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「私もまだ判らないんだ」
「考えても判らないことは考えるのを止めるのがいちばんよ。カン、少し眠った方が良いわ。私、長話をしてしまって、あなたを疲れさせてしまったかもしれない」
「気にするな。私は愉しかったよ。そなたといると、時間の経つのも忘れるほどだ。もう少し宮殿での暮らしに慣れたら、セオクに頼んで私付きの女官にして貰おうと思っている」
 ファソンはそれには返事をしなかった。後宮の人事には原則として国王も口出しはできないといわれている。王妃がいる場合は王妃が決めるべきであり、王妃不在の今は、大妃の裁量で決められるはずだ。ここで新米女官にすぎないファソンが迂闊に応えられる問題ではなかった。
 カンもファソンからの応えは期待していなかったようで、すぐに話題を変えた。
「もう一度、あの歌を―子守歌を歌ってくれぬか」
「はい」
 ファソンは応え、母がよく幼時に歌ってくれた子守歌を歌い始めた。
「私の大切な吾子はどこから来た。吾子は天からやって来た。吾子はどんな金銀財宝よりも大切な宝物。吾子よ、私の吾子よ、天から下された大切な宝物よ」
 繰り返して歌う中に、カンは規則正しい寝息を立て始めた。
 ファソンはカンのどこか無邪気ともいる寝顔を見つめ、そっと彼の手から自分の手を抜いた。
「カンは子どもの頃から今もずっと淋しいのね」
 それにつけても、ファソンは我が身の子ども時代を思った。母は一人娘のファソンのことしか頭になく、何かにつけては口うるさく干渉してくる。しかし、七歳になるまでは毎夜のようにファソンが眠るまで側にいて、子守歌を歌ってくれたものだ。
「私はまだ幸せだったのね」
 優しい両親に恵まれ、何不自由ない暮らしをしていた。カンは王という至高の立場にいながらも、実の母大妃とは心通わせられず、淋しい子ども時代を送ったようだ。
 その時、ファソンは家を出て初めて両親のことに想いを馳せた。今頃、父も母もどうしているだろうか。こちらから断れないほどの身分の高い相手との見合いだったというのに、自分勝手に屋敷を出てしまい、どれだけ両親に迷惑をかけたかしれない。
 何故、そこに今まで思い至らなかったのだろう。けれど、今更、おめおめと屋敷に戻ることもできはしない。第一、帰ればまた見も知らぬ男と見合いをさせられるに違いない。
 ファソンは切なげな溜息をつき、カンの寝顔を見た。
「おやすみなさい。せめて愉しい夢を見てね」
 心淋しく哀しい子ども時代を過ごしたというカン。せめて彼が結ぶひとときの夢の中では心愉しく過ごせますように。哀しい想いはしませんように。
 祈るような気持ちで今度こそ立ち上がり、彼女は国王の寝所を静かに退出した。
  
 一方、ファソンが両親のことを思い出していたその頃、陳家の屋敷では当然ながら大騒動になっていた。
 陳氏の当主ミョンソの居室では、夫人のヨンオクが刺繍入りの手巾を握りしめ、派手に泣いていた。
「あなた(ヨボ)、ですから、私は最初から本当のことをあの子に話した方が良いのではと申し上げたのです」
「さりながら、ヨンオク。あのお転婆な娘の性格を考えてみろ。真実を話したとて、余計に反発するのが関の山ではないか」
 ミョンソが大きな息を吐いた。
「困った娘だ。このままでは、我らは不敬罪に問われかねんぞ。一体、彼(か)の方にどのようにお詫びすれば良いものか。私の首一つで済めば良いが、下手をすれば陳氏の家門そのものが危うくなるやもしれぬ」
 ヨンオクが金切り声を上げた。
「大監は先刻から、家門のことばかり。私は家門よりもファソンの身の方が心配でなりません。可哀想に、無理に見合いをさせられると思いつめ、川にでも身を沈めたのではないでしょうか。もし、そうなのなら、もう、この世には生きてはいないでしょう。哀れな私の娘!」
 ヨンオクが芝居がかった動作で泣きじゃくる。
 ミョンソは苦虫を噛みつぶしたような表情で言う。
「そうは申せど、私よりもこの縁談に乗り気だったのは、そなたの方ではないか、夫人(プーイン)。見合いの前夜もファソンに断れぬ話だと申していたであろう」
「それは確かにそのように申しましたれど」
 ヨンオクが手巾を握りしめ、口ごもる。
 ミョンソはやれやれというように首を振った。
「だが、案ずるな。我らの娘に限って、世を儚んで入水などするはずがない。ファソンは殺されたって死ぬような娘ではない。あの逞しい娘のことだ、きっと、どこかに潜り込んで何とかやっておるだろうて。さあて、ファソンを見つけねばならぬのは山々ではあるが、ここはまず、勝手に娘が行方を眩ませた言い訳をどう言い繕うか考えるのが先だ」
 ミョンソとヨンオクは顔を見合わせて、深い息をつくしかなかった。

  契約結婚と本物の恋

 ファソンは溜息をついた。ここ一刻ばかりの間に、これがもう何度めか知れない。
「これが新参者いびりというものなのね」
 呟き、すっかり力が入らなくなった手に力をこめる。側には洗い上がった洗濯物の山、また山である。
 ファソンが女官になって、はや、ひと月。暦はいつしか六月に入っている。彼女は提調尚宮直属の女官として仕えているものの、最初はその金尚宮に遠慮していた先輩女官たちも今では、妬みと敵愾心(ライバル心)をあからさまに剥き出しにするようになった。
 現に、こうして毎日、山のような洗濯物を押しつけられ、一日の半分を洗濯物と格闘している有り様である。
 キム尚宮の許に食事を運んでいる最中には、わざと脚を引っかけられたりチマを引っ張られたりで無様に転び、膳の物を駄目にしたこともある。当然、賄い方の女官にはさんざん嫌みを言われ、作り直した物を運ぶ羽目になった。
 上流両班の息女として育ったファソンは、洗濯など実は一度もしたことがない。慣れない仕事は尚更、手間も時間もかかるのは当たり前のことだ。
 しゃがみ込んでいたファソンは立ち上がり、腰や背中を拳で叩いた。
「うー、肩は凝るし腰もだるいし、最低だわ」


 格闘したお陰で、洗濯物はあらかた終わった。後はこれらをすべて干せば終わりである。とはいえ、小柄なファソンにとっては、干す作業もなかなか骨の折れる作業であることに変わりはない。
「痛ーい」
 腰をかがめ、まだ痛む背中と腰をさすっていると、いきなり臀部をつるりと撫で上げられた。
「いやっ」
 思わず悲鳴を上げると、クスクスと忍び笑いが聞こえてくる。どこの色狂いの仕業かと振り返れば―。
「カン!?」
 カン―国王賢宗がその場に立っていた。
「あなたって、そういうことをする男だったの?」
 ファソンは両手を組んで偉そうに抗議する。どう見ても、王さまに対して女官が取る態度ではない。それこそ不敬罪ものだ。
 が、カンは怒るどころか、嬉しげに眼を細めた。
「だって、触って下さいと言わんばかりに尻を突き出していただろ。私だって、男だ。触り心地の良さそうな女の身体を見たら、つい手が伸びて―」
 カンは最後まで言うことはできなかった。ファソンの平手が彼を直撃したからだ。
 パッチーンと小気味の良い音が響き渡り、我に返ったファソンは蒼褪めた。
「私ったら、何てことを」
 ファソンはその場に膝を突いた。
「申し訳ございません、国王殿下」
 幾ら鷹揚なカンでも、ただでは済まないと思った。彼があまりに気さくに接してくれるから、つい友達感覚で対してしまうけれど、彼は王なのだ。ファソンにその自覚が足りなさすぎたのは間違いない。
 立場としてはカンは国王で、ファソンは女官だ。女官は〝王の女〟といわれ、原則として王の所有物ということになっている。つまり、王は後宮に咲く女官という美しい花を見初めて、いつ何時なりと手折っても良いのだ。
 王に身体を触れられた程度で大騒ぎして、あまつさえ王の玉体に手を上げるなど言語道断だ。
 ファソンはうつむき、込み上げる涙を堪えた。もしファソンが陳ミョンソの娘だと露見すれば、父にまで迷惑がかかってしまう。
「ごめん、ファソン」
 ややあって、カンの心底申し訳なさそうな声が降ってきた。
「私の悪ふざけが過ぎた。そなたの身体が魅力的で触りたいと思ったのは本当だけど、そんなことをするべきではなかった」
 どこまでも正直すぎるカンである。
「さあ、立って」
 カンはファソンの手を取り、立ち上がらせた。ファソンの眼に滲んだ涙を見て、カンは眉をひそめた。
「本当に済まなかった。もう二度としないから、泣くな」
 カンは袖から手巾を出して、ファソンの涙を丁寧に拭いた。
 それから、彼は洗濯物の一つを手に取った。
「お詫びに干すのを手伝うよ」
「ええっ、王さまが洗濯物を干すの?」
 ファソンは二度びっくりし、大きな瞳を見開いた。
「別に王だって人間だし男だし」 
 と、意味深なことを言い。
 カンは手際よく洗濯物を干してゆく。 
 開けた空間には二本の棒が立ち、物干し綱が張り巡らせてある。物干し綱は縦に何列にも並んでいて、カンはその一つに色鮮やかな布をきちんと一枚一枚干していった。
 まさかカンが自ら洗濯物を干すなんて言い出すとは考えてもおらず、ファソンは茫然と眺めていた。が、まさか王一人にやらせるわけにもゆかず、慌てて彼と一緒に洗濯物を干しにかかる。
 カンが干しているのは女官たちの制服や私服だ。幾枚もの色鮮やかなチマが初夏の蒼空にはためくのは壮観でもあった。
「これは私が干すわっ」
 カンが何度目かに手にした洗濯物をファソンは慌てて奪い取った。カンは愕いて眼を丸くしている。
「これはその、男の人に干して貰うわけにはいかないでしょ」
 ファソンはうす紅くなりがら、女官たちの下着を干した。
「なるほど、そういうことか」
 カンは笑い、それ以上の追及はしなかった。王が女官たちの衣服を干すだけでも十分許されないことなのに、下着まで手にしたとなれば、あの沈内官長は怒りのあまり、その場で憤死するかもしれない。
「あなたが女官の服を干しているのを見たら、沈内官長も金尚宮さまもきっと卒倒するわよ」
「確かに」
 カンは笑って頷く。彼のお陰で、山のような洗濯物もあっという間に片付いた。美しいたくさんの色布が風に揺らめくのは一幅の絵のようでもある。
「綺麗ねえ」
 ファソンはもちろん、女官のお仕着せ姿だ。濃紺の上衣と赤色のチマの上から前掛けをつけている。一つに編んだ髪は動きやすいようにくるりと丸めて纏め、これも定められた紅い髪飾りをつけている。
 カンの方はこれは王の正装―天翔る龍を赤地に金糸銀糸で織りだした龍袍だ。
 ファソンの背後で眼にも彩なチマが翻っていた。六月の眩しい陽光が少女の白い膚を輝かせている。
「女官のなりも可愛いが、そなたにはもっと華やかな衣装の方が似合いそうだ」
 カンは眼を細め、ファソンを見つめた。
「あなたに貰った簪も付けられないわ」
 女官は決められたもの以外、一切身に付けることは許されない。カンから贈られた菫青石(アイオライト)の簪はずっと与えられた私室の備え付けの箪笥にしまっている。
 と、ファソンはカンの姿が見えないことに気づき、少し慌てた。
「カン? カン!」
 呼ばわるも、いらえはない。
「カン、どこに行ったの?」
 狼狽え、眼の前にある紅い布をめくったその瞬間、大きな声と共にカンの笑顔が迫った。
「わっ」
「―!」
 ファソンは声にならない声を上げる。
「酷い、また愕かせて」
 彼女は握り拳を振り上げた。カンが笑いながら逃げる。
「怖い怖い。また叩かれて痛い想いをするのはご免だよ」
「待って、待ちなさい。本当に懲りないんだから」
 追いかけるファソンと逃げるカン。若い国王と美しい女官が笑い声を上げながら戯れているところを見れば、まず王の意がその美しい娘にあることは一目瞭然ではあった。しかし、幸か不幸か、その場には誰もおらず、ファソンはただ無邪気にカンと追いかけっこをしているとしか思っていない。


 ひとしきりカンが逃げ回った次は、カンが鬼になってファソンが逃げる番だ。
「待て」
「待てと言われて、待つものですか」
 ファソンは笑いながら背後を振り返り、風にはためくチマを器用にくぐっては逃げる。こういう時、小柄で身軽なのは役に立つ。
 そういえば、子どもの頃には仲の良い女の子たちと追いかけっこをして遊んだ記憶がある。走っていると風になったようで、気持ちが良い。
 だが、ここでもカンの方が一枚上手であった。ふいに姿が見えなくなったかと思うと、蒼色の布が向こうから持ち上げられ、カンがヌッと姿を現した。
「きゃっ」
 愕いた隙に、ファソンはカンに抱きしめられた。
「捕まえた」
「カン」
 カンはファソンを腕に閉じ込め、その黒髪に頬を押し当てた。
「良い香りがする。花のような匂いだ。ファソンは名前のとおり、本当に花の精なのかしもれないな」
 ファソンは逞しい男の腕に囚われて、身じろぎもできない。細身で線が細そうに見えても、やはりこうして抱きしめられてみれば、その体軀はファソンとは違い、大人の男のものだ。
「カン。もう良いでしょ、良い加減に放して」
 ファソンが身を捩ると、彼はすぐに自由にしてくれた。解放された刹那、ファソンは無意識に熱くなった頬を手で押さえた。
 良かった。このまま彼に抱きしめられていたら、心臓の跳ねる音が彼に聞こえてしまったかもしれない。
「愉しかった。久しぶりに子どもに返ったようだった」
 カンが心からの笑顔を見せて晴れやかに笑う。そんな彼の屈託ない笑顔が見られて、ファソンも嬉しかった。国王という重責を背負う人だからこそ、自分と過ごすわずかな時間でも、カンが寛げれば良いなと願わずにはいられない。
 既に十日前には新中殿候補の第一次選考試験が宮殿内で行われ、まずは書類審査に合格した少女たちが一同に会した。流石にいずれ劣らぬ名花、美しさと聡明さに裏打ちされた令嬢ばかりで、後宮の女官たちは興味半分嫉妬半分というところで、美しい令嬢たちが宮殿内の敷地を謹厳な尚宮たちに連れられて試験会場へ移動するのを遠巻きに眺めていたものだ。
 この一次選考でかなりの数の少女たちは不通、つまり不合格となり、絞られた精鋭たちが次の二次選考に臨む。その二次選考が行われるのは一ヶ月後の予定となっている。炎暑の最中ではあるけれど、栄えある二次選考に晴れて臨む選ばれた令嬢たちはその準備に余念がないことだろう。
 自分には生涯拘わりのない世界の話ではあるが、孤独なカンのためにも、この選考で最後まで勝ち抜き選ばれた令嬢が彼にふさわしい女性であることを祈っていた。そう、この女たちの戦いで見事勝ち抜いた女性こそがカンの妻―つまりは中殿となる。
 カンの奥さん。中殿、国母という地位には何ら魅力も感じられないのに、何故か彼の妻という立場を考えた時、ツキリと胸にかすかに走った痛みはそも何なのか。カンが妃を迎えると聞いて、どうして、こんなに胸が苦しいのか。その理由を突き詰めて考えてみるのが怖くて、ファソンは無理に考えることを止めた。
 願わくば、選ばれた方、中殿さまがカンの淋しさを癒してあげられるような優しい方でありますように。
 そんなことをぼんやりと考えていると、カンの声が耳を打った。
「ファソン!」
 ハッとして眼をまたたかせる。
「私の顔に何か付いているか? そなたがあまりに見つめるので、顔に穴が空くかと思ったぞ」
 と、これはいつもの彼らしい冗談だとは判った。 
「それとも、私の男ぶりに見惚れていたとか、惚れ直したとか?」
 ファソンは笑った。
「いやあね。自惚れが強すぎる男はモテないのよ」
 二人はどちらからともなく並んで歩き始めていた。
「モテるで思い出したが、数日前、初めて中殿候補の娘たちの絵姿と履歴書を見たよ」
 言うともなしに呟いた彼に、ファソンは無理に微笑みを浮かべた。
「そう。一次選考に来ていた娘たちでさえ、あれだけ綺麗だったんだもの。更にその中から選りすぐりの方々が二次に残ったわけだから、きっと中殿さまにふさわしい人ばかりでしょうね」
 心なしか声が震えた。大丈夫だろうか、今、私は彼の前でちゃんと笑えている―?
「良かった。カンには幸せになって欲しいの。あなたにふさわしい方が見つかることを心から祈っているわ」
 物分かりの良いことを言いながら、泣き出したいような気持ちなのは何故? そんなに嬉しげに王妃となるべき女性について語らないで欲しいと願うのは、私の我が儘よね。
 ファソンは一旦うつむき、顔を上げた。
「じゃあ、顔を合わせなかった十日ほどの間、カンはずっと中殿候補の方々の姿絵を眺めて過ごしていたのね」
 これは冗談のつもりだったが、カンはそうは受け取らなかったようだ。綺麗な眉をはっきりとひそめた。
「そんなわけないだろう。見たとは言ったが、母上さまにせっつかれて仕方なく、一通り眼を通しただけだ」
 どうして、彼がそう言っただけで、私はホッとするのだろう?
「そなたの方はどうだ? 宮仕えを始めてそろそろひと月だ。少しは女官の仕事にも慣れたか?」
 話題が変わって、胸を撫で下ろし、ファソンは微笑んだ。
「全然よ。さっきも見たでしょ。相変わらず、要領が悪くて金尚宮さまにも叱られてばかり」
 ふいにカンがファソンの手を握った。
「カン?」
 カンはファソンの手をじいっと見つめている。
「手が酷く荒れている。女官の仕事のせいだな。初めて曺さんの本屋で出逢った時、そなたの手はまったく荒れていなかったのに」
 ファソンは慌てて彼の手から自分の手を引き抜いた。
「なあ、ファソン。そなたはいずれ名のある家門の娘ではないのか。両班の娘であるそなたが家を出るには相当の覚悟が必要だったはずだ。その理由を訊ねた時、そなたは無理に見合いをさせられそうになったと言っていた。今まで無理に問いただすのは控えていたが、その相手というのはどこの誰なんだ?
詳しい事情を私に教えてくれないか。もしかしたら、力になれることがあるかもしれない」


「それは」
 ファソンが立ち止まると、カンも止まった。
 少しく躊躇った後、ファソンはひと息に言った。  
「実は、私も相手の男のことはよく知らないの」
「何だって?」
 ファソンは力ない微笑を浮かべた。
「本当よ。嘘じゃない」
 ファソンはカンの表情が翳ったのを見逃さなかった。だが、自分の先ほどの言葉がどうして彼の心をそうまで乱すのかは判らない。
「相手の男も気の毒に、私と同じだな」
「それは、どういう意味?」
「つまり、私も嫁に逃げられたということさ」
 ファソンは息を呑む。
「嫁って、今は中殿さまを国を挙げて決めている最中なのよ? それなのに、もうお嫁さんになる女性が決まっているの?」
 カンがフと淋しげ笑った。その横顔は酷く切なげで、ファソンは胸が痛んだ。
「だから、正式な嫁じゃない。だが、ほぼ本決まりだったらしい。母上が大乗り気だった娘だそうだから」
 そこでまた彼は自嘲気味に嗤った。
「おかしなものだ。私の花嫁を決めるのに、当の私の好みや気持ちは端から無視されている」
「カン―。そんな風に自分を追いつめないで。さっきもあなたは言ったじゃない。二次選考に残った令嬢方の姿絵を見たって。その中に好みの人や逢ってみたい人がいれば、その気持ちを大妃さまにお伝えしてみたら、どうかしら」
「無駄なことだ」
 唾棄するような言い方は、いつも穏やかな彼らしくない。
「無駄だって決めつけないで―」
 言いかけたファソンに彼は皆まで言わせず、烈しい剣幕で言い募った。
「無駄だ。中殿は私が決めるものではなく、母上や大臣たちが決めるものだから。それに、二次選考の残った娘たちの中に、取り立てて逢ってみたいと思う娘などいなかった」
 そのひと言にホッとする自分は、どれほど身勝手で嫉妬深い女なのだろう。ファソンは自分の中に棲んでいる醜いもう一人の自分の存在を初めて知った。
 カンは淡々と続ける。静謐な表情は先刻の激した様子が嘘のようだ。
「国王の結婚は国婚とも呼ばれ、自分の意思で伴侶の一人選べない。考えてみれば、王なんて、つまらないな」
「勝手に結婚相手を決められてしまうっていうこと?」
「ああ」
 カンは複雑な表情でファソンを見た。
「いや、王だけでなく両班家の娘も似たようなものか。そなたも親に無理に見合いをさせられそうになって、家出してきたクチだものな」
「実のところ」
 カンは声を低めた。
「大がかりな中殿の選抜試験をやっているが、あれは本当に無意味なことなんだ」
「え?」
 訳が判らないといった顔のファソンに、カンは肩を竦めた。
「中殿は既に決まっているのも同然ゆえ」
「カンが今し方、言っていた令嬢のことなのね」
「そうだ」
 カンはまるで気のない顔で頷いた。
「母上と大臣たちが全員一致で決まった娘だそうだ。家柄、父親の官職、その娘の人となりから容姿まですべて問題はないとか聞いた」
 つまりは、と、カンは面白くもなさそうに言った。
「最初から母上らの推す娘を中殿に据えるわけにはゆかない。何故なら、国王の結婚については公正を期すべきで、両班の令嬢であれば、すべての者たちに機会を与えられるべきだという考え方があるからだ。そのために形式的に公募で中殿候補を募り、選考試験とやらをご丁寧にしているわけだ」
「そんな。選考試験に参加している令嬢方は皆、真剣なのに。酷いわ」
 我こそは国母にという一心で選考試験に臨む少女たちの心を踏みにじる行為ではないだろうか。
「それで、既に決まった未来の中殿さまは、選考試験には参加していないの?」
「さあな。元々は一次選考から参加はさせる予定だったらしいぞ。もちろん、その娘が一次、二次と勝ち抜いて最終選考で中殿に選ばれるという筋書きは予め決まっていたらしいが。苦労知らずの乳母日傘で育ったそのような娘、どうせ気位ばかり高い鼻持ちならない女に決まっている。だから、私の方も見合いをすっぽかしてやった」
 自分の未来の妻のことなのに、カンはその令嬢に関心もなさそうだし、極めて冷淡だ。考えてみれば、親の都合で政略結婚の犠牲になるその令嬢も気の毒な立場だった。その娘にも、どこかに恋い慕う男がいるかもしれない。そう、丁度、今の自分のように。
 その刹那、ファソンはハッとした。
―私、カンが好きなの? 
 ストンと落ちてきた想いは、ファソン自身でさえ今まで気付かなかったものだった。
 けれど、と、彼女は哀しく考える。この恋は実らない。カンは王さまなのだ。既に決まった女性もいるという。自分の出る幕なんて、これから先も未来永劫ないだろう。
 この想いはカンに告げることもなく、永遠に自分一人の胸に封印しておかなければならない。彼に告げても、彼を困らせるだけだ。
「その娘に逃げられたのね」
「ま、そういうことだな。さりながら、逃げてくれて、どこかでホッとしている。私はつくづく卑怯な男だな」
「もしかしたら、その令嬢には好きな男がいたのかもしれないわ」
「何だって」
 カンがギョッとした顔でこちらを見ている。ファソンは笑った。
「あくまでも仮定の話よ。恋い慕う男がひそかにいて、無理に結婚をさせられそうになった。そういう娘が結婚を嫌って逃げ出すというのはよくある話だわ」
 カンは唸った。
「私はよく判らないな。それこそ小説の中の話ではあるまいに」
 と、カンがジロリとファソンを怖い眼で見た。
「まさかファソンにも惚れた男がいるとでも?」
「そんな男がいたら、その男と今頃は駆け落ちでもしてますよ」
「ファソンには、そういう男はいないんだな?」
 やけに拘るので、ファソンは逆に睨み返した。
「しつこいわね。そんな男はこの世のどこを探してもいませんってば」


―嘘よ。カン、私、本当はあなたを好きなの。好きになってはいけない男を好きになってしまったの。
 カンへの恋情を自覚したばかりで、当の本人の前で嘘をつくのは辛かった。
 カンが乾いた笑い声を立てた。
「つまりはだ、母と大臣たちが選んだ娘が既に中殿に決まっていて、私は形式的に彼女と顔合わせだけすれば良い。お膳立てはすべて整っていたというわけさ。笑えるな」
 しばらく二人は無言で歩いた。ふいにカンがポツリと洩らした。
「伴侶くらいは自分で決めたい」
「それはそうよね」
 結婚相手を自分で見つけたい、想い想われた人と結ばれたいという気持ちはファソンも同じだ。共感をこめて頷くと、カンがじいっと見つめているのに気付いた。
 どんどん鼓動が速くなる。
 それで、やっと気付いた。この胸の鼓動の正体が何なのか。ファソンは最初から―恐らく下町の古本屋で出逢った瞬間から、カンに恋をしていたのだ。だから、彼にこうして見つめられたり、触れられたりする度に身体が熱くなったり鼓動が跳ねたりしていた。この胸の動悸の正体は―恋の時めきなのだ。
「何なの?」
 真っすぐな視線を受け止め切れず、ファソンはあらぬ方を向いた。
「私に一つ考えがあるんだけど、協力してくれないか?」
「何を考えているの?」
 カンの黒い瞳を見つめていると、その幾つもの夜を閉じ込めたような深いまなざしに囚われてしまうようだ。
「ファソンにしか頼めないことだ。是非、協力して欲しい」
 カンが次に発した提案は、ファソンの想像の限界をはるかに超えていた。
「私の側室になってくれ」
「え!?」
 カンの瞳に魅入られそうになっていたファソンは一挙に現実に引き戻された。
「じ、冗談でしょう。私はこれでも一応、嫁入り前の娘なのよっ。王さまの後宮なんかに入ったら、一生お嫁に行けなくなるじゃないの」
 本気で憤慨して抗議すると、カンが大真面目に言った。
「じゃあ、嫁に行かなくても良い。私の側にずっといて」
 ファソンは頭を抱えた。
「そういう問題ではないの。側室になるということは、曲がりなりにも、あなたの奥さんになることなのよ。面白半分でやって良いことではないわ」
「私は別に面白半分で言っているのではない。ファソンも私も意に沿わぬ結婚を強いられようとしているのは同じだから、困っている者同士で協力し合えば良いと言っているだけだよ」
「私がカンの側室になることがどうして助け合いになるの?」
「つまりはだ。そなたも私も意に沿わぬ結婚を免れることができるだろう?」
 カンの言い分には一理はある。つまりは見せかけだけの結婚をして、それを隠れ蓑にして嫌な相手との結婚を避けようというのだ。
 ただ、それには大きな難点があった。
「確かにカンの言うように、意に沿わぬ結婚からは逃れられるかもしれない。でも、それはまた新たな束縛を生むことにもなりかねないわ」
「新たな束縛とは?」
「つまり―」
 ファソンは言葉を濁したものの、ここは、はっきりと言った方が良いと判断した。
「あなたと私。お互いに自由になりたいと願った時、結婚という形を取ったら、それを解消するのは難しいと思うの」
 殊にカンは国王だ。国王の離婚は原則として認められていない。妃の方によほど落ち度があって、廃されて庶人になるとか、何か相応の理由がなければ、たとえ正式な妻ではなく妾妃といえども、後宮から出ることは難しい。
「ファソンはそんな日が来ると思っているのか?」
 黙り込んだファソンに、カンは静かな声音で問いかける。
「そなたが私を棄てて、後宮を去る日が来ると」
「私たち、偽りの結婚の話をしているのよ、カン。それに、私があなたを棄てるなんて言い方はしないで」
 ファソンは唇を噛みしめた。カンは後宮で女たちが無用な争いをするのを見たくないから、正妃一人しか持たないと言っている。つまり、いずれ〝形だけの妻〟の我が身は後宮を去らなければならないということだ。
 第一、彼が中殿を迎えて他の女と仲睦まじくしているところなんて見たくない。彼はファソンが自分を棄てるなどと言っているけれど、いずれ彼に棄てられるのは自分の方なのだ。
「中殿選びが終わるまでで良いから、私の側室になってくれ。母上には、はっきりと言うつもりだ。惚れた女ができたから、その者を後宮に迎えたいと。自分で選んだ娘以外に娶るつもりはないと告げる」
 ファソンは泣きそうになった。
―私が彼の側にいられるのは、中殿さまの選考試験が終わるまでなのね。
 それでも。ファソンは、どうしても彼の虫の良すぎる提案を断れなかった。
 たとえ偽りの妻でも、短い間だけでも、好きな男の傍に居たい。
 けれど、それも良いかもしれない。意に沿わぬ相手と見合いをさせられそうになり、自分は家を出た。頼みにしていた曺さんにも仕事は貰えず、ゆく当てもなく途方に暮れていたところをカンが宮殿に連れてきてくれた。
 仕事と棲む場所を与えてくれた恩返しとでも思えば良い。しかも、自分はカンを好きになってしまった。好きな男の役に少しでも立てるなら、こんなに嬉しいことはない。
 中殿選びが終われば、ファソンは用済みになる。そのときは潔く宮殿を出て、カンのことは綺麗に忘れよう。その頃にはほとぼりも冷めているだろうし、屋敷に戻ったとしても差し支えはあるまい。無理に嫁に行かせようとすれば家出さえしでかす娘だと判れば、両親もこれからは無理強いはしないに違いない。
 ファソンのささやかな反抗にも幾ばくかの意味はあったといえることになりはすまいか。
「判ったわ」
 どうも諦めかけていたらしいカンは、ファソンが唐突に返した返事に眼を見開いた。
「本当なのか、ファソン」
「ただ、これだけは約束して。中殿さまの選考試験が終わったら、必ず私を自由の身にしてね」



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