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 ファソンとサムジョンの腐れ縁は物心つく前からのことだ。そこで、彼女は幼い頃の意外な想い出を語った。
 サムジョンには乳母がいて、乳母にはギルボクという息子がいた。サムジョンの母親は二つ違いで生まれた弟の方を溺愛していたため、彼は乳母を本当の母のように慕っていた。サムジョンは半年違いで生まれたギルボクを実の弟よりも可愛がっていたものだ。
 ある日、サムジョンが自邸で同じような両班家の子ども数人と遊んでいたところ、ギルボクが通り掛かった。悪童の中の一人がギルボクを心ない言葉でからかうと、サムジョンは烈火のように怒り友達を殴った。
 事後、サムジョンは母親からは鞭で打たれ、父親からも延々と説教された。その時、彼は父に向かって広言した。
―ギルボクは確かに身分は低い。ですが、私にとっては大切な乳兄弟です。その大切な身内に等しい者を蔑まれて見過ごしにはできません。
 最後まで謝らなかった息子に、両親は呆れ果てたという。けれど、その話を父から聞かされたファソンはサムジョンを子ども心に見直したものだった。
 ギルボクは乳兄弟とはいえ、使用人であった。その使用人を身を挺して庇ったサムジョンは立派だと思った。
「なるほど。確かに、その行いは見上げたものだな。身分が低いからと、人を訳もなく辱めて良いわけがない。ファソン、この国は王族や両班といった特権階級だけで成り立っているわけではないからね。国の根本は民だ。民の存在なくして国は成り立たない。名も無きたくさんの民こそが、朝鮮の宝なんだよ」
「凄いわ、カン。あなたの言うとおりよ。カンがもし本当に国王殿下のご学友だったら良かったのにね」
 ファソンは笑った。
「それでも、あなたもいずれ官僚となって、この国の未来を担うのは間違いないでしょうし、今の気持ちを忘れないでね」
「さりながら、私は通俗小説を隠れて書いているような男だ」
 どこか自嘲するような物言いに、ファソンは真顔で首を振る。
「カン、両班だから、小説を書いてはいけないなんて、それも世の中がおかしいのよ。女が政を語ってはならない、男が恋愛小説を書いてならない。誰が決めたのかしら。あなたはそんな小さなことを気にせず、あなたの生きたいように生きれば良いと思うわ。〝春香伝〟の続きを書きたければ書けば良い」
「ファソン―」
 カンが愕きに眼を見開く。ファソンは少し照れたように言った。
「熱く語り過ぎたみたい。私も女だからと父からいつも言われているから―。難しい書物ばかり読んでないで、刺繍や伽耶琴(カヤグム)の練習をもっとやりなさいとかね。だから、小説を書きたくても思うように書けないあなたの立場が少しだけ理解できるような気がしたのかもしれないわ」
 ファソンの口調が少し淋しげなものになった。
「サムジョンの言うことは満更、嘘じゃないの。私は両親や親戚から〝本の虫〟って呼ばれてる。こんな私を妻にと望んでくれる男はいないでしょう。もっとも、私自身は一生、嫁がずに本を読んでいる方が良いのだけれど」
 カンが言うとはなしに言った。
「サムジョンはそなたの父御が王妃の選考試験にそなたを応募させるつもりでいると申していたが」
「そんなのはただの噂よ。大体、私にそのつもりはまったくないんだから。幾ら父でも、私にその気持ちがないのに、そんな横暴なことはしないわ」
「そう―だな」
 カンがどこか落胆したように言い、ふと視線を動かした。
「ちょっと待ってて」
 大通りを隔てた斜向かいの露店に近づいてゆく。どうやら小間物を扱っているらしいその店の主人としばらくやり取りした後、彼はほどなく器用に人混みを縫って戻ってきた。
「これを君に」
 カンの男にしては細くて綺麗な長い指が束の間、ファソンの黒髪に触れた。今日のファソンの装いは全体を明るい色合いで纏めている。やや濃いめの桃色のチョゴリ、ごく淡い色の萌葱のチマだ。チマは下に殆ど白に近い薄緑色の地に木春菊を大胆に手書きしており、その上に薄い緑の紗をふんわりと重ねている。
 二枚重ねになったチマがさながら咲き誇る大輪の八重の花びらを思わせる華やかな装いだ。
 そろそろ日中は気温が高くなってきたこの季節にはふさわしい、涼しげな色合いがファソンの初々しい美少女ぶりによく似合っている。


 まだ未婚なので、長い黒檀の髪は背後で一つに編んで垂らしている。牡丹色の髪飾りが飾られているのも愛らしい。
 カンがその艶やかな髪に飾ったのは、菫青石(アイオライト)の簪(ピニヨ)だった。愛らしい蒼色の小鳥を象った玉(ぎよく)がついている。
「〝本の虫〟なんて気にすることはない。そなたが私に言ってくれた言葉をそのまま返そう。君は自分がしたいようにすれば良いんだ。今に、女性が難しい本を読んでも誰にも何も言わせないような国を私はきっと作る。だから、ファソンはずっと変わらないで、そのままの君でいてくれ」
 それに、と、カンは笑った。
「〝本の虫〟を妻に迎えたいと願う変わり者の男もこの広い世の中にはいるかもしれないよ? 何より、ファソンは可愛いし綺麗だ。美しく咲き誇る花に吸い寄せられるように魅了される鳥がおらぬはずがない」
 丁度、そなたの髪に飾ったこの小鳥のようにね。
 カンはひそやかに笑んだ。
「カン、私、こんなものを頂くわけには」
 彼とは町の本屋で知り合っただけで、〝イ・カン〟という名しか知らない。まだ互いのことをろくに知りもしないのに、簪を贈られて受け取れるはずもない。
「良いんだ。これはファソンが私に勇気をくれたお礼だ」
「私がカンに勇気を上げた?」
 彼の言葉をそのままなぞったファソンに、カンが大きく頷いた。
「誰が何を言おうと気にしないで、自分の好きなことをすれば良いと言ってくれた。ファソン、だからといって私はもちろん本来の自分の仕事をおろそかにするつもりはない。けれど、その傍ら、〝春香伝〟の続きを書いてみようと今日、はっきりと決意したよ。これもファソンのお陰だ」
「カンはもう任官しているのね?」
「ああ、どこの部署にいるかまでは話せないけどね」
 ファソンは微笑んだ。
「私はてっきり、カンはまだ任官していないのかと思ったの」
「親のすねかじり息子だと思った?」
 問われ、まさかそのとおりだとも言えず、ファソンは紅くなってうつむいた。
「だって、あまり仕事をしているようには見えなかったんだもの」
 カンが嘆息した。
「私はつくづく君には頼りない男のように見えているらしい」
 ファソンは狼狽えた。
「そういうわけではないのよ。でも、そのう、あなたって武官には到底見えないし。強いていえば文官のタイプだけど」
 言葉を濁したファソンに、カンがすかさず言った。
「よくも言ったな、〝本の虫〟め」
「ふふっ、これでお相子ね」
 二人は顔を見合わせて吹き出した。
 流石に長い初夏の陽もそろそろ傾きかけている。結局、ファソンは屋敷の近くまでカンに送って貰い、彼とはそこで別れた。
 五月の空は淡い夜の気配に覆われ、そこここに薄墨を溶き流したような宵闇が垂れ込め始めている。昼間は夏を思わせるほど気温が上がるが、流石にこの刻限は吹く風にも幾分冷たさが混じる。
 ファソンは屋敷の門に脚を踏み入れる間際、つと背後を振り返った。カンとはここからはかなり離れた場所で別れたのだから、今、眼の届く距離に彼がいるはずもない。それでも、振り返らずにはいられなかったのは何故なのか。
 いつになく火照った頬を傍らを過ぎゆく夜風が快く冷やしてくれる。生まれて初めて経験した〝熱〟の理由をこの時、ファソンはまだ知らなかった。
 そして、そんな彼女の運命を激変させる出来事が屋敷内で待ち受けているとも知らずに。 

  突然の見合いと家出

 お忍びで町に出たファソンがこっそりと自室に戻るのはいつものことだ。そこに側仕えの女中チェジンが色を様変えてやって来た。
「お嬢さま(アガツシ)、夕刻までにはお戻りになるとおっしゃっていたのに、今まで、どこでどうなさっていたのですか! あたしはもう、旦那さまと奥さまからきついお叱りを受けましたよ」
 チェジンが恨めしげな表情で訴える。チェジンは亡くなった乳母の娘だ。チェジンの母はファソンが生まれた直後から七歳のときまでまめやかに仕えてくれたが、病で亡くなって久しい。乳母には二人の娘がいて、チェジンはファソンと同年だ。上の娘は既に他の両班家に仕える下僕に嫁している。
「ごめんね。古本屋で友達に逢って長話してたら、遅くなって」


 忍びで外出している間は、大抵、チェジンが上手く言い繕ってくれている。今日は頭が痛いから昼寝をしているということになっていたのだけれど―。確かに、昼寝にしては長すぎたかもしれない。
「とにかく、一刻も早く旦那さま(ナーリ)のお部屋にお行きになって下さいまし」
 チェジンの声に急かされるように、ファソンは父ミョンソの居室に赴いた。室の前で右手のひらを胸に添え、深呼吸する。
「父上(アボニム)、ファソンです」
「入りなさい」
 そこには当然というべきか、父だけでなく母ヨンオクも揃っていた。ファソンは手のひらを胸に添えたまま軽く一礼し、殊勝な顔つきで二人の少し下手に座った。
「その分では、自分がしでかしたことの愚かさは重々承知しているようだな」
 父が重々しく言い、父から少し離れて座る母がすかさず口を出した。
「一体、いつになったら幼い童のように屋敷を抜け出し、ほっつき歩く癖が治るのかしらね」
 が、父は片手を上げて母を制し、お喋りな母は不満そうに口を閉じた。
「あの、そのことでは私がチェジンに無理に頼み込んだことでもあり、チェジンへのお叱りはこれ以上は止めて頂きたいと―」
 言いかけたファソンに、母が声を尖らせた。
「主(あるじ)の行いを側にいて諫められぬのは、側仕えが責めを負うべきことです。ソジがよく長年仕えてくれたゆえ、これまでは大目に見て参ったが、今度、そなたが黙って屋敷を抜け出すのに荷担致せば、チェジンを鞭打つことになりますよ」
「まあ、ヨンオク。今はその話は良いだろう。大体、チェジンはこの娘に無理矢理頼み込まれ、仕方なしに協力させられたのは判っている。鞭打つならば使用人ではなく、この娘の方が先だ」
 父は柳眉を逆立てる母を宥め、ファソンには一転して厳しい表情を向けた。
 母は三十代後半とは思えないほど、若々しく美しい。こうして華やかに装っていれば、適齢期の娘を持つ母親には見えないだろう。しかも、母はファソンを生むときに相当な難産で、生んだのは娘一人だった。母の関心はいつでも一人娘に注がれている。
 親の愛情を知らない子どもには贅沢すぎる話かもしれないが、幾つになっても干渉してくる母の小言は正直、あまりありがたくないものだ。
「まあ、それはそうですけど」
 ヨンオクは不承不承言った。父はおもむろに腕組みをした後、唐突に切り出した。
「明日、見合いだ」
「え?」
 ファソンは大きな黒い瞳を見開いた。
「相手はさる名家の若君だ。心して支度を整えるように」
 父の言葉はどうやら、もう決定事項らしい。
「そんな、お父さま、あまりに急すぎるのでは」
 父はゆっくりと首を振る。
「そんなことはない。明日とはいかにも急に聞こえるかもしれぬが、実のところ、かなり前から内々に話を進めていたのだ」
「―」
 話の急展開についてゆけず、ファソンは言葉を失った。
「あなたは何も心配することはないのよ、ファソン。お父さまがすべて良きように運んで下さいますからね」
 傍らから母が言い添えるのに、父ももう止め立てはしなかった。
 ややあって、ファソンは父を見上げた。
「お父さま、仮にも見合いするのは私なのに、お相手の方のお名前さえ教えて頂けないのですか?」
「これは正式な見合いではない。その方と内々に対面するというのも外部に洩れてはならんのだ」
「そこまで外聞をはばかる方というのも」
 ファソンがまた黙り込むと、父が宥めるよように言う。
「ヨンオクの言うとおりだ。そなたは何も案ずるには及ばぬ。縁談というのは時と運が決めるものだし、互いの相性もあろう。万に一つ、相手の方とそなたがあい合わぬとなれば、この縁談をごり押しもできぬ。そのために、正式な対面の前に内輪にてお逢いするのだ。ゆえに、そなたも気遣う必要なく、嫌ならば嫌と申して良いのだぞ」
 つまりは相手の評判や名に無用の傷を付けないために、正式な見合いとなる前に内々に対面の場を設けて相性を見ようということか。
「それでしたら」
 頷きかけた時、母がすかさず言った。
「大監(テーガン)、そのような甘いことを仰せになって良いのですか? この縁談をお断りするなんて、到底考えられないのではなくて?」
「そういうわけにはゆかぬだろう。結婚というものはある程度、互いに合う合わぬもある。合わぬ者同士を無理に娶せたとて、不幸の因を作るだけではないか」


「とは申しましても」
 不服そうな母に、父は不機嫌な声で言った。
「良い加減にしなさい。家門も大切だが、まずいちばんに考えるべきは娘の幸せではないか」
「それはそうですけど」
 母の綺麗な面には
―父上はファソンに甘い。
 と、はっきり書いてある。そして、ファソンは若く美しい母にそっくりだ。性格はどちらかというと父に似ているのに、外見は母の容貌をそのまま受け継いでいる。いつまでも若い母と並ぶと、母娘というよりは姉妹にしか見えないというのも、娘としては考えものではある。
「話は終わった。もう室に戻りなさい」
「はい、お父さま」
 ファソンは両親にまた頭を下げて室を出た。
 両開きの扉を閉める寸前、憤懣やる方ないといった母の言葉が聞こえた。
「大監はあの娘に甘過ぎます。あんなことを仰せになって、ファソンが嫌だと言い出したら、いかがなさるおつもり? 今度のお相手は我が家からお断りできるようなお方ではないでしょうに」
 父が何か言う前に、ファソンは急ぎ室の前を離れた。到底、両親の会話を聞いていられなかった。
 母の頭には陳家の隆盛しかないのだ。娘の幸せなど、二の次なのかもしれない。
 自分の部屋に戻ると、チェジンが待ち受けていた。
「やはり、きついお叱りを受けられたのですか?」
 お茶を淹れてくれながら、そんなことを訊いてくる。ファソンは座椅子(ポリヨ)に座り、だらしなく脇息にもたれた。どうも力尽きた感がある。
「見合いをしろと言われたわ」
「お見合い、ですか」
 素っ頓狂な声を出すチェジンを、ファソンは軽く睨んだ。
「申し訳ございません」
 チェジンが肩を竦めるのに、ファソンは苦笑する。
「良いわよ、当の私だって、青天の霹靂だったんだから」
 ファソンが文机の上に青磁の湯飲みを置く。それを手に取り、彼女はひと口味わうように口に含んだ。
「チェジンの淹れてくれるお茶も当分、飲めそうにないわね」
「え?」
 チェジンに訝しげに見つめられ、ファソンは曖昧に笑った。
「何でもないの。チェジン、私だけじゃないわ。あなたもそろそろ嫁いでも良い年頃よ。良い縁談をお母さまがいずれ下さると思うから、必ず良い男を見つけて幸せにならなければ駄目よ」
「お嬢さま。あたしのことは良いです。そりゃ、あたしもいつかは分相応な男の許に嫁いで家庭を持ちたいって想いはありますけど、まずはお嬢さまがお幸せにならなくては」
「チェジン」
 ファソンはチェジンの両手を自分の手のひらで包み込んだ。両班の令嬢のファソンと異なり、日々の仕事でチェジンの手は荒れている。それでもまだお嬢さま付きの上女中であるチェジンは下働きと違い、仕事は楽な方である。
 これが下働きともなれば、どのような苛酷な仕事をこなさねばならないのか、お嬢さま育ちのファソンには想像も及ばないことだ。
 そんな気随気儘な日々に甘んじていて、それでも逃げ出すというのがどれだけ我が儘なことか自覚はあった。けれど。ファソンはどうしても母の言葉が気に掛かっていた。
―この縁談をお断りするなんて、到底考えられないのではなくて?
―今度のお相手は我が家からお断りできるようなお方ではないでしょうに。
 何故、母はあのようなことを言ったのか?
 常識的に考えれば、見合いの相手がこちらから断っては無礼に当たる―そういう相手だということだ。それほどの身分ある若君というのは、一体、どこの誰なのだろう。議政府に領議政がおらぬ今、その筆頭に立つのは父陳ガントクに他ならない。飛ぶ鳥を落とす勢いの左議政の娘が断れないほどの相手となれば、同じ両班家ではそうそうはいない。
 もしかしたら、王族かもしれない。とにかく、と、ファソンは考える。このまま大人しく見合いなどするつもりはさらさらない。両親には申し訳ないけれど、ファソンは明日の見合いに出る気は既にこの時、なかったのである。

 ファソンが屋敷を抜け出したのは、その翌朝早々であった。これまでも度々、屋敷を抜け出したという前科があるものの、その都度、側仕えのチェジンの協力があった。が、今回ばかりはチェジンも母によくよく言い含められていたと見え、
―明日は絶対に絶対に駄目ですよ、お嬢さま。
 と、念を押してきた。むろん、チェジンに協力して貰うつもりはなかった。むしろ、この忠実で人の好い乳姉妹を自分の家出にまで巻き込みだけはすまいと思っていた。
 屋敷の者たちが―早起きの使用人たちでさえ眠っている時刻、ファソンは身の回りの荷物を風呂敷に少々と路銀になりそうな金子を持ち、屋敷の塀を軽々と乗り越えて逃亡した。
 通い慣れた何とやら、である。お忍びで町に出るときは大概が塀を乗り越えているので、特に戸惑うこともない。まさに両班のお嬢さまらしくない鮮やかな身のこなしで塀によじ登り、乗り越えると向こう側に着地を決めた。
「ま、ざっとこんなものね」
 ファソンは軽く手をはたき、チマの裾を直した。ふと背後を振り返る。
「お父さま、お母さま、親不孝な娘を許してね」


 チェジンは今回の家出について何も知らない。恐らく、逃亡がバレたらチェジンが真っ先にファソンのゆくえについて詰問されるだろうが、何も知らないものは応えようがないではないか。忠義を尽くしてくれた乳母の娘であり、チェジン自身も働き者で機転が利くので、母は気に入っている。ましてや、母は口うるさいけれど、使用人たちを訳もなく鞭打つような非情な人ではない。
 恐らくチェジンが今度のファソンの家出で罰を受けることはないに違いない。
 着替えと金子の入った風呂敷包みを持ち、足取りも軽くファソンは歩き出した。
「何か、これでやっと自由を手に入れた気がするわー」
 うーんと両手を天に向かって突き出す。まだ都の空は東の空の端も白んでいないほどの早い朝、下弦の月が蒼白い夜の名残を残した空に浮かんでいるのを眺めつつ、ファソンは呑気に鼻歌を歌いながら歩いていた。
 実はこの時、自分がどれだけ無謀で先を考えていなかったか、ファソンはこの少し後、思い知ることになるのだった―。

 とはいえ、ファソンも家を出るからには、それなりの覚悟をしたつもりではあった。まず、いつもよく行く〝曺さんの本屋〟の近くに、空き店があるのを見つけていた。そこは以前、老夫婦が暮らし筆屋を営んでいた跡だ。跡継ぎがないまま二人が相次いで亡くなり、住む者もないまま放置されてきた。
 ファソンも書店の帰りに立ち寄り、何度か筆を買ったこともある。二人ともに親切で働き者だったし、小体な割には良い品を安く売っていた。とりあえずは、その空き店をお借りしようという算段である。夫婦はこの近くに別に住まいを持っていたらしく、そこからこの店まで通ってきたらしい。
 その住まいはどこなのか知らないし、今、どうなっているのか定かではないが、店の方は少なくとも二年ほどは誰も暮らしていないというのは確かだ。
 こういうのを〝不法侵入〟というのだろうが、この際、構うものかと居直っている。その中、適当な空き家でも見つかれば、すぐに家移りすれば良い。
 さて、生きてゆくには生活の糧を得なければならず、そのためには仕事を探す必要があった。これについても、ファソンには当てがある。
 まだ夜明け前に屋敷を抜け出したため、筆屋に着いた途端、ファソンは急激な眠気に襲われた。昨夜は流石に眠るどころではなかったから、屋敷では一睡もしていない。また、ホッとして緊張が緩んだというのもあるだろう。
「とにかく後は眠ってから考えれば良いわ」
 彼女は円くなると、掛け布もかけずにそのますぐに深い眠りにいざなわれていった。
 ファソンが次に目覚めたのは既に陽が高くなった刻限であった。幸いにも季節が季節なので、凍えることはない。しかし、五月初旬といえば、朝夕はまだ冷え込むこともあるものだ。クシュンと小さなくしゃみをし、ファソンは肩を竦めた。
「いけないいけない、風邪なんか引いたら、余計なお金がかかってしまう」
 などと両班家の令嬢には不似合いな科白を呟き、うーんと伸びをした。
「まずは仕事探しに行きましょ」
 遊びにいくような気軽さで、近くの〝曺さんの本屋〟に出かけた。
「おじさん(アデユツシ)、こんにちは」
 古書店の主人曺ガントクはいつものように小さな構えの店の奥でメガネ越しに分厚い書物を読んでいた。
「ああ、お嬢さんかい」
 ガントクは小さなメガネ越しにファソンを認めると破顔し、立ち上がった。
「昨日の〝忠孝明道〟は読んでみたかい?」
「残念ながら、まだなの。昨日は家で色々とあってね。でも、ちゃんとここに持ってきたわ」
 と、意気揚々と風呂敷包みを掲げて見せた。読みたくてずっと探していた大切な書だ。これまでコツコツと集めてきた蔵書はどれも漢字が並んだ難しい本ばかりで、ファソンにとっては宝物である。それらの〝お宝〟は居室の片隅の物入れに山のように積み上げて保存(隠しているともいうが)してある。もちろん、両親には内緒である。
 今回の家出に際して持ち出すことは叶わなかったけれど、昨日、やっと手に入れた〝忠孝明道〟だけはまだ読んでいないこともあり、荷物に入れたのだ。
 ガントクは小首を傾げ、訝るような視線でメガネの奥からファソンを見ている。どうも、いつもと雲行きが違うようだ、と、ファソンは遅まきながら悟った。
 小さいながら漢陽の片隅で本屋を営み続けて二十年余、様々な人を見てきたガントクは学識も深く、人を見る眼も備わっている。今日のファソンがこれまでと違うと鋭い勘で嗅ぎつけているのかもしれない。
 それでも、ここで引き下がるわけにはゆかない。ファソンは両脇に垂らした拳に力をひこめた。
「おじさん(アデユツシ)。私をここで働かせてくれない?」
「ええ!?」
 ガントクは愕きを露わにし、数年来の付き合いのファソンを初めて逢う人のようにまじまじと見つめた。
「こう見えても、代書はできるし、数の少ない稀少な本を書き写すこともできるわ。私のような人間が一人いたら、商売もますます繁盛すると思うんだけどなー」
 と、熱心に売り込んでみる。
「お嬢さん、うちは代書屋じゃないよ」
「それは知ってる。でも、たまにおじさんが代書も引き受けてるのは知ってるもの」
 たまたま本を探しに来た時、ガントクに代書を頼みに訪れていた客と遭遇したことがある。代書とは頼まれて手紙や書類の代筆をすることであり、時には字の読めない人に手紙や書類などを読んであげることもある。



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