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 ガントクは何も言わない。ファソンは慌てた。
「なら、代書は良いわ。本を書き写したり、筆耕はどうかしら。今まではわざわざ外部に頼んで書き写させていたりしたんでしょ。私にもそういう仕事をさせて貰えないかしら」
 ガントクは小さな溜息をついた。
「お嬢さん。確かに、お嬢さんは女にしておくのは惜しいほどの物識りだ。難しい漢籍でもすらすらと読みこなせる。そんな人がうちの店で筆耕をしてくれたら、儂は随分と助かるがね」
「なら、働かせてくれるのね!」
 瞳を輝かせると、ガントクはむっつりと首を振った。
「駄目だ」
「何で? お金なら、そんなにたくさんは要らないわ」
「そういう問題じゃないんだよ、ファソン」
 ガントクは漸く呼び慣れた親しげな呼び方でファソンを呼んだ。
「あんたがどこのお嬢さんか、あんたの親父さんがどれだけお偉いさんなのか。儂は今まで敢えて拘ることはなかった。だが、それは、あんたが客にすぎなかったからだ。仮にも店で働くとなりゃ、あんたの身許がどういうものなのかっていうことをしっかりと考える必要があるのは雇用主の立場としては当然だと、これは判るだろう?」
「それはそうだけど」
「そんな手荷物一つ下げて、恐らくは家出でもしてきたつもりだろうが、止めときなよ。ファソンのような世間知らずのお嬢さんが一人で生きてゆけるほど、漢陽は甘くはないぞ。今の中にさっさと屋敷に戻りなさい。悪いことは言わん」
 ファソンはがっくりと肩を落とし、古書店を出た。いつもは優しいガントクにぴゃしりとやられ、自分の甘さと世間知らずさを突きつけられたようだ。
「ここで使って貰えると信じていたから、他には何も考えてなかった」
 涙が零れそうになるのをまたたきで堪える。と、正面をよく見ていなかったたせいで、小道を向こうからくる人とまともに体当たりした。
「痛っ」
 向こうが悲鳴を上げるのに、ファソンも負けずに声を上げていた。
「あら」
 何と衝突したのは、またしてもあの若い男、イ・カンであった。つくづく腐れ縁というか、ぶつかる縁のある二人である。
「そなたはファソンではないか」
 カンも相当愕いているようである。
「私たち、いつもぶつかってばかりいるわね」
「それもそうだ。初めての出逢いもそうだったからな」
 昨日の出来事を思い出したのか、カンは笑った。ファソンは彼に再会して、また身体が例の得体の知れない熱を帯びてくるのを自覚した。昨日は屋敷に戻るなり、慌てふためくチェジンに出迎えられ父に〝見合い〟を告げられ、到底、カンを思い出す余裕もなかった。
 それでも、彼に昨日、貰った菫青石(アイオライト)の簪はちゃんと髪に挿してある。
「そなたも曺さんのところに?」
 ということは、彼も本屋に用があったのだろう。ファソンは淡く微笑んだ。
「用事はもう済んじゃったみたい」
 じゃあ、と、小さな声で言い歩き出す。数歩あるいたところで、カンが追いかけてきた。
「待ってくれよ、まったく、つれないな。折角、奇遇にも再会できたのに」
「ごめんなさい、今、私はそれどころではないのよ」
 唯一の仕事の当てが外れてしまったからには、別の仕事を探さなければならない。暇な両班の若さまの相手をしている時間はないのだ。
 カンもファソンの元気のないのに気付いたらしい。
「どうした? 何か元気ないな。私で良ければ、力になるよ」
 ファソンはカンを見上げた。今日は淡い青色の上等なパジを纏っている。帽子に垂れ下がっているのはやはり衣装に合わせているようで、蒼玉(サファイア)だろう。そんな風には見えないが、もしかしたら、人の眼を気にする伊達男なのかもしれない。
 そういう意味では、ファソンの好むような類の男ではない。
 洗練された端正な風貌の貴公子ではあるけれど、彼の雰囲気からは世慣れない若さまといったものが漂っている。仕事探しには間違っても役に立ってくれそうにはない。それでも申し出てくれた彼の親切は嬉しかったので、素直に礼を言った。
「ありがとう。でも、良いの。自分で何とかするから」
 ファソンは微笑み、また踵を返そうとした。
「待てよ」
 と、今度は行く手を塞ぐように前方に立つ。いささか強引なその態度に、ファソンはムッとして彼を睨んだ。
「何なの? 私はこれから行くところ、やらなければならないことがたくさんあるんだから、邪魔しないで」
「どこに行くんだ?」
 何故かしつこく追及してくる男に、ファソンは良い加減焦れてきた。
「どこでも良いでしょ。あなたには関係ないことよ」
「いや、それが関係あるんだ」
 ここでカンはそれまでの強気な態度が嘘のように態度を軟化させた。最初からやや下がり気味の綺麗に弧を描いた眉も心なしか下がっている。彼自身、本当に困惑しているといった体だ。
「どうして、私がこれから行くところとカンに関係があるの?」
 これも素朴な疑問をそのまま口に出せば、カンはますます眉尻を下げた。
「そなたのことが忘れられなかった。確かに〝本の虫〟と呼ばれるだけあって、少し世の常の女とは変わっているようではあるが」
 最後のひと言は余計だ。ファソンはムッとした。


「そう、変わり者で悪かったわね。そんな変わり者のことなんて、さっさと忘れれば良いでしょ」
 そのまま去ろうとしたところで、腕を掴まれた。
「待ってくれ」
「ああ、だから一体、何なの、何が言いたいの」
 ファソンはもどかしげに叫んだ。
「何度も言うように、私はこれから仕事探しをしなければならないのよ。あなたの訳の判らない理屈に付き合っている暇はないの!」
 だが、カンは大真面目に言った。
「そなたといると胸がドキドキする。こんな気持ちは初めてなんだ、その気持ちが何なのか突き止めたい」
 いきなり握りしめた自分の手を彼の心臓辺りに持っていかれ、硬直した。確かにカンの鼓動は速いようではある。ファソンはその瞬間、彼に初めて出逢った―昨日の出来事を思い出した。彼にじいっと見つめられると、ファソンもまたいつになく鼓動が跳ねたり身体が熱くなったりして、初めての体験に戸惑った。
 彼が当惑しているのは、昨日、自分が体験したのと似ているのだろうか。だが、と、そこで思考は現実に戻った。
 自分は彼にも告げたように、これから職探しに奔走しなければならない身だ。ファソンとしても昨日、感じた得体の知れない熱について原因を突き止めてみたい気はするが、ここは仕事を見つける方を優先しなければならない。
 カンはファソンの小さな手を握りしめたまま、放そうともしない。ずっと彼の大きな手に握りしめられている中に、ファソンの方までまた身体が熱くなり胸の動悸が速くなってきた。
「いつまでやっているつもり? 放して」
 それでも放そうとせず、ますます彼女の手を握る手に力をこめる。ファソンは大きな声で言った。
「放して、この変態、助平男」
 カンが切れ長の双眸をまたたかせる。
「酷い言い様だな。さりながら、他人から変態とか助平とか言われたのは生まれて初めてだ」
 妙な感慨を抱いているらしいカンは、やはりどこか常人と感覚がズレているように思える。ファソンは内心、溜息をつきたい気持ちになった。
「あなた、やっぱり変よ」
 当人を前に〝変人〟とまでは言えず、言葉だけは適当に濁したものの、女だてらに難しげな漢籍をすらすらと読みこなすファソンも変わり者なら、この浮世離れした若者も相当の変わり者といえよう。
「教えてくれ、ファソン。この訳の判らぬ胸の高鳴りの正体は一体何なのだ?」
 真顔で問われても、応えられるはずがない。しかし、そこでファソンの中で閃くものがあった。
「そうね」
 勿体ぶって思案に耽るふりをして見せる。
「私も一緒に考えてあげても良いけど、条件があるわ」
「条件?」
 果たして人の良いお坊ちゃんは眼を輝かせて身を乗り出してくる。世間知らずの若さまを騙しているような罪悪感がちらと走ったが、家出が成功するかどうかのこの瞬間、手段を選んではいられない。
「少しの間、匿ってくれたら、あなたの気まぐれに付き合ってあげても良いわよ」
「匿うとは?」
 ファソンの言葉の意味が本当に理解できなかったのだろう。カンは首を傾げた。
「あなたのお屋敷の片隅で良いの。私を置いて貰えないかしら。もちろん、下働きの女中でも何でも、贅沢は言わないわ」
「うむ」
 カンはしばらく考え込んだ。ファソンは息を呑んで彼の様子を見守る。
「嫌なら良いのよ、他を当たるから」
 最後の一押しをしてみる。むろん、他に頼れるところなんて、あるはずもないのだから、これはハッタリというヤツだ。どこまでも貴族の令嬢らしからぬふるまいだけれど、これも生きてゆくためには致し方ない。
 カンが小さく息を吐いた。
「頼み事をするには横柄な態度だな。それが人に物を頼むときの態度か?」
「嫌なら別に無理にとは言わないから」
 去ろうとすると、慌てた声が追いかけてきた。
「判った、私の家で良ければ、気が済むだけいると良い」
 とりあえず、身を寄せる場所は確保できたと、ファソンは胸を撫で下ろしたのだった。

「ねえ、何で、あなたがここに用があるの?」
 先刻から幾度、同じ問いを繰り返したことか。ファソンは今、王宮の正門前に立っていた。もちろん、古書店の前でカンと再会し、ここまで連れられてきたのである。 
「まあ、良いから」
 その度に、カンは同じ応えしかくれない。ファソンは昨日の彼との会話を懸命に思い出そうとした。確か彼は国王殿下に仕えていると話していたのではなかったか。どう見ても、王の側近のようには見えず、下手をすれば任官さえしていない極楽とんぼに見えたものだが―。官吏だという話は真実だったのかもしれない。 
 線も細い優男にしか見えない彼もやはり男なのだと判った。ファソンが脚を踏ん張ってみても、彼は楽々とファソンの手を掴み、半ば引っ張るようにして正門をくぐり王宮内の敷地をどこに行くものか、早足で歩いてゆく。
 明らかに官服を纏っているわけでもないのに、門を守る衛兵は彼を見ても咎め立てもしないし、少し進んで殿舎が見える辺りまで来ると、お仕着せを纏った女官たちともすれ違うようになるが、彼女たちも皆、一様にカンを不審者扱いはしなかった。―どころか、カンをまともに見ようともせず、面を伏せてそそくさと通り過ぎてゆくばかりだ。
「何なの? あなた、一体、何者―」
 ファソンは言いかけ、はたと思い当たった。
「まさか、あなた、王族とか言わないわよね、カン」
 そのときだった。少し離れた前方から、小柄な老人が小走りに駆けてくるのが眼に入った。
「国王殿下、殿下~」
 ファソンは小首を傾げた。あの小柄な老人は今、何と言った?
 茫然としている彼女をよそに、老人はカンの前で止まった。相当に急いだものか、気の毒なほど呼吸が荒い。
「何だ、爺。何かあったのか?」
 〝爺〟と呼ばれた老人は濃い緑のお仕着せを着ていた。どうやら、内官(宦官)のようである。
 老内官はジロリとファソンを一瞥し、次いで、ファソンの手をしっかりと握っているカンの手に移った。


「殿下、今までどこにおいでになられていたのですか! 本日の午後は大切なご用があると爺があれほどまでに申し上げましたのに」
 と、どこか恨めしげな眼でファソンまで見られ、彼女は慌てて視線をあらぬ方に逸らした。
 どうも、この気まずいやりとりに巻き込まれたくない。だが、そうは問屋が卸さないようで、老いた内官はファソンをあからさまに訝しむ眼で見て言った。
「この娘は何者ですか?」
 そこで、カンは破顔した。
「ファソンいう名だ。金尚宮に預けようと思うので、後で後宮まで案内してやってくれ」
 事もなげに言われ、内官は顔を引きつらせた。
「チ、殿下。今がどのようなときなのか、ご自覚はおありなのですか? 今は殿下のご伴侶となるべき中殿さまを決めるべく、国中の両班の子女に禁婚令を出して花嫁捜しをしている大切な時期なのですぞ!」
 どこか蛙に似た滑稽な面相がひくひくと震えている。カンがファソンを連れ帰ったのがよほどショックだったに相違ない。
「あ、あの」
 今更ながら、ファソンも漸く自分がとんでもないところに連れてこられたという自覚が芽生えていた。聞き間違いでなければ、この国で〝国王殿下〟と呼ばれるのはただ一人のはず。
 ファソンは恐る恐るカン―とつい今までは気安く呼んでいた男を見た。カンは笑顔で内官と向き合っている。突然の事態に大いに狼狽えている内官とは対照的だ。
「そんなことは言われなくても判っている。ただ、私は何度も言ったはずだ。まだ当分、妃を迎えるつもりはないと。こたびの禁婚令にしても、母上が勝手に大臣たちと諮ってなしたことで、私は賛同した憶えはない」
「しかし、このような時期に殿下おん自ら見初めたおなごを後宮にお納れになるというのは、いかにも外聞が悪うございます」
「―!」
 今度はファソンが蒼くなる番だ。冗談ではない、父の言うがままに顔も見ない男と見合いをさせられるのも嫌だが、王の後宮に入るだなんて、もっと嫌に決まっている。
「カ、カン。私、後宮になんて」
 入るつもりはないと言いかけ、内官にきつい視線で睨まれた。カンは笑いながら言った。
「勘違いしてくれるな、爺。この者は妃にするつもりで連れてきたのではない。しばらくの間、身の置き所が必要だと申すゆえ、身を隠すには後宮が丁度良いと思っただけだ」
「なるほど、さようでございましたか。いえ、殿下、爺は別に殿下ご自身が望まれた娘なら、異を唱えるつもりはありません。むしろ、女嫌いとさえ風評が立つ殿下にはご側室の一人でもいた方がよろしいかと存じます」
 さりながら、この娘は少し不調法で、殿下のお側に侍るにはふさわしからぬとも思えますが。
 余計なお世話だと言いたいひと言を付け加えるのも忘れない。まったく、口の減らない年寄りだ。ファソンはイーとあかんべえをしてやったものの、内官は目ざとく見つけて逆ににらみ返されてしまった。
「それにしても、身を隠すなどとは、穏やかではありませんな。娘、一体、何を良からぬことをしでかしたのだ?」
 カンに対するのとは裏腹の尊大な口調に応える気にもなれず、ファソンはプイと横を向いた。祖父と孫ほど歳の離れた二人のいがみ合いをカンは傍らから興味深そうに眺めている。
「最近の若い者は、どういう躾をされているのだ」
 内官はぶつくさと零しながら、カンに一礼してキム尚宮という女性を呼びに行った。
「カン」
 呼びかけ、ファソンは怖々と言った。
「もしかしなくても、あなたは国王さまなのよね?」
 カンがにっこりと綺麗な顔に微笑を浮かべた。
「ごめん。騙すつもりはなかったんだけど、結果としては君に嘘をつくことになったね」
「いえ、まだ信じられなくて、夢を見ているようだけれど」
 ファソンは呟き、頬をつねった。ツと顔をしかめ、陸(おか)から上がった犬が水飛沫を飛ばすように、勢いよく首を振る。
「ああ、どうやら夢ではないみたいね。これは現実だわ」
 カンは堪え切れないというように笑い出した。
「そなたはつくづく変わっているというか、面白い女だな」
 ファソンはハッと我に返ると、神妙な顔つきで両手を組んで眼の高さまで掲げた。地面であることも頓着せず、手を組んだまま座り込み深々と頭を下げる。また立ち上がり、同じ動作を二度繰り返した。貴人に対する敬意を表す拝礼である。
 カンは呆気に取られ、拝礼するファソンを見つめていた。
「ファソン?」
 ファソンは拝礼を終え、更にもう一度軽く頭を下げた。
「存じ上げないこととはいえ、失礼致しました。国王殿下に対して不敬の数々、どうか寛大なお心をもちまして、お許し下さいますよう」
 面を伏せたまま言うのに、カンがまた笑い出した。
「今更、遅いよ。ファソン、私は出逢ったときのままの〝カン〟だし、そなたも〝本の虫〟だ。そんな風に畏まられると、私の方まで調子が狂ってしまう」
「何ですって、誰が〝本の虫〟―」
 勢いづいて怒鳴りかけ、ファソンはまた、うつむいた。
「いえ、さように仰せのとおりにございます、殿下」
「では、これは王からの命だといえば、今までどおりに接してくれるかい?」
 ファソンは顔を上げ、笑った。
「仕方ないわね。王命なら従わないといけないから、今までどおりにしてあげる」
 ふとカンと視線が合った。その眼(まなこ)に愉快そうな光が燦めいているのを見てとり、ファソンは吹き出した。ほぼ時を同じくしてカンも笑い出し、二人は声を出して笑い転げた。


「実をいえば」
 ファソンはまだ笑いながら、ようよう言った。
「あなたが王さまだというのは紛れもない現実だと認識はできているのに、どうしてか、今まで通りにしか話せないの。不敬罪に問われかねないのにね」
「私も同じだ。どうも、ファソンに改まって〝殿下〟と呼ばれたら、背筋がかゆくなりそうだよ。だから、今まで通り、カンと呼んでくれて構わない」
 二人はそれからしばらくまだ笑い合っていた。キム尚宮が老内官からの依頼で駆けつけた時、女を身辺に寄せ付けないことで知られる若い国王と美しい娘が寄り添い合い、愉しげに笑いさざめいている姿がやけに鮮烈に尚宮の眼に飛び込んできた。
「殿下があのように愉しそうに笑っておられるお姿は初めて見たこと」
 キム尚宮は極めて珍しいものでも見るかのにように、若い二人を見つめ独りごちた。
 国王は漸く心を開くことのできる女性を見つけたのかもしれない。彼女は結婚の経験もなく、子も持たない生涯であったが、それだけに余計に畏れ多いことではあるが、王を我が子とも思ってお育てしてきた。
 王が乳を差し上げた乳人の手を離れた二歳のときから、彼女は王に乳母として仕えてきた。あの娘が我が手でお育て申し上げた若き国王の孤独を癒してくれる存在であれば良いがと心から願った。
 そのためには自分は、これから、あの娘を後宮女官として、いずれは王の側室となるにふさわしい女人に育て上げようと固く心に誓った。
 このキム尚宮は若い王の乳母を勤め上げた人で、王が〝仁平大君〟と呼ばれた幼少時代は保母尚宮として、王が成人後は提調尚宮(後宮女官長)の地位に昇り、後宮で重きを成していた。二十一歳の王にはいまだ正妃どころか側室もいない。そのため、後宮で最高位にあるのは王の生母、朴大妃となるが、後宮の実際的な運営に当たり、その最高責任者となるのは金尚宮だ。
 キム尚宮は常に大妃の意向を伺うので、最終的に決定権を持つのは大妃ではあっても、後宮を統括するのは提調尚宮である。
 ほどなくファソンはキム尚宮に連れられ、後宮に案内されることになった。強引に見合いをさせられそうになり、屋敷を飛び出したのは良いが、ファソンが飛び込んだ新しい世界は何とも彼女の予想をはるかに越えた世界だったのである。

 賢宗は生来、病弱というわけではなかったが、何かと寝込むことは多かった。彼の父である前王も蒲柳の質で、若くして亡くなっている。そのため、廷臣たちは十一歳で即位した王がまだ十五歳にもならない間に、中殿を迎える件について真剣に検討したものだ。
 十五歳という年齢は、けして妻帯するのに早過ぎはしない。特に貴人であればあるほど、後継を残すためにも早婚はむしろ当然といえた。
 しかしながら、まだ少年の王は同じ年頃の少女に興味を示すどころか、むしろ寄せ付けない素振りさえ見せた。彼が好んで側に置きたがるのは同年齢の内官ばかりで、それゆえに、
―お若い殿下には衆道の気がおありになる。
 と、暗に女嫌いなのは同性愛嗜好があるのでとは実に無礼千万な噂が廷臣たちの間で囁かれた。
 もっとも、これには大きな誤解がある。前王と王妃との間に生まれ、三歳で世子となった賢宗は生まれながらの王であった。見た眼も美男で、しかも若い。そういったところから、まだ幼い時分から、彼に色目を使う女官たちが多かったのは確かなことだ。色目を使うといえば身も蓋もない言い方かもしれないけれど、要するに、
―王さまのお眼に止まりたい。
 と、熱望する若い女官は多かったということだ。仮に第一王子の母となれば、未来の国王の生母となることも夢ではない。
 後宮で生まれ育った賢宗は、そういう女の裏の部分―醜い欲望を幼いときから目の当たりにしてきた。父王は生涯に渡って中殿(正妻)の他には側室を数人置いていた。しかし、これもひそかに囁かれていることだが、体力がなかったせいか子種が薄かったせいか、側室には一人も御子は産まれず、正妃一人に賢宗が生まれただけだ。
 もっとも、これも怖ろしい噂が後宮で囁かれていて、嫉妬に狂った王妃が懐妊した側室たちをことごとく薬を飲ませたり転ばせたりして流産させた―とも伝えられている。
 もちろん、賢宗自身もそういった黒歴史的な後宮の噂話、伝説と笑い飛ばすことは満更できない話を知っている。そして彼がよく知る気性の激しい母であれば、そういうこともありなんと思えてしまうところが哀しい。
 あれはいつだったか、確か彼が八歳くらいのときだ。季節は真冬で、漢陽に純白の雪が降り積もったある朝、彼はなかなか全文憶えられなかった漢籍をやっと憶えることができ、嬉しくて母に報告にいった。
 けれど、後で行かなければ良かったと何度後悔したことか。東宮殿からとある後宮の殿舎を通りかかり、爺やと慕うお付き内官を従えていた彼は脚を止めた。
 美しい白装束の女が降り積もった雪の上、筵一枚で端座していた。
―あの者はいかがしたのだ?
 当時はまだ若かった爺やこと沈内官は沈んだ面持ちで応えた。
―中殿さまのお怒りを買った者にございます。
―何ゆえ、母上のお怒りを買ったのだ?
―それは。
 沈内官は口ごもった。幼い彼は女の許に駆け寄った。
―このような雪の上では寒かろう。何の詮議があって、このようなことになったのかは知らぬが、私が母上に取りなして参ります。
 白装束の女性は美しかったけれど、それは例えば降り積もった雪のように儚いものだった。母よりは、かなり若い、まだ十代のようにも見えた。
 後に、その女が父王の寵愛した側室の一人で、その時、懐妊していたのだと知った。
 彼は中宮殿に赴き、漢籍のことなどそっちのけで、雪の中で端座させられている女性のことを母に話した。
―このような寒い日に風邪を引いてしまいます。
―世子は慈悲深いこと。きっと、行く末はご立派な王とおなりでしょう。
 母は微笑んで頷いたが、その後、取った手段は残酷極まりないものだった。
 帰り道、雪の中にいた女性はもう跡形もなく姿を消していた。彼女が座っていた場所には筵さえない。ただ、白い雪をおびただしい鮮血が紅く染め上げていた。


―何があったというのだ!
 興奮して訊ねれば、内官は哀しげに首を振るばかりだった。王妃から箝口令が敷かれていたらしく、幼い東宮に真実を教えてくれる者は誰一人いなかった。
 その側室は
―王さまばかりか、また幼い世子さままでをも誑かそうとした。
 と、大妃(前中殿)に仕える尚宮から鞭打たれ、流産し、彼女自身も流産後、息を引き取ったという話だった。
 我が母ながら、何という酷い所業をするのか。彼が後にも先にも母の烈しい嫉妬を目の当たりにしたのは、そのときだけだった。しかし、そのただの一度は彼の女性不信を決定づけるのには十分すぎた。
 若い王と実母である朴大妃との関係は、そういう経緯もあり、微妙なものだ。大妃は一人息子を溺愛しているが、当の息子は母に対して常に一定の距離を置いている。むしろ、王が物心つく前から養育に当たった守り役の沈内官長(内侍府長―内官を統括する部署の長)や今は提調尚宮となっている乳母の金尚宮らの方をよほど信頼し、心を開いている。
 王が十八歳の頃、やはり、廷臣たちから国婚についての議題が提出され、王自身が参加しての御前会議で何度も話し合われたが、当の王はのらりくらりと交わすばかりで、これも話はうやむやになった。
 だが、賢宗が二十一歳になったこの年早々、ついに痺れを切らした廷臣たちと大妃が共謀して王には無断で禁婚令を発布した。これは国婚(王の結婚)のため、朝鮮国中の八歳から十七歳までの適齢期の両班の子女に対して、この間は無断で結婚してはならないというものだ。
 あと半月も経たない中に、新しい中殿を決めるための選考試験が始まる。選考試験は志願者・推薦者を含めて全員に対して数度に渡って行われ、最終(四次)選考まで残った娘たちが次に大妃や議政府の高官たちの前で一人ずつ面接試験を受け、その中から一人選ばれた令嬢が中殿に冊立される。
 また、最終選考まで残った令嬢たちはそのまま当代の王の後宮に入ることは決定済みで、彼女たちはそれぞれ実家の家門にふさわしい位階を側室として賜る。
 長らく我が娘を中殿にと虎視眈々と窺ってきた両班たちは今こそと我が娘たちを中殿候補にと名乗りを上げてきている。早くも志願者は見込み数を軽く越え、選抜試験の担当者たちは令嬢たちの履歴書などを一枚一枚眼を通すのに大わらわであった。まず書類選考で不合格となる気の毒な令嬢もいるのだ。
 新中殿の志願者の異例の多さは、当代の国王の結婚に対する関心がそれだけ大きいことを物語っていた。
 もっとも、相も変わらず肝心の若き国王は自分の花嫁選びだというのに知らん顔で、まるで関心がなさそうである。
 その重圧からというわけでもないだろうが、その頃、賢宗は熱を出して寝込んだ。どうも軽い風邪を引き込んだのを甘く見たのが良くなかったようだ。
 その日、ファソンは金尚宮に言われ、大殿の寝所で病臥している王の許に薬湯を運ぶことになった。後宮の女官として働くようになって十日余りが過ぎたある日のことだ。
 通常、正式な女官には見習い期間を経なければなれない。が、ファソンの場合は公にはしていないものの、国王自らの推挙ということもあり、見習いではなく正式な女官として仕えることが決まった。これは極めて破格の待遇である。
 提調尚宮は一つの殿舎を賜っているため、ファソンは女官長預かりということで、キム尚宮の下で女官として必要な礼儀作法や実務などを学びながら、色々とキム尚宮の身の回りの雑用をこなしていた。
 大殿の磨き抜かれた長い廊下を小卓を掲げ持って静々と歩きつつ、ファソンは首を傾げた。
 大殿にも専属の尚宮や女官はいるのだから、何もわざわざ他の殿舎で働く自分がやる仕事でもなかろうに。そういう疑問があった。よもや国王の方からキム尚宮に
―たまにはファソンの顔を見たいゆえ、こちらに寄越してくれ。
 内々に頼まれたキム尚宮がファソンを王の許にやる口実だとは想像だにしない。
 天翔る龍が彫り込まれた重厚な両開きの扉が見えてきた。国王の寝所である。扉の前に数人の内官や尚宮、女官が控えている。その中には例の〝爺〟こと沈内官の顔もあった。
 あの老人とはどうも最初の出逢いが良くないが、今やファソンは後宮で働く女官である。
 大先輩の内官長に面と向かって敵意を露わにするほど、ファソンも子どもではなかった。
 ファソンの姿を認め、沈内官が小さく頷けば、若い女官二人が両側から扉を開いた。
「陳女官が薬湯をお持ち致しましてございます」
 沈内官の声と共に、ファソンは静かに寝所に入った。背後でまた扉が閉まる。
 室の奥に大きな寝台が見えるが、ここからでは絹布団の山が見えるだけだ。もしかしたら、カンは眠っているのかもしれない。だが、薬湯だというからには起こしてでも飲ませた方が良いのだろう。
 そう判断して寝台に近づいた。カンは子どものように布団を引き被っている。
「―殿下」
 遠慮がちに呼びかけると、いきなり山のような布団が勢いよく跳ね上がった。
「きゃっ」
 あまりに愕いたので、らしくない悲鳴を上げてしまい、ファソンは慌てて両手で口を覆った。
「な、なに。愕くじゃないの」
 と、これはおよそ至高の立場の人に対する物言いとは思えない口調で抗議する。
「ふふ、これはちょっとした罰だよ」
 カンは満面に笑みを湛えている。
「罰ですって? 一体、私が何をしたというの」
「少しは私のことを思い出してくれた?」
「はあ!?」
 ファソンは何とも間の抜けた声を出した。カンの言おうとしているところがさっぱり判らない。
「十日もファソンの顔を見ていない。その間、私は君の顔を思い出しては切ない溜息ばかりついていた。ファソンに見つめられたときの、あの胸の鼓動が速くなるのも懐かしいと思ったほどだったんだ」
「―」
 カンの科白は極めて意味深だ。こんな科白を他人に聞かれたら、恋人同士の熱い告白と勘違いしかねないところだが、生憎とファソンは難しい書物は読めても、恋愛にかけては超奥手であった。
 カンが滔々と告げている科白の意味にどれほど重大な意味があるかは理解できていない。



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