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―お父さま、どうしているかしら。心配性のお母さまはまたヒステリーを起こして泣いてばかりいるかも。
 家を出て二ヶ月近くが経とうしている。最近、流石にファソンも実家や両親のことを思い出すことが多くなってきた。
「さあ、一体、どこだろうな」
 カンは彼女がどこか愁い顔なのに気付いているようで、しっかりと繋ぎ合わせたファソンの手に力をこめた。
「着いたぞ」
 カンは袖から鍵束を取り出し、その中の一つを眼の前の建物の扉に差し込んだ。ここは広大な宮殿の敷地内でも最奥部に位置する。
 鍵穴に差し込んだ鍵を回すと、難なく扉が開いた。わずかに軋んだ音を立てて開いた扉を押し、カンが先に入る。その後から、ファソンもついて入った。
「カン、ここは書庫ね?」
 ファソンは思わず歓声を上げていた。
「うん、清国や諸外国から入ってきた貴重な外国の本などはほぼすべてここに揃っているはずだ」
 ファソンは眼を輝かせながら、早速、並んだ書棚を巡った。王宮には誰でも立ち入ることのできる書庫があるが、ここは違う。国王、王妃、更には王族、特別に許可を得た者でなければ立ち入りはできない場所なのだ。
 さして広くはない空間に縦長の書架が幾つも並んでいる。書架には貴重な蔵書が整然と陳列されていた。
 ファソンはその一つ一つの書架を時間をかけてゆっくりと見て回る。古い本の匂いが立ちこめた空間で深呼吸すると、何だか生き返ったような心もちになった。
「あ、見て。〝忠孝明道〟もあるわ」
 最後尾の書架までいったファソンが叫び、カンもやって来た。
「どれどれ」
 彼は上背があるので、ファソンのすぐ背後に立ち、難なく確認したようである。
「見ても構わない?」
 窺うように見上げられ、カンの白い面がうっすらと染まった。
「もちろんだ。ファソンは私の妻なのだから、れきとした王族だ。ここは王族は立ち入り自由だし、好きなだけ見ると良い」
 許可を得たファソンは伸び上がった。〝忠孝明道〟は書架のいちばん上の棚にあった。ファソンでは、どうしても届かない。
「よしよし、待って。今、取ってあげるから」
 背後でひそやかな笑い声が聞こえ、カンがお目当ての本を楽々と取って渡してくれる。
「ありがと」
 ファソンは熱心に〝忠孝明道〟を読みふけった。実際、こんな生き生きとしたファソンを見るのはカンは初めてだった。宮殿に連れてきてからというもの、ファソンはどこか元気がなく打ち沈んでいるようなところがあった。
 今日のファソンは彼が初めて下町で出逢ったときの彼女を思い出させる。
―この娘はつくづく本が好きなのだな。
 〝本の虫〟というあだ名はあながち間違ってはいないということか。
 こんなに歓ぶのを見られるのなら、度々、ここに連れてきても良いし、何ならファソンにこの書庫の合い鍵を与えても良いだろう。合い鍵を与えたからといって、勝手に貴重な蔵書を持ち出したり私したりするような娘ではない。〝王の寵愛〟に甘えるようなファソンではないとカンはよく判っていた。
 優しくて健気で、泣き虫で、いざとなったら自分の信ずる道をがむしゃらに突き進む頑固な少女。欲など一切なく、ましてや他人を陥れたりすることなど、考えたこともないだろう。
 カンがファソンを抱かないのは、彼女の人柄によるところも大きい。もちろん、初夜に言ったとおり、一時彼女の身体を欲しいままにして、永遠に彼女の心と信頼を失うのは避けたい。そいういう理由もある。けれど、いちばんの理由は、ファソンが後宮という伏魔殿で生きてゆくには優しすぎるからということもあった。
 ファソンという花はきっと後宮では萎れてしまうだろう。彼女の生き生きとした魅力は恐らく、宮殿ではなく市井でこそ発揮できるものだ。多くの女たちが王の寵愛をめぐって妍を競い、時にはライバルを策略を巡らせて陥れたりする後宮という魔窟に彼女を閉じ込めてしまうには忍びない。
 だからこそ、彼はよりいっそうファソンという少女に魅了される。 
「ねえ、カン」
 そこでカンの想いは中断された。当のファソンが輝く瞳で彼を一心に見上げている。こうなると、二十一歳の国王はもう何も考えられなくなる。ファソンが〝若い王を骨抜きにしている〟という噂はある意味では正しいといえるかもしれない。
 一方、ファソンは、どうしてもカンに伝えたいことがあった。
「同じ〝忠孝明道〟なのに、私の持っているのと所々、違っている部分があるのよ。どちらが正しいのかしら」
 カンは首を捻った。
「そうなのか。私は恥ずかしいが、まだそこまで熟読してないからな。多分、ここの書庫にある本は清国から渡ってきた原本、もしくは原本に近いものだろう。ならば、市井の書店で入手したものよりは、宮殿の書庫の方がより正しいのではないか」
 ファソンは弾んだ声で応じた。
「そうかもしれないわね。曺さんの本屋にあった本は、誰かが書き写して更に書き写したものだという可能性が高いもの。その点、宮殿の書庫はあなたの言うとおり、清国から伝わったものがそのまま保管されていると思うから、きっと、こちらが原本により近いのね!」
 ファソンは興奮した面持ちで続けた。
「私、違っている部分を憶えられるだけ憶えて帰るわ」
 カンが笑った。
「必要なら、殿舎に持って帰れば良い」
「あら、それは駄目よ。ここの書庫の本は全部禁帯出なんでしょう。持ち出し禁止の本なのに」
「王命があれば、例外的に持ち出せることになっている。私が許可するゆえ」
 ファソンは真顔で言った。
「それは止めておくわ。こんな言葉は使いたくないんだけど」
 ファソンは言い淀み、続けた。
「〝寵愛〟に甘えるようなことはしたくないの。皆はカンが私に甘すぎると言ってるのよね。もし、私がここで持ち出し禁止の本を持って帰ったりしたら、自分で噂を肯定するようものでしょう」
 そのひと言に、カンはハッとした表情になった。
「確かに、そなたの言うとおりだ。私が浅はかだった」


 ファソンは微笑んだ。
「そんなことはないわ。カンはいつも私に優しくて、気遣ってくれるもの。ありがたいと思ってる。カンが行き場のない私を助けてくれたように、私もできることは知れているけれど、カンの役に立ちたいわ。私たち、恋人や夫婦にはなれなくても、友達にはなれるわよね」
「友達、か」
 カンは泣き笑いの顔で言った。
「今度、案内して貰うときは筆記用具を持ってくるわ。ここで書き写すのなら、問題はないでしょ」
「そうだな。では、そのときまで我慢して、今日は憶えきれるだけ憶えて帰ってくれ」
 カンの言葉に、ファソンは笑顔で頷いた。
「そうするわ」
 ところで、と、ファソンはカンを見た。
「最近は〝春香伝〟の続きは書いてるの?」
 初夜以来、殆ど同じ寝台で眠っている二人だ。以前、カンは執筆は夜にやると話していたが、ここのところ、彼はファソンと枕を並べて眠るだけで、特に執筆をしている気配はない。
 実は、ファソンはそのことがずっと気になっていた。最初に出逢った時、彼は〝春香伝〟の続きを書きたいのだと熱く語っていた。彼にはその夢を諦めて欲しくないのだ。
 ファソンの問いに、カンは黙り込んだ。ややあって、照れたように笑う。ファソンの大好きな少年のような笑顔に、鼓動が速くなる。
「ちゃんと書いてるさ。夜は書けないから、昼間にちょっと政務の合間に」
「まあ、駄目じゃない。お仕事をするときはちゃんと仕事に集中しなければ」
「爺の眼が光っているから、そこまではできないんだよ。上に上奏書を乗せて、下に書きかけの原稿を置いて書くんだ。で、爺が入ってきたら、すぐに上奏書を読むふりをする」
 身振り手振りを入れて得意げに話すカンは、まるで親の眼を盗んで勉強中に悪さをする子どものようである。
 ファソンは思わず、クスリと笑みを零していた。
「いけないことではあるけど、カンらしいわ」
 沈内官に隠れて必死で小説を書いている王の姿が眼に浮かぶようで、笑えてくる。が、ファソンは表情を引き締めた。
「カン。私のことなら、気にしなくて良いのよ。私も一日あなたに逢えなくて淋しいし、ゆっくり話せるのは夜だけだから愉しみにしているけれど―。あなたの執筆の邪魔をしているのなら、淋しいのも我慢するわ」
 暗に寝所に召す回数を減らして欲しいと伝えれば、カンは慌てた。
「いやだ。私だってファソンに逢えない日中は、とても長くて淋しいんだ。夜だけしか逢えないゆえ、夜がもっと長く続けば良いのにと思うことがある」
「黄真伊(ファン・ジニ)の歌にそんなものがあったわね」
 カンは無言で頷き、歌うように続けた。
「あなたに逢えない独り寝の長い夜を切りとって、あなたに漸く逢えた短い夜に縫い付けたい」
 久方ぶりに逢えた恋人と過ごす夜があまりに短いと嘆く女性の切ない恋心を歌ったものだ。〝天下の名妓〟と今もその名を語り継がれる実在の妓生ファン・ジニりの詠んだ詩である。
「一人で過ごす夜はとても長いのに、二人で過ごす夜は呆気ないほど速く過ぎてゆく。だから、一人で過ごす長い夜を切りとって、あなたと逢う短い夜に縫い付けて少しでも長くしたい」
 ファソンも呟き、溜息を零した。
「今なら、ファン・ジニの気持ちが判るような気がするの」
 そこで、ファソンは我に返った。我ながら、何という大胆な科白を口にしてしまったのだろう!
 これでは〝好き〟と直截に告白するより、よほど気持ちが丸分かりではないか。
 しかし、カンはファソンの気持ちよりは、切々とした恋情を綴った詩の内容により関心を向けているようだ。
 どうやら、カンはファソンの恋心に気付かなかったようである。そのことに、ホッとしながらもどこかで落胆している自分がいることを、ファソンは滑稽にも哀しくも感じていた。
 ファソンはわざと明るい声で告げた。
「じゃあ、とりあえず〝忠孝明道〟は元の場所に戻しておくわね」
 つま先立ち書架の最上段に本を戻そうとした時、よろめいた。やはり、わずかに手が届かなかったのだ。
「危ないっ」
 カンが咄嗟にファソンの華奢な身体を受け止めてくれなければ、彼女は床にまともに衝突していたはずだ。
 背中に回された彼の手が熱い。丁度、二人は抱き合うような格好になっている。
「放して」
 やや掠れた声しか出ない。見上げれば、愕くほどにカンの顔が近くにあった。
「いやだ。放したくない」
―何て綺麗な男なのかしら。
 ファソンはカンの美麗な面を見つめる。綺麗なひとだとは思っていたけれど、つくづく美しい男だと改めて思った。
 綺麗に弧を描く眉、秀でた額から筋の通った鼻梁、わずかに切れ上がった眼(まなこ)、薄く形の良い唇。
 よく憶えておこう。いつか、彼の許を去る日が来ても、ずっと逢えなくなっても、彼の顔をいつまでも憶えておけるように、綺麗な面影を心に刻みつけておこう。
 でも、大丈夫だろうか。半日、一日逢えないだけで、こんなにも淋しくて辛いのに、彼にずっと逢えなくなって、私は生きてゆけるの?
 そして、彼に逢えなくなる日は遠くない将来、必ず来る。ファソンは彼と約束したのだ。中殿選びが終われば、彼女はカンの許を去る、と。
 何故、あんな約束をしてしまったのか。どうせなら、中殿選びが終わっても、彼が正妃を娶るまでは側にいると言えば良かったのに。
 そんなことを考える未練な自分がいやだ。
 カンの美麗な面が迫ってくる。唇が重なる予感がして、ファソンはそっと眼を閉じた。
「友達でも良い。何でも良いから、ファソンを手放したくない。好きだ」
 しっとりと重ねられた唇はすぐに離れた。
 ファソンの眼に大粒の涙が溢れる。
「ファソンはそんなに私を嫌い? 口付けられただけで泣くほど嫌なのか?」
 カンの声音には傷ついたような響きがある。ファソンは夢中で首を振った。
 彼への〝好き〟が、想いが溢れて言葉になにならない。ただ今は、自分も彼の広い背中に手を回して縋り付くしか、ファソンにはできなかった。
―好きよ。私もあなたが大好きよ、カン。でも、あなたは私には遠すぎる男だわ。
 この瞬間、ファソンは国王を愛してしまった自分の悲哀を嫌というほど悟った。
 
 書庫で過ごした時間は思いの外、長かったようである。昼過ぎに来たはずなのに、書庫を出たときは既に長い夏の陽は傾いていた。
 宮殿の幾重にも連なる壮麗な甍が残照に照らされ、黄金色に輝いている。そのはるか上の空の高みをねぐらにでも急ぐものか、数羽の鳥が群れを成して飛んでいった。
「また、近い中にそなたを連れてこよう。それまででも、来たいと思ったら、私に言えば良い。遠慮することはないんだぞ? どうも、も、そなたは慎ましすぎる」
 カンの優しい言葉に、ファソンはまだ涙の雫を宿した瞳でカンを見上げた。カンが眩しげに眼を細めたのは夕陽のせいだけではないのを、恐らくファソンは知ることないだろう。


「そんなに哀しそうな表情をするな。そなたが泣くと、私まで哀しくなる」
 カンは笑い、人差し指でファソンの涙を拭った。ファソンははにかんだように微笑む。
 泣くなと言われて、泣くまいとしているのが判る。人眼もはばからず、抱きしめたいほど可愛いと、カンは頬を緩めた。
 二人は顔を見合わせ、微笑み合った。一緒にいる時間が多くなるにつれ、不思議なことに、会話はなくても二人でいることそのものが何より安らげる時間となっていた。
 二人だけの時間に闖入者が現れたのは、そんな最中であった。ファソンは違和感を感じ、傍らのカンを見た。
 カンは凍り付いたように動かない。訝しげに彼を見つめ、その視線の先を辿ったファソンの眼に、一人の女人が映った。
 美しい女(ひと)であった。年の頃はまだ四十前、恐らくはファソンの母と同じくらいだろう。臈長けたその女性は愕くほど顔立ちがカンと似ていた。その豪奢な身なり、彼に酷似した容貌から、この女性が朴大妃その人であることはファソンにも察しがついた。
 女性の背後には数人の尚宮や女官が控えている。
「これは主上」
 大妃は手のひらを口許に添え、微笑んだ。美しく整え染められた爪がかいま見える。細く白い指に填められた幾つもの玉の指輪が陽光に燦然と燦めいた。
「母上さまにはご機嫌麗しく何よりに存じます」
 カンは実の母に対するとは思えないほど、他人行儀に恭しく頭を下げた。血の通った母と息子なら、無理にここまで冷淡にならなくても良いのではないかと、カンに対して思ったほどだ。これでは大妃が気の毒だと思ったくらいである。
 だが、その認識が甘すぎたとファソンは直に知ることになる。
「母上、申し遅れましたが、この者が」
 カンが傍らのファソンを紹介しようとすると、大妃は手で制した。が、カンは知らぬ顔で続ける。
「この者は新たに我が後宮に迎えた昭媛にございます」
 カンにわずかに背を押され、ファソンはおずおずと前に進み出た。大妃の前で両手を組み、拝礼を行う。
 だが、拝礼の間、大妃はずっとあらぬ方を見ていた。実のところ、ファソンはカンと初めて夜を過ごした翌朝、大妃殿に挨拶に行ったのである。が、頭痛がするとのことで逢っては貰えず、結局、十日続けて挨拶に通っても、対面は叶わなかった。
 大妃がカンを見た。相変わらず、ファソンの方には視線を合わせようともしない。
「そのような恥を知らぬ者を王族とも嫁とも認めるつもりはない」
「母上!」
 カンの声が大きくなった。
「大体」
 大妃が初めてファソンを見た。睨(ね)めつけるような視線に、身が竦むようだ。ファソンはあまりにもあからさまな敵意に膚が粟立った。朝鮮開国以来の功臣の名家に生まれ、大切に育てられた令嬢育ちのファソンは生まれてこのかた、ここまでの凄まじい憎しみを向けられたことはなかった。
「そなたらは、あの書庫で何をしておったのだ? 書庫は貴重な書物を保管する神聖な場所でもある。そのような場所で昼日中から、淫らな行いに耽るとは許し難い。そなたも下級とはいえ、両班の娘なら、恥を知るが良い」
 あまりの言葉に、ファソンは唇を噛んだ。無意識に強く噛んだため、口中に鉄錆びた味が苦くひろがる。
「大妃さま(テービマーマ)。それは誤解です。私は天に誓って、そのような恥ずべき行いは致しておりません」
 せめてこれくらいは許されるだろう。ファソンが言い終えた時、ピシッと空気を打つような鋭い音が響き渡った。
「―」
 ファソンは思わず手のひらで頬を押さえた。両親にでさえ、ぶたれたことはない。厳しい父も口うるさい母も、ファソンを叱ることはあっても、手を上げたことはなかった。
「母上(オバママ)」
 カンの顔色が瞬時に変わった。
「そなたごとき小娘がこの大妃である私に直接もの申すとは何という身の程知らずな。目上の者に無闇に話しかけてはならぬと父母から教えられなかったのか! もっとも、このような淫売を生んで育てるような親の躾なぞ、たかが知れておろうがの」
 ファソンは膝前で組み合わせた両手を白くなるほど握りしめた。
「あんまりです、大妃さま」
「淫売を淫売と申して何が悪い。そなたがやっておることは主上に色目を使い媚を売る、妓生がやっておることと同じではないか。両班の息女が色町の遊び女と同じことをしておるというのだから、この国ももう世も末であろう」
 涙が、溢れた。ここまで他人に悪し様に言われたのは初めてだ。何故、自分がここまで貶められねばならない? しかも、自分だけではなく、両親のことまで。
「私のことはまだよろしいのです。さりながら、何の拘わりもなき父母まで悪し様に仰せになるのは止めて下さいませ」
「生意気なッ」
 またピシリと、乾いた音が響いた。ファソンは打たれた両頬にひりつく痛みを憶えながら、大粒の涙を流した。
 ついに、カンが切れた。
「母上っ、止めて下さい。昭媛にどのような罪咎があって、このような酷いことをなさるのですか!」
 大妃がキッとカンを睨みつけた。
「大体、そなたが悪いのです。このような小娘にのぼせ上がってしまわれ、後先も考えず側室にするなど。今がどのような大切なときなのか、主上もお判りでしょう」
 息子に諫められ、大妃の怒りはますます煽られたようだ。当然ながら、その怒りはファソンに向けられた。
「ええい、お前が悪いのだ、お前が王宮に来てから、主上は狂ってしまわれた。お前さえ、主上の前に現れなければ良かったのだ。そなたがすべての禍を招く元凶に違いない」
 今度はファソンも、大妃の振り上げた手をよけようとした。しかし、その手の先が頬を掠め、ファソンの白い頬には糸ほどの細い傷ができてしまった。雪膚にくっきりと浮かび上がる鮮やかな紅い傷に、カンが悲鳴を上げた。
「たとえ母上だとて、もう許せぬ」
 カンの握りしめた拳が戦慄いていた。それを見た大妃がヒステリックな笑い声を上げた。
「何と、真、その妖婦に惑わされてしまいましたか、主上。実の母を、そなたを腹を痛めて生みしこの母を手にかけるおつもりか!」


 ファソンは信じられない想いでカンを見た。いつも穏やかな彼がここまで怒りを露わにしたのを初めて見た。だが、このままでは本当に大妃に殴りかかっていきそうな勢いだ。
 ファソンはその場に跪き、カンに取り縋った。
「殿下、お願いでございます。どうか、お怒りをお鎮め下さい。すべては私が至らず、大妃さまのお怒りを招いてしまったゆえなのです。ゆえに、この場はどうか」
 自分などのためにカンと大妃の母子仲に亀裂が入ってしまったとしたら―。それはあまりに哀しいことだ。
「殿下、殿下。お願いです」
 泣きながら訴えるファソンを、カンはやるせなさげに見つめた。
 大妃がせせら笑った。
「大方はそのように夜毎、お閨でお若い主上に泣き縋り、主上を意のままに操っておるのであろう、女狐め」
「母上、この上、我が妻を愚弄するのは、たとえ母上とて許せませぬぞ」
 カンの声音は先刻と異なり、どこまでも静謐だった。普段感情を表に出さない人というのは、怒りが深ければ深いほど、かえって静謐さをその身に纏うものだ。
 恐らく大妃はそれを知らないのだろう。
「何が妻だ、聞いて呆れる。先刻も申したであろう、私は大妃として、内命婦の頂点に立つ者として、そなたを王族とも嫁とも認めるつもりはない。さよう心得よ」
「母上(オバママ)ァ」
 カンが吠えた。まさに、虎の一瞬の咆哮。その叫びは大地と空を揺るがせ、聞く者を震え上がらせるには十分だった。
 大妃に付き従う尚宮と二人の女官はもう顔面蒼白で震えている。
「大妃さま、ここはひとまず大妃殿に戻った方が」
 尚宮が小声で囁くのに、大妃はそれでもまだファソンを睨みつけた。
「大切な国婚を前に、泥棒猫のような娘の色香に血迷ってしまわれるとは我が息子ながら、情けなや」
 カンは大妃ではなく、その背後の尚宮に声をかけた。
「馬尚宮」
「は、はい。殿下」
「大妃さまはかなり御気色が悪いようだ。しばらくは大妃殿でご静養頂くことにする。朕(わたし)の許可があるまで、大妃殿を出られることはまかり成らず。これは王命と心得よ」
「承りましてございます」
 気の毒に、四十ほどの尚宮は震えながら頭を下げ、女官二人に目配せした。
「さ、大妃さま。参りましょう」
 馬尚宮が声をかけるのを合図に、女官二人が大妃の肩を両脇から抱えるように抱く。
「主上、主上はこの母を大妃殿に監禁なさるおつもりか! たかが妖婦に惑わされて、そなたを生んだ母を蔑ろにすると」
 大妃は髪を振り乱し、後ろを振り返りながらわめき散らしながらも、女官らに拘束されて大妃殿に引き返していった。
 大妃一行が見えなくなった次の瞬間、ファソンの身体はふわりと逞しい腕に抱きしめられた。
「済まぬ」
 カンがファソンの髪を撫でた。
「まさか母上がそなたにこのような酷い所業を致すとは考えてもみなかった。私が甘かった」
「うっ、えっ」
 このときばかりはファソンも我慢の限界をとうに超えていた。彼女はカンの腕に抱かれて、泣きじゃくった。
 カンはファソンが泣き止むまで辛抱強くずっと髪を撫で続けてくれた。
  
 夜になった。
 ファソンはいつものように王の寝所に召された。今、二人は寝台に腰掛けている。
「痛むか?」
 カンはファソンの頬にそっと人差し指で触れた。
「痕は残らぬとは思うが」
 ファソンの白い頬にはまだ細く紅い筋がくっきりと残っている。
 ファソンは微笑んだ。
「大丈夫、こんなのは、かすり傷よ。舐めておけば治るわ」
 その言葉に、カンが吹き出す。
「いかにも、そなたらしいな」
 しかし、次には真顔で言う。
「いやいや、可愛いその顔に少しでも傷痕が残っては大変だ」
 彼は丸卓の上に乗った円い小さな器を取り上げた。器は陶製で、蓋には藍色で牡丹と蝶が描き込まれている。カンは蓋を開け、器に入った軟膏を指で掬った。
「少し痛むかもしれないが、我慢してくれ」
 カンは軟膏をファソンの傷に丁寧に塗った。確かに触れられれば痛む。だが、そこまで心配するほどではない。
 それでもカンは軟膏を何度かに分けて丹念に塗ってくれた。
「これはヒビやあかぎれにも効くのだ。今日の騒動を聞いて、セオクが届けてくれた。むろん、切り傷、擦り傷にもよく聞くゆえ、治りも早いだろう」
「金尚宮さまが下さったの?」
「ああ。私が幼い頃にも転んで怪我をする度に、よく塗ってくれた」
 どこか遠い瞳で懐かしげに語るカンの横顔には、拭いがたい翳りが落ちていた。もしかしたら、彼が思い出す遠き幼い日の記憶には、実の母である大妃はいないのかもしれない。
 それは今日の二人を見ても、自ずと知れることであった。ただ単にファソンが原因で仲違いをしたというわけではなく、二人の間に生じた溝はもっと根深い部分から始まっているように思えてならなかったのだ。
 部外者のファソンですら、それを微妙に感じ取ったのだから、当事者たちは更にしっかりと自覚しているに相違ない。
 ファソンはわざと明るい声を出した。
「カンはやんちゃ坊主だったのね? きっと金尚宮さまや沈内官を困らせてばかりいたのでしょう」
「いまだに家出するお転婆な〝本の虫〟姫には言われたくない科白だな」
「それは言わないで」
 ファソンは身を縮めて言い、カンはそれを見て大笑いした。
 が、ふとした拍子に彼は呟いた。
「セオクや爺がいなければ、私はとっくに気が狂っていたかもしれないな」
「カン―」
 ファソンは何を言うこともできず、切なくカンを見た。
「おかしな家族だった。父も母も健在だというのに、父は母以外の女―側室たちの許に入り浸りで、妻と息子を顧みもしない。母は母で良人に振り向かれぬ淋しさを美麗な衣装や宝飾品で身を飾ることで忘れようとした。普段は自分に息子がいることなど忘れ果てている癖に、ふとした拍子に思い出すんだ。そして、狂ったように息子を溺愛した」


 カンは自嘲気味に笑った。
「ひとしきり息子を構った後は、また私のことなど思い出しもしない。気まぐれな母の愛情をそれでも子どもだった私は待っていたよ。今度はいつ母の笑顔を見られるのか、そればかり考えていた。そんな私にごく普通の愛情を与え、それがどういうものかを教えてくれたのが爺とセオクだった。私にとっては実の両親よりも爺とセオクが身近で、本当の親のようなものだ」
「昼間のことはカン、私が悪かったからで―」
 言いかけたファソンに、カンが哀しげに微笑んだ。
「いや、そなたは悪くない。幾ら何でも、あれは大妃さまの言い過ぎだ。気が狂ったとしか思えない」
 カンは〝母上〟ではなく〝大妃さま〟と呼んだ。ファソンは瞳を潤ませた。
「カン、大妃さまはカンを生んでくれたお母さんよ。お母さんのことをそんな風に言ってはいけないわ」
 ファソンは涙声で言った。
「大妃さまは国母であらせられ、この国で最も高貴な女性だわ。そのお方に私は刃向かった。確かに礼儀をわきまえないと誹られても仕方なかったと思う。だから、もう、大妃さまのことを悪く言うのは止めて」
 確かに、あのときはファソンもカッとなって大妃に心のままを吐露してしまった。父母を侮辱され、逆らってはいけないと思いつつ、抑えられなかった。自分だけなら貶められても我慢できたけれど、大切な父と母を悪し様に言われて、許せないと思った。王の母に対して初対面で食ってかかったのだ。確かに大妃は行き過ぎであったが、ファソン自身にも非がないとはいえなかったのだ。
 カンが笑った。
「私はそなたのそう言うところが好きなんだよ、ファソン」
 単に性格を褒められただけだというのに、そんな些細なことにも頬が熱くなってしまう。紅くなったファソンを優しい眼で見つめ、カンは言った。
「今日のことでは、そなたに辛い目をさせた。何か詫びがしたいのだが、欲しい物はない?」
 ファソンは慌てて首を振った。
「そんなもの、要らないわ」
 いや、と、カンは今度ばかりは、きっぱりと断じた。
「どうしても詫びをしたい」
 ファソンは困ったように眉を下げた。
「そんなことを言われても、かえって困る」
 カンがすかさず言った。
「特に欲しいものでなくても構わない。何かして欲しいこととかあれば、遠慮無く言ってごらん」
 ファソンは少し躊躇った後、控えめに言った。
「一度、家に帰らせて」
「ファソン。まさか、私の側から去るというのか?」
 カンの声が一段低くなる。ファソンは慌てた。
「違うの、そういう意味ではなくて。一度、家に帰って両親に無事な姿を見せたいの。屋敷を黙って出て、もうそろそろ二ヶ月になるわ。父のことだから、きっと都中を探したでしょうけど、私を見つけられなくて心配していると思うの。母は母で心配性だから、どうしているかと考えると、気が気じゃなくなってしまうのよ」
 その説明で、彼は漸く納得したようだ。
「なるほど、そういうことか」
 確かにな。彼は小さく頷きファソンを見返す。
「宮殿で暮らしてみて、私、自分がどんなに世間知らずだったか知ったような気がする。今までは両親がああしなさい、こうしなさいと言うのが鬱陶しくて、早く束縛から解放されたいとばかり思っていたけれど、本当は父や母に守られていたんだなって、判った。父と母なりに私の幸せを願って、見合いをしろと勧めたのね、きっと。でも、子ども過ぎた私は親の愛情を理解できなかった。だから、家に戻って、父や母に謝りたい。それから、どうしても伝えたいことがあるの」
「―」
 カンが訝しげにファソンを見る。彼女は瞳を閉じて、また開き、ありったけの勇気をかき集めて言った。
「本当に好きな男の傍にいる幸せを知ってしまったから、もう別の男には嫁げないと言うわ」
 カンが眼を見開いた。
「それは、私を好きだということか?」
 ファソンは恥じらいながらも、しっかりと彼の眼を見て頷いた。
 カンの綺麗な面にひときわ優しい微笑が浮かぶ。
「そんな可愛いことを聞いたら、もう二度と放してやれなくなるぞ。気が変わったというなら、今の中だ」
 ファソンは泣き笑いの表情で首を振る。
「大丈夫。さんざん悩んで、やっと自分の気持ちを素直に口にできたの。心変わりなんかしない」
 随分と回り道をしたけれど、これで悔いはない。彼の側にいたいという気持ちと、彼と共に生きてゆきたいという気持ち。どちらの想いにも眼を背けず、運命を受け容れていこうと思うのだ。
 それは即ち、後宮の女になるということでもあった。王の側室として、いずれ彼が迎えるであろう中殿や他の側室たちと共に後宮で生きてゆく。
 今でも正直言えば、彼が自分以外の女をその腕に抱いたり優しく微笑みかけるのを見たくはない。でも、彼を永遠に失ってしまうのと、彼の側にいたいという気持ちを秤にかけた時、彼の側にいられなくなるよりは、辛くても微笑んで王の女として生きることを選びたいと思ったのだ。
 だが、この胸の葛藤をカンに告げる気はなかった。こんなどす黒い、もやもやとした想いは自分一人の胸にしまっておけば良い。彼が中殿や他の側室を迎えることになったら辛いだろうけれど、涙は堪えて微笑んでいれば良い。難しいかもしれないが、微笑むことができるように精一杯努力しよう。
 ファソンが考えに耽っている中に、ふわりと身体が宙に浮いた。思わず悲鳴を上げて彼にしがみつくと、カンが薄く笑った。
「どうやら、今夜が私たちの本当の初夜になるみたいだね」
「―っ」
 真っ赤になったファソンを抱き上げ、カンは宝物を扱うような恭しい手つきで彼女を寝台に横たえた。
「カン。私―」
 思わず身を起こそうとしたファソンの身体をやわらかく押し倒し、カンは彼女の上からすかさず覆い被さった。
「心変わりはしないと約束したばかりだぞ?」
 からかうように言われ、ファソンは眼を見開いた。
 ―そう、私は決めたのだ。
「後悔はしない?」
 再度問われ、今度は落ち着いて応えられた。
「しないわ」
「そう?」
 優しく唇を啄まれる。二度目の接吻だ。



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