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「それは」
 ファソンが立ち止まると、カンも止まった。
 少しく躊躇った後、ファソンはひと息に言った。  
「実は、私も相手の男のことはよく知らないの」
「何だって?」
 ファソンは力ない微笑を浮かべた。
「本当よ。嘘じゃない」
 ファソンはカンの表情が翳ったのを見逃さなかった。だが、自分の先ほどの言葉がどうして彼の心をそうまで乱すのかは判らない。
「相手の男も気の毒に、私と同じだな」
「それは、どういう意味?」
「つまり、私も嫁に逃げられたということさ」
 ファソンは息を呑む。
「嫁って、今は中殿さまを国を挙げて決めている最中なのよ? それなのに、もうお嫁さんになる女性が決まっているの?」
 カンがフと淋しげ笑った。その横顔は酷く切なげで、ファソンは胸が痛んだ。
「だから、正式な嫁じゃない。だが、ほぼ本決まりだったらしい。母上が大乗り気だった娘だそうだから」
 そこでまた彼は自嘲気味に嗤った。
「おかしなものだ。私の花嫁を決めるのに、当の私の好みや気持ちは端から無視されている」
「カン―。そんな風に自分を追いつめないで。さっきもあなたは言ったじゃない。二次選考に残った令嬢方の姿絵を見たって。その中に好みの人や逢ってみたい人がいれば、その気持ちを大妃さまにお伝えしてみたら、どうかしら」
「無駄なことだ」
 唾棄するような言い方は、いつも穏やかな彼らしくない。
「無駄だって決めつけないで―」
 言いかけたファソンに彼は皆まで言わせず、烈しい剣幕で言い募った。
「無駄だ。中殿は私が決めるものではなく、母上や大臣たちが決めるものだから。それに、二次選考の残った娘たちの中に、取り立てて逢ってみたいと思う娘などいなかった」
 そのひと言にホッとする自分は、どれほど身勝手で嫉妬深い女なのだろう。ファソンは自分の中に棲んでいる醜いもう一人の自分の存在を初めて知った。
 カンは淡々と続ける。静謐な表情は先刻の激した様子が嘘のようだ。
「国王の結婚は国婚とも呼ばれ、自分の意思で伴侶の一人選べない。考えてみれば、王なんて、つまらないな」
「勝手に結婚相手を決められてしまうっていうこと?」
「ああ」
 カンは複雑な表情でファソンを見た。
「いや、王だけでなく両班家の娘も似たようなものか。そなたも親に無理に見合いをさせられそうになって、家出してきたクチだものな」
「実のところ」
 カンは声を低めた。
「大がかりな中殿の選抜試験をやっているが、あれは本当に無意味なことなんだ」
「え?」
 訳が判らないといった顔のファソンに、カンは肩を竦めた。
「中殿は既に決まっているのも同然ゆえ」
「カンが今し方、言っていた令嬢のことなのね」
「そうだ」
 カンはまるで気のない顔で頷いた。
「母上と大臣たちが全員一致で決まった娘だそうだ。家柄、父親の官職、その娘の人となりから容姿まですべて問題はないとか聞いた」
 つまりは、と、カンは面白くもなさそうに言った。
「最初から母上らの推す娘を中殿に据えるわけにはゆかない。何故なら、国王の結婚については公正を期すべきで、両班の令嬢であれば、すべての者たちに機会を与えられるべきだという考え方があるからだ。そのために形式的に公募で中殿候補を募り、選考試験とやらをご丁寧にしているわけだ」
「そんな。選考試験に参加している令嬢方は皆、真剣なのに。酷いわ」
 我こそは国母にという一心で選考試験に臨む少女たちの心を踏みにじる行為ではないだろうか。
「それで、既に決まった未来の中殿さまは、選考試験には参加していないの?」
「さあな。元々は一次選考から参加はさせる予定だったらしいぞ。もちろん、その娘が一次、二次と勝ち抜いて最終選考で中殿に選ばれるという筋書きは予め決まっていたらしいが。苦労知らずの乳母日傘で育ったそのような娘、どうせ気位ばかり高い鼻持ちならない女に決まっている。だから、私の方も見合いをすっぽかしてやった」
 自分の未来の妻のことなのに、カンはその令嬢に関心もなさそうだし、極めて冷淡だ。考えてみれば、親の都合で政略結婚の犠牲になるその令嬢も気の毒な立場だった。その娘にも、どこかに恋い慕う男がいるかもしれない。そう、丁度、今の自分のように。
 その刹那、ファソンはハッとした。
―私、カンが好きなの? 
 ストンと落ちてきた想いは、ファソン自身でさえ今まで気付かなかったものだった。
 けれど、と、彼女は哀しく考える。この恋は実らない。カンは王さまなのだ。既に決まった女性もいるという。自分の出る幕なんて、これから先も未来永劫ないだろう。
 この想いはカンに告げることもなく、永遠に自分一人の胸に封印しておかなければならない。彼に告げても、彼を困らせるだけだ。
「その娘に逃げられたのね」
「ま、そういうことだな。さりながら、逃げてくれて、どこかでホッとしている。私はつくづく卑怯な男だな」
「もしかしたら、その令嬢には好きな男がいたのかもしれないわ」
「何だって」
 カンがギョッとした顔でこちらを見ている。ファソンは笑った。
「あくまでも仮定の話よ。恋い慕う男がひそかにいて、無理に結婚をさせられそうになった。そういう娘が結婚を嫌って逃げ出すというのはよくある話だわ」
 カンは唸った。
「私はよく判らないな。それこそ小説の中の話ではあるまいに」
 と、カンがジロリとファソンを怖い眼で見た。
「まさかファソンにも惚れた男がいるとでも?」
「そんな男がいたら、その男と今頃は駆け落ちでもしてますよ」
「ファソンには、そういう男はいないんだな?」
 やけに拘るので、ファソンは逆に睨み返した。
「しつこいわね。そんな男はこの世のどこを探してもいませんってば」


―嘘よ。カン、私、本当はあなたを好きなの。好きになってはいけない男を好きになってしまったの。
 カンへの恋情を自覚したばかりで、当の本人の前で嘘をつくのは辛かった。
 カンが乾いた笑い声を立てた。
「つまりはだ、母と大臣たちが選んだ娘が既に中殿に決まっていて、私は形式的に彼女と顔合わせだけすれば良い。お膳立てはすべて整っていたというわけさ。笑えるな」
 しばらく二人は無言で歩いた。ふいにカンがポツリと洩らした。
「伴侶くらいは自分で決めたい」
「それはそうよね」
 結婚相手を自分で見つけたい、想い想われた人と結ばれたいという気持ちはファソンも同じだ。共感をこめて頷くと、カンがじいっと見つめているのに気付いた。
 どんどん鼓動が速くなる。
 それで、やっと気付いた。この胸の鼓動の正体が何なのか。ファソンは最初から―恐らく下町の古本屋で出逢った瞬間から、カンに恋をしていたのだ。だから、彼にこうして見つめられたり、触れられたりする度に身体が熱くなったり鼓動が跳ねたりしていた。この胸の動悸の正体は―恋の時めきなのだ。
「何なの?」
 真っすぐな視線を受け止め切れず、ファソンはあらぬ方を向いた。
「私に一つ考えがあるんだけど、協力してくれないか?」
「何を考えているの?」
 カンの黒い瞳を見つめていると、その幾つもの夜を閉じ込めたような深いまなざしに囚われてしまうようだ。
「ファソンにしか頼めないことだ。是非、協力して欲しい」
 カンが次に発した提案は、ファソンの想像の限界をはるかに超えていた。
「私の側室になってくれ」
「え!?」
 カンの瞳に魅入られそうになっていたファソンは一挙に現実に引き戻された。
「じ、冗談でしょう。私はこれでも一応、嫁入り前の娘なのよっ。王さまの後宮なんかに入ったら、一生お嫁に行けなくなるじゃないの」
 本気で憤慨して抗議すると、カンが大真面目に言った。
「じゃあ、嫁に行かなくても良い。私の側にずっといて」
 ファソンは頭を抱えた。
「そういう問題ではないの。側室になるということは、曲がりなりにも、あなたの奥さんになることなのよ。面白半分でやって良いことではないわ」
「私は別に面白半分で言っているのではない。ファソンも私も意に沿わぬ結婚を強いられようとしているのは同じだから、困っている者同士で協力し合えば良いと言っているだけだよ」
「私がカンの側室になることがどうして助け合いになるの?」
「つまりはだ。そなたも私も意に沿わぬ結婚を免れることができるだろう?」
 カンの言い分には一理はある。つまりは見せかけだけの結婚をして、それを隠れ蓑にして嫌な相手との結婚を避けようというのだ。
 ただ、それには大きな難点があった。
「確かにカンの言うように、意に沿わぬ結婚からは逃れられるかもしれない。でも、それはまた新たな束縛を生むことにもなりかねないわ」
「新たな束縛とは?」
「つまり―」
 ファソンは言葉を濁したものの、ここは、はっきりと言った方が良いと判断した。
「あなたと私。お互いに自由になりたいと願った時、結婚という形を取ったら、それを解消するのは難しいと思うの」
 殊にカンは国王だ。国王の離婚は原則として認められていない。妃の方によほど落ち度があって、廃されて庶人になるとか、何か相応の理由がなければ、たとえ正式な妻ではなく妾妃といえども、後宮から出ることは難しい。
「ファソンはそんな日が来ると思っているのか?」
 黙り込んだファソンに、カンは静かな声音で問いかける。
「そなたが私を棄てて、後宮を去る日が来ると」
「私たち、偽りの結婚の話をしているのよ、カン。それに、私があなたを棄てるなんて言い方はしないで」
 ファソンは唇を噛みしめた。カンは後宮で女たちが無用な争いをするのを見たくないから、正妃一人しか持たないと言っている。つまり、いずれ〝形だけの妻〟の我が身は後宮を去らなければならないということだ。
 第一、彼が中殿を迎えて他の女と仲睦まじくしているところなんて見たくない。彼はファソンが自分を棄てるなどと言っているけれど、いずれ彼に棄てられるのは自分の方なのだ。
「中殿選びが終わるまでで良いから、私の側室になってくれ。母上には、はっきりと言うつもりだ。惚れた女ができたから、その者を後宮に迎えたいと。自分で選んだ娘以外に娶るつもりはないと告げる」
 ファソンは泣きそうになった。
―私が彼の側にいられるのは、中殿さまの選考試験が終わるまでなのね。
 それでも。ファソンは、どうしても彼の虫の良すぎる提案を断れなかった。
 たとえ偽りの妻でも、短い間だけでも、好きな男の傍に居たい。
 けれど、それも良いかもしれない。意に沿わぬ相手と見合いをさせられそうになり、自分は家を出た。頼みにしていた曺さんにも仕事は貰えず、ゆく当てもなく途方に暮れていたところをカンが宮殿に連れてきてくれた。
 仕事と棲む場所を与えてくれた恩返しとでも思えば良い。しかも、自分はカンを好きになってしまった。好きな男の役に少しでも立てるなら、こんなに嬉しいことはない。
 中殿選びが終われば、ファソンは用済みになる。そのときは潔く宮殿を出て、カンのことは綺麗に忘れよう。その頃にはほとぼりも冷めているだろうし、屋敷に戻ったとしても差し支えはあるまい。無理に嫁に行かせようとすれば家出さえしでかす娘だと判れば、両親もこれからは無理強いはしないに違いない。
 ファソンのささやかな反抗にも幾ばくかの意味はあったといえることになりはすまいか。
「判ったわ」
 どうも諦めかけていたらしいカンは、ファソンが唐突に返した返事に眼を見開いた。
「本当なのか、ファソン」
「ただ、これだけは約束して。中殿さまの選考試験が終わったら、必ず私を自由の身にしてね」


「ファソン。やはり、そなたは私の側を」
 言いかけたカンに、ファソンは鋭く言った。
「偽りの関係で、そう長く皆を欺くことは難しいわ。カン、お願いよ。中殿さま選びが終わって私の役目も済んだなら、後宮から私を出してちょうだい。そう約束して貰えるなら、私、しばらく側室のふりをしても良い」
「判った、約束しよう。中殿選びが終わったら、そなたは自由の身だ。それで良いかな」
「ええ」
 ファソンはなおも見つめてくるカンから、そっと視線を逸らした。
「他に何か条件というか、頼みはあるか? そなたも相当の覚悟をして引き受けてくれたのだろうから、何か望みがあるなら叶えるが」
 ファソンは黙って首を振る。カンが吐息をついた。
「欲のないことだな」
 彼はしばらく考えに耽っているようであったが、やがて意気揚々と言った。
「そなたの父御の位階を上げてはどうだろうか。王の妃にふさわしい官職を与えよう」
 ファソンは弾かれたように面を上げた。
「ありがたい話だけれど、遠慮するわ」
「どうして?」
 カンは解せないといった表情である。ファソンは首を振った。
「王が公私混同しては駄目だわ。妃が朝廷の人事に口を出すなんて、絶対にあってはならないことでしょう。ましてや、自分の身内の官職を上げて欲しいだなんて、尚更口にしてはいけないことよ」
 更に、消え入るような声音で続ける。
「それに、これは本物の結婚ではないんだもの」
 私は、あなたの側に居られるだけで、十分幸せなんだから。それ以上のものを望もうとは思わないの。
 ファソンの心の声は届かない。と、同様に、その時、カンがひそかに落とした呟きが想いに沈むファソンの耳に入ることはついになかったのである。
「そなたのような女こそ、中殿にふさわしき器であろうのに」
 カンはやるせなげに呟き、二人はそれからもしばらく黙り込んで歩き続けた。

 月が中天に掛かる刻限になった。
 その夜、初めて王の閨に召される娘がいた。名を陳ファソンといい、十六歳になる。咲き初(そ)めた水仙の花のように清楚で涼やかな美貌は、あと数年待てば、いかほど美しく咲き誇る大輪の花になるかと思わせる美少女だ。
 ファソンは両班の娘ということではあるが、父親は中級官吏で、家門もさしたる勢いはない、要するに問題にならないほどの家であるという専らの噂だ。にも拘わらず、さしたる後ろ盾もないこの娘が丁重に扱われているのは、提調尚宮が後見についており、なおかつ、若き国王自らが町で見初めて入宮させたという経緯があるからだとの専らの噂である。
 提調尚宮は国王の乳母を務めた人である。実の母大妃よりも乳母を慕う国王が最も信頼するのが王の幼年時代から常に王の側にいた提調尚宮と内侍府長の二人であった。そのキム尚宮に託すからには、王がいかほどその娘を大切に思っているかは自ずと知れるものだ。
 後宮内の湯殿でファソンは湯浴みを済ませた。数人の女官たちに寄ってたかって磨き上げられる。緋薔薇(そうび)の花びらがふんだんに浮いた湯船に長時間つかり、湯上がりにはやはり花の香りの香油を丹念に膚に塗り込まれた。
 就寝する際としてはいささか濃すぎる化粧を施され、白い夜着を着せ付けられ、支度万端を整えて国王の寝所に送り込まれる。
 長い艶(つや)やかな髪も洗い立てで、ほのかに花の香りが漂い、洗い髪は横に一つで束ねられている。本来、正室である中殿、側室問わず、彼女らが王の閨に侍る際は、提調尚宮によって入念な身体検査が行われる。それは万が一にも、女たちが王の寝首をかくために武器となる刃物を隠し持つ危険を回避するためでもあった。
 むろん、この夜、初めて夜伽を務める娘に対しても行われたが―。ファソンがどうしても身に付けたいと願った小さな簪は王その人の許可を得た上で、特別に身に付けることが許された。
 その夜、王宮は何とはなしに色めき立っていた。何と言っても、二十一歳の国王には正室はおろか側室の一人もいない。当代の王が即位後、初めて閨に召される女性が現れたのだ。
―これで王室も安泰ですな。
―この上は一日も早く、国王殿下の御子を拝見したいものです。
 若い王が〝女に興味を持った〟のは風のごとく後宮はおろか宮殿中に広まり、あちこちでそのようなひそひそ話が交わされた。しかし、一方で、このようなことを言う者もいた。
―何故、中殿さまの選抜試験が行われている真っ最中に殿下はわざわざ新しい側室を召されたのでしょうか?
 これまでどれだけ周囲が勧めても、女には食指を動かしもしなかった王。同性愛者とまで囁かれた王がどうして、今、この時期になって初めて女性を寝所に招いたのか―。
 それを疑問に思う者がいて、当然ではあった。そして、その問いに対する応えはまた当然、
―大妃さまに対する挑戦、もしくは反抗。
 と映ったのだ。
 そのような噂が広まれば、必然的に大妃派の大臣や大妃その人からの風当たりが強くなることをまだその時、ファソンもカンでさえもが予測はできていなかった。
 支度を整えたファソンを取り囲むようにして、女官たちの一団が国王の寝所へと導く。大殿に入る前に見上げた夜空には、十三夜のやや欠けた月が静かにファソンを見下ろしていた。
 長い廊下を先導の女官が掲げる雪洞の明かりを頼りに進み、見憶えのある扉の前で止まる。
 そこには金尚宮や沈内官長、大勢の内官や女官が待ち受けていた。キム尚宮はざっと形式的にファソンの身体を寝衣の上から調べただけで、身体検査はすぐに終わった。
「首尾良く事が運ぶようにお祈りしております。何事も殿下にお任せして下さいませ」
 今夜から、ファソンは王の側室となる。これまではキム尚宮の方が格上であったが、明日の朝を境にファソンが主筋になるのだ。キム尚宮の物言いが丁重になるのは当然でもあった。
 王が信頼するだけあり、キム尚宮は懐も広く情理を備えた女性だ。はっきりとした素性の知れぬファソンを快く預かり、厳しくも優しく女官としての作法を教え込んでくれた。


 ファソンは感謝を込めてキム尚宮に頭を下げた。両側から女官二人が扉を開き、ファソンはその隙間から身をすべり込ませる。
 背後で扉が閉まった。ここにはかつて一度だけ来たことがある。女官になってまもない日、金尚宮に薬湯―実は生姜湯を病臥している王に運ぶように命じられたときのことだ。
 あの日からまだひと月半ほどしか経っていないというのに、何か随分と昔のような気がする。
 相変わらず大きな寝台が奥に見え、王はといえば、傍らの丸卓の前、椅子に座り、手酌で酒を飲んでいた。
「やあ」
 ファソンを認めると、カンはいつものように屈託ない笑みを浮かべた。ファソンはいつもと変わらない様子の彼にどこかホッとして、近づく。
「何か待ちきれなくて、先に飲み始めてしまった」
 見れば、カンの眼許はうっすらと染まっていた。彼も白一色の夜着姿である。
「支度に時間がかかりすぎたのね」
 何しろ王の側に侍る初めての女が現れたということもあり、尚宮や女官たちは張り切って〝今宵、玉の輿に昇る世にも幸せな女官〟の支度を整えた。
 ファソンが立ったままなのに改めて気付いたらしく、カンが笑った。
「ああ、ごめん。座って」
 どう? と、盃を差し出され、ファソンは首を振った。
「あまりお酒は飲んだことがないの。私がやるわ」
 ファソンは卓の上の酒器を手にし、カンの差し出した盃に注ぐ。
「良いね、こういうのは。何だか夢みたいだ。ファソンとこうして一緒に夜を過ごすことができるだなんて」
 それから後もカンは盃を重ねた。干せばまた差し出してくるので、注がないわけにはゆかない。用意された酒器は三つ、二つが空になってもまだカンは酒が欲しいとねだった。
 ファソンが注ごうとしないので、焦れた彼はファソンの手から酒器を奪おうとする。彼女は酒器を奪い取ったカンの手を上からやんわりと押さえた。
「飲み過ぎよ」
「そうかな?」
 カンは酒を飲んでいる間中、他愛ないことを喋っていた。いつもはどちらかといえば無口で、喋るのは専らファソンの方なのに、今夜のカンはどうもいつもと違っているように見えた。
「あまりお酒には強くないんでしょ、カン」
 眼許を染めているカンはいつになく男の色香を漂わせている。美しい男だけに、酔いでほんのりと白皙の美貌を染めている様は凄艶ともいえた。
「ふふ、バレたか」
 外見とは裏腹に悪戯を見つけられた子どものようなあどけなさで言い、立ち上がった。カンの身体が一瞬、ふらつく。
「危ないわ、気を付けて」
 カンの身体を支え、苦労して寝台へと連れてゆく。大柄な彼と小柄なファソンでは身長差がありすぎるので、支えて歩くのもひと苦労だ。
「おっと」
 カンがおどけた声を発し、それを合図とするかのように二人は均衡を崩し、もつれあうようにして寝台に倒れ込んだ。
 寝台の上には濃厚な香りを放つ深紅の花びらが一面埋め尽くすかのように散り敷かれている。膚に纏った香油の匂いに加え、寝台から立ち上る花の香りに、ファソンはボウと神経が痺れ、まるで飲んでもいない酒に酔ったかのような軽い酩酊状態になりそうだ。
 気が付けば、カンはファソンを逞しい腕で囲い込んでいた。ぬばたまの闇よりもなおも深い瞳が射貫くように見つめている。
「ファソン」
 ツキリとした痛みが首筋に走った。いきなり首筋に口づけられ、ファソンは固まった。痛みを憶えたからには、ただ口付けただけではなく、軽く咬まれたのかもしれない。
 幸か不幸か、この衝撃でファソンの茫洋とした意識は急速に現実に呼び覚まされた。
「止めて。見せかけだけの結婚だと約束したじゃない」
 ファソンの抗議に、カンがふっと謎めいた微笑を刻む。
「見せかけだけじゃない、君が望むなら本物の結婚したって良いんだ」
 カンはなおも彼女を見つめる。寝台の枕許では大きな蝋燭が赤々と燃えている。黄金色の蝋燭には国王の象徴である龍がくっきりと刻まれていた。朝鮮国では古(いにしえ)より王は龍の化身とされる。
 淡い光を投げかける灯火が、王の端正な横顔を照らし、ファソンを見下ろす双眸に微妙な陰影を刻んでいた。
 張りつめた沈黙に押し潰されそうになった時、ファソンは消え入るような声音で応えた。
「―望まないわ」
 カンは更にそのままの体勢で見下ろしていたが、やがて、すっとファソンから離れた。
 ファソンは急いで身を起こして立ち上がろうとする。と、すかさず背後から抱きしめられた。
 カンとぴったりと身体を密着させた状態だ。ファソンは再び身を強ばらせた。
「せめて、これくらいは我慢してくれ。そなたをこの腕に抱くくらいは許して欲しい」
 カンはファソンの腰に両手を回し、髪にそっと唇を押し当てる。
 カンの鼓動が重ねた身体越しに伝わってきて、同じように高まった我が身の鼓動もファソンの耳に異様に大きく響いた。二つの鼓動は烈しく高らかに重なり合っている。
 カンの手がそろりと伸び、ファソンの艶やかな髪にふれた。
「この簪、初夜に付けてきてくれたんだ。セオクから君があの簪を付けたいと言っていると知らされた時、私はとても嬉しかったんだ。私と同じように、ファソンもこの夜を特別なものだと思ってくれていると期待をしてしまった」
「カン、その初夜という言い方は」
 本当の結婚ではないのだからと釘を刺そうとすると、カンが〝シッ〟と止めた。
「ファソンにとっては、そうなのかもしれない。さりながら、私にとっては特別な夜なんだ。特別な女と迎える初めての夜だから」
「―っ」
 息を呑んだファソンに、カンの掠れた声が囁いた。 
「―好きだ。ファソン。たとえファソンが私を好きでなくても、受け容れてくれなくても、それはそれで良い。無理に君の身体を奪って、それで永遠に心を失いたくはないんだ」
 彼はそっとファソンの髪のひと房を掬い、口付けた。刹那、走った鋭い感覚を何と例えれば良いのか。ファソンにはまだその時、それを言い表す言葉を持たなかった。


 髪の毛に触れられただけなのに、直接膚を愛撫されかたのような、危うい熱。小さな焔が髪先に点り、それが大き焔となり全身にひろがって、身体ごと彼から与えられた熱に灼き尽くされるかのようだ。
―好きだ。
 彼は確かにそう言った。けれど、彼の気持ちを知って両想いだからと判っても、事態は何も変わりはしない。
 彼を受け容れることは容易いが、その先はどうなる? 彼は王だから、いずれ正妃を迎えることは判っている。その時、自分はどんな顔をして彼の側にいれば良い?
 〝好きだ〟と熱く囁いたその同じ口で別の女性を口説き、その腕に抱くのを側で見ているのはあまりにも辛い。
 そう、王さまを好きになるというのは、そういうことだった。けして大好きな男のただ一人の女になることはできないのだ。後宮という美しい花が咲き誇る庭園で、たまに気まぐれに訪れる蝶を待つだけ。
 蝶が飽きれば、花は後はうち捨てられ、ひっそりと咲いて散るしかない。それが、後宮で生きる女の宿命なのだ。
 愛のない男ならば、他の女を抱くのを側で黙って見るのも耐えられようが、彼を愛していればこそ尚更、側で見ているのは耐えられないし辛い。
 いつしかカンは眠ってしまったようだった。
「私の大切な吾子はどこから来た。吾子は天からやって来た。吾子はどんな金銀財宝よりも大切な宝物。吾子よ、私の吾子よ、天から下された大切な宝物よ」
 ファソンは歌う。カンがあの日、初めて彼女がここに脚を踏み入れた日、歌って欲しいと懇願した子守歌を。
 一度歌い終えても、何度も何度も繰り返し歌った。歌い続けるファソンの白い頬にひと筋の涙がつたい落ちている。
 ファソンは泣きながら、いつまでも歌い続けた。孤独な愛する男がせめて夢の中では安らげることができるようにと、心をこめて歌った。
  
 初めて寝所に召された翌朝、ファソンは一つの殿舎を与えられた。これまではキム尚宮の殿舎で女官として一室を与えられていたのが、独立した殿舎の新たな主人となったのだ。
 更に王命によって、側室として位階が与えられた。ファソンに与えられたのは〝昭媛(ソウォン)〟という地位である。側室には最下位の〝淑媛(スクウォン)〟から上は〝嬪(ヒン)〟まで様々な階級がある。嬪は側室の中でも最高位であり、正室たる中殿、王妃に準ずる高い地位だ。
 今回、ファソンに与えられたのは昭媛といい、最下位の淑媛よりは一階級上であった。しかし、このことによって、王の母朴大妃の怒りに油を注ぐ形になってしまった。
 元々、大妃は王が独断で迎えた初めての側室について容認どころか、むしろ猛反対していたのだ。更にここに至り、その新入りに与える位階が淑媛ではなく昭媛であるというそのことが、大妃の逆鱗に触れた。
―何という我が儘で末恐ろしいおなごか。お若い主上(チユサン)を我が意のままに操る妖婦めが。さぞかし寝所で主上を手練手管を尽くして、かき口説いたのであろうて。
 大妃の怒りは凄まじかった。
―女官が王に見初められて側室になる場合、長い後宮の歴史を紐解いても、まずは一番下の淑媛を与えるのが妥当ではないか。聞けば、その娘、父親は両班とはいえ、名乗りもできぬほど逼塞した家門の下級両班だそうな。そのような娘をいきなり昭媛にするなど、言語道断。同じ側室でも、こたびの選抜試験を受けて入宮する令嬢とは格が違うことを示さねばならぬというに、主上は何を血迷われたのか。
 確かに大妃の意見にも理はあった。女官に王の手が付いて後宮となる場合、淑媛もしくは側室でもない〝特別尚宮〟を起点とする先例が多かったのは事実である。特別尚宮というのは〝承恩尚宮〟ともいい、仕事を持つ一般の尚宮とは違う。要するに側室としての位階は賜れなかったが、王の寝所に召されて伽を務める女官を一般の尚宮と区別して〝特別尚宮〟と呼んでいる。
 〝承恩〟とは王の恩寵を承けたという意味だ。我が生みし王子が王となり、王の母として嬪にまで上り詰めた側室でさえ、女官出身であれば特別尚宮から出発して嬪まで進んだ場合が多い。
 今回のように公募の選抜試験で勝ち残り最終選考まで進んだ令嬢の場合、いきなり高位の側室に任ぜられることも少なくはないが、それはまた別格なのである。
 そして、大妃の邪推はまた他の多くの人々の思惑と大差なかった。
―新入りの陳昭媛が夜毎、国王殿下をご寝所で誑かしているそうな。
―何でも病身の父親や能なしの兄を官職につけて欲しいと泣いてねだっているというぞ。
 もちろん、事実無根の心ない噂だし、どこでどう間違っても、そんな会話を閨でした憶えもないファソンだ。
 大体、〝初夜〟を済ませた後、毎夜のように共寝をしているといっても、ファソンはただ王の寝台でカンと枕を並べて眠るだけなのだ。話はたくさんするけれど、それは大方はその日一日、逢わない間に起こった出来事ばかりで、極めて他愛ないものばかりだった。
 恐らくは大妃殿の女官辺りが故意に流した悪意のある噂というより誹謗中傷に相違なかった。
 悪は千里を走るという。〝妖婦陳昭媛〟の噂は瞬く間に野火が枯れ野にひろがるように後宮といわず宮殿中にひろがった。
 そんなある日の昼下がり、ファソンはカンに伴われ、ある場所に連れられていった。
「ねえ、カン。どこに案内してくれるの?」
 ファソンはカンに無邪気に訊ねた。ファソンとて自分をめぐる酷い噂を知らぬわけはないだろうのに、いつも明るく笑っているのが余計に王の心をファソンに惹きつける。
 ファソンはむろん、〝妖婦〟と罵られていることは知っていた。どうして、そんな噂がひろまってしまったのかは皆目判らないけれど、自分は何も天に恥じるようなことはしていない。ゆえに、毅然としていれば、いずれ心ない噂も消えてゆくのではないかと思っている。
―ファソン。天が遠くにあるからと甘く見るなという諺を忘れてはいけないよ。自分がなした行いは良くも悪くも必ず巡り巡って自分に返ってくる。人は良い行いをすれば自ずから良き運を招き、悪き行いをすれば不運を招く。誰が見ていなくても知らずとも、天だけは見ているのだからね。
 幼い頃、父ミョンソはファソンを膝に乗せて、そんなことを語り聞かせた。そのときから、ファソンは〝天に恥じる行いだけはすまい〟と自らを固く戒めてきたのだ。
 ゆえに、今回の騒動も刻が経てば鎮まるに違いない―というのがファソンの考えであった。



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