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四 初夏のハードル?

「ちわー」直人は部室のドアをあいさつに負けないくらい元気よく開けた。 

「す、すいませんでした」だが、語尾が霧の中に消えてゆくような声でドアを慌てて閉めた。部室の中で女性が着替えていたからだ。中山先輩だ。ゴリラやタヌキなど、野獣系の部員の中で、唯一、ひまわりの愛称が似合う先輩だ。いや、太陽そのものと言ってもいいかもしれない。何かの本で「太古、女性は太陽だった」という文章を読んだことがあるが、その言葉がそのまま当てはまる先輩だ。 

「ああ、気にしなくていいのよ。シャツを着ていただけだから」中から先輩の声がする。気にしなくていいと言われても、気にしないわけにはいかない。家で、母親が着替えするのとは訳が違う。直人は部室の外で空を見上げて立ち尽くしていた。 

青い空に白い雲が流れていく。ああ、青春だ。雲は風に吹かれて、ひまわりの形になった。ああ、中山先輩だ。と思う間もなく、ひまわりがゴリラになった。ああ、絶望だ。もう一度、ひまわりになれと、目をしばたたかせていると 

「直人。何してんだ。さっさと入れよ」と太い声が背中を押す。 

そこには、ゴリラならぬ荒木先輩が立っていた。別名「アラキング」。名前が荒木なのと、「俺は百獣の王を超えた、千獣の王になるんだ」が口癖なので、二つを足して、部員のみんなからはアラキングと呼ばれている。本人はそう呼ばれるのはまんざらでもなさそうで、「アラキング」と呼ばれるとニヤッと笑う。もちろん、後輩の直人が先輩の荒木に向かって、直接「アラキング」とは呼べない。 

「中山先輩が中で着替えをしているんです」直人は部室のドアの前で立ち尽くした。 

「そうか」アラキングは直人の言葉にも意に介せず、直人の前に進むとドアをいきなり開けた。「えっ」直人は驚いたものの、アラキングに続いて、部室の中に入る。中山先輩は既に制服のブラウスからランニングシャツに着替えていた。残念な反面、ほっとした気持ちだ。 

「中山。こいつ。お前が着替えをしているのを気にしていたぞ」荒木はその場で学生服を脱ぎ、着替えを始めた。 

「あら。そうなの。気にしなくていいと言ったのよ」中山先輩はいつものひまわり笑顔で、肩を回したり、アキレス腱を伸ばしたりして、いつでも走れる準備をしている。 

アラキングは上半身裸になった。ズボンも平気で脱ぐ。パンツ一丁だ。パンツは縦じまの虎ガラ。虎ガラはランシャツとランパンだけでなかったのだ。下着までも黒色と黄色でとコーディネイトされている。そのことを尋ねると「俺はこうと決めたらそれを実行するんだ。よこしまな気持ちじゃないからな」と平然と答える荒木先輩。横から「フフフフ」と中山先輩の笑い声。 

「いつもそのパンツじゃない。替えているの?」 

いつもなのか。直人は驚く。すぐ側に女性がいるのも気にしていない。少しは中山先輩に気を使え。これじゃあセクハラだ。直人は口には出さないものの、心の中で憤る。死火山でも噴火はできる。 

「表と裏で二回使っている。表で二日、裏で二日。計四日使っている。それから洗濯だ」世界の環境保護に多大なる貢献をしていると胸を張らんばかりに答えるアラキング。汚染物質を見るかのようにアラキングの側からさりげなく離れる直人。 

「冗談だ。毎日。変えている。三枚は持っているぞ」着替えが終わった荒木先輩。安心した直人が元の位置に戻る。 

「ほら。この通りよ。気にしなくていいのよ」中山先輩が笑っている。 

「その通りだ。着替えにいちいち気を使っている暇があったら、練習が先だ」 

アラキングはいつもの黄色いTシャツと黄色いランパンになった。中山先輩はお気に入りのピンクのTシャツとピンクのタイツ。 

「はい」もう恥ずかしくない。セクハラでもない。直人も二人のいる前で練習着に着替えた。青いTシャツと青い短パン。三者三様だ。 

「さあ。いくぞ」荒木の掛け声で、三人が部室から飛び出した。先頭はアラキング。その後ろにひまわり娘。最後が直人。最初の出だしはジョギングペース。次第にスピードが増していく。コースの途中の神社でお参りをして、いつもの峰山に登る坂道に来た。 

「今日は、アスファルトの道を走るぞ」 

 市民病院の前の駐車場で、荒木先輩は屈伸を始めた。中山先輩は縄のない縄跳び、つまり両足でジャンプを繰り返している。何かをしなくちゃ。直人もつられて足首を回す。 

「中山。今度、試合があるんだな」 

「ええ。二週間後よ。スタート地点からゴール地点まで約五キロ。標高差は四百メートルよ」 

「ここから峰山の頂上が二百メートルだから、ちょうど倍だな」 

「走り上がるのにはかなりの高度差よ」 

「そうだな」 

 荒木先輩と中山先輩が紙を見ながら確認している。 

「それ。なんですか」二人の間に入って、直人が覗き込む。 

「ああ。今度、出場する大会だ」募集要項には登山マラソンと書いてある。 

「先輩たち。すごいですね。四百メートルの高度差を駆け上がるんですか。そんな大会によく出場しますね。かなりきついでしょう」 

「何、他人事みたいに言っているんだ。お前も出場するんだぞ。初心者にはもってこいだ」 

「えっ。僕、申し込んでいませんよ。それに、締切も過ぎているでしょう」何が初心者にもってこいだ。走り込んだランナーでもきっときついはずだ。直人は慌てて首を振る。 

「心配しないで、あたしが申し込んでいるから。大丈夫よ」 

「そうだ。大丈夫だ。新入部員にとっては最初のハードルだ」アラキングも何の根拠もなく大きく頷いている。だが、直人にとっては何が大丈夫なのかわからない。それを知ってか知らずか、中山先輩はいつものひまわり笑顔で答える。実は、この笑顔が曲者なのだが。 

「じゃあ。今日は試走だ。俺が引っ張ってやる。中山。展望台までのベストの記録は何分だ」 

「二十分ちょうどよ」 

「じゃあ。今日は十九分台を目指すぞ」 

「わかったわ」中山先輩の目がひまわりの花よりも大きく見開く。目の中に吸い込まれそうだ。俺はミツバチか。直人は否定するかのように頭を振る。 

「直人は中山の後を着いて来い。遅れてもいいぞ。展望台で待っているからな」 

「はい」と答えたものの、アラキングにおいていかれても、中山先輩には負けたくない。先輩だけど、相手は女性だ。男の自分が負けるわけにはいかない。 

「スタート」アラキングが腕時計のストップ・ウォッチのボタンを押した。中山先輩も。直人も。 

新緑の季節。濃い緑の中に黄緑色がちらほら見える。若葉だ。太陽の光に照らされるとよけいに黄色く見える。光が透き通っているのだ。濃い緑が荒木先輩や中山先輩ならば、自分は黄緑だ。まだ若く、そして頼りない。だけど、その分だけ大きく成長が期待できる。はずだ。はずだろう。はずかな。はずかしい。だんだんと自信がなくなる。 

「はあ、はあ、はあ」直人の息がだんだんと荒くなる。膝は上がらない。足はすり足状態だ。登り坂では小石にさえつまずきそうになる。先輩たちに着いていこうと思っていたが、特に、中山先輩には負けまいと思っていたが、二人の後ろ姿は自分が後ろに走っているかのようにだんだんと遠ざかっていき、コースの真ん中あたりからは背中さえも見えなくなった。 

その途端、直人の脚が急に重くなった。スピードが落ちる。緊張の糸が切れたのだ。それでも、唇を噛みしめ、走る意識を強く持ちながら後を追う。芝生公園を過ぎ、キャンプ場がある公園にやっと着いた。ここからさらに急坂を上ればゴールの展望台だ。汗が目に沁みる。喉が渇く。つばを飲み込む。もう少しだ。自分を励ます。前に倒れるのを利用して坂道を登る。ただし、公園を散策している人から見れば歩いているように見えるスピードだろう。 

「直人」 

「直人君」 

アラキングと中山先輩の応援の声が耳に飛び込んでくる。もうすぐだ。最後の力を絞り出す。だが、声に応えたいけれど、返事は出来ない。出るのは荒い息と心臓のバク音とすり足の音だけだ。ようやく直人は先輩たちからかなり遅れて展望台に到着した。最後の階段を登りきるとそのままコンクリートの床に突っ伏した。 

「大丈夫か。直人」 

「止まるんじゃなく、歩いた方が体にいいのよ」と中山先輩が背中をさすってくれた。 

「はい」直人は頭の中がもうろうとしたまま、素直に立ち上がり、夢遊病者のように、狭い展望台をつまづきながら回り始めた。完全な酸欠状態だ。自分の頭の周りの酸素を全て吸収するかのように荒い息を繰り返す。 

「タイムはどうだ。二十三分か。よくやったな」 

「そうよ。あたしなんか、初めての時は二十五分もかかったわ」 

 先輩たちが励ましてくれる。だが、先輩たちと実力の差は大きい。ようやく息が落ち着いてきた。だが、頭はまだ少し痛い。酸欠の後遺症だ。 

「中山先輩はどうだったんですか」ようやく会話ができるようになった直人。 

「ああ。中山は十九分台だ。たいしたもんだ」アラキングが微笑む。 

「そんなことはないわ。荒木君が引っ張ってくれたおかげよ。山道は平地と違って、タイム以上に前が見えなくなるのよ。そうするとどうしても気力が萎えるのよ。だから、しんどくても、辛くても前を走る人に着いて行けばなんとかなるわ」 

 そうか。何とか着いて行けばいいんだ。直人はまだ酸素不足の脳の中で「着いて行くんだ。着いて行くんだ」と同じ言葉を繰り返した。 

「さあ。落ちついたら、下に降りるぞ。近道があるんだ」アラキングが階段を下りはじめた。中山先輩も直人も続く。アラキングが近道を選んだくれたおかげで、上りには二十分以上もかかったのに下りは十分程度でスタート地点に戻ってくることができた。 

「さあ、もう一本」 

「いくわよ」 

 アラキングとひまわり娘が時計のスタートボタンを押す。 

「ええ?もう一本ですか」直人はその場に座り込みそうになりながらも「はあ」とため息なのか、荒い呼吸なのかわからない息をついて、黄色とピンクの背中を追った。「着いて行くんだ。着いて行くんだ」と呟きながら。だが、展望台までその言葉が続くことはなかった。

 そのおかげで、直人は登山マラソンへの試練は免れることができた。人生は、いいことなのか、悪いことなのか、何が起こるかわからない。

 


この本の内容は以上です。


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