閉じる


<<最初から読む

3 / 43ページ

「最悪は中殿さまになるか、外れても側室として後宮入りは必至よ。冗談じゃない。一生、豪華でも狭い鳥籠に閉じ込められて終わるなんて、私は願い下げだわ」
「中殿になるのは最悪なのか―」
 青年の整った顔が何故か引きつっている。
「中殿といえば、両班の娘であれば誰もが夢見ているこの国最高の地位であろうに。そなたは何ゆえ、それを望まぬ?」
「だから言ったでしょ。一生、狭い後宮に閉じ込められるのはご免だって」
 ファソンは言うと、またクスクスと笑った。
「それに、幾ら国王殿下が物好きでも、私を見れば絶対に嫌だとお思いになるわ」
「それは何故?」
「私は〝本の虫〟だから」
「本の虫?」
 彼が素っ頓狂な声を出す。
「あなたは信じてないようだけど、この〝忠孝明道〟は私が読むのよ」
「そう、なのか?」
「ええ」
 ファソンは迷いなく応えた。
「本当はね、私の父に頼めば、この本を手に入れることはできると思うの。でも、父は私がこんな難しい本を読むことを歓ばないのよ。女はせいぜい〝内訓〟を読めばそれで良いと信じているようなカチコチの石頭の時代遅れなのよ」
「カチコチの石頭の時代遅れ―」
 青年はまた呆気に取られている。
「私は」
 ファソンは言いかけ、伸び上がるようにして青年を見上げた。ひょろ長い彼と小柄なファソンでは向かい合うと勢い、そんな体勢になる。青年はファソンに真正面から見つめられ、また頬を上気させた。眩しい陽光でも見るかのように、しきりにまたたきしている。
「やっぱり良い」
 ファソンが首を振ると、彼はすかさず言った。
「話してくれ。そなたの話をもっと聞いていたい」
「でも、あなたも所詮は両班の男よ。私の話を理解はしてくれないでしょうし」
「とにかく話してみてくれ。絶対に笑ったり否定したりしないと約束する」
 ファソンは彼の眼を見た。真剣そのもののまなざしに嘘はない。彼がファソンの話に納得するかどうかはともかく、少なくとも耳を傾けてくれるのは確かなようである。
「あなたを信じるわ」
 ファソンは話し始めた。
「私は色々なことを知りたい。〝内訓〟なんて所詮は女の通り一遍の心得を説いただけよ。そんなものじゃなくて、もっともっと広い世界のことを、この国をより良くするには、どうしたら良いのか。そういうことを考えてみたいの」
「なるほど」
 青年は約束どおり、ファソンの打ち明け話を真摯に聞いてくれた。
「それで、〝忠孝明道〟を読みたいと思ったのだな」
「そう。清国は大国だけあって、私たちが見習うべきことはたくさんあると思う。だから、何とかして彼(か)の国から来た書物は読みたいと思ったのよ」
 〝忠孝明道〟は前半はその書名のごとく人としての徳目を説いたものだが、後半は国のあり方について記されている。全体を貫くのは、政は民のためにあるべきものであり、国の根本であり財産は民草であるという考えだ。
 儒教思想とは少し考え方を異にしたものではあるが、政について判りやすく説かれた優れた書物として評価されている。若者にも言ったとおり、最初は父に読みたいと頼んでみたものの、案の定、
―おなごには不要。
 と、一蹴されてしまった。
「あなたももう、少しは読んだの?」
 問えば、青年はまた顔を引きつらせた。
「いや、その」
 そこで、ファソンは笑った。
「まだ読んでいないのね」
「恥ずかしい話だが」
 自分を取り繕おうとせず、正直に話すところが好ましい。彼の率直さをファソンは嫌いではなかった。
「まあ、あなたときたら、〝春香伝〟が愛読書みたいだし」
 笑いを含んだ声音で言うと、彼が恥ずかしげに頬を染めた。
「私もそなたと同じだ。屋敷にいれば、俗な小説などろくに読めぬ。どこに監視の眼が光っているか判らぬでな」
 実は、と、彼が袖から取り出した帳面の表紙には〝続春香伝〟と流麗な手蹟で書かれている。
 〝春香伝〟は作者不明の小説である。元々はパンソリの詠唱曲であったものが人気を博し、小説化された。両班が書いたとも伝えられているが、同じ〝春香伝〟でも微妙に筋が違っているものがそれぞれ流布しており、正確なところは判らない。


 妓生と両班の間に生まれた美しい娘春香は妓房で生まれ育つが、ある日、その地方を治める代官(使道)の息子夢龍(モンリョン)と恋に落ちる。父の任期が終わり、モンリョンは都に帰るが、それに際し、必ず迎えにくると約束する。
 何年か後、モンリョンは見事に科挙に合格、暗行御使(アメンオサ)となり再下向する。暗行御使とは国王の命令を受け、地方官が善政を行っているかどうかを極秘調査する任務を帯びる。いわゆる隠密である。
 後任の悪徳代官(使道)に横恋慕され無理に妾にされようとした春香はモンリョンのために操を守った。そのために、拷問の末、投獄される。悪徳代官の不正を暴いたモンリョンが春香を助け、最後に二人はめでたく結ばれるという話だ。
「〝春香伝〟の続きを今、書いている」
「ええっ。まさか、あなたが〝春香伝〟の作者ということ? あなたが小説を書いてるの―」
 流石に愕いた。思わず叫んだその口を若者の手が覆った。
「シッ。声が高い」
 彼が低声になった。
「そんなはずがないであろう。〝春香伝〟は私が書いたものではないが、自分で読んでみて、是非、続きが描いてみたいと思ったのだ」
 線の細い優男に見えても、やはりその手は大きく、男のものだ。父以外のしかも若い男性に触れられたのは生まれて初めてのことで、ファソンは身を強ばらせた。
 少しく後、若者は我に返ったようで、まるで焔の塊にでも触れたかのように素早く手を放した。
「す、済まぬ。さりながら、読むだけならともかく、書いていると知られるのは幾ら何でも、まずいのだ」
「え、ええ。そうね」
 ファソンはまだ早鐘を打つ胸の鼓動をなだめるの必死で、まるで上の空で応える。
 会話が途絶えたところで、遠慮がちに割って入った者がいた。
「話がお弾みのところ、申し訳ないんですがね。朴氏の若さま(トルニム)」
 身の丈がさして高くない中年の男、彼がこの古本屋を営む曺ガントクである。
「若さまがお書きになっている例の小説、少し拝見してもよろしいですかね?」
「ああ、良かったら、見てくれ」
 ガントクはしばらく真剣な面持ちで若者から渡された小説を読んでいた。ややあってから、自慢の口ひげを撫でて若者に言う。
「なかなかですな。これは売れるかもしれませんよ」
「そうなのか?」
「ええ。春香伝の人気は今、うなぎ登りですからね。大きな声じゃ申し上げられませんが、若さまのように両班家の方々の中にも、ご夫人やご令嬢だけでなく、れきとした殿方が熱心に読みふけっておられる方は少なくないのです。その今や大人気の〝春香伝〟に続きが出たとなれば、こりゃ売れるのは間違いないと、儂は踏んでますがね」
 ガントクはいっそう声を潜めた。
「どうですか、この作品をお書き上げになったら、儂に預けて下さいませんか?」
「私の書いた〝続春香伝〟をこの書店で売ってくれるというのか!」
「さようです」
 ガントクの頼もしい返事に、若者の白い面に血が上る。
「それは願ってもない話だ。何とぞ、よしなに頼む」
「合点でさ」
 本屋の主は胸を叩いて請け合った。売れるか売れないか―、この道二十年の目ききのガントクが言うからには目算はかなりの確率であるのだろう。
 ファソンと若者はそれぞれ本の代金を払い、本屋を後にした。いちおう古本屋、貸本屋ということになってはいるが、もちろん新しい本も売っている。
「毎度ありがとうございます」
 ガントクの愛想の良い声に見送られた後、二人は何となくそのまま並んで通りを歩いた。ガントクはファソンの父がそも誰であるかを知っている。同様に〝朴氏の若さま〟と呼んでいた彼の素性をも知っているのかもしれない。
 が、ファソンはこの青年にそれを訊ねようとはしなかった。大体、彼の物腰や身なりを見れば、彼が高位の両班であることは丸分かりだし、ファソンはファソンで身許をあまり知られたくはない。特に父には内緒で巷の古書店に通っているなんて知られたら、それこそ屋敷に閉じ込められて二度とお忍びでの外出はできなくなる。
 そんな危険を冒す愚はしたくない。
 この本屋の良いところは大通りから外れた小路に面しているのもある。つまり、出入りしているのもそれだけ人に見られる可能性も低いということだ。二人は直に小路から大通りに出た。流石に人通りが多く、たくさんの人が忙しない足取りで往来を行き交っている。


往来の両脇にはあまたの露店が軒を連ね、通りすがりの人々が熱心に店の品物を検分している。それに混じって客を呼び込む商人の声が声高に聞こえる。いつもながらの活気に溢れた下町の光景がひろがっていた。
 青年がやや名残惜しさを感じさせるように言った。
「そなたの屋敷はどこだ? 送っていこう」
「ありがとう。でも、私なら大丈夫だから」
 ファソンが言い終わらない中に、彼らの間前に突如としてヌッと現れた人影があった。
「陳ファソン、こんな場所で逢えるとは、つくづく奇遇だな。やはり、俺たちは縁があるのか」
 近づいてきた男を見て、ファソンは両班家の息女にはおよそ似つかわしくない悪態を心でついた。
「あら、金氏の若さま。今日もまた相変わらず嫌みがお上手ね」
 つかつかとやって来た若い男は険のある眼でファソンとその傍らに立つ青年を交互に見た。
「俺の許婚者と他の男が昼間からよろしくやっているとは、これはどういうことかな、ファソン?」
 この男、金サムジョンという。右議政の嫡男で、父親が政府の高官なのを鼻にかけて傍若無人なふるまいが眼に余る。妓房で女遊びに狂うは酒色に溺れるはで、その放蕩ぶりはつとに知られている。
 こんな男ではあるが、ファソンにとっては幼い頃からの知り合いなのだ。子どもの時分から、このいけ好かない性格は変わらない。
 男ぶりはそこそこなのだけれど、何しろ性格がそれを上回って有り余るほど悪いのが難点である。
「お生憎さま、私はあなたと婚約した憶えなんて、金輪際ありませんけど」
 確かにサムジョンが父を通して結婚を申し込んできたのは知っている。けれど、その縁談はその時、父がきっぱりと断ったはずだ。
 なのに、この道楽息子ときたら、
―陳氏の娘と婚約した。
 などと真っ赤な嘘偽りを触れ回っているらしい。父も嫁入り前の娘のこととて外聞をははばかるゆえ、事実無根の話を触れ回るのは止めて欲しいと、右議政に苦情を申し入れたが、どうやら、息子に甘すぎる右議政は止めさせた風はない。
 現在、領議政の地位は例外的に空席になっている。ファソンの父陳明瑞(ミヨンソ)は左議政の要職にあり、右議政とは若い頃からの盟友でもあり飲み友達でもあった。政治的なライバル以前に、二人の絆は強い。父もサムジョンにはあまり強く出られない立場ということもある。
 ああ、と、サムジョンがもっともらしく頷いた。
「そういえば、そなたの父御がここのところ、そなたを後宮に上げる気になったとか。確かに、願い出れば妃候補の一次選考試験にはまだ間に合うかもしれんが、お若い国王殿下がそなたのような跳ねっ返り、おまけに〝本の虫〟に興味を示されるとは思えんがな」
「私は後宮に上がるつもりもありませんから。誰にも嫁がず、本に埋もれて暮らすわ!」
 ファソンがつんと顎を反らすと、サムジョンが鼻で嗤った。
「そういうわけにもゆかんのは、お前も判っているだろうが。嫁き遅れと人の噂が立つ前に、この俺が妻に貰い受けてやろうというのだ。ありがたく受けろ」
「冗談でしょ。後宮に閉じ込められるのもご免だけど、あなたと同じ屋敷に住むのはもっとご免だわ」
「何だと」
 流石に気色ばんだサムジョンの前に、それまでずっと二人のやり取りを聞いていた例の朴氏の息子が立った。彼は背後のファソンを庇うように立ち、サムジョンをおもむろに見つめた。
「何なんだ、貴様」
「私は朴家の縁戚の者だ」
 サムジョンが唾棄するように言い放った。
「朴なんて姓はこの都中だけでも掃いて棄てるほどある。どこの朴か、俺は知らんぞ」
「どこの朴氏ゆかりの者かを私自身もそなたに告げるつもりはない。さりながら、名乗らぬ卑怯者にはなりたくないゆえ、先に名乗ろう。私の名前は李幹(イ・カン)だ」
 サムジョンがゲラゲラと笑い出した。癇に触る笑い声だ。
「なるほど、ありふれた名前だ。俺は金サムジョン、父は右議政をしている」
「国の重責を担うだけあって、流石に右相大監(ウサンテーガン)は道理を心得られた方だが、その子息がこの程度とは大監もお気の毒なことだ」
 イ・カンと名乗った青年は静かな声音で断じた。
「き、貴様ッ。この俺にそんな口を叩いて無事で済むと思うのかっ」
 激高するサムジョンを見、ファソンはカンの袖を引いた。
「カン。もう、止めて。あなたのお父さまもそれなりの地位をお持ちでしょうけど、ああ見えても、サムジョンの父親は右議政なのよ」


 国政を司る議政府の三丞承(チヨンスン)の第三位、それが右議政である。カンが幾ら名家の子息でも、その三丞承に立ち向かえるほどの立場にあるはずもなく、下手をすれば右議政に睨まれて失脚する危険もある。
「君は心配するな、ここは僕に任せて」
 カンは安心させるようにファソンに微笑みかけた。どこか頼りなげな坊ちゃん然とした雰囲気から、一転して頼もしげな毅然とした表情に変わる。何故か胸の鼓動がまた速くなり、ファソンは身体が熱くなった。
 今日の自分はどうもおかしい。今まで、こんなに身体が熱くなるのは珍しい書物を手に入れたときだけだったのに。
「そなたは先ほど、国王の女の趣味がどうこうとか申していたが」
 カンは淡々と言った。サムジョンが下卑た笑いを浮かべ、したり顔で言った。
「殿下も所詮は若い男だ。こんな小難しい本にしか興味のない色気なしの乳臭い小娘など、好まれるはずがない」
「さて、それはどうだろう。王に逢ったこともないそなたが何故、国王の女の趣味が判るのだ? 私は殿下のお側近くお仕えしておるゆえ、殿下の女性の好みはよく知っているが、殿下は触れなば落ちんの色香ある女よりは、清楚な娘をお好みになると聞いているぞ」
 事もなげに言ったカンに、サムジョンはせせら笑った。
「フン、どうせ負け惜しみで、口から出任せを申しておるのだろう。貴様のような者が畏れ多くも殿下のお側近くに仕えるなど信じられぬ」
 カンがその端正な顔に不敵な笑みを刷いた。
「そうか。そう思うのなら、そう思えば良い。金サムジョン、そなたの名はしかと憶えておく。せいぜい親父どのの名前に泥を塗らぬように注意するんだな」 
 ファソンは生きた心地もせずに二人を見守っている。サムジョンは武官だ。サムジョン、カン共に上背はあるが、筋骨逞しいという点では、はるかにサムジョンが優位に見える。
「くそっ」
 我慢鳴らず、カンに殴りかかろうとしたサムジョンの巨体がつんのめった。
「うおっ」
 獣の断末魔のような声を上げ、サムジョンはあっさりと道端に転がった。カンが片脚を出して、掴みかかってくるサムジョンに足払いをかけたのだ。
「くそぅ、貴様」
 サムジョンが起き上がる直前、カンがファソンの手を握った。
「これは流石にまずいな。逃げよう」
 二人は脱兎のごとく駆け出した。
「待てっ、貴様ら」
 もちろん、待ってやるはずもなく、二人は駆けに駆けた。
 とりあえずは大丈夫そうなところまで来て、カンは漸く脚を止めた。
「ここまで来れば、あやつも追いかけてこないだろう」
 二人共に相当、息が上がっている。
「カン、無謀なことをしないで。サムジョンは頭の方はからきしだけど、見てのとおり、武芸はかなりのものなのよ。何しろ、武官なんだから。あなたがまともに立ち向かって勝てる相手じゃないわ」
「失礼な女だな。それでは私がいかにも弱々しい男みたいではないか」
「みたい、じゃなくて。弱いでしょ。力仕事なんて、まともにしたこともない細い腕をしている癖に、あの筋肉の塊のようなサムジョンとどうやって喧嘩するのよ?」
「うっ」
 カンは顔を紅くし、言葉を詰まらせた。
「それに、あんなハッタリを口にしては駄目よ」
「ハッタリ?」
 訝しげなカンに、ファソンは笑った。
「そう、あなたが畏れ多くも国王殿下の側近だなんて。サムジョンじゃなくても誰も信じないわ」
「ええと、そなたは」
 言いかけた彼に、ファソンは笑顔で告げた。
「ファソンよ」
「そうだ、ファソン。何ゆえ、そのように言い切れるのだ! 私が殿下の学友だというのは嘘ではない」
「あなたが殿下のご学友ですって?」
 ファソンは堪え切れず笑い始め、その笑いはしばらく止むことはなかった。
「つくづく失礼なヤツだ。私は相当傷ついたぞ」
 ファソンはやっと笑いを納めた。あまりに笑い転げたため、涙眼になっている。
「ごめんなさい。でも、やっぱり信じられない」
 また笑いそうになるのを堪え、ファソンは言った。
「サムジョンって、昔から性格が変わらないのよね。もっとも、傲慢で女好きで最低な男だけど、根はそこまで悪くないの」


 ファソンとサムジョンの腐れ縁は物心つく前からのことだ。そこで、彼女は幼い頃の意外な想い出を語った。
 サムジョンには乳母がいて、乳母にはギルボクという息子がいた。サムジョンの母親は二つ違いで生まれた弟の方を溺愛していたため、彼は乳母を本当の母のように慕っていた。サムジョンは半年違いで生まれたギルボクを実の弟よりも可愛がっていたものだ。
 ある日、サムジョンが自邸で同じような両班家の子ども数人と遊んでいたところ、ギルボクが通り掛かった。悪童の中の一人がギルボクを心ない言葉でからかうと、サムジョンは烈火のように怒り友達を殴った。
 事後、サムジョンは母親からは鞭で打たれ、父親からも延々と説教された。その時、彼は父に向かって広言した。
―ギルボクは確かに身分は低い。ですが、私にとっては大切な乳兄弟です。その大切な身内に等しい者を蔑まれて見過ごしにはできません。
 最後まで謝らなかった息子に、両親は呆れ果てたという。けれど、その話を父から聞かされたファソンはサムジョンを子ども心に見直したものだった。
 ギルボクは乳兄弟とはいえ、使用人であった。その使用人を身を挺して庇ったサムジョンは立派だと思った。
「なるほど。確かに、その行いは見上げたものだな。身分が低いからと、人を訳もなく辱めて良いわけがない。ファソン、この国は王族や両班といった特権階級だけで成り立っているわけではないからね。国の根本は民だ。民の存在なくして国は成り立たない。名も無きたくさんの民こそが、朝鮮の宝なんだよ」
「凄いわ、カン。あなたの言うとおりよ。カンがもし本当に国王殿下のご学友だったら良かったのにね」
 ファソンは笑った。
「それでも、あなたもいずれ官僚となって、この国の未来を担うのは間違いないでしょうし、今の気持ちを忘れないでね」
「さりながら、私は通俗小説を隠れて書いているような男だ」
 どこか自嘲するような物言いに、ファソンは真顔で首を振る。
「カン、両班だから、小説を書いてはいけないなんて、それも世の中がおかしいのよ。女が政を語ってはならない、男が恋愛小説を書いてならない。誰が決めたのかしら。あなたはそんな小さなことを気にせず、あなたの生きたいように生きれば良いと思うわ。〝春香伝〟の続きを書きたければ書けば良い」
「ファソン―」
 カンが愕きに眼を見開く。ファソンは少し照れたように言った。
「熱く語り過ぎたみたい。私も女だからと父からいつも言われているから―。難しい書物ばかり読んでないで、刺繍や伽耶琴(カヤグム)の練習をもっとやりなさいとかね。だから、小説を書きたくても思うように書けないあなたの立場が少しだけ理解できるような気がしたのかもしれないわ」
 ファソンの口調が少し淋しげなものになった。
「サムジョンの言うことは満更、嘘じゃないの。私は両親や親戚から〝本の虫〟って呼ばれてる。こんな私を妻にと望んでくれる男はいないでしょう。もっとも、私自身は一生、嫁がずに本を読んでいる方が良いのだけれど」
 カンが言うとはなしに言った。
「サムジョンはそなたの父御が王妃の選考試験にそなたを応募させるつもりでいると申していたが」
「そんなのはただの噂よ。大体、私にそのつもりはまったくないんだから。幾ら父でも、私にその気持ちがないのに、そんな横暴なことはしないわ」
「そう―だな」
 カンがどこか落胆したように言い、ふと視線を動かした。
「ちょっと待ってて」
 大通りを隔てた斜向かいの露店に近づいてゆく。どうやら小間物を扱っているらしいその店の主人としばらくやり取りした後、彼はほどなく器用に人混みを縫って戻ってきた。
「これを君に」
 カンの男にしては細くて綺麗な長い指が束の間、ファソンの黒髪に触れた。今日のファソンの装いは全体を明るい色合いで纏めている。やや濃いめの桃色のチョゴリ、ごく淡い色の萌葱のチマだ。チマは下に殆ど白に近い薄緑色の地に木春菊を大胆に手書きしており、その上に薄い緑の紗をふんわりと重ねている。
 二枚重ねになったチマがさながら咲き誇る大輪の八重の花びらを思わせる華やかな装いだ。
 そろそろ日中は気温が高くなってきたこの季節にはふさわしい、涼しげな色合いがファソンの初々しい美少女ぶりによく似合っている。



読者登録

megumi33さんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について