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聖都のエキュネウス

 聖都シリャード。アトランティス九カ国を束ねる都市国家として宗教と政治の中心地である。その中央をルードン河が流れ、シリャードは北と南に分断されている。ルミリアの神殿やアトランティス議会はシリャードの北側にある。中央の神殿から半径二ゲリア(約1.6km)の位置をぐるりと城壁に囲まれていた。北部シリャードにはその城壁の北と東西の三カ所に城門があり、城兵が駐屯して不審者の出入りを制限している。南のルードン河に面する方角には入り江に桟橋がある。

 

 エキュネウスたちアテナイ兵の一隊がたどり着いたのは、シリャードの東門である。その門でエキュネウスたちはこの国の情勢の一端を眺めた。城門の外に面した詰め所にいる兵たちは、装備から見てこのシリャードを守るアトランティスの僧兵に違いない。不審者を排除する任務を背負った彼らは、エキュネウスたちアテナイ兵一行に憎しみや侮蔑の視線を送りながらも、通行を妨げることはなかった。門の内側にもう一つの詰め所があり、詰め所から顔を出した兵士は、エキュネウス一行に懐かしい故郷の香を感じ取って歓喜の表情を浮かべた。アテナイ軍の衛兵の詰め所である。この都市が外部にアトランティス人、内部には占領軍たるアテナイ軍の2重の支配を受けているという光景である。

 

 詰め所の指揮官は同胞の姿に喜びは見せたものの、視線を忙しく動かして人数を数えていた。エキュネウスは内心苦笑いをした。彼が本国から率いてきた兵は八十人ばかりである。アトランティス大陸に流れる不穏な空気は、エキュネウスの叔父でアテナイ軍司令官エウクロスによって本国に伝えられてはいたが、エウクロスが再三にわたり求める増援を、本国では拒否し続けていた。

 拒否の理由はギリシャ人たちの複雑な状況を物語るように幾つもある。まず、主力のアテナイでさえ、後世に繁栄を誇る都市国家に育つのはまだ数百年も先の話である。この時期のアテナイはギリシャに住むイオニア人の一部族がアテニス王の下で作り上げた小規模な王国に過ぎない。周辺の同盟国の軍勢を集めても、その兵士の動員力は四千人にも足らないのである。ただ、そんなアテナイのような小規模な国や部族が集まって、数万人のアトランティス軍の侵攻を防いだ。この人々の連帯感や勇敢さは比類無い。しかし、戦闘が終われば元の小規模な部族集団である。互いの思惑や小競り合いがあり、一つに纏まることがなく、アトランティスを征服するほどの兵力はない。

 また、アトランティスから得られる物がないということは、アトランティスに兵力を割くよりも、隣の部族を侵したり、鉱山開発や通商に力をいれる方が、それぞれの部族の長にとってよほど魅力的に見えるのである。アトランティスからの侵攻を監視する役割の兵士たちの必要性を認めながらも、どの部族も兵を出したがらないのはそういう理由である。 エキュネウス一隊は、詰め所で案内の兵をつけてもらってシリャードの中を歩んだ。

 

「まだか? 」

 歩き続けてたまりかねたように、エキュネウスの副官が案内者に尋ねた。城門からずいぶん歩いたが、シリャードの中央部にあるアテナイ軍駐屯地に着かないのである。その間、景色は入れ替わったが、豪華な景色と人の多さに圧倒されて具体的な光景を記憶できない。歩く距離の長さのみ増幅されて、この案内者が道を見失って、同じ所をぐるぐると回っているのではないかと思ったのである。

「まもなく」

 案内者の言葉に自信があり、導く足取りにも迷いがない。そんな様子にエキュネウス一行は改めてこのシリャード巨大さを心に刻んだ。後にアテネという都市国家を築いて繁栄を誇る人々だが、この時期はアトランティスという国に畏怖するのみだった。やがて一行を新たに驚かせたのは、堀と言っても良い水路に架かった橋を渡った直後、大きく開けた視界に巨大な建築物が見えたことである。案内者がその建築物を指して言った。

「アレがアトランティスの神官が集う六神司院ロゲルスリンの館、その後ろの巨大な神殿がアトランティスの者どもが信仰する真理の女神ルミリアの神殿です。ロゲルスリンの館に隣り合っているのがアトランティスの王どもが集う議会ですよ」

「それで我が軍はどこに? 」

 エキュネウスの問いに案内者は右側を指し示し、エキュネウスらはその意外さに息をのんだ。左に立ち並ぶほど壮大な建築物はないが、この広場を囲む水路の北に架かる橋の向こうがぐるりと塀で囲まれていて、塀の向こうにアテナイの軍旗が見えた。この一角からでは全容を推し量ることが出来ないほど広大な区画に、二千の軍勢が詰めているのである。彼らは北の橋を渡り、駐屯地に入った。空気が違った。アトランティスの大地でここだけは小規模なギリシャの香りが漂っていた。

 

「おおっ、エキュネウス。よぉ来た」

 アテナイ軍司令官のエウクロスは甥を抱きしめ、甥の背中を叩いて歓迎の意を表した。

「叔父上も、ご健勝の様子、安心いたしました」

 エキュネウスの本音である。しかし、彼はやや首を傾げている。肉親として叔父が元気な様子でいるのはありがたいことだが、それ以上に、エキュネウスはアトランティスに上陸後、ルードン河沿いの街道を辿る旅でこの大陸の国力に畏怖した。  母国では先の侵略は撃退したが、次の侵略があるのではないかとまことしやかに囁かれていた。たしかに、アトランティスはその余力を持っているように思われたのである。そんな大陸の中央に僅か二千の兵で駐屯している叔父は憔悴しているはずだ。ところが、叔父の顔色は思いの外、良好だった。エキュネウスはその意外さに首を傾げる間もなく、理由を知ることになった。見慣れぬ風体の男が入ってきたのである。

 

 司令室に入ってきた男は見慣れないエキュネエウスを一瞥して口ごもった。男が警戒する様子に、エウクロスは男にエキュネウスを紹介した。

「よい。これはエキュネウス、我が甥だ。いずれこの者にも話さねばならぬ」

 しかし、来訪者はエキュネウスに名のらない。 男は周囲に警戒を隠そうとしないまま、エウクロスの耳の側で囁くように言った。

「例の件、日取りが決まりましたゆえ、お知らせに参りました」

「ほぉ」

「六日後の早朝、決行いたします。いささか騒がしゅうなりますが、よろしくご配慮下さいますよう」

「お任せあれ、もとより治安維持は我らの任務にて」

 そんな返答を受け取った男は一礼して部屋を去った。僅かな時間の出来事で、男が部屋から姿を消してみると、エウクロスは先ほどの会話がなかったかのように泰然とした姿勢である。

 エキュネウスは問うた。

「あれは? 」

六神司院ロゲルスリンと言うてな、アトランティスの国々を統べる神帝スーインを支える者たちだ」

「そのような者が何故、我らと通じようとするのです? 」

「欲さ。この大地は欲でどろどろに熟しておる」

「欲?」

「奴らは己の欲望を神の神託と称して、アトランティスを操っておるのさ。そんな連中が邪魔者を排除するのに、我らを利用しようとしておる」

「それで、各国の国王や国王を統べる神帝スーインは黙っているのですか? 」

「その辺りが奴らの巧妙でずるがしこい所よ」

「さきほどの者が言った六日後に決行するというのは何が起きるのですか? 」

 エキュネウスの質問にエウクロスはにやりと笑って直接的な回答を避けた。

「それはおいおい分かること。お前もこのアトランティスの情勢をよく学ぶことが出来るだろうよ」

 エウクロスは意味深に笑った。 着任の挨拶を終え、率いてきた兵を兵舎で休ませ、この日の日程を終える頃になると、すでに日は落ち、アテナイ軍の駐屯を闇が覆っていた。

 

「小気味よい光景でしょう」

 カルトレオスは前方の闇を指し示してそう言った。まだこの都市に不案内な甥のために、エウクロスがつけた新たな副官である。確かに、エキュネウスに侍る副官の言葉通り、明るく燃え上がるかがり火に背を向けて闇に眼を慣らしてみると 駐屯地の塀の上に、アトランティスを代表する壮麗な建築物が黒い空の中でより漆黒に浮かび上がって見える。この大地を支配しているという感覚を味わうことが出来る光景である。

「しかし、アトランティスの兵どもはどこに居るのだ? 」

 そんなエキュネウスの疑問に、背後から現れたエウクロスが答えた。

「ここは連中にとって聖域。軍勢が踏み入ることは許されぬ。居るのは神帝スーインの警護の僧兵三百のみに過ぎぬ」

「では、残りの軍勢は何をしているのですか? 」

「この大陸には九つの国がるのは知っておろう。その軍は互いに他国に向けて牙を研いでおる。我らギリシャ連合軍に対する憎しみの眼が我らに向いているように見えるが、我々が居なければ奴ら野獣は口を開けたとたんにその牙で隣国の喉元を食いちぎっているだろうよ」

「僅か二千の我が軍勢に、彼らが挑まぬのはいかなる理由ですか? 」

「我らが戦えば、このシリャードは破壊される。シリャードを中心に纏まっていた奴らはばらばらになり互いに争うしかない。我らギリシャ連合軍を除けば、この大地は再び互いに争う戦乱の嵐に飲み込まれる。多少なりと知恵と欲がある者は、それを悟って我が軍勢の駐留を見て見ぬふりをしておるのよ」

 この大地の有様の複雑さに黙りこくって首を傾げたエキュネウスに、昼間出会った少女の面影が浮かんだ。この混沌とした世界で、じっと何かを見定めようとするひたむきな視線。エキュネウスは甘く切ない思いに胸を押さえた。


神帝の思惑

 物語は神帝スーインの館に移る。神帝スーインの座にあるオタールという人物は、優しい叔父というエリュティアが抱くイメージが一面を表しており、もう一方、アトランティス議会において並み居る個性豊かな王たちを統べるという所に、この人物の行政手腕が表れていた。

 しかし、最高位とはいえ実質的な権力はない。すべて、六神司院ロゲルスリンが神の神託を伺い、その神託を各国の国王に指示をするという役割である。平和な世であれば名君と讃えられたに違いない。しかし、皮肉な時の流れは、大地が最も混乱した時期にこの人物を最高位に据えた。

 

 神の意志が、人徳と手腕を兼ね備えた王によって反映されるなら、理想的な社会と言えたかもしれない。ただ、神の意志をくみ取る六神司院ロゲルスリンが、彼らの欲によって腐り果てていた。神のお告げと称して自らの欲望を満たす施策が神帝スーインに上奏されており、その影響力につけいる者どもの賄賂が横行して、真理を司る最高神ルミリアの威光に、この神殿を中心に陰りが射すという状態である。

 

 オタールはこの状況を変えようとした。腐敗の中核である六神司院ロゲルスリンを排除するのである。議会は順調に推移しており、六神司院ロゲルスリンも油断しているに違いない。アトランティス議会も明後日には日程を終了し、三日後には閉会の式典がある。アトランティス九カ国の王が集まる最後の日である。その場で近衛兵を動かしてロゲルスゲラどもを排除し、過去の悪行を暴いて六神司院ロゲルスリンの再編成を宣言する。アトランティスの汚濁を取り除くことが出来るはずだった。

「では、期待しているぞ」

「お任せあれ」

 僧兵長イドロアスが周囲を注意深く伺いつつ、右の拳を胸に当てて、神帝スーインオタールの命を受けた。この神殿でオタールの元で神に忠誠を誓う者は多くはない。計画は慎重に進めなくてはならない。イドロアスが王の間を立ち去り、一人になったオタールは何故かエリュティアを思い起こした。

(あの娘が信じるもののために)

 彼はそう思い、決意を新たにした。


クレアヌスの胸板

 ドリクスがエリュティアを伴ってシュレーブ国王の館の一角にある宝物庫にいる。今回のアトラスの訪問の答礼に、今度はエリュティア側からルージ国王の館にいるアトラスを訪問する。その時に持参する品物を選ばねばならないのである。

 

 所蔵品は豊かで、アトランティス大陸内から集められた装飾品は数知れず、シュレーブという国の豊かさを物語っていた。もちろん、ここは聖都シリャードにおける王の館に過ぎず、この館にこれだけの宝物があるなら、本国の城にどれほどの富を蓄えているのか想像もつかない。壁に作り付けの棚は、飾られた宝飾品が窓から入り込む日の光を反射して、壁全体が輝くようである。  来客がこの光景を見れば、シュレーブの財力に恐れをなすに違いなく、事実、そういう意図で、館に招いた諸外国の貴族に披露することがある。

 

 その片隅に、武具を展示する一角がある。神話を伴った幾筋かの槍が穂先を上に並んでおり、建国の伝説を伴ったいく振りもの宝剣が横に並べられていた。ドリクスが心に定めた剣もその中にあった。

「ルージの人々の気性は勇ましく、槍や剣など武具を好みましょう」

「ルージ人は、それほどまでに戦いが好きなのですか? 」

 エリュティアの疑問には答えず、ドリクスは一振りの剣を指し示した。

「おお、フェルムスの剣がございますぞ」

「特別な謂われでもあるのですか? 」

「シュレーブ国の祖、グヴォーダー王がルミリアの導きの元で与えられ、建国の道を切り開いた名刀でございます」

 繊細な作りの宝刀で実用性はない。伝説は宝刀を引き立てために後から付け加えられた脚色に違いなかった。エリュティアは剣には興味を示さず、棚の片隅を指さした。

「先生。あれは?」

 エリュティアが指さしたのは、大人の手の平ほどの大きさの丸い金属板である。

「クレアヌスの胸板でございますな」

 ドリクスはため息を押し隠すような思いで答えた。ドリクスが指し示した剣に比べれば見劣りがする。シュレーブ建国の祖グヴォーダー王が戦場でのお守りに身につけていたもので、展示品としては欠かせないが、展示品の中で唯一の実用品である。直径が半スタン(約10cm)、厚みが1ティスタン(1.8cm)ほどの鋼の板は、細い鎖がついており、その表面に女神の半身のレリーフが刻まれていた。

「ここに刻まれているのはルミリアでしょうか? 」

 女神が手にする審判の弓で、ルミリア神だと分かるのである。クレアヌスの胸板に興味を示したエリュティアは、鋼の円盤を手にし、裏返して眺めた。錆びてかすれた薄い文字があり、彼女はその文言を指で辿って読んだ。

「我、常にルミリアと共に在り。ルミリア、常に我を導かん」

 鎖を背に回して身につければ、鋼の円盤が左の胸に位置する構造で、真理の女神ルミリアがこの胸板を着用する者を勇気づけるという謂われのある装飾品に違いない。小さな円盤に防御力は期待できず、鎧としての機能はない。勇敢で気丈な女性として描き出される当世風のルミリア神の像ではなく、古い金属板に描き出されるルミリアはたおやかな女性の雰囲気があり、ドリクスには古くささを感じさせた。しかし、その女神の優しげな面立ちはエリュティアにも似ている。

 

 ドリクスはエリュティアの興味を剣に向けようと試みた。

「アトラス王子。あの勇敢な若者にはフェルムスの剣が似合いましょう」

 エリュティアはドリクスが指し示す剣を一瞥したのみで興味を示さず、物思いにふけるようにクレアヌスの胸板に執着する。ドリクスは言葉を継いだ。

「ああっ、そう、『剣を交わす』と言うて、ルージには剣にまつわる面白い習慣がございましてな、ルージの男たちは、生涯で最も信頼を置ける者と身に帯びた剣を交換して義兄弟の約定を交わすとか」

「これを身につける者を、ルミリアは正しく導くのですね」

 そう呟くエリュティアは、ドリクスの言葉を聞いていないに違い無かった。ドリクスはエリュティアの目を見て口ごもった。この少女は素直だが、思いこみが激しく、時にひどく頑固になる。この時のエリュティアも、神から受けた啓示を実行に移す巫女のように、あの王子に贈るのはこの品でなければならないという固い思いこみが瞳に現れていて、ドリクスにはその思いこみを解きがたいと感じられたのである。

 

 ドリクスは彼女の感情を害することを恐れた。もともとシュレーブ国とルージ国の関係を深めることが目的である。今のところ、この少女が結婚や夫婦生活ということを充分に理解しているかどうかは疑問だが、アトラスの元に嫁ぐことに疑問を感じている様子はない。彼女には機嫌良く嫁いでもらうためには、ここは彼女の意見を受け入れるのが得策だろう。ドリクスはエリュティアの手から胸板を取り上げて優しく言った。

「よろしいでしょう。それでは持参する前に、細工師どもに、いま少し磨かせて、宝物に相応しい箱に入れさせましょう」

「きっと、あの方の心を導きます」

 願いが叶えられたうれしさに、エリュティアの眼が和らいで口元に笑みが浮かんだ。この選択が、アトラスとエリュティア、二人の運命の方向を定めた。

 

 この時、館の中でエリュティアを探し求めていたフェミナが姿を見せた。シャルで髪を結い、メタラックと呼ばれる貫頭衣の上にティノーブと言う薄衣を羽織ったアトランティスの貴婦人の正装である。

「エリュティア様、お別れに参りました」

 そう語りかけるフェミナの声と態度は、衣服と同じく礼儀正しく臣下の礼を取っていて、幼なじみの親しい雰囲気を消していた。エリュティアはフェミナと頬を合わせるように抱擁した。身分の差を超えて互いの体温が言葉の代わりに伝わった。

 フェミナはこれから父親の領地に戻り、嫁ぐ準備を整え、シュレーブ国の都パトローサで国王の祝福を受け、贈り物の隊列を加えて、フローイ国のに嫁ぐ手はずである。グライスという夫となる人物の名は知っていても、会話どころかまだ一度も顔を合わせたこともない。嫁ぐ土地は彼女が生まれ育ったシュレーブの文化の香りすらしない無骨な田舎の国である。その国の辺境では蛮族タレヴォーの一団が叛乱を起こしているとも聞く。この二人は二度と顔を合わせる機会が無いかもしれない。フェミナの頬を伝う涙がそれを象徴していた。

 エリュティアは男女の恋愛を司るフェリンの母で夫婦の愛情を司ると言われるフェイプラの名を挙げた。

「フェミナ、あなたの上に愛の女神フェイブラの祝福がありますように、そして、真理の女神ルミリアの輝きが常に貴女を照らしていますように」

 フェミナは神の名を使わず、人として彼女の気持ちを語った。

「エリュティア様もお幸せに」

 フェミナの本音である。自分同様、政略結婚の道具として東の海の向こうの島国に嫁ぐ予定のエリュティアの幸福を願ったのである。二人の少女は互いの体を離して見つめ合ったが、やがて、フェミナは涙を見られるのを避けるように身を翻して去った。

(私も?)

 エリュティアはこの時に初めて、自分の命運に気付いたのかもしれない。彼女は明日、クレアヌスの胸板を持ってルージ王リダルの館にアトラスを訪問するのである。彼女の心の中に悲しみを伴った不安がうずまいた。


破滅の予兆

 早朝、シリャードの大地が大きく揺れた。町では水路の水面が踊るように揺れるのが見え、家の中では棚の中の品が床に散乱し、水差しがテーブルの上で倒れ、人は足下の揺れと不安と恐怖で歩くことが出来ないというほどの地震だった。

 

 

 もちろん、アトランティスの大地が地震に見舞われることは過去にもあった。しかし、平均寿命が五十歳ばかりのこの世界では、年老いた語り部が物語る伝説にも近い事象で、伝説に聞く地震を初めて経験する者も多い。人々は不安におののいた。

 幸い人的被害はほとんどなかったが、長い社会的混乱の中にいる人々の不安をかき立て、聖域に蛮族タレヴォーの軍の駐留を許しているアトランティナに対する警告だという者やら、アテナイの神々がアトランティスの神に挑みかかってきたと言う者がいて、シリャードの内部が落ち着かない。更に警備に当たる近衛兵たちがシリャードの被害状況を調べるために町の中を駆け回るようにうろついていて、アテナイ軍との軍事衝突があるのではないかとさえささやかれた。

 

 ただ、政治的な駆け引きをする者たちにとって、地震など無関係であるといわんばかりに、エリュティアが予定通りアトラスの元を訪問するという先触れの使者がルージ王の館に駆け、ルージ側はその使者に、予定通り歓迎の準備を整えているとの返答を持たせて返した。そこにアトラスとエリュティアの意志が反映されることはなかった。

 

 フローイ国王の館では、国王ボルススと孫娘リーミルがなにやらひそひそ話に熱中する様子で、六神司院ロゲルスリンの者どもは欲望を満たすために占領軍に接近するばかりではなく何かのはかりごとを秘めている。その者を利用しようと図るアテナイ軍や、排除を図る神帝スーインの動き、このシリャードという都市国家の内部は、様々な人々の思惑が渦巻いている。ただ、この地震がこの後のアトランティスの命運を示す予兆だと気付いた者は誰も居なかった。


聖都の検分

 地震に見舞われたのはアテナイ軍ち駐屯地も同様である。兵は兵舎から飛び出して空を仰いでゼウスに救いを求める程に動揺した。しかし、その動揺が時を経ずして収まったのは、司令官エウリクロスの人望の故に違いない。エキュネウスはそんな叔父をまぶしげに仰ぎ見た。

 

 エウリクロスは甥にシリャード内の探索を命じた。地震による被害調査の名目で、この都市国家の地理不案内な甥のエキュネウスに、現在彼らが置かれている状況を教えるのにちょうど良いと考えたのである。彼は、側近のカルトレウスと護衛の兵十名をつけて、エキュネウスを送り出した。

 

「隠す必要はない。隅から隅まで案内せよ」

 そう言った総指揮官に、カルトレウスは頷いて、その言葉の裏の意味を察したことを伝えた。カルトレウスの見るところ、総指揮官の甥は、忠誠心と誠実さに富み、アテナイ人の象徴とも言って良い気性の人物らしい。この濁りのない気象の若者に、シリャードというアトランティスの中心地で、どろどろと粘るような情勢の香りを嗅がせておかねばならない。

「陽を浴びた景色は、一段と壮麗でございましょう」

 カルトレウスは、その景色に圧倒され、無言でルミリアの神殿を眺めるエキュネウスにそう言った。昨夜の砦の中、二人で並んで眺めた神殿だが、朝日を浴びるその姿を間近で眺めれば、その屋根は青い空にとけ込む高さがあり、ひと抱え以上もある太さの白大理石の柱は、太陽をかたどったレリーフが刻まれ、金の装飾が施されていた。アトランティス大陸の中央を南北に分断するルードン河の南の岸部にあり、真上から見れば正方形神殿の壁面を正確に東西南北に向けている。そのために、朝日が輝くこの時間は東の壁面が白くそびえて見え、その壁面や天井を支える柱のレリーフが朝日を反射して輝くのである。この時代、これほどの建造物は、ギリシャ世界には無かった。

「しかし、大樹も幹から朽ちると申します。外見は壮大でも、その内側は白蟻に食い荒らされておりますよ」

「白蟻?」

「ほらっ、そこかしこに、うようよと居りますな」

 カルトレウスは神殿の周囲であわただしく動き回る神官たちをあごで指し示した。

「ずいぶん、慌ただしいようだが」

「先ほどの地震で慌てふためいて居るのでしょう。ご覧あれ、休会のはずの議事場に急遽、各国の国王どもの旗が掲げられております」

「旗がどうしたのだ」

「アトランティスの国王どもの会議が開かれるときに掲げられるのかならわしとか。不穏な雰囲気に、今頃、各国の公邸に使者が遣わされているところでございましょう」

「何が話し合われるのか興味があるところだな」

「いつものごとく、地震はこの聖地に蛮族タレヴォーの侵入を許しているアトランティナに、神が怒りをあらわにしているのだ、などと騒ぎあうのでございましょう」

「詳しいな」

「何、今日の夜更けには、会議の内容を告げる者が、砦に参りますよ」

「ここに、我々への内通者が居るというのか?」

 若く純真なエキュネウスには信じがたい。昨日からその巨大さや壮麗さに驚かせ続けられているシリャードという都市国家は信仰によって、アトランティスの九カ国をまとめ上げる精神的な支柱のはずだ。その内部に裏切り者が居るというのである。しかし、カルトレウスはエキュネウスの問いかけに意味深な笑顔で頷いて、疑問を肯定した。

 

 そんな会話をしつつ、一行はルミリア神殿とその両脇にある六神司院ロゲルスリンやアトランティス議会の前を通り過ぎた。

「神殿の東と西に、各国の王の居宅がございます」

 カルトレウスはそんな案内をしながら、背後の兵に手で合図をして道の脇に控えさせ、自らもエキュネウスを導くように街道沿いの民家の軒先に立ち止まった。前方からやってくる行列に道を譲ったのである。カルトレウスは説明を続けた。

「ここでは、西にはフローイ、東にはルージなどの国王が住まいを構え、笑顔の内側では、互いにのど笛を食いちぎるかのような内情。我々は彼らとの争いを避けつつ、彼らの争いを見守ればいいと言うことです」

 エキュネウスは行列を眺めて聞いた。

「あれは?」

「旗から判別すればシュレーブ国の者どもですな。列を構成する侍女どもから見れば、後ろの輿には王家の女どもが乗っているのでしょう」

 そんな言葉を交わすエキュネウスとカルトレウスの前を行列の先頭が通り過ぎた。彼らが存在しないかのように粛々とした雰囲気である。蛮族タレヴォーの者どもを見るのも汚らわしいとでも言いたげに、行列の者どもの中にアテナイの兵士と視線を合わせる者が居ない。

 次の瞬間、エキュネウスと行列の輿に載った少女の視線が一致した。おそらく二人は心を共有したに違いない。記憶をかき乱される瞬間、相手が昨日出会った人物だと理解する瞬間。少女はすぐに顔を伏せてエキュネウスの視線を避けたが、それは他の人々のような不浄な者から目を背けるためではない。再び出会った相手が何者なのかという疑問を思いめぐらす所作だったのだろう。エキュネウスは通り過ぎる行列を眺めつつ少女と同じ思いを言葉に出して尋ねた。

「あの女性は?」

「輿に王家の紋章がございました。おそらく、シュレーブ王の娘のエリュティア姫かと」

「エリュティア」

 エキュネウスは少女の顔立ちと共にその名を心に刻んだ。昨日は美の女神アフロディーテを思い起こさせた少女だが、改めて眺めたエリュティアには成熟した女性の美というより、まだ未熟さ故の純真さを秘めた少女の美しさがあった。顔を伏せたエリュティアは無垢な瞳で胸元に赤い包みを眺めていた。



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