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アトラスとエキュネウス

「明日、このシリャードを発って帰国する。舘の者どもにそう伝えよ」

 リダルは帰宅途上、帰宅の時も待たずに部下にそう命じて、舘へ走らせた。蛮族タレヴォーの兵と刃を交えると宣言した以上、母国に戻り、兵を整えてシリャードに帰る必要がある。それは蛮族タレヴォーに悟られるより早いほうがよい。

「申し訳ございませぬ」

 忙しく周囲に指示を飛ばす父親に、アトラスはそんな短い言葉をかけた。議会で分別を失った自分が余計なことを言ってしまったと後悔している。父親は息子の謝罪の言葉の意味を解しかねたように首を傾げかけたが、その意図を察して答えた。

「かまわぬ。どうせ、蛮族タレヴォーどもとは一戦交える腹づもりであった。お前は、ただその先駆けとなっただけのこと。誰か王子の馬を曳け」

 リダルは従者にアトラスの馬を曳かせることで、アトラスが馬を下りるのを促したのである。意味も分からないまま馬を下りたアトラスにリダル王は語りかけた。

「まだ日は高い。聖都シリャードの見納めに、町を見回ってくるがよい」

 リダルは息子の気分転換に散歩を薦めたのである。路地が多いこの町では、町の雰囲気に染まりつつ散歩をしようとすれば、馬ではなく徒歩の方が都合が良い。アトラスが王族の生活の中で、心に深い悩みを抱えているらしい。希代の戦術家のリダルは、その観察力で息子が悩んでいることにも気づいていて、わずかな時間だが、息子の心を堅苦しい身分から解放してやろうと考えたのである。ただ、外見にはその優しさは見せず、息子の決意を促すように言い放った。

「次に聖都シリャードに戻るのは、我らがアトランティスの解放者として凱旋するときである」

 

 リダル一行の後ろ姿を見送ったアトラスは、一人の女性の記憶をたどるように彼女の口調までまねて一人呟いた。

「道を辿ってもダメよ、迷うだけ。水路の幅が広くなる方に向かいなさい」

 言うまでもなく、フローイ国王女リーミルと初めて出会ったときに、彼女から教えられたことである。彼女の教えを守っていれば、狭い路地が入り組んだ町を歩き回っても道に迷う事はあるまい。父の配慮か、リーミルの記憶か、どちらが原因かは分からないが、この時のアトラスは、濁りのない純朴な田舎青年の姿を取り戻していた。道に迷ったという焦りや後悔に乱されずに眺めたこの町の雰囲気は、アトラスが生まれたルージ国のどの町とも違う活気に満ちていた。このシリャードは、都市国家という体裁を取っているが、その領地といえるのは、城壁で囲まれた地域のみである。その中に、人口は一万人を超えるという、この時代、信じられないほどの人々を抱え込んだ大都市でもある。神帝スーイン六神司院ロゲルスリンに仕える者どもを除けば、領民は素性の知れない他国からの流れ者も多い。塩や穀物などの物資を販売する者たちの市、鍛冶屋や機織り、洗濯屋など以外に、娼婦がたむろする宿屋や、ばくち場に隣接する酒場など、雑多な店と雑多な人々であふれかえっていた。

 

 アトラスはそんな混沌とした雰囲気の中を、半ば好奇心、半ば驚きの心地で人々の波をかき分けて泳ぐように歩いていた。突然に、町の雰囲気が凍り付くように女の悲鳴が響いたかと思うと、売春宿から娼婦らしい女が転がり出してきた。続いて拳を振り上げて男が出てきたために、女はこの男に殴られて、宿の外に放り出された事がしれた。別の娼婦が地面に転がった仲間をかばうように身を挺して先の女に覆い被さった。女に拳を振り上げている男と、続いて出てきた男がわめき散らす罵声は、アトランティス人と異なる蛮族タレヴォーの言葉である。続いて出てきた三人目の男を追うように、一人の女が怒りを露わにして出てきた。脣に血を滲ませ頬に殴られたような痣がついているが、女は怯む様子がなかった。

「ゲスの蛮族タレヴォー野郎どもは、女の扱いも知らないのかい?」

 女が罵声を浴びせた男たちの服装はシリャードに駐留するアテナイ軍の兵士に間違いない。兵士たちは民衆に理解できない異国の言葉を怒鳴り散らした。娼婦たちは兵士に侮蔑の言葉を返し続けた。

「女を買って、払う金も無いってのかい? 」

 そんな娼婦の言葉で、アトラスにも状況が飲み込めた。アテナイ軍の兵士が女を求めて売春宿にやって来て、行為に及んだものの、女の体の代価の支払いの時にトラブルが起きたということである。腕力で兵士にかなうはずのない娼婦たちは、救いを求めて周囲の人々を見回した。街路を行き交う人々は、その状況に興味を示しながらも距離を置いて関わり合いになるのを避けていた。

 このシリャードの治安は三百名の僧兵とその配下の役人が取り仕切っているが、占領軍としてのアテナイ兵が引き起こす犯罪について、後難を恐れて目をつむり耳をふさいでいた。この場合、アテナイ兵とトラブルになった女たちを救う警察組織は無いに等しいのである。この時に、アトラスが哀れな女たちの目にとまった。人々の輪に混じりながら、アトラスの目は他の人々と違って、アテナイ兵に対して恐れを感じさせないのである。  

 

 同じ頃、シリャード中央のアテナイの砦から、エキュネウスが十人ばかりの兵士を率いて駆けだした。城壁に近い一角の売春宿で、兵士が町の人間相手にトラブルを起こしていると聞きつけたのである。戦勝国の占領軍とはいえ、このアトランティスの大地で侮蔑や反感を買っている。その中心のシリャードで暴動でも起きれば、アテナイの二千の兵士では対処できなくなるかもしれない。アテナイ軍が密かに恐れる状況である。そのため、砦以外の場所での酒や女遊びを固く禁じてはいるが、時に今回のように羽目を外してトラブルを起こす者どもがおり、軍律に照らして厳しく罰せねばならないのである。

 

 エキュネウスと部下が現場に到着したとき、アテナイ軍の兵士三人は、血まみれで地面に転がっていて、その傍らに血に染まった抜き身の長剣を持ったまま一人の青年が立っていた。二人の兵士の剣をたたき落として戦闘不能にし、最後に残った兵士に止めを刺そうとしている姿である。もちろん、その青年はアトラスだが、この時、二人は互いに相手の名も身分も知らない。アトラスの足下に転がっているのは、一般の兵士とはいえ、実戦を切り抜けてきた猛者揃いである。その三人を相手に切り結んで負傷している様子がないというのは、この青年アトラスが剣に練達している様子が伺いしれた。

 アトラスがその剣の切っ先を新たに現れたアテナイの指揮官らしいエキュネウスの喉元に向けて何かを言ったが、エキュネウスにはその言葉の意味が分からない。ただ、新たに十数名の兵士が現れたにもかかわらず、彼アトラスは臆する様子を見せなかった。

【待て。我々はその者どもを罪人として砦に引き取るために来た】

 エキュネウスはアトラスに向けて大声でそう呼ばわったが、アトラスの言葉が理解できないのと同様、アトラスにもエキュネウスの言葉は理解できまい。ただ、エキュネウスに戦闘の意志がないことは察したらしい。エキュネウスに向けた太刀の切っ先を転じた。まだ抵抗を続けてアトラスに向けて剣を振る兵士に、アトラスは止めの太刀を振り下ろそうとしたのである。

【待てと言うに】

 そう叫び終わるまもなく、エキュネウスは腰の剣を抜いて駆け寄って、アトラスとの間を詰め、アトラスが振り下ろした剣を下から払った。思いも掛けない攻撃に、アトラスは剣を取り落とし、エキュネウスは剣の切っ先で地面に落ちたアトラスの剣を指して言った。

【争う気はない。剣を拾って去れ】

 エキュネウスは剣を鞘に収めつつ、去れと言った言葉の意味はアトラスには通じていないらしいことを悟った。若者は落とした武器を拾えと言ったことは察したらしく、地面に転がった剣を拾い上げたが、エキュネウスに剣を向けて向き合ったのである。エキュネウスも再び剣を抜かざるを得ない。目の前の青年が剣を抜き、指揮官エキュネウスもまた剣を抜いて応戦しようとするのを見た部下たちも手にしていた槍を構えた。

【お前たちは手出しをするな】

「ほぉっ、一人で私の相手をするというのか。その無謀さ、教えてやる」

 エキュネウスが推測したとおり、アトラスはよほど訓練を受けていてその剣裁きは鋭く、受けた剣を通じて腕がしびれるようだった。一方で、アトラスは兵士として一通りの剣の使い方を経験しただけの兵士を相手にして、アテナイ人の剣の強さを推し量っていたが、新たに剣を交えた男の剣さばきと身のこなしに舌を巻いた。剣を会わせること数十合。二人は互いに荒い呼吸を整えるために剣を構えたまま距離を置いた。

「面白い。なかなかやる」

【お前のような者に出会えたこと、戦闘の神アレースに感謝を捧げよう】

 二人は再び接近して剣を会わせた、一合、二合、そして、破滅的な音。エキュネウスの剣がアトラスの剣の激しさに耐えられず折れたのである。両者の剣の扱いの上手下手ではなかっただろう。既に百年以上もの長きにわたって鋼の剣が鍛えられているアトランティスと、古い青銅の剣が鋼に置き換わろうとする時期のアテナイの未熟な製鉄技術の差であったに違いない。  エキュネウスは次の攻撃を予想して右手に残った剣の束を捨てて、武器を持たないまま身構えたが、アトラスは意外にも剣を鞘に収めた。その行為を剣を失った敵に対する哀れみだと考えたエキュネウスは叫んだ。

【剣は折れても、アテナイの誇りは折れては居ないぞ】

 もちろん、そのアトラスが言葉の意味を理解することはない。アトラスは静かに言った。

「これ以上、戦う理由があるとでも?」

 偶然、三人の女を守らねばならない状況に遭遇して、その義務は果たした。見たところ、新たに駆けつけた蛮族タレヴォーは仲間を収容に来たのみで、女たちや周囲の民衆を傷つける気配はないのである。アトラスは蛮族タレヴォーを一別してから立ち去ろうとした。この時、二人が発した言葉が同じ意味を持っていたのは偶然だったろうか。

「この次は、戦場にて」

【軍神アテーナーが、我々二人を戦場で相まみえさせるように】

 蛮族タレヴォーどもに背を向けて立ち去りつつ、アトラスは妙に心地よい興奮を覚えていた。勝利感でも優越感でもない。今まで誰かが指示や運命に身を任せて生きてきた。あの蛮族タレヴォーの青年との戦いは、アトラスが初めて自分で運命を決めたきっかけになったのかもしれない。  エキュネウスもまた、あの不思議な若者の表情をハッキリと心に刻んでいた。このアトランティスでは占領軍として憎しみの視線を受け、蛮族タレヴォーとして侮蔑的な扱いも受ける。しかし、あの青年がエキュネウスを眺める目にそんな感情は皆無だった。というより、まるで巧みに操られた人形のように感情そのものを感じ取ることが出来なかったのである。

 

 事件のきっかけになった三人の娼婦は、彼女たちに仕事の報酬と事件の謝罪を兼ねているらしい銀の小粒を丁寧に渡して去ったエキュネウスを、先に彼女たちの礼も聞かずに立ち去ったアトラスと見比べるように見送った。社会の底辺で蔑まれる事が多い職業の女たちだが、いままで彼女たちに蔑みの感情を持たず、彼女たちを人として扱い、接したという意味で、アトラスとエキュネウスはよく似てたのである。


クジースス

 その夜、アテナイ軍の砦に引き上げていたエキュネウスは、部屋に副官カルトレウスの訪問を受けた。用件は夕刻の娼家のトラブルの事かと考えたがそうではなかった。

【エウクロス様がお呼びです】

【この国の者と剣を交わしたことなら報告済みだが】

【いえ。これから客人が来るので同席せよと】

【客人だって?】

 カルトレオスに案内されて入った司令官室の光景は、この国の腐敗を聞いていても、若く理想に燃える青年には驚きを伴った。招き入れられた男は、目立たない質素なフード付きの衣類をまとっていたが、高慢さと卑屈さが漂い、他人に命令するのに慣れた人物だと知れた。

 男は卑屈な笑顔を浮かべてアテナイの言葉で、エウクロスと挨拶を交わした。エウクロスと同席するエキュネウスを紹介されたものの一片の会釈を与えたのみで、若造など相手にできないというエキュネウスを舐めきった態度を隠そうとはしなかった。

 エウクロスはテーブルに客を導き、向かい合って座った。エキュネウスと副官カルトレウスはエウクロスの背後に控えて立った。

【ロゲルスゲラのお一人、クジースス殿であらせられます】

 エウクロスがささやいた言葉にエキュネウスは驚きで目を見開いた。エキュネウスにとって信じがたいのは、この人物がこの大地の九カ国を統率するシリャードの政治を司る六神司院ロゲルスリンを構成する最高神官ロゲルスゲラの一人だと言うことである。

 

 クジーススは卑屈な笑みを浮かべてエウクロスに語った。

【アトラス王子は我らの挑発に乗り、神を侮辱したばかりか、反逆者の汚名を着ました】

 そんな言葉に驚く様子も見せずエウクロス司令官は日常話のようにさりげなく、しかし、注意深く質問をした。

【リダル王は?】

【父の狼は、牙を剥きだして、アテナイに戦を挑むとのこと】

【戦とはいつのこと?】

【ルージ国一行は明日帰国いたします。戦支度を整えて戻ってくるのは2ヶ月後かと】

【して、その兵力は?】

【七千から八千。ルージ軍に合流する国の兵力を合わせれば、総勢一万五千を超えるかと推察されます】

(一万五千……)

 その数字の大きさに、エキュネウスは息をのんだ。ギリシャ諸部族がかき集めてこのシリャードに駐留させている兵士は二千人。その数倍の兵力で攻め寄せてくると言うのである。しかし、エウクロスは動揺も見せずに他人事のように聞いた。

【勝算はおありか?】

 エウクロスは戦うのはアテナイ軍ではないと言わんばかりである。クジーススは笑って応えた。

【ルージと、フローイ、シュレーブ、牙を持つ者どうし、噛み合わせれば、互いののど笛を食いちぎりましょう】

 自信満々で答える様子には、既にアトランティスの国々を争わせる計略が立ててあるということがうかがい知れた。

【なるほど。楽しいお話でしたな】

 エウクロスは席を立って面会を打ち切って、クジーススを入り口へと導いた。クジーススは姿を現したときと同様に深くフードを被って顔を隠し、足音も立てずに立ち去った。

【彼らはいつも来るのか?】

 エキュネウスの問いに副官のカルトレウスが答えた。

【いつもは使者が来ます】

 エウクロス司令官は甥のエキュネウスを振り返り、意味深な笑みを浮かべた。

【事が重大ゆえ、我々のご機嫌を取るために直接来たのだろうよ】

【アトラスとか言う王子を反逆者にしたとか?】

 エキュネウスの言葉に興味がないと言わんばかりに、エウクロス司令官は話をそらした。

【儂は退屈でたまらぬ。儂が何をせずとも、利に聡い奴らが自らの保身で、我らのために働いてくれおる】

 副官のカルトレウスが頷いていった。

【全くです。この地は欲と猜疑心でまみれています。我らはその混沌を少しかき混ぜるだけ。彼らの心の底の憎しみが水面にわき出して参ります】

 エウクロス司令官は何かを思いついたようにニヤリと笑って言った。

【そうだ、ちょうどよい。一つ仕掛けてみるか】

【何か思いつかれましたか?】

【エキュネウス。明日、港でルージの者どもに挨拶して参れ。アトラスという王子のことが気になるなら、その時によく見て参るが良かろう】

【挨拶?】

【武装した兵士五十名ばかりつけてやる。帰国するルージの王族に我らの雄叫びを聞かせてやるのも良かろう】

【戦端を開く決心をした者どもです。戦いになりませんか?】

 エキュネウスのそんな疑問を、エウクロス司令官は笑い飛ばした。

【このシリャードは彼らにとって血で汚せる場所ではない。たとえ挑発を受けようと、我らに手出しはできまいて】

【なるほど、ルージの者どもに我らを意識させ、必ずや兵を挙げてもらわねばなりませんからな】

 副官エウクロスのそんな言葉に、エウクロス司令官はニヤリと笑って頷くのを、若いエキュネウスは黙って眺めていた。

 そんなエキュネウスを振り返り思いついた素振りを装って言った。

【おお、エキュネウスよ。お前は剣を失ったとか。この剣をお前にやろう】

 エウクロス司令官が差し出したのは派手な装飾からほど遠いが、束はよく手に馴染み、鞘から抜いてみれば幅広く厚みのある鋼の刀身が曇りのない光を反射していた。

【これは?】

【我が兄、そしてお前の父親から、儂がもらったものだ。しかし、今のお前に相応しかろう。良く鍛えられた刀身は容易に折れることはあるまい】

 エウクロス司令官は考えた。この甥は、夕刻に自分が戦った相手が誰か、まだ知るまい。明日、それを知ることになる。どろりと粘るような陰謀の中で夜がふけていった。


リーミルの愛

 同じ頃、フローイ国王の館では、リーミルが灯りもつけず、ベッドの脇の窓から差し込む満月の光のみを浴びながら一人ベッドで横になっていた。大きく見開いた目に月の光が反射してきらりと光った。議会から帰宅した祖父のボルススから子細は聞いている。

 

(これからと言うときに、突然の帰国ですって?)

 そう考えながら思い起こすのはもちろんアトラスの事である。ルージ国の王子アトラスに嫁ぎ、ルージ国とフローイ国の関係を強化するために、彼女はこのシリャードに呼ばれた。しかし、シュレーブ国の方が一足早く、エリュティア姫をアトラスの嫁入りさせる話を持ちかけた。そこにリーミルが割り込もうと画策したわけだが、予想もしない事態に計画は頓挫した。その悔しさに彼女は小指の爪を噛み、舌打ちしたくなるほどの思いで居たのである。しかし、事情を聞けば、反逆者呼ばわりまでされたアトラスに同情する気にもなる。あの純朴な田舎青年は、何やら煽られて余計なことを口にしてしまったらしい。

(全く、なんて間抜けなやつ)

 リーミルは多少の愛情を込めてそう思った。フローイの男には無いあの無垢な性格は嫌いではない。ただ、積極的にアトラスに接近しようとした事が、果たしてアトラスに対する愛情だったのか、出会ったこともないエリュティアという少女ら対する嫉妬の混じったライバル神だったのか彼女自身も良く理解できないのである。

(私があの田舎者を愛している? まさか……)

 彼女は混乱する頭の中を整理するために、これからの予定を考えた。二日後、彼女は祖父と供に帰国の途につく。

(フェミナ)

 リーミルは自分が呟いた名がエリュティアの幼なじみだとは知らない。ただ、彼女の帰国と少し時間をずらして、シュレーブ国貴族の姫フェミナが、フローイ国のリーミルの弟グライス王子に嫁いでくる。壮麗な行列を仕立ててやってくるだろう。迎えるフローイ国も国を上げて祝いの婚礼式典を行うことになる。グライス王子とフェミナ姫の幸福を祝うわけではない、両国が堅く結びついてこの大地に覇を唱える足がかりにするためである。リーミルはいつしかため息と供に深い眠りに陥った。


密やかな叛乱

 エリュティアが神帝スーインのもとを訪れたのは、明くる日の早朝のことである。

(柔和でいいお顔をなさる)

 神帝スーインの傍らで表情を眺めた側近は喜びとともにそう思った。もともと、オタールという名があるが、いまはその名で呼ぶ者はなく、神帝スーインと呼ばれる。華やかな文化に恵まれたシュレーブ国生まれで、王を継ぐべき者として慈しまれながら育てられた人物である。表面の文化的素養のみではなく、その人格も高潔で、平和な世なら民衆から敬愛を集める王となったに違いない。しかし、この大陸の政治情勢はそれを許さず、真理の女神ルミリアは、彼が妻をめとる前に、シュレーブ国第一王位継承者の座を弟のジソーに譲り、アトランティスの王どもを統べる神帝スーインという、いわば宗教的な名誉職に据えた。

 

 各国の調整に気苦労が多く、表情は苦悩が浮かび額に深いしわが刻まれている。ただ、今は彼の元を訪れたエリュティアの傍らでその表情が和らいでいた。彼自身が神の代理人として神格化された存在であるために、姪と呼ぶことはできないが、血のつながりで言えば間違いなく弟の娘である。国家が醜く利害を争う情勢の中で、この少女の純潔さが神帝スーインを癒すのである。

「残念なことだ。それでは、帰国するというのかね」

「はい。父の命であさっての朝、シリャードを発つことになりました。今日はお別れのご挨拶に」

「そうか。では、アトラス王子との婚礼の儀はいかがした」

「父や教師のドリクスは、アトラス様が救国の主レトラスではなかったと申されます」

「それは気が早い。あの者ならこれからレトラスに育つかも知れないものを」

「私はアトラス様ではなく、これから現れるレトラスに嫁ぐ運命なのだと」

 エリュティアの言葉に神帝スーインは口を閉ざして、哀れみがこもった優しい視線を彼女に注いだ。

(なんと、周囲の者どもの受け売りではないか。この無垢な少女は周囲から言われるまま自分の運命をゆだねようとし、そんな自分に疑問を感じても居ない)

 神帝スーインはそんな心の内を出さずに、優しくささやきかけた。

「そなたに愛の神フェイブラの輝きが訪れるように。」

 一礼して、部屋から下がるエリュティアを神帝スーインは見守り続けていた。  

 

 その神帝スーインの元に駆けつける僧兵が居た。名をマレヌスという。神帝スーインが腐敗したロゲルスゲラを政治から除く手配をさせたイドロアス直属の部下の一人である。.ルージ国が蛮族タレヴォー討伐の兵を挙げると宣言した今、六神司院ロゲルスリン最高神官ロゲルスゲラの目は新たな戦に釘付けだろう。その隙に早急に事を進めるつもりである。

 マレヌスが息を切らせて言った。

神帝スーインよ。大変でございます。僧兵長イドロアス様が亡くなられたとのことでございます」

「何事だ」

「四ゲリア(約3km)下流の北の岸部に死体となって発見されたとのことです」

「間違いはないのか? この時期になんと不運なことだ」

「背に深い刀傷があり、何者かに殺害されたものと」

「殺害だと? 他に誰が知っておる」 「行方不明になっていたイドロアス様を探索していた者が知らせて参りましたので、即座にお知らせに参りました。まだ、他に知る者はおるまいと存じます」

 神帝スーインは沈痛な面持ちで考え込んだ。腐敗しきった最高神官ロゲルスゲラの者を除くつもりで、イドロアスに探らせ、排除の手はずを整えるつもりだった。そのイドロアスが誰かに殺害されたとなれば、最高神官ロゲルスゲラの手の者に違いない。ここは、一刻も早く計画を実行に移して、最高神官ロゲルスゲラの者どもを、僧兵たちを使って排除せねばならない。

「トロイアスを呼べ」

 神帝スーインは、イドロアスの直属の部下の名を指定した。イドロアス亡き今、イドロアスに次ぐ地位におり僧兵部隊の指揮を執る男である。マレヌスが神帝スーインが命を実行しようと、部屋を駆けだそうとしたときに、そのトロイアス本人が姿を見せて大声で呼ばわった。

最高神官ロゲルスゲラの皆様がお越しになりました」

「誰だ?」

 六神司院ロゲルスリンの者は、神官たちに占わせた神託の結果などを、神帝スーインの元に上奏に来る。ただ、通常は順番に誰か一人が代表してやって来るのが通例で、複数で来ることはまれである。その為に、来た者は誰かと尋ねたのである。

「それが、クジースス様、ガークト様、ブクスス様、グリポフ様、クレアナス様、クイールトス様、そろっておいでです」

 顔を見せた六人は大仰に礼をし、最高神官ロゲルスゲラの一人、ガークトが進み出て言った。

「イドロアス様、ご不幸の連絡を得て、取り急ぎ参りました」

「それは大儀。しかし、最高神官ロゲルスゲラが顔をそろえて謁見など珍しいことを」

 神帝スーインの皮肉のこもった言葉に、ロゲルスゲラの一人クレアナスが答えた。

「剣の達人のイドロアス様が背後から一刀のもとに切り伏せられていたとのこと、早くその危険な犯人を捕らえねばなりませぬ」

 この者どもは、まだ知るはずのないイドロアスが殺された事を知っているばかりではなく、犯人がイドロアスの背後から剣でおそったと言うことも知っていた。その不自然さに、マレヌスは神帝スーインと顔を見合わせた後、最高神官ロゲルスゲラの者たちに問うた。

「何故、イドロアス様が亡くなったことをご存じなのですか?」

 トロイアスはやおら剣を抜き、目の前でそんな疑問の言葉を発したマレヌスを背後から切り捨てた。床に倒れたマレヌスに駆け寄った神帝スーインは、既に彼の息が絶えているのを確認すると、トロイアスを睨んで怒鳴った。

「何をするか」

「この国を害する者を、忠義の神ウィランの名の下に誅殺しただけでございます」

 マレヌスの死体を抱き起こして跪く神帝スーインを、血まみれの剣を下げたままのトロイアスとロゲルスゲラたちが囲んで見下ろすように眺めた。その異様な笑顔に神帝スーインはこの者たちの意図を知った。

「お前たち、謀反を起こし、この儂を殺害するつもりか」

 神帝スーインの言葉にトロイアスは最高神官ロゲルスゲラの者どもの意向を伺うように顔を眺め回して言った。

「いいえ。役に立っていただける間は、殺害などととんでもない話。しばらくは神殿の奥にお隠れいただくだけでございます」

 アトランティスの中央から腐敗の根本を取り除こうとしていた神帝スーインは、逆に最高神官ロゲルスゲラの謀略の前に敗れ去ったのである。この時からルージ国、シュレーブ国、フローイ国を互いに争わせようとする謀略が活発化する。


若者たちの別れ

 アトランティス議会の奥で起きていることを知らぬまま、議会の終了と供に各国の国王は帰国の準備を始めていた。ルージ国王リダルは、猛る心に曳かれるように兵を挙げるべく、この日に帰国の途についていた。

 ルージ国を示す青い旗を捧げ持つ従僕の直後に、馬に乗ったリダルが続いた。行列は総勢八十名ばかりである。

「もっと、近こぅ」

 リダルの言葉は常に短い。アトラスは父の言葉をよく察して、彼が乗る馬を父に寄せた。リダルは言葉を継いだ。

「民の目をよぉ見ておけ、戦の道筋が見えてくる」

 行列を眺める人々の目には、勇猛さを持って鳴り響くリダルに対する畏敬、リダルがもたらす戦乱へ恐れがあり、行列に顔を背けて囁きあっている者どもからも、不安感が漂ってきた。リダルは道筋という言葉を好んで使った。戦の道筋というのは、この場合、これから起こす戦の目的ということだろう。リダルは息子に、民を眺めながら、何のための戦かを考えろと言うのである。

「あれは」

 前方からやって来た行列は足並みを街道の端に寄せて停止した。行列の先頭の旗持ちが掲げる旗を見れば、シュレーブ国の王族の行列だとわかる。向こうもこちらがルージの王の行列だと判断して道を譲ったのである。この場合、王族より国王の行列が優先させるのが習わしである。リダルは馬上からシュレーブの列に一礼したのみで、その傍らを通り過ぎた。

「あっ」

 一瞬、シュレーブ国の列の中央の輿の傍らを通過しようとしたアトラスは、輿に乗る人物と視線が合った。アトラスの心が乱れた。輿にいたのは神帝スーインを訪問した後、帰途についたエリュティアである。彼女もこの地を去るために、叔父である神帝スーインに別れの挨拶に赴き終えていた。その帰りの行列でだった。外見の武人の姿の内側の純朴な青年の心の中で複雑に思いが絡み合った。彼女に対し失礼な対応をしてしまったことに対する後悔の念や、自分の行為を謝罪しなくてはならないという思い、しかし、自分の思いをどうやって伝えるべきかわからないもどかしさ、口に出して言葉で表現できない心の内が、アトラスの表情に戸惑いを浮かべさせ、やや乱暴な仕草で懐から小さな袋を取り出させた。

女神リカケーの涙と申します。涙とともにあなたの心が癒され、心の平安が訪れますよう」

 アトラスは輿に馬を近づけて、エリュティアに押しつけるように謝罪の印として袋を渡した。輿の中でアトラスの言葉の意味を確認するように袋を開けたエリュティアの手のひらに一粒の真珠が落ちた。大粒で美しい光沢を持っていた。しかし、普通に見かける球状ではなく、やや一部歪んでいて涙の滴のようにも見える。

 

 先頭のリダルと距離が開いた。それを言い訳にするように、アトラスはそれ以上の言葉を発せず、エリュティアの言葉も聞かず、愛馬を駆けてエリュティアの傍らを離れて列の先頭の父親の傍らに戻った。男女関係に未熟なアトラスにはそれ以上の言葉はなく。エリュティアも突然の出来事に驚くのみでアトラスを引き留める心の余裕はなかったのである。

 

 やがて、ルードン川の南の岸辺が見えてきた。小規模ながら上流や下流の町を結ぶ港があり、リダルらはここで船に乗り換えて河口の町に出る。そこには聖都シリャードに侵入できないルージ国の軍船が停泊している。それに乗り換えて母国に帰るのである。  その港に異様な一団がいた。シリャードに駐留するアテナイ軍である。数は五十人ばかりだが、大きな盾や槍を持った完全武装の姿で、人々を威圧しているのである。港にルージ国の一行が入ってくるや、アテナイ兵たちは盾と槍を打ち鳴らした。リダルは怒りを込めた視線で応えたが、配下に手出しはさせなかった。ここはアトランティナにとってもっとも聖なる場所で、いかなる理由があれ、各国は戦火を交えるわけにはいかないのである。それを知っているからこそ、示威行動とも言えた。ルージ国一行が船に乗り込むのを見届けたアテナイ兵は一斉に雄叫びを上げた。ルージの者どもをシリャードから追い払ってやったと言わんばかりの勝利感をにじませた声である。

(ほぉっ)

 リダルは川辺の蛮族タレヴォーを眺めていた憎々しげな表情に、口元をゆがめて笑顔を作った。傍らにいる息子アトラスの様子に気づいたのである。蛮族タレヴォーの兵士の威圧にもひるむことなくじっと彼らを眺めていたのである。父親はその姿を息子の剛胆さとみた。しかし、その本当の姿は恐怖感より、異なる民族への好奇心であったかもしれない。事実、アトラスの視線は昨日剣を交わした一人の若いアテナイ人に向けられていた。エキュネウスである。盾と槍を打ち鳴らす兵士の端で、彼自身は昨日出会ったアトラスを凝視しながら、鎧の胸板を拳で叩いて名乗りを上げていた。

【私は、エキュネウス】

 繰り返される言葉に、船上のアトラスは彼の名を理解し、二人は互いの人格を探り合うような視線を交わしあっていた。

【私は、エキュネウス。戦場でお前と相まみえ、勝利する者だ

 

 ピーーー。

 

 この時に、甲高い指笛の音か響きわたって、人々の視線を集めた。長い黒髪の少女が岸辺の木に登り、太い枝に腰掛けて船上を眺めていた。肩まで露わになる質素な一般民衆の衣服を着た少女がフローイ国の王女だと気づく者は、アトラス以外にいなかった。

「別れに来たのか?」

 アトラスはそう呟いた。リーミルはアトラスが与えた腕輪を左腕にはめて振って見せたが、言葉は発しない。どんな言葉を交わせばいいのだろう。互いに好意が混じった好奇心を感じてはいるし、夫婦という関係をぼんやりと意識しもした。今は、ただそれだけの関係である。二人は小さくなる互いの姿を黙って見送った。

 

 ルージ国王子アトラス、シュレーブ国王女エリュティア、フローイ国王女リーミル、アテナイ軍の若き将エキュネウス、この4人の運命は絡み合いつつも、ここで解ける。様々な思いとともに、四人の運命が再び絡み合い始めるのは、五十日ほどの時を経てからである。



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