ア・プリオリな綜合判断
絶対に間違った生き方を一度もしない人はこの世にいません。取り返しのつかないことをしてしまうこともあります。
それと戦っているのが、カントのア・プリオリな綜合判断ととらえてみましょう。
ア・プリオリな綜合判断とは、私なりに書けば、神の真理に人間がとどくことです。
これが可能かどうか、カントは書いているのですが、そのために苦闘しているのが純粋理性批判と言っていいでしょう。
人生の過ち
人間は間違いを繰り返す生き物です。時に、差別をします。これこそが、ア・プリオリな綜合判断を倒壊させるものです。差別は、取り返しがつかない罪なのです。
宗教は、差別を生みます。自分たちだけが正しいと思わせます。上辺が美しくはなりますが、底はドロドロになります。
カントの時代、ヨーロッパはキリスト教中心の世界でした。カントはまさに、差別や偏見と戦っていたと思うのです。
心の奥底の泥を捨てる
カントは、規則正しい生活をしました。あえてそうしないと、美しい書は書けないと思っていたのでしょう。私達は、カントのようには生きられないと思うのですが、常に心の泥、毒を浄化することはできます。
私は、一つの指輪を8年間、カバンの中にしのばせていました。最近、その指輪を捨てました。心の毒と共に・・・。
ここで、カントのア・プリオリな綜合判断を、私なりに読めば、心の毒をいかに捨てて行けるかということを書いているということを、私が勝手にとらえたい理由を知ってください。その理由を書きます。
倒壊しない家
カントはア・プリオリな認識の説明に、次のような例えを用いています。
人は、誰かが自分の家の土台を掘りくつがえしたとすれば、その人について、彼は自分の家が倒れることをア・プリオリに知ることができたと、言い換えれば、自分の家が実際倒れたという経験を待つ必要がなかったと言う。
これは、経験なしの認識であり、ア・プリオリな認識と言われます。
綜合判断とは、もっと、神に近い認識であると、私は思います。
人の経験をはるかに飛び越えているのです。神の摂理と言っていいと思います。
純粋理性批判は、倫理学の本ではありませんが、私はこの本の中から倫理を読み取ってみたいと思います。
捨てた指輪
私は自分のことを悪い人間だと思っています。8年間大事にした指輪も、悪い心と共に捨てました。
その指輪は私にとって生きる軸でした。
カントの先ほどの例えの、倒壊する家の土台と同じです。
しかし、私の心は倒壊しなかった。
私は思うのです。カントは純粋理性批判で決して倒壊しない理論を必死に打ち立てたと。それが、ア・プリオリな綜合判断だと。