閉じる


(1)

 聡(さとる)くんの家にはお菓子がない。お母さんが、「子どものうちから砂糖や添加物の味に慣れさせると中毒になる」といって、どんなにねだっても買ってくれないのだ。それどころか、おばあちゃんや近所のおばさんが持って来てくれた分も、こっそり食べるなり人にやるなりして早急に処分してしまうといった案配だった。

 小遣いはもらっていたが、事前に何を買うかを申告し、購入後はレシートを見せる必要があった。もちろん、素直に「お菓子」と言えば言語道断で却下されてしまう。レシートかお金を落としたことにすれば誤魔化せないこともないけれど、聡くんは心の中で考えていることがすぐ顔に出る質だったので、嘘を吐いてもお金を受け取る前に見抜かれてしまうのだ。

 しかし、小学校から帰ってきて家でひとりで過ごしていると、どうしても何か食べたくなってくる。聡くんはひとりっこだし、お母さんは仕事で夕方まで帰ってこない。その上、小学校にも遊び相手と呼べる子はひとりもいなかったので、なおのこと口寂しい時間が長かった。

 それで、自然と台所を徘徊する癖がついた。

 台所にはお菓子代わりになるものが意外と多い。出汁用の煮干しや昆布は歯ごたえと塩気が欲しいときに、練りごまはねっとりとした舌触りとほのかな甘みが心地よく、手っ取り早く砂糖を舐めるのもいいけど、最近は乾燥わかめをパリパリするのがお気に入りだった。

 だけど最近、学校の外に友だちができた。放課後はその友だちに会いに行くようになったので、それに伴い、台所の食料を物色する頻度は減った。

 放課後になると、聡くんは家の裏の砂浜に直行する。ガードレールの脇に自転車を留めて、スニーカーを履いたまま浜辺に降りていくと、木陰になっているベンチで足をぶらつかせているメイちゃんの姿が見えた。

「あーあ、待ちくたびれちゃった」

「ごめん、掃除当番の日だったんだ」

 聡くんはランドセルを肩から下ろして、メイちゃんの隣に腰かけた。


(2)

 ベンチから波打ち際まではけっこうな距離があって、時折、潮の香りが風に乗ってやってくることはあっても、波の音は聴こえない。

 メイちゃんは海が好きなくせに、水に濡れることが嫌いらしく、いつも神経質なまでに水を避けていた。ワンピースはビニール製だし、雨の日は絶対に姿を見せない。それに、聡くんが知っている限り、水分を口にしたことがなかった。

 聡くんが心配して水筒のお茶を飲ませようとしても、首を振るばかりで受け取ろうとしない。

「熱中症になっちゃうよ」

 心配した聡くんが忠告しても、「ならないの」と意味ありげに唇の前に人差し指を立てるのだった。その唇は、いつも乾いて、うっすらと血が滲んでいた。

 ふたりのお気に入りの遊びは、ベンチに座ったまま、景色の中にあるものに擬態して会話をするというものだった。

 その日は聡くんが砂上にぶちまけられた焼きそば、メイちゃんがそれをついばむカラスの役だった。

「しまった、船が転覆してしまった」

 聡くんが唐突に会話を始める。焼きそばに覆いかぶさるようにして落ちている透明パックを船に見立てているのだ。

「こちら救助隊のカラス一号。これより焼きそば客船の救助にかかります」

 メイちゃんが言い終わらないうちに、カラスがソースの絡んだ麺を何本か口に咥えた。あたりをうかがいながら、頭を振って器用に飲み込んでいく。

 聡くんはそれを見て、手品師のようだと思った。カラスと同じように首をリズミカルに揺すりながら、長い棒を飲み込んでいくのを、いつかテレビで観たことがあったのだ。

「飲み込んだら、救助にならないよ」

 我に返った聡くんが、思わず噴き出した。

「あら、現実という悪夢から救い出してあげたのよ」

 澄ました顔でメイちゃんがいい返す。

「なにそれ、中二病っぽいよ」

 聡くんは呆れたようにため息をついたものの、内心では、最近覚えたばかりの言葉を使えたことに満足していた。 


(3)

 聡くんが、次をどう続けようかと考えたそのとき、カラスがくちばしから焼きそばを垂らしたまま、行儀悪く飛び立った。いつのまにかあたりは薄闇に包まれている。

「雨が降りそうだね」

 空一面に灰色の雲が敷き詰められているのに気づいて、聡くんが立ち上がった。

「まずいわ」

 メイちゃんが、いつになく深刻な声でつぶやく。いつもならワンピースのフードをかぶって水滴に備えるのに、今日はそれすらしようとしない。ただ、見開いた眼で、海の一点を凝視していた。

「メイちゃん、帰らなくていいの?」

「もう、まにあわない」

 どういう意味、と聡くんが問いかけるまもなく、目の前の海が大きく膨らんで、少年少女に襲いかかった。

「息を止めて。いい? 何があっても絶対にあたしから手を離さないで」

 海に飲み込まれる直前、メイちゃんはそう聡くんに耳打ちしていた。聡くんは素直に従うつもりだったが、実際は、メイちゃんの方が彼の手首をきつく握り締めて、決して手離しそうになかった。

 メイちゃんの忠告のおかげで、聡くんは水を飲まずに済んだ。突然、水の中に引きずり込まれたことに恐怖を覚えないでもなかったが、はっきりとそれを感じる前に、興味を別のものに奪われてしまった。

 聡くんの手に噛みついていたメイちゃんの手が、明らかに膨張し始めたのだ。手は、みるみるうちに成長して、聡くんのカラダ全体をぎりぎりつかめるくらいにまでなった。

 水を破る音が鼓膜に響いたかと思うと、聡くんはもう呼吸を取り戻していた。いつのまにかメイちゃんの肩に乗せられており、真下に波の頭が蠢いているのが、髪の毛の隙間から見えた。その髪も、一本一本がひじきくらいの太さをしており、一連の流れを知らなければ、聡くんは海藻の一種くらいにしか思わなかっただろう。


(4)

 やがて波が引くと、聡くんは静かに砂浜に下ろされた。

「あたし、帰らなくちゃ」

「帰るって、どこへ?」

 その「帰る」が、これまでとは違う意味であることくらいは、聡くんにも理解できた。

 聡くんと視線を合わせるように四つん這いになったメイちゃんは、巨大化の過程で衣服を失ってしまったらしく、一糸纏わぬ姿となっていた。

 つるんと凹凸のない肌は、いやらしい感じではなかったけれど、それでも小学生の男の子には刺激的だったらしく、聡くんはなるべくメイちゃんの顏から目をそらさないように意識する必要があった。

「もちろん、海へ。あたし、人間じゃなくてわかめなの。驚かせてしまってごめんなさい」

「それの何が問題なんだよ」

 本当はわけがわからなかったが、おどろいてしまったら彼女が去ってしまうような気がしたので、聡くんはなるべく平生を装ってたずねた。

「このカラダよ。こんなに大きくなってしまったら、人間に紛れていられないじゃない」

「もとの大きさには戻れないの?」

「吸ってしまった水分をすべて蒸発させれば戻るかもしれないけど……」

 聡くんは、いまでもたまに食べている、乾燥わかめのパッケージに書かれた注意書きを思い出した。そういえば、水に浸けると十倍に膨らむって書いてあったっけ。

「だったら、ぼくの家へ行こう。母さんの長髪が一瞬で乾く、すごい威力のドライヤーがあるんだ」

 聡くんはメイちゃんの二の腕に抱きついて訴えた。しかし、彼女は力なく微笑んで首を振った。

「たどり着く前に見つかってしまうわ」

 メイちゃんはそれだけ言い残すと、聡くんに背中を向けて、一度も振り返ることなく海の中へと消えてしまった。

「いつか海ごと蒸発させて、絶対にお前のこと見つけ出してやるからな」

 波打ち際に取り残された聡くんは、ぽつりとそうつぶやいた。唇を舐めるとしょっぱい味がしたけれど、それは決して海水に濡れたせいではなかった。


この本の内容は以上です。


読者登録

水流苑まち(つるぞの・まち)さんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について