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「実をいえば」
 ファソンはまだ笑いながら、ようよう言った。
「あなたが王さまだというのは紛れもない現実だと認識はできているのに、どうしてか、今まで通りにしか話せないの。不敬罪に問われかねないのにね」
「私も同じだ。どうも、ファソンに改まって〝殿下〟と呼ばれたら、背筋がかゆくなりそうだよ。だから、今まで通り、カンと呼んでくれて構わない」
 二人はそれからしばらくまだ笑い合っていた。キム尚宮が老内官からの依頼で駆けつけた時、女を身辺に寄せ付けないことで知られる若い国王と美しい娘が寄り添い合い、愉しげに笑いさざめいている姿がやけに鮮烈に尚宮の眼に飛び込んできた。
「殿下があのように愉しそうに笑っておられるお姿は初めて見たこと」
 キム尚宮は極めて珍しいものでも見るかのにように、若い二人を見つめ独りごちた。
 国王は漸く心を開くことのできる女性を見つけたのかもしれない。彼女は結婚の経験もなく、子も持たない生涯であったが、それだけに余計に畏れ多いことではあるが、王を我が子とも思ってお育てしてきた。
 王が乳を差し上げた乳人の手を離れた二歳のときから、彼女は王に乳母として仕えてきた。あの娘が我が手でお育て申し上げた若き国王の孤独を癒してくれる存在であれば良いがと心から願った。
 そのためには自分は、これから、あの娘を後宮女官として、いずれは王の側室となるにふさわしい女人に育て上げようと固く心に誓った。
 このキム尚宮は若い王の乳母を勤め上げた人で、王が〝仁平大君〟と呼ばれた幼少時代は保母尚宮として、王が成人後は提調尚宮(後宮女官長)の地位に昇り、後宮で重きを成していた。二十一歳の王にはいまだ正妃どころか側室もいない。そのため、後宮で最高位にあるのは王の生母、朴大妃となるが、後宮の実際的な運営に当たり、その最高責任者となるのは金尚宮だ。
 キム尚宮は常に大妃の意向を伺うので、最終的に決定権を持つのは大妃ではあっても、後宮を統括するのは提調尚宮である。
 ほどなくファソンはキム尚宮に連れられ、後宮に案内されることになった。強引に見合いをさせられそうになり、屋敷を飛び出したのは良いが、ファソンが飛び込んだ新しい世界は何とも彼女の予想をはるかに越えた世界だったのである。

 賢宗は生来、病弱というわけではなかったが、何かと寝込むことは多かった。彼の父である前王も蒲柳の質で、若くして亡くなっている。そのため、廷臣たちは十一歳で即位した王がまだ十五歳にもならない間に、中殿を迎える件について真剣に検討したものだ。
 十五歳という年齢は、けして妻帯するのに早過ぎはしない。特に貴人であればあるほど、後継を残すためにも早婚はむしろ当然といえた。
 しかしながら、まだ少年の王は同じ年頃の少女に興味を示すどころか、むしろ寄せ付けない素振りさえ見せた。彼が好んで側に置きたがるのは同年齢の内官ばかりで、それゆえに、
―お若い殿下には衆道の気がおありになる。
 と、暗に女嫌いなのは同性愛嗜好があるのでとは実に無礼千万な噂が廷臣たちの間で囁かれた。
 もっとも、これには大きな誤解がある。前王と王妃との間に生まれ、三歳で世子となった賢宗は生まれながらの王であった。見た眼も美男で、しかも若い。そういったところから、まだ幼い時分から、彼に色目を使う女官たちが多かったのは確かなことだ。色目を使うといえば身も蓋もない言い方かもしれないけれど、要するに、
―王さまのお眼に止まりたい。
 と、熱望する若い女官は多かったということだ。仮に第一王子の母となれば、未来の国王の生母となることも夢ではない。
 後宮で生まれ育った賢宗は、そういう女の裏の部分―醜い欲望を幼いときから目の当たりにしてきた。父王は生涯に渡って中殿(正妻)の他には側室を数人置いていた。しかし、これもひそかに囁かれていることだが、体力がなかったせいか子種が薄かったせいか、側室には一人も御子は産まれず、正妃一人に賢宗が生まれただけだ。
 もっとも、これも怖ろしい噂が後宮で囁かれていて、嫉妬に狂った王妃が懐妊した側室たちをことごとく薬を飲ませたり転ばせたりして流産させた―とも伝えられている。
 もちろん、賢宗自身もそういった黒歴史的な後宮の噂話、伝説と笑い飛ばすことは満更できない話を知っている。そして彼がよく知る気性の激しい母であれば、そういうこともありなんと思えてしまうところが哀しい。
 あれはいつだったか、確か彼が八歳くらいのときだ。季節は真冬で、漢陽に純白の雪が降り積もったある朝、彼はなかなか全文憶えられなかった漢籍をやっと憶えることができ、嬉しくて母に報告にいった。
 けれど、後で行かなければ良かったと何度後悔したことか。東宮殿からとある後宮の殿舎を通りかかり、爺やと慕うお付き内官を従えていた彼は脚を止めた。
 美しい白装束の女が降り積もった雪の上、筵一枚で端座していた。
―あの者はいかがしたのだ?
 当時はまだ若かった爺やこと沈内官は沈んだ面持ちで応えた。
―中殿さまのお怒りを買った者にございます。
―何ゆえ、母上のお怒りを買ったのだ?
―それは。
 沈内官は口ごもった。幼い彼は女の許に駆け寄った。
―このような雪の上では寒かろう。何の詮議があって、このようなことになったのかは知らぬが、私が母上に取りなして参ります。
 白装束の女性は美しかったけれど、それは例えば降り積もった雪のように儚いものだった。母よりは、かなり若い、まだ十代のようにも見えた。
 後に、その女が父王の寵愛した側室の一人で、その時、懐妊していたのだと知った。
 彼は中宮殿に赴き、漢籍のことなどそっちのけで、雪の中で端座させられている女性のことを母に話した。
―このような寒い日に風邪を引いてしまいます。
―世子は慈悲深いこと。きっと、行く末はご立派な王とおなりでしょう。
 母は微笑んで頷いたが、その後、取った手段は残酷極まりないものだった。
 帰り道、雪の中にいた女性はもう跡形もなく姿を消していた。彼女が座っていた場所には筵さえない。ただ、白い雪をおびただしい鮮血が紅く染め上げていた。


―何があったというのだ!
 興奮して訊ねれば、内官は哀しげに首を振るばかりだった。王妃から箝口令が敷かれていたらしく、幼い東宮に真実を教えてくれる者は誰一人いなかった。
 その側室は
―王さまばかりか、また幼い世子さままでをも誑かそうとした。
 と、大妃(前中殿)に仕える尚宮から鞭打たれ、流産し、彼女自身も流産後、息を引き取ったという話だった。
 我が母ながら、何という酷い所業をするのか。彼が後にも先にも母の烈しい嫉妬を目の当たりにしたのは、そのときだけだった。しかし、そのただの一度は彼の女性不信を決定づけるのには十分すぎた。
 若い王と実母である朴大妃との関係は、そういう経緯もあり、微妙なものだ。大妃は一人息子を溺愛しているが、当の息子は母に対して常に一定の距離を置いている。むしろ、王が物心つく前から養育に当たった守り役の沈内官長(内侍府長―内官を統括する部署の長)や今は提調尚宮となっている乳母の金尚宮らの方をよほど信頼し、心を開いている。
 王が十八歳の頃、やはり、廷臣たちから国婚についての議題が提出され、王自身が参加しての御前会議で何度も話し合われたが、当の王はのらりくらりと交わすばかりで、これも話はうやむやになった。
 だが、賢宗が二十一歳になったこの年早々、ついに痺れを切らした廷臣たちと大妃が共謀して王には無断で禁婚令を発布した。これは国婚(王の結婚)のため、朝鮮国中の八歳から十七歳までの適齢期の両班の子女に対して、この間は無断で結婚してはならないというものだ。
 あと半月も経たない中に、新しい中殿を決めるための選考試験が始まる。選考試験は志願者・推薦者を含めて全員に対して数度に渡って行われ、最終(四次)選考まで残った娘たちが次に大妃や議政府の高官たちの前で一人ずつ面接試験を受け、その中から一人選ばれた令嬢が中殿に冊立される。
 また、最終選考まで残った令嬢たちはそのまま当代の王の後宮に入ることは決定済みで、彼女たちはそれぞれ実家の家門にふさわしい位階を側室として賜る。
 長らく我が娘を中殿にと虎視眈々と窺ってきた両班たちは今こそと我が娘たちを中殿候補にと名乗りを上げてきている。早くも志願者は見込み数を軽く越え、選抜試験の担当者たちは令嬢たちの履歴書などを一枚一枚眼を通すのに大わらわであった。まず書類選考で不合格となる気の毒な令嬢もいるのだ。
 新中殿の志願者の異例の多さは、当代の国王の結婚に対する関心がそれだけ大きいことを物語っていた。
 もっとも、相も変わらず肝心の若き国王は自分の花嫁選びだというのに知らん顔で、まるで関心がなさそうである。
 その重圧からというわけでもないだろうが、その頃、賢宗は熱を出して寝込んだ。どうも軽い風邪を引き込んだのを甘く見たのが良くなかったようだ。
 その日、ファソンは金尚宮に言われ、大殿の寝所で病臥している王の許に薬湯を運ぶことになった。後宮の女官として働くようになって十日余りが過ぎたある日のことだ。
 通常、正式な女官には見習い期間を経なければなれない。が、ファソンの場合は公にはしていないものの、国王自らの推挙ということもあり、見習いではなく正式な女官として仕えることが決まった。これは極めて破格の待遇である。
 提調尚宮は一つの殿舎を賜っているため、ファソンは女官長預かりということで、キム尚宮の下で女官として必要な礼儀作法や実務などを学びながら、色々とキム尚宮の身の回りの雑用をこなしていた。
 大殿の磨き抜かれた長い廊下を小卓を掲げ持って静々と歩きつつ、ファソンは首を傾げた。
 大殿にも専属の尚宮や女官はいるのだから、何もわざわざ他の殿舎で働く自分がやる仕事でもなかろうに。そういう疑問があった。よもや国王の方からキム尚宮に
―たまにはファソンの顔を見たいゆえ、こちらに寄越してくれ。
 内々に頼まれたキム尚宮がファソンを王の許にやる口実だとは想像だにしない。
 天翔る龍が彫り込まれた重厚な両開きの扉が見えてきた。国王の寝所である。扉の前に数人の内官や尚宮、女官が控えている。その中には例の〝爺〟こと沈内官の顔もあった。
 あの老人とはどうも最初の出逢いが良くないが、今やファソンは後宮で働く女官である。
 大先輩の内官長に面と向かって敵意を露わにするほど、ファソンも子どもではなかった。
 ファソンの姿を認め、沈内官が小さく頷けば、若い女官二人が両側から扉を開いた。
「陳女官が薬湯をお持ち致しましてございます」
 沈内官の声と共に、ファソンは静かに寝所に入った。背後でまた扉が閉まる。
 室の奥に大きな寝台が見えるが、ここからでは絹布団の山が見えるだけだ。もしかしたら、カンは眠っているのかもしれない。だが、薬湯だというからには起こしてでも飲ませた方が良いのだろう。
 そう判断して寝台に近づいた。カンは子どものように布団を引き被っている。
「―殿下」
 遠慮がちに呼びかけると、いきなり山のような布団が勢いよく跳ね上がった。
「きゃっ」
 あまりに愕いたので、らしくない悲鳴を上げてしまい、ファソンは慌てて両手で口を覆った。
「な、なに。愕くじゃないの」
 と、これはおよそ至高の立場の人に対する物言いとは思えない口調で抗議する。
「ふふ、これはちょっとした罰だよ」
 カンは満面に笑みを湛えている。
「罰ですって? 一体、私が何をしたというの」
「少しは私のことを思い出してくれた?」
「はあ!?」
 ファソンは何とも間の抜けた声を出した。カンの言おうとしているところがさっぱり判らない。
「十日もファソンの顔を見ていない。その間、私は君の顔を思い出しては切ない溜息ばかりついていた。ファソンに見つめられたときの、あの胸の鼓動が速くなるのも懐かしいと思ったほどだったんだ」
「―」
 カンの科白は極めて意味深だ。こんな科白を他人に聞かれたら、恋人同士の熱い告白と勘違いしかねないところだが、生憎とファソンは難しい書物は読めても、恋愛にかけては超奥手であった。
 カンが滔々と告げている科白の意味にどれほど重大な意味があるかは理解できていない。


「逢えない間、私はファソンに逢いたくて堪らなかった。ファソンは私に会えなくて、淋しくなかったのか?」
 なので、言葉そのものを素直に受け取り返事をした。
「もちろん、逢いたいと思ったわよ。だって、この広い宮殿ではカンしか知っている人がいないんだもの」
 最初の科白では歓びに眼を輝かせたが、次の瞬間にはカンは肩を落とした。
「何だ、ファソンが私に逢いたいというのは、そういう意味だったのか」
「そういう意味って、他にどういう意味があるっていうの?」
 生真面目に問うファソンに対して、カンは淡く微笑した。
「いや、良いんだ。今はまだ、それで良い」
 カンはまた意味不明の言葉を独りごちた。
「だから、罰だというんだ」
「え?」
「私一人がファソンに逢いたいのを我慢して、ファソンは私のことをろくに思い出しもしてくれなかったことへの罰」
「カンの話はよく判らないわ」
 ファソンが肩を竦めると、カンはまた笑った。その時、ハッと自分の大切な任務を思い出す。
「そういえば、キム尚宮さまに頼まれて、薬湯を持ってきたのよ」
 ファソンは寝台の側に置いた小卓を見た。鮮やかな牡丹色の風呂敷を取り去ると、湯飲みに入った薬湯と口直しの甘い菓子が載っている。
「でも、この分じゃ薬湯を飲む必要もなさそうね。心配して損しちゃった。元気すぎるくらい元気じゃないの」
 呆れたように言うのへ、カンは悪戯っぽく笑った。
「あれ、何か悪寒がしてきた。熱がまたぶり返したのかもしれない。自分では薬が飲めないから、ファソンが飲ませてくれ」
「なっ」
 ファソンは両手を腰に当てた。
「言うに事欠いて、飲ませろですって。そんなに元気が有り余ってるのに。自分で飲みなさいよ」
「ああ、咳が出る」
 わざとらしくコホコホと咳き込んで見せるのに、ファソンは大きな溜息をついた。
「仮病なのは判ってるのよ?」
「苦しい。薬を」
 ファソンはこれ見よがしに息を吐いた。
「しようがない人ね」
 小卓に乗っている匙を取り上げ、湯飲みから薬湯を掬う。匙は毒に反応する銀製だ。
「はい、口を開けて」
「あーん」
 カンは親鳥から餌を貰う雛よろしく大きな口を開けている。その嬉しげな表情に、ファソンは呆れて何も言えなくなった。
「はい、もう一度」
「うん」
 にこにこと口を開け、ファソンは匙で薬湯をカンに飲ませる。そんなことを繰り返し、漸く薬湯はすべて終わった。
「ああ、幸せだ。ファソンに薬を飲ませて貰えるなんて思ってもみなかった」
 満足げに言うカンに白い手巾を渡す。と、彼はニッと笑う。
「ああ、本当に子どもなんだから」
 ファソンは歯がみし、カンの手から手巾を奪い取り、口の周りについた薬湯を拭ってやった。
「何でもキム尚宮さまは、これが特別な薬湯だとおっしゃっていたけど」
 ふと思い出して言うと、カンが笑った。
「セオク特製の薬なんだ」
 セオクというのはキム尚宮の名前だ。今でも母のように慕っている乳母を王は名前で呼ぶ。
「キム尚宮さま特製の?」
「ああ、実は薬湯ではなくて生姜湯」
「ええっ」
 カンは相変わらず笑みを浮かべている。
「私は幼いときから御医が調合した薬が苦手でね。よほど酷いとき以外は、セオクが作ってくれた生姜湯を薬代わりにしてきたんだ」
「我が儘な王さまね」
「我が儘ついでにもう一つ、薬湯の後は口直しの甘い菓子が食べたい」
 ファソンは笑い、軽くカンを睨んだ。
「薬じゃないなら、必要ないでしょ」
「そう言うなよ。ほら、あーん」
 と、また口を開けるので、ファソンはもう自棄気味に綺麗な花を象った干菓子をそのまま口に放り込んだ。
「む、くぐ」
 カンは眼を白黒させている。
「これが私から我が儘な王さまへの罰」
 カンはひとしきり噎せた後、恨めしげな眼でファソンを見た。
「負けず嫌いな女だなあ」
「当たり前よ。生姜湯も飲み終えたし、私はこれで帰るわね」
「待ってくれ」
 カンの様子がどうにも必死だったので、ファソンは脚を止めた。
「まだ何か用事がある?」
「頼みがあるんだ」
「なあに」
「歌を歌って欲しい」
「どんな歌?」
 カンは少し押し黙った。
「笑わないか?」
「ええ」
「子守歌」
 ファソンは眼を見開いた。
「私が知っている子守歌なんて、一つくらいしかないわよ」
「何でも良い」
 ファソンは頷いた。
「また熱が上がるといけないから、横になって」
「うん」
 素直に横になったカンの上から掛け衾(ふすま)を掛け、ファソンは寝台の枕辺に浅く腰掛けた。
「私の大切な吾子はどこから来た。吾子は天からやって来た。吾子はどんな金銀財宝よりも大切な宝物。吾子よ、私の吾子よ、天から下された大切な宝物よ」
 朝鮮に古くから伝わる伝統的な子守歌であり、上は両班から下は庶民に至るまで、よく歌われるものだ。
「私が子どもの頃、母がよく歌ってくれたの」
 ファソンは歌い終えると言った。
「そうか。ファソンは幸せだな。私はセオクがたまに歌ってくれたくらいで、実の母の子守歌なんて聞いたことはないよ」
「カンのお母さまって、朴大妃さまよね」
「―ああ」
 カンは頷いた。親代わりの沈(シム)内官やキム尚宮のことになると嬉しげに話すのに、実の母大妃については浮かない顔で口を閉ざすのは気になった。
「ファソン。私は一度だって王になりたいと願ったことはないんだ」


 カンの突然の吐露に、ファソンは眼を見開いた。
「でも、前王さまの御子はカン一人だったんでしょう。望むと望まざるに拘わらず、カンが王位を継ぐのは宿命だったのね」
「本当にそうだろうか」
 え、と、ファソンは問い返した。
「ファソン、おかしいと思わないか? 父上は母以外にも五人の側室を持っていた。その中の誰にも子ができなかったのは不自然すぎる」
 流石に、ファソンにもカンの言いたいことの意味は判った。
「誰かがわざと他のご側室たちに御子を産ませまいとしたというの?」
「そういう噂が後宮には流れている。私の母が身籠もった側室を流産させたと」
 惛(くら)い声音で呟くカンに、ファソンは絶句した。
「後宮は怖ろしいところだ、ファソン。もしかしたら、私にはたくさんの弟妹がいたのかもしれない。母は何人の罪なき生命を犠牲にして、私を王位につけたのだろう。私は兄弟を犠牲にしてまで、王になりたくはなかったのに」
「カン、思いつめないで。あくまでも、噂の域を出ない話なのだし。それに、あなたは前の中殿さまのただ一人の王子さまだったのだから、たとえ他にご兄弟がいたとしても、あなたが王位を継いだことに変わりはなかったと思うわよ」
 そこで、ファソンはカンから怖ろしい事実を聞かされた。幼き彼がかいま見た雪の日の惨劇、前王の側室が懐妊中、大妃の嫉妬のために雪の上に席藁待罪(ソツコテジェ)し鞭打たれた挙げ句、流産したこと、挙げ句にその側室まで亡くなったことを。
 あまりの陰惨で残酷な話に、ファソンは言葉もない。
 カンは惛い声で続けた。
「父は母の暴挙を見て見ないふりをしていた。今では私も母を遠ざけた父の気持ちがよく判る。だから」
 カンは両手で顔を覆った。
「私は後宮なんて持ちたくないと思ってきた。さりながら、子どもだったときはともかく、成人した王として、それは許されないことだ。周囲は皆、早く中殿を迎えろとせっついてくる。もし、どうしても妻を迎えろと言うのなら、せめて母のような残酷なことはしない―心優しい娘を中殿に迎えたいと願っている。父のようにたくさんの側室を持って無用の争いは起こしたくないゆえ、側室を持つつもりはない」
 ファソンは大きく頷いた。
「カンの言うことは判るわ。中殿さまといえば、国の母となるべき方だもの。大丈夫よ、あと数日中には中殿さまを選ぶ選抜試験が始まるわ。今回はたくさんの応募者がいると聞くから、きっと徳の高い国母にふさわしい令嬢が見つかると思う」
 力づけるように言うと、カンが弱々しい声で言った。
「そうかな」
「ええ、大丈夫。カンの奥さんにふさわしい娘がきっといるはずよ」
「一つ訊いても良いかな」
「なあに?」
「ファソンは何故、家を出たりしたんだ?」
 ファソンは微笑んだ。
「見合いをさせられそうになったの」
「見合いを?」
「そう。父にね、無理に見合いをさせられそうになったのよ。だから、逃げ出してきたの。甘いわね。屋敷を出さえすれば何とかなると思ってたのよ。曺さんのところで何か仕事をさせて貰えると勝手に決めてたの。でも、その場で曺さんに断られて。私のような世間知らずが一人で生きてゆけるほど都は甘くないから、さっさと屋敷に戻れって言われちゃった」
 カンが言いにくそうに言った。
「これまで敢えて訊ねなかったけど、ファソンは両班の令嬢だろう?」
「ええ、一応、父は王さまにお仕えしております、殿下」
 ふざけて言うと、カンは思案げな顔で言った。
「両班の令嬢というのは普通、親の言うなりに政略結婚するものだろうが」
「このファソンをそんじょそこらのお嬢さまと同じにしないで欲しいわね。私は生涯、誰にも嫁がないと決めているんだから」
「結婚するなら、書物とするのか? 本好きのお嬢さん」
「そうね。でも、もし誰かに嫁ぐのなら、親に決められた相手ではなく、ちゃんと自分で見つけるわ。私もその男(ひと)を好きになって、相手の男も私をちゃんと見てくれる―そういうのが良い」
 カンが愉快そうに言った。
「ファソンは見かけによらず、夢想家(ロマンチスト)なんだ」
「まあ、見かけによらずは余計よ。相変わらず、ひと言多いのよね、カンは」
 だから、とファソンは眼を閉じた。
「春香伝の春香と夢龍(モンリョン)のような両想いが良いわあ」
 恍惚りと呟くのに、カンが笑い転げた。
「何だ、ファソンは難しい本しか読まないのかと思ったら、春香伝も読んだのか?」
 ファソンは肩を竦めた。
「当たり前でしょ。ただ漢籍が好きというだけで、私は至って普通の女の子です。もちろん、これも父や母には内緒よ。でも、本当はお母さまも父や使用人に隠れて春香伝を読んでるのは知ってるの。私には、そんな色事しか描いてない、はしたない小説は駄目って言ってるくせにね。案外、父も母がこっそりと小説を読んでいるのを知ってるのかもしれないと思うときがあるわ」
「何か面白そうな父上と母上だな」
「そう?」
 そこでファソンは声を低めた。
「ところで、カンはその後、春香伝の続きは書いているの?」
 その問いに、カンは白い面をうっすらと上気させた。
「実は風邪を引き込んだのも、そのせいなんだ」
「夜更かしでもしたの?」
「まあ、そういうこと」
 茶目っ気たっぷりに言うカンに、ファソンは姉のような口調でたしなめる。
「無理をしては駄目よ。カンはこの国の王なのよ? 代わりのきかない大切な身体なんだから。病気ばかりしていたら、朝廷の大臣たちも心配するでしょう」
「だな。世継ぎがいないから、余計に早く中殿を迎えろと煩くなるんだよ」
「それは仕方ないわよ。私だって、心配するわ」
 カンは横たわったまま上目遣いにファソンを見た。
「それは私の健康が心配だということか? それとも、私に世継ぎがいないから、何かあったら大変だと?」
「嫌ねえ、どちらも心配よ」


 何故、そのような質問をされるのか判らず、ファソンは言った。
「あまり無理はしないでね。日中は夏のように暑いけど、夜は冷えるから、余計に身体に負担がかかるのよ」
「判ってはいるのだが、昼間は政務があるし、小説を書くとなれば、夜しかない。必然的に眠る時間を削るしかないんだよ」
「どのくらい進んだの?」
「そうだな」
 カンは首を傾げた。
「私の書いたのは続編というよりは、正しく言うと、春香伝の異聞のようなものなんだ」
「異聞? 面白そうね」
 勢い込んで訊ねると、カンは笑った。
「そなたは聞き上手だな。そんな風に訊かれると、ますます話したくなる」
「お世辞ではなくて、本当に聞きたいわ。どんな話なのか、教えて」
「晴れて悪徳使道から逃れた春香はモンリョンと都に行った。そこで奥方に迎えられ、幸せに暮らすんだ。だが、ある日、モンリョンが政敵に陥れられ、濡れ衣を着せられ義禁府に囚われた」
「まあ、それは大変」
「そこで、賢妻春香の出番だ」
 ファソンは固唾を呑んで、カンの言葉を待った。カンはファソンの表情を見て、満足げに笑う。
「春香は良人の無実を証(あか)そうと男装してひそかに単独で聞き込みを始めた」
 あろうことかモンリョンは妓生殺しの罪で囚われたのだ。酒には強いはずの彼は両班の知り合いに誘われ、妓房に上がった。数人で賑やかに飲み明かしている中に、モンリョンは深酒が祟って眠ってしまい、翌朝目覚めたときには彼の傍らに妓生の亡骸が転がっていた―という事件だった。
「モンリョンは仲閒内からも〝笊〟と呼ばれていたほどの酒豪だった。ゆえに不覚にも眠ってしまったのは、酒に眠り薬を入れられたからだ」
「明らかに、誰かがモンリョンを陥れようとしてやったのね?」
「そう! その謎を春香が解き明かすという筋立てなんだ」
「素敵じゃない。完成したら、絶対に読ませてね」
 ファソンが力づけるように言うと、カンはますます頬を染めた。
「うん、真っ先にファソンに見せるよ」
 ファソンは夢見るような瞳で呟いた。
「やっぱり、春香伝は良いわよねえ。想い想われて結ばれる幸せな恋物語。どんな試練があっても、強い愛で結ばれた二人は乗り越えて生涯幸せに暮らすの」
「なら、さしずめ私がモンリョンで、そなたが春香か?」
「あら」
 ファソンは令嬢らしくもなく、鼻をうごめかした。
「モンリョンの正体が王さまだったなんて、幾ら何でも、あり得ないわよ。まあ、それを言うなら、王さまが春香伝を読むどころか、続きを書くだなんて誰も想像もしないでしょうけど」
「それもそうだな」
 カンは頷き、思案顔になった。
「だが、曺さんは私の書いた続春香伝を売ってくれると約束したぞ」
「私も売れると思う。今度は春香がただひたすら耐えるだけではなくて、自ら良人の無実を証明するために男装までして聞き込みするのよね」
「そうだ。時には妓楼に上がる客を装って潜入調査もする」
 でも、と、ファソンはカンを訝しげに見た。
「王さまが何故、妓楼を舞台に描けるほど詳しいのかしら」
「いや、それはそのだな。曺さんの本屋に行くついでに色町へも」
「まっ、色町ですって。妓房に上がったことがあるの! 何よ、今の国王さまは〝女嫌い〟のはずでしょ!」
 カンは渋面で言い訳を始めた。
「女嫌いというのは周囲が勝手に言っているだけだ。私だって男だよ。特に後宮に渡るわけにもいかないとくれば、たまには妓楼にも行く。もっとも、妓房では飲むだけで、女を買ったことはない」
「知らない! カンがそういうことをする男の人だって思わなかった」
 ファソンはそっぽを向き、立ち上がった。
「それでは、私はこれで失礼致します。殿下」
「待て」
 咄嗟に手首を掴まれ、ファソンは背後を振り返った。
「怒った?」
「別に、カンが妓房で妓生遊びをしても、私には関係ない話だもの」
「怒るなよ。妓房に上がったのは小説を書くため、まあ、実地調査のようなものだ。どんな場所か知らなくては、描こうにも描けないだろう。別に女遊びをしたくて行ったわけではない」
「でも、さっきは言ったでしょう。後宮に行けない代わりに妓房に行ったとか」
 ファソンがむくれて言うのに、カンは含み笑いを洩らした。
「あれは、そなたを妬かせてみたくて」
「私を妬かせる?」
 眼をまたたかせるファソンに、カンは破顔した。
「いや、今の言葉は忘れてくれ。それよりも、ファソン。もう少しだけ側にいてくれないか?」
 先刻までの剽軽な様子と異なり、どこか縋るような物言いだ。ファソンは胸をつかれた。
「手を―放して」
 ファソンの手はいまだカンの手の中にある。またしてもあの正体不明の熱がどんどん身体に溜まってきているような気がして、ファソンはカンに頼んだ。
「嫌だ」
「カン」
 咎めるように名を呼べば、カンが綺麗な顔に笑みを浮かべた。
「お願いだ、もう少しだけ、このままで」
 二人はしばらく黙り込み、ファソンはカンに手を握られたままでいた。
「ファソン」
 突如として名を呼ばれ、ファソンはハッと我に返る。
「そなたに見つめられたり、こうして手を握っていたら、何故、私の胸の鼓動が速くなるのか。以前、どうしてなのだろうと聞いたが、そなたは、その理由が判ったか?」
「いいえ」
 ファソンは首を振る。まさか、自分も同じで、カンの綺麗な微笑みを見る度に、もしくは彼にこうして手を握られる度に身体が熱くなるなんて言えるわけがない。奥手なファソンでも、それがはしたないことではないか、という程度の知識はあった。



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