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老ウルススの思い出

「退却戦の中、我らを追う敵は五百。我らは手負いの者も含めて三十人に減じていた。 普段は従者として、片時もリダル王子の傍らを離れなかったお前の父は、あの時、何故か隊列の最後尾にいた。そして立ち止まったのが、左右が切り立った崖になった一本道の入り口だ。敵は五百とはいえ、そこなら一度にかかってこれる敵は数人。一人でも敵の足止めができると言うわけだ」

「死ぬまでは?」

「その通り。お前の父は槍を構え、黙ったまま儂を振り返って黙ったまま、笑いおった。生死を超えた満面の笑みでな。命を捧げるのに悔いはないという笑顔じゃった」

「その後は?」

「ザイラスよ、この年寄りの臆病ぶり、笑うてくれ。お前の父を見捨てたというなら、我らが王ではなく儂こそ、お前の父を見捨てた。お前の父を一人残して、王の跡を追った」

「老ウルスス殿。貴方も列の最後尾に居られたと言うことは、私の父が敵の足止めをしなければ貴方がその役をするつもりだったのでしょう。私の父が勇敢だとするなら、貴方もまた」

 

 ザイラスの言葉に老ウルススは、苦渋のため息をつくように答えた。

「いや、それだけではない。私が我が王に追いついたとき、王はお前の父がいないのに気づいて、救出に戻ろうとされるところだった。そのままでは、戻って、お前の父が足止めした敵の中に突入しかねない勢いじゃった」

「それで、戻られたのですか」

「いや、儂は目撃もしなかったお前の父の最後を、我が王に語って、あの者の命を無駄にしたくなければ、留まるようお諫めしたのだ。この儂の一世一代の嘘じゃった。迫る敵をお前の父は一人で支え、退却の時間を稼いだ。もしお前の父がおらなんだら、儂も我らが王も無事に生きて帰国は出来なかったかもしれぬ」

「では、我らが王が私の父を見殺しにしたのではないと?」

「お前の父は、他の誰よりも強く、勇敢で、そして、忠誠心に満ちていた。父親を誇りにせよ」

 

 ウルススはそう言い置いて、その場を去った。ウルススは未だリダル王にも明かしていない真実をザイラスに明かしたのである。長年隠してきた秘密を明かした老将軍の背は、おいて疲れ果てて見えた。

 もちろん、ザイラスにはリダルの信頼を裏切り、フローイに内通しているという自覚がある。全て、父親がリダル王に殺されたと信じたために行った行為である。その復讐の根拠がザイラスの心の中で音を立てるように激しく崩れた。心を失ったように静止し、その姿は夜の闇に包み込まれていった。 


失意のザイラス

 明くる日の朝、アトラスの命でザイラスを探すアトラスの近習の一人、オウガヌは館の入り口にザイラスの姿を見つけて声をかけた。

「ザイラス。我らが王子がお呼びだ」

 その声に怯えるように振り向いたザイラスの表情は、焦燥感に満ちていて、目は充血し、髪は乱れて、普段の理知的なイメージがなかった。昨夜から近習仲間の居室に戻っていなかった。何を思い悩んでいるのかは分からなかったがこの場所で一晩を眠らずに過ごしたらしい。オウガヌは再び声をかけ、ザイラスはよろりと不安定な足下を踏みしめるように立ち上がった。オウガヌはザイラスを先導して歩きながら声をかけた。

「ザイラス。良い気持ちか? お前はウルスス殿の進言で出世するそうだな」

 このオウガヌという若者はザイラスより年若く、王子の近習としての経験も浅いがザイラスと対等以上の物言いをする。それがオウガヌという青年をよく表していた。度胸もあり剣の腕も卓越している。そして、そんな彼がアトラス王子に抱くのは紛れもなく純粋な忠誠心だが、そのより所は、アトラスがルージ王家の正当な世継ぎだという事である。彼にとって血筋の正しさが全てで、ザイラスは見下す相手である。

 

「ザイラス。どうした?」

 近習仲間のテウススが、オウガヌにつれられて近習の居室に戻ってきたザイラスを眺めてそう声をかけた。普段は誰より身だしなみはしっかりしていて隙を見せない。近習たちも初めて観るザイラスの姿だった 。

「とりあえず、身だしなみを整えよ。我らが王子が余計な心配をする」

 オウガヌが洗い桶に水をくんで、ザイラスに顔を洗えと差し出した。テウススはブラシを手にして大あわてでザイラスの髪を梳いた。この時、自室でザイラスを待ちきれなかったアトラスが、この部屋に姿を現した。

 二人は一瞬見つめ合い、すぐに互いに相手の視線を避けてうつむいた。アトラスには昨日ザイラスに言ってはならないことに触れてしまったという罪悪感があり、ザイラスにはこの王家の人々や仲間を裏切り続けていたという秘密が心の底にわだかまっていた。

 

 アトラスが笑顔を作ってザイラスの声をかけた。

「ザイラス。聞いたぞ。ウルスス殿の部下として聖都シリャードに残るとか」

 そういうアトラスの表情は、まるで出世する兄を褒め称えるような様子がうかがえた。しかし、返事を返すザイラスにはいつもの元気がなかった。

「ありがとうございます」

 ザイラスはそう言った後、つまらないことだと言わんばかりに話題を変えた。

「何か、私をお呼びとか」

 ザイラスは表情にはわずかに作り笑顔を浮かべてはいたが、その声には感情が感じられない。

(昨日の私の言葉を気にかけているのか)

 アトラスはそう思ったが、他の側近の手前、素直に謝罪することもできず、笑顔を浮かべたまま口ごもるように言った。

「今日、私はアトランティス議会に召し出されることになった」

「おめでとうございます」

「それで、議会にゆくに辺り、何か気にかけておくことはないかと……」

 アトラスは信頼するザイラスに何かアドバイスが欲しいというのである。ザイラスはアトラスの意図を察し、自嘲的に考えた。

(裏切り者で内通者の自分に、アトラス王子にアドバイスなどできようか)

 ただ、その思いを口にはせず、感情を交えず言った。

「我らが王子よ。思うがままになされませ。ご自身の信念の赴くままに」

 ザイラスは近習仲間の間でも飛び抜けて思慮深く勉強家で、礼儀作法にも詳しい。ひょっとすれば、同僚から蔑まれる血筋を補うために、身につけたという悲しい過去があるのかもしれない。普段なら、兄のように心のこもったアドバイスをしただろうが、この日のザイラスにはその配慮が欠けていて、アトラスの判断のみに委ねたのである。その冷たく見える態度はアトラスの心に罪悪感を生んだ。

(やはり、私はザイラスを傷つけてしまった)

 この時に、リダル王に仕える小者が、王の指示を伝えに現れた。

「我らが王子、出発の時間でございます」

 会議に招かれるという嬉しさに相まって不安やザイラスに対する罪悪感が入り乱れたまま落ち着かず、アトラスは議会に向かうことになったのである。リダルは先に議会におり、列席する関係者とともにアトラスを待っている。


アトランティス議会へ

 アトランティス議会の様子など、アトラス自身は噂で聞き知っていたのみである。その光景が今のアトラスの目の前に広がっている。議会の門をくぐった所に控えの間があり、各国の侍従たちはここから奥へは入れない。

 この先は神々が支配する神聖な場所として、神に仕える巫女や神官、各国の王のみしか入ることが許されない。その奥は神々の像が建ち並ぶ、幅一トリスタン(20m弱)、長さ五トリスタンの長い廊下があり、最も奥には巨大な真理の女神ルミリア(ルミリア)像を安置する会議場があるという構造である。神官に導かれながらその廊下を歩くアトラスは、無言のままその精緻さに息を飲んでいた。神々の像が建ち並ぶ巨大な通路というだけではなかった。意図的に小さく設計された窓によって、日中だというのに廊下はやや薄暗い。しかし、さの小さな窓から差し込む日の光がそれぞれの時間に応じて、特定の神像を明るく照らし出すように仕組まれている。外部の水路から引き込まれた水が、川を模して神々の足下を潤し、そこには水草が美しい花を咲かせていた。

「ルージ国アトラス王子のお着きでございます」

 アトラスを導く神官がそう伝えると、左右の門戸を守る僧兵が叫んだ。

「開門」

 衛士が左右の観音開きの扉に手をかけて開くと、そこに会議場の景色が広がっていた。アトラスは左右を見回すように眺めたが、圧倒されるようで声が出ない。最も奥に見える弓を構えた女神の神像は真理を司るルミリア神である。天井にもうけられた大きな円筒形の明かり取りの窓から差し込む光が像の表情を照らしていた。照らされる角度によって神像の表情のイメージがかわる。像の真正面上部から日の光が差すこの時間帯は、柔和だが人の心の底まで見通すほどの洞察力を感じさせる表情だった。その像の両脇には2本の樹木があり、それを囲む大きな鳥かごの中で十数羽の小鳥がさえずっていた。

 

 そんな像の手前の席に着く者は神帝スーイン、その左右に三人ずつ控える者たちは神帝スーインを補佐する諮問機関六神司院ロゲルスリンの者たちだろう。更にその手前に円卓があり、九カ国の王たちの席があった。いまは、ルージ国王リダルと、フローイ国王ボルススが席を離れて門の内側でアトラスを待っていた。

 リダルが息子に声をかけようとする寸前、ボルススは祖父が孫を扱うように、満面の笑みを浮かべて大きく広げた腕でアトラスを抱きしめた。

「おおっ、勇者よ。よくぞ、我が孫娘を救ってくださった」  その感嘆ぶり、アトラスを抱きしめる動作の大きさなど、孫娘のリーミルに示す愛情より激しい。ボルススの演出である。リーミルとアトラス、ひいてはフローイとルージの関係を諸国に印象づけておこうというのである。  ボルスス王はアトラスの手を引くように、部屋の奥の国王たちより一段高くなった神帝スーインの玉座の前に導いた。アトラスは神帝スーインを仰ぎ見た。

(ほぉ……)

 様々な考えは、神帝スーインから放たれる雰囲気の前で薄れて消えて、感嘆のみが残った。アトラスと距離を置いて眺めれば、アトラスの前と左右にいる3名の人物、昔オタールという名で呼ばれていた神帝スーインと、アトラスの父リダル、フローイ国のボルススは、この神帝スーインの座に推され、各国の投票によってオタールが選ばれたという。アトラスはそのオタールにアトランティスをまとめ上げるに相応しい人柄を感じたのである。ただ、神帝スーインの両脇に3名づつ控える神帝スーインの諮問機関ロゲルスゲリンを構成するロゲルスゲラたちから、何故か隠す様子もない悪意が感じられる。  一方、神帝スーインも目の前のアトラスに好意的な興味を抱いていた。エリュティアが嫁ぐ相手かもしれないという興味である。神帝スーインはアトラスに声をかけた。

「おおっ、そなたがアトラスか」

「左様です」

 その短い返事を聞くやいなや、神帝スーインの傍らに控えていたロゲルスゲラの一人グリポフが、アトラスを遮るように声をかけた。

「王子、無礼はなりません」

 神の座に列する神帝スーインに直接に返事ができるのは、各国の国王のみ。たとえ、神帝スーインから声をかけられた王家の者であろうと、直接返事を返すなど許されないというのである。もちろん表向きの儀礼で、神帝スーインはエリュティアとは叔父と姪の関係で直接に話をしている。神帝スーインはグリポフを制して言った。

「まぁ良い。儂はこの若者と話して居る。アトラス、勇敢な戦士よ。リーミル姫を救ったとか。その勇気と剣はお父上譲りか?」

「勇気と信念は父から、剣と格闘技は師から学びましてございます」

「そなたが受け継いだものと、学んだものを大切にするがよい」

 神帝スーインはそう声をかけながら、これがエリュティアの婿になるのに相応しい青年かどうか値踏みをしてもいた。神帝スーインは続けて答えた。

「そなたは、何のために力を得、誰に仕えるために知恵を得る? 愛する者を守り、その者の敬愛を勝ち得ることができるか?」

 神帝スーインは今の神に連なる立場では、エリュティアを姪とは呼びにくいが、その姪を妻に迎えて幸福にできるのかと問うのである。模範解答をすれば神々に仕えるという返答をしなければならないし、神帝スーインが示唆するものを察していれば、妻とともに神の導きによって歩むという回答をすればいいのかもしれない。ただ、この日のアトラスは、このシリャードで起きた様々な出来事で心が落ち着かず、神を奉る神聖な場で、神ではなく、自らと人々の存在に心を奪われた。

「私はこの大地と、ここで受けるた生を見守る者に、仕えるのみ。神々にはその姿をご照覧いただきたく」

「聞き捨てなりませぬ」

 ロゲルスゲラの一人ガークトがそんな言葉でアトラスを遮って、侮辱のこもった疑問を投げかけた。

「未熟な王子よ。そなたが仕えるのは、この世界におわします神々か、それとも、己の野望にか」

「このアトランティスを害そうとする者があれば、それが例え神であろうと私の敵です」

「またれよ、若き王子よ。それは、神々を冒涜しているのか」

「我らはそなたの神々への侮辱は聞き流せぬ」

 神帝スーインの右傍らに控えるロゲルスゲラの一人、クジーススが席を立ち、憎々しげにそう叫んだ。アトラスの発言は激しいが、神々への侮辱というほどではない。これだけならクジーススという男が、アトラスを非難することで、自分自身の信仰の篤さを喧伝しようとしたのかともとれる。しかし、ロゲルスリンの狡猾さはこの男だけではなかった。神帝スーインの左傍らのブクススも立ち上がりアトラスを糾弾した。

「如何にそなたが勇敢であろうと、神に対する不敬は許されぬ。王子よ、履き物を脱いで、即刻、神に謝罪されよ」


六神司院の奸計

 履き物を脱ぐというのは、履き物さえ持たない下賤の者どもと同様に身をやつして、神を敬えと言うことで、王家に連なる者に対する侮辱に近い。アトラスはその物言いに興奮した。

「不敬ではありません。神が見守る存在だというなら、我が手で運命を切り開く姿をご覧に入れるまで。我らが運命に神が介入する余地はない」

「なんと愚かな、王子よ」

 そんな言葉に続いて、ロゲルスゲラの一員クレアナスがアトラスを糾弾した。

真理の女神ルミリアを始め、この大地を守る神々に対する信仰こそが、このアトランティスを支えるもの。王子はそれを否定されるのか」

(この者どもは、アトラス王子を意図的に挑発しているのか)

 老獪なボルススは、ロゲルスゲラの者たちの言葉の意図を正確に見抜いた。その目的までは分からないが、本来は神を侮辱する意志のない王子に、彼を興奮させる言葉を的確に吐きかけている。

 神帝スーインがロゲルスゲラの者どもを制するように口を開いた。

「まぁ、よい。勇敢と臆病、忠誠と反逆は表裏一体とか、それは私が神々に問うこと。そなたたちが軽々しく口を挟むことでは無かろう」

 

 

 黙っていたリダルが口を開いた。

「神々の御子たる神帝スーインよ、我が息子を神に逆らう反逆者として糾弾するロゲルスリンの者どもよ、これまででございますな。ただいま以降、我がルージの忠誠は、我が剣の切っ先のみにあり。我が剣で蛮族タレヴォーどもを平らげ、神々への忠誠をお示し申そう」

 リダルは兵を挙げてシリャードに巣くう蛮族タレヴォーを除くと宣言したのである。息子を反逆者と罵られた父親として、これほどの反論の行為はあるまい。

 聖都シリャードに駐留するアテナイ兵は二千。ルージの動員兵力にルージに賛同する国々の兵士を加えれば一万数千の兵力になり、確かに蛮族タレヴォーの兵を圧倒するに違いない。しかし、この美しい都市国家シリャードは戦場となって破壊されるかもしれない。そして、勝利するアトランティスに、海の向こうからアトランティスの兵を遙かに上回る蛮族タレヴォーの兵士が押し寄せて、このアトランティス全土は戦火で荒廃するだろう。そして、アトランティスをまとめていた聖都シリャードの崩壊は、再びアトランティスの大地を各国の覇権を争う場に変えて、血なまぐさい歴史へと導くかもしれない。

 神帝スーインを補佐するロゲルスリンの者どもはそれを危惧しているはずだった。しかし、ボルススが見るところ、神帝スーインの左右に控える六人のロゲルスゲラの者どもの表情に不安な影はなく、むしろ、リダルの発言を心密かに喜んでいるかのような様子がうかがえた。

(いかなる所存か?)

 ボルススは彼らの心底をいぶかったが、リダルは周囲の者たちを気にする様子もなく、息子のアトラスを伴い会議室を去り、リダルに賛同するヴェスター国王、グラト国王が席を蹴って立ち上がりリダルの後を追った。アトランティナの意志を統一するというアトランティス議会は、その数十年の歴史の後、再び分裂の時を迎えたのである。  会議場から退出するリダルは、シュレーブ王の元で足を止めて、短く言った。

「倅のこと、事が成就した後に願いたい」

 進みつつある倅のアトラスとエリュティア姫の婚礼を、これから始まる戦の後に日延べしてくれと言うのである。確かに情勢は大きく変わった。シュレーブ王はその言葉に頷いて同意を伝えた。

 多くの人々の運命が変わり始めた。ただ、この日アトラスが不用意に発した「神であろうと私の敵です」と言う言葉は、ロゲルスゲラの者どもによって喧伝され、アトラスは神への反逆児としての汚名を広めることになる。


アトラスとエキュネウス

「明日、このシリャードを発って帰国する。舘の者どもにそう伝えよ」

 リダルは帰宅途上、帰宅の時も待たずに部下にそう命じて、舘へ走らせた。蛮族タレヴォーの兵と刃を交えると宣言した以上、母国に戻り、兵を整えてシリャードに帰る必要がある。それは蛮族タレヴォーに悟られるより早いほうがよい。

「申し訳ございませぬ」

 忙しく周囲に指示を飛ばす父親に、アトラスはそんな短い言葉をかけた。議会で分別を失った自分が余計なことを言ってしまったと後悔している。父親は息子の謝罪の言葉の意味を解しかねたように首を傾げかけたが、その意図を察して答えた。

「かまわぬ。どうせ、蛮族タレヴォーどもとは一戦交える腹づもりであった。お前は、ただその先駆けとなっただけのこと。誰か王子の馬を曳け」

 リダルは従者にアトラスの馬を曳かせることで、アトラスが馬を下りるのを促したのである。意味も分からないまま馬を下りたアトラスにリダル王は語りかけた。

「まだ日は高い。聖都シリャードの見納めに、町を見回ってくるがよい」

 リダルは息子の気分転換に散歩を薦めたのである。路地が多いこの町では、町の雰囲気に染まりつつ散歩をしようとすれば、馬ではなく徒歩の方が都合が良い。アトラスが王族の生活の中で、心に深い悩みを抱えているらしい。希代の戦術家のリダルは、その観察力で息子が悩んでいることにも気づいていて、わずかな時間だが、息子の心を堅苦しい身分から解放してやろうと考えたのである。ただ、外見にはその優しさは見せず、息子の決意を促すように言い放った。

「次に聖都シリャードに戻るのは、我らがアトランティスの解放者として凱旋するときである」

 

 リダル一行の後ろ姿を見送ったアトラスは、一人の女性の記憶をたどるように彼女の口調までまねて一人呟いた。

「道を辿ってもダメよ、迷うだけ。水路の幅が広くなる方に向かいなさい」

 言うまでもなく、フローイ国王女リーミルと初めて出会ったときに、彼女から教えられたことである。彼女の教えを守っていれば、狭い路地が入り組んだ町を歩き回っても道に迷う事はあるまい。父の配慮か、リーミルの記憶か、どちらが原因かは分からないが、この時のアトラスは、濁りのない純朴な田舎青年の姿を取り戻していた。道に迷ったという焦りや後悔に乱されずに眺めたこの町の雰囲気は、アトラスが生まれたルージ国のどの町とも違う活気に満ちていた。このシリャードは、都市国家という体裁を取っているが、その領地といえるのは、城壁で囲まれた地域のみである。その中に、人口は一万人を超えるという、この時代、信じられないほどの人々を抱え込んだ大都市でもある。神帝スーイン六神司院ロゲルスリンに仕える者どもを除けば、領民は素性の知れない他国からの流れ者も多い。塩や穀物などの物資を販売する者たちの市、鍛冶屋や機織り、洗濯屋など以外に、娼婦がたむろする宿屋や、ばくち場に隣接する酒場など、雑多な店と雑多な人々であふれかえっていた。

 

 アトラスはそんな混沌とした雰囲気の中を、半ば好奇心、半ば驚きの心地で人々の波をかき分けて泳ぐように歩いていた。突然に、町の雰囲気が凍り付くように女の悲鳴が響いたかと思うと、売春宿から娼婦らしい女が転がり出してきた。続いて拳を振り上げて男が出てきたために、女はこの男に殴られて、宿の外に放り出された事がしれた。別の娼婦が地面に転がった仲間をかばうように身を挺して先の女に覆い被さった。女に拳を振り上げている男と、続いて出てきた男がわめき散らす罵声は、アトランティス人と異なる蛮族タレヴォーの言葉である。続いて出てきた三人目の男を追うように、一人の女が怒りを露わにして出てきた。脣に血を滲ませ頬に殴られたような痣がついているが、女は怯む様子がなかった。

「ゲスの蛮族タレヴォー野郎どもは、女の扱いも知らないのかい?」

 女が罵声を浴びせた男たちの服装はシリャードに駐留するアテナイ軍の兵士に間違いない。兵士たちは民衆に理解できない異国の言葉を怒鳴り散らした。娼婦たちは兵士に侮蔑の言葉を返し続けた。

「女を買って、払う金も無いってのかい? 」

 そんな娼婦の言葉で、アトラスにも状況が飲み込めた。アテナイ軍の兵士が女を求めて売春宿にやって来て、行為に及んだものの、女の体の代価の支払いの時にトラブルが起きたということである。腕力で兵士にかなうはずのない娼婦たちは、救いを求めて周囲の人々を見回した。街路を行き交う人々は、その状況に興味を示しながらも距離を置いて関わり合いになるのを避けていた。

 このシリャードの治安は三百名の僧兵とその配下の役人が取り仕切っているが、占領軍としてのアテナイ兵が引き起こす犯罪について、後難を恐れて目をつむり耳をふさいでいた。この場合、アテナイ兵とトラブルになった女たちを救う警察組織は無いに等しいのである。この時に、アトラスが哀れな女たちの目にとまった。人々の輪に混じりながら、アトラスの目は他の人々と違って、アテナイ兵に対して恐れを感じさせないのである。  

 

 同じ頃、シリャード中央のアテナイの砦から、エキュネウスが十人ばかりの兵士を率いて駆けだした。城壁に近い一角の売春宿で、兵士が町の人間相手にトラブルを起こしていると聞きつけたのである。戦勝国の占領軍とはいえ、このアトランティスの大地で侮蔑や反感を買っている。その中心のシリャードで暴動でも起きれば、アテナイの二千の兵士では対処できなくなるかもしれない。アテナイ軍が密かに恐れる状況である。そのため、砦以外の場所での酒や女遊びを固く禁じてはいるが、時に今回のように羽目を外してトラブルを起こす者どもがおり、軍律に照らして厳しく罰せねばならないのである。

 

 エキュネウスと部下が現場に到着したとき、アテナイ軍の兵士三人は、血まみれで地面に転がっていて、その傍らに血に染まった抜き身の長剣を持ったまま一人の青年が立っていた。二人の兵士の剣をたたき落として戦闘不能にし、最後に残った兵士に止めを刺そうとしている姿である。もちろん、その青年はアトラスだが、この時、二人は互いに相手の名も身分も知らない。アトラスの足下に転がっているのは、一般の兵士とはいえ、実戦を切り抜けてきた猛者揃いである。その三人を相手に切り結んで負傷している様子がないというのは、この青年アトラスが剣に練達している様子が伺いしれた。

 アトラスがその剣の切っ先を新たに現れたアテナイの指揮官らしいエキュネウスの喉元に向けて何かを言ったが、エキュネウスにはその言葉の意味が分からない。ただ、新たに十数名の兵士が現れたにもかかわらず、彼アトラスは臆する様子を見せなかった。

【待て。我々はその者どもを罪人として砦に引き取るために来た】

 エキュネウスはアトラスに向けて大声でそう呼ばわったが、アトラスの言葉が理解できないのと同様、アトラスにもエキュネウスの言葉は理解できまい。ただ、エキュネウスに戦闘の意志がないことは察したらしい。エキュネウスに向けた太刀の切っ先を転じた。まだ抵抗を続けてアトラスに向けて剣を振る兵士に、アトラスは止めの太刀を振り下ろそうとしたのである。

【待てと言うに】

 そう叫び終わるまもなく、エキュネウスは腰の剣を抜いて駆け寄って、アトラスとの間を詰め、アトラスが振り下ろした剣を下から払った。思いも掛けない攻撃に、アトラスは剣を取り落とし、エキュネウスは剣の切っ先で地面に落ちたアトラスの剣を指して言った。

【争う気はない。剣を拾って去れ】

 エキュネウスは剣を鞘に収めつつ、去れと言った言葉の意味はアトラスには通じていないらしいことを悟った。若者は落とした武器を拾えと言ったことは察したらしく、地面に転がった剣を拾い上げたが、エキュネウスに剣を向けて向き合ったのである。エキュネウスも再び剣を抜かざるを得ない。目の前の青年が剣を抜き、指揮官エキュネウスもまた剣を抜いて応戦しようとするのを見た部下たちも手にしていた槍を構えた。

【お前たちは手出しをするな】

「ほぉっ、一人で私の相手をするというのか。その無謀さ、教えてやる」

 エキュネウスが推測したとおり、アトラスはよほど訓練を受けていてその剣裁きは鋭く、受けた剣を通じて腕がしびれるようだった。一方で、アトラスは兵士として一通りの剣の使い方を経験しただけの兵士を相手にして、アテナイ人の剣の強さを推し量っていたが、新たに剣を交えた男の剣さばきと身のこなしに舌を巻いた。剣を会わせること数十合。二人は互いに荒い呼吸を整えるために剣を構えたまま距離を置いた。

「面白い。なかなかやる」

【お前のような者に出会えたこと、戦闘の神アレースに感謝を捧げよう】

 二人は再び接近して剣を会わせた、一合、二合、そして、破滅的な音。エキュネウスの剣がアトラスの剣の激しさに耐えられず折れたのである。両者の剣の扱いの上手下手ではなかっただろう。既に百年以上もの長きにわたって鋼の剣が鍛えられているアトランティスと、古い青銅の剣が鋼に置き換わろうとする時期のアテナイの未熟な製鉄技術の差であったに違いない。  エキュネウスは次の攻撃を予想して右手に残った剣の束を捨てて、武器を持たないまま身構えたが、アトラスは意外にも剣を鞘に収めた。その行為を剣を失った敵に対する哀れみだと考えたエキュネウスは叫んだ。

【剣は折れても、アテナイの誇りは折れては居ないぞ】

 もちろん、そのアトラスが言葉の意味を理解することはない。アトラスは静かに言った。

「これ以上、戦う理由があるとでも?」

 偶然、三人の女を守らねばならない状況に遭遇して、その義務は果たした。見たところ、新たに駆けつけた蛮族タレヴォーは仲間を収容に来たのみで、女たちや周囲の民衆を傷つける気配はないのである。アトラスは蛮族タレヴォーを一別してから立ち去ろうとした。この時、二人が発した言葉が同じ意味を持っていたのは偶然だったろうか。

「この次は、戦場にて」

【軍神アテーナーが、我々二人を戦場で相まみえさせるように】

 蛮族タレヴォーどもに背を向けて立ち去りつつ、アトラスは妙に心地よい興奮を覚えていた。勝利感でも優越感でもない。今まで誰かが指示や運命に身を任せて生きてきた。あの蛮族タレヴォーの青年との戦いは、アトラスが初めて自分で運命を決めたきっかけになったのかもしれない。  エキュネウスもまた、あの不思議な若者の表情をハッキリと心に刻んでいた。このアトランティスでは占領軍として憎しみの視線を受け、蛮族タレヴォーとして侮蔑的な扱いも受ける。しかし、あの青年がエキュネウスを眺める目にそんな感情は皆無だった。というより、まるで巧みに操られた人形のように感情そのものを感じ取ることが出来なかったのである。

 

 事件のきっかけになった三人の娼婦は、彼女たちに仕事の報酬と事件の謝罪を兼ねているらしい銀の小粒を丁寧に渡して去ったエキュネウスを、先に彼女たちの礼も聞かずに立ち去ったアトラスと見比べるように見送った。社会の底辺で蔑まれる事が多い職業の女たちだが、いままで彼女たちに蔑みの感情を持たず、彼女たちを人として扱い、接したという意味で、アトラスとエキュネウスはよく似てたのである。



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