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 忍びで外出している間は、大抵、チェジンが上手く言い繕ってくれている。今日は頭が痛いから昼寝をしているということになっていたのだけれど―。確かに、昼寝にしては長すぎたかもしれない。
「とにかく、一刻も早く旦那さま(ナーリ)のお部屋にお行きになって下さいまし」
 チェジンの声に急かされるように、ファソンは父ミョンソの居室に赴いた。室の前で右手のひらを胸に添え、深呼吸する。
「父上(アボニム)、ファソンです」
「入りなさい」
 そこには当然というべきか、父だけでなく母ヨンオクも揃っていた。ファソンは手のひらを胸に添えたまま軽く一礼し、殊勝な顔つきで二人の少し下手に座った。
「その分では、自分がしでかしたことの愚かさは重々承知しているようだな」
 父が重々しく言い、父から少し離れて座る母がすかさず口を出した。
「一体、いつになったら幼い童のように屋敷を抜け出し、ほっつき歩く癖が治るのかしらね」
 が、父は片手を上げて母を制し、お喋りな母は不満そうに口を閉じた。
「あの、そのことでは私がチェジンに無理に頼み込んだことでもあり、チェジンへのお叱りはこれ以上は止めて頂きたいと―」
 言いかけたファソンに、母が声を尖らせた。
「主(あるじ)の行いを側にいて諫められぬのは、側仕えが責めを負うべきことです。ソジがよく長年仕えてくれたゆえ、これまでは大目に見て参ったが、今度、そなたが黙って屋敷を抜け出すのに荷担致せば、チェジンを鞭打つことになりますよ」
「まあ、ヨンオク。今はその話は良いだろう。大体、チェジンはこの娘に無理矢理頼み込まれ、仕方なしに協力させられたのは判っている。鞭打つならば使用人ではなく、この娘の方が先だ」
 父は柳眉を逆立てる母を宥め、ファソンには一転して厳しい表情を向けた。
 母は三十代後半とは思えないほど、若々しく美しい。こうして華やかに装っていれば、適齢期の娘を持つ母親には見えないだろう。しかも、母はファソンを生むときに相当な難産で、生んだのは娘一人だった。母の関心はいつでも一人娘に注がれている。
 親の愛情を知らない子どもには贅沢すぎる話かもしれないが、幾つになっても干渉してくる母の小言は正直、あまりありがたくないものだ。
「まあ、それはそうですけど」
 ヨンオクは不承不承言った。父はおもむろに腕組みをした後、唐突に切り出した。
「明日、見合いだ」
「え?」
 ファソンは大きな黒い瞳を見開いた。
「相手はさる名家の若君だ。心して支度を整えるように」
 父の言葉はどうやら、もう決定事項らしい。
「そんな、お父さま、あまりに急すぎるのでは」
 父はゆっくりと首を振る。
「そんなことはない。明日とはいかにも急に聞こえるかもしれぬが、実のところ、かなり前から内々に話を進めていたのだ」
「―」
 話の急展開についてゆけず、ファソンは言葉を失った。
「あなたは何も心配することはないのよ、ファソン。お父さまがすべて良きように運んで下さいますからね」
 傍らから母が言い添えるのに、父ももう止め立てはしなかった。
 ややあって、ファソンは父を見上げた。
「お父さま、仮にも見合いするのは私なのに、お相手の方のお名前さえ教えて頂けないのですか?」
「これは正式な見合いではない。その方と内々に対面するというのも外部に洩れてはならんのだ」
「そこまで外聞をはばかる方というのも」
 ファソンがまた黙り込むと、父が宥めるよように言う。
「ヨンオクの言うとおりだ。そなたは何も案ずるには及ばぬ。縁談というのは時と運が決めるものだし、互いの相性もあろう。万に一つ、相手の方とそなたがあい合わぬとなれば、この縁談をごり押しもできぬ。そのために、正式な対面の前に内輪にてお逢いするのだ。ゆえに、そなたも気遣う必要なく、嫌ならば嫌と申して良いのだぞ」
 つまりは相手の評判や名に無用の傷を付けないために、正式な見合いとなる前に内々に対面の場を設けて相性を見ようということか。
「それでしたら」
 頷きかけた時、母がすかさず言った。
「大監(テーガン)、そのような甘いことを仰せになって良いのですか? この縁談をお断りするなんて、到底考えられないのではなくて?」
「そういうわけにはゆかぬだろう。結婚というものはある程度、互いに合う合わぬもある。合わぬ者同士を無理に娶せたとて、不幸の因を作るだけではないか」


「とは申しましても」
 不服そうな母に、父は不機嫌な声で言った。
「良い加減にしなさい。家門も大切だが、まずいちばんに考えるべきは娘の幸せではないか」
「それはそうですけど」
 母の綺麗な面には
―父上はファソンに甘い。
 と、はっきり書いてある。そして、ファソンは若く美しい母にそっくりだ。性格はどちらかというと父に似ているのに、外見は母の容貌をそのまま受け継いでいる。いつまでも若い母と並ぶと、母娘というよりは姉妹にしか見えないというのも、娘としては考えものではある。
「話は終わった。もう室に戻りなさい」
「はい、お父さま」
 ファソンは両親にまた頭を下げて室を出た。
 両開きの扉を閉める寸前、憤懣やる方ないといった母の言葉が聞こえた。
「大監はあの娘に甘過ぎます。あんなことを仰せになって、ファソンが嫌だと言い出したら、いかがなさるおつもり? 今度のお相手は我が家からお断りできるようなお方ではないでしょうに」
 父が何か言う前に、ファソンは急ぎ室の前を離れた。到底、両親の会話を聞いていられなかった。
 母の頭には陳家の隆盛しかないのだ。娘の幸せなど、二の次なのかもしれない。
 自分の部屋に戻ると、チェジンが待ち受けていた。
「やはり、きついお叱りを受けられたのですか?」
 お茶を淹れてくれながら、そんなことを訊いてくる。ファソンは座椅子(ポリヨ)に座り、だらしなく脇息にもたれた。どうも力尽きた感がある。
「見合いをしろと言われたわ」
「お見合い、ですか」
 素っ頓狂な声を出すチェジンを、ファソンは軽く睨んだ。
「申し訳ございません」
 チェジンが肩を竦めるのに、ファソンは苦笑する。
「良いわよ、当の私だって、青天の霹靂だったんだから」
 ファソンが文机の上に青磁の湯飲みを置く。それを手に取り、彼女はひと口味わうように口に含んだ。
「チェジンの淹れてくれるお茶も当分、飲めそうにないわね」
「え?」
 チェジンに訝しげに見つめられ、ファソンは曖昧に笑った。
「何でもないの。チェジン、私だけじゃないわ。あなたもそろそろ嫁いでも良い年頃よ。良い縁談をお母さまがいずれ下さると思うから、必ず良い男を見つけて幸せにならなければ駄目よ」
「お嬢さま。あたしのことは良いです。そりゃ、あたしもいつかは分相応な男の許に嫁いで家庭を持ちたいって想いはありますけど、まずはお嬢さまがお幸せにならなくては」
「チェジン」
 ファソンはチェジンの両手を自分の手のひらで包み込んだ。両班の令嬢のファソンと異なり、日々の仕事でチェジンの手は荒れている。それでもまだお嬢さま付きの上女中であるチェジンは下働きと違い、仕事は楽な方である。
 これが下働きともなれば、どのような苛酷な仕事をこなさねばならないのか、お嬢さま育ちのファソンには想像も及ばないことだ。
 そんな気随気儘な日々に甘んじていて、それでも逃げ出すというのがどれだけ我が儘なことか自覚はあった。けれど。ファソンはどうしても母の言葉が気に掛かっていた。
―この縁談をお断りするなんて、到底考えられないのではなくて?
―今度のお相手は我が家からお断りできるようなお方ではないでしょうに。
 何故、母はあのようなことを言ったのか?
 常識的に考えれば、見合いの相手がこちらから断っては無礼に当たる―そういう相手だということだ。それほどの身分ある若君というのは、一体、どこの誰なのだろう。議政府に領議政がおらぬ今、その筆頭に立つのは父陳ガントクに他ならない。飛ぶ鳥を落とす勢いの左議政の娘が断れないほどの相手となれば、同じ両班家ではそうそうはいない。
 もしかしたら、王族かもしれない。とにかく、と、ファソンは考える。このまま大人しく見合いなどするつもりはさらさらない。両親には申し訳ないけれど、ファソンは明日の見合いに出る気は既にこの時、なかったのである。

 ファソンが屋敷を抜け出したのは、その翌朝早々であった。これまでも度々、屋敷を抜け出したという前科があるものの、その都度、側仕えのチェジンの協力があった。が、今回ばかりはチェジンも母によくよく言い含められていたと見え、
―明日は絶対に絶対に駄目ですよ、お嬢さま。
 と、念を押してきた。むろん、チェジンに協力して貰うつもりはなかった。むしろ、この忠実で人の好い乳姉妹を自分の家出にまで巻き込みだけはすまいと思っていた。
 屋敷の者たちが―早起きの使用人たちでさえ眠っている時刻、ファソンは身の回りの荷物を風呂敷に少々と路銀になりそうな金子を持ち、屋敷の塀を軽々と乗り越えて逃亡した。
 通い慣れた何とやら、である。お忍びで町に出るときは大概が塀を乗り越えているので、特に戸惑うこともない。まさに両班のお嬢さまらしくない鮮やかな身のこなしで塀によじ登り、乗り越えると向こう側に着地を決めた。
「ま、ざっとこんなものね」
 ファソンは軽く手をはたき、チマの裾を直した。ふと背後を振り返る。
「お父さま、お母さま、親不孝な娘を許してね」


 チェジンは今回の家出について何も知らない。恐らく、逃亡がバレたらチェジンが真っ先にファソンのゆくえについて詰問されるだろうが、何も知らないものは応えようがないではないか。忠義を尽くしてくれた乳母の娘であり、チェジン自身も働き者で機転が利くので、母は気に入っている。ましてや、母は口うるさいけれど、使用人たちを訳もなく鞭打つような非情な人ではない。
 恐らくチェジンが今度のファソンの家出で罰を受けることはないに違いない。
 着替えと金子の入った風呂敷包みを持ち、足取りも軽くファソンは歩き出した。
「何か、これでやっと自由を手に入れた気がするわー」
 うーんと両手を天に向かって突き出す。まだ都の空は東の空の端も白んでいないほどの早い朝、下弦の月が蒼白い夜の名残を残した空に浮かんでいるのを眺めつつ、ファソンは呑気に鼻歌を歌いながら歩いていた。
 実はこの時、自分がどれだけ無謀で先を考えていなかったか、ファソンはこの少し後、思い知ることになるのだった―。

 とはいえ、ファソンも家を出るからには、それなりの覚悟をしたつもりではあった。まず、いつもよく行く〝曺さんの本屋〟の近くに、空き店があるのを見つけていた。そこは以前、老夫婦が暮らし筆屋を営んでいた跡だ。跡継ぎがないまま二人が相次いで亡くなり、住む者もないまま放置されてきた。
 ファソンも書店の帰りに立ち寄り、何度か筆を買ったこともある。二人ともに親切で働き者だったし、小体な割には良い品を安く売っていた。とりあえずは、その空き店をお借りしようという算段である。夫婦はこの近くに別に住まいを持っていたらしく、そこからこの店まで通ってきたらしい。
 その住まいはどこなのか知らないし、今、どうなっているのか定かではないが、店の方は少なくとも二年ほどは誰も暮らしていないというのは確かだ。
 こういうのを〝不法侵入〟というのだろうが、この際、構うものかと居直っている。その中、適当な空き家でも見つかれば、すぐに家移りすれば良い。
 さて、生きてゆくには生活の糧を得なければならず、そのためには仕事を探す必要があった。これについても、ファソンには当てがある。
 まだ夜明け前に屋敷を抜け出したため、筆屋に着いた途端、ファソンは急激な眠気に襲われた。昨夜は流石に眠るどころではなかったから、屋敷では一睡もしていない。また、ホッとして緊張が緩んだというのもあるだろう。
「とにかく後は眠ってから考えれば良いわ」
 彼女は円くなると、掛け布もかけずにそのますぐに深い眠りにいざなわれていった。
 ファソンが次に目覚めたのは既に陽が高くなった刻限であった。幸いにも季節が季節なので、凍えることはない。しかし、五月初旬といえば、朝夕はまだ冷え込むこともあるものだ。クシュンと小さなくしゃみをし、ファソンは肩を竦めた。
「いけないいけない、風邪なんか引いたら、余計なお金がかかってしまう」
 などと両班家の令嬢には不似合いな科白を呟き、うーんと伸びをした。
「まずは仕事探しに行きましょ」
 遊びにいくような気軽さで、近くの〝曺さんの本屋〟に出かけた。
「おじさん(アデユツシ)、こんにちは」
 古書店の主人曺ガントクはいつものように小さな構えの店の奥でメガネ越しに分厚い書物を読んでいた。
「ああ、お嬢さんかい」
 ガントクは小さなメガネ越しにファソンを認めると破顔し、立ち上がった。
「昨日の〝忠孝明道〟は読んでみたかい?」
「残念ながら、まだなの。昨日は家で色々とあってね。でも、ちゃんとここに持ってきたわ」
 と、意気揚々と風呂敷包みを掲げて見せた。読みたくてずっと探していた大切な書だ。これまでコツコツと集めてきた蔵書はどれも漢字が並んだ難しい本ばかりで、ファソンにとっては宝物である。それらの〝お宝〟は居室の片隅の物入れに山のように積み上げて保存(隠しているともいうが)してある。もちろん、両親には内緒である。
 今回の家出に際して持ち出すことは叶わなかったけれど、昨日、やっと手に入れた〝忠孝明道〟だけはまだ読んでいないこともあり、荷物に入れたのだ。
 ガントクは小首を傾げ、訝るような視線でメガネの奥からファソンを見ている。どうも、いつもと雲行きが違うようだ、と、ファソンは遅まきながら悟った。
 小さいながら漢陽の片隅で本屋を営み続けて二十年余、様々な人を見てきたガントクは学識も深く、人を見る眼も備わっている。今日のファソンがこれまでと違うと鋭い勘で嗅ぎつけているのかもしれない。
 それでも、ここで引き下がるわけにはゆかない。ファソンは両脇に垂らした拳に力をひこめた。
「おじさん(アデユツシ)。私をここで働かせてくれない?」
「ええ!?」
 ガントクは愕きを露わにし、数年来の付き合いのファソンを初めて逢う人のようにまじまじと見つめた。
「こう見えても、代書はできるし、数の少ない稀少な本を書き写すこともできるわ。私のような人間が一人いたら、商売もますます繁盛すると思うんだけどなー」
 と、熱心に売り込んでみる。
「お嬢さん、うちは代書屋じゃないよ」
「それは知ってる。でも、たまにおじさんが代書も引き受けてるのは知ってるもの」
 たまたま本を探しに来た時、ガントクに代書を頼みに訪れていた客と遭遇したことがある。代書とは頼まれて手紙や書類の代筆をすることであり、時には字の読めない人に手紙や書類などを読んであげることもある。


 ガントクは何も言わない。ファソンは慌てた。
「なら、代書は良いわ。本を書き写したり、筆耕はどうかしら。今まではわざわざ外部に頼んで書き写させていたりしたんでしょ。私にもそういう仕事をさせて貰えないかしら」
 ガントクは小さな溜息をついた。
「お嬢さん。確かに、お嬢さんは女にしておくのは惜しいほどの物識りだ。難しい漢籍でもすらすらと読みこなせる。そんな人がうちの店で筆耕をしてくれたら、儂は随分と助かるがね」
「なら、働かせてくれるのね!」
 瞳を輝かせると、ガントクはむっつりと首を振った。
「駄目だ」
「何で? お金なら、そんなにたくさんは要らないわ」
「そういう問題じゃないんだよ、ファソン」
 ガントクは漸く呼び慣れた親しげな呼び方でファソンを呼んだ。
「あんたがどこのお嬢さんか、あんたの親父さんがどれだけお偉いさんなのか。儂は今まで敢えて拘ることはなかった。だが、それは、あんたが客にすぎなかったからだ。仮にも店で働くとなりゃ、あんたの身許がどういうものなのかっていうことをしっかりと考える必要があるのは雇用主の立場としては当然だと、これは判るだろう?」
「それはそうだけど」
「そんな手荷物一つ下げて、恐らくは家出でもしてきたつもりだろうが、止めときなよ。ファソンのような世間知らずのお嬢さんが一人で生きてゆけるほど、漢陽は甘くはないぞ。今の中にさっさと屋敷に戻りなさい。悪いことは言わん」
 ファソンはがっくりと肩を落とし、古書店を出た。いつもは優しいガントクにぴゃしりとやられ、自分の甘さと世間知らずさを突きつけられたようだ。
「ここで使って貰えると信じていたから、他には何も考えてなかった」
 涙が零れそうになるのをまたたきで堪える。と、正面をよく見ていなかったたせいで、小道を向こうからくる人とまともに体当たりした。
「痛っ」
 向こうが悲鳴を上げるのに、ファソンも負けずに声を上げていた。
「あら」
 何と衝突したのは、またしてもあの若い男、イ・カンであった。つくづく腐れ縁というか、ぶつかる縁のある二人である。
「そなたはファソンではないか」
 カンも相当愕いているようである。
「私たち、いつもぶつかってばかりいるわね」
「それもそうだ。初めての出逢いもそうだったからな」
 昨日の出来事を思い出したのか、カンは笑った。ファソンは彼に再会して、また身体が例の得体の知れない熱を帯びてくるのを自覚した。昨日は屋敷に戻るなり、慌てふためくチェジンに出迎えられ父に〝見合い〟を告げられ、到底、カンを思い出す余裕もなかった。
 それでも、彼に昨日、貰った菫青石(アイオライト)の簪はちゃんと髪に挿してある。
「そなたも曺さんのところに?」
 ということは、彼も本屋に用があったのだろう。ファソンは淡く微笑んだ。
「用事はもう済んじゃったみたい」
 じゃあ、と、小さな声で言い歩き出す。数歩あるいたところで、カンが追いかけてきた。
「待ってくれよ、まったく、つれないな。折角、奇遇にも再会できたのに」
「ごめんなさい、今、私はそれどころではないのよ」
 唯一の仕事の当てが外れてしまったからには、別の仕事を探さなければならない。暇な両班の若さまの相手をしている時間はないのだ。
 カンもファソンの元気のないのに気付いたらしい。
「どうした? 何か元気ないな。私で良ければ、力になるよ」
 ファソンはカンを見上げた。今日は淡い青色の上等なパジを纏っている。帽子に垂れ下がっているのはやはり衣装に合わせているようで、蒼玉(サファイア)だろう。そんな風には見えないが、もしかしたら、人の眼を気にする伊達男なのかもしれない。
 そういう意味では、ファソンの好むような類の男ではない。
 洗練された端正な風貌の貴公子ではあるけれど、彼の雰囲気からは世慣れない若さまといったものが漂っている。仕事探しには間違っても役に立ってくれそうにはない。それでも申し出てくれた彼の親切は嬉しかったので、素直に礼を言った。
「ありがとう。でも、良いの。自分で何とかするから」
 ファソンは微笑み、また踵を返そうとした。
「待てよ」
 と、今度は行く手を塞ぐように前方に立つ。いささか強引なその態度に、ファソンはムッとして彼を睨んだ。
「何なの? 私はこれから行くところ、やらなければならないことがたくさんあるんだから、邪魔しないで」
「どこに行くんだ?」
 何故かしつこく追及してくる男に、ファソンは良い加減焦れてきた。
「どこでも良いでしょ。あなたには関係ないことよ」
「いや、それが関係あるんだ」
 ここでカンはそれまでの強気な態度が嘘のように態度を軟化させた。最初からやや下がり気味の綺麗に弧を描いた眉も心なしか下がっている。彼自身、本当に困惑しているといった体だ。
「どうして、私がこれから行くところとカンに関係があるの?」
 これも素朴な疑問をそのまま口に出せば、カンはますます眉尻を下げた。
「そなたのことが忘れられなかった。確かに〝本の虫〟と呼ばれるだけあって、少し世の常の女とは変わっているようではあるが」
 最後のひと言は余計だ。ファソンはムッとした。


「そう、変わり者で悪かったわね。そんな変わり者のことなんて、さっさと忘れれば良いでしょ」
 そのまま去ろうとしたところで、腕を掴まれた。
「待ってくれ」
「ああ、だから一体、何なの、何が言いたいの」
 ファソンはもどかしげに叫んだ。
「何度も言うように、私はこれから仕事探しをしなければならないのよ。あなたの訳の判らない理屈に付き合っている暇はないの!」
 だが、カンは大真面目に言った。
「そなたといると胸がドキドキする。こんな気持ちは初めてなんだ、その気持ちが何なのか突き止めたい」
 いきなり握りしめた自分の手を彼の心臓辺りに持っていかれ、硬直した。確かにカンの鼓動は速いようではある。ファソンはその瞬間、彼に初めて出逢った―昨日の出来事を思い出した。彼にじいっと見つめられると、ファソンもまたいつになく鼓動が跳ねたり身体が熱くなったりして、初めての体験に戸惑った。
 彼が当惑しているのは、昨日、自分が体験したのと似ているのだろうか。だが、と、そこで思考は現実に戻った。
 自分は彼にも告げたように、これから職探しに奔走しなければならない身だ。ファソンとしても昨日、感じた得体の知れない熱について原因を突き止めてみたい気はするが、ここは仕事を見つける方を優先しなければならない。
 カンはファソンの小さな手を握りしめたまま、放そうともしない。ずっと彼の大きな手に握りしめられている中に、ファソンの方までまた身体が熱くなり胸の動悸が速くなってきた。
「いつまでやっているつもり? 放して」
 それでも放そうとせず、ますます彼女の手を握る手に力をこめる。ファソンは大きな声で言った。
「放して、この変態、助平男」
 カンが切れ長の双眸をまたたかせる。
「酷い言い様だな。さりながら、他人から変態とか助平とか言われたのは生まれて初めてだ」
 妙な感慨を抱いているらしいカンは、やはりどこか常人と感覚がズレているように思える。ファソンは内心、溜息をつきたい気持ちになった。
「あなた、やっぱり変よ」
 当人を前に〝変人〟とまでは言えず、言葉だけは適当に濁したものの、女だてらに難しげな漢籍をすらすらと読みこなすファソンも変わり者なら、この浮世離れした若者も相当の変わり者といえよう。
「教えてくれ、ファソン。この訳の判らぬ胸の高鳴りの正体は一体何なのだ?」
 真顔で問われても、応えられるはずがない。しかし、そこでファソンの中で閃くものがあった。
「そうね」
 勿体ぶって思案に耽るふりをして見せる。
「私も一緒に考えてあげても良いけど、条件があるわ」
「条件?」
 果たして人の良いお坊ちゃんは眼を輝かせて身を乗り出してくる。世間知らずの若さまを騙しているような罪悪感がちらと走ったが、家出が成功するかどうかのこの瞬間、手段を選んではいられない。
「少しの間、匿ってくれたら、あなたの気まぐれに付き合ってあげても良いわよ」
「匿うとは?」
 ファソンの言葉の意味が本当に理解できなかったのだろう。カンは首を傾げた。
「あなたのお屋敷の片隅で良いの。私を置いて貰えないかしら。もちろん、下働きの女中でも何でも、贅沢は言わないわ」
「うむ」
 カンはしばらく考え込んだ。ファソンは息を呑んで彼の様子を見守る。
「嫌なら良いのよ、他を当たるから」
 最後の一押しをしてみる。むろん、他に頼れるところなんて、あるはずもないのだから、これはハッタリというヤツだ。どこまでも貴族の令嬢らしからぬふるまいだけれど、これも生きてゆくためには致し方ない。
 カンが小さく息を吐いた。
「頼み事をするには横柄な態度だな。それが人に物を頼むときの態度か?」
「嫌なら別に無理にとは言わないから」
 去ろうとすると、慌てた声が追いかけてきた。
「判った、私の家で良ければ、気が済むだけいると良い」
 とりあえず、身を寄せる場所は確保できたと、ファソンは胸を撫で下ろしたのだった。

「ねえ、何で、あなたがここに用があるの?」
 先刻から幾度、同じ問いを繰り返したことか。ファソンは今、王宮の正門前に立っていた。もちろん、古書店の前でカンと再会し、ここまで連れられてきたのである。 
「まあ、良いから」
 その度に、カンは同じ応えしかくれない。ファソンは昨日の彼との会話を懸命に思い出そうとした。確か彼は国王殿下に仕えていると話していたのではなかったか。どう見ても、王の側近のようには見えず、下手をすれば任官さえしていない極楽とんぼに見えたものだが―。官吏だという話は真実だったのかもしれない。 
 線も細い優男にしか見えない彼もやはり男なのだと判った。ファソンが脚を踏ん張ってみても、彼は楽々とファソンの手を掴み、半ば引っ張るようにして正門をくぐり王宮内の敷地をどこに行くものか、早足で歩いてゆく。
 明らかに官服を纏っているわけでもないのに、門を守る衛兵は彼を見ても咎め立てもしないし、少し進んで殿舎が見える辺りまで来ると、お仕着せを纏った女官たちともすれ違うようになるが、彼女たちも皆、一様にカンを不審者扱いはしなかった。―どころか、カンをまともに見ようともせず、面を伏せてそそくさと通り過ぎてゆくばかりだ。
「何なの? あなた、一体、何者―」
 ファソンは言いかけ、はたと思い当たった。
「まさか、あなた、王族とか言わないわよね、カン」
 そのときだった。少し離れた前方から、小柄な老人が小走りに駆けてくるのが眼に入った。
「国王殿下、殿下~」
 ファソンは小首を傾げた。あの小柄な老人は今、何と言った?
 茫然としている彼女をよそに、老人はカンの前で止まった。相当に急いだものか、気の毒なほど呼吸が荒い。
「何だ、爺。何かあったのか?」
 〝爺〟と呼ばれた老人は濃い緑のお仕着せを着ていた。どうやら、内官(宦官)のようである。
 老内官はジロリとファソンを一瞥し、次いで、ファソンの手をしっかりと握っているカンの手に移った。



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