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―私とあなたの間にあった、あの愉しかった日々を無かったことなんて、できるはずがないじゃない。
 私は今でも、あなたを愛しているのよ。でも、一度、あなたに嫌われたという事実をどうしても乗り越えることができないの。もし、あなたがいつかまた私に飽きるときが来たら、私はどうすれば良いの?
 あなたにいつか嫌われるくらいなら、いっそのこと今、想い出が綺麗な中に、あなたの側から姿を消した方が良い。そう思ったの。私らしくない意気地なしな生き方だとは思うけど。
 ファソンは泣きながら階を駆け下りた。
 庭で待っていた年配の尚宮とチェジンが愕いて駆け寄ってくる。
「お嬢さま?」
 チェジンの気遣わしげな声も耳に入らず、ファソンは涙を流し、殿舎までの道のりを力ない足取りで辿った。

 翌朝、ファソンは宮殿ではなく、陳家の屋敷にいた。昨夜、ついに後宮を去り、実家に戻ってきたのである。
 突如として帰宅した娘を父ミョンソは黙って出迎えた。後宮を去った理由について問いただすこともなかった。
 今、ファソンの前には開いた扉の向こう、庭がひろがっている。七月上旬の庭には紫陽花が至る所に群れ咲いていた。
 今朝、目覚めてから見るとはなしにボウと庭を眺めている。
 そろそろ長い梅雨も明ける。紫陽花の花期の終わりが近づいたということだ。ここのところの晴天続きで、蒼色に染め上がった紫陽花も心なしか元気なく、うなだれているように見えた。
「もう梅雨も明けたのかしらね」
 聞き慣れた声が聞こえ、ファソンは緩慢な動作で顔を上げた。母ヨンオクが側に立っている。
「こう雨が降らないと、折角の紫陽花も萎れてしまうわ」
 ヨンオクはファソンの隣に座った。
「少し話しても良いかしら」
 母に言われ、ファソンは小さく頷いた。
「昔話をするわね」
 母は淡々と話し始めた。
「大昔のことよ、私には好きな男がいたの」
 ファソンの視線がチラリと動いた。
「それって、お父さまのことよね、お母さま」
 と、ヨンオクは声を潜めた。
「それが違うのよ」
「―!」
 ファソンは眼を瞠った。
「ここだけの話だけどね。嫁ぐ前に、好きな男がいたの」
「その男はどんな人だったの?」
 貞淑そのものの両班の奥方だと信じて疑っていなかった母にそのような過去があったとは。俄に信じられず、ファソンはまた興味も引かれた。
 母が遠い瞳になった。その視線は紫陽花に向けられているようでもあり、遠いはるかな過去に向けられているようでもあり、定かではない。
「実家の下僕だったわ」
「そう、だったの」
 まさか相手が使用人だとは思いもせず、ファソンは言葉もなく母を見つめる。
「とても働き者でね。同じ年頃の下僕が嫌がるような仕事でも、進んでやるようなそんな人だったわ」
「素敵な男だったのね」
 相槌を打つと、母が笑んだ。ハッと胸をつかれるような、まるで可憐な少女のような微笑だった。
「そうね、素敵な人だったと思うわ。仕事の合間に私から話しかけたのがきっかけで、色々と話すようになって、いつしか恋仲になっていたの。そんな頃、お父さまとの縁談が知り合いを通じてもたらされた」
 結局、母は父と結婚した。けれど、そこに至るまでに、母はどのように自らの心に折り合いをつけたのだろうか。ファソンはそれを知りたいと思った。
「お祖父さまとお祖母さま、つまり、私の両親はもちろん、私と彼のことを知らなかったわ。知れば、大事になったでしょうね。それでも、私は彼以外の男に嫁ぐなんて考えられず、彼に縁談があることを知らせたの。すると、彼は言った」
―二人で逃げましょう。
 その下僕の青年はヨンオクが縁談があると打ち明けた三日後の夜、二人で手に手を取って、駆け落ちしようと言った。
―二人で俺たちを誰も知らないところに行って、二人だけで新しい暮らしを始めましょう。
 彼は真摯な眼でヨンオクに言った。
「それで、どうなったの?」
 ファソンは息を呑んで訊ねた。ヨンオクは微笑んだ。
「約束の場所に行かなかったの。彼は私たちが暮らしていた村の外れにある水車小屋で待っていると言ったけれど、私は約束の時間にそこに行かなかった」
 ヨンオクは依然として遠い眼で続けた。
「翌朝、一人で約束の場所に行ってみたわ。でも、当たり前だけど、彼はいなかった」
 代わりに簪が一つ、置いてあったそうだ。飾りもついていない安物の簪だったけれど、彼がヨンオクのために買ったものであることは明らかだった。もしかしたら、二人の新しい門出の贈り物として贈るつもりだったのかもしれない。
 ヨンオクは消え入るような声で言った。
「今でも時折、考えることがあるわ。もし、約束の夜、水車小屋に行っていたら、どうなっていたかしらって。きっと私の運命も大きく違っていたでしょうね。お父さまはご立派な方で、私を妻として大切にして下された。両班に生まれ両班に嫁いだ私を人は誰も幸せな生涯だと言うでしょう。でも、もしかしたら、彼の手を取っていたら、別の人生もあったかもしれないと後悔にも似た気持ちになることがあるのも確かよ」
 ファソンにとっては、あまり知りたくなかった母の独白だ。ファソンは恐る恐る訊いた。
「お父さまと結婚したのを後悔している?」
「いいえ」
 この時、ヨンオクはきっぱりと言った。
「後悔はしていないわ。でも、彼の手を取れば良かったと今も思うことがあるのも確かなの」
「どちらとも決められないのね?」
「そうね。今となっては、どちらが良かったのかなんて判らない。ただ、あの時、私は自分の気持ちに対しては嘘をついた」
「それは、どういうこと?」
「あなたには申し訳ないけれど、お父さまとの間に恋愛感情はなかったわ。親の決めた相手に言われるままに嫁いだの」


「一緒に行こうと言われた男のことは好きだったのね」
「ええ。好きだったわ」
 ヨンオクは頷き、ファソンを見た。
「私がこんな昔話をあなたに打ち明けた理由が判るかしら」
 ファソンが首を傾げるのに、ヨンオクは笑い、幼いときのように娘の髪を撫でた。
「ファソン。親が決めた相手に文句も言わずに嫁ぐのは、両班の娘として生まれた宿命のようなものよ。私やあなただけじゃなく、他の大勢の女人も同じことだわ。皆、何も言わないけれど、好きな男がいるのに他の男に嫁がされ、泣いた女もいるでしょう。そんな中で、あなたは心からお慕いする方にめぐり逢えた。そして、その方の妻になれることが決まっている。それがどれだけ幸せで恵まれたことか。あなたは考えてみたことがあって?」
「お母さま」
「今、あの方の手を放したら、あなたはきっと後悔するわよ。何故、彼が差し出した手を取らなかったのか、自分の気持ちに正直に向き合わなかったのかと、私のように幾つになっても考えることになるわ」
 他人からうり二つだと評されるファソンそっくりの母。その母が淡い微笑を浮かべて立ち上がった。
「私が話したかったのは、それだけよ。後は自分でよく考えなさい」
 母が静かに去った後、ファソンは庭に視線を向けた。紫陽花ははや、花びらが乾いて色が茶色っぽく変わっているものもある。
 決断をしなくても、刻は流れてゆく。
 変わらないものなど、この世には何一つありはしないのだ。
 すべてが刻一刻と変化し、うつろってゆく中で、確かなものがあるとしたら、それは何だろう。
 ファソンはその後もずっと、チェジンが様子を見にくるまで、その場所で紫陽花を眺め続けた。

 今日も都漢陽の下町外れ、〝曺さんの本屋〟は、大路の賑わいが嘘のように、ひっそりと静まり返っている。
 ファソンはそっと深呼吸する。同時に大好きな紙の特有の匂いが身体中に滲み渡り、生き返った心地がした。よくぞ二ヶ月以上もの間、この大好きな場所に来なくて平気だったものだ。
 宮殿で暮らしている間は、カンが立派な王宮の書庫に連れていってくれた。あれはあれで素晴らしかったけれど、やはりファソンにとっては、下町のこの古本屋がいちばん落ち着ける場所に違いない。
 カン。ファソンは今でも忘れられない愛しい男の面影を胸にいだき、そっと心で呼ぶ。まるで手放したくない宝物を愛おしむかのように、心を込めて呼ぶ。
 今頃、どうしているだろう? また風邪を引き込んで伏せているのではないか。〝続春香伝〟を書くのに時間を忘れ果て、無理をしているのではないだろうか。
 逢いたい、逢いたいよ、カン。 
 大好きな男の名を呼びつつ、本がずらっと並ぶ本棚を眺め渡したその時、左端の最上部に初めて見る書名が眼に付いた。
「なになに、〝続春香伝〟」
 そのタイトルを見て、ファソンは眼を瞠った。慌てて伸び上がるようにしてつま先立つ。
 こんな時、カンが側にいてくれたら、すぐに取ってくれるのに。―カン。
 また、名を呼びそうになったその時。
 ファソンの頭越しに手が伸びて、〝続・春香伝〟は先客に奪い取られてしまった。
「申し訳ないですが、この本は私が先に見つけたのです」
 戸惑いがちに言い終えたファソンの上に、クスクスという笑い声が降ってきた。
「これを書いたのは、この私なんだけど」
「カン!?」
 見憶えのある薄紫のパジを上品に着こなしたカンが笑顔で立っている。
「相変わらず、ここが好きなんだね。〝本の虫〟のお嬢さん」
 彼の笑顔はどこまでも屈託がない。まるで、初めてここでめぐり逢った日に時間を巻き戻したようだ。
「小説が完成したのね」
「ああ、ファソンを歓ばせたくて、これでも頑張ったんだ」
 親に褒めて貰いたい子どものように得意げに言い、それから慌てて言い足す。
「あ、でも、別に昼の政務はサボッてないからな。ちゃんと夜に書いた」
 更にカンは早口で言った。
「そなたと一緒に夜を過ごさなくなったから、夜は時間を持て余すようになった。だから、執筆の方もはかどったんだ。だが、私はファソンと一緒の方が良い。そなたと愉しく語らって同じ寝台で眠った夜の方が良い」
 カンの頬がうっすらと上気していた。
「もう一度、ここから始めよう。私にとって妻と呼べるのはファソンしかいない。改めて求婚させてくれ。私と共に生きて欲しい」
 ファソンの瞳に大粒の涙が盛り上がった。
  常に変わりゆくこの世で変わらないもの。 今こそ知った。
 それは今、この瞬間、自分の心があなたの許に向かって流れているということ。
 たとえ何がどう変わろうと、私のこの想いだけは変わらない。
 ファソンはカンのひろげた腕に飛び込んだ。その背にカンの手がしっかりと回される。
 ファソンの結い上げた漆黒の髪に蒼い鳥を象った菫青石(アイオライト)が夏の陽差しを受けて燦めいた。


終章~そして物語は続く~

  終章~そして物語は続く~

 

 〝続春香伝〟はその後、〝曺さんの本屋〟で売られるようになり、口づてにひろまり、人気に火が付いた。
 〝春香伝〟の愛読者たちは、あの続編が出たということで、こぞって読みふけったという。売り本だけでなく貸本も数冊置いてみても、どちらもすぐに売り切れるか借りられてしまい、待ちきれずに持っている者に大枚をはたいて借り受け、自ら書き写す者まで続出したとのことだ。
 続編は、〝春香伝〟でモンリョンに不正を暴かれた使道の弟が兄の復讐を図るという筋書きである。舞台は都に移り、晴れて高官となったモンリョンは或る日、友人に誘われて妓房に上がる。
 そこで眠り薬の入った酒を飲まされ、目覚めた翌朝、彼の側で妓生が死んでいた。妓生殺害の容疑をかけられたモンリョンは義禁府に囚われの身となる。
 モンリョンの妻春香は良人の無実を信じ、男装して客として妓房に上がり、死んだ妓生の馴染み客や朋輩妓生たちの話を聞き込みして回り、ついにモンリョンを陥れたのがあの悪徳使道の弟だと突き止める。
 弟は情人でもある妓生と共謀して、その妓生がモンリョンの酒に眠り薬を入れたのだが、春香はまんまと色男になりすまし、情人を誘惑して事件の真相を彼女に話させることに成功、何も知らない女は春香に乞われるまま義禁府で証言する。
 見事、良人の無実を証した春香の評判は都でも上がり、稀代の貞女としてその名を馳せることとなった。
 この〝続春香伝〟を書いたのがまさか両班どころか、思いもかけぬ貴人だと知れば、人は腰を抜かしたに違いない。
 〝続春香伝〟の人気が都でうなぎ登りになっていたその頃、二十一歳の若き国王が中殿を迎えた。盛大な嘉礼が行われ、国を挙げての久々の慶事に、朝鮮中の民がお祝いムードに包まれたといわれている。
 

 良人たる国王にただ一人の妻として熱愛された世にも稀有な女人、それが賢宗大王の王妃仁貞王后だ。
 私が語った恋物語の主人公たちがそも誰なのか、もう、お判りかな?
 この類い希な高貴な方々のお話一つを見ても、よほどモンリョンと春香の物語よりも劇的(ドラマティツク)だと思わんかね。
 まさに、事実は小説より奇なりを地でいくような話ではないか。さて、この二人の話はこれで終わりというわけではない。
 一国の王と王妃という関係は、ただ互いに愛情があればそれで成り立つというものではない。漸く結ばれた二人ではあるが、実は、この後も紆余曲折があったのじゃ。
 二人が真の意味でこの朝鮮の王と王妃と呼べるようになるまで何があったのか。
 もし、興味があるなら、語ってみようかのう。マ、すべてを聞きたいというなら、少し長い昔語りになるかもしれんが。

                       (了)
 

     

  


  
 

 

 


アイオライト
  石言葉―和名は菫青石。石言葉は〝愛を見つめ育む〟。

青い鳥―「幸せ」の象徴。青い鳥モチーフの小物を持つと幸福になれると伝承される。 
     

 
 


あとがき

  あとがき

 

 さて、今年も残すところ数日となりました。一年が経つのは、あっという間ですね。
 今回は少しお休みを頂いていた後の復帰第一作とありなりますが、いかがでしたでしょうか。
 実のところ、私は少し前に見た韓流時代映画〝花、香る歌〟に大変感銘を受けました。時は朝鮮王朝時代末期、女性が歌うことは禁じられていたパンソリの初めての女性詠唱者となったチン・チェソンの生涯を描いた名作です。(拙作のヒロインの名前は、この名前をヒントにさせて貰いました)。あのキム・ナムギルさまも出ているということで、とても愉しみにしておりました。
 やはり、韓流時代劇は良いな、と、しみじみと思いました。
 それで、本来ならば書こうと思っていた作品があったにも拘わらず、予定を変えて、こちらの作品を書いてみました。
 拙い作品であり、突っ込みどころもあるかと思いますが、少しでも愉しんでいただけたなら幸いです。
 もしかしたら、というよりは既に決めているのですが、この作品はシリーズ化しようと考えています。この先、ファソンとカンがどのようになってゆくのか。この物語はまだまだ続いてゆく予定なので、是非、二人のその後を見届けていただけると嬉しいです。
 何かオーバーワーク気味なのと、年末で仕事の方も多忙なのとが重なって、「あとがき」もあまり気が利いたことが書けそうにありません。
 ですが、来年はまた気持ちも新たに二人の物語を心を込めて紡いでゆきたいと思います。今年一年、ありがとうございました。
 どうぞ、良いお年をお迎え下さいませね。
               東 めぐみ拝
2016/12/27

 

あとがきⅡ

 この「王の女と呼ばれて」シリーズを書いたのはもう去年の末ですから、かなり月日が経ったことになります。第一話以来、マイペースで続編を書き続けてきて、あと一話でいよいよ完結のところまでこぎ着けました。
 完結編は長くなりそうだったので、前編と後編に分けて先月、前編を書きました。私は丁度その頃、体調を崩しまして、新作執筆に取りかかるのに適当な時期ではありませんでした。
 しかし、筆の勢いとうものを考えれば、多少の無理をしても書きたいという想いが強く、普段のペースの半分に落として執筆に入りました。ありがたいというか不思議なことに、執筆途中に痛みはなく、一定の時間書き続けると痛みだし、そのまま床に倒れ込むという有様でした。どうしても動けそうにないときは痛み止めを服用して執筆を続け、何とか書き上げることができた―というのが内情です。
 小説を書くということは、これまで自分にとっては息をするのと同じくらい自然で、当たり前の行為でしたが、今回の出来事で「書ける」というのがどんなにありがたいことなのか知ったような気がします。
 実のところ、その第一話に当たるこの物語も小説サイトに発表するつもりはありませんでした。
 ただ、今朝、ブログの方にコメントを頂きまして、ふっと久しぶりに小説サイトに作品を出してみようかという気になりました。
 小説サイトに新作をアップするというのは相当の葛藤があります。私が小説サイトの活動を休止したその理由というのも、その辺りに関係があるのですが、今日は、その頂いたコメントに勇気を貰って背中を押して貰ったような気がします。
 というわけで、いつもどおりの拙い作品ですが、どうぞご覧いただけましたら幸いです。

2017/05/03  

 


奥付



王の女と呼ばれて~異説 春香伝~


http://p.booklog.jp/book/114564


著者 : megumi33
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