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アクアマリンの腕輪

 二人はしばらく人混みを抜けて足早に歩いた。アトラスはリーミルに手を引かれるまま素直に歩いた。歩きつつアトラスは言った。

「礼を言う。助けてもらったようだ」

 そう言うアトラスの純朴さにリーミルは好意を持った。愛玩動物のように可愛い。並の男なら女に強がってみせるに違いない。しかし、この若者は自分の剣の腕を誇ることもせず、トラブルを避けてくれた礼を言うのである。リーミルにとって、初めて観る種類の男だった。

 

「あなた、シリャードは初めて?」

「昨日、着いたばかりだ」

「それで、ふらふらと出歩いて、宿の場所を見失ったの」

「ああ。迷っていた」

 そんな短い会話の中、リーミルは若者の言葉に違和感のある訛りがあるのに気付いた。彼女の祖父のボルススは武人ながら政略に長けた男で、身内の政略結婚やら、各地に潜入させた密偵やら、各国の協力者らがリーミルが幼い頃から住まう王宮に集う。自然、リーミルは各国の言葉の言い回しや訛りに馴染んでいるはずだった。そんな訛りに当てはまらないのである。かといって、占領軍の蛮族タレヴォーの言葉遣いではなく、庶民ではあり得ないほど礼儀正しい物言いをする。

 

「あやつらの頑固さと純朴さは、策謀には向かぬ」

 リーミルの祖父ボルススがそう言ったことがある。ルージの人々の気質は裏工作には向かず、ボルススが唯一策略の手を伸ばしていない人々。リーミルが聞く機会がないとすればルージの訛りである。

(なるほど、ルージ者ね)

 ルージ国の出身者だと思いついたのである。彼女は心の底でアトラスの故郷を言い当てた。

「貴方、ルージの人?」

「私が、田舎者だと?」

「田舎者だというなら、まぁ、私も似たようなものよ」

 リーミルは水路の傍らのベンチにアトラスを誘って座らせた。行き交う人々の姿は多く、彼女たちに興味を示す者はいない。

 二人は意図して互いの名を名乗るのを控えた。相手の名を尋ねようとすれば、自分の名を名乗らねばならない。アトラスは偽の名を名乗ると言う知恵が回らず、リーミルはこの男の純真さに、偽りの名をすり込むことには罪悪感がある。

 

「ご家族は?」

「故郷には母と妹がいる。父はこのシリャードに」

「家族が離ればなれで、寂しいこと」

「いや。父はそうは思ってない」

「どうして?」

「父は異邦人の女とその息子の方を愛している」

 アトラスも目の前の女性が自分と同じ辺境の人間だと知って少し心を許したように、身分は隠したまま、生い立ちや境遇を語っている。

 自分より兄のほうが愛されている。

 自分を愛してくれる母のために。

普通なら隠しておきたい本音を、まるで姉に悩み事を語るかのように話している。

(なんとまあ、素直な男)

 

 知りたいことを素直に話してくれるか、語れずに正直に口ごもるだけ。フローイ風の言葉の裏に込められた腹の探り合いと比べれば、なんと単純。  リーミルはこの正直なルージの若者に尋ねたい事がある。もちろん、祖父ボルススが勧める縁談の相手の評判や人柄についてである。

「ルージにはアトラスという王子がいるそうね」

 核心を突いた質問にアトラスは面食らって口ごもった。リーミルは勝手な推測を込めて、アトラスに返答を促した。

「何か、伝説のレトラスのように素晴らしい肉体の持ち主で、勇敢さは比類ないとか言う噂だわ。本当なの?」

 アトラスはもっとむっつりと黙りこくった。しかし、その表情を観察したところ、決してリーミルの言葉に不快感を感じている様子はなく、リーミルの指摘を密かに喜んでいる感情が滲み出している。

 どうやらこの男にとってアトラスという人物名は口にしがたいらしい。 リーミルは、ふっと吐息を漏らした。若者が腰に帯びる剣。その剣の束に青緑の輝きを放つアクアマリンの宝石がはめ込まれているのに気付いたのである。アクアマリンと言えばルージを象徴する色だが、そんな宝石を剣の束にはめ込んでいるのは王家の人間だけである。

 

(これが、アトラスなの?)

 そう気付いて、リーミルは興味深げに質問を重ねた。笑顔と裏腹に尋ねる内容は強烈である。

「お答えがないのね。では、ルージの牙狼王リダルが戦をしたがっているのは本当なの」

 アトラスはリーミルの言葉を言下に否定した。

「そんな事があるものか」

「でも、このシリャードでは、そんな噂で一杯」

 アトラスは考えつつ言葉を繕った。

「噂は事実ではない。王宮で王が戦を始めるなどと口にするのは聞いたことがない」

 アトラスはリーミルの明るい笑い声に言葉を途絶えさせた。

「あら、ごめんなさい。あなたを笑ったんじゃないの」

 リーミルはそう言って、心の中に残りの言葉を吐き出した。

(なんという、運命の神ニクススのお導き。いえ、恋愛の神フェリンの悪戯?)

 『王』という単純な言葉の使い方が不自然だった。家臣が王を呼ぶときは、信頼や敬愛を込めて『我らが王』と呼ぶ。また、目の前の男の若さの家臣が王宮で王に謁見して言葉を交わすことはあるまい。リーミルは僅かなヒントから、目の前の若者がルージの王子、彼女が祖父によって政略結婚させられようとする相手だと判断してのけたのである。

 彼女は立ち上がって、一時の別れの言葉を吐いた。これから早急に祖父の所へ戻って決心をつげに行かねばならない。

「残念だけど、今日はここまで。貴方を送って行ってあげることは出来そうにないわ。」

 その通りである。この迷子の王子をルージ国王の館に送って行けば、まだ隠しておきたい自分の正体がばれてしまうし、アトラスも彼自身が隠しているつもりの正体を暴かれるのは望むまい。リーミルは立ち上がって水路の方を指差した。

「道を辿ってもダメよ、迷うだけ。水路の幅が広くなる方に向かいなさい」

 単純な理屈である。ルードン河から水を引き込んで広がっている水路である。交差する水路を幅の広くなる方を選んで辿ればシリャードの中心に近づけるのである。

 

「おいっ、娘」

 アトラスは戸惑いつつ駆け去ろうとするリーミルにそう声をかけた。リーミルは笑いながら振り返った。この若者は女性に声をかけ慣れていない。慣れていればもっと別の言葉があるだろう。

(女についても、田舎者なのね)

 そう考えるリーミルに、アトラスは左腕につけていた腕輪を外して渡した。

「礼だ」

 田舎者らしい律儀さでトラブルから救ってもらった礼にと、腕輪をはずして与えるつもりなのである。リーミルは腕輪を受け取りつつ礼の代わりに言葉を放った。

「また、近いうちに会えるでしょう」

 リーミルは駆けながらやや後悔している。アトラスの目の前で、見ず知らずの男の股間を蹴り上げるなどということをやって見せたことを。

 ただ、リーミルが好意を持ったこのアトラスの素直さは、アトラスが纏っていた仮面を剥いだ姿で、アトラスの家族から観れば思いもよらない姿に違いない。

 

 姿を消したときと同様に、ふらりとリーミルが王の執務室に姿を見せた。ボルススは笑いながら、謁見の許可を求めるという儀礼を無視する孫娘を改めて叱った。

「ここでは礼儀をわきまえよ。我々が礼儀をわきまえぬ田舎者だと噂が立つ」

 リーミルは祖父の叱責を聞き流すように言った。

「私、田舎者もいいかなぁって思うのよ」

 ボルススは孫娘の言葉に含まれた田舎という言葉が意味するものを察した。

「例えば? ルージか」

「たとえ、ルージ国に行ったとしても、生魚は食べなきゃいいのね」

「それは、アトラスに嫁いでも良いと言うことか?」

「まあね」

「どういう心変わりだ?」

「愛を司るフェリンの悪戯に引っかかったと言うところかしら」

 ボルススの見るところ、普段は装飾品にはさほど興味を示さない孫娘が、腕輪をもっている。孫娘は腕輪を見せびらかすように手の中で転がしたり、指で回したりした。その癖、大事な物を扱うように落として傷つけるのを恐れる様子もある。

「では、面会の話を進めて良いのだな」

 ボルススはそう言ったが、政治と愛は切り離している男である。孫娘の意志と関わりなく政略の道具に使う。日程は既に決まっているはずだ。その日程をリーミルは確認した。

「いつになるの?」

「六日後、ミッシュー明けになる」

 アトランティスの暦でターアの月の後、ミッシューという一年の不浄が集まるとされている不吉な日が5日間ある。その日を避けて吉日に二人を娶せる手はずを整えていると言うのである。

 祖父と孫に互いの腹を探るような沈黙があり、リーミルは話題を変えて沈黙を破った。

「見て、私にはぶかぶか」

 リーミルは手の平で弄んでいた腕輪を、するりと腕にはめてみせた。ボルススは孫娘に提案した。

「気に入ったものならば、手直しさせれば良かろう」

 フローイ国は山岳地帯が多く、銀を産出する。人々は銀を使った細工が巧みで、フローイの銀製品としてアトランティスで鳴り響いている。そんな熟練した細工師に依頼すれば、腕輪の大きさなどリーミルの腕に合わせて上手く作り直すに違いない。

「いいわ、このままそっとしておきたいから」

 リーミルはそう言って、するりと身を翻して部屋から消えた。


入り乱れる策謀

「水路を辿りなさい」

 そんな少女の言葉に素直にしたがって、アトラスは、ルージ国王の館にたどり着いた。

「王子、我々に無断で外出されるのは困る。警護の役が果たせぬ」

 帰ってきたアトラスを見つけてそう言ったのは、近習のザイラスという男で、非難の口調を隠さず、王子との距離感を感じさせない。この口調がルージという国を象徴している。

 

 漁村の人々が船に乗って漁場に向かう。凪や嵐に協力して立ち向かい、豊漁の時も不漁の時も、得るものは等しく分け合う。その中で、人々は自らの責任を果たす事によって対等で、船を操る船長はその判断の正しさその統率力によって人々を付き従わせるのである。

 極論すれば、ルージという国は、そんな漁村を国家にまで拡大したようなものである。組織としては、酷く未熟な国家に違いない。しかし、指導者に恵まれれば、目的に向かうのにこれほど無駄を排除した組織はない。

 

「すまぬ」

 アトラスはザイラスの非難を受けて素直に詫びた。いい訳をする必要は感じなかった。幼い頃から生活を共にし、歳の離れた兄のように感じている関係である。ザイラスは弟を見守るようにそれ以上の非難を避け、アトラスを居室に導いた。

「我らが王子のお戻りだ」

 ザイラスは部屋の中の少年たちに声をかけた。アトラスは部屋に入るや否や顔ぶれを見て親近感を込めて三人の名を呼んだ。

「オウガヌ、テウスス、ラヌガン。お前たちも到着したか」

 少年が一人ふくれっ面で不満を露わにしつつ抗議した。

「我らが王子よこのスタラススの名をお忘れか?」

「おおっ、お前も来たのか」

 四人の少年の年齢はアトラスと大差がない。アトラスと共に寝起きを共にするように育てられた若者たちである。やがて、王になるアトラスを支えるべく、リダル王がアトラスにつけた側近である。ザイラスを伴ってシリャードにやってきたアトラスから一歩遅れてたどり着いたのである。

「我らが王とは」

 オウガヌか尋ね、アトラスはため息をつくように言った。

「まだ面会ができぬ」

「よそ者とは面会しているというのに、一人息子のアトラスと顔を合わさぬとはどういう事だ」

「我らが王を批判するのは差し控えよ」

 年長のザイラスがそんな言葉でテウススの疑問を封じた。

 アトラスが尋ねた。

「よそ者?」

「シュレーブのドリクス殿が、我が王に表敬訪問においでになった」

「ドリクス? 聞いたことのない名だな」

「さもあろう、議会にも軍事にも関わりがない。我々が名を知る人物ではない」

「名もない人物が、我が王と謁見できるものか」

「わけは知らぬよ。ただ、エリュティア様の教師ということだ」

 名を知られていないと言うこと、ただの教師としての肩書きは、密談を交わすのに適しているのである。この時期、ドリクスという人物がシュレーブ国王女の教師であると同時に、稀代の策謀家であることを知るものは少ない。


神話の英雄レトラス

 同じ時、シュレーブ国王の館では、エリュティアがルミリア神殿で神帝スーインへの謁見を済ませて帰宅し、出迎えた教師ドリクスがエリュティアの手を導いて館のテラスに誘った。

「いかがでありましたか?」

「お元気であられましたが……」

 エリュティアが表情を曇らせた。エリュティアの優しい伯父は、生気を失いように元気が無く、懐かしい姪に向ける笑顔に明るさがなかった。

 ドリクスはその事情が分かる。国内の情勢が思わしくない。複雑に入り組んでから見合った情勢が重く神帝スーインにのしかかっている。

 

 ドリクスはエリュティアの傍らで、エリュティアにつき添う侍女に手を振ってみせ、人払いをせよと命じた。エリュティアは振り返って侍女に笑いかけ、指示どうりにせよと指示した。

(あらっ)

 エリュティアはドリクスが豊かに蓄えたあご髭に、幾本もの白髪を見つけたのである。頭髪も白髪の方が多いのではあるまいか。年齢を考えれば、彼女の教師は間もなく四十五歳に達する。人々の平均寿命が五十歳を僅かに越えるこの社会では、もう老境に達していると考えても良い。ドリクスは年相応に落ち着いた口調でいつかエリュティアに語って聞かせたことを繰り返した。

「アトランティスの存亡の危機に際して、神々が神帝スーインのもとに、裁きの英雄を差し向けます。それがレトラスです」

「それがルージ国と関わりがあるのですか」

「レトラスとアトラス。いかがです。音の響きが似ておりましょう?」

「では、ルージの王子がルミリアのお使いだというのですか?」

「それは誰にも分かりません、おそらく本人にすら」

「ご本人も?」

「その通り、地に降りたレトラスは、自分の使命を知りません」

「どうして?」

「神々の意図は我々には図り知れません。ひょっとすれば、神々は、我々が鍛えられた剣を研ぐように、レトラスが大地で試練を乗り越えつつ研ぎ澄まされるのを待っているのやも知れません」

「神々のご意志……」

「そして、今ひとつ、大事なことがございます」

「なんですか?」

「剣が己を研ぐ人を必要とするように、研ぎ澄まされた切っ先が無用に誰かを傷つけぬように、危険な刃のレトラスを迎える無垢な乙女が鞘として一体の剣になる必要となりましょう」

 

 ドリクスが語る内容は偽りではない。確かに彼らが信じる神話体系にその内容がある。ただ、体の良い洗脳とも言える。この時、この場で、この話をすれば、利発でありつつ素直なエリュティアは自分の役割を理解するだろう。彼女は心の中にアトラスの居場所を作り上げ、彼女自身の役割を果たそうとするに違いない。

 

 しかし、そんな素直さが痛々しく、ドリクスは罪悪感を覚えている。彼ら大人はエリュティアの素直さにつけ込んで彼女を保身の道具に変えようとしていた。

「先生、一人になりたいんです」

 エリュティアは遠慮がちにそう要求したために、ドリクスは月が照らし出すテラスを離れ奥の間に引っ込んだ。

 生まれてこの方、不自由したことが無く、与えられたものを受け続けるだけの少女が、はじめて誰かに何かを要求したのである。


ザイラス

 アトラスの側近ザイラスの視線で、物語がややさかのぼる。

 

 寡黙だが周囲の変化に良く気がつき、性根も父親譲りで肝っ玉がすわっている。アトラスの傍らに侍り、将来の王をもり立てる人材としては申し分がない。

 ザイラスはルージ王リダルが自分にそんな期待をかけていることを自覚している。ただ、その期待の大きさの割に、ザイラスには見るべき家系はなく出自は卑しい。リダルが遠征している時代にリダルに付き添った従卒の一人が勇敢さで比類が無かった。その男がある戦でリダルを守って戦死した。リダルはその男の息子ザイラスを取り立てて今の身分にした。平民から一挙に貴族に出世したことを妬む人々は、彼の出自の卑しさを密かに笑っている。 ザイラスはリダルの命を受けて、アトラスを伴い、リダルの居室の簾を開けて、アトラスを王の部屋に導いた。そのまま護衛の任を果たすように、周囲を窺いつつ入り口に立ちつくした。その姿に変わらぬ忠誠心を見るようだった。

 

 居室に足を踏み入れたアトラスの声がした。

「ただいま参じました」

「よぉ、来た」

 リダルは機嫌良くアトラスを迎えた。その声は大きく、居室の入り口で護衛に当たるザイラスにも届いている。

「儂がリネを后に迎えたのは、お前より1つ下の時であった」

「母上の事ですか?」

 アトラスは意外に思った。父親が本当に愛している相手の名をあげれば、アトラスの母親でリダルの正后であるリネの名ではなく、戦線の地から連れ帰った蛮族タレヴォーの娘の名ではないかと考えたのである。口ごもるアトラスをしりめに、リダルは言葉を続けた。

「シュレーブ国にエリュティアという王女が居る。見目麗しいだけではないぞ、評判の素直で気だての良い姫だ。我が国の力を増すことも出来る」

 

 リダルの言うとおりである。このアトランティスで平和を保つために、力関係の片寄りは排除せねばならず、各国はアトランティスを統率する神帝スーインの元に同格である。各国は神々の神託を神帝スーインを通じて賜り、その神の命に従う。この関係を保つために二国間の同盟は許されてはいない。ただ、その裏では政略結婚による血縁関係を軸に、第三国と関係を強化し、自国の勢力を増やそうとする。事実、ルージの王族貴族は海を挟んだ対岸のヴェスターと血縁関係が深い。

「アトランティス議会など腰抜けよ。しかし、シュレーブと手を組んでみよ。シリャードのアテナイなど蹴散らして、海を渡って押し寄せる蛮族タレヴォーの軍など、我がルージの海軍が海の藻屑にしてくれるわ」

「その折には、先鋒の一角を賜りたく」

 リダルの息子としての模範解答である。リダルはアトラスの返事に答えず、にこやかに息子の肩をたたいた。

「とりあえず、件の姫と会うてみよ」

 この場合、アトラスにとって、エリュティアと会ってみろというのは、后として迎え入れる心づもりをせよと言われているに等しい。

 居室の入り口に立つザイラスは耳を澄ませたが、王の言葉にアトラスの返事がなかった。


ザイラスの内通

 夜が更けて月は中天にあり、フローイ国王の館は寝静まる手前で、静けさの中に火の後始末を呼びかける使用人の声が響いている。そんな時間帯の王の寝室に執政のマッドケウスが顔を出した。部屋の隅には気まぐれに果物を囓るリーミルの姿がある。つい先ほどまで、祖父と孫の会話とも、何かの謀略とも区別の付かない言葉を交わしていたのである。

 

 口ごもるマッドケウスにボルススは孫娘の存在は気するなと苦笑いをして部下の言葉を促した。執政のマッドケウスは王の耳にささやいた。

「ボルスス様、謁見を願う者がございます」

「誰か」

 ボルススはそう問い、執政は名を秘めたまま答えた。

「彼の者でございます」

 ボルススは寝間着にガウンを羽織った。

「会おう。通せ」

 マッドケウスが背後の人物に顎をしゃくって入室の許可を与えた。ボルススの寝室である。いわば、この館の策謀の子宮と呼んでも良い場所だった。ここまで足を踏み入れる人間は少ない。部屋に踏み込んできた男は頭部を覆った深いフードを脱いで顔を見せた。アトラスの近習のザイラスである。 ザイラスはボルススに進み出て片膝をついて頭を垂れた。ボルススは短く問うた。

「何か」

 ザイラスはリダル王の館と変わりない冷静な声で答えた。

「リダル王がアトラス王子に后を迎える準備を進めております」

「知って居るわ。そこのリーミルをアトラスに引き合わせるつもりで居る。」

「いえ、シュレーブのエリュティア様を」

 ザイラスの言葉に耳を傾けていたリーミルの眉が、別の少女の名に反応してぴくりと動いた。ボルススは首をかしげた。

「何かの間違いであろう」

「エリュティア様の教師ドリクス殿が、我が王リダルを訪問され、シュレーブとの間を取り持ちたいとお申し出になり、我が王リダルも了承されたとのことでございます」

 ボルススは激怒した。自らの迂闊さについてである。

「聞いたか、マッドケウス。シュレーブの犬めらに、出し抜かれたわ」

 武力には長けても政治に疎いルージ王リダルが、自分たちフローイ国の提案をさしおいて、シュレーブ国の策略に丸め込まれたと考えたのである。ただ、その怒りが自分に向くところが、陰謀家でありつつ根が明るいという妙な一面を持っている。

 二重三重の陰謀があり、1つ目が破れても別の策略があるという余裕かも知れない。事実、ボルススはルージに政略結婚を申し出つつ、同時にリーミルの弟にシュレーブ貴族の娘を嫁に迎える手だてを整えていた。

 先ほどから幔幕の影にいたリーミルが顔を見せ、ボルススはその孫娘に怒鳴るように言い放った。

「リーミルよ、アトラスとの話はご破算になったぞ」

「ご破産ですって? なんと、男たちの短慮なこと」

「しかし……」

「私一人でも、アトラスを陥落させて見せるわ」

「エリュティアとの話が進んでいる以上、ルージ国のリダルが我々の話を受けることはあるまい。連中は愚直なほど義理堅い」

「義理堅いなら、それを逆手に取るまでよ」

(まったく、これが男であれば)

 ボルススは苦笑しつつ孫娘のことをそう思った。冷静さを保ち、次の最善の一手に頭を働かせ続けるという点では、この孫娘は自分さえ上回っているのではないかと考えたのである。

「ありがとう、また異変があれば知らせてちょうだい」

 リーミルはザイラスにそう言って、その場を去らせた。彼女は弄んでいた腕輪をマッドケウスに渡していった。

「この物に見合う、いえ、その十倍の価値のある銀細工を選んでちょうだい」



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