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 カンの長い指がつうっとファソンの白い喉をなぞる。思わずピクンと身体を跳ねさせたファソンを見て、カンはひそやかに笑った。
 悪戯な指は止まらず、喉から鎖骨、更には夜着の上からこんもりと盛り上った膨らみを辿り臍の辺りをさまよっている。
 かと思うと、また上に上がって、まろやかな膨らみの辺りを中心に執拗に愛撫している。何故なのか、彼の気まぐれな指が通ってゆく度に、夜着を隔てているのに、触れられた箇所から言いようもない震えが走り、身体がビクビクと跳ねてしまう。
 恥ずかしいことに、その度に声が上がってしまうのだ。しかも、その声はこれまで耳にしたこともない、自分でも耳を塞ぎたくなるような艶を帯びた声だった。
 ファソンはあまりのはしたなさに頬に朱を散らした。狼狽して、両手で口を覆い、声が洩れないようにする。
「我慢しなくて良いんだ」
 真上から覗き込むカンに優しく諭された。
「でも」
 更に紅くなったファソンを見て、カンが笑う。
「可愛い」
 彼の美しい面に意地の悪い笑みが浮かんでいる。こういう不敵な表情を見せるときは大抵、良からぬことを考えているのだと、ファソンはもう知っている。
「そんな可愛い表情を見ると、もっと虐めて啼かせたくなる」
 いきなり唇を奪われる。今度の口づけ(キス)は最初のとは異なり、飢えた獣に烈しく貪られる小動物になった気分のような―身体ごと喰らい尽くされるような獰猛さを帯びていた。
「少し怖い。何だか、いつものカンと違うみたいで、頭から食べられてしまいそう」
 正直に打ち明けると、カンはひそやかに笑った。
「確かに今は、ファソンの全部を食べてしまいたい気分だ。ずっとお預けを喰らってきたからね。その分、烈しくなるのは仕方ないかもしれない。もちろん、できるだけ怖い想いや痛い想いをさせないように優しくはするつもりだけど」
「お預け?」
 きょとんとするファソンの唇を〝シッ〟とカンが人差し指で封じた。
「静かに」
 そして、改めてファソンをこの上なく慈しみのこもった瞳で見つめた。
「愛してる、ファソン」
 やがて、彼の夜色に染まった深い瞳の奥底で焔が燃え上がった。先ほどまでの優しさとは相反する猛々しい男の欲望が閃く瞳がファソンを見降ろしている。
 寝台脇の灯火がひそやかに照らし出す中、壁に映った二つの影が重なり、もつれ合う。
 しばらく後、国王の寝所の灯りが消えた。静まり返った夜陰の底を時折、かすかな衣擦れの音と喘ぎ声がなまめかしく這う。
 外は夏の夜、紫紺の空が都全体を覆うようにひろがり、満ちた月が静かに宮殿の銀色に燦めく甍を照らし出していた。
 その夜、王の寝所の丸窓越しに時折月影が映し出す二つの影は朝までずっと離れることはなく、烈しく絡み合い、庭園で咲く純白の紫陽花も恥じらって淡く染まるのではないかと思えた―。
 
  真実と愛情の狭間で

 七月に暦が変わってまだ数日を経ない日の朝、ファソンは女輿に揺られ、実家に戻った。ファソンは一人でと言ったのだが、カンがついてゆくときかなかったのである。
―そなたの両親ならば、私の義理の父上と母上なのだ。妻の父御や母御に婿として挨拶するのは当然のことであろう。
 と、どうでも引かない。確かに、好きな男というよりは既に良人となったカンを両親には早く紹介したい。自分が結婚して人妻になったのだということも彼が一緒にいてくれた方が両親にも説明しやすい。
 そのため、ファソンも敢えて反対はしなかった。しかし、いきなり国王が娘婿として現れては、父や母も卒倒しかねない。ゆえに、カンには王という身分はまずは伏せて貰い、何度か両親と逢ってから、状況を見て真実を話そうと事前に決めていた。
 懐かしい我が家が見えてくると、ファソンは少し手前で輿を停めて貰った。カンは栗毛の愛馬に跨って、彼女の輿を守るように付いてきていた。付き従うのは女官一人と護衛官二人である。
 お忍びの来訪のため、供回りは考えられないほど少ない。
「ファソン?」
 カンが訝しげな視線を向ける。ファソンは笑みを浮かべ、輿を降りた。
「ここからは歩いて行きたいの」
「そうか」
 カンもまた馬からひらりと降り、護衛として付き従ってきた武官の一人に手綱を預け、ファソンと二人で並んで歩き始めた。
 門の前まで来た時、門前を箒で掃いていた若い女中が弾かれたように顔を上げ。次いでこちらを凝視した。
「チェジン」
 ファソンが走り始めると、チェジンも箒を放り出して駆けてくる。
「お嬢さま!」
 飛びついてきたチェジンとファソンはひしと抱き合った。
「ああ、お嬢さま。今まで、どこでどうしていらっしゃったのですか? 旦那さま(ナーリ)は漢陽中を隅から隅までお嬢さまをお探ししたというのに、お嬢さまときたら、それこそ霞みのように消えてしまわれたんですから。奥さま(マーニム)は毎日、朝から晩まで泣いてらつしゃるばかりです。最初は旦那さまも、お嬢さまに限って自害なんてするはずがないとおっしゃっていたんですけど、この頃じゃ、もう諦めてしまわれて、この分では近々、お嬢さまの弔いを内々に出そうかなんて話までなさっていたんですよー」
 チェジンはよほど興奮しているのか、喋るだけ喋ると、おいおいと泣き出した。傍らのカンは呆気に取られている。
「ごめんね、チェジン。あなたにも随分と迷惑をかけてしまったわね。私が家出をしたことで、あなたが鞭打たれたりしなければ良かったんだけど」
 ファソンは泣きじゃくるチェジンの背中をあやすように叩いた。
「うちの旦那さまや奥さまは、そんな酷いことをなさる方じゃありませんよ。それに、私しゃ、何も知らなかったんですから。何で、お嬢さま、今回に限って、あたしに何も言わずにお一人で出ていかれたんです? 迷惑なんてかけられちゃいませんけど、心配なら、たくさんしましたよ。あたしは使用人ですけど、お嬢さまのことを亡くなった母から頼まれていましたし、僭越だけど、妹のように思っていたんです。なのに、黙って、いなくなってしまわれるなんて、あんまりですよ」


 騒ぎを聞きつけた陳家の執事が中から様子見に出てきて、泡を吹かんばかりに愕いた。
「旦那さま、大監さま(テーガンナーリ)、お嬢さまが、ファソンさまがお戻りになりました!」
 その大音声に、屋敷からは次々に使用人が飛び出してきて、皆、二ヶ月ぶりに帰還したお嬢さまの姿を見て泣き出す始末だった。
 それから四半刻後、陳家の客間においてファソンは父と向き合っていた。母の方はといえば、ファソンの姿を見るなり放心したようになり、倒れてしまい、今は別室で眠っていた。
 つまりは、それほどに母に負担を強いていたわけだ。ファソンは今、己れがなしたことがどれだけのことを引き起こしたのかを突きつけられていた。
 だが。この後、彼女は更に今回の家出が何を意味したのかを知ることなる。
 それにしても、と、ファソンは気遣わしげに父とカンを交互に見た。今日はもちろん、カンは王衣を纏っているはずがない。薄紫の上品なパジチョゴリに身を包み、いつものように帽子から垂れ下がる玉は紫水晶を合わせている。
 ファソンはといえば、淡い水色のチョゴリに薄桃色のチマを合わせていた。チマには華やかな百合の花が鮮やかに刺繍され、チョゴリの裾に控えめに蝶が飛んでいる。
 髪は既婚を示し、後頭部で一つに髷を結って、カンに贈られた菫青石(アイオライト)の簪を挿していた。
 屋敷内に脚を踏み入れてからというもの、カンの表情は冴えなかった。殊に父と対面したカンの動揺は、はっきりとしていた。
 また、父は父でカンを見るなり絶句し、言葉さえ出てこないほど愕いているようである。二人の間には一体、何かあるのだろうか。
 ファソンが視線で傍らのカンに問いかけたその時、カンが静かな声音で言った。
「まずは私から義父上にご挨拶申し上げます」
 ファソンも慌てて立ち上がり、二人は揃ってファソンの父ミョンソに拝礼を行った。
 そんな若い二人をミョンソは何とも言えない顔で見ている。例えていうなら、苦い薬を無理に飲まされたような表情とでもいえようか。
 拝礼を終えると、カンはまた神妙な顔で端座した。ミョンソは小さくかぶりを振り、大きな息を吐き出した。
「一体、どのようなおつもりで、このようなことを? 殿下」
「私も今、この屋敷に来て初めて事の次第を悟ったのだ。左相大監」
 二人のやり取りに、ファソンは声を上げた。
 まさか、二人はずっと以前からの知り合いだった―? そして、怖ろしい事実に行き当たり、身体中の血が引いてゆくのが判った。
 当たり前だ。父は議政府の三丞承の一人であり、領議政が空席の今、朝廷の臣下としては最高位にある政治家なのだ。そして、カンはこの朝鮮の国王。二人が顔見知りどころか、互いによく知っているのは当たり前だ。
 いや、ファソンの不審はそんなことで兆しているのではなかった。二人が知己なのは当たり前だとしても、何なのだろう。二人共に罰が悪いというか、何とも気まずげな最悪の雰囲気なのは。
 ファソンは隣のカンを縋るような眼で見た。
「カン、どうしたの? 様子が変よ」
 娘の物言いに、ミョンソが眼を引きむいだ。
「これ、ファソン。控えなさい。国王殿下に何というご無礼な」
 カンが鷹揚に笑った。
「左相、良いのだ。私とファソンはいつもこんな風なのだから」
 カンはファソンに安心させるように微笑みかけた。
「案ずることはない」
 彼はファソンの眼を見て頷き、その額に落ちたひと筋の髪の毛を直し、ついでに髪を撫でた。人眼をはばからない仲睦まじい新婚夫婦ぶりの二人に、ミョンソは眼のやり場に困惑した素振りでコホンと咳払いする。
「話せば長くなるが、まずはファソンに話しておかなければならないことがある」
 カンはファソンに向き直った。
「二ヶ月前、そなたは見合いを嫌って屋敷を飛び出したと言ったな。その見合いの相手というのは私だ」
「え?」
 ファソンは眼をまたたかせた。ミョンソが苦渋に満ちた声で話し始めた。
「ファソン。殿下のおっしゃるとおりだ。そなたがお逢いするはずだったのは他ならぬ国王殿下だったのだ」
―嫁に逃げられた。
―嫁といっても、正式な嫁ではないが。
 カンと交わした会話が次々と甦った。そういえば、彼もまた意に沿わぬ相手と結婚させられそうになっていると話していた。
 その相手とは大妃や大臣たちが勝手に決めた令嬢で、カンはその相手に対しては好意どころか興味さえ抱いてはいないようだった。
―中殿の選考試験なぞ、形だけのものさ。内実は大妃と大臣たちが勝手に決めていて、その娘が中殿になると決まっているんだ。
 その令嬢はカンと内々に対面する直前、姿を消したと、カンは話してはいなかったか?
 ファソンの眼から大粒の涙が溢れた。
「どうして」
 どうして気付かなかったのだろう。意に沿わぬ相手との結婚、顔合わせの前に家出した令嬢。話のすべてが一致しすぎている。そのどちらもがカンとファソンをめぐる〝見合い〟だと判りそうなものなのに。
 馬鹿だ、自分は大馬鹿だ。父の手の内をかいぐり、見事に好きな男を見つけて想い想われて結ばれたと思っていたのに、現実は父の思惑どおりに動いていただけだった。
 母だって〝見合い〟の前夜に言っていたではないか。
―この縁談は断ることはできないのですよ。
 こちらから辞退できないほどの相手とは誰なのだろうと訝しんだものだけれど、相手が国王だというなら、納得はゆく。
 つまりは、そういうことだ。我が身は左議政の娘として中殿に―王妃に冊立されるはずだった! それは最早、大妃や父たちの間で話し合われ、当のカンやファソンの意思は関係なく決定事項として扱われていた。
 あの運命の日、もしファソンが逃げ出さなければ、二人は予め仕組まれた王と未来の王妃という形で出逢っていた。
 仮にそういう出逢いであったなら、今の自分たちのように打ち解けて恋に落ちていただろうか。いや、相手が王だと知れば、恐らくファソンは言葉を交わすのさえ戸惑っていただろう。
 カンにせよ、ファソンが左議政の娘で、既に決められた中殿だと知れば、冷淡にふるまっていたかもしれない。ファソンに興味を持つどころか、見向きもしなかったはずだ。だって、彼はあんなに嫌っていた。〝予め決められた中殿〟を。
「私、ごめんなさい。これ以上、今は何もお話しできません」
 ファソンは泣きながら室を飛び出した。背後でカンが呼ぶ声が聞こえたけれど、ファソンは振り返らなかった。いや、振り返ることができなかったのだ。


 長い話を終え、カンは小さく息を吸った。改めて左議政陳ミョンソを見やる。
 ファソンが室を飛び出して一刻余り。彼女のことが気になって居ても立ってもいられないカンに、ミョンソが
―娘は妻の部屋にいるようです。
 と、伝えてくれ、とりあえずは安心した。
 左議政にはすべて包み隠さず話した。ファソンとの町での出逢いから、彼女を王宮に連れていったこと、既に側室として位階を与えていること。
 ミョンソは当然ながら、その衝撃と驚愕は大きかったらしい。
―今、後宮はおろか宮殿を騒がせている〝妖婦〟がよもや我が娘であったとは。後宮にいては都中を探したとて、見つかるはずもありませんなあ。
 と、苦笑いをしていた。
 同時に、不安と当惑を隠せない親しての本音も盛らした。
―親が申すのも何ですが、あの娘は策を弄するなどという真似は到底できませぬ。良く申せば真っすぐ、悪く言えば、融通の利かぬ石頭で、およそ幼い頃から道に外れる行いを嫌う子でした。何ゆえ、ファソンが殿下を誑かす女狐などと誹られることになったのでしょう。 
 カンは口ごもりながら言った。
―それは私がファソンを。
 流石に臣下とはいえ、自分が抱いた女の父に向かって言える科白ではない。ミョンソは王の意を汲み、言いにくい科白を口にした。
―殿下の深いご寵愛はありがたき幸せにございますが、過ぎたるは及ばざるごとしということもございます。また、長い我が国の歴史を紐解きましても、王がただ一人の女人に溺れすぎた御世は世が乱れております。どうか、その辺りをご了察下さい。 
 我が娘が王の寵を得るのは両班であれば、誰しもが望むことだ。しかしながら、生真面目にその王に対して〝娘に溺れるのもたいがいにせよ〟と諫める辺り、やはり正義感の強いファソンとこの堅物の左議政の父娘はよく似ている。
―陳氏という姓はどこにでもあるゆえ、まさか左相の息女だという発想は私には皆無であった。もし私がファソンに見合いの相手は左相の令嬢だということを告げていれば、ファソンが受ける衝撃もこれほどではなかったかもしれぬ。
 カンが率直に言うと、ミョンソは難しげな表情になった。
―さて、それはどうでしょうか。今となっては、それがしにも判りかねますが、結果良ければすべて良しとも申しますゆえ。結局、殿下と娘は出逢うべくして出逢い、結ばれたのでしょうな。予め天が定めた縁で結ばれた者は、たとえどのような障害が入ろうと、必ず出逢うといいます。
 話は終わった。カンは頼もしい左議政の顔を見ながら最後に言った。
「左相、ファソンのことは私に任せてくれ。一生、大切にする」
「既に側室の位階を賜っているとなると、娘の処遇はどうなりますかな?」
「左相の希望を訊く前に、私の意思を伝えよう。私はファソンを中殿に立てるつもりだ。ただ、いきなりというわけにはゆかぬ。ゆえに、とりあえずは淑儀か昭儀辺りに昇進させて、近々、嘉礼を行い正式な妃とするつもりだが、どうだろうか」
「願ってもない話にございます。確かに殿下の仰せのとおり、身分の低い側室をいきなり中殿さまに立てるというのは無理がある話です。無理がある話というのは、やはり、周囲からも認められにくい。私の娘という素性を公表しても、昭媛から王妃にというのは難しいでしょう」
 ミョンソは深々と頭を下げた。
「殿下にそこまで思し召して頂き、我が娘は果報者にございます。ただ、あれはなかなかの頑固者でして。終わりよければすべて良しと、単純に割り切ることができるかどうか。素直にこのありがたきお話をお受けすると良いのですが」
 暗に、ファソンが容易には納得しないのではないか、と、娘の気性をよく知る父はカンにとってあまりありがたくない予言をしてくれたのだった。
 更には。
―その頑固娘を納得させるのは、娘に惚れたお前のなすべきことではないか。
 ミョンソの顔には、そう書いてあるような気がしてならなかったのは、カンの勘繰り過ぎというものだろうか。

 人の身体というものは、つくづく不思議なものだと今更ながらに思ってしまう。
 昨日から今日まで、およそ丸一日も泣き続けているのに、涙はまだ尽きることはないようである。ひりつく痛みを感じるからには、恐らく人には見せられないであろうほど眼は紅く腫れ上がっていることだろう。
 特に、〝あの男(ひと)〟にだけは、そんな醜い様は見せたくない。―と思ってしまう自分は、どれだけ愚かなのか、甘いのか。あれだけ手酷い裏切りを見せつけられ、まだこの期に及んで彼を好きだという気持ちを棄てられないのだから。
―本当に、私ってば馬鹿ね。
 いまだにカンを忘れられない。そんな自分が嫌で、余計にまた涙が溢れてしまう。これだけ泣いてもまだ身体に水分が残っているというのが、我ながら滑稽なようでもある。
 多分、これまで生きてきて流した分よりも、昨日今日一日で流した涙の方が多いのではないかと思うほど、泣いた。 
 また新たな涙が出そうになり、ファソンは洟を啜った。まったく、幼い子どものように洟を垂れ流している自分は恋する十六歳の乙女だというのだから、我が事ながら嗤えてくる。
 そのときだった。遠慮がちに声がかけられた。
「お嬢さま」
 その声はチェジンだった。昨日、ふた月ぶりに実家に戻ったファソンに付き従い、チェジンは王宮にやって来たのだ。それはチェジンの強い希望でもあった。
―あたしは一生、お嬢さまにお仕えすると決めております。教養も礼儀も知らない賤しい身分ですが、どうかお連れ下さいまし。
 伏して懇願され、またファソン自身も姉とも信頼する乳姉妹が側にいてくれたら、心強いことはこの上にない。そのため、両親の許可を得て、チェジンを王宮に伴ったのだった。
 チェジンは早速、この殿舎を取り仕切る年配の尚宮から宮殿内での礼儀作法などをみっちりと仕込まれているはずだ。仮にも王の側室の側近く仕えるからには、相応の教養も作法も身に付けなければならず、これまで女中の仕事しかしてこなかったチェジンにとっては辛い日々になるはずだ。
 だが、試練を乗り越えた先には、宮廷女官としての道が約束されている。ファソンの信頼も厚いチェジンは上手くゆけば尚宮になれる可能性もあるはずだ。尚宮ともなれば、正五品の位階を賜り、表の廷臣たちとも互角の立場となる。
 王の側室を除けば、尚宮は女官としては最高位に位置づけられる。チェジンはそのことも十分自覚しているらしく、これまで習ったことのない文字を教えて欲しいとチェジンに頼み込んできたほどだ。
 チェジンが張り切っているのは良いことだ。いずれ彼女が自分付きの尚宮になってくれれば、こんなに頼もしいことはない。
 もっとも、そんな遠い未来まで自分が王宮にいるとは思えないが。
 と、ファソンはまた哀しくなった。


「お嬢さま」
 チェジンは他の女官と異なり、今も変わらずファソンを〝昭媛さま〟ではなく〝お嬢さま〟と呼ぶ。それも嬉しいことだ。
「なあに」
 もそもそと被っていた掛け布団から顔を出したファソンに、チェジンは笑った。
「お嬢さま、まるで亀みたいですよ?」
「そう。眼の紅い亀なんて、いるかしら」
 チェジンの笑えない冗談に、ファソンは気のない様子で応えた。
「国王殿下がお越しになるそうです」
 先触れの女官が知らせにきたのだろう。ファソンはきっぱりと言った。
「逢いたくないわ」
「そういうわけにはいきませんでしょうに」
「いいえ、逢いたくないの、今はまだ」
 ファソンの物言いがおかしかったのか、チェジンはクスクスと笑った。
「〝今はまだ〟ですか? では、いずれはお逢いするということですね」
 ファソンは紅くなった。
「そういう意味ではないの。ええ、そうですとも。あんな方には絶対に逢いたくないわ」
「お嬢さま、強情は良い加減になさらないといけませんよ。可愛げのない女は殿方に嫌われますからね」
 どうにも癪に障る言い方に、ファソンは自棄になって叫ぶ。
「別に構わないわ。どうせ、あの方は私のことなど端からお嫌いだったんだから」
 チェジンが意味ありげに言う。
「そんなことをおっしゃって、良いんですか? 昨日、いよいよ中殿さまを決めるための二次選考試験が行われたっていいますよ。悠長なことをおっしゃっていたら、王さまのお心を他の女に盗まれてしまいますよ」
「勝手にすれば良いわ。側室でも中殿でも持ちたいだけ持てば良いのよ」
 また叫んだが、チェジンの返事はない。
 ファソンは信頼する乳姉妹にして今は女官見習いとなったチェジンを呼んだ。
「チェジン?」
 だが、やはり、いらえはない。代わりに聞き慣れた声が返ってきた。
「ファソン」
 どれだけ聞きたかったことだろう。たった一日聞いていなかっただけなのに、もう、こんなにも彼の声を聞きたいと思う。
 ファソンはつい顔を布団から出した。いつしかチェジンはいなくなっていた。
「ファソン」
 カンが心配そうな表情で見つめている。  ファソンは慌てて布団を頭から引き被った。
「ファソン。隠れないで、顔を見せてくれ」
 カンの声が近づき、枕許に椅子を引き寄せて座る気配がした。ファソンは依然として布団を被り、息を潜めている。
「今度のことは済まなかった」
 何が〝済まない〟ですって? あなただって、見合い相手の令嬢が私だとは想像もしなかった。だから、あなたが私に〝既に決められた中殿〟が陳家の娘だと話さなかったのは、別にあなたのせいではない。
 そんなことは判っていた。カンが悪いのでも責任があるのでもない。
 運命があまりにも皮肉で、残酷すぎたのだ。
 私がいちばん哀しかったのは、あなたが何も話さなかったことではない。あなたが既に出逢う前から、私を嫌っていたのを知ったからよ。
 逢う前から嫌われているのでは、私はもう、あなたの側にはいられないわ。
 大きな溜息が聞こえ、ファソンは彼が諦めて出ていくのかと思った。が、次の瞬間、ファソンは掛け布団ごと、ふわりと身体が宙に浮いたのを自覚した。
「―?」
 ほどなく被っていた布団が引きはがされ、眼の前には今、いちばん逢いたくて逢いたくない男がいた。しかも、ファソンは夜着のまま寝台に座ったカンの膝に乗っている。
「布団に隠れて出てこないなんて、まるで子どもだな」
 カンはファソンを膝に乗せたま、笑っている。だが、ファソンの顔をしげしげと見て、その端正な顔を曇らせた。
「眼が腫れている。どうして、そんなに泣いたんだ?」
 ファソンは顔を背けた。
―あなたに嫌われたから哀しくて泣いただなんて、絶対に言うものですか。
「殿下にお願いがあります」
 他人行儀に言うと、カンの眉がつり上がった。
「願いとは何かな、陳昭媛」
 どうやら、ファソンの出方を見るつもりになったようである。
「お暇を頂きとうございます」
 が、流石にこれは想定外の頼みだったようで、カンの秀麗な面が見る間に強ばった。
「後宮を去って、いかがするつもりだ?」
 相当怒らせたのか、声も今まで聞いたことがないほど低い。
「実家で心静かに過ごそうと考えています」
「一生、誰にも嫁ぐつもりもないのか?」
「互いに想い想われる相手と出逢うことがでれば、また嫁いでも良いかと―」
 ファソンは皆まで言えなかった。
「ならぬ!」
 カンの怒声に、ファソンは身を竦ませた。
「そなたは私のものだ。勝手に後宮を去ることも他の男と結婚することも許さぬ」
 刹那、ファソンの身体は強い力で寝台に突き飛ばされていた。
「そなたは髪の毛ひと筋まで俺のものだ。他の男になど渡すどころか、触れることさえ許すものか」
 寝台に仰向けになったファソンの上から、カンがのしかかってくる。
「カン―」
 ファソンは、これまで見たことのないカンの凄まじい怒り様に怯えた。
「私、あなたを怒らせるつもりでは」
 言いかけた唇を乱暴に奪われる。息をつかせない口付けは延々と続き、ファソンが息苦しさに喘ぐ度に、カンの愛撫はいっそう荒々しさを増していった。
「―いやっ」
 怯えて寝台から逃れようとするファソンをカンは押さえつけ、乱暴に夜着を剥ぎ取った。ろくに馴らすこともせず一気に貫かれ、ファソンの唇からか細い悲鳴が上がった。
「―ぁあっ」
 寝台の上で白い背中が弓なりに仰け反る。背後から覆い被さったカンに烈しく揺さぶられながら、ファソンは涙を零した。
―あなたにとって、私は所詮、いつでも欲しいままにできる慰みものでしかなかったというの―。
 真夏だというのに、心が凍えそうなほど寒かった。誰か温かい腕で抱きしめて欲しい。
 ファソンは泣きながら意識を手放した。
 意識を失ったファソンのたおやかな身体をカンはそれでもまだ狂ったように貪った。 
 


 ファソンの許に大妃殿から招きがあったのは、その翌日のことである。
「どういう風の吹き回しかしら」
 ファソンは可愛らしい顔を曇らせ、チェジンに例の大妃との一件を話した。宮殿の書庫を出たところで大妃と遭遇し、あらぬ誤解をかけられ罵倒された挙げ句、頬を打たれたことを話すと、チェジンは自分のことのように憤慨した。
「許せません。たとえ国王さまのお母君といえども、あたしの大切なお嬢さまをぶつなんて。今度、逢ったら、あたしの方が大妃さまを殴ってしまうかもしれません」
 などと、真顔で怖ろしいことを言っている。
「毒でも飲まされるのかもしれませんよ」 
 と、また、さらりと続けるのに、ファソンは苦笑いしかない。
「毒を飲めというなら飲んでも良いけど、飲むなら大妃さまも一緒だわ。一人で死んであげるほど、このファソンさまは甘くないんだから。大妃さまも道連れになって頂くわ」
「まあ、お嬢さまったら」
 チェジンは笑い転げている。物騒な会話をする主従だが、どちらも大真面目な顔だ。
 ファソンが大きな息を吐いた。
「それにしても、本当に一体、何の魂胆があるのかしらね」
「さあ、それは判りませんけど、大妃さまのご招待をまさかお断りするわけにもいかないでしょうし」
 チェジンも愁い顔だ。
「毒を食らわば皿までとも言うわね。こうなったら、行くしかないみたい」
 ファソンはとチェジンは顔を見合わせ、溜息をついた。
 その日の午後、ファソンはお付きの尚宮とチェジンを伴い、大妃殿を訪れた。何か手土産が必要かと、葛と寒天で作ったゼリーをよく冷やしたのを涼しげな玻璃の器に形よく盛り、それを小卓に乗せて運ばせる。
 大妃殿の前に控えていた馬尚宮に到着を告げると、馬尚宮は大妃の意向を伺いにいった。ほどなく入るようにと言われ、馬尚宮に案内されて庭から続く階を昇り殿舎に入る。
 女官が外側から両開きの扉を開け、ファソン、お付きの尚宮、チェジンの順で入室した。
 ファソンは両脇から尚宮とチェジンに支えられ、大妃に拝礼を行った。
「忙しいところ、呼び立てて済まなかった」
 拝礼を終えて座ったところで、大妃が鷹揚に言った。皮肉かと思ったが、大妃の花のかんばせには微笑が浮かんでいるだけだ。
 どうも風向きが以前とは全然違う。眼の前の慈母観音のような女性と、金切り声でファソンを罵り叩いた夜叉のような女が同じ人だとは俄に信じがたい。
 唖然としているファソンの前に、馬尚宮が運んできた茶を置いてゆく。それこそ毒でも入っているのかと、ファソンは落ち着かない視線を湯飲みに落とした。
 と、華やかな笑声がその場に満ちた緊迫を破った。
「毒なぞ入ってはおらぬ。安心して飲まれよ、陳照儀(ソイ)」
「は、はい」
 思わず応えた後、ファソンは首を傾げた。今、大妃は何と言った? 
 ファソンの疑問を見透かしたかのように、大妃が妖艶な笑みを浮かべた。
「おや、そなたは知らなかったのか? 今日付で主上がそなたを昭媛から照儀に昇進させるという王命を出したと聞いていたが」
 ファソンは眼を見開いた。
「そのような話は一切、お伺いしておりません」
 大妃はしらっと応える。
「おや、それはおかしなこともあるものだの。当の本人が知らぬとはな」
「あの、私は」
「何だ?」
 大妃の視線に射貫かれ、ファソンは一瞬たじろいだものの、ひと息に言った。
「私はその王命を承ることはできません。国王殿下にはお暇乞いをお願い致しましたので」
「なるほど。だが、主上がその願いを聞きとどけられるとは思えぬがな。あれほど、そなたにご執心なさっておられるものを」
「大妃さまは私が主上さま(サンガンマーマ)のお側にいるのはご反対ではなかったのですか?」
 どうも態度を豹変させた大妃の真意を測りかね、ファソンは訊ねずにはいられなかった。今の口ぶりでは、大妃はむしろカンの側にファソンを置いておきたいとでも言いたげではないか!
「何とも思ったことをはっきりと申す娘よ。愚かなのか、怖れ知らずなのか」
 大妃は呆れたように言い、笑った。
「ま、それはいずれ時が明らかにしてくれようぞ」
 大妃はスと表情を引き締めた。その冷めた表情は以前、あからさまな憎しみをファソンに向けたときと同じものだ。やはり、大妃はファソンの存在を認めたわけではなかった。
 だが、何故、偽りの親しみを束の間とはいえ、示して見せる必要があったのか。
「そなたの申すとおりだ。私はそなたが今でも気に入らぬ。叶うことなら、主上のお側からさっさと追い払ってしまいたいと思うている」
 大妃は言葉を切り、綺麗に整えられた指先を見つめている。ファソンは問うた。
「私が左議政の娘だから、お気持ちを変えられたのですか?」
「それもないとは言わぬ。だがな」
 大妃は首をゆっくりと振った。
「主上のお気持ちがどうでも動かぬと知った今、そなたを疎んじて何とする? あの子は幼き折より、頑固であった。しかも、そなたの父はこれよりまたとない強力な主上の後ろ盾となろう。主上のお気持ちとそなたとの婚姻によって得る外戚の力を考えれば、敢えて私が反対する理由はどこにもない」
 大妃がどこか晴れやかにも思える笑みを浮かべた。言い換えれば、吹っ切れたともいうべき笑いでもあった。
「主上が他の娘を今後一切後宮に入れるつもりはないと宣言されたからには、そなたを後宮から追い出すわけにはゆかぬではないか」
 ファソンは首を傾げた。
「お言葉ではございますが、大妃さま。中殿さまを選ぶ選考試験は予定どおり行われ、無事に十数名の方が三次選考に進まれたとか。更にその中から五名の方が最終選考に残ったとも聞き及んでおります」
 二次選考と三次選考はほぼ時を置かずして行われた。五人の令嬢が最終選考に臨むと聞いている。即ち、最終選考に残ったということは、その五人がカンの後宮に入るのは決まったも同然であり、その五人の中から次代の王妃が立つ運びだ。
 大妃が笑い出した。何がおかしいのか、ころころと笑っている。ファソンは呆気に取られ、大妃を見つめた。



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