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織田邪弓隊



 也助(なりすけ)は尾張織田家の直参弓組(じきさんゆみぐみ)の分頭(わけがしら)である。
 弓組には組長以下四人の頭(かしら)、その頭の下に8人の分頭がいて、分頭は自分を含めて一六人の弓兵(きゅうへい)を指揮する。
 そして、弓組は弓一番隊から何番隊と組織される。特に信長の直参弓組は、後に鉄砲組に改組され、そのうえで手本鉄砲隊という鉄砲の技芸を極めたものたちがいて、名だたる信長の部将の鉄砲隊を指導することになる。
 その点で、信長を語るとき、その直参弓組は信長の天下布武の号令の基盤となる武力の源であった。
 だが、その直参弓組の分頭である也助の背の指物は、髑髏と矢の印であり、その隊の名を『邪弓隊(じゃきゅうたい)』と呼ばれる。
「ごめん。右の肩当てがちょっと緩い」
 夜明けにほど遠い暗がりを申し訳程度に照らすろうそくの明かりのなか、也助の鎧を支度する妻のカシが頷き、黙々と紐を締め直す。
 也助の家は、織田軍が常備軍化される前の分頭程度の野良仕事をしながら朝と晩に武芸の稽古を磨く者の家としては、やや貧しい暮らしぶりである。
 先ほどから夜明け前のもっとも濃い闇から、降雨前と思われる湿った風が壁の隙間を縫って、戦支度をする三人を真綿のように締め上げている。

「なあ、市兵衛(いちべえ)」
 也助は、もう一度鎧、とはいっても竹を編み、紙を糊で固めた上から樹の液で水を防ぐようにしただけの粗末な武装姿で、身体を伸ばしながら傍らの槍を用意している同じような貧しい武者、市兵衛に声をかけた。
「親方様の命は受けた。命がけで、この勝負に出る親方様が、おまえたちは十分やってくれたと言葉をくれた」
「そうだな」
「俺は弓を射ることが好きだ。弓を放ち、それが的にネライ通りにのび、的を貫く瞬間が好きだ。それだけが好きで、本当は戦も賭け弓もいやだ。
 それでも、親方様の命を受けて、何人も射殺してきた。
 俺は誰が誰かわからん。織田家の内紛だのはさっぱりだ。
 だが、親方様に頼まれれば、その通りに射殺してきた。
 殺生は嫌だが、親方様を信じてきた」
「あの祭りの夜からな」
 市兵衛は槍の具合を確かめると、それをおいて、カシが戦のためにと用意してくれた卵と飯に一礼した。
「懐かしいな。あのころ、親方様は吉法師とお呼ばれであった」
「俺たちも若かった。あのころ親方様は家督を継ぐとも思われず、うつけと笑われっ放しだった。
 この里に来たのも、この里の池で水浴びをする女どもの裸のノゾキ目当てだった」
「也助、オマエは見なかったな」
「どうにもああいうのは苦手でな。興味がない訳じゃない。でも、あのとき、カシがいてくれたから、そこまで乾いてはいなかった。だから、ばれぬよう見張る役をした」
「あのとき、水浴びをしていた女どもに惚れて、火照った体が酒を求めた。
 親方様は酒が飲めぬ。だから、茶をくれとこの家に来た」
「そこで親方様は興奮していた。そのときだったな」
 そこに、「哲平、参りました」子供のような顔つきの弓兵が一人、灯明の薄明かりに現れ、「頭、支度できました。みなももうすぐ来ます」と告げて円座の上に座った。
 彼は也助とペアを組む弓兵で、側弓(そばゆみ)と呼ばれる。
 同じように粗末な竹と紙の鎧だが、しかし武具には、それも実戦に使う武具には、独特の勇ましさがある。
 それに弓を持つ彼は、凛とした頬に、大きな瞳を、支度しながら話す也助に向けて、上がった息を整えている。
「邪弓隊。もともと、気づかれぬように近づき、不意を付いて射殺する我らの弓にはふさわしい名だ。
 親方様は言った。我らの一矢で、時をこじあけてくれと」
「邪弓隊はあの夜に始まり、そして幾度の暗殺を経て、そして今朝を迎えたな。
 ここまで辛抱したな」
「おまえもだ」
 そこに伝令が入った。分組に伝令が来るなど前代未聞だが、この分組、邪弓隊にはそれだけの配慮がなされていた。
「本隊は熱田神宮に向かいます。貴隊は先発してくれとの仰せです。親方様は全速で向かうと也助に伝えよと仰っていました」
「わかった」
 也助は答えた口を閉ざして引き結び、弓を取り、弦に指をかけ、引きを確かめた。
「邪弓隊、行くぞ!」
 8人の弓兵、4人の従槍兵(したがいやり)が『おう!』と声を上げた。
 その従槍の一人が、市兵衛だ。もっとも信頼し、もっとも肝心な一番弓を守る、この邪弓隊の守護神である。


 朝といってもまだ闇深いが、この五月の朝は、春にしては、やや風が冷たい。
 しかし、湿りながら引き締まったその風には、真冬にはない草木の匂いがある。
 也助の家の前、飼っているニワトリが朝の訪れを告げる前の小さな鳴き声を上げているところで、説明を始めた。
 前もって知らされた桶狭間の見取り図を元に、砂を持って地形を確認する。
「的は桶狭間の今川義元!
 二番的も三番的も義元だ!
 ほかは雑魚だ、かまうな!」
「はい!」
「そして、いつもどおり、俺たちが死んだところで、無縁仏にしかならん!」
「はい!」
「死ぬな! 生きて一矢放つまで絶対に死ぬな!」
「はい!」


 ちなみに一般の弓兵は徒歩である。騎馬の弓兵もよほどのことがなければ行進射、動きながらの射撃はしない。矢を射るときは、徒歩でも騎馬でも静止するのが普通である。
 矢は恐ろしいもので、戦国に至っても、全ての戦死者のほとんどが矢を浴びての戦死である。槍、刀で戦死する者はそれに比べて圧倒的に少ない。
 このころの日本の弓兵の基本戦術は、隊列を組み、一斉に遠距離から矢を雨霰(あめあられ)と敵に降り注ぐもので、鎧はその矢の雨を防御するように考えられていた。
 故に、京都の三十三間堂の通し矢という行事で長い廊下を正確に抜ける矢を射る行事があり、平成の現代の単位で100メートル近い距離をまっすぐ射ること が弓の名技とされている。つまり、交戦距離は100メートルで、狙撃と言うより火力投射のように密集した陣形の弓兵が一斉に射かける戦術をとるのが一般的 である。
 しかし、邪弓隊の本領はそれとことなり、地物を観察し、そのもっとも最適な地点に弓兵の本弓・側弓と、その2人を守る従槍兵を配置し、敵となる武将に接近し、至近距離から正確に射抜くところにある。
 邪弓隊はそこで4つの小組にわかれている。分頭の也助が指揮する頭弓の三人が先頭に立ち、目的地・桶狭間に進む。

 夜明けはまだだが、すこしずつ空気が変わってきた。
 大軍勢には、気配がある。
 特に、さとられぬように射点を確保し、そっと構えて機を伺う邪弓隊には、その気配は魂をゆさぶる大波として感じられる。
 歩みを進めるほど、その気配が長々と身体を横たえた龍のように迫ってくる。
 事前に知らされていたのだが、尾張攻めの今川の軍勢は、いくつもの砦を攻略する俊英松平元康、後の徳川家康の三河勢を先鋒に、実に二万とも四万とも見積もられている。
 信長には軍師はいなかったとされているが、しかし信長の周りにはその策を立てるための集団がいた。邪弓隊という暗殺に使える狙撃集団とともに、歴史に埋もれた、経済に明るい商家の若衆の集団である。
 信長は吉法師時代、賭場で博打を楽しむうちに、彼らと出会った。
 彼らを表す言葉もなければ、彼らの役割を理解する史家も当時いなかったため、すべては歴史の闇に消えたが、彼らは基礎的な経済学を使うことができた。
 楽市楽座といいながら、良い機能をする座には保護すらした多くの後の経済施策も、彼らが密かに信長に話したことである。
 だが、信長はそれを秘蔵とし、それを明かしたことはなかった。
 腹心の部下にもである。
 そして、その経済の力を生かすことこそが戦乱の世で暴利をむさぼる強欲どもを討ち果たし、働く者に報いる手段だと信長はわかっていたし、のちに出会う宣教師ルイス・フロイスにしてみれば、なぜ信長が異端児とされるかわからないほど率直で開明的で、合理的であった。
 信長は正直であった。邪弓隊を作る夢を語ったきっかけの祭りの夜の覗きも、元はといえば肉欲であったし、その若き肉欲を語ることは今に至るまで若者の夜の過ごし方である。そのときの信長の言葉も、また率直であった。
 ――ああ、あんな女どもを抱きたいなあ。
 あからさまな言葉だったが、それに市兵衛も、ああいう若い女、それも幼型成熟のむっちりした身体は、何とも言えない味がありますね、と答えたのであった。
 それを聴き、也助は、俺もそう思っていたよなあと答えた。
 殿方は大変ですね、とカシは答えながら茶と酒を用意したが、信長は彼女に手を出さなかった。逆に、ご苦労、と丁寧なねぎらったのだった。
 そのとき、尾張の大タワケとさげすまれながら、親方様になるというウワサのあった彼、信長を、也助は尊敬した。
 ――あんなむっちりした女が城にいてな。着物を着ててもわかるから、たまらん。
 そいつがときどきすねをみせやがる。その奥の太股を思うと、辛抱がきつくて。
 ふんじばって襲ってしまおうかと思ったよ――。
 そう笑う信長の声は高く、あたりにキンキンと響く。しかも強い尾張弁だ。
 隠しようのないその言葉には、武芸が好きでありながら、知性でそれを御する人間の豊かさが感じられた。
 顔も、こんなもてない話をするのに、つややかな美青年の顔である。顔色は明るく、それでいながら髭をきちんと剃っている。だが、着物はそれと見てわかる派手な色彩で、目立つことこの上ない。
 その信長は、どうだ、ちょうど小銭がある、街道の湯屋で遊ぶか? と誘った。
 まあ!とカシは言ったが、也助は『男には男のどうしようもない欲があるんだ』と答え、市兵衛に眼で答えた。
「吉法師どの、やつは妻がおります。お供には私が」
「そうか」
 信長は也助を見つめた。
「おぬしもなかなか見所の多い男だ。あの田畑に立ててある杭、あれは弓を放つときの距離感を保つためのものであろう。裏庭の弓稽古の的や弓づくりの小屋の 具合もまたいい。俺は武芸が好きだ。しかし、荒くれた馬鹿は嫌いだ。その点、弓は爽快で良い。どんな荒くれ者も、一矢のもとに仕止められる」
「恐れながら、そうでもありません」
 也助もちょっと濃厚な若者の匂いに、酔ってつい言ってしまった。
「弓を当てるのは力でも狙いでもありません。的にいかに近づくかです。忍びより、間近から放つのです。しかも、放った後は追っ手から速やかに逃げるために従槍の兵に守ってもらわねばなりません。弓とは、時に卑怯なものでもあります」
「そうか」
 信長は眼を輝かせて聞き入る。
「邪な弓か。そうだな。邪弓か」
 也助は頭を下げた。
「弓道などといって、俺も教わったが、本来の弓はそうかもしれん」
「いえ、申し訳ありません、私の勝手な感覚で」
「そうでもないぞ。ちょっと考えがある。
 だが、その前に女を抱きたい。あのたわわにはち切れそうな肉色の身体に、我が潤んだ肉槍を突かねば、たまった情欲で頭が狂ってしまいそうだ。
 市兵衛ともうしたな、よい。馳走してやろう。いくぞ」
「はっ!」

 二人は夜に消えた。戦国の夜は実に暗いものだが、街道では商才に長けた者のもつ湯屋があり、湯女と呼ばれる女が背中を流す風呂があり、しばしば彼女たちは心付けと引き替えに背中だけではないところも洗い、そして肉欲も満たしてくれるのであった。


 それを見送ったカシは、深く息をして、その後笑った。
「あのお方、欲情してらしたから、私をむさぼるかと思ったのに、意外に慎んでらしたわ。ちゃんとあなたと私に礼をなさっていた。ほんと、ドキドキしちゃった」
「そうだね」
 也助は、カシを抱き寄せた。
「大うつけ 意外なほどに つつましき、ということか。
 よその国では部下の妻を戯れに痛めつける主もいるという。
 でも、ああいうお方がこの国を治めてくれれば、優しい世が生まれるかもな」
「そうね」

 そして、真夜中の月に照らされる道を戻ってくる声が、聞こえた。
「邪弓隊だ。いいぞ」
 信長の声だった。
「なんですか」
 也助がそう聞くと、信長は話し出した。
 今までの弓道とは全く別の考え方で、敵の急所をねらい撃つ、真の狙撃弓兵隊。
 それが、邪道の弓を使う、邪弓隊だ。
 隊列も組まず、少人数で、まさに狩りをするように散開し、2名の弓兵は一人が一撃し、はずしたらもう一人が再射撃する。
 そして、その2名の弓兵が射終わるまえに、別の2名の弓兵が矢を放って援護し、なおかつ射終わった弓兵を従槍兵が守りながら別の射点に移動する。
 それを4組で連携して次々と射続け、敵を混乱のうちに仕止める。
 名乗りも上げず、密かに近づき、密かに逃げ、密かにまた射る。
 その発案に、3人は、身分が違っても興奮した。


 そして、也助と市兵衛は、幼なじみの仲以上に連携を考え、身体に仕込んだ。
 もともと也助の家は狩人の家だった。
 だが、也助が山を猟で巡っていたとき、峠を越えようとして無理をしたカシたちに出会い、その命を救ったところ、次第に彼は里に暮らしたく思ったのだった。
 也助自身、父に連れられて山に入って狩りを覚えたものの、里の人々の暖かさと、冬は凍てつき、夏は虫にたかられる山の生活のめまぐるしさに心がついていけなかった。
 確かに狩りは覚えた。
 もっとできる技もあるだろう。
 だが、それを毎日は出来ない。

 そして、この廃屋となっていた農家に棲み付き、野良仕事と開墾を始めた。
 それにいつのまにか市兵衛も加わっていた。
 市兵衛は、一番槍ならぬ貧乏槍と言われ馬鹿にされていた。
 父母の記憶も忘れていたが、槍の技芸だけは忘れていなかった。
 市兵衛は居候としてカシと也助の家にいて、也助の繊細な弓兵としての手では出来ない力仕事に奮迅し、その3人の家は、食っていける程度には作物も取れた。
 近隣の家とも力を合わせ、豊かと言うほどではないものの、飢えはしなかった。
 だが、土侍の抗争で畑を荒らされることがあった。
 それまでこのあたりでは土侍の悪行を止める者はおらず、本来助けてくれるべき領主は織田家だの斯波家だの家督争いだのとあけくれ、不在が多かった。
 そこで、也助は弓を使った。
 市兵衛が、槍でそれを援護した。

 野山を駆けめぐる大猪を一撃で貫く山狩人の放つ矢である。
 荒くれ刃物を振り回して人を脅すだけの土侍には、苛烈だった。
 矢は、一撃で土侍の首を貫き、勢いがその首をはねた。
 その惨劇に、ほかの土侍どもは、おびえきって退散し、もうこなくなった。

 しかし、それを聞いた領主や賭場を開帳する者が、2人を何とか戦や賭弓に使おうとして、金品をちらつかせた。
 それを2人は断った。そんなことをしなくても、カシの身体を気遣った也助はつつましい暮らしに満足していたし、市兵衛も野良仕事の作物を売りに行っては街道の湯宿屋で湯女と戯れるだけで十分楽しい日々だった。
 それが、次第に守護大名の斯波家が衰え、守護代の織田家も内紛を起こし、裏切り裏切られと武家の争いが商いを営んだり、モノ作りをしたり田畑を営むみなに波及し始めた。
 迷惑な話だ、と皆言っていた。
 よその国では、あまりのひどさに人々がそういった武家を追い出したなどと聞いた。
 でも、也助たちの村では、そういった力は生まれそうになかった。
 也助も、そんなことに関心を持てなかった。

 だが、信長の言葉は、也助を動かした。
 若衆で農閑期のみ侍をしているもののうち、何人かを集め、弓を教えた。
 ともに野良仕事をしながら、樹々を意図して見つめることで眼を鍛えさせ、等間隔に打った杭を目標に距離感覚を養った。
 その杭は、野良仕事の田畑に、三間ごとに立てた。
 一間が六尺、明治期以降で言う約1.8メートルであるので、三間は十八尺、約32メートルである。我々平成の現代人が例えるなら、現代の電柱の間隔がだいたい30メートルなので、それぐらいである。
 也助はその三間を覚え、邪弓塾では、その三間以内に忍び寄れと訓練した。
 京都の三十三間堂の通し矢というものがある。
 三十三間堂の約120メートルの廊下をまっすぐ射抜くというもので、それが出来る者が弓の名手とされる。
 だが実戦では、その廊下のようには行かない。
 風は吹くだけでなく巻くことすらある。ましてや現代で5本先の電柱を狙うのは、確かにオモテの弓道では名手かもしれないが、実戦の狙撃は強い風の吹き込まない廊下とは違う。矢は銃弾よりも大きく風にながされる。
 そして、相手に一本射てはずせば、狙撃されたことが知られ、防御と反撃を受け、もう奇襲狙撃は出来なくなる。
 狙撃の場合は、一本目で当てなければ、次はない。
 そのためには、悟られずに近接し、至近距離から射ることだ。
 皆が弓の名手で、風の乱れを修正できれば、遠くからでもいいと思えるかもしれない。
 だが、戦場ではそんな名手でも、しばしば目測を誤る。
 それなら、接近する勇気を養うほうが、多少下手で力が弱くとも、確実に当たる。
 それが邪弓隊を任された也助の結論だ。
 もちろんそんなに都合良く茂みや灌木があるとは限らない。
 そこがまた邪弓の邪弓たるところで、何もないところでは伏せて射たり、低い木でも幹に身体を預けて隠して射る訓練をした。
 織田家の中でも、弓の師範はそれを聞いて、『なんたる外道』と蔑んだ。
 故に、邪弓なのだ。

 力のあるものには市兵衛が槍の稽古をつけた。
 そして、穂先に布玉をつけた矢と、張力を落とした弓を使い、弓兵2名と従槍兵一名の組を作り、互いを捜しながら射あって、地物を利用する術を学んだ。

 それは皆、大きくは口にしなかったが、密かに邪弓塾と呼び合い、はげんだ。

 それが進むころ、世の中、尾張の国は変わっていた。
 家督争いが激しさを増し、その争いに投じる金と兵糧の用意をするべく、年貢が増えた。
 皆こらえるしかなかった。

 そして、祭りの夜に互いの情欲を笑いあった吉法師は、元服して織田上総介、信長と名乗り、政略結婚をしていた。

 信長はその後、余り言われないことだが、面をかぶって人前に出るようになった。
 それで、也助に会いに来た。
 黙ってこのものを射殺してくれ、ととある人相書きを見せた。
 驚いた也助に、信長は面を取った。

 也助はさらに驚いた。
 あのつややかに、健康そのものだった顔が、老人のようにこけていた。
 「すまない」と信長は謝った。
 「あの祭の夜が遠くなってしまった。
 家督争いなど、もうたくさんだ。
 それどころか、その外側に十重二十重に戦国の争いがある。
 たまらない」
 信長は嘆いた。
 「でも、これを超えない限り、君たちの年貢も増え、田畑は荒れ続ける」

 也助は、頷いた。

 そして、川狩に出ている武家の男を、也助はその弓で射抜いた。
 信長の策は、そこから一気に進んだが、その詳しくは、也助はわからなかった。
 村では多くの衆が噂しあっていたが、誰もその織田宗家乗っ取りの計画のきっかけの一矢を放った者が也助であることを知らなかったし、彼も言うつもりもなかった。
 ただ、見事射抜いたのにわき起こった何とも悪い後味と、思い出すたびに痛々しくすらある信長の憔悴の顔が、也助を疲れさせた。
 だが、カシはそれをわかっていて、帰ってきた日と次の日には卵を用意し、滋養と愛で也助を助けた。

 そんなことが何度もあった。
 また、市兵衛も信長の相談を密かに受けていた。
 織田の槍と呼ばれる長槍の発案は、市兵衛のものだった。
 あとで別の武芸者の仕事とされたが、それは信長が真の懐刀とした邪弓隊の秘密を守るためであった。

 そして、信長の戦う相手は、ついに駿河の戦国大名・今川義元となった。


 今、也助と市兵衛の邪弓隊は、その今川軍の間近に迫り、本陣へ向けて、その長くなった隊列の脇を駆け抜ける。。
 雨が降り続いている。空を見上げると、すこしずつ止みそうだが、獣道を歩く邪弓隊は、雨で何度も顔を濡れた葉でなでられ、わかっていても不快だった。
 狩人の家に生まれたとはいえ、我慢を強いられることにかわりはない。
 だが、次の瞬間、也助は総毛立った。
 感づかれた!
 白み始めた空のもと、手信号で也助は隊を散開させた。
 この気配は、三河者だ!!
 さすがだ、ちゃんと斥候を出して警戒している。
 今川者はもう織田者がここまでこられないと高をくくって休んでいるのに、その先鋒で砦攻めを繰り返し疲れ切っているはずの三河者が、しっかりと臨戦態勢でがんばっている。
 これは手強い、と思ったときだった。
 オオカミの遠吠えがした。
 ――いや、これはオオカミの声に似せた人の声だ。
 懐かしい、山狩人の暗号だ。
 也助は耳を澄ませた。
 ――我らは疲れきっている。
 貴様たちには負けはしないが、しかしともに生き残れない。
 そこで、貴様たちに手柄をやってもいい――。
 也助はわかった。
 これは、信長もわかってくれるだろう。
 三河者の手強さも、義理堅さも、信長は知っている。
 ――了解した。
 我々も貴様たちとやりあいたくない。
 我が的は、貴様たちとは別にある――。
 ――本当か?――
 疑問が帰ってきたが、也助は答えた。
 ――山狩人同士に嘘はない。それが山の掟のはずだ――。
 オオオーン! という素人や武家者には本当のオオカミのものにしか聞こえない雄叫びが二つ、あけつつある空に響いた。
 そして三河者の闘気が去っていく。
 行くぞ!
 也助の小さな声をうけ、藪の道を、邪弓隊が急ぐ。

 濃厚な大軍の気配が、ますます強くなる。
 頬を打たれるような、ものすごい気配だ。
 地形は細長い谷、桶狭間というまさに狭間になっていて、そこで隊列が長細く分散している。
 織田はその今川の軍勢の数を知っていた。
 今川の戦費を、諸国の商人の連携で割り出し、それで人数を推計したのだ。
 商人たちは、今川の古い体質では商いが傾くことを感じ、織田に賭ける者が増えていた。
 大勝負の影では、金も人も動く。

 二番弓の兵が弓を両手で少し持ち上げ、合図した。
 皆がそれにしたがい、警戒する。
 ――何でありますか、妙な気配がします。
 也助は側弓の哲平の小声に頷き、答えた。
 ――ああ。喇叭(らっぱ)だ。
 後に言う忍者すらも信長は味方にしていた。
 喇叭が状況を知らせる。
 ――熱田神宮を出発した本隊は全速でこちらに向かいつつある。
 昨晩から義元の本陣を監視していた。動きはない。
 だが、我らの仕事はまだだ。
 おまえたち、邪弓隊の誘導まで仕事のうちになっている――。
 茶色と緑の不思議な模様の影が、くぐもりながらも通る声で言う。
 ――お互い苦労するな――。
 也助はねぎらった。
 ――卑怯者と使い捨てにされてきた我らを拾ってくれたのは、織田と三河、北条だけだからな――。

 一行はついに桶狭間を見下ろす稜線の間際まで迫った。
 ご苦労と喇叭と別れた邪弓隊は、織田本隊の迫る前に義元を仕止めるために、言葉少ないながら、射点を決めた。

 第一射はだれ、あの茂み。
 続いてはその左側の木陰。その後ろの鶏小屋が第二射の射点だ。

 訓練を積んだ皆である。すぐに理解した。

 ――この矢にすべてかかっている。
 仕止めろ。稽古のつもりで、皆でやれば必ず仕止められる。
 それと――。

 皆が也助の口元に注目した。

 ――矢を射ると思うな。
 手を弓と矢に添えるだけで良い。あとは弓が矢を自然に送り出してくれる――。
 皆が頷いた。
 そこまで皆、緊張しすぎかねないほど、熟練しているのだ。


 也助は本当は一番弓になりたかったが、年長者として皆を連れ帰るため、末弓となって皆の射点転換を全て援護できる後方の茂みに位置した。
 皆、具足と呼ばれる武装の上に、網をかぶり、小さな褐色の布切れをまとって偽装している。
 それが黎明と呼ばれる夜明けの暗がりを移動する。
 訓練し、闇になれていないと道すら見失う。
 それを通り、ついに今川義元の旗印まで、矢が届く距離よりも近く、旗印の下で三河者の活躍をサカナに宴をしていた今川者の顔が見えるほどに接近している。

 一番弓、二番弓、三番弓、末弓と、三人ずつ、身を潜め、警戒しながら進んでいく。
 皆、よく也助の教えを守っている。
 これがなんともじりじりする一時一時である。
 とくに、こうやって気づかれていないようなときが一番危ない。
 ふっと気のゆるみが入る瞬間だからだ。
 ゆるんだら、終わりだ。

 一番弓は、陣幕の中が見下ろせる本陣となった豪農の家の屋根まで進むことにしていた。
 すこしずつ明るくなった空に、炊事で起こされたのか、煙がのどかに立ち昇る。
 薄明かりに点在する農家や灌木、そして田畑が広がる。
 そして、今川の紋を染めた白い陣幕が張られている。
 本陣である。その幕の中から、義元の旗印が顔をのぞかせている。
 幕で囲われた陣の側には、警護の兵がいて、警戒している。
 まさに敵のまっただ中である。
 ヘマをすれば、あっという間に討ち果たされてしまう。
 ――うまい!――
 一番弓が、音も立てずに、屋根に上る。
 その従槍が、小さく合図をした。
 射点確保。配置に付いた。射撃合図を待つ。
 4群の弓兵小組が、射点につき、ほかの小組を確認、援護体勢を取り、標的の様子を伺う。
 その一番弓の従槍は、一番気心知れて、武勇もある市兵衛である。

 ところが、そのあとに也助はぞっとした。
 その真下に、陣羽織の今川者が現れたのだ。
 也助はすぐに援護のため、弓を構える。
 彼の次すぐにに援護の矢を放てるように、側弓と呼ぶ也助のペアの弓兵も構える。

 今川者は気づかず、屋根の下の壁に向けて、小便を始めた。
 のんびりとしたものである。
 しかし、也助の弓は、ぴったりと彼に狙いを定めている。
 さらに窮地に陥った。
 もう一人、陣羽織の今川者が来たのである。

 市兵衛たち一番弓は、逃げるべき屋根の下をふさがれた。
 也助は息を整えた。
 ――一気に2人を自分と側弓で射殺してしまうか。
 そうはうまくいかないだろう。
 人生でそれを学んだ。
 こういうときほど、あがけばあがくだけ事態が悪くなる。
 状況が変わるのを待とう。
 神仏に頼みたいが、この射線上にとらえられているとも知らずに小便をしている今川者にも、神仏がいる。
 ――神仏は平等だ。
 だから頼まない。頼むときはよほどのときだ――。
 信長の言葉だ。
 その信長の本軍が熱田神宮に祈り、そしてもうすぐここに雪崩込む。
 それまで息を潜め、待つか。
 本軍! 親方様! まだですか!
 そのときだった。
 あれは? 狩衣だ! 義元だ!
 眼に鮮やかな公家の服装、狩衣をまとった男が。その小便の2人の武家のもとにやってきて、白く息を吐きながら小便を始めた。
 胸の白い鎧に八龍の模様を打ち込んだ五枚兜でもなく、赤地の錦の陣羽織も着ていないが、間違いなく義元だ。
 海道一の弓取りであり、内政に優れ、家格の高さを誇る戦国でも有数の武将、今川義元。
 さすが4万の軍を率いる者にふさわしい、堂々とした体格だ。
 それは優雅な狩衣をまとっていても、高貴さと力強さがあふれるように見える。
 近づいているとはいえ、これほどにその気迫が伝わる人物は、也助としては信長しか会っていない。
 戦とはそういうものだ。
 そこに、ノンビリと用を足しているところに、将としての激務をこなした疲れをとりつつある様子がはっきりと見える。
 戦国の世、影武者もあれば、偽の陣もある。
 しかし、それを密かに接近して確かめ、襲う。
 卑怯かもしれないが、それが邪弓隊の本領だ。
 迷いはなかった。

 時を変える矢を、放つ。

 みなが狙った。
 息を整え、じわりと引き絞る。
 テッ!
 合図とともに、4群の弓兵が、まず第一斉射で4本の矢を放った。
 パッという弓の弦の音にはじかれた矢は、すうっと風に乗ってまっすぐのび、、それが義元に集中し、うち2本が深く突き刺さった。
 ――急所をはずしたか!――
 義元は即死はしなかった。
 そして、苦悶からか、身体を折り曲げながら、自分を射抜いた弓兵を捜すそぶりをみせた。
 一瞬、その視線が也助をかすめた。
 しかし、それが、くるりと回転し、天を仰いだ。
 そして、第二斉射の4本の矢が、容赦なく彼に突き刺さった。
 それが、義元の最期だった。

 その第二斉射を放ち、その様子を、敵ながら哀れと見つめる也助の隣で、側弓が息を変えそうになった。
 まだだ! まだ緊張は緩められない!
 也助は矢を矢筒から引き、すぐに第2射を射られるようにし、側弓も意図を悟ってそうした。
 4群の邪弓隊は、標的をとらえても、まだ息を潜める。
 義元の射殺に今川者が驚いているが、酒が深かったのか、みな狼狽しながら、よろけている。
 新目標、左の陣羽織。一撃で。
 也助は側弓に目標を小声で指示し、その第2射を準備し、その後で側弓がはなった。
 ひょうっ! と小気味良いはずの弓の弦の音が、残酷に鳴り、放たれた矢がその武者の胴を鋭く深く貫いた。
 長い戦矢が、よく鍛えられた弓にはじかれ、極高速で標的に突き刺さるのだ。
 その力は、かつて也助が土侍に放った矢と同じく、勢いで人間の身体を引き裂く。
 もう一人、市兵衛の一弓の下で小便をしていた武者も、射抜かれた。
 その撃ち倒される物音に気づいたのか、本陣の内の気が騒ぎ始めた。
 撤収!
 市兵衛が視線をこっちに向けた。
 ――大将首は取れない。
 くれてやれ。
 ほしいだろうが、それをゆずるのが、
 わが邪弓隊だ――。

 市兵衛は納得し、一弓の弓兵2名と離脱のすきを探り出した。

 どうやって脱出させる?
 目標に近づきすぎた。
 義元狙撃は成功したが、これはまずいかもしれない。

 そのときだった。
 法螺貝の音が一斉にわき起こり、それまで邪弓隊が張りつめていた気配の線をかき消すような大音声で、桶狭間を埋め尽くした。
 気が付くと、雨が晴れていた。
 そこに大勢の足音と、信長の甲高い声が繰り返し響いた。
「かかれ、かかれ!」
 やった! 本隊だ! 親方様だ!

 ときの声とともに、稜線を本隊の兵がなだれて今川本陣に突撃する。
 もう義元の命はないが、しかし、彼らが本当の、誰でもわかる歴史を作るのだ。

 だが、その歴史を開く矢を、自分たちが、放った。

「撤収!」
 邪弓隊は背に畳んでいた旗指物を立てた。
 織田の木瓜の紋と、髑髏に矢の邪弓隊の指物だ。
 本隊が槍を突き出しながら、ついに本陣に突入した。
 彼らが、邪弓隊の織田の紋に一番槍を越されたと思ったらしく、悔しがろうとした。
 だが、市兵衛が大きく合図した。
 その先に、息絶えた義元がいる。
 本隊が殺到し、陣幕を破り、急襲にあわてるほかの部将を次々と討ち取り、そして市兵衛の示す義元の元に達した。
「今川義元、討ち取ったり!」
 勝ちどきが上がるなか、市兵衛たち一番弓は無事屋根を降り、ほかの邪弓隊も射点を去り、本隊を残して撤収する手はずになっている。

 邪弓隊の任務は終わった。
 弓をおろし、存在を知られることなく撤収しようとしたそのとき、信長の旗印がやってきた。
 親方様!
 見上げたみなに、騎馬の信長は、馬上で片手をぐっと突き上げて答えた。
 満面の笑みのその信長は、かつて仮面をかぶっていたときからずいぶん回復した、明るい若武者の顔だった。
「やったな!」
 信長の言葉に、邪弓隊の皆が、潜め続けてきた声を上げた。
「やった! 」
 信長はそのまま本隊を率い、桶狭間に駆けるが、その傍らのものたちは、妙な場所で勝ちどきを上げる邪弓隊に怪訝な顔をした。
真実を知るものは、信長と、邪弓隊のみなだけだ。
 そして、信長は馬を御するのももどかしくそうに、馬から下りて今川本陣に駆け込んだ。

 公式には、義元の首を取ったのは毛利新介で、しかも義元は最後の抵抗で彼の人差し指にかみつき、食いちぎったとされる。


 邪弓隊の活躍は、多くの狙撃チームと同じく、歴史の影に秘され、今に至るのである。



<織田邪弓隊・了>
2008年2月22日ウェブ公開

奥付



織田邪弓隊


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著者 : 米田淳一
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