閉じる


<<最初から読む

4 / 50ページ

アトラス 仮面の王子

 早朝の空がよく晴れ渡っていて果てがなく、雲1つ見えない。意識しなければ分からないほどのそよ風が、草の香りだの蜜蜂の羽音だのを運んでいる。大気の底に僅かに残った朝霧が草の露に凝結する音さえ聞こえそうだった。

 

  ここはアトランティス大陸から東に百ゲリアばかり離れた島である。現代の単位で言えばアトランティス本土から80km離れ、本土は水平線の彼方で見えない。南北320km、東西90kmのルージ島本島と、その南部のヤルージと呼ばれる島があり、2つの島の島民は海神の血を引くという伝説がある。

 

 本土から離れているために、人々は政治の情勢に疎いのだが、同時にどろどろに粘るような混乱に巻き込まれずにいる。

 

 アトラスは草むらに手足を延ばして寝そべって、身動きしない。時折、僅かに微笑む口元以外は凍り付いたように動かず、目もつむったままだった。彼は全身で光や風や色や香りを味わっているのである。そんな姿は、まだ無邪気さを残す少年の姿にも見える。

 突然、彼は苦笑いを浮かべて呟いた。

「無粋な」

 蹄が地をかく音がしたのである。剣の鞘が鞍と触れ合う音もする。彼の馬が全身で主人の帰りを督促しているのだった。彼は身近にあった木の枝を支えに立ち上がった。その表情が固い。王子アトラスは軍人の歩調で歩き始めた。もう、先ほどまで味わっていたものを踏み潰している事にも気づいていない。

「アレスケイア」

 彼はなだめるような口調で愛馬の名を呼んだ。その背に乗って薄暗い潅木の林を抜けると景色は開けて、海に長く突きだした岬になる。見晴らしの良い岬から、砂浜の向こうを見ればこの湾を形作るもう一つの岬がある。沖合に漁場を抱える良港でもあり、砂浜から少し奥まった場所に漁師たちの住まいが点在する。波の音にかき消されて届かないが、荒くれの漁師たちが潮風に灼かれただみ声を掛け合いながら、幾捜もの船を出す光景が広がっている。 

 

 アトラスはそんな光景を、感情を交えずに眺めた。漁師たちの指揮を執るかのようなひときわ長身の若者が目を引く。名をロユラスという。兄だと感じたことはないが、少なくとも自分より父親の愛情を受け、そして、その愛情を拒絶している若者である。

 アトラスは硬い表情のまま、手綱を引いて向きを変えた。両足で愛馬の腹を蹴る前に、アレスケイアは主人の意図を察したように駆けだした。

  

 軽く十分ばかり駆けて、アトラスはルージの王都バース市街を抜けて、王城の門をくぐった。王城とはいえ、現代の我々の目から見れば、王族が居住する大きな館を塀と堀で囲った程度のものである。彼は館の回りをぐるりと駆けて厩の前に来ると、荒っぽく馬を降りて手綱を厩係の小物の手に渡した。アレスケイアはまだ運動が足らないと言うように首を振っている。

「あら、元気の良いこと。さすがに、蛮族タレヴォーを蹴散らしたオスロケイアの血筋だわ」

 アトラスが振り向くと、彼の妹ピレナが笑っている。オスロケイアとは彼らの父のリダル王が遠征先で生死を共にした軍馬の名である。

 彼の愛馬が父の馬と比較されるところに、今の彼の立場が象徴されている。勇猛さをもって知られるリダルの息子として生まれながら、何ら実績を示す機会がない。王の館の中にあって、人々が彼をリダルの息子として見る視線が、幼い頃から彼の劣等感を刺激してきた。それに加えて今一つ、人々も口にしようとしない理由がある。アトラスが浜辺で見かけたロユラスの存在である。

 アトラスはその思いを振り払うように妹に笑顔を向けた。

「女は、戦乱にあっては、夫や子供を失うと嘆くくせに。平和な世にあっては、武人の精神が信じられぬと嘆くのか」

「ごめんなさい」

 ピレナは子供らしい素直さで兄に詫びながら、兄のしかめっつらを可愛いと思った。彼女は時折そうやって人の心を試そうとする。

「お兄様が出かけてすぐにね、お父様からの使者が着いたの」

 彼女はアトラスを導くように寄り添って歩きながら言った。アトラスは黙りこくったままだ。

「お兄様に、聖都シリャードへ来なさいって」

「それが?」

「きっと、アテナイ討伐の軍を起こすのよ」

 アテナイという言葉が、ピレナのような政治に疎い娘の口を突いて出るほどアトランティナの間で蛮族タレヴォーの象徴として、アトランティスを抑圧する勢力の象徴として使われる。長い外征で国力を損耗したアトランティスは、その聖地に占領軍としてのアテナイ軍を受け入れることを条件に講和した。その占領軍は僅か二千である。彼らにとって屈辱的な事だが、その兵を攻め滅ぼせば、東の大陸から数十万の遠征軍が攻め寄せて来ると言われていた。国力を疲弊したアトランティスは抗うことも出来ず、大地は戦火に見舞われるという恐れを抱いているのである。

 

 考えてみればおかしな話で、十数年前、彼らアトランティナは新たな領土を求めて海外に攻め寄せ幾つもの戦を戦った。最初は勝者の立場から戦に負けた。今はわずかな敵軍にアトランティスの心臓とも言える聖域を占領されて我が物顔に振る舞われているのである。その点、ピレナは無邪気だった。

「多分、お兄様も軍を率いて、蛮族タレヴォーと戦うの。素敵だと思わない?」

 客間に入ると、母親の王妃リネと彼女を取り巻く侍女の姿が目についた。アトラスは妹のおしゃべりを制して母親に挨拶をした。

 ヴェスター国の貴族が王の館を訪れた折りに、秘かに「女の館」と称したことがある。館に住む女たちの実権が強く、些細なことにまで政治に口を出すという意味である。その頂点がアトラスの母リネだった。

 

 雰囲気から察するに、重要な知らせをもたらす使者らしい。その顔にはアトラスにも見覚えがある。父に古くから仕える老僕で、その名をコロシスという。そのコロシスの通された部屋が王妃と侍女団で固められているのも、女の館の状況をよく表している。

「アトラス、おお、アトラス」

 リネは息子の名を叫んだ。コロシスは口上を伝える本当の相手に気づいて、片ひざを床について、右手を胸に当てる挨拶をした。次いで口上を述べようとするコロシスに、リネはその言葉を制するように言った。

「アトラス。シリャードの父上からのお召しじゃ。いよいよ、アテナイ討伐の軍を出すのに違いない」

 侍女たちは口々にリネの考えに賛同し、その際のルージ軍の勇敢な様相や、それを率いるリダルやアトラスの姿を口にしてリネの歓心を買おうとしているようでもある。リネとその侍女団、妹のピレナはアトラスより先に口上を聞き出していたものらしい。アトラスは少し不快なものを感じたが、その母親を制して、ひざまづいているコロシスに向かって命じた。

「口上を続けよ」

 コロシスの口上は要約すれば、さきほどから妹ピレナや母リネの言うように聖都シリャードに赴いている父が、彼を呼び寄せようとしているのだ。ただし、アテナイ討伐軍というのは彼女らの推測だろう。兵を挙げるとすれば、兵を集めるべく地方の領主にふれを回しておかねばならないがその指示がない。  リダルは息子に数人の近従とともに聖都シリャードに来いと言っているのみである。目的も何も告げずにただ来いと言う。

 アトラスはこの一室の様子を見ながら、父が息子の召喚の目的を告げない理由が分かるような気がした。

 

 しかし、アトラスにとって目的が不明であるにせよ、聖都シリャードの地はひどく魅力的だった。自らの力量を示したい若者にとっては、アトランティス最大の都市でありアトランティスの中心地であるそま都市は、かっこうの場所のように思われた。そしてこの思いは、聖都シリャードに着くまでの間、アトラスの中で、希望や期待や不安や焦りを加えて膨らんで行くのである。この館では彼は好奇心豊かな少年の心を捨てて、武人の仮面をかぶり続けている。今のアトラスの表情はその仮面が幾分ずれて、期待に満ちて少年のような晴れやかな表情をのぞかせていた。

 

 ラクトの月15日にアトラスは、バースの港を出港した。アトランティス本土に着くのは4日後、そこから陸路ルードン河に沿って遡り、聖都シリャードに到着するのは7日目の朝である。

 アトラスは懐にしまっていた袋の口を開けた。一粒の真珠が入っていた。形はやや歪だが水の滴の形にも見え、美しい光沢とともに女神リカケーの涙と称されていた。アトラスの妹ピレナの持ち物だった。

「お兄さまのお眼にかなった女性に、そして私の将来のお義姉さまに」

 ピレナはそう言って、大切な宝物を兄に託したのである。そう言った辺り、利発なピレナは、兄がアトランティス議会の父の元に召された理由が政略結婚だと気づいていたのかもしれない。


リーミル 策謀の美少女

 聖都シリャード。年に一度、各国の王は神帝スーインが主催するアトランティス議会に集う。その議会の間、王が住まうための各国の王の館が聖都の中心部に点在している。その一つ、フローイ国王の館の門に明かりが灯った。 王の帰還を察知したフローイ国の執政マッドケウスが、館の門でフローイ国王ボルススを迎えた。

「ご機嫌でお戻りなされましたな」

「話が進展した。リダルは申し出を受けるだろう」

「リダル様は、何か注文でも」

「あとは面会のために良き日取りを決めるのみ」

「我々が決めるのですな」

 王と王が信頼を置く執政の会話だが、腹の探り合いをするような表現になる。分かりやすく言えば、フローイ国がルージ国に何かの申し出をしていて、相手の国王リダルがその申し出を受けそうだ。ただ、申し出を受けるにあたり、何かの条件を突きつけてきたかという事である。

 ボルススは執務室に足を運びつつ言った。

「ふん、分かりきったことを。我が進むべき道が、我らが館以外にあるものか」

 フローイ国が進むべき方向は、議会でも相手国の意図でもなく、この館の中で張り巡らされる策謀のみで決まるというのである。

 

  本人たちに悪気はないが、この人物たちが腹を探り合うような言葉を交わすと、陰謀じみた雰囲気が漂う。質朴な頑強さに、あっけらかんとした明るさを持った陰謀が織り込まれて生きていると表現すれば、フローイ国の人々の気質が分かるだろうか。

 

 神帝スーインの諮問機関たる六神司院ロゲルスリンの神託によって始まるアトランティス議会が、既に3日目を迎えている。議会とはいえ国家間の紛争を調停するのみで、各国の内政に踏み込めるものではない。荒っぽく言えば、各国が勝手気ままな主張をする雑談の場である。有意義な結論が出るわけがない。ただ、宗教的な支柱としてアトランティナ(アトランティス人)をまとめる唯一の拠り所であるに違いない。

 

 しかし、蛮族タレヴォーとの講和以来、その精神の拠り所も蛮族タレヴォーに占拠されている。占領軍の主力をなすアテナイ軍は僅か二千の兵士で、聖域シリャードを人質にしてアトランティスの内政に食い込んで治めているのである。蛮族タレヴォーが社会を乱しているという向きもあるがボルススはそう考えては居ない。もし、シリャードを占拠するアテナイという軍がなければどうだろう。神帝スーインには実質的な政治をとりまとめる権力はなく、アトランティス各国は再び分裂して争うことになるだろう。

 アテナイという軍はアトランティナの敵愾心を煽り、アテナイに向ける共通の憎しみによってアトランティス各国がまとまっている。そういう効用を認めていた。 

 

「リーミルさま、困ります」

 侍女のやや甲高い声音の叫びで、ボルススは母国から呼び寄せた孫娘の来訪を知った。

「いいのよ。人に変わりがあるものですか」

 そう言ったリーミルの言葉に、フローイ国の人々の内情が窺い知れる。彼女が生まれ育ったフローイ国は、絢爛たる文化と学術の中心地シュレーブ国の南西に隣接してはいる。しかし、その境界には深い山岳地帯があり、南西に向かう街道はそこで溶けて消えるように潰え、文化や人の気質が異なる。  フローイにおいて、孫娘が祖父に会うというのに、シュレーブ国のように謁見を求め場所を選んで会うという習慣は無い。用があれば執務室であろうとどこへなりと顔を出す。良く言えば気さくだが、シュレーブの人々から観れば礼儀知らずの田舎物に違いない。

 ただ、聖都シリャードにやってくると、フローイの人々も世間体を取り繕って、シュレーブのごとく堅苦しい礼儀作法が要求される。侍女は皇女にそんな作法を求め、皇女はそれを拒絶してフローイ風に振る舞うと宣言したのである。

嵐を司る悪神バウルも、そなたの行く手を遮ることは出来まい」

 ボルススは笑いながら孫娘を評した。

「おじい様も、お元気ね」

 フローイ国王ボルススは孫娘に首を抱かれつつ、側近に手を振って人払いをせよと命じた。 信頼できる部下たちだが、孫娘との会話ではこの孫娘のペースになる。自然に本音が出、聞かれたくは無い種類のことだった。

「お前も、変わりがないな」

 祖父の言葉を聞き流しつつ、リーミルは無邪気に笑って、傍らの葡萄をつまんで口に運びながら尋ねた。

「グライスの花嫁に続いて、今度は、姉の私にも婿を探してくれたというわけかしら」

 リーミルの言葉もフローイ流に染まっていて言葉の裏がある。弟のグライスを政略結婚の駒として使った後、今度は私を二手目の駒として動かすつもりかと語っている。

 ボルススから見て孫娘の笑顔は作り物ではない、しかし、祖父の真意を伺う好奇心じみたものがある。

(もしも、これが男であったら……)

 ボルススは今までに何回繰り返し考えたかわからぬことを思った。勘のいい孫娘に舌を巻いたのである。王女リーミルをルージ国に輿入れさせて、陸軍と海軍とを誇る両国の関係を強化すれば、アトランティスに覇を唱えることが出来るだろう。

 

 この孫は、自分が聖都シリャードに召しだされたそんな理由に気付いて、祖父に探りを入れているのである。並みの人間なら小賢しいと腹立たしい思いもするのだろうが、孫娘への愛情がその腹立たしさを打ち消した。 そして、唐突な孫娘の質問に、ボルススは本音を答えねばならない。

「ルージ国にアトラスという王子がいる。どうだ?」と率直に言った。

 リーミルはまだ出会ったことも無い人物に眉をひそめて質問を重ねた。

「セキキ・ルシルですって? おじい様は、私に生魚を食えと?」

 その明快な物言いに、ボルスは苦笑した。 “セキキ・ルシル”生魚を喰らう者という意味がある。ルージの人々に対する蔑称である。 ルージは島国であって新鮮な魚介類に不自由しない。新鮮で、火を通さない生の魚の切り身に酢や油で和えた調理方法が存在する。その料理はマリネを想像すれば近い。野蛮だという食べ方ではないが、アトランティナに共通する食習慣ではない。

 ボルスは孫娘を説得するように短く言った。

「まあ、考えてみよ」

「ふぅーん」

 リーミルは興味なさげに、明確な回答を避けて身を翻し、執務室から姿を消した。


リーミルとアトラス

 数刻後、リーミルの姿は聖都シリャード端の市場にあった。

 ギリシャの哲学者プラトンの著作で現在に伝わるアトランティス大陸の姿は、神が大陸を同心円をなす陸地帯と水地帯に分割して作り上げた。その中心地に海神ポセイドンの聖域が位置するという、実に秩序だった姿をしている。

 これは、アトランティス大陸ではなく、アトランティスを代表する都市国家シリャードの姿が伝わったものではあるまいか。

 もともとは、ルードン河の川辺にあった真理の女神ルミリア(ルミリア)の聖域を示す石柱や神殿と巡礼者たちを迎える安宿が、いくつか建ち並ぶだけの貧相な光景であったらしい。

 ある時から、安宿が追い払われ、神殿を囲むように九つの国の国王が集う議会や、国王が居住する館が加わって、それらの区域を守るために堀と城壁が築かれた。もちろん国王に仕える数多くの家臣や召使いの居住区が必要となる。そんな区画が内側の城壁を取り囲んでその外側に堀が作られた。数多くの人々に食糧や物資を供給するための市が立ち、その市が拡大して物資を求める人々が行き交い、それらを守る為に周囲に城壁が築かれて巨大な都市国家となった。

 が、今は、その中央に占領軍たるアテナイの一軍がいる。

 

(ふぅ……)

 リーミルは肩の力が抜ける心地よさを感じていた。市外もこの辺りに来ると雑多な濁った雰囲気が漂い、飾り気のない清濁生の正直さが心地よいのである。彼女自身は堅苦しい王女の衣装を脱ぎ捨てて町娘の衣服を着用している。庶民らしい貧相なサンダルを履いた足が軽やかでこの町の景色に溶けこんでいる。

 

 そんなリーミルの鼻をアトランティナがハラサと呼ぶ柑橘系の果物の香りが刺激した。ハラサ水売りが街路に出している店の軒先である。冷たい井戸水に蜂蜜とハラサの絞り汁で香りづけにハラサの皮を薄く刻んで入れる。庶民の飲み物である。

 リーミルは懐の金袋に手をやって、両替を忘れたことを悔いた。金袋には3粒ほどの銀の小粒が入っている。こんなもので代金を払っても、貧しいハラサ水売りはお釣りを払えないに違いなく、第一、リーミルの身分がばれてしまうだろう。

 

 しかし、ここいらの人々は細やかな配慮をする。リーミルの素振りから彼女が今日は金を持っていないことを悟ったらしく、ハラサ水売りは昨日顔なじみになった客に、カップを差し出した。

「飲みな。どうせ、もう温くなって売り物にゃならねぇや」

 客を待つ間に冷たいハラサ水が温まってしまって売り物にならない。タダで飲めと言うのである。

「ありがと」

 リーミルはそう礼を言って、店の傍らの縁台に腰掛けてハラサ水を喉に流した。冷たく新鮮な感触が、心地よく喉を通過した。彼女はこの区画の雑多な雰囲気に溶けこんで違和感が無い。ただ、リーミルから見ても、この区画は心地よくはあるが、日常の時が流れる退屈さを感じている。

 

(あらっ?)

 そんなリーミルが、ふと目を引かれた姿がある。

(グラトあたりから田舎貴族が迷い込んできたのかしら)

 その青年の姿はどう見ても、目的地を見失って道に迷っている。

 目的地の方向を探ろうとして背伸びをして見たり、

 自分の場所の情報を得ようときょろきょろと辺りを見回したり、

 そして、忙しく行き交う人々やその数の多さに面食らって、人に道を尋ねることが出来ずにいる。何か、眺めているだけで面白い。ただ、その純朴さには好感が持てる。

 

 その青年。ルージから海を渡ってやって来たアトラスである。 アトラスがなすことなく足を止めて一息ついていると、自分を観察するかのような少女と視線を合わすことになる。リーミルとアトラスの初めての出会いと言えた。ただ、リーミルは一瞬にしてアトラスの視線を避けた。別のよからぬ気配がしたのである。

(二人?)

 リーミルは自分の前方から下心を隠しもせずにやって来る男の数を数えたが、背後にもう一つ同じ種類の気配を感じて数を修正した。

(いえ、三人ね)

 この区画には警察権力の手が行き届きにくく、ヤクザな荒くれどもが集まる場所でもある。

「やぁ、お姉さん。ハラサ水じゃなくて、酒をおごってやっても良いぜ」  

男の一人がリーミルにそう声をかけた。リーミルは言葉を聞き流しながら、ハラサ水売りの店主に目配せをして、もっと距離を置いてトラブルを避けなさいと指示をした。

 

 既に、リーミルと男たちの周囲には事の成り行きを見守る人々の輪が出来ている。

「姉さん、お前、耳が聞こえねぇのか?」

「いや、俺たちを見ても驚く様子がないってなぁ、目が見えねぇのかもしれねぇ」  

 リーミルは絡む男たちのねちっこい言葉を聞き流して、カップに残ったハラサ水を飲み干した。彼女は荒くれ男たちなど目に入らぬように微笑んだ。

(あら、なんという勇ましいこと)

 アトラスの姿が目に入ったのである。この種のトラブルはこの区画では珍しいことではない。この区画で生活する人々は、トラブルに興味を示しつつも、男たちが周囲を威圧するように見回す視線を避けてうつむいて避けている。

 

 そんな中で、事の成り行きに戸惑っているが、目の前で見ず知らずの女が荒くれ男に絡まれて難渋するという状況に、アトラスが男たちに向ける視線が鋭い。

 男の一人が返事を促すようにリーミルを脅した。

「お前さん、返事をする口がねぇのか?」

 にやにやと笑う男たちの輪が小さくなってリーミルを囲んだ。

「女が欲しければ、マグニトラにでも行く事ね」

 リーミルはすましてその方向を指差した。ルードン河を挟んだ対岸にマグニトラと呼ばれる歓楽街があり、売春宿が建ち並ぶ。リーミルは男たちに売春婦を買えと言うのである。

「なにぉっ」

 男たちはそう言いつつ息をのんで黙った。彼らを見つめるリーミルの目に威圧感があり、それ以上の言葉を発することが出来ない。この辺り、リーミルは彼らをあしらうのには慣れている。

 リーミルはふと男たちの視線の向きが変わったのに気付いた。

 

 あしらわれた彼らの怒りの矛先が、どうやらリーミルが興味を示しているらしいアトラスに向いていた。周囲の人々に混じって、男たちの視線に向きあうアトラスは一人目立つ。

「あんっ、アレがお前の色男ってわけかい?」

 アトラスにとって迷惑なことに、男たちの感情は怒りから憎しみに変わって、アトラスに向いた。

「おいっ、色男さんよ。女の前で勇敢なところ、見せたかねぇのか」

 そんな言葉の口調を聞いていれば、男たちはアトラスが一人と見て侮る様子が伺える。野次馬が三人の荒くれ男に後ずさりをし、アトラスと男たちを囲む輪になった。

「無礼な」

 アトラスは怒りを見せたが、その怒りが男たちの哄笑を誘った。

「おいおいっ、田舎貴族さまが、俺たちを無礼だとよ」

「無礼なのは、臆病なくせに長刀を帯びてる田舎貴族さまだぜ」

 男たちは自分たちの言葉に興奮を募らせ、三人は短刀を抜いた。

「餓鬼はしらねぇだろうが、刀ってのは、刺されると痛いんだぜ」

「その腰の剣はただの飾り物か」

 真っ正直な性格のアトラスはあしらうということが出来きず、男たちに合わせて剣の束に手をかけた。

「ふうん」

 リーミルは他人事のように感心した。腰の重心を下げ一呼吸で腰を捻って剣を抜き取る様子にあの若者が剣に練達している様子が伺えるのである。ただ、剣の切っ先を人に向けるときの呼吸が荒く、あの若者は人を斬った経験はあるまい。この男たちは争い事を避けるすべも知らず放っておけば殺し合いをするだろう。そして、剣の扱いに慣れた若者は力加減も知らずに剣を振るって三人を切り捨ててしまうに違いない。

 

 あの三人が殺されてもどうと言うことはない。ただ、あの無垢な若者に殺しをさせるというのは気が引ける。リーミルはハラサ水売りが壺の中で蜂蜜をかき混ぜてるのに使っていた棒を手にして立ち上がった。

「ちょっと……」

 リーミルは手にした棒で、手前にいた男の後頭部を突き、こちらに振り返りさせてから、棒を振り下ろし頭部を激しく打った。棒を受けた男は、頭を抑えてうずくまった。もう一人が襲いかかってきたのを、リーミルは身を翻して避けて、足払いをかけた。男はつんのめって店の縁台に突っ込んだ。リーミルはやすやすと棒で男の後頭部を打ち据えて気絶させた。

 リーダー格の男が残った。一瞬、逃げ道を探した気配がある。しかし、周囲の人々の視線に自分の腕力を誇りたいという自己顕示欲が勝った。たしかに、大柄で周囲を圧する体格の男である。

「この女が」

 さらに腕力を誇示するように太い腕を持ち上げて威嚇した。ただ、体格や腕力を誇示する姿勢は酷く無防備になる。

(頭の中まで、ケダモノなの?)

 リーミルは手にした棒をちらちらと振って見せた。先ほど仲間がこの棒に打ち据えられたという印象があり、男の注意がこの棒に集中した。 その刹那、リーミルは右の足を蹴り出した。蹴り出した右のつま先が的確に男の股間を捉えていて、何かがグシャリと潰れたような感触が伝わった。

(きゃっ)

 リーミルはその感触の気色悪さに内心悲鳴を上げた。しかし、男は股間を押さえたまま声も出せずに悶絶して地を転がった。

「これが、フローイの流儀よ。女を侮辱する男はこうなるの。」

 リーミルはそう言い放ち、周囲を眺めて破壊されてしまった店を眺めて、懐に手を入れて小さな金袋を取り出し、店主に投げ与えた。

「これで店を直しなさい」

 再び周囲を眺め回して、使うことのなかった剣を鞘にしまったアトラスの手引いた。

「さぁ、場所を変えましょう」


アクアマリンの腕輪

 二人はしばらく人混みを抜けて足早に歩いた。アトラスはリーミルに手を引かれるまま素直に歩いた。歩きつつアトラスは言った。

「礼を言う。助けてもらったようだ」

 そう言うアトラスの純朴さにリーミルは好意を持った。愛玩動物のように可愛い。並の男なら女に強がってみせるに違いない。しかし、この若者は自分の剣の腕を誇ることもせず、トラブルを避けてくれた礼を言うのである。リーミルにとって、初めて観る種類の男だった。

 

「あなた、シリャードは初めて?」

「昨日、着いたばかりだ」

「それで、ふらふらと出歩いて、宿の場所を見失ったの」

「ああ。迷っていた」

 そんな短い会話の中、リーミルは若者の言葉に違和感のある訛りがあるのに気付いた。彼女の祖父のボルススは武人ながら政略に長けた男で、身内の政略結婚やら、各地に潜入させた密偵やら、各国の協力者らがリーミルが幼い頃から住まう王宮に集う。自然、リーミルは各国の言葉の言い回しや訛りに馴染んでいるはずだった。そんな訛りに当てはまらないのである。かといって、占領軍の蛮族タレヴォーの言葉遣いではなく、庶民ではあり得ないほど礼儀正しい物言いをする。

 

「あやつらの頑固さと純朴さは、策謀には向かぬ」

 リーミルの祖父ボルススがそう言ったことがある。ルージの人々の気質は裏工作には向かず、ボルススが唯一策略の手を伸ばしていない人々。リーミルが聞く機会がないとすればルージの訛りである。

(なるほど、ルージ者ね)

 ルージ国の出身者だと思いついたのである。彼女は心の底でアトラスの故郷を言い当てた。

「貴方、ルージの人?」

「私が、田舎者だと?」

「田舎者だというなら、まぁ、私も似たようなものよ」

 リーミルは水路の傍らのベンチにアトラスを誘って座らせた。行き交う人々の姿は多く、彼女たちに興味を示す者はいない。

 二人は意図して互いの名を名乗るのを控えた。相手の名を尋ねようとすれば、自分の名を名乗らねばならない。アトラスは偽の名を名乗ると言う知恵が回らず、リーミルはこの男の純真さに、偽りの名をすり込むことには罪悪感がある。

 

「ご家族は?」

「故郷には母と妹がいる。父はこのシリャードに」

「家族が離ればなれで、寂しいこと」

「いや。父はそうは思ってない」

「どうして?」

「父は異邦人の女とその息子の方を愛している」

 アトラスも目の前の女性が自分と同じ辺境の人間だと知って少し心を許したように、身分は隠したまま、生い立ちや境遇を語っている。

 自分より兄のほうが愛されている。

 自分を愛してくれる母のために。

普通なら隠しておきたい本音を、まるで姉に悩み事を語るかのように話している。

(なんとまあ、素直な男)

 

 知りたいことを素直に話してくれるか、語れずに正直に口ごもるだけ。フローイ風の言葉の裏に込められた腹の探り合いと比べれば、なんと単純。  リーミルはこの正直なルージの若者に尋ねたい事がある。もちろん、祖父ボルススが勧める縁談の相手の評判や人柄についてである。

「ルージにはアトラスという王子がいるそうね」

 核心を突いた質問にアトラスは面食らって口ごもった。リーミルは勝手な推測を込めて、アトラスに返答を促した。

「何か、伝説のレトラスのように素晴らしい肉体の持ち主で、勇敢さは比類ないとか言う噂だわ。本当なの?」

 アトラスはもっとむっつりと黙りこくった。しかし、その表情を観察したところ、決してリーミルの言葉に不快感を感じている様子はなく、リーミルの指摘を密かに喜んでいる感情が滲み出している。

 どうやらこの男にとってアトラスという人物名は口にしがたいらしい。 リーミルは、ふっと吐息を漏らした。若者が腰に帯びる剣。その剣の束に青緑の輝きを放つアクアマリンの宝石がはめ込まれているのに気付いたのである。アクアマリンと言えばルージを象徴する色だが、そんな宝石を剣の束にはめ込んでいるのは王家の人間だけである。

 

(これが、アトラスなの?)

 そう気付いて、リーミルは興味深げに質問を重ねた。笑顔と裏腹に尋ねる内容は強烈である。

「お答えがないのね。では、ルージの牙狼王リダルが戦をしたがっているのは本当なの」

 アトラスはリーミルの言葉を言下に否定した。

「そんな事があるものか」

「でも、このシリャードでは、そんな噂で一杯」

 アトラスは考えつつ言葉を繕った。

「噂は事実ではない。王宮で王が戦を始めるなどと口にするのは聞いたことがない」

 アトラスはリーミルの明るい笑い声に言葉を途絶えさせた。

「あら、ごめんなさい。あなたを笑ったんじゃないの」

 リーミルはそう言って、心の中に残りの言葉を吐き出した。

(なんという、運命の神ニクススのお導き。いえ、恋愛の神フェリンの悪戯?)

 『王』という単純な言葉の使い方が不自然だった。家臣が王を呼ぶときは、信頼や敬愛を込めて『我らが王』と呼ぶ。また、目の前の男の若さの家臣が王宮で王に謁見して言葉を交わすことはあるまい。リーミルは僅かなヒントから、目の前の若者がルージの王子、彼女が祖父によって政略結婚させられようとする相手だと判断してのけたのである。

 彼女は立ち上がって、一時の別れの言葉を吐いた。これから早急に祖父の所へ戻って決心をつげに行かねばならない。

「残念だけど、今日はここまで。貴方を送って行ってあげることは出来そうにないわ。」

 その通りである。この迷子の王子をルージ国王の館に送って行けば、まだ隠しておきたい自分の正体がばれてしまうし、アトラスも彼自身が隠しているつもりの正体を暴かれるのは望むまい。リーミルは立ち上がって水路の方を指差した。

「道を辿ってもダメよ、迷うだけ。水路の幅が広くなる方に向かいなさい」

 単純な理屈である。ルードン河から水を引き込んで広がっている水路である。交差する水路を幅の広くなる方を選んで辿ればシリャードの中心に近づけるのである。

 

「おいっ、娘」

 アトラスは戸惑いつつ駆け去ろうとするリーミルにそう声をかけた。リーミルは笑いながら振り返った。この若者は女性に声をかけ慣れていない。慣れていればもっと別の言葉があるだろう。

(女についても、田舎者なのね)

 そう考えるリーミルに、アトラスは左腕につけていた腕輪を外して渡した。

「礼だ」

 田舎者らしい律儀さでトラブルから救ってもらった礼にと、腕輪をはずして与えるつもりなのである。リーミルは腕輪を受け取りつつ礼の代わりに言葉を放った。

「また、近いうちに会えるでしょう」

 リーミルは駆けながらやや後悔している。アトラスの目の前で、見ず知らずの男の股間を蹴り上げるなどということをやって見せたことを。

 ただ、リーミルが好意を持ったこのアトラスの素直さは、アトラスが纏っていた仮面を剥いだ姿で、アトラスの家族から観れば思いもよらない姿に違いない。

 

 姿を消したときと同様に、ふらりとリーミルが王の執務室に姿を見せた。ボルススは笑いながら、謁見の許可を求めるという儀礼を無視する孫娘を改めて叱った。

「ここでは礼儀をわきまえよ。我々が礼儀をわきまえぬ田舎者だと噂が立つ」

 リーミルは祖父の叱責を聞き流すように言った。

「私、田舎者もいいかなぁって思うのよ」

 ボルススは孫娘の言葉に含まれた田舎という言葉が意味するものを察した。

「例えば? ルージか」

「たとえ、ルージ国に行ったとしても、生魚は食べなきゃいいのね」

「それは、アトラスに嫁いでも良いと言うことか?」

「まあね」

「どういう心変わりだ?」

「愛を司るフェリンの悪戯に引っかかったと言うところかしら」

 ボルススの見るところ、普段は装飾品にはさほど興味を示さない孫娘が、腕輪をもっている。孫娘は腕輪を見せびらかすように手の中で転がしたり、指で回したりした。その癖、大事な物を扱うように落として傷つけるのを恐れる様子もある。

「では、面会の話を進めて良いのだな」

 ボルススはそう言ったが、政治と愛は切り離している男である。孫娘の意志と関わりなく政略の道具に使う。日程は既に決まっているはずだ。その日程をリーミルは確認した。

「いつになるの?」

「六日後、ミッシュー明けになる」

 アトランティスの暦でターアの月の後、ミッシューという一年の不浄が集まるとされている不吉な日が5日間ある。その日を避けて吉日に二人を娶せる手はずを整えていると言うのである。

 祖父と孫に互いの腹を探るような沈黙があり、リーミルは話題を変えて沈黙を破った。

「見て、私にはぶかぶか」

 リーミルは手の平で弄んでいた腕輪を、するりと腕にはめてみせた。ボルススは孫娘に提案した。

「気に入ったものならば、手直しさせれば良かろう」

 フローイ国は山岳地帯が多く、銀を産出する。人々は銀を使った細工が巧みで、フローイの銀製品としてアトランティスで鳴り響いている。そんな熟練した細工師に依頼すれば、腕輪の大きさなどリーミルの腕に合わせて上手く作り直すに違いない。

「いいわ、このままそっとしておきたいから」

 リーミルはそう言って、するりと身を翻して部屋から消えた。


入り乱れる策謀

「水路を辿りなさい」

 そんな少女の言葉に素直にしたがって、アトラスは、ルージ国王の館にたどり着いた。

「王子、我々に無断で外出されるのは困る。警護の役が果たせぬ」

 帰ってきたアトラスを見つけてそう言ったのは、近習のザイラスという男で、非難の口調を隠さず、王子との距離感を感じさせない。この口調がルージという国を象徴している。

 

 漁村の人々が船に乗って漁場に向かう。凪や嵐に協力して立ち向かい、豊漁の時も不漁の時も、得るものは等しく分け合う。その中で、人々は自らの責任を果たす事によって対等で、船を操る船長はその判断の正しさその統率力によって人々を付き従わせるのである。

 極論すれば、ルージという国は、そんな漁村を国家にまで拡大したようなものである。組織としては、酷く未熟な国家に違いない。しかし、指導者に恵まれれば、目的に向かうのにこれほど無駄を排除した組織はない。

 

「すまぬ」

 アトラスはザイラスの非難を受けて素直に詫びた。いい訳をする必要は感じなかった。幼い頃から生活を共にし、歳の離れた兄のように感じている関係である。ザイラスは弟を見守るようにそれ以上の非難を避け、アトラスを居室に導いた。

「我らが王子のお戻りだ」

 ザイラスは部屋の中の少年たちに声をかけた。アトラスは部屋に入るや否や顔ぶれを見て親近感を込めて三人の名を呼んだ。

「オウガヌ、テウスス、ラヌガン。お前たちも到着したか」

 少年が一人ふくれっ面で不満を露わにしつつ抗議した。

「我らが王子よこのスタラススの名をお忘れか?」

「おおっ、お前も来たのか」

 四人の少年の年齢はアトラスと大差がない。アトラスと共に寝起きを共にするように育てられた若者たちである。やがて、王になるアトラスを支えるべく、リダル王がアトラスにつけた側近である。ザイラスを伴ってシリャードにやってきたアトラスから一歩遅れてたどり着いたのである。

「我らが王とは」

 オウガヌか尋ね、アトラスはため息をつくように言った。

「まだ面会ができぬ」

「よそ者とは面会しているというのに、一人息子のアトラスと顔を合わさぬとはどういう事だ」

「我らが王を批判するのは差し控えよ」

 年長のザイラスがそんな言葉でテウススの疑問を封じた。

 アトラスが尋ねた。

「よそ者?」

「シュレーブのドリクス殿が、我が王に表敬訪問においでになった」

「ドリクス? 聞いたことのない名だな」

「さもあろう、議会にも軍事にも関わりがない。我々が名を知る人物ではない」

「名もない人物が、我が王と謁見できるものか」

「わけは知らぬよ。ただ、エリュティア様の教師ということだ」

 名を知られていないと言うこと、ただの教師としての肩書きは、密談を交わすのに適しているのである。この時期、ドリクスという人物がシュレーブ国王女の教師であると同時に、稀代の策謀家であることを知るものは少ない。



読者登録

塚越広治さんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について