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猫の声1

 

 
 これは、とある女性の体験談です。
 僕とは、ある同人サークルつながりで知り合った方から聞いたお話しなのですが。
 その方は僕なんかよりずっと売れている方で、ベストセラーというほどのヒットは少ないらしいですが、商業出版でもご活躍されている方です。
 僕が同人ゲームのために怪談を蒐集していると知ると、丁寧なメールを送ってくれました。
 
 彼女、仮にここで麻衣さんとしておきましょうか。
 現在、三十代半ばの彼女が、二十代の前半に体験した出来事だそうです。
 時間的には今から十年ほど前になるでしょう。
 
 これは彼女の送ってくれたメールに加筆修正をしたものです。
 人物の特定ができないよう、一部を修正していますが、おおよその筋はそのままです。
 僕からも事実関係の確認に何度かメールを送ったので、一度に語られた内容ではないのですが、まぎれもない体験談です。
 それでは聞いてください。猫の声。
 
 そのころ私は駆け出しのシナリオライターで、ちょこっと出版関係のお仕事をしたり、乙女ゲーのシナリオを書いたりしていました。
 その一軒家を紹介されたとき、それは築十五年ほどの物件でした。
 不動産屋さんから紹介された物件ではなく、土地建物の所有権を持っていたのは私のおばさんです。
 
 短大を卒業して、ティーンズ向け雑誌の記者から、作家に転身したばかりの私はとにかくお金が無くて。
 都心で家賃を支払いながらの生活はとても大変でした。
 そのことを母の姉であるおばさんに話したら、ちょうどおじいちゃんから相続した貸家が空いているよ。と入居を勧められました。
 そこは、埼玉の郊外にあるベッドタウンの貸家で、東京までは電車で一時間と少しかかる立地でした。
 
 都内へ通勤も一応できるくらいの場所ですし、たまに出版社の人と打ち合わせをしに東京へ行ければ良いので、私はこの話にすぐ飛びつきました。
 少々古びてはいましたが、寝室も広くとれるし、書斎も作れる。キッチンや庭も独り身の私には贅沢過ぎるほどでした。
 アパートではこうはいきません。しかも家賃は格安です。
 
 通常なら新しい借り手ができたら、その前にリフォームして、壁紙を張り替えたり、畳の入れ替えやトイレやバスなどを新しくするところです。
 しかし、十年以上続くデフレ不況でその費用も馬鹿にならないとおばさんは言いました。
「一応綺麗に掃除するから、リフォームまではしなくてもいいわよね?」
 と、おばさんは言うので、もし痛んでるところがあったら自分で修繕しますと私は答えました。
 
 そんな感じで、私が入居する時には、多少壁や床に傷みたいな跡がありましたが、綺麗に掃除されていて、住むには問題はなかったんです。
 寝室にしようとしている一階の部屋は広くて日当たりも良いし、書斎にする予定の二階の部屋も静かで風通りもよかったんです。
 
 おばさんが言うには母屋の方はほとんど問題はないと言いました。
 ただ離れにある物置だけは片付けきれず、前の住人が置いて行った物がまだそのままだと言いました。
 その話をしたとき、おばさんは少しだけ考え込むようなそぶりを見せ、その後にこう言いました。
「用がないならあまり物置に近づかない方が良い」……と。
 
 除草剤の様な薬品類があったり、鎌やノコギリなんかの刃物類がむき身で置いてあるから危ないんだと、おばさんは言いました。
 あと……と言いよどんで、私が何? と聞くと、いや、なんでもないわと言いました。
 とにかく、物置にはあまり近づかないでと、念を押すようにおばさんは言いました。
 その時、私はそのことをあまり深くは考えませんでした。
 
 入居したその日から、私はその家での生活に満足感を感じました。
 付近は静かな住宅街で、電車や車の音もあまりせず、時々子供が遊ぶ声が聞えましたが、気になるようなものではありませんでした。
 春先で暑くもなく寒くもない良い陽気が続いていて、その時の私は体調もすこぶる良かったと記憶しています。
 
 書斎の机にノートパソコンを置き、本棚に置いた資料を時々見ながら、執筆をして。
 お腹が減ったら一階のキッチンで簡単な料理をして食べました。
 
 寝室が日当たりのよい南向きにあり、北側にキッチンがあり、キッチンの北側の窓の向かいが物置でした。
 アルミのプレハブの特に変わったところはない普通の物置でしたが、築年以上に古びて見えたんです。
 物置のある場所は、日当たりも悪く、うす暗く、どこかジメジメしていて、私は一目物置を見た時に嫌な印象を受けました。
 
 ことが起こったのは、入居から一週間ほどが経った。夜の事です。
 午前中は執筆をして一度軽い食事を挟んで、夕方まで書き続けました。
 日が陰り始めてから、さすがに疲れを覚えて休憩しました。書斎でゆっくりと本を読んで、夕食を作って食べました。
 辺りが夕暮れに包まれてきました。とても静かな時間です。
 
 ふと、キッチンの北側の窓の向こう、例の物置の辺りから、猫の鳴き声がするんです。
 仔猫の鳴き声の様にも聞こえましたし、普通の成猫の鳴き声の様でもありました。
 
 私はすぐに思いました。たぶん物置で猫が子供を産んだんじゃないかって。
 野良猫だろうか? たぶんそうじゃないかと思った。飼い猫なら他人の家の物置で子供を産んだりしないだろう。
 
 食器を洗い終わったあと、私は物置を見に行きました。
 にゃーにゃーと、確かに断続的に猫が鳴いていました。
 北向いのお隣さんの家からではなく、やっぱり物置の中の様でした。
 
 物置は閉まっていました。
 庭の手入れに道具を出すため何度か開け閉めしていたし、カビ対策で引き戸を開けていた時があったので、その時に入り込んだのかなと思いました。
 猫を驚かさないように、私は慎重に物置の引き戸を開けました。
 すると、ひたっと鳴き声は止みます。
 
 その時は野良猫が侵入者を警戒して泣き止んだんだと思いました。
 物置の中は少し黴臭く、袋入りの薬剤や、プランターや鉢、ノコギリなんかが置かれていて雑然としていました。
 見たところ猫は見当たりません、鉢やプランターの影なんかも見てみましたが、やはり居ません。
 
 十数分ほど探したところで、私は猫の鳴き声は気のせいだったのかな、と思い始めました。
 猫がいるなら、少しは気配や臭いがありそうなものでしたが、何かがいる様な様子はまったくありませんでした。
 でも、確かに猫の鳴き声が聞こえたような気がする。あれは何だったのだろう?
 訝しりながらも、私は物置を閉め、母屋に戻りました。
 
 少しお酒が飲みたい気分だったので、そのまま近所のコンビニへ行き、ビールを買って帰ってきました。
 おつまみに買ってきた惣菜をお皿に移し、電子レンジで温めようとした時でした。
 にゃー、にゃー、とまた聞こえるんです。
 耳を澄ましてよく聞いてみます。やっぱり空耳じゃない、猫が鳴いています。
 
 本当にあの物置だろうか? どこか別の場所から聞こえているのではないか?
 そう思って窓を開けよく鳴き声を聞いてみました。
 やっぱり、あの物置から聞こえてくるんです。
 
 私はもう一度、物置を見に行きました。
 そのころにはすっかり日も暮れていて、真っ暗な中にそびえ立つ物置が不気味でした。
 引き戸を開けるとやはり、ひたりと鳴き声が止むんです。
 私は持ってきた懐中電灯で物置の中を照らしました
 
 やはり猫は見つかりません。
 物陰をひとしきりチェックしたあと、私は猫に呼びかけてみました。
 おいで、猫ちゃ~ん、出ておいでと。
 
 その時でした。背筋が凍るような思いだったと覚えています。
 その声が…………
 きゃはは……と笑ったんです。
 それは明らかに私の足元から聞こえました。
 猫が笑うはずはない、そう、その鳴き声は赤ん坊のものだったのです。
 
 私は慌てて引き戸を閉め、母屋へ逃げ帰りました。
 あの笑い声が耳について離れない。
 物置の中に赤ん坊がいるわけがないんです。
 仔猫の様な成猫の様な鳴き声、そう思えば最初からあの鳴き声は赤ん坊の声でした。
 
 私は母屋に帰り、少し落ち着いてから、キッチンの窓から物置を見てみました。
 もう、あの鳴き声はしませんでした。
 しかし、私の背筋が凍るような体験はこれで終わりではありませんでした。
 
 そう……その夜……
 私はお酒の力を借りて、少し早めに床につきました。
 あの鳴き声のことは、もう忘れようと思いました。
 
 ふと、夜中に目が覚めました。
 日の光を一切感じなかったし、辺りの静けさが凄かったので深夜だと思います。
 でも、静かな中から声がするんです。また、あの猫の様な鳴き声が……
 それも寝室から……
 きゃはは……きゃはは……と笑っているんです。
 
 私の足に何かが触りました。とても冷たい何かが。
 はっとして布団を見ると、足先のあたりが少し盛り上がっているんです。
 何かいる……
 その時、ふと映像が目に浮かびました。
 
 頭だけが異様に大きく、身体はガリガリにやせ細っていて、白く濁った眼をした。
 赤ん坊の死体です。その死体が猫の様な声を上げながら私の足に……
 来ないでっ! 来ないでっ! と必死に叫ぼうとしました。
 でも、声が出ないんですね。
 
 ひたひたと、冷たい感触がします。
 明らかに生きてはいない体温、それが這いずりながら私の身体を昇ってきて。
 ついに胸もとまできて、その手が私の首にかかりました。
 
 そして、一声……
 きゃはは……と笑ったんです。
 そこで、私は意識を失いました。
 
 気がついたら朝で、寝室の布団の上でした。
 信じられないくらい身体が冷たかった、異様な量の汗をかいていました。
 熱いシャワーを浴びて、キッチンへ行かないように家を出て、近所のファーストフード店へ入り食事をしました。
 なんの味もしなかったのをよく覚えています。
 
 私は携帯電話でおばさんに電話をかけ、昨日の出来事を話しました。
 ああ……やっぱりとおばさんは言いました。
 あの物置の付近で奇妙な体験をしたのは私だけではなかったようなのです。
 私の入居前にあそこに掃除に来ていたおばさんも奇妙な声と物音を聞いたといいます。
 やはり……あの物置で……
 
 おばさんの話では、以前住んでいた未婚の若いカップルが子供をあの物置に遺棄していたのだと言います。
 死体が見つかった時、頭だけは大きく、身体はガリガリだったそうです。あの私が幻視したような……
 大きな事件にこそならなかった話でしたが、付近の住人は皆知っていたそうです。
 他人に貸すとなるとその辺の話もしないといけない、でも麻衣ちゃんならとおばさんは思ったそうです。
 
 申し訳なさそうにおばさんは何度も頭を下げました。
 非常に怖い体験でしたけど、私はあの赤ちゃんが可哀想でした。
 私がおいでって言ったから、甘えたかったのかな? と。
 ついぞ人の温もりを知ることなく、捨てられて死んだ赤ちゃん。
 私は冥福を祈りました。
 
 それからすぐ、おばさんはあの物置を取り壊しました。
 跡地はお祓いして、今は花壇になっています。
 これで少しはあの赤ちゃんの魂の慰めになればいいけど。
 
 それからはもう……あの鳴き声は二度としませんでした。
 
 
 
 
 
 
 
 

 


白粉1

 

 これは僕が知り合いから聞いた話です。
 今でこそ、同人サークルやって、イラストや小説を書いている僕ですが。
 十代後半から二十代前半までは音楽をやっていて、まあロックドラムなんですけどね。
 プロミュージシャンに師事しながら、都内で音楽活動をしていました。
 
 夏のライブの打ち上げの時、ちょうど季節なんで怪談でもやろうという話になりましてね。
 みんなで不思議な体験や怖い体験なんかを語り合ったんです。
 この日の打ち上げは僕にとって忘れられない一日で、いくつも怖い話しが聞けたんですが。
 その中でもとびっきりの一篇を紹介したいと思います。
 
 お話しの主人公を仮に正則という男性としましょう。
 今はもう三十代後半くらいでしょうかね。
 僕より一つ二つ上くらいの男性です。
 当時の僕が二十二くらいで、多分正則さんがニ十四五くらいじゃなかったでしょうか。
 ちなみに僕は今年で三十五ですよ。
 
 だから話を聞いたのはもう十年以上前です。
 もうだいぶ前の話になりますが、お話しの筋は今でもよく覚えています。
 それは……こんなお話しでした。
 
 白粉
 
 その時、俺の人生はノリにノッていた。景気の悪い話もちらりほらりと聞えてはいたが、まだ世の中は熱をもっていた。
 一流企業とはいかなかったが、まともな勤め先に就職が決まり、彼女もできた。
 今は同棲していて、近いうちに籍を入れるつもりだ。
 
 季節は春真っ盛り、新緑は芽吹いて桜が綺麗な時期だった。
「お花見行きた~い」と突然美樹が言い出した。
 言うまでもないが美樹は俺の彼女だ。音楽好きで友達のライブなんかによく一緒に出掛ける。
 今どきの女っぽい元気な女子だが、意外なところで奥ゆかしい。
 俺は美樹のそんなところが好きだ。
 
 俺の住んでいるところから、車で小一時間行ったところの、山というか丘の上に桜の綺麗な公園があった。
 子供のころ家族でお花見に行ったことがある。ドライブがてらそこへ美樹を連れていくことにした。
 
 満開の桜が綺麗だった。
 俺が「綺麗だな~良い時に来たよな」と言うと。
 美樹はうんと肯いた。笑いながら。
 春物で水色のワンピースを着て、自慢の長い髪が桜に映えた。
 
 ひとしきり桜を堪能した後、公園に隣接してある蕎麦屋に入ってざる蕎麦を食べた。
 もう新蕎麦ってわけじゃなかったが、瑞々しくて美味い蕎麦だった。
 アルコールを口にしたい誘惑にかられたが俺は止めておいた。
 仲間内では平気で飲酒運転するやつもいた、かつては俺もその口だった。
 でも、美樹と付き合い始めてからは、彼女を助手席に乗せるときは決して酒は口にしなかった。
 
 周りでは結構美味そうに酒を飲んでいた。
 ブルーシートの上で宴会をやっているどこぞの会社員らしい集団もいた。
 このうちの何人かはそのまま運転をするのだろうか? 羨ましいとも思わなかった。
 俺は美樹も自分も大事にしているんだと言う自負があった。
 話を怪談へもどそうか。
 
 まず、最初の異変が起きたのは、そのお花見の帰り道だった。
 異変と言っても奇怪な現象じゃない、普通の事故だ。
 俺が事故ったわけじゃない、帰り道に事故現場に遭遇したということだ。
 
 公園から、市内の道に通じる道路は、それほどの山道ではなかったが、急な下り坂だった。
 いくつかカーブがあって、慎重に運転すればどうということはないけど、スピードを出すのはかなり危険な道だった。
 
 見た瞬間、うわぁ……こいつはやっちまったな。と思った。
 急な下りの後のカーブで乗用車がガードレールに突っ込んで、そのまま奥の大きな木の幹に正面衝突していた。
 バンパーはぐしゃりとつぶれていて、破損は運転席と助手席にまで達していた。
 
 車は標準的な四五人乗りのセダンタイプの普通乗用車で色は白かった。
 元々はそんなに小さな車じゃないと思うが、前半分が完全につぶれていて、小さく見えた。
 
 事故は起きたばかりらしく、警察や救急車が到着したばかりで、付近は通行止めだった。
 俺と美樹は車を降り、事故車の近くまで行ってみた。
 俺たちより先に事故現場に来ていた、初老の夫婦に聞いてみると、どうやら運転手はかなり酒を飲んでいたらしい。
 
 走っていた時から、かなり危なげに見えたと、夫婦の旦那の方が言った。
 運転していた男は救急車についさっき搬送されたところだったらしい。
 助手席には女が乗っているそうで、ぐしゃぐしゃにつぶれた車内にまだ取り残されているのだそうだ。
 
 初老の夫婦と話しているうちに通行止めが解除された。
 俺は夫婦に軽くお礼を言うと、夫婦はすぐに車に乗り、去っていった。
「ねえ、行こうよ」と美樹が言った。痛ましい事故を見て気分が沈んだ様子だった。
「ちょっと、助手席の女がどうなったか気にならないか?」と俺が言うと。
「きっと生きてないよ」美樹は悲痛な面持ちだった。
 
 ふと、思いついて、おれは事故現場を携帯で撮ってみることにした。
 ちょうど今、立っているところからは事故車の後ろ側しか見えなかった。
 女が乗っている助手席が見える位置まで行こうとすると、救急車やパトカーのすぐ近くまで行かないといけない。
 そこまで行く勇気はなかったから、事故車の後ろ側の写真を何枚か撮った。
 
 そんな俺を見て、美樹はしきりに止めるように言った。
 俺が無視すると、すごい剣幕で美樹が怒ったので、俺は美樹に謝り撮影を止めた。
 そうこうしているうちに女が運び出された。
 
 うわっと思った。
 運び出されるとすぐにシートの様なものを救急隊員がかけたので、女の姿が見えたのは一瞬だった。
 
 顔半分がつぶれていて血まみれだった。
 生前は美樹の様に美しかったかもしれない長い黒髪は血に濡れていて、海藻の様だった。
 ファンデーションというか白粉が効いたものすごい色白の女で、その白に血の赤が映えて気持ち悪かった。
 
 目が……目が明らかに死人の目だったんだ。
 一瞬その目と視線が合った様な気がして、おれはゾクリとした。
 女は恨めしそうにこちらを見ている様だった。
 
「正則……見た?」と言う美樹の顔面は蒼白だった。
「ああ……あれは」死んでたな。
 さすがにそれを見た後も撮影をしようとは露ほども思わなかった。
 
 俺たちは足早にその場を去って、帰路に就いた。
 帰り道の間、俺たちはほとんど無言だった。
 
 事故自体は悲惨なものだったが、よくあることだし、俺たちはそのことをそれほど引きずることは無かった。
 というか次ぎの日にはもう忘れていた。その話題は二人の会話にはもう上らなかった。
 でも、あの事故は確実に俺たちの日常に入り込んでいたんだ。
 
 その後、妙なことが起こった。最初は気になるようなものではなかった。
 俺が仕事を終え帰宅した時だった。
 寝室の化粧台の前に美樹が座っているようだった。
 少なくとも髪の長い女が座っている様には見えた。
 
 俺の家はアパートでそんなに広くはなかった。
 入口から突き当りの奥が居間で、居間とキッチンが併設している。そこが我が家で一番広い。
 二番目に広いのが寝室だ。
 
 その寝室は居間へ行く途中の中ほどの左側にあった。
 寝室の反対側にも部屋があり、物置に使っていた。
 物置のとなりがトイレで、トイレの隣がバスだった。
 
 帰宅した俺がまずすることは、スーツの上着を寝室のクローゼットにかけることだ。
 上着を脱ぎながらなんの気なしに寝室に入ると、美樹がいたのだ。
 
 その日、美樹はパートに行っているはずだった。
 しかもこんな時間に寝室にいるのもおかしい。
 普段だったら居間でテレビでも見ているか、夕食の支度でもしてそうな時間だった。
 
「美樹、めずらしいな。今日はシフト空いてたんだ」
 そう声をかけて、クローゼットを開け上着をかけて……
 次に見た時には誰もいなかった。
 
 えっ! と思ったが、俺はすぐ、なんだ見間違えか、と思った。
 確かにはっきり見えたような気がするが、その時はそんなに不気味に思わなかった。
 というか深く考えなかった。考えていれば怖かったかもしれない。
 
 それからも、度々見間違えは起こった。
 それはきまって化粧台の前に美樹がいるように見えるというものだった。
 
 それから数日後また変なことが起こった。
 美樹が突然「あんた私の白粉(ファンデーション)使った?」と聞いてきたのだ。
「ビジュアルロックバンドじゃあるまいし、俺が化粧なんかするかよ」と言うと。
「そうよね。でもなんか白粉減ってるような気がするの」
 美樹の顔はいく分青ざめていた。
 
 さすがに少し、不気味な気がした。
 何かがなくなったなら盗まれたと思うかもしれないが、白粉が減ってるなんて絶対変だ。
 でも、それが何を意味するのか、その時はわからなかった。
 決定的な出来事が起こったのはその夜の事だ。
 
 深夜、妙な胸騒ぎがして目が覚めた。
 トイレで目が覚めたというわけでもなかった。
 すぐに寝付けそうにはなかったので、俺は寝室を出てトイレへ行って、その後キッチンへ行って水を一杯飲んだ。
 
 寝室へ帰ろうと思った時、ふと妙な気配がした。気配と言うか胸騒ぎがした。
 何かいる? 俺は寝室を覗いた。
 
 美樹が化粧台に座っていた。
 右手は顔に白粉を塗っている様に見えた。
 なんだ? こんな時間にと思った。
 声を掛けようと思った瞬間ぎょっとした。
 
 美樹は……寝ているじゃないか。
 じゃあ……この女は誰だ?
 俺は背筋が凍る思いがした。
 
 艶やかな黒髪……
 でも、よく見ると美樹より幾分長い気がする。
 それもなんか湿って海藻みたいだ。
 そう……あの時の女によく似ていた。
 
 口から悲鳴が出そうになる。でも、声が出ない。
 女が振り向く、ものすごい色白で……
 顔の半分がつぶれていた……
 女はつぶれた顔に何度も白粉を塗っていたのだ。
 
 わっと思った瞬間、布団の上にいた。
 夢だったんだ。
 すぐに化粧台を見た。
 何もいなかった。
 
 全身、冷たい汗でびっしょりだった。
 その後、何度も化粧台を見ながら、俺は布団の中で震えた。
 五分経ったか、十分経ったか、いや一分も耐えられてなかったかもしれない。
 俺は美樹を起こした。
 
 起こして全て話した。
 俺より美樹は幾分か落ち着いていた。
 明かりをつけて、そのまま朝まで怯える俺のそばにいてくれた。
 
 日が昇ってから「お祓いに行こう」と美樹が言った。
 美樹の友人にこういう出来事に詳しい女の子がいて、すぐに都内の神社を紹介してくれた。
 
 事情を話してもうその日にお祓いを受けた。
 お祓いが終わった後、神主さんはその時撮った写真を消すように俺に言った。
 その時まで、撮った写真の事はすっかり忘れていた。
 
 携帯の写真を見て、俺は再び凍り付いた。
 車の後部を写した写真にこちらを睨む女の顔が写っていたのだ。
 見間違いや錯覚なんかじゃなかった。
 それははっきりと憎悪の視線を俺に向けていた。
 
 写真は全て消して、携帯も供養してもらった。
 興味本位で、死亡事故現場なんかを撮影してはいけないと神主さんに強く怒られた。
 とにかく平謝りに謝って、二度としないと俺は誓った。
 
 それからは、化粧台の前に不審な人影を見ることはなくなった。
 怪談短編集第二話白粉了
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 


彼女の手1

 

 この話はある心霊体験系のコミニティに、体験談として投稿されたお話しを元に僕が書き起こした小説です。
 書きこみ自体が数年前で、残念ながら投稿主とは連絡が取れなかったのですが、一応コミニティの管理人さんからは掲載の許可を頂いています。
 
 これは怖いというより、ちょっと切なくなるような、優しいお話しで、僕は一目でこのお話しが好きになりました。
 それはこんなお話しです……。
 
 彼女の手。
 
 真帆が交通事故で死んだのは26歳の春の事だった。死ぬには早すぎた。
 大学生の時から付き合っていて、恋愛結婚をした。
 ショートボブがよく似合う、明るい女の子だった。
 長野へ友人と遊びに行った帰りだった。
 
 高速道路でわきみ運転をして道路わきに突っ込んだ大型車に巻き込まれた事故だった。
 無二の親友だった女の子と共に即死だったそうだ。
 寝耳に水とはまさにこのことだった。
 
 真帆が居なくなってから、俺は彼女を深く愛していた事を思い知った。
 まるで魂が抜けたようなそんな感じを味わった。
 でも、その時は不思議と涙は出なかった。
 
 死んで、葬式になって、お骨になって、墓に入るときも、俺は泣かなかった。
 悲しくなかったわけじゃない、ただあまりに深く悲しんだせいで、俺の中から感情というものがなくなっていたんだと思う。
 しばらくは仕事も手に付かなかった。
 
 子供でもいたら、まだ寂しさを紛らわすことができたかもしれない。
 あと五年、いや一年や二年だって生きていてくれたら、話はまた違ったかもしれない。
 子供だってこれからという時だった。
 
 真帆が墓に入ってしばらくしたあたりから、俺は浴びるように酒を飲むようになった。
 生活はそれほどは乱れなかった。
 時間が経つにつれ仕事にも復帰して、表面上は俺は普通に生活していた。
 
 ただ、強い酒をひたすら飲んで、不思議と飲んでもそれほどは酔わなかった。
 いや実際には酔っても乱れなかったというのが正しい。
 酒を飲むときも、誰かと一緒だったり、外で飲むことはあまりしなかった。
 家に帰って真帆がいない部屋で、一人、ただ黙々と酒を飲んだ。
 楽しい酒ではなかった。
 
 四十九の法要が終わってしばらく経った頃だと思う。
 仕事が終わってから、夜のスーパーに行き、安売りを始めた惣菜を買ってきた。
 それを食べながら、機械的にウイスキーを飲んだ。
 惣菜は少しも美味くなかった。真帆の手料理が食べたかった。
 
 いつも深酒をしてしまうのだが、その時は普段に増して酔いが回っていた。
 惣菜を並べた食器とグラスを流しに放り込んだところで、急激に眠くなった。
 俺はベッドへ行くこともなく、居間のソファーで眠りに落ちた。
 
 寝ているとき、何か物音を聞いたような気がした。
 朝目が覚めた時、酷い頭痛がした。また飲み過ぎたと思った。
 水が飲みたくなり、シンクまで行ったところで、俺は立ちどまる。
 なぜか、シンクは綺麗に片付けられていた。
 ウイスキーのグラスも、食器も綺麗に洗われ、水切り篭に並べられていた。
 
 洗った覚えはなかったが、そもそもそんなことを記憶できるような状況じゃなかった。
 だからその時は、このことをほとんど気にもしなかった。
 どうせ酔っているときに洗ったのだろうと。
 
 それからも度々こんなことがあった。
 洗った覚えのない食器が洗ってあるのだ。
 何度か続いたところで、俺は妙だなと思い始めていた。
 
 決定的におかしいと思う出来事が起こったのは、真帆が居なくなってから、三か月程が経ったある日のことだった。
 真帆の遺品を整理するために休暇をとって家にいた時だ。
 
 昼に冷凍のパスタと数点のオカズで昼食を取っていた時に電話がなった。
 馴染みの顧客に納品した商品にトラブルがあり、急遽出勤しなければならなくなった。
 洗い物をそのままシンクに放り込み、急いで着替えて家をでた。
 
 幸い大きなトラブルに発展することはなく、替えの商品を届けただけで済んだ。
 いつもの仕事の定時には家に帰ることができた。
 帰った俺はまたシンクを見てぎょっとした。
 綺麗に洗いものが片付けられているのである。
 
 この時は酒を一滴も飲んでいなかったので、俺の記憶違いと言う可能性は低かった。
 その日は酒を飲まなかった。そして汚れた洗い物をわざとそのままシンクに置いた。
 居間のソファーで本を読みながら時間を潰した。
 シンクの方を時々見ながら。
 
 真帆が来てるんじゃないか、そんな予感があった。
 なぜそんなことを思ったのか、今ではよく思いだせない。そのくらい寂しかったのだと思う。
 深夜になるころには、うつらうつらとし始めて、そのまま少し寝てしまった。
 
 物音がして目が覚めた。確かに水道をひねって水を出したような音がした。
 恐る恐るシンクを見た。
 ああ…………。
 
 手だった……。
 手だけが宙に浮いて、洗い物をしているのだ。
 綺麗な細い指先……真帆の手だ。
 
 ゆっくり近づいてもそれは消えなかった。
「真帆……そこにいるのか?」
 俺が声をかけると手はピタリと止まった。
 
 俺はそっと手に触ってみた。
 温かい、まるで生きてるみたいだ……と思った。
 そのまま手はすうっと消えた。
 
 次の瞬間どばっと涙が出た。
 俺は声を上げて泣いた。
 あとからあとから涙があふれてきた。
 この時になって、やっと俺は泣けた。
 
 酒浸りになった俺を心配して出て来たんだ。
 そう思った。
 触った手から、真帆の思いが伝わってくるようだった。
 あの温かさはそれを伝えているようだった。
 
 シンクの前で泣きじゃくっていると、ふと真帆の声が聞えた。
「頑張って生きて」そう言った気がした。
 
 寝て起きたら、何かが変わっていた。
 相変わらず俺は一人だし、悲しみが別段和らいだわけじゃない。
 ただ、なにか踏ん切りがついた気がした。
 
 あれほど飲んでいた酒もピタリと止めた。
 また真帆が心配して出てくるんじゃないかって、シンクに洗い物を溜めるのも止めた。
 
 今でもふと、命日や俺や真帆の誕生日なんかに、ふと、真帆がいる様な気がした。
 嫌な気分はしなかった。むしろ温かい気持ちになった。
 
 俺の人生もまだまだこれからだと思う。
 もしかしたら再婚したりすることもあるかもしれない。
 子供だって居たって悪くないと思っている。
 でも、俺は真帆の事をきっと忘れない。
 
 ずっと……忘れない。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 


後書き

 このたびは拙作、怪談小説短編集猫の声他を読んでいただき誠にありがとうございました。

 

 怪談の世界ってとても奥深いですね。僕なんか語り手としては全然下手くそで読んでくれる人も数少ないです。

 この後書きを読んでくれている人には本当に感謝です。

 

 ここでちょっと宣伝です。僕は全年齢向けとアダルト向けの同人サークルをやっています。

 その全年齢向けの第一弾としてこの小説は書かれました。

 もしよろしかったら、サークルホームページへ遊びに来てください。

 

 作品に感想を付けてくれたり、サークルのブログのブログランキング応援クリックとかも励みになります。

 

 また機会があればコツコツと新作を書いていくと思いますので、思いだした時にでも遊びに来てください。

 それではまた新作でお会いしましょう。(/・ω・)/


奥付



怪談小説短編集猫の声他


http://p.booklog.jp/book/114351


著者 : 弾
著者プロフィール:http://p.booklog.jp/users/fuyuho/profile


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