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聖都の検分

 地震に見舞われたのはアテナイ軍ち駐屯地も同様である。兵は兵舎から飛び出して空を仰いでゼウスに救いを求める程に動揺した。しかし、その動揺が時を経ずして収まったのは、司令官エウリクロスの人望の故に違いない。エキュネウスはそんな叔父をまぶしげに仰ぎ見た。

 

 エウリクロスは甥にシリャード内の探索を命じた。地震による被害調査の名目で、この都市国家の地理不案内な甥のエキュネウスに、現在彼らが置かれている状況を教えるのにちょうど良いと考えたのである。彼は、側近のカルトレウスと護衛の兵十名をつけて、エキュネウスを送り出した。

 

「隠す必要はない。隅から隅まで案内せよ」

 そう言った総指揮官に、カルトレウスは頷いて、その言葉の裏の意味を察したことを伝えた。カルトレウスの見るところ、総指揮官の甥は、忠誠心と誠実さに富み、アテナイ人の象徴とも言って良い気性の人物らしい。この濁りのない気象の若者に、シリャードというアトランティスの中心地で、どろどろと粘るような情勢の香りを嗅がせておかねばならない。

「陽を浴びた景色は、一段と壮麗でございましょう」

 カルトレウスは、その景色に圧倒され、無言でルミリアの神殿を眺めるエキュネウスにそう言った。昨夜の砦の中、二人で並んで眺めた神殿だが、朝日を浴びるその姿を間近で眺めれば、その屋根は青い空にとけ込む高さがあり、ひと抱え以上もある太さの白大理石の柱は、太陽をかたどったレリーフが刻まれ、金の装飾が施されていた。アトランティス大陸の中央を南北に分断するルードン河の南の岸部にあり、真上から見れば正方形神殿の壁面を正確に東西南北に向けている。そのために、朝日が輝くこの時間は東の壁面が白くそびえて見え、その壁面や天井を支える柱のレリーフが朝日を反射して輝くのである。この時代、これほどの建造物は、ギリシャ世界には無かった。

「しかし、大樹も幹から朽ちると申します。外見は壮大でも、その内側は白蟻に食い荒らされておりますよ」

「白蟻?」

「ほらっ、そこかしこに、うようよと居りますな」

 カルトレウスは神殿の周囲であわただしく動き回る神官たちをあごで指し示した。

「ずいぶん、慌ただしいようだが」

「先ほどの地震で慌てふためいて居るのでしょう。ご覧あれ、休会のはずの議事場に急遽、各国の国王どもの旗が掲げられております」

「旗がどうしたのだ」

「アトランティスの国王どもの会議が開かれるときに掲げられるのかならわしとか。不穏な雰囲気に、今頃、各国の公邸に使者が遣わされているところでございましょう」

「何が話し合われるのか興味があるところだな」

「いつものごとく、地震はこの聖地に蛮族タレヴォーの侵入を許しているアトランティナに、神が怒りをあらわにしているのだ、などと騒ぎあうのでございましょう」

「詳しいな」

「何、今日の夜更けには、会議の内容を告げる者が、砦に参りますよ」

「ここに、我々への内通者が居るというのか?」

 若く純真なエキュネウスには信じがたい。昨日からその巨大さや壮麗さに驚かせ続けられているシリャードという都市国家は信仰によって、アトランティスの九カ国をまとめ上げる精神的な支柱のはずだ。その内部に裏切り者が居るというのである。しかし、カルトレウスはエキュネウスの問いかけに意味深な笑顔で頷いて、疑問を肯定した。

 

 そんな会話をしつつ、一行はルミリア神殿とその両脇にある六神司院ロゲルスリンやアトランティス議会の前を通り過ぎた。

「神殿の東と西に、各国の王の居宅がございます」

 カルトレウスはそんな案内をしながら、背後の兵に手で合図をして道の脇に控えさせ、自らもエキュネウスを導くように街道沿いの民家の軒先に立ち止まった。前方からやってくる行列に道を譲ったのである。カルトレウスは説明を続けた。

「ここでは、西にはフローイ、東にはルージなどの国王が住まいを構え、笑顔の内側では、互いにのど笛を食いちぎるかのような内情。我々は彼らとの争いを避けつつ、彼らの争いを見守ればいいと言うことです」

 エキュネウスは行列を眺めて聞いた。

「あれは?」

「旗から判別すればシュレーブ国の者どもですな。列を構成する侍女どもから見れば、後ろの輿には王家の女どもが乗っているのでしょう」

 そんな言葉を交わすエキュネウスとカルトレウスの前を行列の先頭が通り過ぎた。彼らが存在しないかのように粛々とした雰囲気である。蛮族タレヴォーの者どもを見るのも汚らわしいとでも言いたげに、行列の者どもの中にアテナイの兵士と視線を合わせる者が居ない。

 次の瞬間、エキュネウスと行列の輿に載った少女の視線が一致した。おそらく二人は心を共有したに違いない。記憶をかき乱される瞬間、相手が昨日出会った人物だと理解する瞬間。少女はすぐに顔を伏せてエキュネウスの視線を避けたが、それは他の人々のような不浄な者から目を背けるためではない。再び出会った相手が何者なのかという疑問を思いめぐらす所作だったのだろう。エキュネウスは通り過ぎる行列を眺めつつ少女と同じ思いを言葉に出して尋ねた。

「あの女性は?」

「輿に王家の紋章がございました。おそらく、シュレーブ王の娘のエリュティア姫かと」

「エリュティア」

 エキュネウスは少女の顔立ちと共にその名を心に刻んだ。昨日は美の女神アフロディーテを思い起こさせた少女だが、改めて眺めたエリュティアには成熟した女性の美というより、まだ未熟さ故の純真さを秘めた少女の美しさがあった。顔を伏せたエリュティアは無垢な瞳で胸元に赤い包みを眺めていた。


王の宝剣

 時をやや遡る、まだ地震の混乱から覚めない早朝の聖都シリャードの中央付近で、若者たちの勇ましいかけ声が響いていた。ルージ王リダルの館で、ルージからやってきたアトラスとその側近が、中庭に設けられた砂場でレスリングのトレーニングをしているのである。アトラスたちにとって朝の習慣に過ぎないが、地震の直後で不安に駆られる人々には、若者たちが競う声は激しい乱闘を連想させ、何事が起きたのかと耳を澄まさせた。

 

 リダルは若者たちのトレーニングを止めさせようとはしなかった。若者たちが競い合う勇ましい声が地の悪神を威圧するという言い伝えがあった。ただ、この王は希代の戦術家らしく合理的で、若者のかけ声で悪神を退けようとは考えてはいない。若者たちの力強いかけ声で、地震で乱れる人々の心が静まることを期待したのである。その若者たちに混じるザイラスの声を聞きつけたリダルは、部下にザイラスを執務室に呼ぶよう言いつけた。

「我らが王よ、ただいま参じました」

 ザイラスが挨拶するまもなく、リダルはザイラスを親しげに呼び寄せて続けた。

「おおっ、ザイラスか。近こぅ寄れ。神帝スーインからのお召しがあった。儂は議会へ行かねばならない」

「では、エリュティア姫との面会の席は?」

「その事よ。お前はアトラスやエリュティア姫と歳も近い。年寄りどもより、気づくことも多かろう。お前が姫を迎える手配りをせよ」

「私のような者がですか?」

 ザイラスがそう聴いたのは、自分は他の者と違って、一般庶民出身で誇るべき家柄がないということである。リダルはその点について全く膾炙する気配もなく断言した。

「そうと決めたぞ」

 この王が断言すると、その言葉を覆すことは難しく、臣下は命令を受け入れるしかない。

「仰せの通りに」

 そう頷くザイラスに、リダルは腰の短剣を差し出した。リダルが日常生活の中で、戦の長剣の代わりに身につけている装飾品で、武器としての実用性はない。しかし、束にはアクアマリンがはめ込まれたルージ王家を証する持ち物である。

「これを、儂の身代わりとせよ」

 リダルがそう言ったのは、王族に次ぐ貴族の一員という身分に取り立てるので、気兼ねせず他国の王家の者に接しろと言うことである。装飾や儀礼を嫌うこの王は、時に家臣が驚くほどの気配りと大胆な決断をする。そしてそれは気まぐれや思いつきではなく、常に冷静な計算の結果である。確かに、ザイラスという青年は、次世代の王となるべきアトラスを支える側近として申し分のない能力を持っていた。

 

 しかし、ザイラスは光栄に浴した喜びの表情の内側で、様々な感情が入り交じって乱れるのを自覚している。男としてリダルの勇猛さには敬意を感じている。その男から全幅の信頼を得たという喜び。また、リダルがザイラスの父を殺した仇だと言うこと、そして何より、今の自分がリダルの信頼を裏切って他国に内通しているという後ろめたさである。ザイラスは複雑な表情で、アトランティス議会に向かうリダルの背を見送った。ただ、復讐心というザイラスを支え続けた信念に揺るぎはなかったようで、彼は迷いを振り払って任務を考えた。あと、二ライ(約二時間)も経てば、挨拶に来るエリュティア姫を館に迎えるのである。


再会の時

 アトラスと面会するためにエリュティアが、シュレーブ国公邸を発ったのは、面会時間の二ライ前である。目的のルージ公邸はルミリア神殿を挟んで東に1ゲリア半、現代の距離の単位で約1kmにある。成人が早足で歩けば15分とかからない距離だが、自国の公邸前で行列の隊列を整え、エリュティアを輿に乗せ、神殿前の蛮族タレヴォーの砦を避けると称して、迂回して、シリャードに住む一般市民が集う広場を通過して、休息を取った。ルージ国公邸まで二ライの時間をたっぷりと使うのである。全て、シュレーブの姫がルージ公邸を訪問すると言うことを市民たちの目に焼き付けておく為である。この噂はすぐに各国に広がるだろう。行列に付き従うエリュティアの教師ドリクスはそんな計算をしていた。ドリクスは最後の決断を促すようにエリュティアに語りかけた。

「では、参りましょうか」

「はいっ」

 エリュティアは短く返事しただけで、素直に輿に乗り込んだ。アトラスへの贈り物になるクレアヌスの胸板を、深紅の布で包んで胸元に大切に抱きかかえていた。本来は侍従が捧げ持って目的地まで運搬する。エリュティアはそこ刻まれた真理の女神ルミリアに祈りを込めるように、侍従にはまかせず自分で持参しているのである。

(エリュティア様は、クレアヌスの胸板にどんな思いを込めているのか

 ドリクスはふとそう思った。彼女は救国の英雄の登場を祈っているに違いない。しかし、周囲の男どもによって運命の糸を操られる操り人形の少女に、この時だけはアトラスと結ばれた後の自分の幸福のみ祈っていて欲しいとも考えたのである。

 一行は広場を出発した。既に到着を知らせる先触れの使者はルージ公邸の門前に到着しているだろう。

 

 同じ頃、館の主が不在になったとき、公邸の内部を取り仕切る役割を託された老ランドスは、王の意を受けて、ザイラスによく協力して準備を整えた。その手際の良さに、アトラスの近習の若者たちはすることもなく手持ちぶさたで、公邸の門に近い一画に屯している。

「我らが王妃となる姫か。早く一目みたいものだ」

 アトラスの側近のラヌガンが仲間の若者を見回して言った。仲間もまた好奇心を込めて頷いた。彼らはリダルを名ではなく「我らが王」と呼ぶ。「我らが王妃」と称したのはアトラスが次の王となり、その王の后として彼らが敬う女性になるだろうという確信を持っているのである。

「ラヌガン、お前たちは、奥の部屋で控えていろ」

 ザイラスが通りかかって、若者たちに命じるように言った。

「朋輩のくせに、我らの指揮官にでもなったような口をきく」

「王の短剣を得て、思い上がっているのではないか」

 そんな声が背後に聞こえたが、ザイラスは忙しく、説明に要する時間がない。ザイラスには先日、エリュティア姫を訪問したときの記憶がある。アトラスがやや乱暴で、姫に対する敬意を失する態度だった。今回の面会ではそれを避けたいと考えているのである。

(なんと、愚かなことだ)

 ザイラスは自分の心情を心の中でそう評した。リダルを親の敵だと信じ他国に通じている。ただ、その一方で幼い頃から共に過ごしたアトラスに、弟に感じるような親近感を感じていた。父の愛情を妻であるアトラスの母に向けさるため、アトラスは父親の歓心を買おうと行動する。時にそれが乱暴な武人の姿を取ることがある。

 しかし、その仮面を取り払えば、アトラスという王子は無邪気な少年の心を持っていて、あの無垢なエリュティア姫とよく似合う。ザイラスはアトラスを無垢な少年のままエリュティアと娶せてやりたいと考えているのである。この時期にアトラスの素直な人格を知るのは、幼い頃から共に過ごしたザイラスと、偶然に彼の心に触れたリーミルだけだったに違いない。先日の面会の後、アトラスは素直に自分の無礼な態度に自己嫌悪を抱いているようだ。ただ、ここで側近のラヌガンたちにそそのかされれば、彼は再びつまらぬ見栄を張って武人の姿を装うに違いない。ザイラスはそれを避けるために、一時ラヌガンたちをアトラスから遠ざけておこうと考えたのである。しかし、意外なところでザイラスの危惧が的中した。

 

 将来の妻となるかもしれない女性がまもなく来訪する。自分の運命に関わる女性だという思いと、出会ったときに不躾な振る舞いをしてしまった罪悪感で落ち着かず、アトラスは控えの間に留まっておくことができずに、部屋の入り口をうろうろと歩き回っていた。奥の間に引き上げるラヌガンたちがアトラスと顔を合わせたのはそんな時だった。

「我らが王子ではないか。ここに居られたのか」

「おおっ」

 頷くように応じたアトラスに、ラヌガンと同じ侍従のテウススが茶化すように言った。

「我らが王子が、王妃となる娘御を手懐づける様子、とくと拝見いたしましょう」

「その通り。我らが世代になっても、女どもに政治に口出しされるのはたまらぬ」

「女どもをてなづけるのは早いほうがよい」

 侍従たちは次々にそう言った。名指しはしないが、ルージ国の宮廷でアトラスの母リネをはじめとする女たちが、政治に口出しをする状況に辟易しているというのである。飢狼王とも称される勇猛なリダルが、気だての強い王妃の扱いに手を焼いているというのは、家臣や他国の者どもの知るところで、失笑を買ってもいる。それを密かに知るアトラスは未来の家臣に応えざるを得ない。

「何、女など力でねじ伏せればいいだけのこと」

 アトラスの言葉を聞いたラヌガンたちは口々に次の世代の王を褒めた。

「さすがは、我らが王子。期待していましょう」

 部屋に走り込んできた小者がアトラスに告げた。

「エリュティア様がお着きになりました」

 アトラスの目から素直な少年の心が消え、武勇を誇示する男の視線に変わっていた。


エリュティアの来訪

 アトラスがエリュティアを迎えたのは、庭に面した館の一室である。大きな窓があるのだが、窓の外の大木が木陰を作って、部屋の隅は灯りが必要ではないかと思わせるほど薄暗い。風通しはよく、庭の花々の香りが風に乗って漂ってきた。ザイラスはその部屋の窓際に、二人のためにベンチを準備させていた。やや薄暗く落ち着いた雰囲気の中で、花の香りが漂う木漏れ日を浴びる窓際のベンチに、主人と来客が並んで座るという演出である。  この館まで壮大な行列を作っていた人々は、館の敷地の一角に導かれてもてなしを受けた。エリュティアとドリクスは、そんな人々を残して出迎えに出たザイラスにアトラスが待つ部屋に導かれた。

 

「我らが王子よ。エリュティア様がお着きです」

 ザイラスの言葉に、ドリクスに返事を促されたエリュティアがか細く言った。

「先日のご訪問の返礼に参りました」

「よぉ、参られた。歓迎いたします」

 アトラスの言葉に、傍らに控えていたザイラスは笑顔のままぴくりと眉を動かした。王子の声音に威張る調子があり、素直な心を失っている様子が聞き取れたのである。かれはそれを言葉には出さず、新たな話題を窓辺の鳥かごに移した。

「ほらっ、窓の外にリルナがおります」

 ザイラスの目配せをうけたアトラスが話題を引き継いだ。

「ルージの山岳地帯にいる小鳥です。美しい姿と囀りがルージ人の心を和ませてくれるのです」

「ただ、エリュティア様の美しさにはかないますまい」

 ザイラスはそう付け加えるように言って、アトラスの視線をエリュティアに導いた。そして、二人を優しく窓辺のベンチに追いやるように腕を広げた。ザイラスはドリクスに会釈して、その視線で部屋の片隅の椅子を指し示しながら言った。

「では、ドリクス様には、あちらでリルナの話などをお聞かせいたしましょう」

 ザイラスはアトラスとエリュティアを窓辺に残して、自分とドリクスは部屋の隅で控えていようというのである。ドリクスはそれを悟って同意した。

「おおっ、是非とも聞かせていただきたいものだ」

 

 薄暗く目立たない場所だが、窓辺にいる二人の会話が聞こえ、必要なら、二人の会話が弾むように話題を投げかけることができる位置である。

(ルージに、こういう若者が)

 ドリクスは部屋の隅に誘うザイラスの背を眺めてそう思った。ルージは武辺者の地と聞いていたが、わずか二十歳にも満たない若者が、このような細やかな心配りをすることに驚いたのである。しかも、その気遣いは計算ではなく人間らしい優しさが垣間見えた。

 

 窓辺に残されたエリュティアは凍り付いたように堅く、胸元に抱いた物を抱きしめる姿勢を保って、アトラスの言葉を待っていた。アトラスもまた戸惑っていた。今まで若い婦人と二人で話をする機会はほとんどなかった。アトラスは、ふと別の女性を思い出した。

「私の可愛い剣士さま」

 リーミルならそう優しく笑って、男心の隙にするりと入り込んで来ただろうと思ったのである。しかし、エリュティアにはリーミルのようなしなやかな話術はなかった。エリュティアは姿のみならず、発する言葉も繊細で美しいが、外見は薄氷のように堅く濁りのない透明感と、心は脆く、返答の力加減を誤れば、傷つけ壊してしまいそうな危うさを感じる。そんな彼女が緊張で震えるような声で、しかし、力を込めて言った。

「ささやかですが、先の贈り物の返礼でございます。どうぞお受け取りくださいませ」

 エリュティアは胸に抱いていた包みを解いて、細い鎖がついた金属板をアトラスに差し出した。

「これは?」

 アトラスの問いに、エリュティアはどう応えたものか迷ったが、円盤に刻まれた文字を読み上げた。

「『我、常に真理の女神ルミリアと共に在り。真理の女神ルミリア、常に我を導かん』」

「では、この像は真理の女神ルミリアですか」

 アトラスは円盤に刻まれた女性の像をエリュティアと見比べて、似ていると思いつつ、傍らに刻まれた弓で、エリュティアの言葉に納得した。

冶金の神クレアヌスが、この胸板に真理の女神ルミリアの姿と精神を写し取ったという伝説がございます」

「この金属板に、真理の女神ルミリアの意志が込められていると?」

「我がシュレーブの祖・グヴォーダー王が身につけた物で、この胸板を身につける者にルミリアのご加護があると言われています」

 エリュティアの言葉にアトラスは反駁した。

「民を率いる王として必要なのは、真理ではなく混沌の中で示す勇敢さと力強さです」

「この胸板によって、貴方様の勇敢さと力強さが真理の導きを受けますように」

 エリュティアは祈りをこめてそう言ったが、その言葉によってアトラスには心をかき乱されるように母の姿が思い起こされた。夫の愛が得られないと嘆き悲しむことが人生になったかのような女の姿である。もし、真理があるなら、母の運命は何処で狂ってしまったのかという疑問や怒り、そして、狂った母の運命の産物が母と父の間に生まれた自分自身ではないかという罪悪感、そんな感情がアトラスの返事にやや怒りの感情を込めさせ、口調が激しくなった。

「真理の導きとはなんです?」

「それは」

 とまどうエリュティアにアトラスは断言した。

「私の運命を定めるのは、私自身です」

「では、人に神の導きは不要だと仰るの?」

「私は自ら運命を切り開きます。エリュティア、妻としての貴女の進むべき道も示しましょう」

「神々のご威光を知らないのは傲慢ではありませんか」

「いいや。神に運命をかき乱されてたまるものか」

 アトラスはやがて妻となるだろう女性の型に手をかけて引き寄せて、言い聞かせるように語り続けた。

「エリュティア、私に貴女の運命を託しなさい」

 発した言葉の意味はともかく、本来はエリュティア様、あるいはエリュティア姫と敬意を込めて呼ぶべき相手である。アトラスは彼女が既に妻であるかのように呼び捨てにし、彼女を引き寄せる腕にも優しさがなかった。その粗暴な振る舞いにエリュティアはおびえを見せてドリクスを振り返った。  ルージ国における王妃リネと王リダルの確執は、息子のアトラスの心に深く食い入ってトラウマになっている。それを差し引いてもアトラスは感情に流され、相手の女性にぶしつけな振る舞いをしているとザイラスは考えた。

 

 この時にエリュティアの教師ドリクスがアトラスとエリュティアの間に割って入らなければ、ザイラスがアトラスを引き離していたに違いない。ただ、シュレーブ国のドリクスの行為の方が、洗練されていた。

「なんともお元気な話しぶり、お二人ともお若い。この年寄りには羨ましゅうございます」

 ドリクスは笑顔で二人の話題に割り込みながら、エリュティアに言い聞かせるような素振りを取って、二人の間に割って入って、エリュティアの視界からアトラスを消した。

「アトラス王子の果敢な意志はおいおい慣れましょう。エリュティア様、まだお気づきではないが、貴女様には果敢な意志を包み込む包容力がございます。やがてお二人はお似合いの夫婦になられましょう」

「私は、この方に、嫁がねば……」

 嫁がばならないのですかという、エリュティアの言葉をドリクスは途中で制して、アトラスを振り返って言った。

「本日は、返礼のみにて、この辺りで失礼いたしましょう。正式なお話は改めて正式な使者を使わすことにいたします」

 ザイラスの目配せで、アトラスは冷静さを取り戻して、自分の粗暴さに気づいていた。アトラスは礼儀を補うようにドリクスの言葉に応じた。

「では、姫をお送りいたしましょう」

「ご配慮は無用にて」

 ドリクスは笑顔でそう言って、ザイラスに目配せをした。いまは、この二人は距離を置く方が良いというのである。ザイラスもよく察して、アトラスの背後からアトラスの肩に手をかけてエリュティアの後を追うのを止めさせた。ドリクスはエリュティアに寄り添うように公邸の玄関へ導きつつ、アトラスのことを考えた。先ほどのアトラスの口調から推察しても、エリュティアを妻に迎える心の準備はできているようだった。大陸の中原に覇を唱えるシュレーブ育ちの姫の優美さと、大陸の東に浮かぶ島国のルージの王子の粗暴さの吊り合いがとれるかどうかは別にして、両国の関係を強めるための輿入れのきっかけは整ったと判断したのである。


アトラスの後悔と期待

 部屋に残されたザイラスは、非難の口調を隠そうともせずに言った。  「我らが王子よ、ご婦人に対する敬意を忘れてはなりませんと申したでしょうに」

 普段なら、兄が弟を諭すように注意する男だが、この日のザイラスは、リダル王から受けた恩恵と裏切りの罪悪感で心が乱れていた。アトラス自身の心が乱れていることを気遣う余裕もなくアトラスを責め続けた。

「我がルージ国とシュレーブ国の体面をお考えください。姫君に敬意を払えないなど愚か者のすること」

 この時、アトラスもまた心の整理がつかず気が高ぶっていた。

「ザイラス。お前は私が愚か者の蛮族タレヴォーだとでも」

「そうは申しておりません。我らが王子が愚か者ではない故に、行動に注意してくれと申し上げているのです」

「黙れ。下賤の父親の息子が、口が過ぎよう」

 一瞬、二人の間に沈黙が走った。父親の出自が卑しいと言うことはザイラスが密かに気にかけていることは、アトラスもよく知っている。素直な心で言えば、アトラスはザイラスに兄のような親近感と信頼感を抱いている。ただ、この時は口が滑った。ただ、致命的な言葉であったが故に、アトラスから投げかけられた言葉はザイラスの心に深く刻まれた。アトラスも自分の過ちに舌打ちしたくなる思いとともに、訳のわからない怒りや不満が心の中で渦巻いて、謝罪をする機会を失った。

「下がれ。お前の顔は見たくもない」

 アトラスの指示に、ザイラスは一礼して従ったが、その表情に失望感や悲しさを隠しては居なかった。アトラスは近習の者たちとも昼食を供にせず、一人で部屋に閉じこもった。

 

 お互いの身分に気づく前のリーミルがアトラスに尋ねたことがある。

「ルージの牙狼王リダルが戦をしたがっているのは本当なの?」

 アトラスの父が好戦的だという噂が立つのは、アトランティス議会での彼の立場による。アトランティスの大地から蛮族タレヴォーどもを追い払い、アトランティナによる統治を取り戻すというのがリダルの主張である。彼はアトラスの祖父に当たるロスドム王の息子として五百の兵を指揮して海を渡り、敗色が濃い中で、その兵が潰えるほど戦い抜いたが、戦意は失わなかった。そして、何よりルージはその得意とする海の戦いでは、ギリシャ人に負けたことがなかった。そんなリダルは戦に負けたという意識を全く持っていない。しかし、アトランティス議会の愚かな妥協の産物として蛮族タレヴォーどもと講和し、アトランティナにとって最も聖なる場所に蛮族タレヴォーに居座られている。リダルにはそれが腹立たしくてたまらないのである。  ことある事に開戦を叫ぶリダルに対し、穏健派のシュレーブは対立する立場にあり、フローイは立場を明らかにしないままで様子をうかがっていた。アトランティスを代表する三つの強国は、それぞれの思惑で異なる立場を取り、小国はその3カ国に色よい気配を見せながらも立場は鮮明にしては居ない。

 

 リダルが会議から帰ってくるときには、大抵、開戦を叫ぶリダルに対して物わかりの悪い各国に怒りを露わにしながら帰ってくるのだが、今日のリダルは機嫌がよい。帰って来るや、執務室に息子を呼びつけ肩を抱くように言った。

「おおっ、アトラス。我が王子よ、どうして儂に黙っていた」

「何を、でございますか」  アトラスは父の言葉に首をかしげた。幼い頃からこの父親と腹を割って話したことはないし、内心の複雑な心情を伝えたことはない。しかし、王と王子の間で公にすべき事柄で、父に秘密は持っていない。リダルは察しの悪い息子に機嫌良く言った。

「リーミル姫とのことよ」

「リーミル姫とのこと?」

「隠さずとも良い。子細はボルスス王から聞いた。お前は暴漢に絡まれて難渋するリーミル姫を救ったとか」

 その父の言葉で、アトラスにもリダルの言葉の意味が分かりかけてきた。父親に召されてこのシリャードに到着した日、忙しい父と面会することができないまま、街の中を彷徨っていて彼女に出会っていた。ただ、素直なアトラスは姫を救ったという自覚はない。自分に絡んでくる暴漢を切って捨てるしかないと考えた時に、姫の機転でその状況を抜け出したという感覚である。息子の記憶の整理が突かないと見たリダルは、更にボルススから伝え聞いたことを話して聞かせた。

「お前は、姫に言いがかりを付ける二十人もの荒くれを、一気に蹴散らして姫を救い、名も告げずに去ったと」

「いや、それは」

 実戦は未経験だが、アトラスは将来の王として剣やレスリングなど戦闘訓練を受けていて、敵意をむき出しにする相手の数を数えることぐらいはできる。アトラスの記憶では、暴漢はせいぜい三人で、二十人というのは数字が誇張されている。リダルには実戦経験があり、一人で二十人の暴漢を相手にするという話の不自然さに気づいても良いはずだがそれを口には出さなかった。

 もしも、愛情に不器用なリダルの心情を読み解けば、息子を褒められたうれしさに冷静さを失った父親という姿だが、アトラスはその父親の心情に気づかなかった。その数字を正そうとするアトラスの言葉を制してリダルが言った。

「よいか、アトラス。ボルスス王の口利きで、お前は議会に召されて、神帝スーインから勇者としてのお言葉を賜ることになった」

「私が、ですか?」

 アトランティス議会の会場は関係者以外の入室は厳しく制限されていて、例え王家の者とはいえ、国王以外の者が参内するのは例がない。まして、神帝スーインの直々にお言葉を賜るというのは信じられないほど光栄な事である。

「左様。フローイ国のボルスス王の口添えもあったが、神帝スーインもお前に興味を示され、是非とも会ってみたいとのことだ」

神帝スーインが、私に」

 突然にわき上がってきて体を満たした感激で、アトラスは言葉を失った。この時代、神帝スーインといえば神に次ぐ地位の人物で、そんな人物が会いたいと言うのは、アトランティナにとって想像もつかないほど光栄な出来事である。



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