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「そんなに哀しそうな表情をするな。そなたが泣くと、私まで哀しくなる」
 カンは笑い、人差し指でファソンの涙を拭った。ファソンははにかんだように微笑む。
 泣くなと言われて、泣くまいとしているのが判る。人眼もはばからず、抱きしめたいほど可愛いと、カンは頬を緩めた。
 二人は顔を見合わせ、微笑み合った。一緒にいる時間が多くなるにつれ、不思議なことに、会話はなくても二人でいることそのものが何より安らげる時間となっていた。
 二人だけの時間に闖入者が現れたのは、そんな最中であった。ファソンは違和感を感じ、傍らのカンを見た。
 カンは凍り付いたように動かない。訝しげに彼を見つめ、その視線の先を辿ったファソンの眼に、一人の女人が映った。
 美しい女(ひと)であった。年の頃はまだ四十前、恐らくはファソンの母と同じくらいだろう。臈長けたその女性は愕くほど顔立ちがカンと似ていた。その豪奢な身なり、彼に酷似した容貌から、この女性が朴大妃その人であることはファソンにも察しがついた。
 女性の背後には数人の尚宮や女官が控えている。
「これは主上」
 大妃は手のひらを口許に添え、微笑んだ。美しく整え染められた爪がかいま見える。細く白い指に填められた幾つもの玉の指輪が陽光に燦然と燦めいた。
「母上さまにはご機嫌麗しく何よりに存じます」
 カンは実の母に対するとは思えないほど、他人行儀に恭しく頭を下げた。血の通った母と息子なら、無理にここまで冷淡にならなくても良いのではないかと、カンに対して思ったほどだ。これでは大妃が気の毒だと思ったくらいである。
 だが、その認識が甘すぎたとファソンは直に知ることになる。
「母上、申し遅れましたが、この者が」
 カンが傍らのファソンを紹介しようとすると、大妃は手で制した。が、カンは知らぬ顔で続ける。
「この者は新たに我が後宮に迎えた昭媛にございます」
 カンにわずかに背を押され、ファソンはおずおずと前に進み出た。大妃の前で両手を組み、拝礼を行う。
 だが、拝礼の間、大妃はずっとあらぬ方を見ていた。実のところ、ファソンはカンと初めて夜を過ごした翌朝、大妃殿に挨拶に行ったのである。が、頭痛がするとのことで逢っては貰えず、結局、十日続けて挨拶に通っても、対面は叶わなかった。
 大妃がカンを見た。相変わらず、ファソンの方には視線を合わせようともしない。
「そのような恥を知らぬ者を王族とも嫁とも認めるつもりはない」
「母上!」
 カンの声が大きくなった。
「大体」
 大妃が初めてファソンを見た。睨(ね)めつけるような視線に、身が竦むようだ。ファソンはあまりにもあからさまな敵意に膚が粟立った。朝鮮開国以来の功臣の名家に生まれ、大切に育てられた令嬢育ちのファソンは生まれてこのかた、ここまでの凄まじい憎しみを向けられたことはなかった。
「そなたらは、あの書庫で何をしておったのだ? 書庫は貴重な書物を保管する神聖な場所でもある。そのような場所で昼日中から、淫らな行いに耽るとは許し難い。そなたも下級とはいえ、両班の娘なら、恥を知るが良い」
 あまりの言葉に、ファソンは唇を噛んだ。無意識に強く噛んだため、口中に鉄錆びた味が苦くひろがる。
「大妃さま(テービマーマ)。それは誤解です。私は天に誓って、そのような恥ずべき行いは致しておりません」
 せめてこれくらいは許されるだろう。ファソンが言い終えた時、ピシッと空気を打つような鋭い音が響き渡った。
「―」
 ファソンは思わず手のひらで頬を押さえた。両親にでさえ、ぶたれたことはない。厳しい父も口うるさい母も、ファソンを叱ることはあっても、手を上げたことはなかった。
「母上(オバママ)」
 カンの顔色が瞬時に変わった。
「そなたごとき小娘がこの大妃である私に直接もの申すとは何という身の程知らずな。目上の者に無闇に話しかけてはならぬと父母から教えられなかったのか! もっとも、このような淫売を生んで育てるような親の躾なぞ、たかが知れておろうがの」
 ファソンは膝前で組み合わせた両手を白くなるほど握りしめた。
「あんまりです、大妃さま」
「淫売を淫売と申して何が悪い。そなたがやっておることは主上に色目を使い媚を売る、妓生がやっておることと同じではないか。両班の息女が色町の遊び女と同じことをしておるというのだから、この国ももう世も末であろう」
 涙が、溢れた。ここまで他人に悪し様に言われたのは初めてだ。何故、自分がここまで貶められねばならない? しかも、自分だけではなく、両親のことまで。
「私のことはまだよろしいのです。さりながら、何の拘わりもなき父母まで悪し様に仰せになるのは止めて下さいませ」
「生意気なッ」
 またピシリと、乾いた音が響いた。ファソンは打たれた両頬にひりつく痛みを憶えながら、大粒の涙を流した。
 ついに、カンが切れた。
「母上っ、止めて下さい。昭媛にどのような罪咎があって、このような酷いことをなさるのですか!」
 大妃がキッとカンを睨みつけた。
「大体、そなたが悪いのです。このような小娘にのぼせ上がってしまわれ、後先も考えず側室にするなど。今がどのような大切なときなのか、主上もお判りでしょう」
 息子に諫められ、大妃の怒りはますます煽られたようだ。当然ながら、その怒りはファソンに向けられた。
「ええい、お前が悪いのだ、お前が王宮に来てから、主上は狂ってしまわれた。お前さえ、主上の前に現れなければ良かったのだ。そなたがすべての禍を招く元凶に違いない」
 今度はファソンも、大妃の振り上げた手をよけようとした。しかし、その手の先が頬を掠め、ファソンの白い頬には糸ほどの細い傷ができてしまった。雪膚にくっきりと浮かび上がる鮮やかな紅い傷に、カンが悲鳴を上げた。
「たとえ母上だとて、もう許せぬ」
 カンの握りしめた拳が戦慄いていた。それを見た大妃がヒステリックな笑い声を上げた。
「何と、真、その妖婦に惑わされてしまいましたか、主上。実の母を、そなたを腹を痛めて生みしこの母を手にかけるおつもりか!」


 ファソンは信じられない想いでカンを見た。いつも穏やかな彼がここまで怒りを露わにしたのを初めて見た。だが、このままでは本当に大妃に殴りかかっていきそうな勢いだ。
 ファソンはその場に跪き、カンに取り縋った。
「殿下、お願いでございます。どうか、お怒りをお鎮め下さい。すべては私が至らず、大妃さまのお怒りを招いてしまったゆえなのです。ゆえに、この場はどうか」
 自分などのためにカンと大妃の母子仲に亀裂が入ってしまったとしたら―。それはあまりに哀しいことだ。
「殿下、殿下。お願いです」
 泣きながら訴えるファソンを、カンはやるせなさげに見つめた。
 大妃がせせら笑った。
「大方はそのように夜毎、お閨でお若い主上に泣き縋り、主上を意のままに操っておるのであろう、女狐め」
「母上、この上、我が妻を愚弄するのは、たとえ母上とて許せませぬぞ」
 カンの声音は先刻と異なり、どこまでも静謐だった。普段感情を表に出さない人というのは、怒りが深ければ深いほど、かえって静謐さをその身に纏うものだ。
 恐らく大妃はそれを知らないのだろう。
「何が妻だ、聞いて呆れる。先刻も申したであろう、私は大妃として、内命婦の頂点に立つ者として、そなたを王族とも嫁とも認めるつもりはない。さよう心得よ」
「母上(オバママ)ァ」
 カンが吠えた。まさに、虎の一瞬の咆哮。その叫びは大地と空を揺るがせ、聞く者を震え上がらせるには十分だった。
 大妃に付き従う尚宮と二人の女官はもう顔面蒼白で震えている。
「大妃さま、ここはひとまず大妃殿に戻った方が」
 尚宮が小声で囁くのに、大妃はそれでもまだファソンを睨みつけた。
「大切な国婚を前に、泥棒猫のような娘の色香に血迷ってしまわれるとは我が息子ながら、情けなや」
 カンは大妃ではなく、その背後の尚宮に声をかけた。
「馬尚宮」
「は、はい。殿下」
「大妃さまはかなり御気色が悪いようだ。しばらくは大妃殿でご静養頂くことにする。朕(わたし)の許可があるまで、大妃殿を出られることはまかり成らず。これは王命と心得よ」
「承りましてございます」
 気の毒に、四十ほどの尚宮は震えながら頭を下げ、女官二人に目配せした。
「さ、大妃さま。参りましょう」
 馬尚宮が声をかけるのを合図に、女官二人が大妃の肩を両脇から抱えるように抱く。
「主上、主上はこの母を大妃殿に監禁なさるおつもりか! たかが妖婦に惑わされて、そなたを生んだ母を蔑ろにすると」
 大妃は髪を振り乱し、後ろを振り返りながらわめき散らしながらも、女官らに拘束されて大妃殿に引き返していった。
 大妃一行が見えなくなった次の瞬間、ファソンの身体はふわりと逞しい腕に抱きしめられた。
「済まぬ」
 カンがファソンの髪を撫でた。
「まさか母上がそなたにこのような酷い所業を致すとは考えてもみなかった。私が甘かった」
「うっ、えっ」
 このときばかりはファソンも我慢の限界をとうに超えていた。彼女はカンの腕に抱かれて、泣きじゃくった。
 カンはファソンが泣き止むまで辛抱強くずっと髪を撫で続けてくれた。
  
 夜になった。
 ファソンはいつものように王の寝所に召された。今、二人は寝台に腰掛けている。
「痛むか?」
 カンはファソンの頬にそっと人差し指で触れた。
「痕は残らぬとは思うが」
 ファソンの白い頬にはまだ細く紅い筋がくっきりと残っている。
 ファソンは微笑んだ。
「大丈夫、こんなのは、かすり傷よ。舐めておけば治るわ」
 その言葉に、カンが吹き出す。
「いかにも、そなたらしいな」
 しかし、次には真顔で言う。
「いやいや、可愛いその顔に少しでも傷痕が残っては大変だ」
 彼は丸卓の上に乗った円い小さな器を取り上げた。器は陶製で、蓋には藍色で牡丹と蝶が描き込まれている。カンは蓋を開け、器に入った軟膏を指で掬った。
「少し痛むかもしれないが、我慢してくれ」
 カンは軟膏をファソンの傷に丁寧に塗った。確かに触れられれば痛む。だが、そこまで心配するほどではない。
 それでもカンは軟膏を何度かに分けて丹念に塗ってくれた。
「これはヒビやあかぎれにも効くのだ。今日の騒動を聞いて、セオクが届けてくれた。むろん、切り傷、擦り傷にもよく聞くゆえ、治りも早いだろう」
「金尚宮さまが下さったの?」
「ああ。私が幼い頃にも転んで怪我をする度に、よく塗ってくれた」
 どこか遠い瞳で懐かしげに語るカンの横顔には、拭いがたい翳りが落ちていた。もしかしたら、彼が思い出す遠き幼い日の記憶には、実の母である大妃はいないのかもしれない。
 それは今日の二人を見ても、自ずと知れることであった。ただ単にファソンが原因で仲違いをしたというわけではなく、二人の間に生じた溝はもっと根深い部分から始まっているように思えてならなかったのだ。
 部外者のファソンですら、それを微妙に感じ取ったのだから、当事者たちは更にしっかりと自覚しているに相違ない。
 ファソンはわざと明るい声を出した。
「カンはやんちゃ坊主だったのね? きっと金尚宮さまや沈内官を困らせてばかりいたのでしょう」
「いまだに家出するお転婆な〝本の虫〟姫には言われたくない科白だな」
「それは言わないで」
 ファソンは身を縮めて言い、カンはそれを見て大笑いした。
 が、ふとした拍子に彼は呟いた。
「セオクや爺がいなければ、私はとっくに気が狂っていたかもしれないな」
「カン―」
 ファソンは何を言うこともできず、切なくカンを見た。
「おかしな家族だった。父も母も健在だというのに、父は母以外の女―側室たちの許に入り浸りで、妻と息子を顧みもしない。母は母で良人に振り向かれぬ淋しさを美麗な衣装や宝飾品で身を飾ることで忘れようとした。普段は自分に息子がいることなど忘れ果てている癖に、ふとした拍子に思い出すんだ。そして、狂ったように息子を溺愛した」


 カンは自嘲気味に笑った。
「ひとしきり息子を構った後は、また私のことなど思い出しもしない。気まぐれな母の愛情をそれでも子どもだった私は待っていたよ。今度はいつ母の笑顔を見られるのか、そればかり考えていた。そんな私にごく普通の愛情を与え、それがどういうものかを教えてくれたのが爺とセオクだった。私にとっては実の両親よりも爺とセオクが身近で、本当の親のようなものだ」
「昼間のことはカン、私が悪かったからで―」
 言いかけたファソンに、カンが哀しげに微笑んだ。
「いや、そなたは悪くない。幾ら何でも、あれは大妃さまの言い過ぎだ。気が狂ったとしか思えない」
 カンは〝母上〟ではなく〝大妃さま〟と呼んだ。ファソンは瞳を潤ませた。
「カン、大妃さまはカンを生んでくれたお母さんよ。お母さんのことをそんな風に言ってはいけないわ」
 ファソンは涙声で言った。
「大妃さまは国母であらせられ、この国で最も高貴な女性だわ。そのお方に私は刃向かった。確かに礼儀をわきまえないと誹られても仕方なかったと思う。だから、もう、大妃さまのことを悪く言うのは止めて」
 確かに、あのときはファソンもカッとなって大妃に心のままを吐露してしまった。父母を侮辱され、逆らってはいけないと思いつつ、抑えられなかった。自分だけなら貶められても我慢できたけれど、大切な父と母を悪し様に言われて、許せないと思った。王の母に対して初対面で食ってかかったのだ。確かに大妃は行き過ぎであったが、ファソン自身にも非がないとはいえなかったのだ。
 カンが笑った。
「私はそなたのそう言うところが好きなんだよ、ファソン」
 単に性格を褒められただけだというのに、そんな些細なことにも頬が熱くなってしまう。紅くなったファソンを優しい眼で見つめ、カンは言った。
「今日のことでは、そなたに辛い目をさせた。何か詫びがしたいのだが、欲しい物はない?」
 ファソンは慌てて首を振った。
「そんなもの、要らないわ」
 いや、と、カンは今度ばかりは、きっぱりと断じた。
「どうしても詫びをしたい」
 ファソンは困ったように眉を下げた。
「そんなことを言われても、かえって困る」
 カンがすかさず言った。
「特に欲しいものでなくても構わない。何かして欲しいこととかあれば、遠慮無く言ってごらん」
 ファソンは少し躊躇った後、控えめに言った。
「一度、家に帰らせて」
「ファソン。まさか、私の側から去るというのか?」
 カンの声が一段低くなる。ファソンは慌てた。
「違うの、そういう意味ではなくて。一度、家に帰って両親に無事な姿を見せたいの。屋敷を黙って出て、もうそろそろ二ヶ月になるわ。父のことだから、きっと都中を探したでしょうけど、私を見つけられなくて心配していると思うの。母は母で心配性だから、どうしているかと考えると、気が気じゃなくなってしまうのよ」
 その説明で、彼は漸く納得したようだ。
「なるほど、そういうことか」
 確かにな。彼は小さく頷きファソンを見返す。
「宮殿で暮らしてみて、私、自分がどんなに世間知らずだったか知ったような気がする。今までは両親がああしなさい、こうしなさいと言うのが鬱陶しくて、早く束縛から解放されたいとばかり思っていたけれど、本当は父や母に守られていたんだなって、判った。父と母なりに私の幸せを願って、見合いをしろと勧めたのね、きっと。でも、子ども過ぎた私は親の愛情を理解できなかった。だから、家に戻って、父や母に謝りたい。それから、どうしても伝えたいことがあるの」
「―」
 カンが訝しげにファソンを見る。彼女は瞳を閉じて、また開き、ありったけの勇気をかき集めて言った。
「本当に好きな男の傍にいる幸せを知ってしまったから、もう別の男には嫁げないと言うわ」
 カンが眼を見開いた。
「それは、私を好きだということか?」
 ファソンは恥じらいながらも、しっかりと彼の眼を見て頷いた。
 カンの綺麗な面にひときわ優しい微笑が浮かぶ。
「そんな可愛いことを聞いたら、もう二度と放してやれなくなるぞ。気が変わったというなら、今の中だ」
 ファソンは泣き笑いの表情で首を振る。
「大丈夫。さんざん悩んで、やっと自分の気持ちを素直に口にできたの。心変わりなんかしない」
 随分と回り道をしたけれど、これで悔いはない。彼の側にいたいという気持ちと、彼と共に生きてゆきたいという気持ち。どちらの想いにも眼を背けず、運命を受け容れていこうと思うのだ。
 それは即ち、後宮の女になるということでもあった。王の側室として、いずれ彼が迎えるであろう中殿や他の側室たちと共に後宮で生きてゆく。
 今でも正直言えば、彼が自分以外の女をその腕に抱いたり優しく微笑みかけるのを見たくはない。でも、彼を永遠に失ってしまうのと、彼の側にいたいという気持ちを秤にかけた時、彼の側にいられなくなるよりは、辛くても微笑んで王の女として生きることを選びたいと思ったのだ。
 だが、この胸の葛藤をカンに告げる気はなかった。こんなどす黒い、もやもやとした想いは自分一人の胸にしまっておけば良い。彼が中殿や他の側室を迎えることになったら辛いだろうけれど、涙は堪えて微笑んでいれば良い。難しいかもしれないが、微笑むことができるように精一杯努力しよう。
 ファソンが考えに耽っている中に、ふわりと身体が宙に浮いた。思わず悲鳴を上げて彼にしがみつくと、カンが薄く笑った。
「どうやら、今夜が私たちの本当の初夜になるみたいだね」
「―っ」
 真っ赤になったファソンを抱き上げ、カンは宝物を扱うような恭しい手つきで彼女を寝台に横たえた。
「カン。私―」
 思わず身を起こそうとしたファソンの身体をやわらかく押し倒し、カンは彼女の上からすかさず覆い被さった。
「心変わりはしないと約束したばかりだぞ?」
 からかうように言われ、ファソンは眼を見開いた。
 ―そう、私は決めたのだ。
「後悔はしない?」
 再度問われ、今度は落ち着いて応えられた。
「しないわ」
「そう?」
 優しく唇を啄まれる。二度目の接吻だ。


 カンの長い指がつうっとファソンの白い喉をなぞる。思わずピクンと身体を跳ねさせたファソンを見て、カンはひそやかに笑った。
 悪戯な指は止まらず、喉から鎖骨、更には夜着の上からこんもりと盛り上った膨らみを辿り臍の辺りをさまよっている。
 かと思うと、また上に上がって、まろやかな膨らみの辺りを中心に執拗に愛撫している。何故なのか、彼の気まぐれな指が通ってゆく度に、夜着を隔てているのに、触れられた箇所から言いようもない震えが走り、身体がビクビクと跳ねてしまう。
 恥ずかしいことに、その度に声が上がってしまうのだ。しかも、その声はこれまで耳にしたこともない、自分でも耳を塞ぎたくなるような艶を帯びた声だった。
 ファソンはあまりのはしたなさに頬に朱を散らした。狼狽して、両手で口を覆い、声が洩れないようにする。
「我慢しなくて良いんだ」
 真上から覗き込むカンに優しく諭された。
「でも」
 更に紅くなったファソンを見て、カンが笑う。
「可愛い」
 彼の美しい面に意地の悪い笑みが浮かんでいる。こういう不敵な表情を見せるときは大抵、良からぬことを考えているのだと、ファソンはもう知っている。
「そんな可愛い表情を見ると、もっと虐めて啼かせたくなる」
 いきなり唇を奪われる。今度の口づけ(キス)は最初のとは異なり、飢えた獣に烈しく貪られる小動物になった気分のような―身体ごと喰らい尽くされるような獰猛さを帯びていた。
「少し怖い。何だか、いつものカンと違うみたいで、頭から食べられてしまいそう」
 正直に打ち明けると、カンはひそやかに笑った。
「確かに今は、ファソンの全部を食べてしまいたい気分だ。ずっとお預けを喰らってきたからね。その分、烈しくなるのは仕方ないかもしれない。もちろん、できるだけ怖い想いや痛い想いをさせないように優しくはするつもりだけど」
「お預け?」
 きょとんとするファソンの唇を〝シッ〟とカンが人差し指で封じた。
「静かに」
 そして、改めてファソンをこの上なく慈しみのこもった瞳で見つめた。
「愛してる、ファソン」
 やがて、彼の夜色に染まった深い瞳の奥底で焔が燃え上がった。先ほどまでの優しさとは相反する猛々しい男の欲望が閃く瞳がファソンを見降ろしている。
 寝台脇の灯火がひそやかに照らし出す中、壁に映った二つの影が重なり、もつれ合う。
 しばらく後、国王の寝所の灯りが消えた。静まり返った夜陰の底を時折、かすかな衣擦れの音と喘ぎ声がなまめかしく這う。
 外は夏の夜、紫紺の空が都全体を覆うようにひろがり、満ちた月が静かに宮殿の銀色に燦めく甍を照らし出していた。
 その夜、王の寝所の丸窓越しに時折月影が映し出す二つの影は朝までずっと離れることはなく、烈しく絡み合い、庭園で咲く純白の紫陽花も恥じらって淡く染まるのではないかと思えた―。
 
  真実と愛情の狭間で

 七月に暦が変わってまだ数日を経ない日の朝、ファソンは女輿に揺られ、実家に戻った。ファソンは一人でと言ったのだが、カンがついてゆくときかなかったのである。
―そなたの両親ならば、私の義理の父上と母上なのだ。妻の父御や母御に婿として挨拶するのは当然のことであろう。
 と、どうでも引かない。確かに、好きな男というよりは既に良人となったカンを両親には早く紹介したい。自分が結婚して人妻になったのだということも彼が一緒にいてくれた方が両親にも説明しやすい。
 そのため、ファソンも敢えて反対はしなかった。しかし、いきなり国王が娘婿として現れては、父や母も卒倒しかねない。ゆえに、カンには王という身分はまずは伏せて貰い、何度か両親と逢ってから、状況を見て真実を話そうと事前に決めていた。
 懐かしい我が家が見えてくると、ファソンは少し手前で輿を停めて貰った。カンは栗毛の愛馬に跨って、彼女の輿を守るように付いてきていた。付き従うのは女官一人と護衛官二人である。
 お忍びの来訪のため、供回りは考えられないほど少ない。
「ファソン?」
 カンが訝しげな視線を向ける。ファソンは笑みを浮かべ、輿を降りた。
「ここからは歩いて行きたいの」
「そうか」
 カンもまた馬からひらりと降り、護衛として付き従ってきた武官の一人に手綱を預け、ファソンと二人で並んで歩き始めた。
 門の前まで来た時、門前を箒で掃いていた若い女中が弾かれたように顔を上げ。次いでこちらを凝視した。
「チェジン」
 ファソンが走り始めると、チェジンも箒を放り出して駆けてくる。
「お嬢さま!」
 飛びついてきたチェジンとファソンはひしと抱き合った。
「ああ、お嬢さま。今まで、どこでどうしていらっしゃったのですか? 旦那さま(ナーリ)は漢陽中を隅から隅までお嬢さまをお探ししたというのに、お嬢さまときたら、それこそ霞みのように消えてしまわれたんですから。奥さま(マーニム)は毎日、朝から晩まで泣いてらつしゃるばかりです。最初は旦那さまも、お嬢さまに限って自害なんてするはずがないとおっしゃっていたんですけど、この頃じゃ、もう諦めてしまわれて、この分では近々、お嬢さまの弔いを内々に出そうかなんて話までなさっていたんですよー」
 チェジンはよほど興奮しているのか、喋るだけ喋ると、おいおいと泣き出した。傍らのカンは呆気に取られている。
「ごめんね、チェジン。あなたにも随分と迷惑をかけてしまったわね。私が家出をしたことで、あなたが鞭打たれたりしなければ良かったんだけど」
 ファソンは泣きじゃくるチェジンの背中をあやすように叩いた。
「うちの旦那さまや奥さまは、そんな酷いことをなさる方じゃありませんよ。それに、私しゃ、何も知らなかったんですから。何で、お嬢さま、今回に限って、あたしに何も言わずにお一人で出ていかれたんです? 迷惑なんてかけられちゃいませんけど、心配なら、たくさんしましたよ。あたしは使用人ですけど、お嬢さまのことを亡くなった母から頼まれていましたし、僭越だけど、妹のように思っていたんです。なのに、黙って、いなくなってしまわれるなんて、あんまりですよ」


 騒ぎを聞きつけた陳家の執事が中から様子見に出てきて、泡を吹かんばかりに愕いた。
「旦那さま、大監さま(テーガンナーリ)、お嬢さまが、ファソンさまがお戻りになりました!」
 その大音声に、屋敷からは次々に使用人が飛び出してきて、皆、二ヶ月ぶりに帰還したお嬢さまの姿を見て泣き出す始末だった。
 それから四半刻後、陳家の客間においてファソンは父と向き合っていた。母の方はといえば、ファソンの姿を見るなり放心したようになり、倒れてしまい、今は別室で眠っていた。
 つまりは、それほどに母に負担を強いていたわけだ。ファソンは今、己れがなしたことがどれだけのことを引き起こしたのかを突きつけられていた。
 だが。この後、彼女は更に今回の家出が何を意味したのかを知ることなる。
 それにしても、と、ファソンは気遣わしげに父とカンを交互に見た。今日はもちろん、カンは王衣を纏っているはずがない。薄紫の上品なパジチョゴリに身を包み、いつものように帽子から垂れ下がる玉は紫水晶を合わせている。
 ファソンはといえば、淡い水色のチョゴリに薄桃色のチマを合わせていた。チマには華やかな百合の花が鮮やかに刺繍され、チョゴリの裾に控えめに蝶が飛んでいる。
 髪は既婚を示し、後頭部で一つに髷を結って、カンに贈られた菫青石(アイオライト)の簪を挿していた。
 屋敷内に脚を踏み入れてからというもの、カンの表情は冴えなかった。殊に父と対面したカンの動揺は、はっきりとしていた。
 また、父は父でカンを見るなり絶句し、言葉さえ出てこないほど愕いているようである。二人の間には一体、何かあるのだろうか。
 ファソンが視線で傍らのカンに問いかけたその時、カンが静かな声音で言った。
「まずは私から義父上にご挨拶申し上げます」
 ファソンも慌てて立ち上がり、二人は揃ってファソンの父ミョンソに拝礼を行った。
 そんな若い二人をミョンソは何とも言えない顔で見ている。例えていうなら、苦い薬を無理に飲まされたような表情とでもいえようか。
 拝礼を終えると、カンはまた神妙な顔で端座した。ミョンソは小さくかぶりを振り、大きな息を吐き出した。
「一体、どのようなおつもりで、このようなことを? 殿下」
「私も今、この屋敷に来て初めて事の次第を悟ったのだ。左相大監」
 二人のやり取りに、ファソンは声を上げた。
 まさか、二人はずっと以前からの知り合いだった―? そして、怖ろしい事実に行き当たり、身体中の血が引いてゆくのが判った。
 当たり前だ。父は議政府の三丞承の一人であり、領議政が空席の今、朝廷の臣下としては最高位にある政治家なのだ。そして、カンはこの朝鮮の国王。二人が顔見知りどころか、互いによく知っているのは当たり前だ。
 いや、ファソンの不審はそんなことで兆しているのではなかった。二人が知己なのは当たり前だとしても、何なのだろう。二人共に罰が悪いというか、何とも気まずげな最悪の雰囲気なのは。
 ファソンは隣のカンを縋るような眼で見た。
「カン、どうしたの? 様子が変よ」
 娘の物言いに、ミョンソが眼を引きむいだ。
「これ、ファソン。控えなさい。国王殿下に何というご無礼な」
 カンが鷹揚に笑った。
「左相、良いのだ。私とファソンはいつもこんな風なのだから」
 カンはファソンに安心させるように微笑みかけた。
「案ずることはない」
 彼はファソンの眼を見て頷き、その額に落ちたひと筋の髪の毛を直し、ついでに髪を撫でた。人眼をはばからない仲睦まじい新婚夫婦ぶりの二人に、ミョンソは眼のやり場に困惑した素振りでコホンと咳払いする。
「話せば長くなるが、まずはファソンに話しておかなければならないことがある」
 カンはファソンに向き直った。
「二ヶ月前、そなたは見合いを嫌って屋敷を飛び出したと言ったな。その見合いの相手というのは私だ」
「え?」
 ファソンは眼をまたたかせた。ミョンソが苦渋に満ちた声で話し始めた。
「ファソン。殿下のおっしゃるとおりだ。そなたがお逢いするはずだったのは他ならぬ国王殿下だったのだ」
―嫁に逃げられた。
―嫁といっても、正式な嫁ではないが。
 カンと交わした会話が次々と甦った。そういえば、彼もまた意に沿わぬ相手と結婚させられそうになっていると話していた。
 その相手とは大妃や大臣たちが勝手に決めた令嬢で、カンはその相手に対しては好意どころか興味さえ抱いてはいないようだった。
―中殿の選考試験なぞ、形だけのものさ。内実は大妃と大臣たちが勝手に決めていて、その娘が中殿になると決まっているんだ。
 その令嬢はカンと内々に対面する直前、姿を消したと、カンは話してはいなかったか?
 ファソンの眼から大粒の涙が溢れた。
「どうして」
 どうして気付かなかったのだろう。意に沿わぬ相手との結婚、顔合わせの前に家出した令嬢。話のすべてが一致しすぎている。そのどちらもがカンとファソンをめぐる〝見合い〟だと判りそうなものなのに。
 馬鹿だ、自分は大馬鹿だ。父の手の内をかいぐり、見事に好きな男を見つけて想い想われて結ばれたと思っていたのに、現実は父の思惑どおりに動いていただけだった。
 母だって〝見合い〟の前夜に言っていたではないか。
―この縁談は断ることはできないのですよ。
 こちらから辞退できないほどの相手とは誰なのだろうと訝しんだものだけれど、相手が国王だというなら、納得はゆく。
 つまりは、そういうことだ。我が身は左議政の娘として中殿に―王妃に冊立されるはずだった! それは最早、大妃や父たちの間で話し合われ、当のカンやファソンの意思は関係なく決定事項として扱われていた。
 あの運命の日、もしファソンが逃げ出さなければ、二人は予め仕組まれた王と未来の王妃という形で出逢っていた。
 仮にそういう出逢いであったなら、今の自分たちのように打ち解けて恋に落ちていただろうか。いや、相手が王だと知れば、恐らくファソンは言葉を交わすのさえ戸惑っていただろう。
 カンにせよ、ファソンが左議政の娘で、既に決められた中殿だと知れば、冷淡にふるまっていたかもしれない。ファソンに興味を持つどころか、見向きもしなかったはずだ。だって、彼はあんなに嫌っていた。〝予め決められた中殿〟を。
「私、ごめんなさい。これ以上、今は何もお話しできません」
 ファソンは泣きながら室を飛び出した。背後でカンが呼ぶ声が聞こえたけれど、ファソンは振り返らなかった。いや、振り返ることができなかったのだ。



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