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 ファソンは感謝を込めてキム尚宮に頭を下げた。両側から女官二人が扉を開き、ファソンはその隙間から身をすべり込ませる。
 背後で扉が閉まった。ここにはかつて一度だけ来たことがある。女官になってまもない日、金尚宮に薬湯―実は生姜湯を病臥している王に運ぶように命じられたときのことだ。
 あの日からまだひと月半ほどしか経っていないというのに、何か随分と昔のような気がする。
 相変わらず大きな寝台が奥に見え、王はといえば、傍らの丸卓の前、椅子に座り、手酌で酒を飲んでいた。
「やあ」
 ファソンを認めると、カンはいつものように屈託ない笑みを浮かべた。ファソンはいつもと変わらない様子の彼にどこかホッとして、近づく。
「何か待ちきれなくて、先に飲み始めてしまった」
 見れば、カンの眼許はうっすらと染まっていた。彼も白一色の夜着姿である。
「支度に時間がかかりすぎたのね」
 何しろ王の側に侍る初めての女が現れたということもあり、尚宮や女官たちは張り切って〝今宵、玉の輿に昇る世にも幸せな女官〟の支度を整えた。
 ファソンが立ったままなのに改めて気付いたらしく、カンが笑った。
「ああ、ごめん。座って」
 どう? と、盃を差し出され、ファソンは首を振った。
「あまりお酒は飲んだことがないの。私がやるわ」
 ファソンは卓の上の酒器を手にし、カンの差し出した盃に注ぐ。
「良いね、こういうのは。何だか夢みたいだ。ファソンとこうして一緒に夜を過ごすことができるだなんて」
 それから後もカンは盃を重ねた。干せばまた差し出してくるので、注がないわけにはゆかない。用意された酒器は三つ、二つが空になってもまだカンは酒が欲しいとねだった。
 ファソンが注ごうとしないので、焦れた彼はファソンの手から酒器を奪おうとする。彼女は酒器を奪い取ったカンの手を上からやんわりと押さえた。
「飲み過ぎよ」
「そうかな?」
 カンは酒を飲んでいる間中、他愛ないことを喋っていた。いつもはどちらかといえば無口で、喋るのは専らファソンの方なのに、今夜のカンはどうもいつもと違っているように見えた。
「あまりお酒には強くないんでしょ、カン」
 眼許を染めているカンはいつになく男の色香を漂わせている。美しい男だけに、酔いでほんのりと白皙の美貌を染めている様は凄艶ともいえた。
「ふふ、バレたか」
 外見とは裏腹に悪戯を見つけられた子どものようなあどけなさで言い、立ち上がった。カンの身体が一瞬、ふらつく。
「危ないわ、気を付けて」
 カンの身体を支え、苦労して寝台へと連れてゆく。大柄な彼と小柄なファソンでは身長差がありすぎるので、支えて歩くのもひと苦労だ。
「おっと」
 カンがおどけた声を発し、それを合図とするかのように二人は均衡を崩し、もつれあうようにして寝台に倒れ込んだ。
 寝台の上には濃厚な香りを放つ深紅の花びらが一面埋め尽くすかのように散り敷かれている。膚に纏った香油の匂いに加え、寝台から立ち上る花の香りに、ファソンはボウと神経が痺れ、まるで飲んでもいない酒に酔ったかのような軽い酩酊状態になりそうだ。
 気が付けば、カンはファソンを逞しい腕で囲い込んでいた。ぬばたまの闇よりもなおも深い瞳が射貫くように見つめている。
「ファソン」
 ツキリとした痛みが首筋に走った。いきなり首筋に口づけられ、ファソンは固まった。痛みを憶えたからには、ただ口付けただけではなく、軽く咬まれたのかもしれない。
 幸か不幸か、この衝撃でファソンの茫洋とした意識は急速に現実に呼び覚まされた。
「止めて。見せかけだけの結婚だと約束したじゃない」
 ファソンの抗議に、カンがふっと謎めいた微笑を刻む。
「見せかけだけじゃない、君が望むなら本物の結婚したって良いんだ」
 カンはなおも彼女を見つめる。寝台の枕許では大きな蝋燭が赤々と燃えている。黄金色の蝋燭には国王の象徴である龍がくっきりと刻まれていた。朝鮮国では古(いにしえ)より王は龍の化身とされる。
 淡い光を投げかける灯火が、王の端正な横顔を照らし、ファソンを見下ろす双眸に微妙な陰影を刻んでいた。
 張りつめた沈黙に押し潰されそうになった時、ファソンは消え入るような声音で応えた。
「―望まないわ」
 カンは更にそのままの体勢で見下ろしていたが、やがて、すっとファソンから離れた。
 ファソンは急いで身を起こして立ち上がろうとする。と、すかさず背後から抱きしめられた。
 カンとぴったりと身体を密着させた状態だ。ファソンは再び身を強ばらせた。
「せめて、これくらいは我慢してくれ。そなたをこの腕に抱くくらいは許して欲しい」
 カンはファソンの腰に両手を回し、髪にそっと唇を押し当てる。
 カンの鼓動が重ねた身体越しに伝わってきて、同じように高まった我が身の鼓動もファソンの耳に異様に大きく響いた。二つの鼓動は烈しく高らかに重なり合っている。
 カンの手がそろりと伸び、ファソンの艶やかな髪にふれた。
「この簪、初夜に付けてきてくれたんだ。セオクから君があの簪を付けたいと言っていると知らされた時、私はとても嬉しかったんだ。私と同じように、ファソンもこの夜を特別なものだと思ってくれていると期待をしてしまった」
「カン、その初夜という言い方は」
 本当の結婚ではないのだからと釘を刺そうとすると、カンが〝シッ〟と止めた。
「ファソンにとっては、そうなのかもしれない。さりながら、私にとっては特別な夜なんだ。特別な女と迎える初めての夜だから」
「―っ」
 息を呑んだファソンに、カンの掠れた声が囁いた。 
「―好きだ。ファソン。たとえファソンが私を好きでなくても、受け容れてくれなくても、それはそれで良い。無理に君の身体を奪って、それで永遠に心を失いたくはないんだ」
 彼はそっとファソンの髪のひと房を掬い、口付けた。刹那、走った鋭い感覚を何と例えれば良いのか。ファソンにはまだその時、それを言い表す言葉を持たなかった。


 髪の毛に触れられただけなのに、直接膚を愛撫されかたのような、危うい熱。小さな焔が髪先に点り、それが大き焔となり全身にひろがって、身体ごと彼から与えられた熱に灼き尽くされるかのようだ。
―好きだ。
 彼は確かにそう言った。けれど、彼の気持ちを知って両想いだからと判っても、事態は何も変わりはしない。
 彼を受け容れることは容易いが、その先はどうなる? 彼は王だから、いずれ正妃を迎えることは判っている。その時、自分はどんな顔をして彼の側にいれば良い?
 〝好きだ〟と熱く囁いたその同じ口で別の女性を口説き、その腕に抱くのを側で見ているのはあまりにも辛い。
 そう、王さまを好きになるというのは、そういうことだった。けして大好きな男のただ一人の女になることはできないのだ。後宮という美しい花が咲き誇る庭園で、たまに気まぐれに訪れる蝶を待つだけ。
 蝶が飽きれば、花は後はうち捨てられ、ひっそりと咲いて散るしかない。それが、後宮で生きる女の宿命なのだ。
 愛のない男ならば、他の女を抱くのを側で黙って見るのも耐えられようが、彼を愛していればこそ尚更、側で見ているのは耐えられないし辛い。
 いつしかカンは眠ってしまったようだった。
「私の大切な吾子はどこから来た。吾子は天からやって来た。吾子はどんな金銀財宝よりも大切な宝物。吾子よ、私の吾子よ、天から下された大切な宝物よ」
 ファソンは歌う。カンがあの日、初めて彼女がここに脚を踏み入れた日、歌って欲しいと懇願した子守歌を。
 一度歌い終えても、何度も何度も繰り返し歌った。歌い続けるファソンの白い頬にひと筋の涙がつたい落ちている。
 ファソンは泣きながら、いつまでも歌い続けた。孤独な愛する男がせめて夢の中では安らげることができるようにと、心をこめて歌った。
  
 初めて寝所に召された翌朝、ファソンは一つの殿舎を与えられた。これまではキム尚宮の殿舎で女官として一室を与えられていたのが、独立した殿舎の新たな主人となったのだ。
 更に王命によって、側室として位階が与えられた。ファソンに与えられたのは〝昭媛(ソウォン)〟という地位である。側室には最下位の〝淑媛(スクウォン)〟から上は〝嬪(ヒン)〟まで様々な階級がある。嬪は側室の中でも最高位であり、正室たる中殿、王妃に準ずる高い地位だ。
 今回、ファソンに与えられたのは昭媛といい、最下位の淑媛よりは一階級上であった。しかし、このことによって、王の母朴大妃の怒りに油を注ぐ形になってしまった。
 元々、大妃は王が独断で迎えた初めての側室について容認どころか、むしろ猛反対していたのだ。更にここに至り、その新入りに与える位階が淑媛ではなく昭媛であるというそのことが、大妃の逆鱗に触れた。
―何という我が儘で末恐ろしいおなごか。お若い主上(チユサン)を我が意のままに操る妖婦めが。さぞかし寝所で主上を手練手管を尽くして、かき口説いたのであろうて。
 大妃の怒りは凄まじかった。
―女官が王に見初められて側室になる場合、長い後宮の歴史を紐解いても、まずは一番下の淑媛を与えるのが妥当ではないか。聞けば、その娘、父親は両班とはいえ、名乗りもできぬほど逼塞した家門の下級両班だそうな。そのような娘をいきなり昭媛にするなど、言語道断。同じ側室でも、こたびの選抜試験を受けて入宮する令嬢とは格が違うことを示さねばならぬというに、主上は何を血迷われたのか。
 確かに大妃の意見にも理はあった。女官に王の手が付いて後宮となる場合、淑媛もしくは側室でもない〝特別尚宮〟を起点とする先例が多かったのは事実である。特別尚宮というのは〝承恩尚宮〟ともいい、仕事を持つ一般の尚宮とは違う。要するに側室としての位階は賜れなかったが、王の寝所に召されて伽を務める女官を一般の尚宮と区別して〝特別尚宮〟と呼んでいる。
 〝承恩〟とは王の恩寵を承けたという意味だ。我が生みし王子が王となり、王の母として嬪にまで上り詰めた側室でさえ、女官出身であれば特別尚宮から出発して嬪まで進んだ場合が多い。
 今回のように公募の選抜試験で勝ち残り最終選考まで進んだ令嬢の場合、いきなり高位の側室に任ぜられることも少なくはないが、それはまた別格なのである。
 そして、大妃の邪推はまた他の多くの人々の思惑と大差なかった。
―新入りの陳昭媛が夜毎、国王殿下をご寝所で誑かしているそうな。
―何でも病身の父親や能なしの兄を官職につけて欲しいと泣いてねだっているというぞ。
 もちろん、事実無根の心ない噂だし、どこでどう間違っても、そんな会話を閨でした憶えもないファソンだ。
 大体、〝初夜〟を済ませた後、毎夜のように共寝をしているといっても、ファソンはただ王の寝台でカンと枕を並べて眠るだけなのだ。話はたくさんするけれど、それは大方はその日一日、逢わない間に起こった出来事ばかりで、極めて他愛ないものばかりだった。
 恐らくは大妃殿の女官辺りが故意に流した悪意のある噂というより誹謗中傷に相違なかった。
 悪は千里を走るという。〝妖婦陳昭媛〟の噂は瞬く間に野火が枯れ野にひろがるように後宮といわず宮殿中にひろがった。
 そんなある日の昼下がり、ファソンはカンに伴われ、ある場所に連れられていった。
「ねえ、カン。どこに案内してくれるの?」
 ファソンはカンに無邪気に訊ねた。ファソンとて自分をめぐる酷い噂を知らぬわけはないだろうのに、いつも明るく笑っているのが余計に王の心をファソンに惹きつける。
 ファソンはむろん、〝妖婦〟と罵られていることは知っていた。どうして、そんな噂がひろまってしまったのかは皆目判らないけれど、自分は何も天に恥じるようなことはしていない。ゆえに、毅然としていれば、いずれ心ない噂も消えてゆくのではないかと思っている。
―ファソン。天が遠くにあるからと甘く見るなという諺を忘れてはいけないよ。自分がなした行いは良くも悪くも必ず巡り巡って自分に返ってくる。人は良い行いをすれば自ずから良き運を招き、悪き行いをすれば不運を招く。誰が見ていなくても知らずとも、天だけは見ているのだからね。
 幼い頃、父ミョンソはファソンを膝に乗せて、そんなことを語り聞かせた。そのときから、ファソンは〝天に恥じる行いだけはすまい〟と自らを固く戒めてきたのだ。
 ゆえに、今回の騒動も刻が経てば鎮まるに違いない―というのがファソンの考えであった。


―お父さま、どうしているかしら。心配性のお母さまはまたヒステリーを起こして泣いてばかりいるかも。
 家を出て二ヶ月近くが経とうしている。最近、流石にファソンも実家や両親のことを思い出すことが多くなってきた。
「さあ、一体、どこだろうな」
 カンは彼女がどこか愁い顔なのに気付いているようで、しっかりと繋ぎ合わせたファソンの手に力をこめた。
「着いたぞ」
 カンは袖から鍵束を取り出し、その中の一つを眼の前の建物の扉に差し込んだ。ここは広大な宮殿の敷地内でも最奥部に位置する。
 鍵穴に差し込んだ鍵を回すと、難なく扉が開いた。わずかに軋んだ音を立てて開いた扉を押し、カンが先に入る。その後から、ファソンもついて入った。
「カン、ここは書庫ね?」
 ファソンは思わず歓声を上げていた。
「うん、清国や諸外国から入ってきた貴重な外国の本などはほぼすべてここに揃っているはずだ」
 ファソンは眼を輝かせながら、早速、並んだ書棚を巡った。王宮には誰でも立ち入ることのできる書庫があるが、ここは違う。国王、王妃、更には王族、特別に許可を得た者でなければ立ち入りはできない場所なのだ。
 さして広くはない空間に縦長の書架が幾つも並んでいる。書架には貴重な蔵書が整然と陳列されていた。
 ファソンはその一つ一つの書架を時間をかけてゆっくりと見て回る。古い本の匂いが立ちこめた空間で深呼吸すると、何だか生き返ったような心もちになった。
「あ、見て。〝忠孝明道〟もあるわ」
 最後尾の書架までいったファソンが叫び、カンもやって来た。
「どれどれ」
 彼は上背があるので、ファソンのすぐ背後に立ち、難なく確認したようである。
「見ても構わない?」
 窺うように見上げられ、カンの白い面がうっすらと染まった。
「もちろんだ。ファソンは私の妻なのだから、れきとした王族だ。ここは王族は立ち入り自由だし、好きなだけ見ると良い」
 許可を得たファソンは伸び上がった。〝忠孝明道〟は書架のいちばん上の棚にあった。ファソンでは、どうしても届かない。
「よしよし、待って。今、取ってあげるから」
 背後でひそやかな笑い声が聞こえ、カンがお目当ての本を楽々と取って渡してくれる。
「ありがと」
 ファソンは熱心に〝忠孝明道〟を読みふけった。実際、こんな生き生きとしたファソンを見るのはカンは初めてだった。宮殿に連れてきてからというもの、ファソンはどこか元気がなく打ち沈んでいるようなところがあった。
 今日のファソンは彼が初めて下町で出逢ったときの彼女を思い出させる。
―この娘はつくづく本が好きなのだな。
 〝本の虫〟というあだ名はあながち間違ってはいないということか。
 こんなに歓ぶのを見られるのなら、度々、ここに連れてきても良いし、何ならファソンにこの書庫の合い鍵を与えても良いだろう。合い鍵を与えたからといって、勝手に貴重な蔵書を持ち出したり私したりするような娘ではない。〝王の寵愛〟に甘えるようなファソンではないとカンはよく判っていた。
 優しくて健気で、泣き虫で、いざとなったら自分の信ずる道をがむしゃらに突き進む頑固な少女。欲など一切なく、ましてや他人を陥れたりすることなど、考えたこともないだろう。
 カンがファソンを抱かないのは、彼女の人柄によるところも大きい。もちろん、初夜に言ったとおり、一時彼女の身体を欲しいままにして、永遠に彼女の心と信頼を失うのは避けたい。そいういう理由もある。けれど、いちばんの理由は、ファソンが後宮という伏魔殿で生きてゆくには優しすぎるからということもあった。
 ファソンという花はきっと後宮では萎れてしまうだろう。彼女の生き生きとした魅力は恐らく、宮殿ではなく市井でこそ発揮できるものだ。多くの女たちが王の寵愛をめぐって妍を競い、時にはライバルを策略を巡らせて陥れたりする後宮という魔窟に彼女を閉じ込めてしまうには忍びない。
 だからこそ、彼はよりいっそうファソンという少女に魅了される。 
「ねえ、カン」
 そこでカンの想いは中断された。当のファソンが輝く瞳で彼を一心に見上げている。こうなると、二十一歳の国王はもう何も考えられなくなる。ファソンが〝若い王を骨抜きにしている〟という噂はある意味では正しいといえるかもしれない。
 一方、ファソンは、どうしてもカンに伝えたいことがあった。
「同じ〝忠孝明道〟なのに、私の持っているのと所々、違っている部分があるのよ。どちらが正しいのかしら」
 カンは首を捻った。
「そうなのか。私は恥ずかしいが、まだそこまで熟読してないからな。多分、ここの書庫にある本は清国から渡ってきた原本、もしくは原本に近いものだろう。ならば、市井の書店で入手したものよりは、宮殿の書庫の方がより正しいのではないか」
 ファソンは弾んだ声で応じた。
「そうかもしれないわね。曺さんの本屋にあった本は、誰かが書き写して更に書き写したものだという可能性が高いもの。その点、宮殿の書庫はあなたの言うとおり、清国から伝わったものがそのまま保管されていると思うから、きっと、こちらが原本により近いのね!」
 ファソンは興奮した面持ちで続けた。
「私、違っている部分を憶えられるだけ憶えて帰るわ」
 カンが笑った。
「必要なら、殿舎に持って帰れば良い」
「あら、それは駄目よ。ここの書庫の本は全部禁帯出なんでしょう。持ち出し禁止の本なのに」
「王命があれば、例外的に持ち出せることになっている。私が許可するゆえ」
 ファソンは真顔で言った。
「それは止めておくわ。こんな言葉は使いたくないんだけど」
 ファソンは言い淀み、続けた。
「〝寵愛〟に甘えるようなことはしたくないの。皆はカンが私に甘すぎると言ってるのよね。もし、私がここで持ち出し禁止の本を持って帰ったりしたら、自分で噂を肯定するようものでしょう」
 そのひと言に、カンはハッとした表情になった。
「確かに、そなたの言うとおりだ。私が浅はかだった」


 ファソンは微笑んだ。
「そんなことはないわ。カンはいつも私に優しくて、気遣ってくれるもの。ありがたいと思ってる。カンが行き場のない私を助けてくれたように、私もできることは知れているけれど、カンの役に立ちたいわ。私たち、恋人や夫婦にはなれなくても、友達にはなれるわよね」
「友達、か」
 カンは泣き笑いの顔で言った。
「今度、案内して貰うときは筆記用具を持ってくるわ。ここで書き写すのなら、問題はないでしょ」
「そうだな。では、そのときまで我慢して、今日は憶えきれるだけ憶えて帰ってくれ」
 カンの言葉に、ファソンは笑顔で頷いた。
「そうするわ」
 ところで、と、ファソンはカンを見た。
「最近は〝春香伝〟の続きは書いてるの?」
 初夜以来、殆ど同じ寝台で眠っている二人だ。以前、カンは執筆は夜にやると話していたが、ここのところ、彼はファソンと枕を並べて眠るだけで、特に執筆をしている気配はない。
 実は、ファソンはそのことがずっと気になっていた。最初に出逢った時、彼は〝春香伝〟の続きを書きたいのだと熱く語っていた。彼にはその夢を諦めて欲しくないのだ。
 ファソンの問いに、カンは黙り込んだ。ややあって、照れたように笑う。ファソンの大好きな少年のような笑顔に、鼓動が速くなる。
「ちゃんと書いてるさ。夜は書けないから、昼間にちょっと政務の合間に」
「まあ、駄目じゃない。お仕事をするときはちゃんと仕事に集中しなければ」
「爺の眼が光っているから、そこまではできないんだよ。上に上奏書を乗せて、下に書きかけの原稿を置いて書くんだ。で、爺が入ってきたら、すぐに上奏書を読むふりをする」
 身振り手振りを入れて得意げに話すカンは、まるで親の眼を盗んで勉強中に悪さをする子どものようである。
 ファソンは思わず、クスリと笑みを零していた。
「いけないことではあるけど、カンらしいわ」
 沈内官に隠れて必死で小説を書いている王の姿が眼に浮かぶようで、笑えてくる。が、ファソンは表情を引き締めた。
「カン。私のことなら、気にしなくて良いのよ。私も一日あなたに逢えなくて淋しいし、ゆっくり話せるのは夜だけだから愉しみにしているけれど―。あなたの執筆の邪魔をしているのなら、淋しいのも我慢するわ」
 暗に寝所に召す回数を減らして欲しいと伝えれば、カンは慌てた。
「いやだ。私だってファソンに逢えない日中は、とても長くて淋しいんだ。夜だけしか逢えないゆえ、夜がもっと長く続けば良いのにと思うことがある」
「黄真伊(ファン・ジニ)の歌にそんなものがあったわね」
 カンは無言で頷き、歌うように続けた。
「あなたに逢えない独り寝の長い夜を切りとって、あなたに漸く逢えた短い夜に縫い付けたい」
 久方ぶりに逢えた恋人と過ごす夜があまりに短いと嘆く女性の切ない恋心を歌ったものだ。〝天下の名妓〟と今もその名を語り継がれる実在の妓生ファン・ジニりの詠んだ詩である。
「一人で過ごす夜はとても長いのに、二人で過ごす夜は呆気ないほど速く過ぎてゆく。だから、一人で過ごす長い夜を切りとって、あなたと逢う短い夜に縫い付けて少しでも長くしたい」
 ファソンも呟き、溜息を零した。
「今なら、ファン・ジニの気持ちが判るような気がするの」
 そこで、ファソンは我に返った。我ながら、何という大胆な科白を口にしてしまったのだろう!
 これでは〝好き〟と直截に告白するより、よほど気持ちが丸分かりではないか。
 しかし、カンはファソンの気持ちよりは、切々とした恋情を綴った詩の内容により関心を向けているようだ。
 どうやら、カンはファソンの恋心に気付かなかったようである。そのことに、ホッとしながらもどこかで落胆している自分がいることを、ファソンは滑稽にも哀しくも感じていた。
 ファソンはわざと明るい声で告げた。
「じゃあ、とりあえず〝忠孝明道〟は元の場所に戻しておくわね」
 つま先立ち書架の最上段に本を戻そうとした時、よろめいた。やはり、わずかに手が届かなかったのだ。
「危ないっ」
 カンが咄嗟にファソンの華奢な身体を受け止めてくれなければ、彼女は床にまともに衝突していたはずだ。
 背中に回された彼の手が熱い。丁度、二人は抱き合うような格好になっている。
「放して」
 やや掠れた声しか出ない。見上げれば、愕くほどにカンの顔が近くにあった。
「いやだ。放したくない」
―何て綺麗な男なのかしら。
 ファソンはカンの美麗な面を見つめる。綺麗なひとだとは思っていたけれど、つくづく美しい男だと改めて思った。
 綺麗に弧を描く眉、秀でた額から筋の通った鼻梁、わずかに切れ上がった眼(まなこ)、薄く形の良い唇。
 よく憶えておこう。いつか、彼の許を去る日が来ても、ずっと逢えなくなっても、彼の顔をいつまでも憶えておけるように、綺麗な面影を心に刻みつけておこう。
 でも、大丈夫だろうか。半日、一日逢えないだけで、こんなにも淋しくて辛いのに、彼にずっと逢えなくなって、私は生きてゆけるの?
 そして、彼に逢えなくなる日は遠くない将来、必ず来る。ファソンは彼と約束したのだ。中殿選びが終われば、彼女はカンの許を去る、と。
 何故、あんな約束をしてしまったのか。どうせなら、中殿選びが終わっても、彼が正妃を娶るまでは側にいると言えば良かったのに。
 そんなことを考える未練な自分がいやだ。
 カンの美麗な面が迫ってくる。唇が重なる予感がして、ファソンはそっと眼を閉じた。
「友達でも良い。何でも良いから、ファソンを手放したくない。好きだ」
 しっとりと重ねられた唇はすぐに離れた。
 ファソンの眼に大粒の涙が溢れる。
「ファソンはそんなに私を嫌い? 口付けられただけで泣くほど嫌なのか?」
 カンの声音には傷ついたような響きがある。ファソンは夢中で首を振った。
 彼への〝好き〟が、想いが溢れて言葉になにならない。ただ今は、自分も彼の広い背中に手を回して縋り付くしか、ファソンにはできなかった。
―好きよ。私もあなたが大好きよ、カン。でも、あなたは私には遠すぎる男だわ。
 この瞬間、ファソンは国王を愛してしまった自分の悲哀を嫌というほど悟った。
 
 書庫で過ごした時間は思いの外、長かったようである。昼過ぎに来たはずなのに、書庫を出たときは既に長い夏の陽は傾いていた。
 宮殿の幾重にも連なる壮麗な甍が残照に照らされ、黄金色に輝いている。そのはるか上の空の高みをねぐらにでも急ぐものか、数羽の鳥が群れを成して飛んでいった。
「また、近い中にそなたを連れてこよう。それまででも、来たいと思ったら、私に言えば良い。遠慮することはないんだぞ? どうも、も、そなたは慎ましすぎる」
 カンの優しい言葉に、ファソンはまだ涙の雫を宿した瞳でカンを見上げた。カンが眩しげに眼を細めたのは夕陽のせいだけではないのを、恐らくファソンは知ることないだろう。


「そんなに哀しそうな表情をするな。そなたが泣くと、私まで哀しくなる」
 カンは笑い、人差し指でファソンの涙を拭った。ファソンははにかんだように微笑む。
 泣くなと言われて、泣くまいとしているのが判る。人眼もはばからず、抱きしめたいほど可愛いと、カンは頬を緩めた。
 二人は顔を見合わせ、微笑み合った。一緒にいる時間が多くなるにつれ、不思議なことに、会話はなくても二人でいることそのものが何より安らげる時間となっていた。
 二人だけの時間に闖入者が現れたのは、そんな最中であった。ファソンは違和感を感じ、傍らのカンを見た。
 カンは凍り付いたように動かない。訝しげに彼を見つめ、その視線の先を辿ったファソンの眼に、一人の女人が映った。
 美しい女(ひと)であった。年の頃はまだ四十前、恐らくはファソンの母と同じくらいだろう。臈長けたその女性は愕くほど顔立ちがカンと似ていた。その豪奢な身なり、彼に酷似した容貌から、この女性が朴大妃その人であることはファソンにも察しがついた。
 女性の背後には数人の尚宮や女官が控えている。
「これは主上」
 大妃は手のひらを口許に添え、微笑んだ。美しく整え染められた爪がかいま見える。細く白い指に填められた幾つもの玉の指輪が陽光に燦然と燦めいた。
「母上さまにはご機嫌麗しく何よりに存じます」
 カンは実の母に対するとは思えないほど、他人行儀に恭しく頭を下げた。血の通った母と息子なら、無理にここまで冷淡にならなくても良いのではないかと、カンに対して思ったほどだ。これでは大妃が気の毒だと思ったくらいである。
 だが、その認識が甘すぎたとファソンは直に知ることになる。
「母上、申し遅れましたが、この者が」
 カンが傍らのファソンを紹介しようとすると、大妃は手で制した。が、カンは知らぬ顔で続ける。
「この者は新たに我が後宮に迎えた昭媛にございます」
 カンにわずかに背を押され、ファソンはおずおずと前に進み出た。大妃の前で両手を組み、拝礼を行う。
 だが、拝礼の間、大妃はずっとあらぬ方を見ていた。実のところ、ファソンはカンと初めて夜を過ごした翌朝、大妃殿に挨拶に行ったのである。が、頭痛がするとのことで逢っては貰えず、結局、十日続けて挨拶に通っても、対面は叶わなかった。
 大妃がカンを見た。相変わらず、ファソンの方には視線を合わせようともしない。
「そのような恥を知らぬ者を王族とも嫁とも認めるつもりはない」
「母上!」
 カンの声が大きくなった。
「大体」
 大妃が初めてファソンを見た。睨(ね)めつけるような視線に、身が竦むようだ。ファソンはあまりにもあからさまな敵意に膚が粟立った。朝鮮開国以来の功臣の名家に生まれ、大切に育てられた令嬢育ちのファソンは生まれてこのかた、ここまでの凄まじい憎しみを向けられたことはなかった。
「そなたらは、あの書庫で何をしておったのだ? 書庫は貴重な書物を保管する神聖な場所でもある。そのような場所で昼日中から、淫らな行いに耽るとは許し難い。そなたも下級とはいえ、両班の娘なら、恥を知るが良い」
 あまりの言葉に、ファソンは唇を噛んだ。無意識に強く噛んだため、口中に鉄錆びた味が苦くひろがる。
「大妃さま(テービマーマ)。それは誤解です。私は天に誓って、そのような恥ずべき行いは致しておりません」
 せめてこれくらいは許されるだろう。ファソンが言い終えた時、ピシッと空気を打つような鋭い音が響き渡った。
「―」
 ファソンは思わず手のひらで頬を押さえた。両親にでさえ、ぶたれたことはない。厳しい父も口うるさい母も、ファソンを叱ることはあっても、手を上げたことはなかった。
「母上(オバママ)」
 カンの顔色が瞬時に変わった。
「そなたごとき小娘がこの大妃である私に直接もの申すとは何という身の程知らずな。目上の者に無闇に話しかけてはならぬと父母から教えられなかったのか! もっとも、このような淫売を生んで育てるような親の躾なぞ、たかが知れておろうがの」
 ファソンは膝前で組み合わせた両手を白くなるほど握りしめた。
「あんまりです、大妃さま」
「淫売を淫売と申して何が悪い。そなたがやっておることは主上に色目を使い媚を売る、妓生がやっておることと同じではないか。両班の息女が色町の遊び女と同じことをしておるというのだから、この国ももう世も末であろう」
 涙が、溢れた。ここまで他人に悪し様に言われたのは初めてだ。何故、自分がここまで貶められねばならない? しかも、自分だけではなく、両親のことまで。
「私のことはまだよろしいのです。さりながら、何の拘わりもなき父母まで悪し様に仰せになるのは止めて下さいませ」
「生意気なッ」
 またピシリと、乾いた音が響いた。ファソンは打たれた両頬にひりつく痛みを憶えながら、大粒の涙を流した。
 ついに、カンが切れた。
「母上っ、止めて下さい。昭媛にどのような罪咎があって、このような酷いことをなさるのですか!」
 大妃がキッとカンを睨みつけた。
「大体、そなたが悪いのです。このような小娘にのぼせ上がってしまわれ、後先も考えず側室にするなど。今がどのような大切なときなのか、主上もお判りでしょう」
 息子に諫められ、大妃の怒りはますます煽られたようだ。当然ながら、その怒りはファソンに向けられた。
「ええい、お前が悪いのだ、お前が王宮に来てから、主上は狂ってしまわれた。お前さえ、主上の前に現れなければ良かったのだ。そなたがすべての禍を招く元凶に違いない」
 今度はファソンも、大妃の振り上げた手をよけようとした。しかし、その手の先が頬を掠め、ファソンの白い頬には糸ほどの細い傷ができてしまった。雪膚にくっきりと浮かび上がる鮮やかな紅い傷に、カンが悲鳴を上げた。
「たとえ母上だとて、もう許せぬ」
 カンの握りしめた拳が戦慄いていた。それを見た大妃がヒステリックな笑い声を上げた。
「何と、真、その妖婦に惑わされてしまいましたか、主上。実の母を、そなたを腹を痛めて生みしこの母を手にかけるおつもりか!」



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