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哲学との出会い

私は、哲学者のカントを好きになって、哲学を始めました。しかし、だんだんと物を考えるうちに、これではだめだと思うのです。

 

好きな人を思って哲学をしてはだめだと・・・。

 

私はカントから自立しようと思い始めました。それは、私のプライドでした。カントの研究者ではいたくない、自分でも、物を考えたいという・・・。


人を好きになる

そんな時、私は40才手前を迎え、一人の異性に心魅かれました。私はカントさんだけだと思って独身を貫いてきたのに・・・と苦々しく思いながらも、心はその人へのあこがれと切なさでいっぱいになりました。

 

ダメだ、カントを忘れることなどできない、でも、カントは250年前の哲学者、生きていて目の前に現れることのできるその人への思いには、勝てなかったのです。

 

私は苦悩しました。カントさんのために独身を貫いてきたのにと。でも、その恋はあっけなく終わりました。その人には相手がいて、私はふられたのです。

 

ここで、哲学してみます。恋愛とは何か・・・。

カントは独身を通し、恋愛をしなかったと言われています。

私は、やっと理解しました。

そうだ、私は恋愛を哲学して、カントがしなかった哲学をしていくのだ。それも、カントの哲学をおこがましくも利用しながら。


もうひとつの出会い

やがて、もうひとつの出会いがありました。次の恋こそ、前よりもっと深いものでした。でも、私はやはり実らせる気はありませんでした。

この機会に徹底的に愛を哲学しようと思いました。

 

上原愛加という、恋愛や女子の生き方についてたくさん著書を書いている方がいますが、その方の本も読んでみました。

 

感想は、「なんて甘い考え方」です。

 

長い間、孤独に哲学と向き合ってきた私は、身を焦がすような二つの恋と出会えました。ひとつは終わり、もうわずかな未練もありません。今、私は人生最大の恋をしています。

 

もし、私が上原愛加さんの本のような、自分を甘やかす生き方をしていたら、この二つの恋とは出会えず、相手も、私にいつか愛想をつかすはずだと思いました。

 

愛は、生ぬるいものではありません。厳しさの中で、厳しい生き方の中で、見つかるものなのです。

 

何故なら、「生きていること」の厳しさを知らないことには、真に相手を心から求めることはないからです。


カントの純粋理性批判の、「公理」

カントが理性を批判して神への思考の限界を知ろうとした、純粋理性批判という名著の中に、「公理」という言葉が出てきます。これは、神の世界へ放射状に向かう、理屈の糸だと考えて下さい。どうしてこの「公理」が必要で、カントがこの言葉を用いないといけなかったかというと・・・

 

深い理屈があるのです。

 

好きな人は、肉体のある人は、一人に限定される。私も、今の方を愛し、前の人は心からすっかり消えました。

 

しかし、カントへの愛は心の根底に深く刻まれています。どうしてこの現象が起きるか・・・それは、さらに純粋理性批判を読んでいけば、解けていきます。

 

カントは、「公理」を用いて、放射状に上へとアプローチした。しかし、それではだめなのです。

先ほどの、上原愛加さんの話に戻りますと、やはり、正しい?恋愛書だけあって、一途な恋について書いています。

 

しかし、カントは無意識に、「公理」によって、この世界の恋愛観を否定しているととらえるとどうでしょうか。


説明

説明します。愛とは、直感でもあります。カントの「直観形式」とは、少し異なるのですが、「認識」が始まる段階のことです。

 

この段階は、この世界の泥に隠されているのです。特に、上原愛加のような、自分を甘やかす女性によって。

ここに、鋭いメスを入れているのが、カントの、「直観形式」なのです。これは、時空を主観の側に引き寄せるという、一見無謀なことなのですが、(考えてみて下さい。時空は確かに、私達の主観でなく、客観的なものであると考えるのが普通です。)

 

急転直下、この世界を真っ直ぐ貫く事態が発生します。それが、本気の恋です。

 

これが、斜めに分散されているのが公理なら、カントは恋愛を経験せずに、上から時空を爆撃して主観に撃ちおろし、公理という放射能をつくっているのです。

 

恐ろしい話ですが、恋愛の毒による放射能です。だから、カントは、アンチノミー(二律背反)という、神世界への矛盾を書いて、放射能を封じたのです。



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