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 チェジンは今回の家出について何も知らない。恐らく、逃亡がバレたらチェジンが真っ先にファソンのゆくえについて詰問されるだろうが、何も知らないものは応えようがないではないか。忠義を尽くしてくれた乳母の娘であり、チェジン自身も働き者で機転が利くので、母は気に入っている。ましてや、母は口うるさいけれど、使用人たちを訳もなく鞭打つような非情な人ではない。
 恐らくチェジンが今度のファソンの家出で罰を受けることはないに違いない。
 着替えと金子の入った風呂敷包みを持ち、足取りも軽くファソンは歩き出した。
「何か、これでやっと自由を手に入れた気がするわー」
 うーんと両手を天に向かって突き出す。まだ都の空は東の空の端も白んでいないほどの早い朝、下弦の月が蒼白い夜の名残を残した空に浮かんでいるのを眺めつつ、ファソンは呑気に鼻歌を歌いながら歩いていた。
 実はこの時、自分がどれだけ無謀で先を考えていなかったか、ファソンはこの少し後、思い知ることになるのだった―。

 とはいえ、ファソンも家を出るからには、それなりの覚悟をしたつもりではあった。まず、いつもよく行く〝曺さんの本屋〟の近くに、空き店があるのを見つけていた。そこは以前、老夫婦が暮らし筆屋を営んでいた跡だ。跡継ぎがないまま二人が相次いで亡くなり、住む者もないまま放置されてきた。
 ファソンも書店の帰りに立ち寄り、何度か筆を買ったこともある。二人ともに親切で働き者だったし、小体な割には良い品を安く売っていた。とりあえずは、その空き店をお借りしようという算段である。夫婦はこの近くに別に住まいを持っていたらしく、そこからこの店まで通ってきたらしい。
 その住まいはどこなのか知らないし、今、どうなっているのか定かではないが、店の方は少なくとも二年ほどは誰も暮らしていないというのは確かだ。
 こういうのを〝不法侵入〟というのだろうが、この際、構うものかと居直っている。その中、適当な空き家でも見つかれば、すぐに家移りすれば良い。
 さて、生きてゆくには生活の糧を得なければならず、そのためには仕事を探す必要があった。これについても、ファソンには当てがある。
 まだ夜明け前に屋敷を抜け出したため、筆屋に着いた途端、ファソンは急激な眠気に襲われた。昨夜は流石に眠るどころではなかったから、屋敷では一睡もしていない。また、ホッとして緊張が緩んだというのもあるだろう。
「とにかく後は眠ってから考えれば良いわ」
 彼女は円くなると、掛け布もかけずにそのますぐに深い眠りにいざなわれていった。
 ファソンが次に目覚めたのは既に陽が高くなった刻限であった。幸いにも季節が季節なので、凍えることはない。しかし、五月初旬といえば、朝夕はまだ冷え込むこともあるものだ。クシュンと小さなくしゃみをし、ファソンは肩を竦めた。
「いけないいけない、風邪なんか引いたら、余計なお金がかかってしまう」
 などと両班家の令嬢には不似合いな科白を呟き、うーんと伸びをした。
「まずは仕事探しに行きましょ」
 遊びにいくような気軽さで、近くの〝曺さんの本屋〟に出かけた。
「おじさん(アデユツシ)、こんにちは」
 古書店の主人曺ガントクはいつものように小さな構えの店の奥でメガネ越しに分厚い書物を読んでいた。
「ああ、お嬢さんかい」
 ガントクは小さなメガネ越しにファソンを認めると破顔し、立ち上がった。
「昨日の〝忠孝明道〟は読んでみたかい?」
「残念ながら、まだなの。昨日は家で色々とあってね。でも、ちゃんとここに持ってきたわ」
 と、意気揚々と風呂敷包みを掲げて見せた。読みたくてずっと探していた大切な書だ。これまでコツコツと集めてきた蔵書はどれも漢字が並んだ難しい本ばかりで、ファソンにとっては宝物である。それらの〝お宝〟は居室の片隅の物入れに山のように積み上げて保存(隠しているともいうが)してある。もちろん、両親には内緒である。
 今回の家出に際して持ち出すことは叶わなかったけれど、昨日、やっと手に入れた〝忠孝明道〟だけはまだ読んでいないこともあり、荷物に入れたのだ。
 ガントクは小首を傾げ、訝るような視線でメガネの奥からファソンを見ている。どうも、いつもと雲行きが違うようだ、と、ファソンは遅まきながら悟った。
 小さいながら漢陽の片隅で本屋を営み続けて二十年余、様々な人を見てきたガントクは学識も深く、人を見る眼も備わっている。今日のファソンがこれまでと違うと鋭い勘で嗅ぎつけているのかもしれない。
 それでも、ここで引き下がるわけにはゆかない。ファソンは両脇に垂らした拳に力をひこめた。
「おじさん(アデユツシ)。私をここで働かせてくれない?」
「ええ!?」
 ガントクは愕きを露わにし、数年来の付き合いのファソンを初めて逢う人のようにまじまじと見つめた。
「こう見えても、代書はできるし、数の少ない稀少な本を書き写すこともできるわ。私のような人間が一人いたら、商売もますます繁盛すると思うんだけどなー」
 と、熱心に売り込んでみる。
「お嬢さん、うちは代書屋じゃないよ」
「それは知ってる。でも、たまにおじさんが代書も引き受けてるのは知ってるもの」
 たまたま本を探しに来た時、ガントクに代書を頼みに訪れていた客と遭遇したことがある。代書とは頼まれて手紙や書類の代筆をすることであり、時には字の読めない人に手紙や書類などを読んであげることもある。


 ガントクは何も言わない。ファソンは慌てた。
「なら、代書は良いわ。本を書き写したり、筆耕はどうかしら。今まではわざわざ外部に頼んで書き写させていたりしたんでしょ。私にもそういう仕事をさせて貰えないかしら」
 ガントクは小さな溜息をついた。
「お嬢さん。確かに、お嬢さんは女にしておくのは惜しいほどの物識りだ。難しい漢籍でもすらすらと読みこなせる。そんな人がうちの店で筆耕をしてくれたら、儂は随分と助かるがね」
「なら、働かせてくれるのね!」
 瞳を輝かせると、ガントクはむっつりと首を振った。
「駄目だ」
「何で? お金なら、そんなにたくさんは要らないわ」
「そういう問題じゃないんだよ、ファソン」
 ガントクは漸く呼び慣れた親しげな呼び方でファソンを呼んだ。
「あんたがどこのお嬢さんか、あんたの親父さんがどれだけお偉いさんなのか。儂は今まで敢えて拘ることはなかった。だが、それは、あんたが客にすぎなかったからだ。仮にも店で働くとなりゃ、あんたの身許がどういうものなのかっていうことをしっかりと考える必要があるのは雇用主の立場としては当然だと、これは判るだろう?」
「それはそうだけど」
「そんな手荷物一つ下げて、恐らくは家出でもしてきたつもりだろうが、止めときなよ。ファソンのような世間知らずのお嬢さんが一人で生きてゆけるほど、漢陽は甘くはないぞ。今の中にさっさと屋敷に戻りなさい。悪いことは言わん」
 ファソンはがっくりと肩を落とし、古書店を出た。いつもは優しいガントクにぴゃしりとやられ、自分の甘さと世間知らずさを突きつけられたようだ。
「ここで使って貰えると信じていたから、他には何も考えてなかった」
 涙が零れそうになるのをまたたきで堪える。と、正面をよく見ていなかったたせいで、小道を向こうからくる人とまともに体当たりした。
「痛っ」
 向こうが悲鳴を上げるのに、ファソンも負けずに声を上げていた。
「あら」
 何と衝突したのは、またしてもあの若い男、イ・カンであった。つくづく腐れ縁というか、ぶつかる縁のある二人である。
「そなたはファソンではないか」
 カンも相当愕いているようである。
「私たち、いつもぶつかってばかりいるわね」
「それもそうだ。初めての出逢いもそうだったからな」
 昨日の出来事を思い出したのか、カンは笑った。ファソンは彼に再会して、また身体が例の得体の知れない熱を帯びてくるのを自覚した。昨日は屋敷に戻るなり、慌てふためくチェジンに出迎えられ父に〝見合い〟を告げられ、到底、カンを思い出す余裕もなかった。
 それでも、彼に昨日、貰った菫青石(アイオライト)の簪はちゃんと髪に挿してある。
「そなたも曺さんのところに?」
 ということは、彼も本屋に用があったのだろう。ファソンは淡く微笑んだ。
「用事はもう済んじゃったみたい」
 じゃあ、と、小さな声で言い歩き出す。数歩あるいたところで、カンが追いかけてきた。
「待ってくれよ、まったく、つれないな。折角、奇遇にも再会できたのに」
「ごめんなさい、今、私はそれどころではないのよ」
 唯一の仕事の当てが外れてしまったからには、別の仕事を探さなければならない。暇な両班の若さまの相手をしている時間はないのだ。
 カンもファソンの元気のないのに気付いたらしい。
「どうした? 何か元気ないな。私で良ければ、力になるよ」
 ファソンはカンを見上げた。今日は淡い青色の上等なパジを纏っている。帽子に垂れ下がっているのはやはり衣装に合わせているようで、蒼玉(サファイア)だろう。そんな風には見えないが、もしかしたら、人の眼を気にする伊達男なのかもしれない。
 そういう意味では、ファソンの好むような類の男ではない。
 洗練された端正な風貌の貴公子ではあるけれど、彼の雰囲気からは世慣れない若さまといったものが漂っている。仕事探しには間違っても役に立ってくれそうにはない。それでも申し出てくれた彼の親切は嬉しかったので、素直に礼を言った。
「ありがとう。でも、良いの。自分で何とかするから」
 ファソンは微笑み、また踵を返そうとした。
「待てよ」
 と、今度は行く手を塞ぐように前方に立つ。いささか強引なその態度に、ファソンはムッとして彼を睨んだ。
「何なの? 私はこれから行くところ、やらなければならないことがたくさんあるんだから、邪魔しないで」
「どこに行くんだ?」
 何故かしつこく追及してくる男に、ファソンは良い加減焦れてきた。
「どこでも良いでしょ。あなたには関係ないことよ」
「いや、それが関係あるんだ」
 ここでカンはそれまでの強気な態度が嘘のように態度を軟化させた。最初からやや下がり気味の綺麗に弧を描いた眉も心なしか下がっている。彼自身、本当に困惑しているといった体だ。
「どうして、私がこれから行くところとカンに関係があるの?」
 これも素朴な疑問をそのまま口に出せば、カンはますます眉尻を下げた。
「そなたのことが忘れられなかった。確かに〝本の虫〟と呼ばれるだけあって、少し世の常の女とは変わっているようではあるが」
 最後のひと言は余計だ。ファソンはムッとした。


「そう、変わり者で悪かったわね。そんな変わり者のことなんて、さっさと忘れれば良いでしょ」
 そのまま去ろうとしたところで、腕を掴まれた。
「待ってくれ」
「ああ、だから一体、何なの、何が言いたいの」
 ファソンはもどかしげに叫んだ。
「何度も言うように、私はこれから仕事探しをしなければならないのよ。あなたの訳の判らない理屈に付き合っている暇はないの!」
 だが、カンは大真面目に言った。
「そなたといると胸がドキドキする。こんな気持ちは初めてなんだ、その気持ちが何なのか突き止めたい」
 いきなり握りしめた自分の手を彼の心臓辺りに持っていかれ、硬直した。確かにカンの鼓動は速いようではある。ファソンはその瞬間、彼に初めて出逢った―昨日の出来事を思い出した。彼にじいっと見つめられると、ファソンもまたいつになく鼓動が跳ねたり身体が熱くなったりして、初めての体験に戸惑った。
 彼が当惑しているのは、昨日、自分が体験したのと似ているのだろうか。だが、と、そこで思考は現実に戻った。
 自分は彼にも告げたように、これから職探しに奔走しなければならない身だ。ファソンとしても昨日、感じた得体の知れない熱について原因を突き止めてみたい気はするが、ここは仕事を見つける方を優先しなければならない。
 カンはファソンの小さな手を握りしめたまま、放そうともしない。ずっと彼の大きな手に握りしめられている中に、ファソンの方までまた身体が熱くなり胸の動悸が速くなってきた。
「いつまでやっているつもり? 放して」
 それでも放そうとせず、ますます彼女の手を握る手に力をこめる。ファソンは大きな声で言った。
「放して、この変態、助平男」
 カンが切れ長の双眸をまたたかせる。
「酷い言い様だな。さりながら、他人から変態とか助平とか言われたのは生まれて初めてだ」
 妙な感慨を抱いているらしいカンは、やはりどこか常人と感覚がズレているように思える。ファソンは内心、溜息をつきたい気持ちになった。
「あなた、やっぱり変よ」
 当人を前に〝変人〟とまでは言えず、言葉だけは適当に濁したものの、女だてらに難しげな漢籍をすらすらと読みこなすファソンも変わり者なら、この浮世離れした若者も相当の変わり者といえよう。
「教えてくれ、ファソン。この訳の判らぬ胸の高鳴りの正体は一体何なのだ?」
 真顔で問われても、応えられるはずがない。しかし、そこでファソンの中で閃くものがあった。
「そうね」
 勿体ぶって思案に耽るふりをして見せる。
「私も一緒に考えてあげても良いけど、条件があるわ」
「条件?」
 果たして人の良いお坊ちゃんは眼を輝かせて身を乗り出してくる。世間知らずの若さまを騙しているような罪悪感がちらと走ったが、家出が成功するかどうかのこの瞬間、手段を選んではいられない。
「少しの間、匿ってくれたら、あなたの気まぐれに付き合ってあげても良いわよ」
「匿うとは?」
 ファソンの言葉の意味が本当に理解できなかったのだろう。カンは首を傾げた。
「あなたのお屋敷の片隅で良いの。私を置いて貰えないかしら。もちろん、下働きの女中でも何でも、贅沢は言わないわ」
「うむ」
 カンはしばらく考え込んだ。ファソンは息を呑んで彼の様子を見守る。
「嫌なら良いのよ、他を当たるから」
 最後の一押しをしてみる。むろん、他に頼れるところなんて、あるはずもないのだから、これはハッタリというヤツだ。どこまでも貴族の令嬢らしからぬふるまいだけれど、これも生きてゆくためには致し方ない。
 カンが小さく息を吐いた。
「頼み事をするには横柄な態度だな。それが人に物を頼むときの態度か?」
「嫌なら別に無理にとは言わないから」
 去ろうとすると、慌てた声が追いかけてきた。
「判った、私の家で良ければ、気が済むだけいると良い」
 とりあえず、身を寄せる場所は確保できたと、ファソンは胸を撫で下ろしたのだった。

「ねえ、何で、あなたがここに用があるの?」
 先刻から幾度、同じ問いを繰り返したことか。ファソンは今、王宮の正門前に立っていた。もちろん、古書店の前でカンと再会し、ここまで連れられてきたのである。 
「まあ、良いから」
 その度に、カンは同じ応えしかくれない。ファソンは昨日の彼との会話を懸命に思い出そうとした。確か彼は国王殿下に仕えていると話していたのではなかったか。どう見ても、王の側近のようには見えず、下手をすれば任官さえしていない極楽とんぼに見えたものだが―。官吏だという話は真実だったのかもしれない。 
 線も細い優男にしか見えない彼もやはり男なのだと判った。ファソンが脚を踏ん張ってみても、彼は楽々とファソンの手を掴み、半ば引っ張るようにして正門をくぐり王宮内の敷地をどこに行くものか、早足で歩いてゆく。
 明らかに官服を纏っているわけでもないのに、門を守る衛兵は彼を見ても咎め立てもしないし、少し進んで殿舎が見える辺りまで来ると、お仕着せを纏った女官たちともすれ違うようになるが、彼女たちも皆、一様にカンを不審者扱いはしなかった。―どころか、カンをまともに見ようともせず、面を伏せてそそくさと通り過ぎてゆくばかりだ。
「何なの? あなた、一体、何者―」
 ファソンは言いかけ、はたと思い当たった。
「まさか、あなた、王族とか言わないわよね、カン」
 そのときだった。少し離れた前方から、小柄な老人が小走りに駆けてくるのが眼に入った。
「国王殿下、殿下~」
 ファソンは小首を傾げた。あの小柄な老人は今、何と言った?
 茫然としている彼女をよそに、老人はカンの前で止まった。相当に急いだものか、気の毒なほど呼吸が荒い。
「何だ、爺。何かあったのか?」
 〝爺〟と呼ばれた老人は濃い緑のお仕着せを着ていた。どうやら、内官(宦官)のようである。
 老内官はジロリとファソンを一瞥し、次いで、ファソンの手をしっかりと握っているカンの手に移った。


「殿下、今までどこにおいでになられていたのですか! 本日の午後は大切なご用があると爺があれほどまでに申し上げましたのに」
 と、どこか恨めしげな眼でファソンまで見られ、彼女は慌てて視線をあらぬ方に逸らした。
 どうも、この気まずいやりとりに巻き込まれたくない。だが、そうは問屋が卸さないようで、老いた内官はファソンをあからさまに訝しむ眼で見て言った。
「この娘は何者ですか?」
 そこで、カンは破顔した。
「ファソンいう名だ。金尚宮に預けようと思うので、後で後宮まで案内してやってくれ」
 事もなげに言われ、内官は顔を引きつらせた。
「チ、殿下。今がどのようなときなのか、ご自覚はおありなのですか? 今は殿下のご伴侶となるべき中殿さまを決めるべく、国中の両班の子女に禁婚令を出して花嫁捜しをしている大切な時期なのですぞ!」
 どこか蛙に似た滑稽な面相がひくひくと震えている。カンがファソンを連れ帰ったのがよほどショックだったに相違ない。
「あ、あの」
 今更ながら、ファソンも漸く自分がとんでもないところに連れてこられたという自覚が芽生えていた。聞き間違いでなければ、この国で〝国王殿下〟と呼ばれるのはただ一人のはず。
 ファソンは恐る恐るカン―とつい今までは気安く呼んでいた男を見た。カンは笑顔で内官と向き合っている。突然の事態に大いに狼狽えている内官とは対照的だ。
「そんなことは言われなくても判っている。ただ、私は何度も言ったはずだ。まだ当分、妃を迎えるつもりはないと。こたびの禁婚令にしても、母上が勝手に大臣たちと諮ってなしたことで、私は賛同した憶えはない」
「しかし、このような時期に殿下おん自ら見初めたおなごを後宮にお納れになるというのは、いかにも外聞が悪うございます」
「―!」
 今度はファソンが蒼くなる番だ。冗談ではない、父の言うがままに顔も見ない男と見合いをさせられるのも嫌だが、王の後宮に入るだなんて、もっと嫌に決まっている。
「カ、カン。私、後宮になんて」
 入るつもりはないと言いかけ、内官にきつい視線で睨まれた。カンは笑いながら言った。
「勘違いしてくれるな、爺。この者は妃にするつもりで連れてきたのではない。しばらくの間、身の置き所が必要だと申すゆえ、身を隠すには後宮が丁度良いと思っただけだ」
「なるほど、さようでございましたか。いえ、殿下、爺は別に殿下ご自身が望まれた娘なら、異を唱えるつもりはありません。むしろ、女嫌いとさえ風評が立つ殿下にはご側室の一人でもいた方がよろしいかと存じます」
 さりながら、この娘は少し不調法で、殿下のお側に侍るにはふさわしからぬとも思えますが。
 余計なお世話だと言いたいひと言を付け加えるのも忘れない。まったく、口の減らない年寄りだ。ファソンはイーとあかんべえをしてやったものの、内官は目ざとく見つけて逆ににらみ返されてしまった。
「それにしても、身を隠すなどとは、穏やかではありませんな。娘、一体、何を良からぬことをしでかしたのだ?」
 カンに対するのとは裏腹の尊大な口調に応える気にもなれず、ファソンはプイと横を向いた。祖父と孫ほど歳の離れた二人のいがみ合いをカンは傍らから興味深そうに眺めている。
「最近の若い者は、どういう躾をされているのだ」
 内官はぶつくさと零しながら、カンに一礼してキム尚宮という女性を呼びに行った。
「カン」
 呼びかけ、ファソンは怖々と言った。
「もしかしなくても、あなたは国王さまなのよね?」
 カンがにっこりと綺麗な顔に微笑を浮かべた。
「ごめん。騙すつもりはなかったんだけど、結果としては君に嘘をつくことになったね」
「いえ、まだ信じられなくて、夢を見ているようだけれど」
 ファソンは呟き、頬をつねった。ツと顔をしかめ、陸(おか)から上がった犬が水飛沫を飛ばすように、勢いよく首を振る。
「ああ、どうやら夢ではないみたいね。これは現実だわ」
 カンは堪え切れないというように笑い出した。
「そなたはつくづく変わっているというか、面白い女だな」
 ファソンはハッと我に返ると、神妙な顔つきで両手を組んで眼の高さまで掲げた。地面であることも頓着せず、手を組んだまま座り込み深々と頭を下げる。また立ち上がり、同じ動作を二度繰り返した。貴人に対する敬意を表す拝礼である。
 カンは呆気に取られ、拝礼するファソンを見つめていた。
「ファソン?」
 ファソンは拝礼を終え、更にもう一度軽く頭を下げた。
「存じ上げないこととはいえ、失礼致しました。国王殿下に対して不敬の数々、どうか寛大なお心をもちまして、お許し下さいますよう」
 面を伏せたまま言うのに、カンがまた笑い出した。
「今更、遅いよ。ファソン、私は出逢ったときのままの〝カン〟だし、そなたも〝本の虫〟だ。そんな風に畏まられると、私の方まで調子が狂ってしまう」
「何ですって、誰が〝本の虫〟―」
 勢いづいて怒鳴りかけ、ファソンはまた、うつむいた。
「いえ、さように仰せのとおりにございます、殿下」
「では、これは王からの命だといえば、今までどおりに接してくれるかい?」
 ファソンは顔を上げ、笑った。
「仕方ないわね。王命なら従わないといけないから、今までどおりにしてあげる」
 ふとカンと視線が合った。その眼(まなこ)に愉快そうな光が燦めいているのを見てとり、ファソンは吹き出した。ほぼ時を同じくしてカンも笑い出し、二人は声を出して笑い転げた。


「実をいえば」
 ファソンはまだ笑いながら、ようよう言った。
「あなたが王さまだというのは紛れもない現実だと認識はできているのに、どうしてか、今まで通りにしか話せないの。不敬罪に問われかねないのにね」
「私も同じだ。どうも、ファソンに改まって〝殿下〟と呼ばれたら、背筋がかゆくなりそうだよ。だから、今まで通り、カンと呼んでくれて構わない」
 二人はそれからしばらくまだ笑い合っていた。キム尚宮が老内官からの依頼で駆けつけた時、女を身辺に寄せ付けないことで知られる若い国王と美しい娘が寄り添い合い、愉しげに笑いさざめいている姿がやけに鮮烈に尚宮の眼に飛び込んできた。
「殿下があのように愉しそうに笑っておられるお姿は初めて見たこと」
 キム尚宮は極めて珍しいものでも見るかのにように、若い二人を見つめ独りごちた。
 国王は漸く心を開くことのできる女性を見つけたのかもしれない。彼女は結婚の経験もなく、子も持たない生涯であったが、それだけに余計に畏れ多いことではあるが、王を我が子とも思ってお育てしてきた。
 王が乳を差し上げた乳人の手を離れた二歳のときから、彼女は王に乳母として仕えてきた。あの娘が我が手でお育て申し上げた若き国王の孤独を癒してくれる存在であれば良いがと心から願った。
 そのためには自分は、これから、あの娘を後宮女官として、いずれは王の側室となるにふさわしい女人に育て上げようと固く心に誓った。
 このキム尚宮は若い王の乳母を勤め上げた人で、王が〝仁平大君〟と呼ばれた幼少時代は保母尚宮として、王が成人後は提調尚宮(後宮女官長)の地位に昇り、後宮で重きを成していた。二十一歳の王にはいまだ正妃どころか側室もいない。そのため、後宮で最高位にあるのは王の生母、朴大妃となるが、後宮の実際的な運営に当たり、その最高責任者となるのは金尚宮だ。
 キム尚宮は常に大妃の意向を伺うので、最終的に決定権を持つのは大妃ではあっても、後宮を統括するのは提調尚宮である。
 ほどなくファソンはキム尚宮に連れられ、後宮に案内されることになった。強引に見合いをさせられそうになり、屋敷を飛び出したのは良いが、ファソンが飛び込んだ新しい世界は何とも彼女の予想をはるかに越えた世界だったのである。

 賢宗は生来、病弱というわけではなかったが、何かと寝込むことは多かった。彼の父である前王も蒲柳の質で、若くして亡くなっている。そのため、廷臣たちは十一歳で即位した王がまだ十五歳にもならない間に、中殿を迎える件について真剣に検討したものだ。
 十五歳という年齢は、けして妻帯するのに早過ぎはしない。特に貴人であればあるほど、後継を残すためにも早婚はむしろ当然といえた。
 しかしながら、まだ少年の王は同じ年頃の少女に興味を示すどころか、むしろ寄せ付けない素振りさえ見せた。彼が好んで側に置きたがるのは同年齢の内官ばかりで、それゆえに、
―お若い殿下には衆道の気がおありになる。
 と、暗に女嫌いなのは同性愛嗜好があるのでとは実に無礼千万な噂が廷臣たちの間で囁かれた。
 もっとも、これには大きな誤解がある。前王と王妃との間に生まれ、三歳で世子となった賢宗は生まれながらの王であった。見た眼も美男で、しかも若い。そういったところから、まだ幼い時分から、彼に色目を使う女官たちが多かったのは確かなことだ。色目を使うといえば身も蓋もない言い方かもしれないけれど、要するに、
―王さまのお眼に止まりたい。
 と、熱望する若い女官は多かったということだ。仮に第一王子の母となれば、未来の国王の生母となることも夢ではない。
 後宮で生まれ育った賢宗は、そういう女の裏の部分―醜い欲望を幼いときから目の当たりにしてきた。父王は生涯に渡って中殿(正妻)の他には側室を数人置いていた。しかし、これもひそかに囁かれていることだが、体力がなかったせいか子種が薄かったせいか、側室には一人も御子は産まれず、正妃一人に賢宗が生まれただけだ。
 もっとも、これも怖ろしい噂が後宮で囁かれていて、嫉妬に狂った王妃が懐妊した側室たちをことごとく薬を飲ませたり転ばせたりして流産させた―とも伝えられている。
 もちろん、賢宗自身もそういった黒歴史的な後宮の噂話、伝説と笑い飛ばすことは満更できない話を知っている。そして彼がよく知る気性の激しい母であれば、そういうこともありなんと思えてしまうところが哀しい。
 あれはいつだったか、確か彼が八歳くらいのときだ。季節は真冬で、漢陽に純白の雪が降り積もったある朝、彼はなかなか全文憶えられなかった漢籍をやっと憶えることができ、嬉しくて母に報告にいった。
 けれど、後で行かなければ良かったと何度後悔したことか。東宮殿からとある後宮の殿舎を通りかかり、爺やと慕うお付き内官を従えていた彼は脚を止めた。
 美しい白装束の女が降り積もった雪の上、筵一枚で端座していた。
―あの者はいかがしたのだ?
 当時はまだ若かった爺やこと沈内官は沈んだ面持ちで応えた。
―中殿さまのお怒りを買った者にございます。
―何ゆえ、母上のお怒りを買ったのだ?
―それは。
 沈内官は口ごもった。幼い彼は女の許に駆け寄った。
―このような雪の上では寒かろう。何の詮議があって、このようなことになったのかは知らぬが、私が母上に取りなして参ります。
 白装束の女性は美しかったけれど、それは例えば降り積もった雪のように儚いものだった。母よりは、かなり若い、まだ十代のようにも見えた。
 後に、その女が父王の寵愛した側室の一人で、その時、懐妊していたのだと知った。
 彼は中宮殿に赴き、漢籍のことなどそっちのけで、雪の中で端座させられている女性のことを母に話した。
―このような寒い日に風邪を引いてしまいます。
―世子は慈悲深いこと。きっと、行く末はご立派な王とおなりでしょう。
 母は微笑んで頷いたが、その後、取った手段は残酷極まりないものだった。
 帰り道、雪の中にいた女性はもう跡形もなく姿を消していた。彼女が座っていた場所には筵さえない。ただ、白い雪をおびただしい鮮血が紅く染め上げていた。



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