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マル


                         Junichi YONETA

 雨の中を走るその列車は遅れていた。
 が、運転士の来嶋はブレーキハンドルを握ったまま、すっと息を吸って、精神を集中し、切迫するすべての条件をあえて無視した。
 その寸時の静かな境地に達したとき、その「壁」がはっきり見えるのだ。

 目の前に北急相模大川駅の、デパートのビルが上にある大きな駅舎が迫る。
 列車はその前の制限速度60キロの分岐器に向かい、その乗客が鈴なりの急行ホームの先端、出発信号機は赤信号になっている。
 来嶋は目をさらにかっと見開いた。
 遅れ30秒、減速勝負だ!
 今では少なくなった木のハンドルのブレーキ弁に手を添え、集中力を高め、そしてイメージを浮かべ、操作した。
 チン! というベルがその古風な竹色のペンキで塗り込められた機器むき出しの運転台で響く。
 同時に後付けされた表示器の「HM-ATS・パターン接近」の警報が点灯する。
 普通の運転士だったら、ブレーキハンドルを引いて減速をぐっとかけるところだ。
 ATSシステムの設定したブレーキパターンは壁のようなもので、その壁は安全に停車させるための限界であり、その壁へ突入することはATSによる自動ブレーキ最大強度作動をまねく。
 その壁がなければ、間違いなく列車は赤信号で止まれず、オーバーランする。
 普通の運転士は、それを分かっていて、常用最大ブレーキを掛けてパターンへの接近を防ぐ。
 ところが、来嶋はブレーキをあえて緩めた。
 そして、ブレーキの強めと緩めを華麗に使い分ける。
 パターン接近警報のベルが狂ったようにチンチンチリリンとなり続ける。
 まさに限界域でのブレーキである。
 安全とダイヤ厳守の極狭い境目でのブレーキングを、来嶋は運転の難しい旧式車・北急旧5200形を自由にあやつって実現する。
 鳴り響くパターン警報が止まったとき、列車はピタリと相模大川の上り急行ホームの停止位置に止まった。
 しかし止まったのは列車だけではなかった。
 0秒、マルと呼ばれる、ダイヤ通りの到着時刻を示す懐中時計の針も、0秒にピタリと止まった。
 1秒の狂いもない、完全な運転だった。


train 001
train 001 posted by (C)YONEDEN


「運転引き継ぎます。遅れなし、運転機器異常なし」
「引き継ぎました」
 来嶋はホームで運転をかわり、相模大川運転区に戻った。
 今日の運転仕業はこれで終わりだ。

「来嶋くん」
 女性ながら指導運転士である神村が迎えた運転区のデスクでのことだった。
「現業部監査室の梅沢さんが呼んでるわよ」
「え、なんで?」
 来嶋は怪訝な顔をしてしまった。
「たまたまCTC室であなたのブレーキングを見てたらしいの」
 CTC、中央指令室にはこの北急電鉄のすべての列車の運転状況がリアルタイムで確認できるモニタがある。
「そんな。ダイヤ厳守は運転士の命じゃないですか」
「そりゃそうだけど、相手は梅沢さんよ。お召列車運転もしてきたこの北急最高峰の運転士、甲組運転士だもの。
 それが『あんな運転はマルではない!』とお怒りのご様子」
 神村が茶化す。
「マルじゃないですか。あれで30秒も『取った』んですよ」
「でもパターン接近鳴りっぱなしの運転というのはよくないわ」
「でも」
「でも、はナシよ」
 神村は息を吐いた。
「あなたは確かにセンスがあるわ。
 でも、それ以上のものが、運転にはある。
 これは言葉で教えても、素直に受け止められないと思うわ」
 神村は、一瞬苦い表情をした。
「マルは、もっと難しい概念だもの」
 来嶋は眼を白黒させた。
「とりあえず、梅沢さんのお小言は私が聞いてくるから、あなたはお風呂入ってさくっと帰ったほうがいいわよ。
 梅沢さん、昔気質だから、鉄拳制裁するつもりかも。
 いまどき乗務区内でそんなの、私もたまらないわ」
 来嶋は考え込んだ。
「そうします」
 神村は微笑んだが、来嶋は納得いかなかった。

 マルなのにマルではない、ってなんだろう。
 来嶋は乗務区の広い風呂で仕事の汗を洗い流しながら、タイル貼りの古い湯船で考え込んだ。
 難しい概念?
 でも、マルはマルじゃないか。
 定時運転をしなければ、遅れは他の線に波及し、そこでは同じ運転要員が遅れでおきる平常運転と違う手順に余計な神経を使い、それが集中力を落とし、事故に近づいていく。
 それを防ぐために、定時運転に重きをおく。
 それがマルじゃないか。

 何言っているんだ梅沢さん!
 おかしいよ!

 来嶋は風呂を上がった。



 夏の乗務がまだ体に応える歳ではないと思っていたが、しかしこうして日を改めて職員定期で電車に乗り、乗務に向かうときに乗る列車の冷気と、ホームに照りつける太陽の熱気の落差が、体力を目に見えて削るように思えてくる。
 最近の天気はゲリラ豪雨というらしく、晴れていると思ったら突然雲が持ち上がり、雷と大雨がどっさりと降る。
 その雨は、レールの粘着係数を激変させ、普段どおりどころか、普通の雨の時の運転操作の技術ですら太刀打ち出来ない事態につながる。
 しかし、来嶋も素人や駆け出しではない、と自負するところである。
 乗務引継ぎの時に、会社で契約している天気予報会社の警報が出ていることを聞いた。
 腕の見せどころだ。
 すでに「M2」と2分の遅れが全線で起きている。
 遅れは回復できないが、膨らむのは防げる。
 まかせておけ、と言いたい気分で、運転士席に座った。
 ブザーで車掌から合図が来るのにブザーボタンを押して答えた。
 そして出発信号機が青く点灯した。
 ドア閉のあと、車掌からの合図が来る。
 いくぞ!

 ブレーキ緩解、ノッチ1投入。
 この車両はまたしても旧5200形、最新の車両と違い、応荷重ブレーキや滑走検知装置といったハイテクシステムは搭載されていない。
 だからこそ、腕の見せどころだ。
 ノッチ1の指令通り、カム軸制御装置が電気回路をつなぎかえ、モーターに与える電圧と電流を変化させる。それはマニュアル自動車のギアチェンジと同じだ。失敗すればエンストする。
 電車ではそこまでではないものの、ドドドッという振動と共に駆動軸の空転を起こす。
 音と座ったシートから伝わる揺れで、その空転の兆候を察知する。
 ハイテクシステムよりも精密に、その兆候を察知し、ノッチを戻す。
 それでもなお進む列車の惰性走行の勢いを吟味し、またノッチを入れる。
 列車は加速をさらに進めていく。
 雨では起動時の空転が一番危惧される。粘着という車輪と線路の小さな接点の挙動を、来島は完全によみとっていく。
 列車は、乗客の誰も気づかない来嶋の職人芸で、スムースに引き出され、加速していく。
 すぐに制限45の急曲線。
 ブレーキをかけるが、これは逆に余裕を持って、しかもじわりとかける。
 車輪と線路の間で粘着が途切れて滑走がおきないように、細心の注意を払う。
 かといってゲリラ豪雨だからとのんびりとブレーキをかけるわけではない。
 最適な運転操作、それがマルの精神だ。

 そして、列車は遅れは取り戻せなかったが、来嶋は無事に乗務を終え、運転詰所に戻った。
「ご苦労さん。ゲリラ豪雨は東に外れていったってさ」
 同僚が迎えるとき、北急の運行状況を知らせる業務用一斉無線がなった。

 こちら北急指令。
 飯森台上りで2711M、車両故障発生。
 全線運転抑止。
 現在検車係当該列車へ急行中。
 以上北急指令。

 それに来嶋は衝撃を受けた。

 自分の運転し、引き継いた列車、旧5200形5201Fだ!

 来嶋は食事当番がだしてくれた賄いの昼食を食べるのも忘れて、かけだした。



「そうか、おまえさんの運転のあとか」
 検車区長が、雨のやんだ蒸し暑さの中の検車区に戻ってきた5201Fを見た。
 検査する皆は忙しそうだが、区長は目を細めながら水筒のお茶を飲んでいた。
 ゲリラ豪雨と共に熱中症も多いこの夏は、こういったベテラン職員が働いているのを見ると、太陽も地球も少し彼らをいたわって欲しいと来嶋は思うのだが、それ以上に今はやってしまったことの責任で喉の奥が詰まっていた。
「まあ、5200は老朽化していたからな。こういうガタが来るのは仕方がない。新5000形で置き換えるのもなかなか追いつかないだろうし」
 そう言いながら区長は幾度もの修理で、塗料が塗り込められた車体のふちをちょっと覗いた。
「それに、おまえさんの運転で故障するようなヤワな整備は、俺達はしてないさ」
 区長はそう言うと、来嶋の背をぽんぽんと優しく叩いて、去っていった。

 来嶋は失意の中、乗務区へ帰った。

 なにがマルの運転だ。
 区長は優しいから責めなかったが、トラブルを起こしたのは、間違いなく自分だ。
 無理な運転をして、その無理が次の運転士の運転の時にきたのだ。

 そのとき、来嶋ははっと気づいた。

 マルというのは、このことなんだ!



 連絡特急「ふよう」は沼津から御殿場線を走っていたが、富士の周りの天気の不安定の予報通り、風雨のために遅れて運転していた。
 純白に青のラインの鮮やかな「ふよう」充当の371系電車を前に、接続駅の新戸田でJRの運転士から運転を引き継ぐのは、来嶋だった。
 いつもどおりの引継ぎのあと、ここまで運転してきたJRの運転士は声を潜めて口にした。
「なんか、グリーン車のお客さんが運転の遅れを取り戻してくれとパーサーを繰り返し何度も呼んでるらしい」
「なぜ?」
「さあ? なんか国会議員で、政治生命がどうとか神宿駅でパパラッチが待っているとかどうとか。
 まあ関係なく運転するしかないだろうなあ」
「そうですね。お疲れ様です。引き継ぎます」
 来嶋はキーを受け取り、大きな曲面ガラス窓で覆われた広い運転室に入った。
 流麗なスタイルの371系、その見晴らしの良い運転席。
 窓越しの空は今にもドサっと雨の振りそうな不安な空が切れ切れになって浮かんでいる。
 スイッチを操作する。
「ATS切り替えよし!」
 来嶋は北急線に入る371系の準備をした。
 ここから北急新宿までの通し乗務だ。
 信号機の表示が変わる。
「出発進行、線別急行!」

 列車は郊外を駆け抜けていく。途中、遠目にもわかるゲリラ豪雨の黒雲がさがみ野の平野の上に現れる。
「大丈夫か」
 来嶋は運転操作の合間に、車掌に車内電話をする。
「例のグリーン車のお客さんにはパーサーが応対中です。
 こっちは大丈夫です。来嶋さんこそ、運転操作に集中してください」
「わかった。運転はまかせてくれ」
 来嶋はマスコンをしっかりと握り、運転操作を流れるように続ける。

「なぜ遅れ回復運転をしない!」
 列車の真ん中に連結された2階建てグリーン車の天井の低い2階グリーン席では、小声で背広の紳士が広いシートに腰掛けたまま、パーサーに腕時計を見せ、なんども声をかけていた。
 他に乗客はほとんどいない。グリーン車が満席になるのは上りではなく、退勤列車となる下り列車だけだ。それも今のデフレのご時世の結果だろう。
 バブル期の建造らしい独特の間接照明の車内で、紳士は議員バッジを隠すこともなく、なんども繰り返す。
「お客様、運転士は目下最善の運転に力を尽くしております」
 航空機のアテンダントのような制服のパーサーが、丁寧に応対する。
「でも途中駅の本厚戯ですでに7分も遅れているぞ!」
「申し訳ございません」
 パーサーが頭を下げる。
 しかし、彼女らも鉄道員だ。
 彼女たちは頭を下げ続け、列車の運転室では、来嶋も確信を持って運転を続けていた。

 そして、列車はゲリラ豪雨をすり抜けるような走行でさらに10分遅れ、終点神宿に17分延着した。



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IMG_0309 posted by (C)YONEDEN



 来嶋は新戸田から神宿までの特急列車の通し運転で、すっかり疲れきっていた。
「上がりました」
 北急百貨店の職員入口を抜けて近く、ありがたいことにからりと冷房のきいた神宿の乗務員詰所に来嶋は戻った。
 すぐに待っていた仲間の運転士が話しだした。
「あのグリーン車の議員さん、なんでもパパラッチに女性議員と同席しているのを撮られると思って、ピリピリしていたらしい。
 政治家同士の話だったのに、今のマスコミは平気で男女の関係だの不倫だのなんだのと騒ぐ。
 だから裏をかいて、沼津から新幹線ではなくうちの特急にした。
 ところが神宿にもパパラッチがくるらしいと察した。
 それでその前に迎えを待たせた神宿に列車がつくように、と、やいのやいのと言っていたらしいんだが」
「どうなりました?」
「なんか、有名歌手が引退発表をブログでしたらしく、その取材にパパラッチどもが行って、だれも神宿では彼らを待っていなかったって」
「そういうオチかよ」
 来嶋は呆れた。
「まったく、運転士に無駄な神経使わせないでほしいよな」
 同期の運転士に、来嶋は『まったくだ』とうなづいた。
「来嶋さん」
 そのとき、詰所隣の北急お客様コールセンター「レイルボイス」のチーフが呼んだ。
「その議員さんがお礼を言いたいそうです。
 安全第一のところを無理を言ってすまなかった、って」
 来嶋はそれに、なんとも思わなかった。
 鉄道は、すべての職員がすべての職域でベストを尽くすから、今日も普段どおりに運転できるのだ。

 工場が列車を作り、検車さんが整備し、走る線路を保線さんが整備し、駅員やパーサーや車掌がお客さんを案内して始めて、運転士は輸送の使命を果たせるのだ。
 輸送の使命の第一は安全である。
 そして安全のためには職域を超えて一致せねばならない。
 輸送機関の「安全綱領」にあるのは、まさにそのことだ。

 来嶋は、それを感じながら、短く答えた。

「礼には及びません。
 自分は、単に『マル』にしただけですから」

>Endtext

(この物語はフィクションであり、実在の人名・組織とは何の関係もありません。また掲載した写真とも関係はありません)

この本の内容は以上です。


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