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『資本論』第3部草稿(現行版第5篇)の研究(29-4)

 

『資本論』第3部第1草稿・第5章(現行版・第29章「銀行資本の構成部分」)の解読

 〔大谷禎之介《「銀行資本の構成部分」(『資本論』第3部第29章)の草稿について--第3部第1稿の第5章から--》(『経済志林』63巻1号収載)の訳文を利用〕

 (今回、解読する【5】【7】パラグラフは、本来は、マルクスが「I)」と番号を打った部分(エンゲルス版第28章該当部分)に移されるべきものであり、よって第28章該当部分の解読の最後のあたりで一定の考察を加えたものである。しかし第29章該当部分の解読をするにあたり、もう一度、補足的にとりあげることにする。)

 

【5】

 

 I )については,さらに次のような疑問も起こるであろう。いったいこのような《逼迫の》時期に足りないものはなにか,「資本」なのか,それとも「支払手段」としての規定性にある「貨幣」なのか? そして周知のように,これは1つの論争である。〉

 

 このパラグラフからは、すでに述べたように、第28章の【44】パラグラフの後に挿入されるべきではないかと私は考えたのであるが、なぜそう考えたのを理解して貰うために、その【44】パラグラフを紹介しておこう。

 

 〈購買手段としてのCirculation(「通貨」--引用者)が減少するよりも高い程度で支払手段としてのCirculation(「通貨」--同)が増加するとすれば,たとえ購買手段としての機能における貨幣が量から見てかなり減少したとしても,総Circulation(「流通量」--同)は増大するであろう。そしてこのことは,恐慌中のある諸時点で現実に起こるのである。フラ一トン等々は,支払手段としての銀行券のCirculation(「流通」--同)がこのような圧迫の時期の特徴だということを示さないので,この現象を偶然的なものとして取り扱うのである。「銀行券を手に入れようとする激しい競争はパニックの時期を特徴づけるものであり,また,ときには,1825年の終りのように,地金の流出がまだ続いている時にさえも,一時的でしかないとはいえ突然の発券増加をひき起こすこともあるのであるが,ふたたびこのような競争の実例について言えば,私の考えるところでは,このような実例は低い為替相場の自然的な,あるいは必然的な付きものとみなすべきではない。このような場合の需要は,Circulation〔」〕 (購買手段としてのCirculation(「通貨」--同)と言うべきであろう) 〔「〕のための需要ではなく,蓄蔵のための需要であり,流出が長く続いたあとに恐慌の終幕で一般的に生じる狼狽した銀行家や資本家の側からの需要であり,また,金の流出がやむことの前兆である。」〉大谷訳267-8頁)

 

 つまり逼迫期(恐慌時)には購買手段としての通貨は一般に減少するが、支払い手段としての通貨に対する需要が極めて強くなるので、流通する通貨総量としては一時的とはいえ増大する場合があることをマルクスは指摘しているのである。これは第28章のレジュメでは1825年の恐慌時のイングランド銀行券の発券高の推移を示すグラフを紹介してあるので、それを見ていただきたい。

 さて、このパラグラフについては第28章のレジュメのなかで解読したので、その部分をここに転載するだけにしておく。

 

 【マルクスはこれは当時の〈1つの論争〉であり、それは〈周知〉のことであると述べている。これは恐らく第26章に該当する部分で、マルクスが通貨学派のオウヴァストンの議会証言を引用しながら批判して取り上げている問題と同じなのであろう。そこではオウヴァストンは、議会で「資本」や「貨幣」という言葉であなたは何を実際に考えているのか、用語を混同しているのではないかと追求されているが(マルクスはオウヴァストンが「私は用語を混同していません」と答えたのに対して、「つまり貨幣と資本とを混同していないというのであるが、それは、彼がこの二つを決して区別していないという理由からである」とも批判している)、その詳しい紹介は当該箇所を検討するなかで見ていくことにしよう。】

 

 と、ここでは、第26章の当該箇所を示さずに終わっているが、今回は、その部分をここで紹介しておこう。

 

 第3758号。では,閣下は,逼迫〔pressure〕の状態のもとでは割引率が高いためにこの国の商人がおちいる困難は,資本を手に入れることにあるのであって,貨幣を手に入れることにあるのではない,と言われていると解してよろしいのでしょうか?--あなたは二つのものをいっしょにしていますが,私はそれをそういうかたちでいっしょにしているのではありません。彼らの困難は資本を手に入れることにありますが,彼らの困難はまた貨幣を手に入れることにもあるのです。……貨幣を手に入れることの困難と,資本を手に入れることの困難とは,同じ困難その進行の二つの続いて生じる段階で見たものです。」ここで魚はまたもや動きがとれない。第1の困難は,手形を割引させること(または有価証券担保の前貸を受けること)である。それは,資本を,または資本の商業的代理物的を,貨幣に転換する〔convert〕 ことの困難である。そして,この困難は,ほかの困難を度外視すれば,高い利子率に表現される。しかし,貨幣を受け取ってしまえば,第2の困難はどこにあるのか? 支払だけが問題ならば,貨幣を支払うことにどんな困難があるだろうか? また,買うことが問題ならば,そのような逼迫の時期に買うことになにか困難があったなどということを聞いた人があるだろうか? それに,かりにこれが穀物,綿花,等々が騰貴している特別な場合のことだと仮定すれば,この困難は,「貨幣の価値」に,すなわち利子に現れるのではなく、ただ商品の価格に現われることができるだけのはずである。しかしこのような困難ならば,彼が今では商品を買うための貨幣をもっているということによって,克服されているではないか。〉(179頁)
 〈第3819号。「私は用語をけっして混同してはいません。」(つまり貨幣と資本とを混同していないというのであるが,それは,彼がこの二つをけっして区別していないという理由からである。) {だから,商品が資本の形態であるかぎりでは,そして商品が売買ではたんに商品であるかぎりでは,資本と商品とについて逃げ口上を言うことができるであろう。}〉
(188頁)

 

 このように逼迫期に必要なのは貨幣なのか資本なのかが論争になっていたわけである。

 

【6】

 

 〈まず第1に,逼迫が「地金の流出」に現われるかぎりでは,要求されるものが国際的支払手段だということは明らかである。ところが,国際的支払手段としての規定性にある貨幣は,金属的現実性にある金,それ自身価値のある実体《(価値のかたまり)》としての金である。それは同時に「資本」であるが,しかし商品資本としてのではなく,貨幣資本としての資本であり,商品の形態にあるのではなく貨幣{しかもこの言葉のすぐれた意味での貨幣〔Geld im eminenten Sinn des Wortes〕であって,この意味では貨幣は一般的な世界市場商品のかたちで存在する}の形態にある資本である。ここでは,貨幣(支払手段としての)にたいする需要と資本にたいする需要とのあいだには対立は存在しない。対立は,貨幣という形態にある資本と商品という[520]形態にある資本とのあいだにある。そして,資本がここで取ることを求められている,そしてそれが機能するために取らなければならない形態は,資本の貨幣形態なのである。〉

 

 この部分についても、それほど難しいことは何も言っていないので、以前のレジュメから紹介しておく。

 

 【このようにここではマルクスは銀行学派の言葉ではなく、マルクス自身の概念を使って論じている。ここで「貨幣資本」と言われているのは、Geldcapitalであることは明らかである。つまり『資本論』第2巻で出てくる生産資本や商品資本と区別された資本の循環過程で貨幣形態をとる資本のことである。つまり地金は貨幣資本として流出するのだが、しかしその資本としての性格が問われているのではなく、国際的支払手段としての、つまり世界貨幣としての機能が問われているのだ、というのがマルクスの述べていることである。だからここで「貨幣」と言われているものも「本来の貨幣」のことであり、「貨幣としての貨幣」であることは明らかである。これもマルクスがこの28章の冒頭のパラグラフで呈示していた定冠詞のない貨幣であり、科学的な概念の一つである。】

 

【7】

 

 〈こうした地金の需要を度外視すれば,そのような逼迫期にはなんらかの仕方で「資本」が不足している,と言うことはできない。{穀物騰貴,綿花飢饅, 等々のような異常な事情のもとではそういうこともありうる。しかしそれは,けっしてこういう逼迫期の必然的な,または通例の付随現象ではない。それゆえまた,貨幣融通〔monetary accomodation〕にたいする圧迫が存在することからこのような資本欠乏の存在を結論することは,一見しただけでもできないのである。} 反対である。市場は供給過剰になっている。「商品資本」は市場にあふれている。だから,逼迫の原因は,とにかく「商品資本の欠乏」ではないのである。この問題には他の諸点を片付けたのちに立ちかえる。〉

 

 この部分も以前のレジュメによって代用。

 【ここでは、マルクスは〈こうした地金の需要を度外視すれば〉と述べ、その前のパラグラフで検討した〈地金の需要〉の場合は、その限りではそれは貨幣「資本」に対する需要でもあるとしている点に注意が必要である。だからそうした国際的支払手段に対する需要(だからそれは貨幣「資本」に対する需要である)を「度外視すれば」と述べている。つまり国際的支払手段に対する需要を度外視すれば、逼迫期に「資本」が不足しているといったことはないというのである。つまり支払手段としての貨幣「資本」以外には商品資本も生産資本も過剰になっているということである。ただ穀物や綿花の不作で、穀物騰貴や綿花飢饉が生じるような異常な事情のもとでは、確かに穀物や綿花というその限りでは商品「資本」の不足が生じることになるのだが、そうした農作物の不作と逼迫期が重なるというのは偶然であって、決して逼迫期の必然的な付随現象ではないとも指摘している。だから支払手段に対する貨幣融通に対する圧迫から、一般的に逼迫期ににおいて「資本の欠乏」をいうのは間違いである。むしろ「資本」(商品資本)は市場に溢れているのだというのが、マルクスの言いたいことである。

 マルクスは『経済学批判』では次のように述べている。

 

 《つまり、国際的交換手段としての金の役割は、資本としてのその形態規定性から生じるのではなく、貨幣としての金の特有な機能から生じるのである。同様に金が、またはそのかわりの銀行券が、国内商業で支払手段として機能するときにも、それらは同時に資本でもある。しかし、商品の形態での資本は、たとえば恐慌が明白に示すように、金または銀行券のかわりをすることはできないであろう。だから、金が支払手段になるのは、やはり貨幣としての金と商品との区別によるのであって、資本としてのそれの定在によるのではない。》 (草稿集第3巻428頁)

 

 このようにマルクスは国際商業と同様に、国内商業でも支払手段として機能する貨幣は、同時に資本でもあると指摘している。しかし、商品の形態での資本は、逼迫期に明確になるように、金または銀行券の代わりをすることは出来ないのであり、だから貨幣が支払手段になるのは、その資本としての定在によるのではなく、商品と区別された貨幣としての定在においてなのである。このような意味で、それは支払手段なのであり、だからそれは「資本の問題」ではなく「貨幣の問題」だと言い得るのである。】

 

【補足】

 

 前回(29-3)、【4】パラグラフ(つまり「 I) 」の結論部分)の解説のところで貨幣資本(Geldcapital)と貨幣資本(moneyed Capital)という二つの貨幣資本の区別の重要性について、第28章のレジュメの冒頭部分でも強調していることを指摘したが、同じような問題を、大谷氏は「貴金属と為替相場」の草稿の考察の最後の当たりで論じていることに気づいたので、その部分を紹介しておきたい。これは2008年のサブプライム金融恐慌などの金融諸現象を理解する上でも重要なところであり、十分吟味して読む必要がある。それにこの一文は、大谷氏自身も--明確に述べているわけではないが--架空資本の架空性とは何かについて、再生産論を踏まえて初めて明らかになると考えているようにも思える部分でもある(なお下線は引用者である。大谷氏が「商品」と括弧付きで書いているものは、利子生み資本の投資対象としての金融商品や土地等であり、一般の商品とは異なるものであることに注意が必要である。だからこの場合の「商品」やその「売買」は外観であって、実際の内容は利子生み資本に固有の運動の「貸借」であることも注意して読んで頂きたい)。

 

 〈「マネーが世界を駆けめぐる」現代の資本主義世界では,実物資本ないし再生産から自立化したmonied capitalの諸形態,架空資本の諸形態としてのいわゆる「金融商品」--株式,証券,オプション,デリパティブ,土地,その他の利殖機会--や「商品」としての土地の流通に必要とされる貨幣の量が巨大なものに膨れあがっている。このような貨幣も中央銀行が発行する銀行券ないしそれへの請求権の一部であって,社会的再生産を媒介する流通に必要な貨幣量と揮然一体となって,銀行の預金の一部をなしている。そこで,一見したところ,このような「商品」の流通に必要な貨幣の量も「流通に必要な貨幣量」の一部であるように見える。しかし,このような「商品」の流通に必要な貨幣量は社会的再生産を媒介する流通に必要な貨幣量とは本質的に異なるものであって,これとははっきりと区別されなければならない。それは,ありとあらゆる投資(利殖または投機)の機会ないし可能性がとる形態としての「商品」の流通に必要な貨幣であると同時に,その購買に支出されるのは,生産資本ではなくて増殖先を求めるmonied capitalであり,買われたのちにもこの「商品」はけっして再生産過程にはいらず,架空のmonied capitalの諸形態の一つにとどまる。さらに,流通貨幣の具体的な実存形態としての鋳貨準備(流通手段および支払手段の準備ファンド)とは区別される蓄蔵貨幣の形成は,現代ではそのきわめて大きな部分が,そのような増殖先を求めるmonied capitalの形成にほかならず,巨大なものに膨れあがったmonied capitalは,「商品」として買うべき増殖機会を見いだせないときにはmonied capitalとして銀行のもとに滞留するほかはない。そこで,架空なmonied capitalの流通のための「必要貨幣量」は,銀行制度を中心とする信用システムのなかで, したがってまたmonied capitalの運動と実物資本の運動との絡み合い--マルクスがまさに「5)信用。架空資本」の本論で解明しようとしたもの--のなかで,本来の社会的再生産のための「流通貨幣量」とどのように区別され, どのような仕方で絡み合っているのか, ということが問われることになる。現代の資本主義諸社会とその総体としての現代資本主義世界のなかで生じているこのような問題を具体的に分析するためには, 「資本の一般的分析」のなかで,架空資本としてのmonied capitalがとる形態としての「商品」の流通に必要な貨幣--これは結局のところmonied capitalそのものに帰着する--と実物的な社会的再生産を媒介する流通に必要な貨幣との関連が,しかも産業循環としての社会的再生産の運動の諸局面との関連において,理論的に解明されていなければならない。言うまでもなく,そのさいなによりもまず,兌換制のもとでの動きが明らかにされなければならない。マルクスが提起しながら,まだ答え終えていないと感じていた難問の一つはこの問題であって,このような意味でのmonied capitalと貨幣量との関連という問題の解明は,現代の具体的な諸問題の解明に連繋するものではないかと考えられる。〉 (93-4頁)

 

 ここでは大谷氏は〈マルクスが提起しながら,まだ答え終えていないと感じていた難問の一つはこの問題であって,このような意味でのmonied capitalと貨幣量との関連という問題の解明は,現代の具体的な諸問題の解明に連繋するものではないかと考えられる〉と述べている。確かにマルクスが「5)信用。架空資本」の本論とした「III) 」(現行版では第30-32章に該当)のなかではこの問題は十分展開されているとはいえないのであるが(その理由についてはすでに指摘したが、ただマルクスはこれもすでに指摘したように現行版の第33章では銀行学派が商品市場と貨幣市場との区別ができていないことを批判しており、その意味では原則的な回答そのものは明らかだったもいえる)、ただ『資本論』ために最後に執筆された草稿である第2部第8稿においては、この問題を原則的に解決し、この両者は、現実には、確かに渾然一体となっているが、しかし概念的には明確に区別され、両者にはまったく関連がないことを指摘している。つまり社会的な再生産を媒介するに必要な貨幣量とmoneyed Capitalという形態をとっている貨幣量とは無関係なのである。これは商品市場と貨幣市場との区別にも通じるのであるが、貨幣市場において流通する貨幣(といってもそれはmoneyed Capitalとしての貨幣資本であるが)は、商品市場において流通する貨幣(これこそ言葉の真の意味での「通貨」であるが、今日では「預金通貨」や「国際通貨」などとも言われるように、「通貨」の概念そのものも混乱している)とはおよそ関係がないのである。マルクスは第2部草稿の第8稿で拡大再生産のために必要な貨幣量を論じたところで、こうした問題を基本的に解決したのである。再生産を媒介する貨幣は基本的には(金原産地とそれが資本家によって最初に流通に投じられる場合を除いて)W-G-Wであって、つまり何らかの商品の価値の実現形態であって、その必要量は商品の価格総額(と流通速度、および信用の状態)によって決まっており、これは『資本論』の第1巻第1篇で貨幣の抽象的諸機能とその流通法則として明らかにされているものである。こうした第1篇で解明されている諸規定(諸機能)と諸法則は、貨幣がそれ以上の具体的な形態規定性(機能諸規定)を帯びようともまったく変わらないものなのである。より具体的な諸規定は抽象的な諸規定(諸機能)の根拠をより具体的に内容豊かに明らかにするだけであって、抽象的な諸規定において明らかにされた諸法則そのものが変わるわけではないからである。それに対して、moneyed Capitalはこうしたものとは本質的に区別されるものなのである。というのは、これらは再生産、つまり社会の物質代謝には直接には関連しないものだからである。それらはすべて再生産の外部における信用(貨幣信用)に基づくものであり、だから物質代謝を媒介する貨幣量とは本質的に区別されるものなのである。物質代謝を媒介する貨幣の質的内容(規定性)や量的諸法則は、あくまでも物質代謝そのもの(価格総額)とその状態(流通の速度や信用状態)に規定されている。しかしmoneyed Capitalの運動は、それに究極的には制限されながらも、相対的に自立したものとして存在し、また運動するのだからである。
 大谷氏もレキシコンの「貨幣」篇の栞No.14で〈 「『貨幣』篇への補足」について〉で貨幣の三つの規定について述べているが、最初の二つの規定は社会的物質代謝に関連するが、第三の規定はそれらとは本質的に異なるものなのである(但し大谷氏は社会的物質代謝との関連で論じているわけではないが)。この第三の規定は〈発展した生産関係のもとで貨幣そのものがまったく新たな形態規定を受け取る〉ものと述べられている。また利子生み資本の概念を論じている草稿の第21章該当部分の前書きにおいても、〈 「貨幣資本論」と「貨幣市場としての資本」 〉と題して、この両規定における貨幣の違いについて、次のように述べている。

 

 〈これは(貨幣市場で対象となる貨幣、すなわちmoneyed Capitalは--引用者),「全生産過程の最も表面的な,そして最も抽象的な形態としての貨幣流通」の分析によって明らかにされる貨幣の最も抽象的な形態諸規定が,資本の展開のなかでより具体的に規定され,より具体的な内容規定をもつようになるということ(これはこれとして重要なことではあるが)とは異なる,貨幣そのものの展開,貨幣そのものが資本関係の発展によって新たなより高次の規定性をもつものに転化していく過程である。〉 (7頁)

 

 こうしたことからも「Geldcapitalとしての貨幣資本」と「moneyed Capitalとしての貨幣資本」との区別が如何に重要であるかが分かるであろう。マルクスが銀行学派の混乱も根本的にはこの両者の混同にあると見ている所以でもあるだろう。そしてこうしたことは銀行学派に限らず、現代の自称マルクス経済学者たちにさえも(同志会の林紘義他の諸氏にも)分かっていないのである。
 また上記の一文は、少し先走って指摘すれば、後に( 【27】パラグラフで)問題になるのであるが、マルクスが銀行にある蓄蔵貨幣の一部が証券(紙)からなっており、だから「純粋に幻想的なもの」だと述べていることとも関連している。つまりここでマルクスが述べている蓄蔵貨幣というのは、あくまでもmoneyed Capitalの準備金なのである。だからそれらは蓄蔵貨幣とはいうものの、「貨幣としての貨幣」としてのそれとは異なり、単なる紙でできていたり、単なる帳簿上の記録(預金)でしかなく(もっとも現代なら大型コンピューター上のデジタル信号でしかないのであるが)、だから「純粋に幻想的なもの」なのである。

 

【補足の補足】

 

 大谷氏は、最近、氏が20年もの歳月をかけて研究され、その都度、『経済志林』誌上で発表してこられた『資本論』第3部第5章(現行版では第5篇)草稿の研究の成果を『マルクスの利子生み資本論(

全4巻)』(桜井書店2016.6.10)として上梓された。

 その第4巻「信用制度下の利子生み資本(下)」では、最初に紹介した一文も部分的に手がいられて再掲されているのであるが、それが間違ったものに改悪されているのである。その間違いは、氏の利子生み資本論の研究を台無しにしかねないものですらある。

 上記の一文のなかでは氏は、〈架空資本としてのmonied capitalがとる形態としての「商品」の流通に必要な貨幣--これは結局のところmonied capitalそのものに帰着する--〉と、いわゆる「金融商品」の流通を媒介する貨幣を、利子生み資本そのものとする理解を示している。ところが新著では、こうした観点が抜け落ちて、「金融商品」の流通に必要な〈貨幣量も、「商品」の流通に必要な貨幣の量としては、広義の「流通に必要な貨幣量」であ〉(261頁)るとしているのである。こうした理解は、「利子生み資本論」の概念そのものに関わる問題であり、そこで間違うことは決定的ですらある。極めて残念なことであるが、その批判的検討は、またその機会があると思うので、そうした事実だけをここでは補足して伝えるだけにする。

 


『資本論』第3部草稿(現行版第5篇)の研究(29-5)

『資本論』第3部第1草稿・第5章(現行版・第29章「銀行資本の構成部分」)の解読

 〔大谷禎之介《「銀行資本の構成部分」(『資本論』第3部第29章)の草稿について--第3部第1稿の第5章から--》(『経済志林』63巻1号収載)の訳文を利用〕


 今回から【8】パラグラフの解読であるが、すでに指摘したように、この【8】パラグラフは、第29章該当部分(マルクス自身が「II.」と番号を打った部分)の冒頭のパラグラフ(【1】パラグラフ)に直接繋がっており、ここから本来の第29章の課題(エンゲルスのつけた表題では「銀行資本の構成部分」)が本格的に論じられていくのである。そうした文章の繋がりが分かるように、もう一度、冒頭のパラグラフを次に紹介しておこう。

【1】 〈[519]|335上| II.こんどは,銀行業者の資本〔d.banker's Capital〕がなにから成っているかをもっと詳しく考察することが必要である。〉

 

 これを読んで、すぐに次の【8】パラグラフを読めば、その繋がり具合がよく分かるであろう(そしてそのことは、【2】【7】パラグラフは、本来は第28章該当部分--マルクスが「 I )」と番号を打った部分--に属するものだとの私の指摘の正しさが了解できるであろう)。

 

【8】

 

 〈銀行資本〔Bankcapital〕は,1)現金(金または銀行券),2)有価証券,から成っている。有価証券は,さらに二つの部分に分けることができる。〔一つは〕商業的有価証券(手形)であって,これは流動的なもの〔floating〕で,本来の業務はこれの割引のかたちでなされる。〔もう一つは〕その他の有価証券(公的有価証券,たとえばコンソル,国庫証券,等々,およびその他の有価証券,たとえばあらゆる種類の株式〔)〕,要するに利子生み証券であって,手形とは本質的に区別されるもの《(場合によってはまた不動産抵当証券〔mortgages〕も)》である。銀行資本は〔es〕,それがこれらの実物的な構成部分から成るのに加えて,さらに,銀行業者自身の投下資本〔d.invested Capital des Bankers selbst〕と預金(彼の銀行業資本〔banking capital〕または借入資本)とに分かれる。発券銀行の場合にはさらに銀行券が加わるが,銀行券はさしあたりまったく考慮の外に置くことにしよう。預金については(銀行券についてもそうであるように)すぐあとでもっと詳しく論じるつもりなので,さしあたりは考慮の外にある。とにかく明らかなのは,銀行業者の資本〔d.banker's capital〕の現実の構成部分--貨幣,手形,有価証券--は,貨幣,手形,有価証券というこれらのものが表わすのが銀行業者の自己資本であるのか,それとも彼の借入資本すなわち預金であるのか,ということによっては少しも変わらないということである。銀行業者が自己資本だけで営業するのであろうと,あるいは彼のもとに預託された資本だけで営業するのであろうと,この区分に変わりはないであろう。〉

 

 ここから「II.」の冒頭パラグラフで、〈こんどは,銀行業者の資本〔d.banker's Capital〕がなにから成っているかをもっと詳しく考察する〉と述べていた考察が始まっている。
 ところで、この冒頭のパラグラフの〈銀行業者の資本〔d.banker's Capital〕〉と今回のパラグラフの〈銀行資本〔Bankcapital〕〉とは微妙に違っている。だから大谷氏もわざわざ原文を示して、訳し分けているのであろう。似たようなものとしては、上記の本文のなかにも〈銀行業者自身の投下資本〔d.invested Capital des Bankers selbst〕〉や〈銀行業資本〔banking capital〕〉というものもある。これらはどのように違うのであろうか。同じようなよく似たものについて、他に気づいたものを並べてみると、次のようになる(あとに書いているのはそれが出てくるパラグラフ番号である)。

 

銀行業者の資本〔d.banker's Capital〕〉--【1】【8】
銀行資本〔Bankcapital〕〉--【8】に2回
銀行業者自身の投下資本〔d.invested Capital des Bankers selbst〕〉-【8】
銀行業資本〔banking capital〕〉--【8】
銀行業者資本〔Banquiercapital〕〉--【23】に2回
銀行業者の「資本」(d. "Capital“d. bankers〕〉--【34】
この架空な銀行業者資本〔dieβ fiktive Banker's Capital〕〉--【35】
銀行業資本〔d.banking Capital〕〉--【34】

 

 また第28章該当個所には銀行業者資本【31】)、銀行業資本〔Banking capital[s]〕【39】に2回)、銀行業資本〔banking capital〕 (【41】【42】)、銀行業資本〔banking Capital〕 (【42】)など同じようなよく似た表現が出てくる。そしてマルクス自身は第28章該当個所の【42】パラグラフで〈銀行業資本、つまり銀行業者の立場から見ての資本〉という説明を与えている。この場合の銀行業資本は原文を見ると〔banking Capital〕である。

 このようなマルクスによる使い分けには何か意味があるのかないのか、それらは同じものなのか、違うものなのかは、それぞれの用語が使われている前後の文脈のなかで考えていくしかないのであろう(大谷氏は、何処かでこれらについてマルクスはどういう意味を込めて使い分けているのかを説明していたような記憶があるのであるが、それを今回探してみたが、果たして記憶違いなのか、探し出すことができなかった)。ただ大谷氏は、『図解・社会経済学』で、次のように説明している。恐らく、大谷氏のこうした説明は、上記のマルクスの使い分けを踏まえたものではないかと思われる(太字やt傍点は大谷氏による)。

 

 [銀行の自己資本=本来の銀行資本]銀行の資本は二つの部分からなる。第1に自己資本である。これは、銀行業者が自ら所有する資本(株式銀行であれば株主が払い込んだ資本)であって、本来の銀行資本(bank capital)である。これに対する銀行の利潤の比率が銀行の利潤率である。自己資本は、銀行業者が運用する総資本のうちのきわめてわずかな部分にすぎない。自己資本は、なによりもまず、銀行業務を行うのに必要な固定資本(土地、建物、耐久的什器)に投下されなければならないが、この部分は、それ自体としてはけっして利子を生まない。
 [銀行の他人資本=銀行業資本]銀行業者の資本の第2の部分は他人資本である。これは、銀行業者がその顧客から受けている信用を表している部分、すなわち信用資本であって、彼らが貸し付けることによって利子を稼ぎだす資本、つまり本来の銀行業を営む資本の中心はこの資本部分である。そこでこの部分は銀行業資本(banking capital)とも呼ばれる。〉(362-3頁)

 

 しかし、もし大谷氏の説明が、マルクスの上記の使い分けを踏まえたものとするならば、マルクスが今回のパラグラフ(【8】)の冒頭〈銀行資本〔Bankcapital〕〉と述べているのは、銀行の資本のうち〈自己資本〉を意味し、その〈実物的な構成部分〉について論じていることになるが、果たしてそうした理解は正しいのであろうか。とにかく、われわれは【8】パラグラフを詳細に検討して行くことにしよう。

 

 上記の【8】パラグラフの文章を検討すると、まず指摘できるのは、最初に〈銀行資本〔Bankcapital〕は,1)現金(金または銀行券),2)有価証券,から成っている〉と書かれたあと、〈銀行資本は〔es〕,それがこれらの実物的な構成部分から成るのに加えて〉と続き、さらに途中で〈とにかく明らかなのは,銀行業者の資本〔d.banker's capital〕の現実の構成部分--貨幣,手形,有価証券--は〉云々とも書かれていることである。この文脈から考えるなら、最初の〈銀行資本〔Bankcapital〕〉の各部分は〈実物的な構成部分〉によって区別されたものであり、またそれらは後で言われている〈現実の構成部分〉と同じものと考えられる。だからこれを読む限りでは、この【8】パラグラフで言われている〈銀行資本〔Bankcapital〕〉と〈銀行業者の資本〔d.banker's capital〕〉とはほぼ同義と考えてよいであろう。だから「II.」の冒頭のパラグラフ(【1】)に出てくる〈銀行業者の資本〔d.banker's Capital〕〉は、【8】パラグラフの冒頭に出てくる〈銀行資本〔Bankcapital〕〉と同じであること、ただマルクスは【1】パラグラフで述べていることを、【8】パラグラフで言葉は変えているが同じ意味で言い返したにすぎないことが分かるのである。
 それに対して、そうしたもの(=〈銀行資本〔Bankcapital〕〉の〈実物的な構成部分〉と〈銀行業者の資本〔d.banker's capital〕の現実の構成部分〉)とは違った観点からの区別として論じている〈銀行業者自身の投下資本〔d.invested Capital des Bankers selbst〕〉と〈預金(彼の銀行業資本〔banking capital〕または借入資本)〉とに出てくる〈銀行業資本〔banking capital〕〉は、〈銀行資本〔Bankcapital〕〉や〈銀行業者の資本〔d.banker's capital〕〉とは明らかに違ったものといえる。後者の区別こそ、大谷氏が〈銀行の資本は二つの部分からなる〉として〈銀行の自己資本=本来の銀行資本(bank capital)〉と〈銀行の他人資本=銀行業資本(banking capital)〉とに区別しているものと同じと考えるべきであろう。


 だからマルクスが最初に〈銀行資本〔Bankcapital〕〉と述べているものは、大谷氏が述べている〈銀行資本(bank capital)=銀行の自己資本〉とは明らかに違った概念なのである。大谷氏のいう〈銀行資本(bank capital)〉は、マルクスが〈銀行業者自身の投下資本〔d.invested Capital des Bankers selbst〕〉と述べているものと同義と考えるべきなのである。ややこしいが、しかしわれわれはこの区別をしっかり理解しておく必要がある。

 

 とするなら、マルクスが〈実物的な構成部分〉または〈現実の構成部分〉と述べているものは、大谷氏が〈銀行の資本は二つの部分からなる〉として区別しているものとは異なる観点からのものであることが分かる。大谷氏が述べているような区分は、マルクスが述べている〈実物的な構成部分〉には何の影響も与えないともマルクスは述べている。つまりこうした〈実物的な構成部分〉として分類されたものが、銀行業者の自己資本であるのか、それとも他人資本、つまり借入資本であるのか、ということによっては少しも変わらないと述べている。その理由として、マルクスは〈銀行業者が自己資本だけで営業するのであろうと,あるいは彼のもとに預託された資本だけで営業するのであろうと,この区分に変わりはないであろう〉と述べている。ということは、マルクスが最初に述べている〈銀行資本〔Bankcapital〕〉あるいは〈銀行業者の資本〔d.banker's Capital〕〉というのは“銀行業者がその営業をするための資本”というような意味と考えられるのかも知れない。つまり銀行業者が営業をするために保持している資本全般を意味するものが〈銀行資本〔Bankcapital〕〉あるいは〈銀行業者の資本〔d.banker's Capital〕〉ということができるであろうか。だからこれは大谷氏が〈銀行の資本は二つの部分からなる〉という場合の〈銀行の資本〉とほぼ同じ意味なのである。

 いずれにせよ、マルクスが〈実物的な構成部分〉としているものを図としてまとめてみよう。

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 もう一つのマルクスが述べている区別も図にすると、次のようになる

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 ここでマルクスは、有価証券を、商業的有価証券(手形)とその他の有価証券に分けて、後者の説明として〈要するに利子生み証券であって,手形とは本質的に区別されるもの……である〉と述べている。これを読む限りでは、手形は「利子生み証券」に入らないように思えるのであるが、後に見るように、割り引かれた手形については、銀行から見れば、それは利子生み証券だとマルクスは述べている(【23】参照)。この点、やや疑問が残るが、それはそれが問題になるパラグラフ(【23】)で検討することにして、ここではとりあえずは、手形は利子生み証券には含まれないものとして理解しておくことにしよう。
 またここで注目すべきなのは、マルクスは利子生み証券のなかに〈不動産抵当証券〉を入れていることである。これは〈証券〉であるから、譲渡可能な形態にあるものと考えられる。つまり単に不動産を担保に融資した結果、銀行が不動産の抵当証書を保持しているということではなくて、不動産の抵当権が証券として流動化されたもの(いわゆる証券化されたもの)であり、そうした有価証券を利子生み資本の投資対象として銀行が保持しているか、あるいは融資の担保として預かっていると考えるべきであろう。たがら、この〈不動産抵当証券〉は、サブプライム問題における金融証券化の一つであるモーゲージ担保証券(MBS)と同じ類のものと考えることができるのである。

 

 {補注:『金融用語辞典』による「抵当証券」の説明--不動産を担保とした貸付債権を証券化して、小口販売する金融商品。
 抵当証券とは、主に中小企業者や個人事業主向けの不動産を担保(抵当)とした貸付債権を証券化して、一般投資家に小口販売する金融商品です。1931年の抵当証券法に基づいて発行されています。
 抵当証券の販売は、抵当証券会社が行います。抵当証券会社は、内閣総理大臣の登録を受けた法人です。預入期間や金利、解約手数料などについては、抵当証券会社によって条件が異なるので、購入の際に確認する必要があります。
 抵当証券は、債務者(中小企業者や個人事業主)の同意を得て登記申請を行い、法務局(登記所)から交付されます。抵当証券会社は、交付された抵当証券の原券を抵当証券保管機構に預けることが義務づけられています。抵当証券保管機構は、原券を預かると保管証を発行します。
 抵当証券会社は、抵当証券を小口化して、一般投資家に販売します。購入者は、抵当証券保管機構が発行する保管証と、抵当証券会社が発行する取引証(モーゲージ証書)を受取ります。
 抵当証券会社は、債務者が定期的に支払う返済金の中から、購入者に元利金を支払います。}

 

 さてマルクスはこうした区別について前者の〈現実の構成部分〉は、後者の区別のどこに分類されようが、前者の区別には変わりはないであろう、と述べている。これはどういうことか少し考えておこう。例えば、現金の場合は、銀行自身が投下した資本として保持しているケースはないとはいえないし、また預金として受け入れたものであるかも知れない。また有価証券なども、自己資本である利子生み資本が、とりあえずは融通先がないので、準備として保持するために、換金が容易な有価証券として保持しているケースもあるであろうし、預金や担保として受け入れたものであるのかも知れないわけである。つまりいずれも両方においてもそうしたものが銀行の資本を構成しているケースが考えられるということであろう。

 

 それ以外にいくつか注意すべきことを指摘しておく。

 (1) 「現金」に含まれる「銀行券」は法貨である「イングランド銀行券」のことであり、その後で「預金」と並んで、発券銀行の場合には付け加わる「銀行券」というものとは異なることである。後者は主に「地方銀行券」のことである。だから同じ「銀行券」でも両者には違いがある。「現金」として認められるものは、あくまでも「法貨」としての「イングランド銀行券」のみである。

 (2) また「手形」について、マルクスは「商業的有価証券」と書いているが、これは一般の産業資本や商業資本が振り出す手形であり、商業信用にもとづいて再生産的資本家たちが互いに与え合う信用にもとづいて流通しているものである。同じ「手形」でも、「銀行業者手形」はこうしたものとは区別される。これは銀行が与える信用の一形態であって、銀行が振り出す手形(為替手形)である。これは前者のものとは本質的に異なるものである。

 (3) 公的有価証券の中にある「コンソル」というのは、「コンソル公債」のことである。
 林氏はマルクスが述べている「国債」は当時のイギリスの状況を考えるなら「コンソル公債」と考えられる。だから、今日の国債とは違うと主張し、マルクスが国債を例に架空資本を説明しているのは、当時のイギリスの特殊事情によるのであって、今日の国債にはそうした説明は妥当しないかに述べている(『海つばめ』1111号3面トップ記事)が、こうした理解は果たして正しいのであろうか。確かにコンソルは確定利付きで償還期限がない永久国債であり、今日の日本ではこうした国債は発行されていない。その限りでは確かに異なるものである。しかし今日の国債でも償還期限が来ない前にその償還を要求することはできないのであり、譲渡できるだけであるという点では、両者は全く同じである。またそれらの市場価値が確定利息を平均利子率で資本還元して決められるという点でも、コンソルと今日の日本の国債とに違いは何もないのである。だからマルクスが国債を例に架空資本を説明している例は、今日の国債に関してもまったく妥当するし、国債はそれが証券として売買されていることを見ても、明らかに架空資本なのである(この点は、これからも何度も問題になるであろうが、とりあえず、その点を指摘しておきたい)。

 

 {補注:コンソル公債  コンソルこうさい (平凡社大百科辞典)
 イギリスの代表的な国債で,1751年に既存9公債を統合し借り換えて成立したconsolidated annuities(略称 Consols)が起源である。この旧コンソルは3%利付きであったが,1882年に1840年代発行の2種の公債と統合され,2.75%(1903年からは2.5%)利付きの新コンソル(別称ゴッシェン公債 Goschens)となった。それは1923年以降議会の承認で償還可能とされていたが,政府にとっては市価が安いため額面償還の利点はなく,低利率のため借換えの必要もなかったから,事実上典型的な永久公債となって存続した。26‐32年には4%利付きコンソルも発行されている。コンソル公債の価格はバンク・レートにつれて変動し,イギリスの国家信用や経済状態の指標とされてきた。第1次大戦前までそれはイギリス公債の大きな部分を構成したが,両大戦期における各種公債の大増発でその比率は減退し,61年には国債総額の3%となった。(関口 尚志)}

 

 (4) またもう一つの公的有価証券の例として上げられている「国庫証券」は、政府が短期の借入を行うときに発行するものであり、有期限のものである。

 

 {補注:国庫証券 こっこしょうけん financial bills
 国の一般会計の一時的な資金不足を補うために、財務省が発行する財務省証券などの政府短期証券(FB)のことを国庫証券と呼ぶことがあります。}

 

 とりあえず、そうしたことを指摘して、次のパラグラフの検討に移ろう。

 

【9】

 

 〈a) 利子生み資本という形態に伴って,確定していて規則的な貨幣収入は,それが資本から生じるものであろうとなかろうと,どれでも,ある資本の「利子」として現われるようになる。まず貨幣収入が「利子」に転化され,次にこの利子とともに,これの源泉である「資本」もまた見いだされるのである。〉

 

 ここからマルクスは「架空資本」の説明に移っている。先のパラグラフでマルクスは〈銀行業者の資本〔d.banker's capital〕の現実の構成部分--貨幣,手形,有価証券〉と述べていたが、これからこの三つの構成部分について、それぞれを説明していくわけであるが、その順序は、ここに並べられたものとは逆に「有価証券」から始めており(その説明が【22】まで続く)、その中で「架空資本」の説明も行っているわけである(「手形」は【23】【24】で、「貨幣」については預金と関連させて【25】【28】で検討されている)。

 

 ここでマルクスは〈利子生み資本という形態〉と述べているが、これについて、大谷氏は〈範疇としての利子生み資本の確立に伴って、ということであろう〉(エンゲルス版第21章該当個所の翻訳の14頁)と述べている。利子生み資本が範疇として確立すると、すべての資本が利子をもたらす(G-G')という観念が生まれ(「資本-利子」という、いわゆる「三位一体的定式」の一項)、それがさらに逆転して、今度は一定の定期的な貨幣収入が、すべて「利子」と観念され、それとともに、その利子をもたらす「資本」が見いだされるようになるとマルクスは述べている(ここには「利子-資本」という先程の観念とは転倒した観念が生じている)。これがすなわち「架空資本」なのである。

 本来、利子生み資本というのは、一定の貨幣額が剰余価値(平均利潤)を生むという独特な使用価値を持つ「商品」として、銀行から、産業資本や商業資本に「販売」され(貸し出され)、その結果、それによって生み出された利潤が企業利得(産業利潤と商業利潤)と利子に分割されて、その貨幣額(利子生み資本)が利子を伴って還流してくる(返済される)ことになる。だから本来利子は利潤から分割されたものである。しかしこうした逆転現象が生じると、定期的な貨幣利得の源泉が何であるかには関わりなく(だから利潤から分割されたものでなくても)、「利子」として観念されることになり、だから定期的な貨幣利得をもたらす源泉は、その原因や理由は何であれ--つまり「資本」でないものも--、「資本」として観念され、一定の「資本価値」を持つことになるというわけである。


『資本論』第3部草稿(現行版第5篇)の研究(29-6)

『資本論』第3部第1草稿・第5章(現行版・第29章「銀行資本の構成部分」)の解読

 

 〔大谷禎之介《「銀行資本の構成部分」(『資本論』第3部第29章)の草稿について--第3部第1稿の第5章から--》(『経済志林』63巻1号収載)の訳文を利用〕

 

 (前回(29-5)紹介した【9】パラグラフから、マルクスは「架空資本」の説明に移っていることを指摘したが、マルクスはさらに「架空資本」を、具体的な例を上げて説明していく。次の【10】パラグラフからは国債が例に上げられている。国債を架空資本と見るか否かは、セミナーにおいて林氏と私とが対立した点でもあり、よって当然、関連して林氏の主張を批判的に取り上げることとなった。)

 

【10】

 

 〈事柄は簡単である。平均利子率を《年》5%としよう。すると,500ポンド・スターリングの資本は(貸し付けられれば,すなわち利子を生む資本に転化されれば)毎年25ポンド・スターリングをもたらすことになる。そこから,25ポンド・スターリングの年収入は,どれでも,500ポンド・スターリングの一資本の利子とみなされる。しかしながらこのようなことは,25ポンド・スターリングの源泉がたんなる所有権原または[521]債権であろうと,あるいはたとえば土地のような現実の生産要素であろうと,この源泉が《直接に》譲渡可能である,あるいは「譲渡可能」であるような形態を与えられている,という前提のもとで以外では,純粋に幻想的な観念であり,またそういうものであり続ける。例として,一方では国債,他方では労賃をとって見よう。国家は||336上|自分の債権者たちに,彼らから借りた資本にたいする年額の「利子」を支払わなければならない。{この場合,債権者は,自分の債務者に解約を通告することはできず,ただ自分の債務者にたいする債権を,自分の権原を,売ることができるだけである。} この資本は国家によって食い尽くされ,支出されている。それはもはや存在しない。国家の債権者がもっているものは第1に,たとえば100ポンド・スターリングの,国家あての債務証書である。第2に,この債務証書は債権者に国家の歳入すなわち租税の年額にたいする定額の,たとえば5%の請求権を与える。第3に,彼はこの100ポンド・スターリングの債務証書を,任意に他の人々に売ることができる。利子率が5%であれば{そしてこれについて国家の保証が前提されていれば},Aはこの債務証書を,その他の事情が変わらないとすれば,100ポンド・スターリングで《Bに》売ることができる。というのは,買い手《のB》にとっては,100ポンド・スターリングを《年》5%で貸し出すのも,100ポンド・スターリングを支払うことによって国家から5ポンド・スターリングという額の年貢を確保するのも,同じことだからである。〉

 

 マルクスが最初に述べている部分、すなわち〈平均利子率を《年》5%としよう。すると,500ポンド・スターリングの資本は(貸し付けられれば,すなわち利子を生む資本に転化されれば)毎年25ポンド・スターリングをもたらすことになる〉という部分は、通常の「資本-利子」の観念、つまり利子生み資本の範疇が確立した現実を述べている。そしてその後に述べていること、すなわち〈そこから,25ポンド・スターリングの年収入は,どれでも,500ポンド・スターリングの一資本の利子とみなされる〉は、そこから生じる転倒した観念(「利子-資本」)を説明しているわけである。だから〈しかしながらこのようなことは,25ポンド・スターリングの源泉がたんなる所有権原(株式など--引用者)または債権であろうと(つまり価値は貸し出されて第三者に譲渡されるが、その所有権は保持しているような場合であり、すべてのローンに妥当する--同)あるいはたとえば土地のような現実の生産要素であろうと(これは25ポンドが地代の場合である--引用者)この源泉が《直接に》譲渡可能である,あるいは「譲渡可能」であるような形態を与えられている,という前提のもとで以外では,純粋に幻想的な観念であり,またそういうものであり続ける〉という説明になっているわけである。ここで〈この源泉が《直接に》譲渡可能である,あるいは「譲渡可能」であるような形態を与えられている〉というのは、例えば国債や株式などはそのまま〈《直接に》譲渡可能である〉が、土地のようなものは持っていくわけにはいかないから、「権利書」という形で〈「譲渡可能」であるような形態を与えられている〉わけである。

 ところで、大谷氏は注9)で次のように述べている。

 

 〈「という前提のもとで以外では(ausserunter der Voraussetzung,daβ)」→「という場合を除けば(auβerin dem Fall,daβ)」この部分は,「という前提のもとでも(auchunter der Voraussetuzung,daβ)」とで(も?)あるべきところではないかとも思われる。〉

 

 しかしこの部分はなかなかそう簡単には、大谷氏のようには言えないのではないかと私は思っている。マルクスが書いている文章と、大谷氏の修正とでは意味が180度違ってくる。マルクスの文章を素直に読めば、〈この源泉が《直接に》譲渡可能である,あるいは「譲渡可能」であるような形態を与えられている、という前提のもとで以外では、純粋に幻想的な観念であり、またそういうものであり続ける〉というものである。つまり直接に譲渡可能でないか、譲渡可能な形態を与えられていない場合には、〈純粋に幻想的な観念であり、またそういうものであり続ける〉と読めるわけである。ところが、大谷氏の修正だと、直接的に譲渡可能であるか、譲渡可能な形態を与えられている場合でも、〈純粋に幻想的な観念であり、またそういうものであり続ける〉ということになる。
 どうして、直ちに大谷説に賛成できないかというと、このあとマルクスは〈労働能力が国債というこの資本に対比して考察される〉場合を例として上げており、この場合は〈労働者はこの自分の労働能力の資本価値を「譲渡」によって換金することができない〉と指摘しているからである。つまり譲渡可能〈という前提のもとで以外〉のケースが考察されているわけである。そしてこの場合は労働能力を資本と観念することは、確かに〈純粋に幻想的な観念であり、またそういうものであり続ける〉と解釈できるわけである。つまり労働能力を資本と見なす観念は、ただ観念だけに止まり、実際にはそれは架空資本として運動するわけではないということである。だから上記の文章では、〈純粋に幻想的な観念であり、またそういうものであり続ける〉ということが重要なのではないかと思うわけである。つまりそれは純粋に観念の問題でしかなく、そうしたものに留まるのだ(だからそうしたものは自立した運動を持たないのだ)とマルクスは言いたいのではないかと思うのである。そしてそのように解釈するなら、エンゲルスの訂正は必ずしも間違っているとはいえないことになるわけである。ただこの部分の解釈の結論は私自身まだ出しているわけではないので保留しておく。

 そしてマルクスは続けて〈例として、一方では国債、他方では労賃をとってみよう〉と「国債」と「労賃」を例に上げて説明すると述べている(国債の説明はこのパラグラフから【12】パラグラフまで、「労賃」の説明は【13】【15】まで)。国債の場合は譲渡可能なものであり、それに対して労働能力はそうではないケースである。
 
 まずマルクスは、国債というものの直接的な表象をそのまま書いている。国債は国の借金(債務証書)であり、だから国家はその債権者たち(国債=債務証書の所有者たち)に借りた資本に対する年額の「利子」を支払わなければならない。しかしこの資本は国家によって食い尽くされ、支出されてもはや存在しない。にも関わらず、国債はそれ自体として価値があるかに現象し、その資本価値に応じた利子をもたらす、等々。
 われわれは例えば額面100万円の国債は100万円の価値があるのは当然だと思っている。しかし国債というのは、ただその紙切れに100万円と書いているだけで、それ自体が価値を持っているわけではないのは明らかである。ではそれは他に存在している100万円を代理し表すものなのかというと、やはりそれとも違うのである。というのは、国家に貸し出された100万円は、すでに国家によって支出されて存在していないからである。にも関わらず、額面に100万円と書かれた単なる債務証書にすぎない国債は、それ自体として100万円の価値があるかに現象しており、それをわれわれは当然のことと思っているわけである。だから林氏は、次のように書いている。

 

 〈例えば、(資本還元を--引用者)債券に適用しようとすると、100万円債券の利子1万円を、1%の利子率で資本還元して、債券の価格が100万円である、といった理屈になるが、空虚な同義反復でしかないことは一目瞭然であろう。〉(『海つばめ』No.1110)
 〈100万円の社債を支配的な利子率で資本還元する(それが、社債の「価値」だ?)、などと言って見ても無意味であり、矛盾である、というのは、社債の利子率もまた利子率であって、利子率を利子率で資本還元するなどといっても、何の意味もないからである。〉(同No.1111)

 

 ここで林氏は「債券」と「社債」を例に上げているのであるが、当然、「国債」も同じと林氏は考えているのである(むしろ「国債」の例を否定するために、「債券」や「社債」を例に上げて論じているわけだ)。そして確かにこれらは同じ類のものである。ただマルクス自身は「債券」というような用語は使っていないので、例によって『平凡社大百科事典』の「債券」の項目を見よう。

 

 〈公衆に対する起債によって生じた,多数の部分に分割された債務(債権)を表章する有価証券。投機証券である株券に対し,債券は確定利付の利殖証券である。狭義では,株式会社が社債について発行する社債券をいうが,広義では,発行主体の如何を問わず用いられ,国債,地方債,金庫債,公社債,公団債などを含む。〉(説明はまだ続くがこれぐらいでよいであろう)。

 

 このようにこの辞典の説明でも「債券」「社債」「国債」は同じようなものとして分類されている。だから、ここではとりあえず、「社債」を代表させて説明しよう。
 社債というのは、その実際の内容から見れば、企業の借金の借用証文である。つまり、この場合、公衆の持つ貨幣が利子生み資本として企業に貸し出されたわけである。だから当然、利潤が分割されて一定の利子が支払われる。ここまでは「資本--利子」の関係である。ところが次にそれが転倒して、「利子--資本」の関係になる。つまり社債は単なる借用証文ではない。というのは、それが証券として売り出されるのだからである(すでにこの時点で転倒が生じている。だから社債が「売り出される」場合の「売り」は外観であって、実際の内容は「借り」であり、社債の「購入」は「貸し」である)。つまり単なる定期的な利子支払いが、資本化されて、単なる借用証文が証券化されて、100万円の価値(資本価値)を持つものであるかに現象するのである。なぜなら、社債を持っている人は、それを100万円で第三者に譲渡する(売る)ことが出来るからである(この場合、社債を「売った」人は、彼の「貸し出した」利子生み資本の「返済」を受けることになる)。100万円で売れるということは、100万円の価値があるということであろう(だから社債を最初に企業から購入した人が、それを売らずに満期までただ持ち続けるだけなら、それは単なる借用証文に止まるわけだ)。
 これが林氏には〈空虚な同義反復でしかない〉ように見えるということは、林氏自身は、額面100万円の社債は100万円の価値があることが当たり前だと思っているからであろう。つまり利子生み資本という形態が生み出す幻想的な観念に取り込まれてしまって、転倒しているのに自分が転倒しているということすら分からなくなっているのである。
 しかしそもそも、ただ単に紙切れに100万円と書かれているだけなのに、それがどうして100万円の価値があるものとして通用し、販売されるのか、それは本当に奇妙なことではないのだろうか。もしそんなことがいつでもどんな場合でも通用するなら、誰でも紙切れに100万円と書いて、100万円の貨幣に変えるであろう。しかし、現実にはそんなことは不可能である。だから額面100万円の社債を持っている人が、それを100万円で売り(実際に販売される価格はその時点での証券市場の状況によって変化するのであるが、われわれはそれを今は無視しよう)、社債を手放す代わりに100万円の貨幣を入手できることは、決して当たり前のことではなく、〈空虚な同義反復でしかないことは一目瞭然であろう〉などとは言っておれない事態なのである。それは一体全体、どうしてそうなっているのか、なぜ、単なる紙切れが100万円の価値あるものとして売買されるのか、それを説明するのが、この第29章該当部分でマルクスがやっていることであり、それをマルクスは「架空資本」と名付けているのである。

 

 いずれにせよ、マルクスの説明を読んで行こう。マルクスは、国債は、それを持っている人にとっては、(1)それは国家あての債務証書(100ポンド・スターリング)である。つまり国家が100ポンド・スターリングを借りたことを証するものである。(2)この債務証書は、その所有者である債権者に、租税から年々一定額の貨幣(例えば100ポンド・スターリングの5%、5ポンド・スターリング)の請求権を与える。だからこの場合は「資本--利子」の関係自体が、一つの外観に転化している。国債の購入者は、国家に対して彼の貨幣を利子生み資本として貸し出したのであるが、しかしその貨幣商品は、その商品に固有の平均利潤を得るという使用価値として消費される(利用される)わけではない。ただ浪費されるだけで、だから利潤を生み出さない。にも関わらずやはり「利子」を生むような外観を得るわけで、その実際の内容は、租税から年々の支払いを受ける権利を表すだけなのである。(3)債権者はこの債務証書を他人に譲渡できる、つまり証券化である。ここで「利子--資本」の転倒が生じる。という条件について述べている。
 そして特に最後の譲渡可能ということについて、つまり「利子-資本」の転倒現象について、次のように述べている。

 

 〈利子率が5%であれば{そしてこれについて国家の保証が前提されていれば},Aはこの債務証書を,その他の事情が変わらないとすれば,100ポンド・スターリングで《Bに》売ることができる。というのは,買い手《のB》にとっては,100ポンド・スターリングを《年》5%で貸し出すのも,100ポンド・スターリングを支払うことによって国家から5ポンド・スターリングという額の年貢を確保するのも,同じことだからである。

 

 つまり明らかにマルクスは国債についても、その利子率で資本還元してその価値(資本価値)を求めていることは明らかであろう。つまりこの場合の100ポンド・スターリングという価値は、利子率で資本還元された価値なのである。ところが林氏は、次のように主張するわけである。

 

 〈しかしマルクスは、永久国債について仮に発言しているとしても、その場合でさえ、この国債が5ポンドという「収入」が利子率(5%?)で資本還元されて100ポンドという「資本価値」を持つ、といった議論を展開しているわけではない。100ポンドという国家証券として、国家収入の中から、100ポンドにつき5%(5ポンド)の請求権を与えるというにすぎない。〉(上掲、No.1111)

 

 一体、上記のマルクスの一文をどのように読めば、こうした解釈が出てくのか何とも不可解であるが、よく考えてみると、そのカラクリが分かる。すなわち、林氏が言っているのは、上記のマルクスの説明の(2)までである。つまり林氏は、意図的にマルクスが述べている(3)の説明を見ないふりをして無視しているのである。マルクスは(3)の説明として、わざわざ〈Aはこの債務証書を,その他の事情が変わらないとすれば,100ポンド・スターリングで《Bに》売ることができる〉と述べている。ということは、この債務証書=国債は、100ポンド・スターリングという資本価値を持つとマルクスは言っているのではないのか。どうしてそうなるのかをもマルクスは説明している。というのは、それを買うBにとって、国債を100ポンド・スターリングで買って、年々5ポンドの支払いを受けるのも、その代わりに同じ100ポンド・スターリングを企業に利子生み資本として貸し出して、年々5ポンドの支払いを受けるのも同じだからだ、というのである。つまり企業に利子生み資本を貸し出して利子を得る(つまり「資本--利子」)という関係(利子生み資本という形態)が生み出している転倒現象だとマルクスは言いわけである。
 おまけにマルクスはその前のところで〈事柄は簡単である。平均利子率を《年》5%としよう。すると,500ポンド・スターリングの資本は(貸し付けられれば,すなわち利子を生む資本に転化されれば)毎年25ポンド・スターリングをもたらすことになる。そこから,25ポンド・スターリングの年収入は,どれでも,500ポンド・スターリングの一資本の利子とみなされる〉と述べたことの具体的な例として国債を例に説明しているわけである。だからマルクスが国債の場合についても、当然、〈国債が5ポンドという「収入」が利子率(5%?)で資本還元されて100ポンドという「資本価値」を持つ、といった議論を展開している〉(林氏前掲記事)ことは当然ではないだろうか。林氏の主張は、同氏が何らかの悪しき意図にもとづいてマルクスの書いているものをねじ曲げて解釈しようとしているか、それとも善意に解釈すれば、ただ林氏自身が、利子生み資本が持つ形態に惑わされているだけとしか言いようがないものである。
 ところでマルクスは、国債の場合、年々租税から支払われるものを、「利子」とは言わずに、《年貢を確保する》という言い方をしているが、この場合は、それは産業資本が生み出した利潤が分割されて、「企業利得」と区別されたものとしての「利子」ではないとの考えがマルクスにあるからであろう。


『資本論』第3部草稿(現行版第5篇)の研究(29-7)

『資本論』第3部第1草稿・第5章(現行版・第29章「銀行資本の構成部分」)の解読

 

 〔大谷禎之介《「銀行資本の構成部分」(『資本論』第3部第29章)の草稿について--第3部第1稿の第5章から--》(『経済志林』63巻1号収載)の訳文を利用〕

 

 (前回(29-6)から「架空資本」の具体的な例を使った説明が始まり、第【10】パラグラフからは国債が例に上げられている。この国債を例にした説明は次の第【11】パラグラフまで続く。 よって、今回も国債は架空資本ではないとする林氏の主張を批判的に取り上げざるをえなかった。)

 

【11】

 

 〈しかしすべてこれらの場合に,国家の支払を子《(利子)》として生んだものとみなされる資本は,幻想的なものである,すなわち架空資本である。それは,国家に貸し付けられた金額がもはやまったく存在しない,ということばかりではない。それはそもそも,けっして資本として支出される(投下される)べく予定されていたものではなかったのであり,しかもそれは,ただ資本として支出されることによってのみ,自己を維持する価値に転化されえたはずのものなのである。最初の債権者Aにとって,年々の租税のなかから彼のものとなる部分が彼の資本の利子を表わしているのは,ちょうど,高利貸にとって,浪費者の財産のなかから彼のものとなる部分が彼の資本の利子を表わしているようなものである。どちらの場合にも,貸された貨幣額は資本として支出されたのではないのであるが。国家あての債務証書を売ることの可能性は,Aにとっては元金の還流または返済が可能であることを表わしている。Bについて言えば,彼の私的な立場から見れば,彼の資本は利子生み資本として投下されている。実際には,彼はただAにとって代わっただけであり,国家にたいするAの債権を買ったのである。このような取引がそのさき何度繰り返されようとも,国債という資本は純粋に架空な資本なのであって,もしもこの債務証書が売れないものになれば,その瞬間からこの資本という外観はなくなってしまうであろう。それにもかかわらず,すぐに見るように,この架空資本はそれ自身の運動をもっているのである。〉

 

 ここで初めてマルクスは「架空資本」という言葉を使っている。まずマルクスが〈すべてこれらの場合に〉と述べているのは、これまでの叙述から、当然、「国債」について述べていることは明らかである。そしてマルクスは、〈国家の支払を子《(利子)》として生んだものとみなされる資本〉と述べている。これはどういうことであろうか。つまり国家によって支払われる年々の「利子」は、本来は資本の生み出した利潤が分割されて企業利得と区別されたものとしての利子ではないが、しかしそれは「利子」と見なされ、それを生み出した「資本」と見なされるということであろう。つまり国債は、「利子--資本」の転倒によって「資本」と見なされたものだということである。だからそれらをマルクスは、〈幻想的なものである,すなわち架空資本である〉と述べているわけだ。ところが林氏は、次のように述べている。

 

 〈この国家証券が代表する“資産”はすでに戦争などで消尽されてしまっていて、現実にはどんな痕跡も残っておらず、そういう意味で、いわば“純粋の”空資本であることが語られているにすぎないのであって、ここでは直接に、収入の資本還元の理論を論証しようとしているわけではないのである。〉(『海つばめ』No.1111)

 

 一体、林氏は何を読んでいるのであろうか! 確かに上記の説明には「資本還元」という言葉は出て来ない(これは【16】パラグラフで、つまり架空資本の運動を論じるところで初めて出てくる)。しかしマルクスが資本還元について述べていることは明らかではないだろうか。そもそもマルクスは最初から(【9】から)資本還元そのものについて述べてきたのである。本来は「利子」でないものでも「利子」と見なされるからこそ、市場の利子率で資本還元されるのである。林氏は国債の購入者に毎年支払われるものが通常「利子」と言われているから、それは近代的な範疇としての「利子」だと思い込んでいるのである。林氏にはそれが転倒した観念であるという自覚すらないわけだ。しかしマルクスがここで言っているのは、国債の「利子」は本来の利子ではないが、しかしそうした利子とみなされるから、国債そのものもそれを生み出した「資本」と見なされ、「資本としての価値」を持つのだということなのである。だからそれは幻想的なものであり、架空資本だと述べているのである。これが資本還元でないというなら一体、何が資本還元なのであろうか。

 それに林氏は、〈この国家証券が代表する“資産”はすでに戦争などで消尽されてしまっていて、現実にはどんな痕跡も残っておらず、そういう意味で、いわば“純粋の”空資本であることが語られているにすぎない〉などとも言い張っている。しかし果たしてそうか。われわれはマルクスの文章を吟味して、検証してみよう。

 マルクスは国債が「架空資本」である理由を、林氏のように一つではなく、二つ上げている。(1)〈それは,国家に貸し付けられた金額がもはやまったく存在しない〉から、つまり林氏のいう理由である。しかしマルクスは〈ということばかりではない〉と続けている。すなわち(2)〈それはそもそも,けっして資本として支出される(投下される)べく予定されていたものではなかったのであり,しかもそれは,ただ資本として支出されることによってのみ,自己を維持する価値に転化されえたはずのものなの〉だからである。つまり国債が年々「利子」をもたらすということは、国債の購入に投じられた貨幣が自己を維持するだけでなく、年々増殖するもの(G-G')として、つまり「資本」(=利子生み資本)として存在しているものと見なされることになる。しかし、実際には国債として国家によって借り出された貨幣は、現実の資本として前貸され、利潤(つまり増殖された価値だ!)を生み出し、その一分肢として利子をもたらすわけでは決してない。そういう意味で国債の所持者に支払われる「利子」は、本来の意味での利子ではない。だからそういう資本でないものがここでは資本として見なされているのだ、だから、その資本は幻想的であり、架空資本なのだ、とマルクスは言っているのである。つまり「利子-資本」の転倒現象であることをマルクスはその理由として述べているのである。そしてマルクスのこれまでの叙述を知っているわれわれは、マルクスが、国債が架空資本である理由として述べている主要な論拠は前者(つまり林氏のいう理由)ではなく、むしろ後者に力点があることは明らかなのである。ところが、林氏はマルクスが一番力を入れて述べていることをあえて無視するのである。これがマルクスの文章に対する、悪しき意図によるねじ曲げた読み方でなくて何であろうか! こんな読み方をしていたのでは、林氏に不破を批判する資格があるはずが無い。

 次にマルクスが言っていることも同じことである。というより、むしろその前のこと、つまり(2)の理由をさらにマルクスは説明しているわけである(これを見てもマルクスが(2)の理由こそ本当に言いたいことであることが分かる)。まず〈最初の債権者Aにとって,年々の租税のなかから彼のものとなる部分が彼の資本の利子を表わしているのは〉というのは、それは本来は「資本の利子」ではないのに、彼にとっては彼が国債に投じた貨幣が自己を維持し増殖するわけだから、彼にとってはそれは資本を表し、それがもたらす年々の貨幣利得が利子を表すことになるわけである。それは〈ちょうど,高利貸にとって,浪費者の財産のなかから彼のものとなる部分が彼の資本の利子を表わしているようなものである〉。つまり高利貸しが貸し付ける貨幣も資本として前貸されて価値を生み出すわけではなく、ただ個人的消費(浪費)のために貸し出されるだけであるのに、しかし高利貸は、彼の貸し出す貨幣が、増殖して帰ってくることを期待して貸し出すのであり、だから彼にとってはそれは資本であるのと同じだと述べているのである。この場合も、高利貸しが手にする「利子」も本来の近代的範疇としての利子ではない、とマルクスは述べているのである。だからマルクスは〈どちらの場合にも,貸された貨幣額は資本として支出されたのではないのであるが〉と述べているのである。にも関わらず、それは「資本」と見なされる、というのは、それによって年々もたらされる貨幣利得が「利子」に見なされるからである、ということなのである。つまり(2)の理由をさらに説明しているわけである。

 さらにマルクスが説明していることも、やはり(2)の理由を掘り下げているのである。〈国家あての債務証書を売ることの可能性は,Aにとっては元金の還流または返済が可能であることを表わしている〉。つまり国債が転売できるということは、それを転売するAにとっては、自分が国債の購入に投じた貨幣を利子生み資本と見なすことであり、その転売は、だから利子生み資本の返済なのだ、ということである。そしてAから国債を購入する〈Bについて言えば,彼の私的な立場から見れば,彼の資本は利子生み資本として投下されている〉。つまりBは最初から彼の貨幣を利子生み資本として投下しているのだというわけである。なぜ、マルクスはここでAとBを区別して論じているのであろうか。それはAの場合は、年々もたらす貨幣利得は、国債が売り出される条件によって確定している利息だからである。だからそれはその時々の平均利子率とは関係なく、例えば確定利息が5パーセントなら、100万円の国債の場合は、5万円の貨幣利得をもたらすわけである。しかしBの場合はそうではない。Bの場合は、もしその時の平均利子率が1パーセントの場合、彼は国債を500万円で購入するのである。そして彼はその500万円の利子生み資本に対して、その利子として年々5万円の貨幣利得を得ることになるのである。だからBの場合は、明らかに彼の手にする利子は、平均利子率にもとづいた利子であるが、Aの場合は確定した利息なのである。

 しかしBの場合も客観的には、彼の投じた貨幣が、実際に利子生み資本として充用され利潤を生むわけではない。それが利子生み資本であるのは、はあくまでもBの〈私的な立場から見れば〉の話である。〈実際には,彼はただAにとって代わっただけであり,国家にたいするAの債権を買ったのである〉。つまり彼の投じた貨幣は、ただAに代わって国家から年々の貨幣利得を得る権利を買っただけであって、何も客観的な状況は変わっていないわけである。そして〈このような取引がそのさき何度繰り返されようとも,国債という資本は純粋に架空な資本なのであって,もしもこの債務証書が売れないものになれば,その瞬間からこの資本という外観はなくなってしまうであろう〉。つまり国債は架空資本であり続けるわけである。ところがこうした架空資本は、単に観念的に資本として見なされるだけではなく、それ自身の運動を持っているのだとマルクスは述べている。そしてその実際の運動を考察するのは、【16】パラグラフからである。 

 

【12】 

 

 〈(利子生み資本とともに,どの価値額も,収入として支出されないときには,資本として現われる,すなわち,その価値額が生むことのできる可能的または現実的な利子に対立して,元金principalとして現われるのである。)〉 

 

 このパラグラフは、全体が丸カッコに括られており、マルクス自身も、これをどこか適当なところに挿入するつもりであった可能性が高い。だからエンゲルスはこのパラグラフを最初の【9】とくっつけて一つのパラグラフにしたのであろう。エンゲルスのこうした措置は、その限りでは内容に則したものと言える。ここで言われていることは、【9】で言われていることとそれほど違ったものではない。範疇としての利子生み資本が確立すると、どの価値額も、収入として個人的消費のために支出される(生活手段の購入に充てられる)以外には、資本として現れてくる、つまり自己を維持し増殖する貨幣(G-G')として現れるというのである。そしてもともとの価値額はそれが生んだとされる利子に対する元金と見なされるわけである。これは、すでに見たように国債の購入に充てられた場合がそうであるし、例え産業資本家が彼自身の貨幣を生産的に投資したとしても、彼は彼自身の最初に投じた価値額を元金として計算し、機能資本家としての彼の企業利得(産業利潤)の取得とともに、彼の元金に対する利子をも要求する、つまり両者を区別して計算するわけである。

 

 

 


『資本論』第3部草稿(現行版第5篇)の研究(29-8)

『資本論』第3部第1草稿・第5章(現行版・第29章「銀行資本の構成部分」)の解読

 〔大谷禎之介《「銀行資本の構成部分」(『資本論』第3部第29章)の草稿について--第3部第1稿の第5章から--》(『経済志林』63巻1号収載)の訳文を利用〕

 

 (前回(29-7)紹介した【10】パラグラフでは、「架空資本」の具体例として国債が取り上げられたが、続く【11】もその続きであった。今回の【13】パラグラフからは「架空資本」の転倒した不可解な現象が取り上げられる。)

 

【13】

 

 〈ところで,利子生み資本一般がすべての狂った形態の母であって,たとえば債務が銀行業者の観念では商品として現われるa)ように,国債という資本ではマイナスが資本として[522]現われるのであるが,労働能力が国債というこの資本に対比して考察されることがありうる。この場合には,労賃は利子だと解され,だからまた,労働能力はこの利子を生む資本だと解される。たとえば,労賃イコール50ポンド・スターリングで,利子率イコール5%であるときには,《1年間の》労働能力イコール1000ポンド・スターリングの資本にイコールである。資本主義的な考え方の狂気の沙汰は,ここでその頂点に達する。というのは,資本の価値増殖を労働能力の搾取から説明するのではなく,逆に労働能力の生産性を,労働能力自身がこの神秘的な物,つまり利子生み資本なのだ,ということから説明するのだからである。17世紀《の後半》には(たとえばペティの場合には)これがお気に入りの考え方〔だった〕が,それが今日,一部は俗流経済学者たちによって,しかしとりわけドイツの統計学者たちによって,大まじめに用いられているのである。b)ただ,ここでは,この《無思想な》考え方を不愉快に妨げる二つの事情が現われてくる。すなわち第1に,労働者はこの「利子」を手に入れるためには労働しなければならないということであり,第2に,労働者は自分の労働能力の資本価値を「譲渡〔Transfer〕」によって換金することができないということである。むしろ,彼の労働能力の年価値はイコール彼の年間平均労賃なのであり,また,彼が労働能力の買い手に《自分の労働によって》補填してやらなければならないものは,イコール,この価値そのものプラスそれの増殖分である剰余価値,なのである。奴隷諸関係では,労働者はある資本価値を,すなわち彼の購買価格をもっている。そして,彼が賃貸される場合には,買い手は,この資本の年間損耗分ないし摩滅分プラス利子を補墳しなければならない。〉 

 

 ここからは、先に(【10】で)マルクスが〈例として,一方では国債,他方では労賃をとって見よう〉と述べていた、〈労賃〉の考察が行われている。ただマルクスはその書き出しを〈ところで,利子生み資本一般がすべての狂った形態の母であって,たとえば債務が銀行業者の観念では商品として現われるように,国債という資本ではマイナスが資本として現われる〉と述べている。つまり労働能力が資本として考えられるのは、そうした狂った観念のもっとも極端な例だとマルクスは言いたいわけである。と同時に、国債や株式など、さまざま金融商品があたかもそれ自体が価値を持っているかに売買されることも、それ自体が狂った形態なのだとも言いたいわけである。しかし注意が必要なのは、この労賃の例そのものは、架空資本の例として論じられているわけではないということである。それは【10】で述べていたように、あくまでも〈純粋に幻想的な観念であり,またそういうものであり続ける〉ものの一つの例として述べていると理解すべきなのである。
 ところで、この〈たとえば債務が銀行業者の観念では商品として現われる〉という部分に大谷氏は注3)を付けて、次のように説明している。 

 

 〈「たとえば債務が銀行業者の観念では商品として現われる」というこの表現は,マルクスが現代のいわゆる「金融商品」の観念について言及したきわめて貴重な記述であるように思われる。貸付資本では,貸し手が借り手に,資本としての規定性をもつ貨幣を「商品」として売るのであって,その「価格」が利子であり,その取引の場が「貨幣市場」である。預金について言えば,預金者がこの商品の売り手であり,銀行がそれの買い手である。ところが,この同じ預金が,銀行にとっての「商品」として現われるのである。いま,ありとあらゆる「儲け口」,「利殖の機会」が商品として観念され,そのようなものとして売買されている。これが「金融商品」である。いわゆる「デリバティブ」の商品性も,理論的にはこの延長上に理解されるべきであろう。「資本主義的な考え方の狂気の沙汰」は,まさにここにきわまることになる。〉 

 

 こうした大谷氏の評価にはそれほど違和感も異論もないのであるが、ただマルクスが〈債務が銀行業者の観念では商品として現われる〉と言っているのは、ここに原注a)が付けられていることを見ても(これについては次の【14】で問題にするが)、やはり預金や銀行券なども銀行から見れば債務であるが、それは銀行にとっては再生産的資本家に売り出される(貸し出される)「商品」だということと考える方が妥当のように思える。もちろん、銀行が証券会社を兼ねているなら、彼らはいわゆる「金融商品」も扱うのであり、国債や社債、あるいはサブプライムローンなどもすべてそれらは直接には債務証書であり、それを証券化して販売するわけである。つまり債務を商品として売り出すわけだ。
 また、ここで大谷氏は〈預金について言えば,預金者がこの商品の売り手であり,銀行がそれの買い手である〉と述べているが、果たしてそうした観念は一般的であろうか。預金者が彼の貨幣を銀行に預金するとき、彼は貨幣を「商品」として銀行に「売る」という観念を持つだろうか。確かに彼も利子率の高い銀行を選んで預金し、銀行も預金の獲得にしのぎを削るのであり、その限りでは、そこにも貨幣市場あると言えないこともない。しかし一般には、預金者が預金する場合には、そこにそうした貨幣市場を意識するかというとそれは希薄ではないだろうか。これはあまり本質的な疑問ではないが、指摘しておきたい。

 

 ところでマルクスは〈労働能力が国債というこの資本に対比して考察されることがありうる〉と述べている。なぜ、「国債」なのかというと、それはコンソル公債をマルクスは前提して述べているからであろう。つまりそれは年金のように永久に貨幣利得をもたらすものなのである。だから労働能力もそうしたものと同じだというわけである。そして〈この場合には,労賃は利子だと解され,だからまた,労働能力はこの利子を生む資本だと解される(「利子-資本」の転倒だ--引用者)。たとえば,労賃イコール50ポンド・スターリングで,利子率イコール5%であるときには,《1年間の》労働能力イコール1000ポンド・スターリングの資本にイコールである〉と。
 そのあと、マルクスが述べていることも、あくまでも観念や《思想》の問題としてである。それが〈狂気の沙汰〉であるのは、〈資本の価値増殖を労働能力の搾取から説明するのではなく,逆に労働能力の生産性を,労働能力自身がこの神秘的な物,つまり利子生み資本なのだ,ということから説明するのだからである〉。しかしマルクスは労働能力が利子生み資本だというのはただ観念の問題に止まり、実際にはそれは架空資本としては現れない理由を次のように述べている。〈第1に,労働者はこの「利子」を手に入れるためには労働しなければならないということであり,第2に,労働者は自分の労働能力の資本価値を「譲渡〔Transfer〕」によって換金することができないという〉事情である。特に第2の理由は、架空資本にならない根拠として決定的であることは、これまでのマルクスの説明から見ても明らかであろう。そして現実の関係は、次のようなことだと指摘している。


 すなわち〈むしろ,彼の労働能力の年価値はイコール彼の年間平均労賃なのであり,また,彼が労働能力の買い手に《自分の労働によって》補填してやらなければならないものは,イコール,この価値そのものプラスそれの増殖分である剰余価値,なのである〉と。


 そしてマルクスはついでに奴隷諸関係についても言及し、次のように述べている。〈奴隷諸関係では,労働者はある資本価値を,すなわち彼の購買価格をもっている〉。もちろん、この場合〈購買価格を持っている〉というのは、奴隷自身に値札が付けられているということであって、奴隷が自分自身を商品として売り出すために、奴隷としての自分自身の所有者であるわけではない。奴隷所有者が別にいて、彼が奴隷を売るために、奴隷に値札を付けるのである。その結果、奴隷は〈購買価格を持っている〉だけである。〈そして,彼が賃貸される場合には,買い手は,この資本の年間損耗分ないし摩滅分プラス利子を補墳しなければならない〉。もちろん、買い手(借り手)が補填するのは奴隷自身に対してではなく、奴隷を貸し出した奴隷所有者に対してである。
 ところでこの部分にも大谷氏は注24)、25)と二つの注をつけて、次のように述べている。

 

 〈24) 「買い手は,この資本の年間損耗分ないし摩滅分プラス利子を補填しなければならない」→「賃借り人は,第1にこの購買価格の利子を支払わなければならず,なおそのうえにこの資本の年間損耗分を補填しなければならない」
 25) 前注に記した,マルクスの原文とエンゲルスが手を入れた文章との違いに注目されたい。エンゲルス版では,まず「第1に」利子を支払い.「そのうえになお」資本の年間損耗分を補填しなければならない,というのであるから,この取引はまずもって資本の貸付ととらえられているわけである。しかし,草稿では,まず「この資本の年間損耗分ないし摩滅分」があり,それに利子が「プラス」されなければならない,となっている。この文は,いわゆる「賃貸借〔Vermietung〕」がまずもって売買であることを示唆している。エンゲルスの手入れは微妙に原文の意味を変えているのである。〉

 

 この問題に言及すると、大幅に横道に逸れることになる。だから簡単に論じておく。友人のT氏(彼は大谷氏が主宰する研究会に参加している)によれば、大谷氏にはこの問題について一定の拘りがあるそうである。そして大谷氏によると、マルクスが第21章で商品の貸し付け(つまり賃貸借である)まで利子生み資本の範疇に入れているのは、マルクスの勘違いであろうと考えているのだそうである。だからここでも大谷氏はエンゲルスのわずかの手直しにも拘っているわけである。ただ恐らく大谷氏の認識に欠けているのは、マルクス自身は「賃貸借一般」を問題にしているわけではないということである。マルクスは『経済学批判』のなかで貨幣の支払い手段としての機能を論じたところで、賃貸住宅を例に上げて論じているが、あの場合は確かに大谷氏のいうように家屋の使用という使用価値を持つ商品の売買であることは明らかなのである。そして家屋の場合には、その使用価値の譲渡の仕方が特殊であり、例えば一カ月かけてその使用価値は借り主に譲渡されるのであり、だからその使用価値が譲渡され尽くした一カ月後に、その商品の価格は支払われるわけである(だからこの場合、貨幣は支払い手段として機能する)。この場合、家主は店子に家屋を一カ月使用するという商品の価値を貸し付けるわけである。そしてその使用価値の譲渡が済み次第、その価値の支払いを受けるわけである。だからこの場合にも債権・債務関係が生じていることは確かである。しかし店子はその住宅を彼自身の生活のために、つまり個人的収入として消費するわけである。だからこの場合は、物質代謝の一環なのである。だからこそ、この場合の賃貸借は明らかに売買なのである。それは再生産資本家たちが相互に与え合う信用(商業信用)も、基本的には商品の売買であり、その流通の一環であることと同じである。しかしマルクスが第21章で利子生み資本の範疇として述べている商品の貸し付けはそうしたものではない。それはあくまでも物質代謝の外部からの価値の貸し付けなのである。そういう意味で、マルクスはそれを利子生み資本範疇に入れているわけである。だから、奴隷の賃貸業者が奴隷を貸し付ける相手も、その奴隷を使って商業的作物を作り儲けようとしている資本家であることを、マルクスはここでは前提して、このように述べていると考えることができる。だからこの場合、マルクスが「買い手」と述べているのは、利子生み資本が「商品」として「買われる」のと同じ様な意味で、すなわち一つの外観として(だから文字通りの商品の売買としてではなく)述べていることは明らかなのである。 

 

【14】

 

 〈【原注】|336下|a)〔ヘンリ・ロイ〕「為替の理論」を見よ。〉

 

 これは先のパラグラフの〈たとえば債務が銀行業者の観念では商品として現われる〉というところに付けられた原注a)であるが、 ただこのように〈〔ヘンリ・ロイ〕「為替の理論」を見よ〉とあるだけである。『為替の理論』の頁数も何も書かれていない。これではどうしようもない。だからエンゲルスはこの注を削除したのであろう。しかしヘンリ・ロイの『為替の理論』(実際は『為替相場の理論』であるが)からの引用は、ちょうど、第28章でマルクスは行っていたのである(第28章該当部分の草稿の【47】パラグラフ)。恐らくそれをマルクス自身も考えていると思えるので、それをここでは紹介しておこう。

 

 〈「あるおりに,ある握り屋の老銀行家がその私室で,自分が向かっていた机のふたをあけて,1人の友人に幾束かの銀行券を示しながら,非常にうれしそうに言った。ここに60万ポンド・スターリングがあるが,これは金融を逼迫させるためにしまっておいたもので,今日の3時以後にはみな出してしまうのだ,と。この話は,…… 1839年の最低位のCirculation(流通高?--引用者)の月に実際にあったことなのである。」((へンリー・ロイ『為替相場の理論』,ロンドン,1864年,81ページ。)〉269-70頁) 

 

 この28章での引用には、大谷氏の次のような注がついている。 

 

 〈1) へンリー・ロイ『為替相場の理論』からのこの引用は,最後の文を除いて,第1部第3章第3節「支払手段」のなかで,「このような瞬間が「商業の友(amis du commerce)」 によって,どのように利用されるか」,という例として引用されている(MEW,Bd.23,152-153ページ,注10)。〉 

 

 だから、マルクスが〈たとえば債務が銀行業者の観念では商品として現われる〉ということで、恐らく銀行券のことを考えて、このように述べているのではないかと思うわけである。すでに述べたように、銀行券や預金は銀行からすれば債務だからである。 

 

【15】

 

 〈【原注】 b) たとえば,V.レーデン『比較文化統計』,ベルリン,1848年,を見よ。「労働者は資本価値をもっており,それは,彼の1年間の稼ぎの貨幣価値を利子収益とみなすことによって算出される。……平均的な日賃銀率を4%で資本還元すれば1人の男子農業労働者の平均価値は,オーストリア(ドイツ領)では1500ターレル,プロイセンでは1500 ターレル,イングランドでは3750ターレル,フランスでは2000ターレル,ロシア奥地では750ターレル,等々となる。」(434ページ。)〉

 

 この原注は【13】パラグラフの〈17世紀《の後半》には(たとえばペティの場合には)これがお気に入りの考え方〔だった)が,それが今日,一部は俗流経済学者たちによって,しかしとりわけドイツの統計学者たちによって,大まじめに用いられているのである〉に付けられたものである。【13】パラグラフの解読のところでは省略したが、ここでペティとあることについては、MEGAの注解があり、次のような説明がある。 

 

 〈① 〔注解)「ぺティの場合」--マルクスがここで引きあいに出しているのは,ペティの労作『アイァランドの政治的解剖』に付された書『賢者には一言をもって足る』の8ページに見られる次の箇所であろう。--「わずか15百万〔ポンド・スターリング〕の収入しか生みださない王国の資材(Stock) が,250百万〔ポンド・スターリング〕の値があるところからすれば. 25(百万ポンド・スターリング〕を生みだす人民は. 416 2/3百万〔ポンド・スターリング〕の値がある。」 (大内兵衛・松川七郎訳『租税貢納論』.岩波文庫,1952年,175-176ページ。〕〉

 

 要するに、どちらも賃金(収入)を利子と考えて資本還元して労働力の資本価値を求めている例として引用されていることが分かる。この部分はこれ以上の説明は不要であろう。 

 



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