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 ファソンの許に大妃殿から招きがあったのは、その翌日のことである。
「どういう風の吹き回しかしら」
 ファソンは可愛らしい顔を曇らせ、チェジンに例の大妃との一件を話した。宮殿の書庫を出たところで大妃と遭遇し、あらぬ誤解をかけられ罵倒された挙げ句、頬を打たれたことを話すと、チェジンは自分のことのように憤慨した。
「許せません。たとえ国王さまのお母君といえども、あたしの大切なお嬢さまをぶつなんて。今度、逢ったら、あたしの方が大妃さまを殴ってしまうかもしれません」
 などと、真顔で怖ろしいことを言っている。
「毒でも飲まされるのかもしれませんよ」 
 と、また、さらりと続けるのに、ファソンは苦笑いしかない。
「毒を飲めというなら飲んでも良いけど、飲むなら大妃さまも一緒だわ。一人で死んであげるほど、このファソンさまは甘くないんだから。大妃さまも道連れになって頂くわ」
「まあ、お嬢さまったら」
 チェジンは笑い転げている。物騒な会話をする主従だが、どちらも大真面目な顔だ。
 ファソンが大きな息を吐いた。
「それにしても、本当に一体、何の魂胆があるのかしらね」
「さあ、それは判りませんけど、大妃さまのご招待をまさかお断りするわけにもいかないでしょうし」
 チェジンも愁い顔だ。
「毒を食らわば皿までとも言うわね。こうなったら、行くしかないみたい」
 ファソンはとチェジンは顔を見合わせ、溜息をついた。
 その日の午後、ファソンはお付きの尚宮とチェジンを伴い、大妃殿を訪れた。何か手土産が必要かと、葛と寒天で作ったゼリーをよく冷やしたのを涼しげな玻璃の器に形よく盛り、それを小卓に乗せて運ばせる。
 大妃殿の前に控えていた馬尚宮に到着を告げると、馬尚宮は大妃の意向を伺いにいった。ほどなく入るようにと言われ、馬尚宮に案内されて庭から続く階を昇り殿舎に入る。
 女官が外側から両開きの扉を開け、ファソン、お付きの尚宮、チェジンの順で入室した。
 ファソンは両脇から尚宮とチェジンに支えられ、大妃に拝礼を行った。
「忙しいところ、呼び立てて済まなかった」
 拝礼を終えて座ったところで、大妃が鷹揚に言った。皮肉かと思ったが、大妃の花のかんばせには微笑が浮かんでいるだけだ。
 どうも風向きが以前とは全然違う。眼の前の慈母観音のような女性と、金切り声でファソンを罵り叩いた夜叉のような女が同じ人だとは俄に信じがたい。
 唖然としているファソンの前に、馬尚宮が運んできた茶を置いてゆく。それこそ毒でも入っているのかと、ファソンは落ち着かない視線を湯飲みに落とした。
 と、華やかな笑声がその場に満ちた緊迫を破った。
「毒なぞ入ってはおらぬ。安心して飲まれよ、陳照儀(ソイ)」
「は、はい」
 思わず応えた後、ファソンは首を傾げた。今、大妃は何と言った? 
 ファソンの疑問を見透かしたかのように、大妃が妖艶な笑みを浮かべた。
「おや、そなたは知らなかったのか? 今日付で主上がそなたを昭媛から照儀に昇進させるという王命を出したと聞いていたが」
 ファソンは眼を見開いた。
「そのような話は一切、お伺いしておりません」
 大妃はしらっと応える。
「おや、それはおかしなこともあるものだの。当の本人が知らぬとはな」
「あの、私は」
「何だ?」
 大妃の視線に射貫かれ、ファソンは一瞬たじろいだものの、ひと息に言った。
「私はその王命を承ることはできません。国王殿下にはお暇乞いをお願い致しましたので」
「なるほど。だが、主上がその願いを聞きとどけられるとは思えぬがな。あれほど、そなたにご執心なさっておられるものを」
「大妃さまは私が主上さま(サンガンマーマ)のお側にいるのはご反対ではなかったのですか?」
 どうも態度を豹変させた大妃の真意を測りかね、ファソンは訊ねずにはいられなかった。今の口ぶりでは、大妃はむしろカンの側にファソンを置いておきたいとでも言いたげではないか!
「何とも思ったことをはっきりと申す娘よ。愚かなのか、怖れ知らずなのか」
 大妃は呆れたように言い、笑った。
「ま、それはいずれ時が明らかにしてくれようぞ」
 大妃はスと表情を引き締めた。その冷めた表情は以前、あからさまな憎しみをファソンに向けたときと同じものだ。やはり、大妃はファソンの存在を認めたわけではなかった。
 だが、何故、偽りの親しみを束の間とはいえ、示して見せる必要があったのか。
「そなたの申すとおりだ。私はそなたが今でも気に入らぬ。叶うことなら、主上のお側からさっさと追い払ってしまいたいと思うている」
 大妃は言葉を切り、綺麗に整えられた指先を見つめている。ファソンは問うた。
「私が左議政の娘だから、お気持ちを変えられたのですか?」
「それもないとは言わぬ。だがな」
 大妃は首をゆっくりと振った。
「主上のお気持ちがどうでも動かぬと知った今、そなたを疎んじて何とする? あの子は幼き折より、頑固であった。しかも、そなたの父はこれよりまたとない強力な主上の後ろ盾となろう。主上のお気持ちとそなたとの婚姻によって得る外戚の力を考えれば、敢えて私が反対する理由はどこにもない」
 大妃がどこか晴れやかにも思える笑みを浮かべた。言い換えれば、吹っ切れたともいうべき笑いでもあった。
「主上が他の娘を今後一切後宮に入れるつもりはないと宣言されたからには、そなたを後宮から追い出すわけにはゆかぬではないか」
 ファソンは首を傾げた。
「お言葉ではございますが、大妃さま。中殿さまを選ぶ選考試験は予定どおり行われ、無事に十数名の方が三次選考に進まれたとか。更にその中から五名の方が最終選考に残ったとも聞き及んでおります」
 二次選考と三次選考はほぼ時を置かずして行われた。五人の令嬢が最終選考に臨むと聞いている。即ち、最終選考に残ったということは、その五人がカンの後宮に入るのは決まったも同然であり、その五人の中から次代の王妃が立つ運びだ。
 大妃が笑い出した。何がおかしいのか、ころころと笑っている。ファソンは呆気に取られ、大妃を見つめた。


「確かにのう。五人の娘が最終選考に残ったとは聞いておる。さりながら、その娘どもが主上のお側にお仕えすることはない。それぞれがふさわしき年格好の王族に嫁すこととあいなろう」
「それは、どういうことでしょうか」
 何故、未来の王妃を選出するための試験で選ばれた令嬢が王族の妃になるのか? ファソンは皆目判らず、眼をまたたかせた。
「言葉どおりだ。主上にその気がおありにならぬゆえ、中殿選びは中止とあいなった。されど、折角最終選考まで残った娘たちを無下にもできぬ。そういうわけで、令嬢やその父親の体面を保つには、せめて適当な王族男子に娶せてやるのが良策ということになったのよ」
 ファソンは言葉もなかった。けれど、今となっては大妃に言いたいことはある。
「最初から、そのおつもりだったのですか?この度の中殿さまを選ぶための試験はかりそめのものにて、最終選考に残った令嬢方は王族に嫁がせると?」
 大妃が鼻を鳴らした。
「馬鹿なことを申すでない。本来であれば、残った令嬢たち五人はそのまま主上の側室となるはずであった。主上が聞き分けのないことを仰せゆえ、致し方なく取った苦肉の策だ」
 大妃は黙り込んだファソンを透徹なまなざしで見据えた。
「そこまで存じておるからには、そも最初から決まっていたという中殿が誰なのかも心得ておるのであろう、陳ファソン」
 ファソンは大妃の厳しいまなざしを真正面から受け止めた。
「私は中殿になるつもりはありません。そのような器ではありませんし、主上さまも私をお迎えになることをお望みではないと思います」
 埒もない、と、大妃が切り捨てた。
「認めるのは癪ではあるが、あの書庫から出てきた主上とそなたを見た時、二人が相思相愛であることは一目瞭然であったわ。何も私が望んでいるのではない。他ならぬ主上ご自身が強く望まれているのだ。中殿には陳ファソンしか望まぬと、王妃はそなたしか考えられぬと」
 ―それでも、自分は中殿にはなれない。このお話をお受けすることはできない。
 ファソンが言いかけたまさにその時、扉の向こうから女官の声が響き渡った。
「国王殿下のおなりにございます」
 刹那、ファソンの顔色が変わった。老獪な大妃はまるで研いだ爪を隠し持つ猫のようだ。素知らぬ顔で応えた。
「お通しせよ」
 ほどなく扉が開き、国王が入ってきた。その場にファソンを認め、王の整った顔も瞬時に強ばった。
「これは奇遇なこともあるものだ。嫁が機嫌伺いに来てくれたところに、息子が来るとはのう」
 大妃は立ち上がった。
「さて、邪魔な年寄りは早々に退散致すとしよう。夫婦二人だけの話もあろうゆえ、心ゆくまで話すが良い」
 意味深な科白を残した大妃が室を出てゆきかけ、つと振り向いた。
「陳照儀、いや、まもなく中殿になられるのであったな」
 わざとらしく言い直し。ファソンを強い瞳で見つめた。
「王室には一日も早い世継ぎの誕生が必要だ。私にとって大切なのは王室の存続なのだ。はっきりと申せば、主上の世継ぎを生む女が誰であれ、構いはしない。世継ぎが生まれることの方が重要だと考えている。それが、そなたが聞きたがった問いに対する私の応えだ」
―大妃さまは私が主上さま(サンガンマーマ)のお側にいるのはご反対ではなかったのですか?
 ファソンは大妃にそう訊ねた。つまりは、何ゆえ、ああまで頑なに嫁とは認めぬと言い張っていた態度を一転させたのか? その理由を今、大妃はくれたのだった。
 何と変わり身の早いというか、思考の切り替えの鮮やかなことか。いっそ小気味良いとさえ思える大妃の態度に感心もするし呆れもする。だが、それが後宮の女として、あまたの女たちの頂点に立つ中殿として生き抜いた大妃が身に付けた処世術であるのかもしれなかった。
 大妃に続いて馬尚宮も退出する。去り際、ファソンに付いてきた尚宮やチェジンがいまだにファソンの側に控えているのに対し、大妃がたしなめた。
「気の利かぬことだ。さっさとそなたらも出てゆかぬか!」
 大妃の叱声に、尚宮とチェジンが慌てふためいて部屋を出ていった。
 二人きりになった室内は、何とも気まずい沈黙が漂った。これ以上の沈黙には耐えられない。ファソンはカンに一礼し、室を出ようとした。
「―ファソン」
 背後から、カンの苦悩に満ちた声が追いかけてくる。
「昨日はごめん。そなたが私の側からいなくなると聞いて、カッとなってしまった」
 ファソンは務めて平静を装った。
「私なら平気よ。それに、後宮の女は王の女ですもの。あなたはいつでも後宮の女を好きなようにできる唯一の男でしょう。だから、私を抱いたのよね。私はそれに文句を言える立場ではないわ」
「それは違う!  ファソン、聞いてくれ。私は本当にそなたを」
 ファソンはカンの言葉に覆い被せるように言い放った。
「聞きたくないの。あなたは私に逢いもしない中から、私を嫌っていたわ。まだ見たことのない〝中殿〟に対して、物凄く冷淡だった。今更、それを聞かなかったことにはできないし、あなただって気にならないはずはないでしょう。よく考えてみたら、きっとこれで良かったと思うときが来る。だから、私はあなたの側から姿を消すの」
「私は確かに、左議政の娘を疎ましく思っていた。勝手に決められた中殿など要らないとも思った。それを否定はしない。だが、そなたと共に過ごした日々も確かに存在したはずだ。誰よりも愛しいと思い、誰よりも側にいて欲しいと願った―私が初めて愛した女がそなたであったことも事実なのだ」
 ファソンは扉を開けた。カンの声がわずかに震えた。
「それでも、そなたは否定するというのか? 私とそなたの間に必ずあったはずの感情まで、無かったものにできると?」
 ファソンは未練を振り切るように扉を後ろ手で閉めた。振り向きもしなかった。
 振り向けば、カンに取り縋ってしまいそうだったから。泣いて彼に訴えてしまいそうで、怖かったのだ。


―私とあなたの間にあった、あの愉しかった日々を無かったことなんて、できるはずがないじゃない。
 私は今でも、あなたを愛しているのよ。でも、一度、あなたに嫌われたという事実をどうしても乗り越えることができないの。もし、あなたがいつかまた私に飽きるときが来たら、私はどうすれば良いの?
 あなたにいつか嫌われるくらいなら、いっそのこと今、想い出が綺麗な中に、あなたの側から姿を消した方が良い。そう思ったの。私らしくない意気地なしな生き方だとは思うけど。
 ファソンは泣きながら階を駆け下りた。
 庭で待っていた年配の尚宮とチェジンが愕いて駆け寄ってくる。
「お嬢さま?」
 チェジンの気遣わしげな声も耳に入らず、ファソンは涙を流し、殿舎までの道のりを力ない足取りで辿った。

 翌朝、ファソンは宮殿ではなく、陳家の屋敷にいた。昨夜、ついに後宮を去り、実家に戻ってきたのである。
 突如として帰宅した娘を父ミョンソは黙って出迎えた。後宮を去った理由について問いただすこともなかった。
 今、ファソンの前には開いた扉の向こう、庭がひろがっている。七月上旬の庭には紫陽花が至る所に群れ咲いていた。
 今朝、目覚めてから見るとはなしにボウと庭を眺めている。
 そろそろ長い梅雨も明ける。紫陽花の花期の終わりが近づいたということだ。ここのところの晴天続きで、蒼色に染め上がった紫陽花も心なしか元気なく、うなだれているように見えた。
「もう梅雨も明けたのかしらね」
 聞き慣れた声が聞こえ、ファソンは緩慢な動作で顔を上げた。母ヨンオクが側に立っている。
「こう雨が降らないと、折角の紫陽花も萎れてしまうわ」
 ヨンオクはファソンの隣に座った。
「少し話しても良いかしら」
 母に言われ、ファソンは小さく頷いた。
「昔話をするわね」
 母は淡々と話し始めた。
「大昔のことよ、私には好きな男がいたの」
 ファソンの視線がチラリと動いた。
「それって、お父さまのことよね、お母さま」
 と、ヨンオクは声を潜めた。
「それが違うのよ」
「―!」
 ファソンは眼を瞠った。
「ここだけの話だけどね。嫁ぐ前に、好きな男がいたの」
「その男はどんな人だったの?」
 貞淑そのものの両班の奥方だと信じて疑っていなかった母にそのような過去があったとは。俄に信じられず、ファソンはまた興味も引かれた。
 母が遠い瞳になった。その視線は紫陽花に向けられているようでもあり、遠いはるかな過去に向けられているようでもあり、定かではない。
「実家の下僕だったわ」
「そう、だったの」
 まさか相手が使用人だとは思いもせず、ファソンは言葉もなく母を見つめる。
「とても働き者でね。同じ年頃の下僕が嫌がるような仕事でも、進んでやるようなそんな人だったわ」
「素敵な男だったのね」
 相槌を打つと、母が笑んだ。ハッと胸をつかれるような、まるで可憐な少女のような微笑だった。
「そうね、素敵な人だったと思うわ。仕事の合間に私から話しかけたのがきっかけで、色々と話すようになって、いつしか恋仲になっていたの。そんな頃、お父さまとの縁談が知り合いを通じてもたらされた」
 結局、母は父と結婚した。けれど、そこに至るまでに、母はどのように自らの心に折り合いをつけたのだろうか。ファソンはそれを知りたいと思った。
「お祖父さまとお祖母さま、つまり、私の両親はもちろん、私と彼のことを知らなかったわ。知れば、大事になったでしょうね。それでも、私は彼以外の男に嫁ぐなんて考えられず、彼に縁談があることを知らせたの。すると、彼は言った」
―二人で逃げましょう。
 その下僕の青年はヨンオクが縁談があると打ち明けた三日後の夜、二人で手に手を取って、駆け落ちしようと言った。
―二人で俺たちを誰も知らないところに行って、二人だけで新しい暮らしを始めましょう。
 彼は真摯な眼でヨンオクに言った。
「それで、どうなったの?」
 ファソンは息を呑んで訊ねた。ヨンオクは微笑んだ。
「約束の場所に行かなかったの。彼は私たちが暮らしていた村の外れにある水車小屋で待っていると言ったけれど、私は約束の時間にそこに行かなかった」
 ヨンオクは依然として遠い眼で続けた。
「翌朝、一人で約束の場所に行ってみたわ。でも、当たり前だけど、彼はいなかった」
 代わりに簪が一つ、置いてあったそうだ。飾りもついていない安物の簪だったけれど、彼がヨンオクのために買ったものであることは明らかだった。もしかしたら、二人の新しい門出の贈り物として贈るつもりだったのかもしれない。
 ヨンオクは消え入るような声で言った。
「今でも時折、考えることがあるわ。もし、約束の夜、水車小屋に行っていたら、どうなっていたかしらって。きっと私の運命も大きく違っていたでしょうね。お父さまはご立派な方で、私を妻として大切にして下された。両班に生まれ両班に嫁いだ私を人は誰も幸せな生涯だと言うでしょう。でも、もしかしたら、彼の手を取っていたら、別の人生もあったかもしれないと後悔にも似た気持ちになることがあるのも確かよ」
 ファソンにとっては、あまり知りたくなかった母の独白だ。ファソンは恐る恐る訊いた。
「お父さまと結婚したのを後悔している?」
「いいえ」
 この時、ヨンオクはきっぱりと言った。
「後悔はしていないわ。でも、彼の手を取れば良かったと今も思うことがあるのも確かなの」
「どちらとも決められないのね?」
「そうね。今となっては、どちらが良かったのかなんて判らない。ただ、あの時、私は自分の気持ちに対しては嘘をついた」
「それは、どういうこと?」
「あなたには申し訳ないけれど、お父さまとの間に恋愛感情はなかったわ。親の決めた相手に言われるままに嫁いだの」


「一緒に行こうと言われた男のことは好きだったのね」
「ええ。好きだったわ」
 ヨンオクは頷き、ファソンを見た。
「私がこんな昔話をあなたに打ち明けた理由が判るかしら」
 ファソンが首を傾げるのに、ヨンオクは笑い、幼いときのように娘の髪を撫でた。
「ファソン。親が決めた相手に文句も言わずに嫁ぐのは、両班の娘として生まれた宿命のようなものよ。私やあなただけじゃなく、他の大勢の女人も同じことだわ。皆、何も言わないけれど、好きな男がいるのに他の男に嫁がされ、泣いた女もいるでしょう。そんな中で、あなたは心からお慕いする方にめぐり逢えた。そして、その方の妻になれることが決まっている。それがどれだけ幸せで恵まれたことか。あなたは考えてみたことがあって?」
「お母さま」
「今、あの方の手を放したら、あなたはきっと後悔するわよ。何故、彼が差し出した手を取らなかったのか、自分の気持ちに正直に向き合わなかったのかと、私のように幾つになっても考えることになるわ」
 他人からうり二つだと評されるファソンそっくりの母。その母が淡い微笑を浮かべて立ち上がった。
「私が話したかったのは、それだけよ。後は自分でよく考えなさい」
 母が静かに去った後、ファソンは庭に視線を向けた。紫陽花ははや、花びらが乾いて色が茶色っぽく変わっているものもある。
 決断をしなくても、刻は流れてゆく。
 変わらないものなど、この世には何一つありはしないのだ。
 すべてが刻一刻と変化し、うつろってゆく中で、確かなものがあるとしたら、それは何だろう。
 ファソンはその後もずっと、チェジンが様子を見にくるまで、その場所で紫陽花を眺め続けた。

 今日も都漢陽の下町外れ、〝曺さんの本屋〟は、大路の賑わいが嘘のように、ひっそりと静まり返っている。
 ファソンはそっと深呼吸する。同時に大好きな紙の特有の匂いが身体中に滲み渡り、生き返った心地がした。よくぞ二ヶ月以上もの間、この大好きな場所に来なくて平気だったものだ。
 宮殿で暮らしている間は、カンが立派な王宮の書庫に連れていってくれた。あれはあれで素晴らしかったけれど、やはりファソンにとっては、下町のこの古本屋がいちばん落ち着ける場所に違いない。
 カン。ファソンは今でも忘れられない愛しい男の面影を胸にいだき、そっと心で呼ぶ。まるで手放したくない宝物を愛おしむかのように、心を込めて呼ぶ。
 今頃、どうしているだろう? また風邪を引き込んで伏せているのではないか。〝続春香伝〟を書くのに時間を忘れ果て、無理をしているのではないだろうか。
 逢いたい、逢いたいよ、カン。 
 大好きな男の名を呼びつつ、本がずらっと並ぶ本棚を眺め渡したその時、左端の最上部に初めて見る書名が眼に付いた。
「なになに、〝続春香伝〟」
 そのタイトルを見て、ファソンは眼を瞠った。慌てて伸び上がるようにしてつま先立つ。
 こんな時、カンが側にいてくれたら、すぐに取ってくれるのに。―カン。
 また、名を呼びそうになったその時。
 ファソンの頭越しに手が伸びて、〝続・春香伝〟は先客に奪い取られてしまった。
「申し訳ないですが、この本は私が先に見つけたのです」
 戸惑いがちに言い終えたファソンの上に、クスクスという笑い声が降ってきた。
「これを書いたのは、この私なんだけど」
「カン!?」
 見憶えのある薄紫のパジを上品に着こなしたカンが笑顔で立っている。
「相変わらず、ここが好きなんだね。〝本の虫〟のお嬢さん」
 彼の笑顔はどこまでも屈託がない。まるで、初めてここでめぐり逢った日に時間を巻き戻したようだ。
「小説が完成したのね」
「ああ、ファソンを歓ばせたくて、これでも頑張ったんだ」
 親に褒めて貰いたい子どものように得意げに言い、それから慌てて言い足す。
「あ、でも、別に昼の政務はサボッてないからな。ちゃんと夜に書いた」
 更にカンは早口で言った。
「そなたと一緒に夜を過ごさなくなったから、夜は時間を持て余すようになった。だから、執筆の方もはかどったんだ。だが、私はファソンと一緒の方が良い。そなたと愉しく語らって同じ寝台で眠った夜の方が良い」
 カンの頬がうっすらと上気していた。
「もう一度、ここから始めよう。私にとって妻と呼べるのはファソンしかいない。改めて求婚させてくれ。私と共に生きて欲しい」
 ファソンの瞳に大粒の涙が盛り上がった。
  常に変わりゆくこの世で変わらないもの。 今こそ知った。
 それは今、この瞬間、自分の心があなたの許に向かって流れているということ。
 たとえ何がどう変わろうと、私のこの想いだけは変わらない。
 ファソンはカンのひろげた腕に飛び込んだ。その背にカンの手がしっかりと回される。
 ファソンの結い上げた漆黒の髪に蒼い鳥を象った菫青石(アイオライト)が夏の陽差しを受けて燦めいた。


終章~そして物語は続く~

  終章~そして物語は続く~

 

 〝続春香伝〟はその後、〝曺さんの本屋〟で売られるようになり、口づてにひろまり、人気に火が付いた。
 〝春香伝〟の愛読者たちは、あの続編が出たということで、こぞって読みふけったという。売り本だけでなく貸本も数冊置いてみても、どちらもすぐに売り切れるか借りられてしまい、待ちきれずに持っている者に大枚をはたいて借り受け、自ら書き写す者まで続出したとのことだ。
 続編は、〝春香伝〟でモンリョンに不正を暴かれた使道の弟が兄の復讐を図るという筋書きである。舞台は都に移り、晴れて高官となったモンリョンは或る日、友人に誘われて妓房に上がる。
 そこで眠り薬の入った酒を飲まされ、目覚めた翌朝、彼の側で妓生が死んでいた。妓生殺害の容疑をかけられたモンリョンは義禁府に囚われの身となる。
 モンリョンの妻春香は良人の無実を信じ、男装して客として妓房に上がり、死んだ妓生の馴染み客や朋輩妓生たちの話を聞き込みして回り、ついにモンリョンを陥れたのがあの悪徳使道の弟だと突き止める。
 弟は情人でもある妓生と共謀して、その妓生がモンリョンの酒に眠り薬を入れたのだが、春香はまんまと色男になりすまし、情人を誘惑して事件の真相を彼女に話させることに成功、何も知らない女は春香に乞われるまま義禁府で証言する。
 見事、良人の無実を証した春香の評判は都でも上がり、稀代の貞女としてその名を馳せることとなった。
 この〝続春香伝〟を書いたのがまさか両班どころか、思いもかけぬ貴人だと知れば、人は腰を抜かしたに違いない。
 〝続春香伝〟の人気が都でうなぎ登りになっていたその頃、二十一歳の若き国王が中殿を迎えた。盛大な嘉礼が行われ、国を挙げての久々の慶事に、朝鮮中の民がお祝いムードに包まれたといわれている。
 

 良人たる国王にただ一人の妻として熱愛された世にも稀有な女人、それが賢宗大王の王妃仁貞王后だ。
 私が語った恋物語の主人公たちがそも誰なのか、もう、お判りかな?
 この類い希な高貴な方々のお話一つを見ても、よほどモンリョンと春香の物語よりも劇的(ドラマティツク)だと思わんかね。
 まさに、事実は小説より奇なりを地でいくような話ではないか。さて、この二人の話はこれで終わりというわけではない。
 一国の王と王妃という関係は、ただ互いに愛情があればそれで成り立つというものではない。漸く結ばれた二人ではあるが、実は、この後も紆余曲折があったのじゃ。
 二人が真の意味でこの朝鮮の王と王妃と呼べるようになるまで何があったのか。
 もし、興味があるなら、語ってみようかのう。マ、すべてを聞きたいというなら、少し長い昔語りになるかもしれんが。

                       (了)
 

     

  


  
 

 

 


アイオライト
  石言葉―和名は菫青石。石言葉は〝愛を見つめ育む〟。

青い鳥―「幸せ」の象徴。青い鳥モチーフの小物を持つと幸福になれると伝承される。 
     

 
 



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