ける〉という説明になっているわけである。ここで〈この源泉が《直接に》譲渡可能である,あるいは「譲渡可能」であるような形態を与えられている〉というのは、例えば国債や株式などはそのまま〈《直接に》譲渡可能である〉が、土地のようなものは持っていくわけにはいかないから、「権利書」という形で〈「譲渡可能」であるような形態を与えられている〉わけである。

 ところで、大谷氏は注9)で次のように述べている。

 

 〈「という前提のもとで以外では(ausserunter der Voraussetzung,daβ)」→「という場合を除けば(auβerin dem Fall,daβ)」この部分は,「という前提のもとでも(auchunter der Voraussetuzung,daβ)」とで(も?)あるべきところではないかとも思われる。〉

 

 しかしこの部分はなかなかそう簡単には、大谷氏のようには言えないのではないかと私は思っている。マルクスが書いている文章と、大谷氏の修正とでは意味が180度違ってくる。マルクスの文章を素直に読めば、〈この源泉が《直接に》譲渡可能である,あるいは「譲渡可能」であるような形態を与えられている、という前提のもとで以外では、純粋に幻想的な観念であり、またそういうものであり続ける〉というものである。つまり直接に譲渡可能でないか、譲渡可能な形態を与えられていない場合には、〈純粋に幻想的な観念であり、またそういうものであり続ける〉と読めるわけである。ところが、大谷氏の修正だと、直接的に譲渡可能であるか、譲渡可能な形態を与えられている場合でも、〈純粋に幻想的な観念であり、またそういうものであり続ける〉ということになる。
 どうして、直ちに大谷説に賛成できないかというと、このあとマルクスは〈労働能力が国債というこの資本に対比して考察される〉場合を例として上げており、この場合は〈労働者はこの自分の労働能力の資本価値を「譲渡」によって換金することができない〉と指摘しているからである。つまり譲渡可能〈という前提のもとで以外〉のケースが考察されているわけである。そしてこの場合は労働能力を資本と観念することは、確かに〈純粋に幻想的な観念であり、またそういうものであり続ける〉と解釈できるわけである。つまり労働能力を資本と見なす観念は、ただ観念だけに止まり、実際にはそれは架空資本として運動するわけではないということである。だから上記の文章では、〈純粋に幻想的な観念であり、またそういうものであり続ける〉ということが重要なのではないかと思うわけである。つまりそれは純粋に観念の問題でしかなく、そうしたものに留まるのだ(だからそうしたものは自立した運動を持たないのだ)とマルクスは言いたいのではないかと思うのである。そしてそのように解釈するなら、エンゲルスの訂正は必ずしも間違っているとはいえないことになるわけである。ただこの部分の解釈の結論は私自身まだ出しているわけではないので保留しておく。

 そしてマルクスは続けて〈例として、一方では国債、他方では労賃をとってみよう〉と「国債」と「労賃」を例に上げて説明すると述べている(国債の説明はこのパラグラフから【12】パラグラフまで、「労賃」の説明は【13】【15】まで)。国債の場合は譲渡可能なものであり、それに対して労働能力はそうではないケースである。
 
 まずマルクスは、国債というものの直接的な表象をそのまま書いている。国債は国の借金(債務証書)であり、だから国家はその債権者たち(国債=債務証書の所有者たち)に借りた資本に対する年額の「利子」を支払わなければならない。しかしこの資本は国家によって食い尽くされ、支出されてもはや存在しない。にも関わらず、国債はそれ自体として価値があるかに現象し、その資本価値に応じた利子をもたらす、等々。
 われわれは例えば額面100万円の国債は100万円の価値があるのは当然だと思っている。しかし国債というのは、ただその紙切れに100万円と書いているだけで、それ自体が価値を持っているわけではないのは明らかである。ではそれは他に存在している100万円を代理し表すものなのかというと、やはりそれとも違うのである。というのは、国家に貸し出された100万円は、すでに国家によって支出されて存在していないからである。にも関わらず、額面に100万円と書かれた単なる債務証書にすぎない国債は、それ自体として100万円の価値があるかに現象しており、それをわれわれは当然のことと思っているわけである。だから林氏は、次のように書いている。

 

 〈例えば、(資本還元を--引用者)債券に適用しようとすると、100万円債券の利子1万円を、1%の利子率で資本還元して、債券の価格が100万円である、といった理屈になるが、空虚な同義反復でしかないことは一目瞭然であろう。〉(『海つばめ』No.1110)
 〈100万円の社債を支配的な利子率で資本還元する(それが、社債の「価値」だ?)、などと言って見ても無意味であり、矛盾である、というのは、社債の利子率もまた利子率であって、利子率を利子率で資本還元するなどといっても、何の意味もないからである。〉(同No.1111)

 

 ここで林氏は「債券」と「社債」を例に上げているのであるが、当然、「国債」も同じと林氏は考えているのである(むしろ「国債」の例を否定するために、「債券」や「社債」を例に上げて論じているわけだ)。そして確かにこれらは同じ類のものである。ただマルクス自身は「債券」というような用語は使っていないので、例によって『平凡社大百科事典』の「債券」の項目を見よう。

 

 〈公衆に対する起債によって生じた,多数の部分に分割された債務(債権)を表章する有価証券。投機証券である株券に対し,債券は確定利付の利殖証券である。狭義では,株式会社が社債について発行する社債券をいうが,広義では,発行主体の如何を問わず用いられ,国債,地方債,金庫債,公社債,公団債などを含む。〉(説明はまだ続くがこれぐらいでよいであろう)。

 

 このようにこの辞典の説明でも「債券」「社債」「国債」は同じようなものとして分類されている。だから、ここではとりあえず、「社債」を代表させて説明しよう。
 社債というのは、その実際の内容から見れば、企業の借金の借用証文である。つまり、この場合、公衆の持つ貨幣が利子生み資本として企業に貸し出されたわけである。だから当然、利潤が分割されて一定の利子が支払われる。ここまでは「資本--利子」の関係である。ところが次にそれが転倒して、「利子--資本」の関係になる。つまり社債は単なる借用証文ではない。というのは、それが証券として売り出されるのだからである(すでにこの時点で転倒が生じている。だから社債が「売り出される」場合の「売り」は外観であって、実際の内容は「借り」であり、社債の「購入」は「貸し」である)。つまり単なる定期的な利子支払いが、資本化されて、単なる借用証文が証券化されて、100万円の価値(資本価値)を持つものであるかに現象するのである。なぜなら、社債を持っている人は、それを100万円で第三者に譲渡する(売る)ことが出来るからである(この場合、社債を「売った」人は、彼の「貸し出した」利子生み資本の「返済」を受けることになる)。100万円で売れるということは、100万円の価値があるということであろう(だから社債を最初に企業から購入した人が、それを売らずに満期までただ持ち続けるだけなら、それは単なる借用証文に止まるわけだ)。
 これが林氏には〈空虚な同義反復でしかない〉ように見えるということは、林氏自身は、額面100万円の社債は100万円の価値があることが当たり前だと思っているからであろう。つまり利子生み資本という形態が生み出す幻想的な観念に取り込まれてしまって、転倒しているのに自分が転倒しているということすら分からなくなっているのである。
 しかしそもそも、ただ単に紙切れに100万円と書かれているだけなのに、それがどうして100万円の価値があるものとして通用し、販売されるのか、それは本当に奇妙なことではないのだろうか。もしそんなことがいつでもどんな場合でも通用するなら、誰でも紙切れに100万円と書いて、100万円の貨幣に変えるであろう。しかし、現実にはそんなことは不可能である。だから額面100万円の社債を持っている人が、それを100万円で売り(実際に販売される価格はその時点での証券市場の状況によって変化するのであるが、われわれはそれを今は無視しよう)、社債を手放す代わりに100万円の貨幣を入手できることは、決して当たり前のことではなく、〈空虚な同義反復でしかないことは一目瞭然であろう〉などとは言っておれない事態なのである。それは一体全体、どうしてそうなっているのか、なぜ、単なる紙切れが100万円の価値あるものとして売買されるのか、それを説明するのが、この第29章該当部分でマルクスがやっていることであり、それをマルクスは「架空資本」と名付けているのである。

 

 いずれにせよ、マルクスの説明を読んで行こう。マルクスは、国債は、それを持っている人にとっては、(1)それは国家あての債務証書(100ポンド・スターリング)である。つまり国家が100ポンド・スターリングを借りたことを証するものである。(2)この債務証書は、その所有者である債権者に、租税から年々一定額の貨幣(例えば100ポンド・スターリングの5%、5ポンド・スターリング)の請求権を与える。だからこの場合は「資本--利子」の関係自体が、一つの外観に転化している。国債の購入者は、国家に対して彼の貨幣を利子生み資本として貸し出したのであるが、しかしその貨幣商品は、その商品に固有の平均利潤を得るという使用価値として消費される(利用される)わけではない。ただ浪費されるだけで、だから利潤を生み出さない。にも関わらずやはり「利子」を生むような外観を得るわけで、その実際の内容は、租税から年々の支払いを受ける権利を表すだけなのである。(3)債権者はこの債務証書を他人に譲渡できる、つまり証券化である。ここで「利子--資本」の転倒が生じる。という条件について述べている。
 そして特に最後の譲渡可能ということについて、つまり「利子-資本」の転倒現象について、次のように述べている。

 

 〈利子率が5%であれば{そしてこれについて国家の保証が前提されていれば},Aはこの債務証書を,その他の事情が変わらないとすれば,100ポンド・スターリングで《Bに》売ることができる。というのは,買い手《のB》にとっては,100ポンド・スターリングを《年》5%で貸し出すのも,100ポンド・スターリングを支払うことによって国家から5ポンド・スターリングという額の年貢を確保するのも,同じことだからである。

 

 つまり明らかにマルクスは国債についても、その利子率で資本還元してその価値(資本価値)を求めていることは明らかであろう。つまりこの場合の100ポンド・スターリングという価値は、利子率で資本還元された価値なのである。ところが林氏は、次のように主張するわけである。

 

 〈しかしマルクスは、永久国債について仮に発言しているとしても、その場合でさえ、この国債が5ポンドという「収入」が利子率(5%?)で資本還元されて100ポンドという「資本価値」を持つ、といった議論を展開しているわけではない。100ポンドという国家証券として、国家収入の中から、100ポンドにつき5%(5ポンド)の請求権を与えるというにすぎない。〉(上掲、No.1111)

 

 一体、上記のマルクスの一文をどのように読めば、こうした解釈が出てくのか何とも不可解であるが、よく考えてみると、そのカラクリが分かる。すなわち、林氏が言っているのは、上記のマルクスの説明の(2)までである。つまり林氏は、意図的にマルクスが述べている(3)の説明を見ないふりをして無視しているのである。マルクスは(3)の説明として、わざわざ〈Aはこの債務証書を,その他の事情が変わらないとすれば,100ポンド・スターリングで《Bに》売ることができる〉と述べている。ということは、この債務証書=国債は、100ポンド・スターリングという資本価値を持つとマルクスは言っているのではないのか。どうしてそうなるのかをもマルクスは説明している。というのは、それを買うBにとって、国債を100ポンド・スターリングで買って、年々5ポンドの支払いを受けるのも、その代わりに同じ100ポンド・スターリングを企業に利子生み資本として貸し出して、年々5ポンドの支払いを受けるのも同じだからだ、というのである。つまり企業に利子生み資本を貸し出して利子を得る(つまり「資本--利子」)という関係(利子生み資本という形態)が生み出している転倒現象だとマルクスは言いわけである。
 おまけにマルクスはその前のところで〈事柄は簡単である。平均利子率を《年》5%としよう。すると,500ポンド・スターリングの資本は(貸し付けられれば,すなわち利子を生む資本に転化されれば)毎年25ポンド・スターリングをもたらすことになる。そこから,25ポンド・スターリングの年収入は,どれでも,500ポンド・スターリングの一資本の利子とみなされる〉と述べたことの具体的な例として国債を例に説明しているわけである。だからマルクスが国債の場合についても、当然、〈国債が5ポンドという「収入」が利子率(5%?)で資本還元されて100ポンドという「資本価値」を持つ、といった議論を展開している〉(林氏前掲記事)ことは当然ではないだろうか。林氏の主張は、同氏が何らかの悪しき意図にもとづいてマルクスの書いているものをねじ曲げて解釈しようとしているか、それとも善意に解釈すれば、ただ林氏自身が、利子生み資本が持つ形態に惑わされているだけとしか言いようがないものである。
 ところでマルクスは、国債の場合、年々租税から支払われるものを、「利子」とは言わずに、《年貢を確保する》という言い方をしているが、この場合は、それは産業資本が生み出した利潤が分割されて、「企業利得」と区別されたものとしての「利子」ではないとの考えがマルクスにあるからであろう。


『資本論』第3部草稿(現行版第5篇)の研究(29-7)

『資本論』第3部第1草稿・第5章(現行版・第29章「銀行資本の構成部分」)の解読

 

 〔大谷禎之介《「銀行資本の構成部分」(『資本論』第3部第29章)の草稿について--第3部第1稿の第5章から--》(『経済志林』63巻1号収載)の訳文を利用〕

 

 (前回(29-6)から「架空資本」の具体的な例を使った説明が始まり、第【10】パラグラフからは国債が例に上げられている。この国債を例にした説明は次の第【11】パラグラフまで続く。 よって、今回も国債は架空資本ではないとする林氏の主張を批判的に取り上げざるをえなかった。)

 

【11】

 

 〈しかしすべてこれらの場合に,国家の支払を子《(利子)》として生んだものとみなされる資本は,幻想的なものである,すなわち架空資本である。それは,国家に貸し付けられた金額がもはやまったく存在しない,ということばかりではない。それはそもそも,けっして資本として支出される(投下される)べく予定されていたものではなかったのであり,しかもそれは,ただ資本として支出されることによってのみ,自己を維持する価値に転化されえたはずのものなのである。最初の債権者Aにとって,年々の租税のなかから彼のものとなる部分が彼の資本の利子を表わしているのは,ちょうど,高利貸にとって,浪費者の財産のなかから彼のものとなる部分が彼の資本の利子を表わしているようなものである。どちらの場合にも,貸された貨幣額は資本として支出されたのではないのであるが。国家あての債務証書を売ることの可能性は,Aにとっては元金の還流または返済が可能であることを表わしている。Bについて言えば,彼の私的な立場から見れば,彼の資本は利子生み資本として投下されている。実際には,彼はただAにとって代わっただけであり,国家にたいするAの債権を買ったのである。このような取引がそのさき何度繰り返されようとも,国債という資本は純粋に架空な資本なのであって,もしもこの債務証書が売れないものになれば,その瞬間からこの資本という外観はなくなってしまうであろう。それにもかかわらず,すぐに見るように,この架空資本はそれ自身の運動をもっているのである。〉

 

 ここで初めてマルクスは「架空資本」という言葉を使っている。まずマルクスが〈すべてこれらの場合に〉と述べているのは、これまでの叙述から、当然、「国債」について述べていることは明らかである。そしてマルクスは、〈国家の支払を子《(利子)》として生んだものとみなされる資本〉と述べている。これはどういうことであろうか。つまり国家によって支払われる年々の「利子」は、本来は資本の生み出した利潤が分割されて企業利得と区別されたものとしての利子ではないが、しかしそれは「利子」と見なされ、それを生み出した「資本」と見なされるということであろう。つまり国債は、「利子--資本」の転倒によって「資本」と見なされたものだということである。だからそれらをマルクスは、〈幻想的なものである,すなわち架空資本である〉と述べているわけだ。ところが林氏は、次のように述べている。

 

 〈この国家証券が代表する“資産”はすでに戦争などで消尽されてしまっていて、現実にはどんな痕跡も残っておらず、そういう意味で、いわば“純粋の”空資本であることが語られているにすぎないのであって、ここでは直接に、収入の資本還元の理論を論証しようとしているわけではないのである。〉(『海つばめ』No.1111)

 

 一体、林氏は何を読んでいるのであろうか! 確かに上記の説明には「資本還元」という言葉は出て来ない(これは【16】パラグラフで、つまり架空資本の運動を論じるところで初めて出てくる)。しかしマルクスが資本還元について述べていることは明らかではないだろうか。そもそもマルクスは最初から(【9】から)資本還元そのものについて述べてきたのである。本来は「利子」でないものでも「利子」と見なされるからこそ、市場の利子率で資本還元されるのである。林氏は国債の購入者に毎年支払われるものが通常「利子」と言われているから、それは近代的な範疇としての「利子」だと思い込んでいるのである。林氏にはそれが転倒した観念であるという自覚すらないわけだ。しかしマルクスがここで言っているのは、国債の「利子」は本来の利子ではないが、しかしそうした利子とみなされるから、国債そのものもそれを生み出した「資本」と見なされ、「資本としての価値」を持つのだということなのである。だからそれは幻想的なものであり、架空資本だと述べているのである。これが資本還元でないというなら一体、何が資本還元なのであろうか。

 それに林氏は、〈この国家証券が代表する“資産”はすでに戦争などで消尽されてしまっていて、現実にはどんな痕跡も残っておらず、そういう意味で、いわば“純粋の”空資本であることが語られているにすぎない〉などとも言い張っている。しかし果たしてそうか。われわれはマルクスの文章を吟味して、検証してみよう。

 マルクスは国債が「架空資本」である理由を、林氏のように一つではなく、二つ上げている。(1)〈それは,国家に貸し付けられた金額がもはやまったく存在しない〉から、つまり林氏のいう理由である。しかしマルクスは〈ということばかりではない〉と続けている。すなわち(2)〈それはそもそも,けっして資本として支出される(投下される)べく予定されていたものではなかったのであり,しかもそれは,ただ資本として支出されることによってのみ,自己を維持する価値に転化されえたはずのものなの〉だからである。つまり国債が年々「利子」をもたらすということは、国債の購入に投じられた貨幣が自己を維持するだけでなく、年々増殖するもの(G-G')として、つまり「資本」(=利子生み資本)として存在しているものと見なされることになる。しかし、実際には国債として国家によって借り出された貨幣は、現実の資本として前貸され、利潤(つまり増殖された価値だ!)を生み出し、その一分肢として利子をもたらすわけでは決してない。そういう意味で国債の所持者に支払われる「利子」は、本来の意味での利子ではない。だからそういう資本でないものがここでは資本として見なされているのだ、だから、その資本は幻想的であり、架空資本なのだ、とマルクスは言っているのである。つまり「利子-資本」の転倒現象であることをマルクスはその理由として述べているのである。そしてマルクスのこれまでの叙述を知っているわれわれは、マルクスが、国債が架空資本である理由として述べている主要な論拠は前者(つまり林氏のいう理由)ではなく、むしろ後者に力点があることは明らかなのである。ところが、林氏はマルクスが一番力を入れて述べていることをあえて無視するのである。これがマルクスの文章に対する、悪しき意図によるねじ曲げた読み方でなくて何であろうか! こんな読み方をしていたのでは、林氏に不破を批判する資格があるはずが無い。

 次にマルクスが言っていることも同じことである。というより、むしろその前のこと、つまり(2)の理由をさらにマルクスは説明しているわけである(これを見てもマルクスが(2)の理由こそ本当に言いたいことであることが分かる)。まず〈最初の債権者Aにとって,年々の租税のなかから彼のものとなる部分が彼の資本の利子を表わしているのは〉というのは、それは本来は「資本の利子」ではないのに、彼にとっては彼が国債に投じた貨幣が自己を維持し増殖するわけだから、彼にとってはそれは資本を表し、それがもたらす年々の貨幣利得が利子を表すことになるわけである。それは〈ちょうど,高利貸にとって,浪費者の財産のなかから彼のものとなる部分が彼の資本の利子を表わしているようなものである〉。つまり高利貸しが貸し付ける貨幣も資本として前貸されて価値を生み出すわけではなく、ただ個人的消費(浪費)のために貸し出されるだけであるのに、しかし高利貸は、彼の貸し出す貨幣が、増殖して帰ってくることを期待して貸し出すのであり、だから彼にとってはそれは資本であるのと同じだと述べているのである。この場合も、高利貸しが手にする「利子」も本来の近代的範疇としての利子ではない、とマルクスは述べているのである。だからマルクスは〈どちらの場合にも,貸された貨幣額は資本として支出されたのではないのであるが〉と述べているのである。にも関わらず、それは「資本」と見なされる、というのは、それによって年々もたらされる貨幣利得が「利子」に見なされるからである、ということなのである。つまり(2)の理由をさらに説明しているわけである。

 さらにマルクスが説明していることも、やはり(2)の理由を掘り下げているのである。〈国家あての債務証書を売ることの可能性は,Aにとっては元金の還流または返済が可能であることを表わしている〉。つまり国債が転売できるということは、それを転売するAにとっては、自分が国債の購入に投じた貨幣を利子生み資本と見なすことであり、その転売は、だから利子生み資本の返済なのだ、ということである。そしてAから国債を購入する〈Bについて言えば,彼の私的な立場から見れば,彼の資本は利子生み資本として投下されている〉。つまりBは最初から彼の貨幣を利子生み資本として投下しているのだというわけである。なぜ、マルクスはここでAとBを区別して論じているのであろうか。それはAの場合は、年々もたらす貨幣利得は、国債が売り出される条件によって確定している利息だからである。だからそれはその時々の平均利子率とは関係なく、例えば確定利息が5パーセントなら、100万円の国債の場合は、5万円の貨幣利得をもたらすわけである。しかしBの場合はそうではない。Bの場合は、もしその時の平均利子率が1パーセントの場合、彼は国債を500万円で購入するのである。そして彼はその500万円の利子生み資本に対して、その利子として年々5万円の貨幣利得を得ることになるのである。だからBの場合は、明らかに彼の手にする利子は、平均利子率にもとづいた利子であるが、Aの場合は確定した利息なのである。

 しかしBの場合も客観的には、彼の投じた貨幣が、実際に利子生み資本として充用され利潤を生むわけではない。それが利子生み資本であるのは、はあくまでもBの〈私的な立場から見れば〉の話である。〈実際には,彼はただAにとって代わっただけであり,国家にたいするAの債権を買ったのである〉。つまり彼の投じた貨幣は、ただAに代わって国家から年々の貨幣利得を得る権利を買っただけであって、何も客観的な状況は変わっていないわけである。そして〈このような取引がそのさき何度繰り返されようとも,国債という資本は純粋に架空な資本なのであって,もしもこの債務証書が売れないものになれば,その瞬間からこの資本という外観はなくなってしまうであろう〉。つまり国債は架空資本であり続けるわけである。ところがこうした架空資本は、単に観念的に資本として見なされるだけではなく、それ自身の運動を持っているのだとマルクスは述べている。そしてその実際の運動を考察するのは、【16】パラグラフからである。 

 

【12】 

 

 〈(利子生み資本とともに,どの価値額も,収入として支出されないときには,資本として現われる,すなわち,その価値額が生むことのできる可能的または現実的な利子に対立して,元金principalとして現われるのである。)〉 

 

 このパラグラフは、全体が丸カッコに括られており、マルクス自身も、これをどこか適当なところに挿入するつもりであった可能性が高い。だからエンゲルスはこのパラグラフを最初の【9】とくっつけて一つのパラグラフにしたのであろう。エンゲルスのこうした措置は、その限りでは内容に則したものと言える。ここで言われていることは、【9】で言われていることとそれほど違ったものではない。範疇としての利子生み資本が確立すると、どの価値額も、収入として個人的消費のために支出される(生活手段の購入に充てられる)以外には、資本として現れてくる、つまり自己を維持し増殖する貨幣(G-G')として現れるというのである。そしてもともとの価値額はそれが生んだとされる利子に対する元金と見なされるわけである。これは、すでに見たように国債の購入に充てられた場合がそうであるし、例え産業資本家が彼自身の貨幣を生産的に投資したとしても、彼は彼自身の最初に投じた価値額を元金として計算し、機能資本家としての彼の企業利得(産業利潤)の取得とともに、彼の元金に対する利子をも要求する、つまり両者を区別して計算するわけである。

 

 

 


『資本論』第3部草稿(現行版第5篇)の研究(29-8)

『資本論』第3部第1草稿・第5章(現行版・第29章「銀行資本の構成部分」)の解読

 〔大谷禎之介《「銀行資本の構成部分」(『資本論』第3部第29章)の草稿について--第3部第1稿の第5章から--》(『経済志林』63巻1号収載)の訳文を利用〕

 

 (前回(29-7)紹介した【10】パラグラフでは、「架空資本」の具体例として国債が取り上げられたが、続く【11】もその続きであった。今回の【13】パラグラフからは「架空資本」の転倒した不可解な現象が取り上げられる。)

 

【13】

 

 〈ところで,利子生み資本一般がすべての狂った形態の母であって,たとえば債務が銀行業者の観念では商品として現われるa)ように,国債という資本ではマイナスが資本として[522]現われるのであるが,労働能力が国債というこの資本に対比して考察されることがありうる。この場合には,労賃は利子だと解され,だからまた,労働能力はこの利子を生む資本だと解される。たとえば,労賃イコール50ポンド・スターリングで,利子率イコール5%であるときには,《1年間の》労働能力イコール1000ポンド・スターリングの資本にイコールである。資本主義的な考え方の狂気の沙汰は,ここでその頂点に達する。というのは,資本の価値増殖を労働能力の搾取から説明するのではなく,逆に労働能力の生産性を,労働能力自身がこの神秘的な物,つまり利子生み資本なのだ,ということから説明するのだからである。17世紀《の後半》には(たとえばペティの場合には)これがお気に入りの考え方〔だった〕が,それが今日,一部は俗流経済学者たちによって,しかしとりわけドイツの統計学者たちによって,大まじめに用いられているのである。b)ただ,ここでは,この《無思想な》考え方を不愉快に妨げる二つの事情が現われてくる。すなわち第1に,労働者はこの「利子」を手に入れるためには労働しなければならないということであり,第2に,労働者は自分の労働能力の資本価値を「譲渡〔Transfer〕」によって換金することができないということである。むしろ,彼の労働能力の年価値はイコール彼の年間平均労賃なのであり,また,彼が労働能力の買い手に《自分の労働によって》補填してやらなければならないものは,イコール,この価値そのものプラスそれの増殖分である剰余価値,なのである。奴隷諸関係では,労働者はある資本価値を,すなわち彼の購買価格をもっている。そして,彼が賃貸される場合には,買い手は,この資本の年間損耗分ないし摩滅分プラス利子を補墳しなければならない。〉 

 

 ここからは、先に(【10】で)マルクスが〈例として,一方では国債,他方では労賃をとって見よう〉と述べていた、〈労賃〉の考察が行われている。ただマルクスはその書き出しを〈ところで,利子生み資本一般がすべての狂った形態の母であって,たとえば債務が銀行業者の観念では商品として現われるように,国債という資本ではマイナスが資本として現われる〉と述べている。つまり労働能力が資本として考えられるのは、そうした狂った観念のもっとも極端な例だとマルクスは言いたいわけである。と同時に、国債や株式など、さまざま金融商品があたかもそれ自体が価値を持っているかに売買されることも、それ自体が狂った形態なのだとも言いたいわけである。しかし注意が必要なのは、この労賃の例そのものは、架空資本の例として論じられているわけではないということである。それは【10】で述べていたように、あくまでも〈純粋に幻想的な観念であり,またそういうものであり続ける〉ものの一つの例として述べていると理解すべきなのである。
 ところで、この〈たとえば債務が銀行業者の観念では商品として現われる〉という部分に大谷氏は注3)を付けて、次のように説明している。 

 

 〈「たとえば債務が銀行業者の観念では商品として現われる」というこの表現は,マルクスが現代のいわゆる「金融商品」の観念について言及したきわめて貴重な記述であるように思われる。貸付資本では,貸し手が借り手に,資本としての規定性をもつ貨幣を「商品」として売るのであって,その「価格」が利子であり,その取引の場が「貨幣市場」である。預金について言えば,預金者がこの商品の売り手であり,銀行がそれの買い手である。ところが,この同じ預金が,銀行にとっての「商品」として現われるのである。いま,ありとあらゆる「儲け口」,「利殖の機会」が商品として観念され,そのようなものとして売買されている。これが「金融商品」である。いわゆる「デリバティブ」の商品性も,理論的にはこの延長上に理解されるべきであろう。「資本主義的な考え方の狂気の沙汰」は,まさにここにきわまることになる。〉 

 

 こうした大谷氏の評価にはそれほど違和感も異論もないのであるが、ただマルクスが〈債務が銀行業者の観念では商品として現われる〉と言っているのは、ここに原注a)が付けられていることを見ても(これについては次の【14】で問題にするが)、やはり預金や銀行券なども銀行から見れば債務であるが、それは銀行にとっては再生産的資本家に売り出される(貸し出される)「商品」だということと考える方が妥当のように思える。もちろん、銀行が証券会社を兼ねているなら、彼らはいわゆる「金融商品」も扱うのであり、国債や社債、あるいはサブプライムローンなどもすべてそれらは直接には債務証書であり、それを証券化して販売するわけである。つまり債務を商品として売り出すわけだ。
 また、ここで大谷氏は〈預金について言えば,預金者がこの商品の売り手であり,銀行がそれの買い手である〉と述べているが、果たしてそうした観念は一般的であろうか。預金者が彼の貨幣を銀行に預金するとき、彼は貨幣を「商品」として銀行に「売る」という観念を持つだろうか。確かに彼も利子率の高い銀行を選んで預金し、銀行も預金の獲得にしのぎを削るのであり、その限りでは、そこにも貨幣市場あると言えないこともない。しかし一般には、預金者が預金する場合には、そこにそうした貨幣市場を意識するかというとそれは希薄ではないだろうか。これはあまり本質的な疑問ではないが、指摘しておきたい。

 

 ところでマルクスは〈労働能力が国債というこの資本に対比して考察されることがありうる〉と述べている。なぜ、「国債」なのかというと、それはコンソル公債をマルクスは前提して述べているからであろう。つまりそれは年金のように永久に貨幣利得をもたらすものなのである。だから労働能力もそうしたものと同じだというわけである。そして〈この場合には,労賃は利子だと解され,だからまた,労働能力はこの利子を生む資本だと解される(「利子-資本」の転倒だ--引用者)。たとえば,労賃イコール50ポンド・スターリングで,利子率イコール5%であるときには,《1年間の》労働能力イコール1000ポンド・スターリングの資本にイコールである〉と。
 そのあと、マルクスが述べていることも、あくまでも観念や《思想》の問題としてである。それが〈狂気の沙汰〉であるのは、〈資本の価値増殖を労働能力の搾取から説明するのではなく,逆に労働能力の生産性を,労働能力自身がこの神秘的な物,つまり利子生み資本なのだ,ということから説明するのだからである〉。しかしマルクスは労働能力が利子生み資本だというのはただ観念の問題に止まり、実際にはそれは架空資本としては現れない理由を次のように述べている。〈第1に,労働者はこの「利子」を手に入れるためには労働しなければならないということであり,第2に,労働者は自分の労働能力の資本価値を「譲渡〔Transfer〕」によって換金することができないという〉事情である。特に第2の理由は、架空資本にならない根拠として決定的であることは、これまでのマルクスの説明から見ても明らかであろう。そして現実の関係は、次のようなことだと指摘している。


 すなわち〈むしろ,彼の労働能力の年価値はイコール彼の年間平均労賃なのであり,また,彼が労働能力の買い手に《自分の労働によって》補填してやらなければならないものは,イコール,この価値そのものプラスそれの増殖分である剰余価値,なのである〉と。


 そしてマルクスはついでに奴隷諸関係についても言及し、次のように述べている。〈奴隷諸関係では,労働者はある資本価値を,すなわち彼の購買価格をもっている〉。もちろん、この場合〈購買価格を持っている〉というのは、奴隷自身に値札が付けられているということであって、奴隷が自分自身を商品として売り出すために、奴隷としての自分自身の所有者であるわけではない。奴隷所有者が別にいて、彼が奴隷を売るために、奴隷に値札を付けるのである。その結果、奴隷は〈購買価格を持っている〉だけである。〈そして,彼が賃貸される場合には,買い手は,この資本の年間損耗分ないし摩滅分プラス利子を補墳しなければならない〉。もちろん、買い手(借り手)が補填するのは奴隷自身に対してではなく、奴隷を貸し出した奴隷所有者に対してである。
 ところでこの部分にも大谷氏は注24)、25)と二つの注をつけて、次のように述べている。

 

 〈24) 「買い手は,この資本の年間損耗分ないし摩滅分プラス利子を補填しなければならない」→「賃借り人は,第1にこの購買価格の利子を支払わなければならず,なおそのうえにこの資本の年間損耗分を補填しなければならない」
 25) 前注に記した,マルクスの原文とエンゲルスが手を入れた文章との違いに注目されたい。エンゲルス版では,まず「第1に」利子を支払い.「そのうえになお」資本の年間損耗分を補填しなければならない,というのであるから,この取引はまずもって資本の貸付ととらえられているわけである。しかし,草稿では,まず「この資本の年間損耗分ないし摩滅分」があり,それに利子が「プラス」されなければならない,となっている。この文は,いわゆる「賃貸借〔Vermietung〕」がまずもって売買であることを示唆している。エンゲルスの手入れは微妙に原文の意味を変えているのである。〉

 

 この問題に言及すると、大幅に横道に逸れることになる。だから簡単に論じておく。友人のT氏(彼は大谷氏が主宰する研究会に参加している)によれば、大谷氏にはこの問題について一定の拘りがあるそうである。そして大谷氏によると、マルクスが第21章で商品の貸し付け(つまり賃貸借である)まで利子生み資本の範疇に入れているのは、マルクスの勘違いであろうと考えているのだそうである。だからここでも大谷氏はエンゲルスのわずかの手直しにも拘っているわけである。ただ恐らく大谷氏の認識に欠けているのは、マルクス自身は「賃貸借一般」を問題にしているわけではないということである。マルクスは『経済学批判』のなかで貨幣の支払い手段としての機能を論じたところで、賃貸住宅を例に上げて論じているが、あの場合は確かに大谷氏のいうように家屋の使用という使用価値を持つ商品の売買であることは明らかなのである。そして家屋の場合には、その使用価値の譲渡の仕方が特殊であり、例えば一カ月かけてその使用価値は借り主に譲渡されるのであり、だからその使用価値が譲渡され尽くした一カ月後に、その商品の価格は支払われるわけである(だからこの場合、貨幣は支払い手段として機能する)。この場合、家主は店子に家屋を一カ月使用するという商品の価値を貸し付けるわけである。そしてその使用価値の譲渡が済み次第、その価値の支払いを受けるわけである。だからこの場合にも債権・債務関係が生じていることは確かである。しかし店子はその住宅を彼自身の生活のために、つまり個人的収入として消費するわけである。だからこの場合は、物質代謝の一環なのである。だからこそ、この場合の賃貸借は明らかに売買なのである。それは再生産資本家たちが相互に与え合う信用(商業信用)も、基本的には商品の売買であり、その流通の一環であることと同じである。しかしマルクスが第21章で利子生み資本の範疇として述べている商品の貸し付けはそうしたものではない。それはあくまでも物質代謝の外部からの価値の貸し付けなのである。そういう意味で、マルクスはそれを利子生み資本範疇に入れているわけである。だから、奴隷の賃貸業者が奴隷を貸し付ける相手も、その奴隷を使って商業的作物を作り儲けようとしている資本家であることを、マルクスはここでは前提して、このように述べていると考えることができる。だからこの場合、マルクスが「買い手」と述べているのは、利子生み資本が「商品」として「買われる」のと同じ様な意味で、すなわち一つの外観として(だから文字通りの商品の売買としてではなく)述べていることは明らかなのである。 

 

【14】

 

 〈【原注】|336下|a)〔ヘンリ・ロイ〕「為替の理論」を見よ。〉

 

 これは先のパラグラフの〈たとえば債務が銀行業者の観念では商品として現われる〉というところに付けられた原注a)であるが、 ただこのように〈〔ヘンリ・ロイ〕「為替の理論」を見よ〉とあるだけである。『為替の理論』の頁数も何も書かれていない。これではどうしようもない。だからエンゲルスはこの注を削除したのであろう。しかしヘンリ・ロイの『為替の理論』(実際は『為替相場の理論』であるが)からの引用は、ちょうど、第28章でマルクスは行っていたのである(第28章該当部分の草稿の【47】パラグラフ)。恐らくそれをマルクス自身も考えていると思えるので、それをここでは紹介しておこう。

 

 〈「あるおりに,ある握り屋の老銀行家がその私室で,自分が向かっていた机のふたをあけて,1人の友人に幾束かの銀行券を示しながら,非常にうれしそうに言った。ここに60万ポンド・スターリングがあるが,これは金融を逼迫させるためにしまっておいたもので,今日の3時以後にはみな出してしまうのだ,と。この話は,…… 1839年の最低位のCirculation(流通高?--引用者)の月に実際にあったことなのである。」((へンリー・ロイ『為替相場の理論』,ロンドン,1864年,81ページ。)〉269-70頁) 

 

 この28章での引用には、大谷氏の次のような注がついている。 

 

 〈1) へンリー・ロイ『為替相場の理論』からのこの引用は,最後の文を除いて,第1部第3章第3節「支払手段」のなかで,「このような瞬間が「商業の友(amis du commerce)」 によって,どのように利用されるか」,という例として引用されている(MEW,Bd.23,152-153ページ,注10)。〉 

 

 だから、マルクスが〈たとえば債務が銀行業者の観念では商品として現われる〉ということで、恐らく銀行券のことを考えて、このように述べているのではないかと思うわけである。すでに述べたように、銀行券や預金は銀行からすれば債務だからである。 

 

【15】

 

 〈【原注】 b) たとえば,V.レーデン『比較文化統計』,ベルリン,1848年,を見よ。「労働者は資本価値をもっており,それは,彼の1年間の稼ぎの貨幣価値を利子収益とみなすことによって算出される。……平均的な日賃銀率を4%で資本還元すれば1人の男子農業労働者の平均価値は,オーストリア(ドイツ領)では1500ターレル,プロイセンでは1500 ターレル,イングランドでは3750ターレル,フランスでは2000ターレル,ロシア奥地では750ターレル,等々となる。」(434ページ。)〉

 

 この原注は【13】パラグラフの〈17世紀《の後半》には(たとえばペティの場合には)これがお気に入りの考え方〔だった)が,それが今日,一部は俗流経済学者たちによって,しかしとりわけドイツの統計学者たちによって,大まじめに用いられているのである〉に付けられたものである。【13】パラグラフの解読のところでは省略したが、ここでペティとあることについては、MEGAの注解があり、次のような説明がある。 

 

 〈① 〔注解)「ぺティの場合」--マルクスがここで引きあいに出しているのは,ペティの労作『アイァランドの政治的解剖』に付された書『賢者には一言をもって足る』の8ページに見られる次の箇所であろう。--「わずか15百万〔ポンド・スターリング〕の収入しか生みださない王国の資材(Stock) が,250百万〔ポンド・スターリング〕の値があるところからすれば. 25(百万ポンド・スターリング〕を生みだす人民は. 416 2/3百万〔ポンド・スターリング〕の値がある。」 (大内兵衛・松川七郎訳『租税貢納論』.岩波文庫,1952年,175-176ページ。〕〉

 

 要するに、どちらも賃金(収入)を利子と考えて資本還元して労働力の資本価値を求めている例として引用されていることが分かる。この部分はこれ以上の説明は不要であろう。 

 


『資本論』第3部草稿(現行版第5篇)の研究(29-9)

『資本論』第3部第1草稿・第5章(現行版・第29章「銀行資本の構成部分」)の解読

 〔大谷禎之介《「銀行資本の構成部分」(『資本論』第3部第29章)の草稿について--第3部第1稿の第5章から--》(『経済志林』63巻1号収載)の訳文を利用〕

 

 (今回から架空資本の運動が論じられている。また〈資本還元〉という用語が、初めて出てくる。この点に関連して、無理解を曝け出している林氏の批判もついでに行っておく。)

 

【16】

 

 〈/336/架空資本の形成は資本還元と呼ばれる。すべての《規則的な》収入が,平均利子率に従って,資本がこの利子率で貸し出されたならばもたらすであろう収益として計算される。たとえば《年間》収入がイコール100ポンド・スターリングで利子率がイコール5% ならば,この100ポンド・スターリングは2000ポンド・スターリングの年利子であり,そこでこんどは,この想像された||337上|2000ポンド・スターリングが年額100ポンド・スターリングにたいする権原(所有権原)の資本価値とみなされる。この場合,この所有権原を買う人にとっては,この100ポンド・スターリングという年収入は,事実上,それに投下された彼の資本の5%の利払いを表わすのだからである。こうして,資本の現実の価値増殖過程とのいっさいの関連は最後の痕跡にいたるまで消え失せて,自分自身を価値増殖する自動体としての資本という観念が固められるのである。〉

 

 先に見た【11】パラグラフで、マルクスは〈国債という資本は純粋に架空な資本なのであって,もしもこの債務証書が売れないものになれば,その瞬間からこの資本という外観はなくなってしまうであろう。それにもかかわらず,すぐに見るように,この架空資本はそれ自身の運動をもっているのである〉と述べていたが、ここからはその〈すぐに見る〉と言われていた〈それ自身の運動〉が考察の対象になっている。
 マルクスはまず〈架空資本の形成は資本還元と呼ばれる〉と述べている。〈資本還元〉という用語はここで初めてマルクス自身によって使われているのであるが、しかしよく見てみると、〈架空資本の形成は……と呼ばれる〉となっている。つまり今まで説明してきた〈架空資本の形成は〉一般には〈資本還元と呼ばれ〉ていると述べているだけである。われわれは直前の【15】パラグラフの原注b)の〈V.レーデン『比較文化統計』〉からの引用文の中に〈労働者は資本価値をもっており,それは,彼の1年間の稼ぎの貨幣価値を利子収益とみなすことによって算出される。……平均的な日賃銀率を4%で資本還元すれば〉云々、という一文があったことを知っている。つまり「資本還元」というのはブルジョア経済学者によって実際に使われていた用語なのである。
 だから資本還元という言葉そのものは、ここで初めてマルクス自身によって使われているのであるが、しかし実際には資本還元の内容そのものは最初から、つまり【9】パラグラフから、論じてきたものなのである。なぜなら、そこから架空資本の形成を論じてきたのだからである。確定した規則的な貨幣利得が、利子生み資本の形態に伴って(=範疇としての利子生み資本の確立によって)、本来的な利子であろうがなかろうが、それらはすべて「利子」と見なされ、だからその貨幣利得をもたらす源泉が何であろうと、その「利子」をもたらすとされた源泉は本来的な利子を生む「資本」(=利子生み資本)と見なされるのである。だからその確定した規則的な貨幣利得がそのときの平均利子率で還元されて、その「資本」(架空の利子生み資本)の価値が求められる、すなわち幻想的な架空資本の価値が形成されるのだとマルクスは論じてきたのだからである。
 だからこれまでの国債の例を使った架空資本の形成の議論のなかで、「資本還元」という用語を使っていないからといって、林氏のように〈マルクスは、……国債が5ポンドという「収入」が利子率(5%?)で資本還元されて100ポンドという「資本価値」を持つ、といった議論を展開しているわけではない〉とか〈ここでは直接に、収入の資本還元の理論を論証しようとしているわけではない〉などと主張するのは、まったく途方もないことなのである。

 とにかく〈資本還元〉によって、どのようにして架空資本が形成されるのか、マルクスの説明を検討してみよう。


 〈すべての《規則的な》収入が,平均利子率に従って,資本がこの利子率で貸し出されたならばもたらすであろう収益として計算される〉。

 

  まず範疇としての利子生み資本が確立された現実がある。だから一定の貨幣額は常に利子生み資本(元金)と見做され、利子をもたらすものと見做される現実がある。すなわち「資本--利子」の定式化の確立である。だから、今度は、それが逆転して(「利子--資本」の定式化が生まれ)、〈すべての《規則的な》収入が〉、「利子」と見做される現実が生じてくる。だからその場合は、例え「利子」でなくても、本来ある一定額の貨幣額が利子生み資本として貸し出されたなら、もたらすであろう「利子」と見做されるので、その一定の規則的な貨幣収入を平均利子率で割ることで、その「ある」と考えられている資本、すなわち実際には幻想的なものでしかない、「架空」の「資本価値」が〈計算されて〉求められることになる、とマルクスは述べているのである。これが資本還元の内容である。
 しかしこれは【10】パラグラフでマルクスが次のように言っていたことと同じことである。すなわち〈事柄は簡単である。平均利子率を《年》5%としよう。すると,500ポンド・スターリングの資本は(貸し付けられれば,すなわち利子を生む資本に転化されれば)毎年25ポンド・スターリングをもたらすことになる。そこから,25ポンド・スターリングの年収入は,どれでも,500ポンド・スターリングの一資本の利子とみなされる〉。ここに出てくる最初の〈500ポンド・スターリングの資本〉と最後の〈500ポンド・スターリングの一資本〉とは決して同じものではない。最初のものは実際に利子生み資本として投下される貨幣額である(すなわち「資本--利子」の関係である)。しかし最後のものはそうしたものとみなされるもの(「利子--資本」の関係から生まれるもの)、すなわち実際にはただ幻想的なものでしかなく、架空資本として計算された(形成された)ものなのである。そしてこの計算の過程こそ、資本還元と呼ばれているものなのである。だからマルクスはそもそも最初から架空資本の形成を論じるなかで、〈資本還元〉について説明していたのである。
 だからこのパラグラフでも、マルクスは次に【10】パラグラフと同じような具体例を上げて(但し数値は異なるが)説明している。

 

  〈たとえば《年間》収入がイコール100ポンド・スターリングで利子率がイコール5% ならば,この100ポンド・スターリングは2000ポンド・スターリングの年利子であり,そこでこんどは,この想像された2000ポンド・スターリングが年額100ポンド・スターリングにたいする権原(所有権原)の資本価値とみなされる〉。

 

   規則的な収入が100ポンド・スターリングであれば、それをもたらす理由(源泉)が何であれ、それは「利子」とみなされ、だから平均利子率が5パーセントなら、100÷0.05=2000ポンド・スターリングの資本となる計算になる。この場合の2000ポンド・スターリングはただ想像されただけのものであり、よってただ幻想的なものでしかないのであるが、しかしそれらは年額100ポンド・スターリングを定期的にもたらす〈権原(所有権原)の資本価値とみなされる〉。というのは〈この場合,この所有権原を買う人にとっては,この100ポンド・スターリングという年収入は,事実上,それに投下された彼の資本の5%の利払いを表わすのだからである〉。今回は計算された2000ポンド・スターリングが〈想像された〉もの、すなわち架空資本であること、架空資本の資本価値であることが明確に語られている。
 ここで〈権原(所有権原)の資本価値〉と述べられているのは、一般の商品の売買と区別された利子生み資本に固有の運動にもとづいている。利子生み資本の運動も、「貨幣商品」の「売買」という外観をとる。しかし一般的な商品の売買の場合は、売り手は決して彼の商品の価値を手放すわけではなく、ただその使用価値を譲渡するだけである。なぜなら、彼は彼の持つ一定の価値額の商品形態をただ貨幣形態に転換するだけだからである。売る前も売った後でも彼は一定の同じ価値額を持っていることに変わりはない(彼は自分の生産した使用価値が、自身の物質代謝に適さないので、代謝を行うに適する使用価値に交換するだけである)。ところが「貨幣商品」の場合には、そうした物質代謝とは直接には無関係であり(つまり彼は自身の物質代謝のためにそれをするのではない)、よって売り手(貸し手)は、彼の持つ価値そのものを買い手(借り手)に譲渡する。しかし売り手(貸し手)は彼の価値を譲渡するものの、その所有権原は保持したままでそうするのである。だからそれは何らかの法律的な約定にもとづく行為となり、定期的な利子支払いをもたらし、さらに一定期間後には、やはり法律的約定によって彼のもとに還流してくる(返済される)のである。だからここでは想像された2000ポンド・スターリングという資本価値が譲渡された(貸し付けられた)ものとみなされ、だからその所有権原を保持していると見做されているわけである。つまり実際にはありもしない架空な資本価値の所有権原があるとみなされるわけである。ここでは実際上、現実に(リアルに)あるのは、100ポンド・スターリングという貨幣額だけである。これは確かに現実にも存在している。しかしそれをもたらしていると想像されている2000ポンド・スターリングというのは、まったく幻想的なものである。だからまた当然それの所有権原もまったく幻想的なものでしかないわけである(だから状況が変化すれば、それらは直ちに紙屑に転化し、「架空」に帰するのである。それらが「架空」資本と言われる所以である)。
 例えば「資本--利子」の観念が定式化されると、一定の貨幣額は必ず利子をもたらすという観念が確立する。平均利子率が5パーセントなら当然、100万円は年5万円の利子をもたらすものだと観念されるわけである。だからその100万円が実際には、ただ浪費するためだけに貸し出されて、まったく利潤を生み出さない場合でも、やはり5万円の利息が要求されるわけである。しかしこの場合、最初の100万円は実在的な貨幣額であり、決して幻想的でもなんでもない。
 ところがこの「資本--利子」の関係が逆転し、「利子--資本」の観念が生まれてくる。すると今度は、年々5万円の規則的な貨幣利得がすべて「利子」とみなされるようになる。それは実際には利子でもなんでもなくてもやはり利子とみなされ、だからそれは平均利子率が5パーセントなら、100万円の利子生み資本の利子とみなされるわけである。つまり年々5万円の貨幣利得を得る権利は、100万円の利子生み資本の所有権原とみなされることになる。彼は100万円を利子生み資本として貸し出したから、年々5万円を利子として取得していると想像されるわけである。しかしこの場合の100万円はまったくただ想像されているだけであり、だから純粋に幻想的なものである。だからマルクスはこれを「架空資本」と規定したのである。この場合、年々の5万円の貨幣利得だけは確かに現実的なものである。しかしその年々の規則的な貨幣利得をもたらす理由とみなされる所有権原があるとされる100万円という資本価値そのものは、まったくただ想像されたものであり、よって純粋に幻想的なものでしかないわけである。にも関わらず、それは独自の運動を持っているのだとマルクスは述べているのである。
 先の「資本--利子」の関係では、100万円の貨幣額も現実的であるし、そこからもたらされる年々5万円も現実である。ただ100万円が実際に利子生み資本として前貸され、剰余価値を生み出したかどうか、だからまた年々もたらされる5万円の利子が近代的な範疇としての利子なのかどうかは何も問われずに、そうしたものとみなされるわけである。だからここで幻想的なものは、100万円が利子生み資本と観念されるその観念であり、5万円がその利子生み資本が生み出した利子だと観念される、その観念がただ幻想的であるにすぎないわけである。
 ところが「利子--資本」の転倒によってもたらされる現象では、現実的なのは5万円という貨幣価値だけである。それが「利子」とみなされる観念はもちろん幻想であり、そればかりかその5万円の果実を生み出すとされる100万円の資本価値そのものとその所有権原もまったく幻想的なものでしかないわけである。それはただ想像されただけのものでしかない。にも関わらずそれはそうした資本価値を持つものとして独自の運動をするのである。われわれはこうした架空資本の概念、その本質を明確に捉える必要があるのである。そうすれば大谷氏をはじめ少なくないマルクス経済学者たちが「架空資本」と「擬制資本」とを区別してそれらを使い分ける必要があると考えているような主張が誤っていることが容易に理解されるであろう。

 しかしとにかくマルクスの述べていることをしっかり読んで行こう。


 〈この場合,この所有権原を買う人にとっては,この100ポンド・スターリングという年収入は,事実上,それに投下された彼の資本の5%の利払いを表わすのだからである〉。


 これは〈この想像された2000ポンド・スターリングが年額100ポンド・スターリングにたいする権原(所有権原)の資本価値とみなされる〉理由としてマルクスが述べていることである。つまりこういうことだ。
 ここに別の資本家(貨幣資本家)が登場する。彼は2000ポンド・スターリングというしっかりしたリアルな貨幣を持っているとしよう。彼はそれを機能資本家に貸し付けて毎年100ポンド・スターリングの利子を得ようと考えている。ところが彼はそれをやる代わりに、まったく幻想的なものでしかない2000ポンド・スターリングの架空資本(有価証券)を購入する。そうしても彼にとっては、毎年100ポンド・スターリングの利子をもたらすという点では何も変わらないのだから、彼にとっては同じに見えるわけである。そればかりか、彼が2000ポンド・スターリングを機能資本家に貸した場合、それが還流してくる(返済される)のは、現実の資本の循環を待たねばならない。ところが彼が2000ポンド・スターリングの架空資本を購入した場合には、必要なときにいつでも彼はそれを第三者に転売して、2000ポンド・スターリングの返済を受けることができるのである。これは彼にとっては有利に思える。そればかりか2000ポンド・スターリングはうまく行けば、3000ポンド・スターリングにも4000ポンド・スターリングにもなるかも知れないわけである。しかし、そうはどっこい、世の中はそんなにうまくはない。というのは彼の買った架空資本(有価証券)はいつのまにか2000ポンド・スターリングではなく、1500ポンド・スターリングに価値が減ってしまっていたり、悪くするとただの紙屑になってしまう場合もあるからである。その場合には、彼はしっかりしたリアルな2000ポンド・スターリングをただの紙屑にしてしまったことになるわけである。架空資本が架空なるが所以である。しかしとにかく彼は2000ポンド・スターリングの有価証券を購入すると、2000ポンド・スターリングを貸し付けて、その債務証書をしっかり持っている(所有権原を持っている)のと、同じだと考えるわけである。だからこの有価証券は2000ポンド・スターリングという想像された資本価値を持ち、毎年100ポンド・スターリングの利払いを受ける権原とみなされるわけである。

 

 〈こうして,資本の現実の価値増殖過程とのいっさいの関連は最後の痕跡にいたるまで消え失せて,自分自身を価値増殖する自動体としての資本という観念が固められるのである〉。


 こうしてすでに「資本--利子」の観念のなかに、資本の物神性は極限に至っていたのであるが、「利子--資本」の観念においては、それがさらに狂った観念として現れてくる。有価証券という単なる紙切れ、単なる債務証書にすぎないものが、資本価値をもち、しかも自己増殖する価値として想念されるわけで、その場合の年々の貨幣利得の源泉が果たしてどこに由来するのかはもはや皆目分からないものになっている。だから資本はとにかく自分自身を価値増殖する自動体として観念されるようになるのだ、とマルクスは述べている。

 ところで、マルクスの〈架空資本の形成は資本還元と呼ばれる〉という一文を読んで、われわれはここでハタと林氏の立論の矛盾に気づく。林氏は次のように主張していた。

 

 〈この国家証券が代表する“資産”はすでに戦争などで消尽されてしまっていて、現実にはどんな痕跡も残っておらず、そういう意味で、いわば“純粋の”空資本であることが語られているにすぎないのであって、ここでは直接に、収入の資本還元の理論を論証しようとしているわけではないのである。〉 (『海つばめ』No.1111)

 

 関西セミナーのときには、林氏は国債が架空資本であることさえ認めなかったのであるが、それは今は問わないことにしよう。つまり林氏は国債が架空資本(林氏が引用している岩波の翻訳では「空資本」)であることは認めるわけである。しかし林氏は、それは〈収入の資本還元の理論〉によってそうなのではないと主張している。国債が架空資本であるのは〈この国家証券が代表する“資産”はすでに戦争などで消尽されてしまって、現実にはどんな痕跡も残って〉いないから「空資本」と言えるのだというのである。しかし林氏の説明では、国債が「空資本」であることの説明にはなっていない。なぜなら、林氏の説明では国債が「」であることは説明されていても、それが「資本」であることは何も説明されていないからである。マルクスは【11】パラグラフでは国債が架空資本である理由を次のように述べていた。

 

 〈しかしすべてこれらの場合に,国家の支払を子《(利子)》として生んだものとみなされる資本は,幻想的なものである,すなわち架空資本である。それは,国家に貸し付けられた金額がもはやまったく存在しない,ということばかりではない。それはそもそも,けっして資本として支出される(投下される)べく予定されていたものではなかったのであり,しかもそれは,ただ資本として支出されることによってのみ,自己を維持する価値に転化されえたはずのものなのである〉。

 

 つまりマルクスは、林氏が主張する理由=〈もはやまったく存在しない〉〈ということばかりではない〉と述べていた。つまり林氏が主張する理由は、架空資本が「架空」(「空」)である理由にはなり得ても、それが「資本」とみなされる理由にはならないから、だからマルクスは〈ということばかりではない〉と述べていたのである。そのあとマルクスが述べているものこそ、なぜ国債が「資本」と見做されるのかの説明だったのである。つまり国家に貸し付けられた貨幣はまったく資本として投下されるものでは無いのに、しかし自己を維持し増殖するものと見做される、つまり「資本」と見做されるとマルクスは言っているわけである。それはどうしてか? それは国家から支払われる規則的な貨幣支払いが「利子」と見做されるからだ。だから、その貨幣利得をもたらす源泉=国債が「資本」と見做されるのだというのがマルクスの説明である。つまり規則的な貨幣支払いが利子と見做され、だからその規則的な貨幣利得の源泉である国債も資本と見做されるからである、すなわちその源泉が資本に還元されるからである。つまり「資本還元」によってである。
 だから林氏の主張は明らかに矛盾している。林氏は国債が架空資本であることは認めるが、それが資本還元によるものであることを否定するのである。しかし国債が架空資本であることを認めるなら、それが資本還元によって説明できることも認めなければならない。一方を認めて、他方を否定することは不可能なのである。林氏はこうした自己矛盾に陥ってしまっているのに、そのことに気づいてもいないのである。

 林氏は国債は〈いわば“純粋の”空資本〉だということを認める。しかしそれは資本還元されるからそうなのではなく、国債として貸し出された貨幣がすでに使い果たされて存在しないからだという。マルクスもそういう意味で国債を「空資本」と呼んでいるのだと主張するわけである。しかしそうであるなら、林氏はどうして使い果たされて現実には存在しない貨幣が一定の資本価値として、つまり「空資本」として存在するようになるのか、どうしてそれがそのように現象するのかを説明しなければならないのであるが、それはできないことは明らかである。もしそれを資本還元という方法以外で説明できるなら、是非、やって貰いたいものである。
 結局、林氏が頼らざるを得ないのは、額面100万円の国債は100万円の価値があるのは当たり前だという、転倒した観念を一つの“常識”として主張することでしかない。林氏が主張するのは、額面100万円の国債は100万円の価値があるのは当たり前であり、だからわざわざ年々の利子5万円を平均利子率で割って(すなわち資本還元して)100万円という資本価値を計算する必要はない,そんなことは単なる同義反復であり、矛盾であるということである。しかし今問題なのはどうして額面として「100万円」と印刷されただけの、ただの紙切れである国債が100万円の価値を持つのかということを説明することなのである。これは決して当たり前のことではなく、単なる紙切れに過ぎないものが100万円の価値あるものとして通用し、実際、それを買うには100万円が必要だという現実をどのように説明するのかということである。つまり林氏が当たり前だと考えていることを説明することが求められているのである。しかも額面100万円の国債が、市場では必ずしも100万円の価値あるものとして評価されず、90万円とか80万円しか価値がないものと評価されるのはどうしてか、ということも説明しなければならない。
 結局、それは年々そこからもたらされる5万円が利子とみなされるからであり、だからそれを利子率5%で資本還元すると、それは100万円の「利子生み資本」の「利子」とみなされる計算になり、だから額面100万円の国債は100万円の「資本価値」を持つものとみなされることになるのだと説明するしかないのである。あるいは利子率が上昇して、5.5%とか6%になったために、年々の国債からもたらされる確定利息の5万円が、市場の利子率で資本還元されるために、例え額面100万円の国債であっても、市場では90万円とか80万円の資本価値しかないものとして評価され、その価値額で売買されるのだと説明するしかないのである。つまり資本還元の概念なしに、架空資本の運動を説明することは出来ないのである。もしそれ以外の方法があるなら、是非とも林氏はそれをやって見せるべきであろう


『資本論』第3部草稿(現行版第5篇)の研究(29-10)

『資本論』第3部第1草稿・第5章(現行版・第29章「銀行資本の構成部分」)の解読

 

 〔大谷禎之介《「銀行資本の構成部分」(『資本論』第3部第29章)の草稿について--第3部第1稿の第5章から--》(『経済志林』63巻1号収載)の訳文を利用〕

 

 (今回も架空資本の運動が問題になっているが、それを説明するために、今度は、株式が例に挙げられている。だからこれに関連して、混乱した主張を展開している林紘義氏や大谷氏についても、その所説を批判せざるを得なかった。)

 

【17】

 

 〈[523]債務証書--有価証券--が, 国債の場合とは異なり,純粋に幻想的な資本を表わしているのではない場合でも,これらの証券の資本価値は純粋に幻想的である。さきほど見たように,信用制度〔Creditwesen〕は結合資本を生み出す。この資本にたいする所有権を表わす証券である株式,たとえば鉄道会社,鉱山会社,水運会社,銀行会社等々の会社の株式は,現実の資本を表わしている。すなわち,これらの企業で機能している(投下されている)資本,またはそのような企業で資本として支出されるために社団構成員によって前貸しされている貨幣額を表わしている。(もちろん,それらの株式がただのいかさまを表わしているということもありうる。)しかしこの資本は二重に存在するのではない。すなわち,一度は所有権原の,株式資本価値として存在し,もう一度はこれらの企業で現実に投下されているかまたは投下されるべき資本として存在するのではない。それはただ後者の形態で存在するだけであって,株式は,この資本によって実現されるべき剰余価値にたいする所有権原でしかないのである。Aはこの権原をBに売り,またBはCに売るかもしれない,等々。このような取引は事柄の性質を少しも変えるものではない。この場合,AまたはBは自分の権原を資本に転化させたのであるが,Cは自分の資本を,株式資本から期待されうる剰余価値にたいする,たんなる所有権原に転化させたのである。〉

 

 ここからマルクスは、架空資本の独自の運動を説明するために、同じ架空資本である株式の説明をまず行おうとしている。マルクスの意図としては、架空資本の形成を国債を例に説明したあと、国債と株式を例に架空資本の運動を説明しようということである。だからマルクスの考えとしては、国債も株式も架空資本の運動としては同じだ、ということである。しかしマルクスは同じ有価証券(債務証書)でも、国債が表すものは〈純粋に幻想的な資本〉であるが、株式の場合はそうでない、という両者の相違からまず説明を始めているわけである。しかしいうまでもなく、この一文でマルクスが強調しているのは、有価証券が代表するものは国債と株式とでは異なるが、しかしそれらが架空な資本価値として現れる限りでは、どちらも純粋に幻想的なものだという点では同じなのだということなのである。だから国債と株式とが代表するものが違うということから、それらが架空資本としてもまた違ったものであるかに理解するのは、実際は間違いなのである。しかしこうした間違った理解に立っている人の何と多いことよ(林氏も残念ながらその中には含まれている)。しかしこの点については、すぐにまたふり返るとして、まずマルクスが続いて述べていることを検討しておこう。

 マルクスは〈さきほど見たように,信用制度〔Creditwesen〕は結合資本を生み出す〉と述べている。ここで〈さきほど見たように〉というのは、エンゲルス版では、第27章に該当する部分で論じたことを指している。そこでは〈信用制度についてこれまで《われわれが》一般的に述べる機会をもったのは,次のことであった〉と書き出して、箇条書き的に三つのことを上げているが、その第三番目として次のように述べている。

 

 〈III)株式会社の形成。これによって第1に,生産規模のすぎまじい拡張〔が生じ〕,そして私的諸資本には不可能な諸企業〔が生まれる〕。同時に,従来は政府企業 〔だった〕ような諸企業が会社企業〔社会的企業〕になる。第2に,即自的には社会的生産様式を基礎とし,生産手段および労働力の社会的集中を前提している資本が,ここでは直接に,私的資本に対立する社会資本〔会社資本〕(直接に結合した諸個人の資本)の形態を与えられており,資本の諸企業が,私企業に対立する社会企業〔会社企業〕として〔現われる〕。それは,資本主義的生産様式そのものの限界の内部での,私的所有としての資本の止揚である。第3に,現実に機能している資本家が(他人の資本の)単なるマネージャーに転化し,資本所有は単なる所有者,単なる貨幣資本家に転化すること。〉 (大谷訳33-34頁)

 

 また次のような叙述も見られる。

 

 〈信用は,個々の資本家または資本家とみなされている人に,他人の資本他人の所有の(それによってまた他人の労働の)--相対的に言って--絶対的な処分権を与える。……成功も失敗も,ここでは同時に集中に帰し,したがってまた法外きわまりない規模での収奪に帰する。収奪はここでは直接生産者から小中の資本家そのものにまで及ぶ。この収奪は資本主義的生産様式の出発点であり,この収奪の実行はこの生産様式の目標であるが,しかし最後にはすべての個々人からの生産手段の収奪〔に終わる〕。生産手段は,社会的生産の発展につれて,私的生産手段であることを《も私的産業の生産物であることをも》やめ,それはもはや,《それが結合生産者たちの社会的生産物であるのと同様,》結合生産者たちの手にある生産手段,したがって彼らの社会的所有物にほかならない。ところがこの収奪は,資本主義体制そのものの内部では,対立的に、少数者による社会的所有の横奪として現われるのであり,また信用は,これらの少数者にますます純粋な山師の性格を与えるのである。《所有はここでは株式の形で存在するのだから,その運動そのもの,つまりその移転は取引所投機のまったくの結果となるのであって,そこでは小魚は鮫に呑みこまれ,羊は狼男に呑みこまれてしまう。》株式制度のうちには,すでに,この形態に対する対立物があるが,しかし株式制度それ自身は,資本主義的な制限の内部で,社会的な富と私的な富という富の性格のあいだの対立を新たにつくり上げるのである。〉 (同38-39頁)

 

 このようにこの部分では、「株式制度」についての歴史的な位置づけが与えられているが、しかし「株式」そのものについての考察はそれほどなされていない。株式については、ただ〈所有はここでは株式の形で存在するのだから,その運動そのもの,つまりその移転は取引所投機のまったくの結果となるのであって,そこでは小魚は鮫に呑みこまれ,羊は狼男に呑みこまれてしまう〉という説明が見いだされる程度である。

 だからこの第29章該当部分においては、マルクスは〈この資本(=結合資本--引用者)にたいする所有権を表わす証券である株式,たとえば鉄道会社,鉱山会社,水運会社,銀行会社等々の会社の株式は,現実の資本を表わしている〉と「株式」そのものの説明が行われているわけである。以下、このパラグラフでマルクスが株式について説明している内容を少し分析的に考察してみよう。

 マルクスは「株式」について、いくつかの説明を行なっている。

 (1)結合資本に対する所有権を表す証券である。
 (2)現実の資本を表している。例えば、鉄道会社や鉱山会社、水運会社、銀行会社等々の企業で機能している(投下されている)資本,またはそのような企業で資本として支出されるために社団構成員によって前貸しされている貨幣額を表わしている。
 ここで株式が表している「現実の資本」として、マルクスは現実に機能している(投下されている)資本、つまり「生産資本」と、そのような生産資本として投下された(前貸された)「貨幣資本(Geldcapital)」(額)を表していると述べている。
 (3)しかしこの資本は二重に存在するのではない。すなわち,一度は所有権原の,株式の資本価値として存在し,もう一度はこれらの企業で現実に投下されているかまたは投下されるべき資本として存在するのではない。それはただ後者の形態で存在するだけであって,株式は,この資本によって実現されるべき剰余価値にたいする所有権原でしかないのである。
 ここで〈この資本〉と述べているのは、(2)で述べている「現実の資本」、すなわち「生産資本」または「貨幣資本(Geldcapital)」のことである。だから〈株式の資本価値〉と述べているのは、例えば株式の額面が100万円だとすると、所有権原を表す株式そのものが100万円の資本価値として存在するのではなく、100万円はすでに投下されて現実の資本(生産資本)になっているか、あるいは投下されるために社団構成員によって前貸された貨幣額(貨幣資本Geldcapital)として存在するだけであって、株式そのものが100万円の資本価値として存在しているのではないと述べているわけである。だから額面100万円の株式を持っており、だから現実の資本に対して按分比的に100万円に相当する所有権原をそれは表しているのだと言ってみても、額面100万円の株式そのものが100万円の価値として存在しているわけではないのだから、彼らはただ株式という紙切れを持っているだけなのだから、それが表している現実の資本を勝手に処分したりする権原そのものは実際上はないわけである(もちろん、彼が構成員になっている社団がそうした判断をする場合は話は別である)。だから株式そのものは、結局は、将来実現されるであろう剰余価値に対する所有権原でしかないのだ、というのがマルクスの説明なのである。
 これらの説明を読むと、(1)と(2)は株式が「表す」ものが、(1)は結合資本に対する「所有権」であり、だからこれは現実の株式会社の所有権を表すと考えることができる。(2)は「現実資本」すなわち、これらの企業で機能している資本、またはそのような企業で資本として支出されるために社団構成員によって前貸されている「貨幣額」を「表している」となっている。だからこの(2)は(1)の内容をより具体的に見ていると考えることができる。すなわち「現実資本」というのは、「実物資本」、すなわち実際に機能している資本(生産資本)という意味であり、株式はそれを「表している」わけである。または、そうした企業で資本として支出されるために前貸された貨幣額を「表している」とされている。だからこの後者の場合は、株式の額面が「表している」ものと考えることができる。そしてこの貨幣額を前貸している主体を「社団構成員」と述べている。つまり「株主」は「社団」を構成し、個人株主はその構成員であるとの認識がここで示されていると考えることができる。この「社団」は今でいう「株主総会」のことであろう。だから(1)と(2)を総合して考えるなら、現実の株式会社を所有しているのは、個人株主で構成されている社団であると言えるであろう。個人株主は、その社団の構成員として、その持ち株の按分比に応じて、株式会社を所有している、すなわち所有権原を持っているといえるわけである。
 (3)は株式は、この資本(つまり現実の資本、あるいは前貸されている貨幣額)によって実現されるべき剰余価値に対する所有権原でしかない、とされている(この場合は「所有権原を表している」という表現ではなく、「所有権原でしかない」と述べていることに注意)。
 この(3)の書き方には注意が必要である。まず「実現されるべき剰余価値」というのは、これから実現されるであろう剰余価値ということであり、将来生み出されるであろう剰余価値に対する所有権原である。しかも「所有権原でしかない」という書き方は、それはその前の(1)(2)では、結合資本に対する所有権を「表したり」、現実の資本、または前貸された貨幣額を「表したり」しているのだが(つまり「表している」だけだとも読めるのだが)、しかし、実際には将来実現されるであろう剰余価値に対する所有権原でしかないのだ(だからその「表している」ものの実際の内容はそういうものだ)、という含意として読み取ることができるであろう。
 そしてその後に書いていることは、「剰余価値に対する所有権原でしかない」ということをさらに、株式を転売するA、B、Cの人物を使って具体例で説明していると考えることができる。株式を最初に所有していたAからBに株式が販売され、さらにBはCに販売した場合、〈このような取引は事柄の性質を少しも変えるものではない〉とある。つまり株式が結合資本の所有権を表す証書であるとか、現実の資本を表すものであるとか、あるいは将来の剰余価値に対する所有権原であるという事柄そのものは何も変わらないと述べているのである。株式から得られる配当が、その株式が転売されたからといって配当でなくなるわけではないのである。ただそれを購入した、例えばCの私的な立場からすれば、それは彼の投下した利子生み資本に対する「利子」であると観念されるのであるが、そうであっても、しかし客観的にはそれが配当であるという事柄そのものは何も変わらないのだと言いたいのである。〈AまたはBは自分の権原(これは剰余価値に対する所有権原である)を資本に転化させた〉とあるが、もちろん、ここで「資本」というのは貨幣資本(moneyed Capital)、すなわち「利子生み資本」に転化させたということであろう。というのは、例えば増資等で新たな株式を直接購入するということは(Aの場合)、現実の資本の所有権あるいはそこから生み出される剰余価値に対する所有権原を入手することであり、そのこと自体は、決して彼の貨幣を利子生み資本として貸し付けたことを意味しない。なぜなら、利子生み資本の場合は、貸し付けた貨幣価値に対する所有権原は保持し続け、一定期間後には返済されることを前提しているのであるが、しかしAの場合、株式に前貸された貨幣はそうした返済を前提にしたものではないからである。ところがAもBも彼らが保持している権原を表す株式を転売した時点で、彼らが前貸した貨幣額を回収するのであり、その限りでは、彼らの私的な立場からすれば、彼らが最初に投じた貨幣価値を利子生み資本に転化させて、その返済を受けたことになるのである。だからマルクスはここでAまたはBは自分の権原を資本(利子生み資本)に転化させたと述べているのである。そしてCの場合は彼の資本(利子生み資本)を〈株式資本から期待されうる剰余価値にたいする,たんなる所有権原に転化させたのである〉と説明されている。つまりCにおいては、彼が投じる貨幣が資本(利子生み資本)であるのは、彼の私的な立場からいえることに過ぎず、客観的には彼が手に入れた株式は単に実現されるであろう剰余価値に対する所有権原でしかないわけである。ただ彼もそれをDに販売した時点で、やはり彼の私的な立場において前貸した貨幣を利子生み資本に転化することになるわけである。株式に投下された貨幣価値が利子生み資本となるのは、あくまでもその当事者の私的な立場からに過ぎず、株式そのものが客観的に意味しているもの(結合資本に対する所有権を表し、あるいは実現されであろう剰余価値に対する所有権原であるということ)は、だからそうした転売が繰り返されても何も変わらないのだ、とマルクスは述べているわけである。

 しかし注意が必要なのは、これらの一連の説明は、「株式」とはそもそも何かを説明しているのであって、「架空資本としての株式」の説明ではないということである。もっと分かりやすくいえば、これらの説明は株式の額面に書かれている貨幣額、例えば100万円の額面が何を表しているのかを説明しているのであって、その額面100万円の株式が実際に証券市場で売買される場合のその株式の市場価値、例えば200万円とか300万円の値がつく、そうした資本価値を説明しているのではないということである。そして「架空資本としての株式」というのは、この証券市場で実際に売買されている200万円や300万円の株式の資本価値のことなのである。だからこれらの一連のマルクスの「株式」の説明を、「架空資本としての株式」の説明だと誤解すると混乱することになるのである(株式を「擬制資本」として、国債などの「架空資本」と区別して論じるべきだと考えている人たちが間違っているのもこの点なのである)。先にも指摘したように、架空資本としての国債も株式も純粋に幻想的なものであり、その限りでは同じものだとマルクスは考えているのである。これはとにかく重要なことなので強調しておきたい。
 だからもう一度、分かりやすく説明すると、国債と株式との違いはその額面が表しているものの違いである。つまり額面100万円の国債に書かれている100万円は〈純粋に幻想な資本〉を表しているだけであるが、額面100万円の株式の100万円は現実資本に対する按分比的な所有権を表している(つまり現実資本の総額が1億円なら、額面100万円の株式は、現実資本の100分の1の所有権を表しているわけである)。確かにこの点では両者には相違がある。しかしそれらが売買される価格(あるいはその基準となる市場価値=資本価値)、すなわち架空な資本価値(架空資本)としては、例えば額面100万円の国債が80万円で売買されているとしても、あるいは額面100万円の株式が300万円で売買されているとしても、確かに両者の資本価値には違いがあるが、しかしそれらが同じように幻想的なものだという点では、まったく同じなのである。一方は確定利息を平均利子率で資本還元し、他方は配当をやはり平均利子率で資本還元したものであり、その限りでは純粋に幻想的なものだからである。

   ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・

 さて、このパラグラフの冒頭、マルクスは〈務証書--有価証券--が, 国債の場合とは異なり,純粋に幻想的な資本を表わしているのではない場合でも,これらの証券の資本価値は純粋に幻想的である〉と述べている。一見すると同じ架空資本でも、マルクスは国債と株式とでは違いがあるかに述べているように見える。実際、そのように捉えている人が多いということはすでに指摘した。そして何を隠そう、わが御大将(林紘義氏)もその一人であらせられることもすでに指摘した。すなわち次のように主張されておられる。

 

 〈この国家証券が代表する“資産”はすでに戦争などで消尽されてしまっていて、現実にはどんな痕跡も残っておらず、そういう意味で、いわば“純粋の”空資本であることが語られているにすぎないのであって、ここでは直接に、収入の資本還元の理論を論証しようとしているわけではないのである。〉 (『海つばめ』No.1111)
 〈マルクスが、国債について――とりわけ当時のイギリスの国債について――、「国債なる資本にあっては、一つのマイナスが資本として現われる」とか、「資本は、幻想的なもの、空資本であるにとどまる」などと言っていることを、その言葉だけ取り上げて論じても、サブプライム問題の理解には何の意味も持たないばかりか、有価証券一般についても、正しい観念とは言えないのである。まして、事業会社(産業資本)が発行するような社債の場合はなおさらである。
 というのは、債券はそれ自体としては紙切れであり、債務証書であって、生産手段でも何でもないが、それは債権者
(「債務者」の間違い?---引用者)によって、その貨幣資本が現実的資本に転化され、機能すること――現実的に機能していること――を少しも否定しないのである。それは産業会社の株券がそうであるのと同様である。
 この点では、例えば社債は、一般的には「擬制資本」であり得ても、マルクスが「空資本」(純粋の擬制資本)と述べた、当時のイギリスの国債とは区別されるし、されなくてはならない。
(このように林氏も「擬制資本」と「架空資本」とを使い分け、両者の区別の必要を主張している。--引用者)

 マルクスは、銀行などが株や債券などの証券を有するばあい、それらを現実資本とは区別して「空資本」(擬制資本)と呼んだが、しかしその場合でも、空資本一般から「純粋に幻想的な資本」(例えば、地代を利子率で「資本還元」された「価値」もしくは幻想的な「資本」である「土地価格=地価」など)を、さらに区別している。この点についても、マルクスの言葉を参考までに引用しておこう。
 「鉄道、鉱山、交運等々の会社の株式〔事業会社の社債なども含めて――林〕は、現実の資本を、すなわちこれらの企業に投下されて機能しつつある資本を、またはかかる企業における資本として支出されるために株主によって前貸されている貨幣額を、表示する」(二二二頁)〉
(同上)

 

 最初の引用文では、林氏は国債について〈“純粋の”空資本である〉と「純粋」にわざわざ“ ”を入れて強調しているが、二番目の引用文では、どうやらその理由らしきものが分かる。林氏はマルクスが国債は架空資本だと述べていることを持ち出してもサブプライム問題や有価証券一般やさらには社債などの場合にはなおさら何の説明にもならないのだと述べている。その理由はどうやら、債券というのは確かに債務証書だが、それによって貸し付けられた貨幣資本が現実資本に転化され、機能することを少しも否定しないからだというのである。それは産業会社の株式がそうであるのと同じだ、と。つまり国債の場合は、ただ浪費されるだけだが、債券として表される債務証書の場合は、場合によっては現実資本に転化される可能性はあると言い張るわけである。確かに社債や株式はそうであろう。しかしサブプライムローンはどうであろうか、それは住宅ローンであり、その限りでは決して現実資本に転化されるのではなく、ただの消費者ローンと同じではないのか。だからこそ、林氏はサブプライムローンの証券化を国債を例に上げて説明したのではないのか、それなのに、マルクスが国債を架空資本と言っているからといって、サブプライムローンの説明にそれは適用するのは間違いだというのである。しかも奇妙なことに、その理由として持ち出すのが、社債や株式のような現実資本に投下される可能性のあるものもあるからだというのである。これでは林氏の論理は自分の身を捩じったようなわけの分からないものになっている。この混ぐらがってわけの分からない林氏の論理を丁寧に解きほぐしてみよう。

 最初の引用文については、すでに何度も批判してきた。だから二つ目の引用文を詳細に検討してみよう。まず林氏は〈マルクスが、国債について――とりわけ当時のイギリスの国債について――、「国債なる資本にあっては、一つのマイナスが資本として現われる」とか、「資本は、幻想的なもの、空資本であるにとどまる」などと言っていることを、その言葉だけ取り上げて論じても、サブプライム問題の理解には何の意味も持たないばかりか、有価証券一般についても、正しい観念とは言えない〉と主張している。国債について、〈とりわけ当時のイギリスの国債について〉とわざわざ断っているのは、マルクスが国債を例に架空資本の形成を論じているのは、当時のイギリスの特殊事情によるのだと言いたいわけであるが、しかしこれも無意味な難癖に過ぎないことはすでに指摘した。実際、林氏自身も永久国債であろうが、償還期限のある国債であろうが同じであることを次のように認めざるを得ないのである。

 

 〈マルクスがどんな国債を頭において書いたか分からないが、当時イギリスの国債で重要な地位を占めていた“永久国債”(有名なコンソル債)であった可能性が高いであろう。というのは、普通、「その債務者に解約通告をなすことができ」ないと概念規定されるのは、永久国債だからである。もちろん、普通の国債も、償還期限(満期)が五年とか一〇年とか定められていて、「その債務者に解約通告をなすことができ」ないという点では、永久国債と同じだが、とりわけ永久国債についてこの概念が言われるのは、永久国債といっても、政府の方から、その都合によって、その意思によって随時償還がなされ得るということがあったからであろうか。〉 (No.1111)

 

 林氏はマルクスが対象としているのはコンソルという永久国債だから〈「その債務者に解約通告をなすことができ」ないと概念規定〉したと言いたいのであるが、しかし他方で普通の国債でも償還期限が来る前に「その債務者に解約通告をなすことができ」ないという点では同じであることも認めざるを得ない。しかし永久国債について、そうした「概念規定」(これが国債の「概念規定」だと林氏は考えるわけであるが、果たして林氏は「概念」とはそもそも何であるのかを知っているのだろうか?)が問われるのは、〈政府の方から、その都合によって、その意思によって随時償還がなされ得るということがあったからであろうか〉などとも述べている。とするなら、ますます永久国債と償還期限がある国債とは同じであることを示しているのではないのか。あらかじめ償還期限が決まっているか、それとも政府の都合で随時償還期限を決めるのかの違いでしかないわけだから(そればかりかあらかじめ償還期限が決まっている国債でもその償還期限が来ても、借り換えによって、さらにその償還期限が無制約的に延長され得るのだから)、ますます両者の違いは無くなるのである(もっとも『平凡社大百科辞典』によると、議会の承認で償還可能とされたのは1923年以降だから、マルクスが生きていた当時はそうしたことは無かったのではあるが)。そして国債を架空資本であると、それこそ「概念規定」する上で、国債に償還期限がついているかいないかということはどうでも良いことであるのは、これまでの架空資本の形成、すなわちその「概念」についてしっかり学んできたものにとっては自明のことなのである(なぜなら、償還期限があろうが無かろうが、それらが証券として転売されるかどうかということこそが架空資本にとって本質的なことなのだからである)。償還期限の有無が何か国債が架空資本であるかそうでないかを左右するかに(マルクスの当時の国債は永久国債だから架空資本だが、現代の国債は償還期限があるからそうでない等々と)考えているところに、林氏が架空資本のなんたるかをまったく理解していないことをむしろ暴露しているのである。

 ところで問題なのは、林氏が〈マルクスが、国債について、「国債なる資本にあっては、一つのマイナスが資本として現われる」とか、「資本は、幻想的なもの、空資本であるにとどまる」などと言っていることを、その言葉だけ取り上げて論じても、サブプライム問題の理解には何の意味も持たないばかりか、有価証券一般についても、正しい観念とは言えない〉と主張していることであった。

 林氏は〈その言葉だけ取り上げて論じても〉というが、〈言葉だけ取り上げて論じ〉るというのはどういうことなのか。誰がそんなことをしたのであろうか。確かにマルクスが論じているものを理解もせずに、ただその言葉だけをアレコレ引用して論じても、無意味なことは確かである。しかしマルクスの文章を理解していないというのなら、それは林氏にこそ当てはまるのではないだろうか。これまで論じてきたことを見ても、林氏こそマルクスが論じている内容を慎重且つ厳密に吟味してその内容を正確に理解しようとしていないことは明らかである。それとも林氏は〈マルクスが、国債について、「国債なる資本にあっては、一つのマイナスが資本として現われる」とか、「資本は、幻想的なもの、空資本であるにとどまる」などと言っていること〉は、〈サブプライム問題の理解には何の意味も持たないばかりか、有価証券一般についても、正しい観念とは言えない〉と主張するのであろうか。確かに林氏はマルクスの架空資本の理論は〈サブプライム問題の理解には何の意味も持たない〉と主張するわけである。しかし〈有価証券一般についても、正しい観念とは言えない〉というのはどういうことであろうか。マルクスは銀行資本の現実の構成部分である「その他の有価証券」、すなわち「いわゆる利子生み証券」を説明するために、国債を例にそれらが架空資本であることを説明しているのである。とするなら、この林氏の主張はマルクスの主張を真っ向から否定することになるし、ならざるを得ないであろう。マルクスが国債を例にして架空資本の形成について論じているが、そんなものは〈有価証券一般についても、正しい観念とは言えない〉と林氏は主張するわけだからである(もっとも厳密を期すなら、林氏は「有価証券一般」を問題にしているが、マルクスが問題にしているのは「有価証券一般」ではなく、「商業的有価証券(手形)」を除いた「その他の有価証券(=利子生み証券)」を架空資本として問題にしているのである。こうしたマルクスが厳密に区別しているものについても林氏はまったく無頓着であり、その理解の粗雑さは否めない。一体〈その言葉だけ取り上げて論じて〉いるのは誰なのか?)。

 とにかくもう一度話を元に戻そう(どうしても林氏の主張を検討すると脱線してしまうのだが)。ここで私が論じたいのは、架空資本と擬制資本とを区別し、それらを使い分ける必要を主張する俗説についである。そしてその俗説に染まっている林氏の御説の批判的検討である。
 要するに林氏の言いたいことは、債券は紙切れであり、債務証書だが、しかしそれによって貸し出された貨幣が貨幣資本(この場合はGeldcapitalである)として、現実資本に転化する場合もある(株式や社債の場合はまさにそれだ)、だから何も表していない国債と一緒には論じることは出来ない。前者(つまり社債や株式)は「擬制資本」でありえても、マルクスが「架空資本」(純粋な擬制資本?)と述べたものとは区別されなければならない、というものである。
 このように国債と株式とを区別して、前者は架空資本だが後者は擬制資本というべきだという主張は何も林氏の発明ではない。それは結構ひろく言われている俗説であり、林氏はただそれに追随しているだけなのである。
 実際、われわれはこの第29章の草稿の大谷氏の前書きを検討したときに、次のように問題点を指摘しておいた(29-2を参照)。

 

 [(1)大谷氏は〈①いわゆる「利子生み証券」の所有者にとってそれが資本であるのは,つまりいわゆる擬制資本は,収入の資本還元による純粋に幻想的な観念にすぎない〉と述べている。ここで大谷氏は「いわゆる」を着けながらも「擬制資本」という用語を使っている。しかしマルクス自身は少なくとも大谷氏の翻訳文のなかでは「擬制資本」という用語は使っていない。どうして「利子生み証券」を「擬制資本」と大谷氏はいうのであろうか、それは「架空資本」とどう違うのか、それを使い分ける意味はどこにあるのか,こうした疑問を、とりあえずは提起しておきたい。〕

 

 実際、大谷氏は『図解・社会経済学』でも次のように述べている。

 

 〈[株式]すでに見たように、銀行制度は株式資本という結合資本を生み出す。この資本への所有権を表す証券である株式は、それ自体としては、それぞれの企業で投下されている資本の一部を表している。しかし、株式はじつは、この資本がもたらす剰余価値の一部にたいする権利名義でしかない。株式も典型的な架空資本なのである(株式の場合には、架空資本ではなくて「擬制資本」という訳語が当てられることが多い)。〉(371頁、太字と下線(同書では傍点)は大谷氏による)

 

 このように大谷氏は〈株式も典型的な架空資本なのである〉と株式それ自体が架空資本であるかに理解している。そして株式の場合を擬制資本という訳語が当てられる場合が多いと述べているのである。このように大谷氏においても理解が曖昧であることを暴露しているのである。さらに大谷氏は次のようにも主張している。

 

 〈以上が,第5章 5)で出てくる「架空資本」の最初のものであるが,見られるように,これはいわゆる擬制資本たる利子付証券のことである。マルクスは,それらの価値は総じて「純粋に幻想的」であるが,とくに国債では「資本」そのものが「純粋に幻想的」であり,さらに譲渡できない収入源泉までも「資本」とみなされる場合--その極は労働力--を「純粋に幻想的な観念Jだとし……ている。〉(第25章該当部分の草稿の「上」64-5頁)

 

 マルクスが架空資本としての「資本価値」という場合、規則的な貨幣利得が、それをもたらす理由は何であれ、すべて利子生み資本のもたらす利子とみなされ、だからその利子もたらすと想像された利子生み資本の価値のことである。だからそうした貨幣利得は、その時の平均利子率で還元されて、それをもたらす資本価値が計算されたわけである。だからこそまたそれらは純粋に幻想的な、ただ想像されたものに過ぎないのであり、だから「架空資本」とマルクスは規定したのである。ところが大谷氏によると、この「資本価値」は「資本」と「価値」とに二つにわけられて、国債は「価値」だけでなく、「資本」そのものが「純粋に幻想的であり」、それに対してそれ以外の利子付資本は「価値」のみが「純粋に幻想的」だというのである。しかしこれはマルクスの架空資本の概念から考えるなら、決して正しい理解とは言い難いであろう。こうしたことから大谷氏も国債とその他の有価証券とは同じ架空資本であっても区別される必要があるというわけである。
 しかしこうした主張はすべて間違いであることはすでに指摘した。彼らは国債と株式の額面が表すものの違いを、それらが架空資本として運動し、存在しているものとの区別が出来ていないのである。大谷氏の主張にも、株式そのものを架空資本と捉える誤った理解が一方であることは明らかである。しかし国債や株式もそれ自体としては決して架空資本ではないということが、こうした俗説を唱える人たちには理解されていないのである。そうではなく、国債も株式も、それらが架空資本であると言いうるのは、そられが証券として市場で売買されるところに成立する概念なのである。国債も株式も、それらが転売されないなら、一方は単なる借用証書に過ぎないし、他方もただ現実資本や剰余価値に対する権利証書に過ぎないのである。しかしそれらが証券として売買されることによって、それらは架空な資本価値を持ち、架空資本として運動することになるのである。そうしてそうしたものとして架空資本を理解するなら、国債も株式も架空資本としてはまったく同じであり、その資本価値は純粋に幻想的なものでしかなく、同じような独自の運動を行うのである。



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