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―何があったというのだ!
 興奮して訊ねれば、内官は哀しげに首を振るばかりだった。王妃から箝口令が敷かれていたらしく、幼い東宮に真実を教えてくれる者は誰一人いなかった。
 その側室は
―王さまばかりか、また幼い世子さままでをも誑かそうとした。
 と、大妃(前中殿)に仕える尚宮から鞭打たれ、流産し、彼女自身も流産後、息を引き取ったという話だった。
 我が母ながら、何という酷い所業をするのか。彼が後にも先にも母の烈しい嫉妬を目の当たりにしたのは、そのときだけだった。しかし、そのただの一度は彼の女性不信を決定づけるのには十分すぎた。
 若い王と実母である朴大妃との関係は、そういう経緯もあり、微妙なものだ。大妃は一人息子を溺愛しているが、当の息子は母に対して常に一定の距離を置いている。むしろ、王が物心つく前から養育に当たった守り役の沈内官長(内侍府長―内官を統括する部署の長)や今は提調尚宮となっている乳母の金尚宮らの方をよほど信頼し、心を開いている。
 王が十八歳の頃、やはり、廷臣たちから国婚についての議題が提出され、王自身が参加しての御前会議で何度も話し合われたが、当の王はのらりくらりと交わすばかりで、これも話はうやむやになった。
 だが、賢宗が二十一歳になったこの年早々、ついに痺れを切らした廷臣たちと大妃が共謀して王には無断で禁婚令を発布した。これは国婚(王の結婚)のため、朝鮮国中の八歳から十七歳までの適齢期の両班の子女に対して、この間は無断で結婚してはならないというものだ。
 あと半月も経たない中に、新しい中殿を決めるための選考試験が始まる。選考試験は志願者・推薦者を含めて全員に対して数度に渡って行われ、最終(四次)選考まで残った娘たちが次に大妃や議政府の高官たちの前で一人ずつ面接試験を受け、その中から一人選ばれた令嬢が中殿に冊立される。
 また、最終選考まで残った令嬢たちはそのまま当代の王の後宮に入ることは決定済みで、彼女たちはそれぞれ実家の家門にふさわしい位階を側室として賜る。
 長らく我が娘を中殿にと虎視眈々と窺ってきた両班たちは今こそと我が娘たちを中殿候補にと名乗りを上げてきている。早くも志願者は見込み数を軽く越え、選抜試験の担当者たちは令嬢たちの履歴書などを一枚一枚眼を通すのに大わらわであった。まず書類選考で不合格となる気の毒な令嬢もいるのだ。
 新中殿の志願者の異例の多さは、当代の国王の結婚に対する関心がそれだけ大きいことを物語っていた。
 もっとも、相も変わらず肝心の若き国王は自分の花嫁選びだというのに知らん顔で、まるで関心がなさそうである。
 その重圧からというわけでもないだろうが、その頃、賢宗は熱を出して寝込んだ。どうも軽い風邪を引き込んだのを甘く見たのが良くなかったようだ。
 その日、ファソンは金尚宮に言われ、大殿の寝所で病臥している王の許に薬湯を運ぶことになった。後宮の女官として働くようになって十日余りが過ぎたある日のことだ。
 通常、正式な女官には見習い期間を経なければなれない。が、ファソンの場合は公にはしていないものの、国王自らの推挙ということもあり、見習いではなく正式な女官として仕えることが決まった。これは極めて破格の待遇である。
 提調尚宮は一つの殿舎を賜っているため、ファソンは女官長預かりということで、キム尚宮の下で女官として必要な礼儀作法や実務などを学びながら、色々とキム尚宮の身の回りの雑用をこなしていた。
 大殿の磨き抜かれた長い廊下を小卓を掲げ持って静々と歩きつつ、ファソンは首を傾げた。
 大殿にも専属の尚宮や女官はいるのだから、何もわざわざ他の殿舎で働く自分がやる仕事でもなかろうに。そういう疑問があった。よもや国王の方からキム尚宮に
―たまにはファソンの顔を見たいゆえ、こちらに寄越してくれ。
 内々に頼まれたキム尚宮がファソンを王の許にやる口実だとは想像だにしない。
 天翔る龍が彫り込まれた重厚な両開きの扉が見えてきた。国王の寝所である。扉の前に数人の内官や尚宮、女官が控えている。その中には例の〝爺〟こと沈内官の顔もあった。
 あの老人とはどうも最初の出逢いが良くないが、今やファソンは後宮で働く女官である。
 大先輩の内官長に面と向かって敵意を露わにするほど、ファソンも子どもではなかった。
 ファソンの姿を認め、沈内官が小さく頷けば、若い女官二人が両側から扉を開いた。
「陳女官が薬湯をお持ち致しましてございます」
 沈内官の声と共に、ファソンは静かに寝所に入った。背後でまた扉が閉まる。
 室の奥に大きな寝台が見えるが、ここからでは絹布団の山が見えるだけだ。もしかしたら、カンは眠っているのかもしれない。だが、薬湯だというからには起こしてでも飲ませた方が良いのだろう。
 そう判断して寝台に近づいた。カンは子どものように布団を引き被っている。
「―殿下」
 遠慮がちに呼びかけると、いきなり山のような布団が勢いよく跳ね上がった。
「きゃっ」
 あまりに愕いたので、らしくない悲鳴を上げてしまい、ファソンは慌てて両手で口を覆った。
「な、なに。愕くじゃないの」
 と、これはおよそ至高の立場の人に対する物言いとは思えない口調で抗議する。
「ふふ、これはちょっとした罰だよ」
 カンは満面に笑みを湛えている。
「罰ですって? 一体、私が何をしたというの」
「少しは私のことを思い出してくれた?」
「はあ!?」
 ファソンは何とも間の抜けた声を出した。カンの言おうとしているところがさっぱり判らない。
「十日もファソンの顔を見ていない。その間、私は君の顔を思い出しては切ない溜息ばかりついていた。ファソンに見つめられたときの、あの胸の鼓動が速くなるのも懐かしいと思ったほどだったんだ」
「―」
 カンの科白は極めて意味深だ。こんな科白を他人に聞かれたら、恋人同士の熱い告白と勘違いしかねないところだが、生憎とファソンは難しい書物は読めても、恋愛にかけては超奥手であった。
 カンが滔々と告げている科白の意味にどれほど重大な意味があるかは理解できていない。


「逢えない間、私はファソンに逢いたくて堪らなかった。ファソンは私に会えなくて、淋しくなかったのか?」
 なので、言葉そのものを素直に受け取り返事をした。
「もちろん、逢いたいと思ったわよ。だって、この広い宮殿ではカンしか知っている人がいないんだもの」
 最初の科白では歓びに眼を輝かせたが、次の瞬間にはカンは肩を落とした。
「何だ、ファソンが私に逢いたいというのは、そういう意味だったのか」
「そういう意味って、他にどういう意味があるっていうの?」
 生真面目に問うファソンに対して、カンは淡く微笑した。
「いや、良いんだ。今はまだ、それで良い」
 カンはまた意味不明の言葉を独りごちた。
「だから、罰だというんだ」
「え?」
「私一人がファソンに逢いたいのを我慢して、ファソンは私のことをろくに思い出しもしてくれなかったことへの罰」
「カンの話はよく判らないわ」
 ファソンが肩を竦めると、カンはまた笑った。その時、ハッと自分の大切な任務を思い出す。
「そういえば、キム尚宮さまに頼まれて、薬湯を持ってきたのよ」
 ファソンは寝台の側に置いた小卓を見た。鮮やかな牡丹色の風呂敷を取り去ると、湯飲みに入った薬湯と口直しの甘い菓子が載っている。
「でも、この分じゃ薬湯を飲む必要もなさそうね。心配して損しちゃった。元気すぎるくらい元気じゃないの」
 呆れたように言うのへ、カンは悪戯っぽく笑った。
「あれ、何か悪寒がしてきた。熱がまたぶり返したのかもしれない。自分では薬が飲めないから、ファソンが飲ませてくれ」
「なっ」
 ファソンは両手を腰に当てた。
「言うに事欠いて、飲ませろですって。そんなに元気が有り余ってるのに。自分で飲みなさいよ」
「ああ、咳が出る」
 わざとらしくコホコホと咳き込んで見せるのに、ファソンは大きな溜息をついた。
「仮病なのは判ってるのよ?」
「苦しい。薬を」
 ファソンはこれ見よがしに息を吐いた。
「しようがない人ね」
 小卓に乗っている匙を取り上げ、湯飲みから薬湯を掬う。匙は毒に反応する銀製だ。
「はい、口を開けて」
「あーん」
 カンは親鳥から餌を貰う雛よろしく大きな口を開けている。その嬉しげな表情に、ファソンは呆れて何も言えなくなった。
「はい、もう一度」
「うん」
 にこにこと口を開け、ファソンは匙で薬湯をカンに飲ませる。そんなことを繰り返し、漸く薬湯はすべて終わった。
「ああ、幸せだ。ファソンに薬を飲ませて貰えるなんて思ってもみなかった」
 満足げに言うカンに白い手巾を渡す。と、彼はニッと笑う。
「ああ、本当に子どもなんだから」
 ファソンは歯がみし、カンの手から手巾を奪い取り、口の周りについた薬湯を拭ってやった。
「何でもキム尚宮さまは、これが特別な薬湯だとおっしゃっていたけど」
 ふと思い出して言うと、カンが笑った。
「セオク特製の薬なんだ」
 セオクというのはキム尚宮の名前だ。今でも母のように慕っている乳母を王は名前で呼ぶ。
「キム尚宮さま特製の?」
「ああ、実は薬湯ではなくて生姜湯」
「ええっ」
 カンは相変わらず笑みを浮かべている。
「私は幼いときから御医が調合した薬が苦手でね。よほど酷いとき以外は、セオクが作ってくれた生姜湯を薬代わりにしてきたんだ」
「我が儘な王さまね」
「我が儘ついでにもう一つ、薬湯の後は口直しの甘い菓子が食べたい」
 ファソンは笑い、軽くカンを睨んだ。
「薬じゃないなら、必要ないでしょ」
「そう言うなよ。ほら、あーん」
 と、また口を開けるので、ファソンはもう自棄気味に綺麗な花を象った干菓子をそのまま口に放り込んだ。
「む、くぐ」
 カンは眼を白黒させている。
「これが私から我が儘な王さまへの罰」
 カンはひとしきり噎せた後、恨めしげな眼でファソンを見た。
「負けず嫌いな女だなあ」
「当たり前よ。生姜湯も飲み終えたし、私はこれで帰るわね」
「待ってくれ」
 カンの様子がどうにも必死だったので、ファソンは脚を止めた。
「まだ何か用事がある?」
「頼みがあるんだ」
「なあに」
「歌を歌って欲しい」
「どんな歌?」
 カンは少し押し黙った。
「笑わないか?」
「ええ」
「子守歌」
 ファソンは眼を見開いた。
「私が知っている子守歌なんて、一つくらいしかないわよ」
「何でも良い」
 ファソンは頷いた。
「また熱が上がるといけないから、横になって」
「うん」
 素直に横になったカンの上から掛け衾(ふすま)を掛け、ファソンは寝台の枕辺に浅く腰掛けた。
「私の大切な吾子はどこから来た。吾子は天からやって来た。吾子はどんな金銀財宝よりも大切な宝物。吾子よ、私の吾子よ、天から下された大切な宝物よ」
 朝鮮に古くから伝わる伝統的な子守歌であり、上は両班から下は庶民に至るまで、よく歌われるものだ。
「私が子どもの頃、母がよく歌ってくれたの」
 ファソンは歌い終えると言った。
「そうか。ファソンは幸せだな。私はセオクがたまに歌ってくれたくらいで、実の母の子守歌なんて聞いたことはないよ」
「カンのお母さまって、朴大妃さまよね」
「―ああ」
 カンは頷いた。親代わりの沈(シム)内官やキム尚宮のことになると嬉しげに話すのに、実の母大妃については浮かない顔で口を閉ざすのは気になった。
「ファソン。私は一度だって王になりたいと願ったことはないんだ」


 カンの突然の吐露に、ファソンは眼を見開いた。
「でも、前王さまの御子はカン一人だったんでしょう。望むと望まざるに拘わらず、カンが王位を継ぐのは宿命だったのね」
「本当にそうだろうか」
 え、と、ファソンは問い返した。
「ファソン、おかしいと思わないか? 父上は母以外にも五人の側室を持っていた。その中の誰にも子ができなかったのは不自然すぎる」
 流石に、ファソンにもカンの言いたいことの意味は判った。
「誰かがわざと他のご側室たちに御子を産ませまいとしたというの?」
「そういう噂が後宮には流れている。私の母が身籠もった側室を流産させたと」
 惛(くら)い声音で呟くカンに、ファソンは絶句した。
「後宮は怖ろしいところだ、ファソン。もしかしたら、私にはたくさんの弟妹がいたのかもしれない。母は何人の罪なき生命を犠牲にして、私を王位につけたのだろう。私は兄弟を犠牲にしてまで、王になりたくはなかったのに」
「カン、思いつめないで。あくまでも、噂の域を出ない話なのだし。それに、あなたは前の中殿さまのただ一人の王子さまだったのだから、たとえ他にご兄弟がいたとしても、あなたが王位を継いだことに変わりはなかったと思うわよ」
 そこで、ファソンはカンから怖ろしい事実を聞かされた。幼き彼がかいま見た雪の日の惨劇、前王の側室が懐妊中、大妃の嫉妬のために雪の上に席藁待罪(ソツコテジェ)し鞭打たれた挙げ句、流産したこと、挙げ句にその側室まで亡くなったことを。
 あまりの陰惨で残酷な話に、ファソンは言葉もない。
 カンは惛い声で続けた。
「父は母の暴挙を見て見ないふりをしていた。今では私も母を遠ざけた父の気持ちがよく判る。だから」
 カンは両手で顔を覆った。
「私は後宮なんて持ちたくないと思ってきた。さりながら、子どもだったときはともかく、成人した王として、それは許されないことだ。周囲は皆、早く中殿を迎えろとせっついてくる。もし、どうしても妻を迎えろと言うのなら、せめて母のような残酷なことはしない―心優しい娘を中殿に迎えたいと願っている。父のようにたくさんの側室を持って無用の争いは起こしたくないゆえ、側室を持つつもりはない」
 ファソンは大きく頷いた。
「カンの言うことは判るわ。中殿さまといえば、国の母となるべき方だもの。大丈夫よ、あと数日中には中殿さまを選ぶ選抜試験が始まるわ。今回はたくさんの応募者がいると聞くから、きっと徳の高い国母にふさわしい令嬢が見つかると思う」
 力づけるように言うと、カンが弱々しい声で言った。
「そうかな」
「ええ、大丈夫。カンの奥さんにふさわしい娘がきっといるはずよ」
「一つ訊いても良いかな」
「なあに?」
「ファソンは何故、家を出たりしたんだ?」
 ファソンは微笑んだ。
「見合いをさせられそうになったの」
「見合いを?」
「そう。父にね、無理に見合いをさせられそうになったのよ。だから、逃げ出してきたの。甘いわね。屋敷を出さえすれば何とかなると思ってたのよ。曺さんのところで何か仕事をさせて貰えると勝手に決めてたの。でも、その場で曺さんに断られて。私のような世間知らずが一人で生きてゆけるほど都は甘くないから、さっさと屋敷に戻れって言われちゃった」
 カンが言いにくそうに言った。
「これまで敢えて訊ねなかったけど、ファソンは両班の令嬢だろう?」
「ええ、一応、父は王さまにお仕えしております、殿下」
 ふざけて言うと、カンは思案げな顔で言った。
「両班の令嬢というのは普通、親の言うなりに政略結婚するものだろうが」
「このファソンをそんじょそこらのお嬢さまと同じにしないで欲しいわね。私は生涯、誰にも嫁がないと決めているんだから」
「結婚するなら、書物とするのか? 本好きのお嬢さん」
「そうね。でも、もし誰かに嫁ぐのなら、親に決められた相手ではなく、ちゃんと自分で見つけるわ。私もその男(ひと)を好きになって、相手の男も私をちゃんと見てくれる―そういうのが良い」
 カンが愉快そうに言った。
「ファソンは見かけによらず、夢想家(ロマンチスト)なんだ」
「まあ、見かけによらずは余計よ。相変わらず、ひと言多いのよね、カンは」
 だから、とファソンは眼を閉じた。
「春香伝の春香と夢龍(モンリョン)のような両想いが良いわあ」
 恍惚りと呟くのに、カンが笑い転げた。
「何だ、ファソンは難しい本しか読まないのかと思ったら、春香伝も読んだのか?」
 ファソンは肩を竦めた。
「当たり前でしょ。ただ漢籍が好きというだけで、私は至って普通の女の子です。もちろん、これも父や母には内緒よ。でも、本当はお母さまも父や使用人に隠れて春香伝を読んでるのは知ってるの。私には、そんな色事しか描いてない、はしたない小説は駄目って言ってるくせにね。案外、父も母がこっそりと小説を読んでいるのを知ってるのかもしれないと思うときがあるわ」
「何か面白そうな父上と母上だな」
「そう?」
 そこでファソンは声を低めた。
「ところで、カンはその後、春香伝の続きは書いているの?」
 その問いに、カンは白い面をうっすらと上気させた。
「実は風邪を引き込んだのも、そのせいなんだ」
「夜更かしでもしたの?」
「まあ、そういうこと」
 茶目っ気たっぷりに言うカンに、ファソンは姉のような口調でたしなめる。
「無理をしては駄目よ。カンはこの国の王なのよ? 代わりのきかない大切な身体なんだから。病気ばかりしていたら、朝廷の大臣たちも心配するでしょう」
「だな。世継ぎがいないから、余計に早く中殿を迎えろと煩くなるんだよ」
「それは仕方ないわよ。私だって、心配するわ」
 カンは横たわったまま上目遣いにファソンを見た。
「それは私の健康が心配だということか? それとも、私に世継ぎがいないから、何かあったら大変だと?」
「嫌ねえ、どちらも心配よ」


 何故、そのような質問をされるのか判らず、ファソンは言った。
「あまり無理はしないでね。日中は夏のように暑いけど、夜は冷えるから、余計に身体に負担がかかるのよ」
「判ってはいるのだが、昼間は政務があるし、小説を書くとなれば、夜しかない。必然的に眠る時間を削るしかないんだよ」
「どのくらい進んだの?」
「そうだな」
 カンは首を傾げた。
「私の書いたのは続編というよりは、正しく言うと、春香伝の異聞のようなものなんだ」
「異聞? 面白そうね」
 勢い込んで訊ねると、カンは笑った。
「そなたは聞き上手だな。そんな風に訊かれると、ますます話したくなる」
「お世辞ではなくて、本当に聞きたいわ。どんな話なのか、教えて」
「晴れて悪徳使道から逃れた春香はモンリョンと都に行った。そこで奥方に迎えられ、幸せに暮らすんだ。だが、ある日、モンリョンが政敵に陥れられ、濡れ衣を着せられ義禁府に囚われた」
「まあ、それは大変」
「そこで、賢妻春香の出番だ」
 ファソンは固唾を呑んで、カンの言葉を待った。カンはファソンの表情を見て、満足げに笑う。
「春香は良人の無実を証(あか)そうと男装してひそかに単独で聞き込みを始めた」
 あろうことかモンリョンは妓生殺しの罪で囚われたのだ。酒には強いはずの彼は両班の知り合いに誘われ、妓房に上がった。数人で賑やかに飲み明かしている中に、モンリョンは深酒が祟って眠ってしまい、翌朝目覚めたときには彼の傍らに妓生の亡骸が転がっていた―という事件だった。
「モンリョンは仲閒内からも〝笊〟と呼ばれていたほどの酒豪だった。ゆえに不覚にも眠ってしまったのは、酒に眠り薬を入れられたからだ」
「明らかに、誰かがモンリョンを陥れようとしてやったのね?」
「そう! その謎を春香が解き明かすという筋立てなんだ」
「素敵じゃない。完成したら、絶対に読ませてね」
 ファソンが力づけるように言うと、カンはますます頬を染めた。
「うん、真っ先にファソンに見せるよ」
 ファソンは夢見るような瞳で呟いた。
「やっぱり、春香伝は良いわよねえ。想い想われて結ばれる幸せな恋物語。どんな試練があっても、強い愛で結ばれた二人は乗り越えて生涯幸せに暮らすの」
「なら、さしずめ私がモンリョンで、そなたが春香か?」
「あら」
 ファソンは令嬢らしくもなく、鼻をうごめかした。
「モンリョンの正体が王さまだったなんて、幾ら何でも、あり得ないわよ。まあ、それを言うなら、王さまが春香伝を読むどころか、続きを書くだなんて誰も想像もしないでしょうけど」
「それもそうだな」
 カンは頷き、思案顔になった。
「だが、曺さんは私の書いた続春香伝を売ってくれると約束したぞ」
「私も売れると思う。今度は春香がただひたすら耐えるだけではなくて、自ら良人の無実を証明するために男装までして聞き込みするのよね」
「そうだ。時には妓楼に上がる客を装って潜入調査もする」
 でも、と、ファソンはカンを訝しげに見た。
「王さまが何故、妓楼を舞台に描けるほど詳しいのかしら」
「いや、それはそのだな。曺さんの本屋に行くついでに色町へも」
「まっ、色町ですって。妓房に上がったことがあるの! 何よ、今の国王さまは〝女嫌い〟のはずでしょ!」
 カンは渋面で言い訳を始めた。
「女嫌いというのは周囲が勝手に言っているだけだ。私だって男だよ。特に後宮に渡るわけにもいかないとくれば、たまには妓楼にも行く。もっとも、妓房では飲むだけで、女を買ったことはない」
「知らない! カンがそういうことをする男の人だって思わなかった」
 ファソンはそっぽを向き、立ち上がった。
「それでは、私はこれで失礼致します。殿下」
「待て」
 咄嗟に手首を掴まれ、ファソンは背後を振り返った。
「怒った?」
「別に、カンが妓房で妓生遊びをしても、私には関係ない話だもの」
「怒るなよ。妓房に上がったのは小説を書くため、まあ、実地調査のようなものだ。どんな場所か知らなくては、描こうにも描けないだろう。別に女遊びをしたくて行ったわけではない」
「でも、さっきは言ったでしょう。後宮に行けない代わりに妓房に行ったとか」
 ファソンがむくれて言うのに、カンは含み笑いを洩らした。
「あれは、そなたを妬かせてみたくて」
「私を妬かせる?」
 眼をまたたかせるファソンに、カンは破顔した。
「いや、今の言葉は忘れてくれ。それよりも、ファソン。もう少しだけ側にいてくれないか?」
 先刻までの剽軽な様子と異なり、どこか縋るような物言いだ。ファソンは胸をつかれた。
「手を―放して」
 ファソンの手はいまだカンの手の中にある。またしてもあの正体不明の熱がどんどん身体に溜まってきているような気がして、ファソンはカンに頼んだ。
「嫌だ」
「カン」
 咎めるように名を呼べば、カンが綺麗な顔に笑みを浮かべた。
「お願いだ、もう少しだけ、このままで」
 二人はしばらく黙り込み、ファソンはカンに手を握られたままでいた。
「ファソン」
 突如として名を呼ばれ、ファソンはハッと我に返る。
「そなたに見つめられたり、こうして手を握っていたら、何故、私の胸の鼓動が速くなるのか。以前、どうしてなのだろうと聞いたが、そなたは、その理由が判ったか?」
「いいえ」
 ファソンは首を振る。まさか、自分も同じで、カンの綺麗な微笑みを見る度に、もしくは彼にこうして手を握られる度に身体が熱くなるなんて言えるわけがない。奥手なファソンでも、それがはしたないことではないか、という程度の知識はあった。


「私もまだ判らないんだ」
「考えても判らないことは考えるのを止めるのがいちばんよ。カン、少し眠った方が良いわ。私、長話をしてしまって、あなたを疲れさせてしまったかもしれない」
「気にするな。私は愉しかったよ。そなたといると、時間の経つのも忘れるほどだ。もう少し宮殿での暮らしに慣れたら、セオクに頼んで私付きの女官にして貰おうと思っている」
 ファソンはそれには返事をしなかった。後宮の人事には原則として国王も口出しはできないといわれている。王妃がいる場合は王妃が決めるべきであり、王妃不在の今は、大妃の裁量で決められるはずだ。ここで新米女官にすぎないファソンが迂闊に応えられる問題ではなかった。
 カンもファソンからの応えは期待していなかったようで、すぐに話題を変えた。
「もう一度、あの歌を―子守歌を歌ってくれぬか」
「はい」
 ファソンは応え、母がよく幼時に歌ってくれた子守歌を歌い始めた。
「私の大切な吾子はどこから来た。吾子は天からやって来た。吾子はどんな金銀財宝よりも大切な宝物。吾子よ、私の吾子よ、天から下された大切な宝物よ」
 繰り返して歌う中に、カンは規則正しい寝息を立て始めた。
 ファソンはカンのどこか無邪気ともいる寝顔を見つめ、そっと彼の手から自分の手を抜いた。
「カンは子どもの頃から今もずっと淋しいのね」
 それにつけても、ファソンは我が身の子ども時代を思った。母は一人娘のファソンのことしか頭になく、何かにつけては口うるさく干渉してくる。しかし、七歳になるまでは毎夜のようにファソンが眠るまで側にいて、子守歌を歌ってくれたものだ。
「私はまだ幸せだったのね」
 優しい両親に恵まれ、何不自由ない暮らしをしていた。カンは王という至高の立場にいながらも、実の母大妃とは心通わせられず、淋しい子ども時代を送ったようだ。
 その時、ファソンは家を出て初めて両親のことに想いを馳せた。今頃、父も母もどうしているだろうか。こちらから断れないほどの身分の高い相手との見合いだったというのに、自分勝手に屋敷を出てしまい、どれだけ両親に迷惑をかけたかしれない。
 何故、そこに今まで思い至らなかったのだろう。けれど、今更、おめおめと屋敷に戻ることもできはしない。第一、帰ればまた見も知らぬ男と見合いをさせられるに違いない。
 ファソンは切なげな溜息をつき、カンの寝顔を見た。
「おやすみなさい。せめて愉しい夢を見てね」
 心淋しく哀しい子ども時代を過ごしたというカン。せめて彼が結ぶひとときの夢の中では心愉しく過ごせますように。哀しい想いはしませんように。
 祈るような気持ちで今度こそ立ち上がり、彼女は国王の寝所を静かに退出した。
  
 一方、ファソンが両親のことを思い出していたその頃、陳家の屋敷では当然ながら大騒動になっていた。
 陳氏の当主ミョンソの居室では、夫人のヨンオクが刺繍入りの手巾を握りしめ、派手に泣いていた。
「あなた(ヨボ)、ですから、私は最初から本当のことをあの子に話した方が良いのではと申し上げたのです」
「さりながら、ヨンオク。あのお転婆な娘の性格を考えてみろ。真実を話したとて、余計に反発するのが関の山ではないか」
 ミョンソが大きな息を吐いた。
「困った娘だ。このままでは、我らは不敬罪に問われかねんぞ。一体、彼(か)の方にどのようにお詫びすれば良いものか。私の首一つで済めば良いが、下手をすれば陳氏の家門そのものが危うくなるやもしれぬ」
 ヨンオクが金切り声を上げた。
「大監は先刻から、家門のことばかり。私は家門よりもファソンの身の方が心配でなりません。可哀想に、無理に見合いをさせられると思いつめ、川にでも身を沈めたのではないでしょうか。もし、そうなのなら、もう、この世には生きてはいないでしょう。哀れな私の娘!」
 ヨンオクが芝居がかった動作で泣きじゃくる。
 ミョンソは苦虫を噛みつぶしたような表情で言う。
「そうは申せど、私よりもこの縁談に乗り気だったのは、そなたの方ではないか、夫人(プーイン)。見合いの前夜もファソンに断れぬ話だと申していたであろう」
「それは確かにそのように申しましたれど」
 ヨンオクが手巾を握りしめ、口ごもる。
 ミョンソはやれやれというように首を振った。
「だが、案ずるな。我らの娘に限って、世を儚んで入水などするはずがない。ファソンは殺されたって死ぬような娘ではない。あの逞しい娘のことだ、きっと、どこかに潜り込んで何とかやっておるだろうて。さあて、ファソンを見つけねばならぬのは山々ではあるが、ここはまず、勝手に娘が行方を眩ませた言い訳をどう言い繕うか考えるのが先だ」
 ミョンソとヨンオクは顔を見合わせて、深い息をつくしかなかった。

  契約結婚と本物の恋

 ファソンは溜息をついた。ここ一刻ばかりの間に、これがもう何度めか知れない。
「これが新参者いびりというものなのね」
 呟き、すっかり力が入らなくなった手に力をこめる。側には洗い上がった洗濯物の山、また山である。
 ファソンが女官になって、はや、ひと月。暦はいつしか六月に入っている。彼女は提調尚宮直属の女官として仕えているものの、最初はその金尚宮に遠慮していた先輩女官たちも今では、妬みと敵愾心(ライバル心)をあからさまに剥き出しにするようになった。
 現に、こうして毎日、山のような洗濯物を押しつけられ、一日の半分を洗濯物と格闘している有り様である。
 キム尚宮の許に食事を運んでいる最中には、わざと脚を引っかけられたりチマを引っ張られたりで無様に転び、膳の物を駄目にしたこともある。当然、賄い方の女官にはさんざん嫌みを言われ、作り直した物を運ぶ羽目になった。
 上流両班の息女として育ったファソンは、洗濯など実は一度もしたことがない。慣れない仕事は尚更、手間も時間もかかるのは当たり前のことだ。
 しゃがみ込んでいたファソンは立ち上がり、腰や背中を拳で叩いた。
「うー、肩は凝るし腰もだるいし、最低だわ」



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