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エリュティア 無垢な宝玉

「ああっ。ルミリア、ルミリア」

 エリュティアは太陽に象徴される真理の女神ルミリアの名を感動と感謝を込めて小さく呟いた。まぶしそうに目を細めて空を見上げた彼女が頭を振るたびに、豊かな金髪が幾筋も陽を反射して黄金に輝かせた。

 初春の日差しが柔らかく暖かい。その日差しが川面の小さな波に砕けて跳ね返って、無数の小さな輝きでエリュティアを包んでいた。

 エリュティアというのは、そう言う境遇に包まれた少女だった。自身が純な輝きを持ち、周囲も彼女を輝きで包む。アトランティスの中央に位置し、豊かな穀倉地帯を抱えるシュレーブ国王の一人娘である。

 

『シュレーブ国を訪れる旅人は、自分の女の自慢話が出来ない』と揶揄される。

 シュレーブを旅する者は、事あるごとに、酒場の主人や宿の賄い娘にまで、お国自慢を聞かされるのである。

「なにしろ、エリュティア様ほど神々に祝福された人は居るまい」と

 もちろん、酒場の主人がエリュティアに直接会うことなどあるはずもない。旅人の話は、そういう一般の民衆までが、エリュティアの存在を祝福するほど、人々の敬愛に包まれながら育ったと言うことである。事実、彼女は素直さ、優しさ、従順といった大人が少女に求める美徳を兼ね備えていて、それを否定する人々が無かった。

 

 エリュティアの足下で物音がして彼女を驚かせた。川面に目を移せば魚の鱗が陽の光を反射して輝いていた。

 魚の跳ねた音だった、という当たり前の事が彼女を微笑ませた。ここはルードン河の上だ。アトランティスの大地を東西に貫いて流れる雄大な流れに身を任せる船の上だ。

 甲板のほぼ中央に四本の柱で支えられた天幕があり、天幕の屋根には濃い紫色にルージ王家の旗が翻っている。エリュティアは天幕を出て、船尾側に上った太陽の暖かさを楽しんでいたのだった。

 アトランティスの人々は『トライネが目覚めを運ぶ』という表現をする。植物の芽吹きに先立って大地の上を東から吹く季節風の女神トライネの神話に由来するに違いない。

 春の暖かさに比して冷たく厳格な性格の女神であるという。そのトライネが彼女の髪を撫でている。まだやや肌寒い風である。エリュティアは両の掌で頬を包んで頬の冷たさを感じたのだが、それでも終始機嫌良く不満が無いらしい。

 

 そのエリュティアの姿を見守っていた侍女頭ルスララが呟いた。

「ほんと、お人形のよう」

 その表現も誤りは無い。侍女頭は彼女の手を引いて天幕に導いた。ほっておけば凍りついても機嫌良く景色を見ているかもしれなかった。  侍女頭ルスララはエリュティアをソファに導いて彼女の肩からガウンをかけた。

「温かいものでも用意して参りましょう」

 若い侍女に飲み物を準備するように言いつけ、エリュティアに向き直って提案した。

「温かいものでも飲んで、少しお休みなさいませ」

 ルスララはエリュティアの精神が少し高ぶっていることを気遣っているのである。もともと不満や不安といった感情が欠落しているのではないかと思うほどだが、その反動か、この頃エリュティアは夜に夢にうなされたり、昼間はルスララの手を意味もなく握りしめたりする。そしてエリュティア自身、その理由を説明できないでいるのである。

「ここはルスララに任せてゆっくり落ち着きなさいませ」

 ルスララのやわらかでゆったりした口調に合わせて、エリュティアの呼吸もゆっくり静かになっていった。ルスララの手にエリュティアの鼓動が伝わって共鳴するかのようだった。

「ああ、ルビウスの声が聞こえます」

 それがこの時の二人の最後の会話になった。

 

 エリュティアが彼女に身を任せた。ルスララは腕に感じる重みでエリュティアが眠りに就いたことを知った。彼女はエリュティアが呟いたルビウスという小鳥の気配を感じ取ろうとしたのだが感じられない。ルスララは呟いた。

「もう夢を見て居られるのか」

 そして、暖かなスープを持ってきた侍女に目配せをして不要になったと伝えた。エリュティアがルスララの腕の仲で小さな寝息を立てていた。  安心して身を任せるエリュティアが、実の子供のように愛おしい。

聖都シリャードに着くまで、ゆっくりとお休みください)

 そう思いつつも、一方では、アトランティスの女らしく不満を漏らした。

「まったく。男どもときたら。戦と政治の好きな馬鹿者ぞろい」

 聖都シリャード。今回の旅行の目的地で、ルードン河の河畔にあるアトランティスの聖地であった。政治の中心地でもあり、この政治の中心という意味では総都(ラメス・スタジール)とも呼ばれる。

 

 ルスララの不満は、政治に対して向けられている。ルスララに政治というものが理解できるわけではない。ただ、漠然と男どもがエリュティアを利用しようとしているように感じるのである。


エリュティアの夢

 いま、眠りに付いたエリュティアは夢の中にいる。十年前、彼女が初めてルードン河を下った時代である。

「ああ、ルミリア、ルミリア」

 あの時も、エリュティアは寒気を裂く初春の日差しを見上げて、太陽に象徴される真理を司る女神の名を呟くように呼んだ。穏やかな春の船旅だが、なにやらか不安な気配が漂っている。

 

 夢の中の彼女は幼い子供だった。彼女は父親の命じるままに行儀良く座っているが、好奇心に満ちた視線だけは忙しく動かしている。彼女の頭上には彼女付きの侍女達でさえ持て余しそうな大きな帆があって、帆柱がきしむほどに風を受けている。何かが船を押し進めている。河の神ルルブだろうか、風の神ルシルだろうか?

 考えてみれば、河を流れ下る船が帆を上げる必要はなく、流れに乗ればいいはずだった。とすれば、帆を力強く押す風は、エリュティアが自分を推し進めるものを待ち望んでいるということかもしれない。 春の神トライネが花の香りの混じった優しい息吹でエリュティアの髪をかき乱す。彼女は幼い腕を頭に当てて、いたずら者を捕まえようとするが、彼女の小さな手がつかむのは自分の髪ばかりだ。

 

 彼女は不満気に助けを求めて右手の方を振り返った。そこに居るのは過去の度重なる戦を終えて凱旋した将軍たち。彼女は将軍たちの中央に父の姿を認めた。父ジソー王は自ら参加したと主張するタイラン遠征やズマ攻略の議論に熱中していて、彼女を助けてくれそうにはない。

 エリュティアが今度は左へ振り向くと、将軍たちの中でただ一人、剣撃や灰塵の議論に飽き飽きしている神官が彼女に腕を差し伸べているのが見えた。

 エリュティアはちょっと不思議な心持ちで神官の方へ歩んで行った。突然見えた川面のために彼女は足元がずいぶんと不安定なもののように感じたのである。トライネがまた彼女の髪に戯れて彼女は歩調を乱したが、神官の腕が彼女を支えた。

「トラウネが私にいたずらするのです」

 彼女は顔を上げて神官に訴えた。

「トラウネではありません、トライネです。リュティア様」

 神官は彼女の教師である。教師は幼い生徒の間違いを正して続けた。

「トライネもルミリアの娘です。あなた様の陽の髪がうらやましいのでしょう」

 この愛らしい生徒は神官ドリクスの自慢なのだった。彼は生徒を傍らに引き寄せて言った。

「シリャードまであと一日あります。船旅を楽しんでおいでかな」

「トライネが私にイタズラするのです。」と、エリュティアは繰り返した。

「いいえ、皇女様。トライネはイタズラ者ではありません。トライネは四季の門の一つ、春の目覚めを司ります」

 神官は手の平を皇女の額に当てた。幼い皇女は目をつむって祝福を受けていたがそっと目を開けて言った。

「お父様とドリクスと、それから……」

 彼女は少し考えて続けた。

「オタール伯父様に律法セイネス正義リエ忠誠ルズテスがありますように。それから真理の女神ルミリアの輝きがいつもこのアトランティスの上にありますように」

「おおっ……、ラミクはなんと多くの美徳を授けて下さった事か」

 ラミクとは月の女神リカケーの息子である。子供の誕生に際して、その子供たちに何等の美徳を授けるとアトランティナたちは信じている。ドリクスにはエリュティアのもとにラミクの美徳が数知れぬほど集まっているように思われた。例えば、また新たに見つけたエリュティアが無邪気に笑うときに出来るえくぼがその一つだった。

 彼はそう考えながらもまた、エリュティアの誤りを正した。

「しかし、オタール様は既に伯父様ではありません。あの方は神帝スーインとなられたのです。神々に成り代わり、このアトランティスの大地とアトランティスの民を統率するお方です」

「レトラスは?」

 エリュティアは物心ついた頃からその名を聞かされて憧れる伝説の人物が、ドリクスが語る神話の何処に当てはまるのか知りたかったのである。

「アトランティスの存亡の危機に際して、神々が神帝スーインのもとに裁きの英雄を差し向けます。それがレトラスです」

 

 エリュティアは幼いながら、社会の仕組みの一部を理解している。ついこの間まで、自分を可愛がってくれた伯父のオタールが、もはや彼女の伯父ではなかった。シュレーブ国国王という人間から切り離されて、神に準じた神帝スーインと呼ばれる地位に昇り詰め、アトランティス九カ国を統べるアトランティナの精神的な支柱として君臨したのである。ただし、政治的な実権は持たない。

 同時にエリュティアの父が空位になったシュレーブ国王となった。エリュティアにとって優しかったオタールが自分と距離を置いてしまったことが淋しい。

 

「おお、ドリクスよ」

 将軍の一人が笑いながら神官の話を遮った。

「皇女はそなたの話よりも、顎髭に興味があるものとみえる」

 エリュティアは自分を抱きかかえる神官の顎髭から手を引っ込めて、四人の将軍と父親の方を振り返ってしばらく観察していたが、ドリクスに視線を戻して断言した。

真理の女神ルミリア芸術の神ヘネポスに誓って、ドリクス先生のが一番立派だわ」

 エリュティアは将軍たちがなぜ声を上げて笑うのかわけの分からないまま先生のひざを離れて立ち上がった。甲板が赤く染まっている。その甲板にエリュティアの影が長く伸びている。エリュティアは振り返った。ルードン河の遥か下流、大きく赤い夕日の中に聖都シリャードの城壁が見える。

 

 エリュティアは静かに不安な夢から目覚めて目を開けた。彼女は既に時を経て、元の十五歳の少女である。目覚めてみると、幔幕の隙間から見えるのは夢と同じく大きく赤い夕日の中の聖都シリャードの城壁である。今や中心部の神殿を中心に、夢で観た過去のシリャードより大きく広がりを見せている。ただ、その様子は欲望や憎しみなど人間の感情を押し込めて今にも崩れ去りそうにも見えていた。

「ああ、レトラス」

 エリュティアは神話に現れる救国の英雄の名を叫んだ。混迷するアトランティスの大地で自分の非力さを嘆いているようにも思われた。


アトラス 仮面の王子

 早朝の空がよく晴れ渡っていて果てがなく、雲1つ見えない。意識しなければ分からないほどのそよ風が、草の香りだの蜜蜂の羽音だのを運んでいる。大気の底に僅かに残った朝霧が草の露に凝結する音さえ聞こえそうだった。

 

  ここはアトランティス大陸から東に百ゲリアばかり離れた島である。現代の単位で言えばアトランティス本土から80km離れ、本土は水平線の彼方で見えない。南北320km、東西90kmのルージ島本島と、その南部のヤルージと呼ばれる島があり、2つの島の島民は海神の血を引くという伝説がある。

 

 本土から離れているために、人々は政治の情勢に疎いのだが、同時にどろどろに粘るような混乱に巻き込まれずにいる。

 

 アトラスは草むらに手足を延ばして寝そべって、身動きしない。時折、僅かに微笑む口元以外は凍り付いたように動かず、目もつむったままだった。彼は全身で光や風や色や香りを味わっているのである。そんな姿は、まだ無邪気さを残す少年の姿にも見える。

 突然、彼は苦笑いを浮かべて呟いた。

「無粋な」

 蹄が地をかく音がしたのである。剣の鞘が鞍と触れ合う音もする。彼の馬が全身で主人の帰りを督促しているのだった。彼は身近にあった木の枝を支えに立ち上がった。その表情が固い。王子アトラスは軍人の歩調で歩き始めた。もう、先ほどまで味わっていたものを踏み潰している事にも気づいていない。

「アレスケイア」

 彼はなだめるような口調で愛馬の名を呼んだ。その背に乗って薄暗い潅木の林を抜けると景色は開けて、海に長く突きだした岬になる。見晴らしの良い岬から、砂浜の向こうを見ればこの湾を形作るもう一つの岬がある。沖合に漁場を抱える良港でもあり、砂浜から少し奥まった場所に漁師たちの住まいが点在する。波の音にかき消されて届かないが、荒くれの漁師たちが潮風に灼かれただみ声を掛け合いながら、幾捜もの船を出す光景が広がっている。 

 

 アトラスはそんな光景を、感情を交えずに眺めた。漁師たちの指揮を執るかのようなひときわ長身の若者が目を引く。名をロユラスという。兄だと感じたことはないが、少なくとも自分より父親の愛情を受け、そして、その愛情を拒絶している若者である。

 アトラスは硬い表情のまま、手綱を引いて向きを変えた。両足で愛馬の腹を蹴る前に、アレスケイアは主人の意図を察したように駆けだした。

  

 軽く十分ばかり駆けて、アトラスはルージの王都バース市街を抜けて、王城の門をくぐった。王城とはいえ、現代の我々の目から見れば、王族が居住する大きな館を塀と堀で囲った程度のものである。彼は館の回りをぐるりと駆けて厩の前に来ると、荒っぽく馬を降りて手綱を厩係の小物の手に渡した。アレスケイアはまだ運動が足らないと言うように首を振っている。

「あら、元気の良いこと。さすがに、蛮族タレヴォーを蹴散らしたオスロケイアの血筋だわ」

 アトラスが振り向くと、彼の妹ピレナが笑っている。オスロケイアとは彼らの父のリダル王が遠征先で生死を共にした軍馬の名である。

 彼の愛馬が父の馬と比較されるところに、今の彼の立場が象徴されている。勇猛さをもって知られるリダルの息子として生まれながら、何ら実績を示す機会がない。王の館の中にあって、人々が彼をリダルの息子として見る視線が、幼い頃から彼の劣等感を刺激してきた。それに加えて今一つ、人々も口にしようとしない理由がある。アトラスが浜辺で見かけたロユラスの存在である。

 アトラスはその思いを振り払うように妹に笑顔を向けた。

「女は、戦乱にあっては、夫や子供を失うと嘆くくせに。平和な世にあっては、武人の精神が信じられぬと嘆くのか」

「ごめんなさい」

 ピレナは子供らしい素直さで兄に詫びながら、兄のしかめっつらを可愛いと思った。彼女は時折そうやって人の心を試そうとする。

「お兄様が出かけてすぐにね、お父様からの使者が着いたの」

 彼女はアトラスを導くように寄り添って歩きながら言った。アトラスは黙りこくったままだ。

「お兄様に、聖都シリャードへ来なさいって」

「それが?」

「きっと、アテナイ討伐の軍を起こすのよ」

 アテナイという言葉が、ピレナのような政治に疎い娘の口を突いて出るほどアトランティナの間で蛮族タレヴォーの象徴として、アトランティスを抑圧する勢力の象徴として使われる。長い外征で国力を損耗したアトランティスは、その聖地に占領軍としてのアテナイ軍を受け入れることを条件に講和した。その占領軍は僅か二千である。彼らにとって屈辱的な事だが、その兵を攻め滅ぼせば、東の大陸から数十万の遠征軍が攻め寄せて来ると言われていた。国力を疲弊したアトランティスは抗うことも出来ず、大地は戦火に見舞われるという恐れを抱いているのである。

 

 考えてみればおかしな話で、十数年前、彼らアトランティナは新たな領土を求めて海外に攻め寄せ幾つもの戦を戦った。最初は勝者の立場から戦に負けた。今はわずかな敵軍にアトランティスの心臓とも言える聖域を占領されて我が物顔に振る舞われているのである。その点、ピレナは無邪気だった。

「多分、お兄様も軍を率いて、蛮族タレヴォーと戦うの。素敵だと思わない?」

 客間に入ると、母親の王妃リネと彼女を取り巻く侍女の姿が目についた。アトラスは妹のおしゃべりを制して母親に挨拶をした。

 ヴェスター国の貴族が王の館を訪れた折りに、秘かに「女の館」と称したことがある。館に住む女たちの実権が強く、些細なことにまで政治に口を出すという意味である。その頂点がアトラスの母リネだった。

 

 雰囲気から察するに、重要な知らせをもたらす使者らしい。その顔にはアトラスにも見覚えがある。父に古くから仕える老僕で、その名をコロシスという。そのコロシスの通された部屋が王妃と侍女団で固められているのも、女の館の状況をよく表している。

「アトラス、おお、アトラス」

 リネは息子の名を叫んだ。コロシスは口上を伝える本当の相手に気づいて、片ひざを床について、右手を胸に当てる挨拶をした。次いで口上を述べようとするコロシスに、リネはその言葉を制するように言った。

「アトラス。シリャードの父上からのお召しじゃ。いよいよ、アテナイ討伐の軍を出すのに違いない」

 侍女たちは口々にリネの考えに賛同し、その際のルージ軍の勇敢な様相や、それを率いるリダルやアトラスの姿を口にしてリネの歓心を買おうとしているようでもある。リネとその侍女団、妹のピレナはアトラスより先に口上を聞き出していたものらしい。アトラスは少し不快なものを感じたが、その母親を制して、ひざまづいているコロシスに向かって命じた。

「口上を続けよ」

 コロシスの口上は要約すれば、さきほどから妹ピレナや母リネの言うように聖都シリャードに赴いている父が、彼を呼び寄せようとしているのだ。ただし、アテナイ討伐軍というのは彼女らの推測だろう。兵を挙げるとすれば、兵を集めるべく地方の領主にふれを回しておかねばならないがその指示がない。  リダルは息子に数人の近従とともに聖都シリャードに来いと言っているのみである。目的も何も告げずにただ来いと言う。

 アトラスはこの一室の様子を見ながら、父が息子の召喚の目的を告げない理由が分かるような気がした。

 

 しかし、アトラスにとって目的が不明であるにせよ、聖都シリャードの地はひどく魅力的だった。自らの力量を示したい若者にとっては、アトランティス最大の都市でありアトランティスの中心地であるそま都市は、かっこうの場所のように思われた。そしてこの思いは、聖都シリャードに着くまでの間、アトラスの中で、希望や期待や不安や焦りを加えて膨らんで行くのである。この館では彼は好奇心豊かな少年の心を捨てて、武人の仮面をかぶり続けている。今のアトラスの表情はその仮面が幾分ずれて、期待に満ちて少年のような晴れやかな表情をのぞかせていた。

 

 ラクトの月15日にアトラスは、バースの港を出港した。アトランティス本土に着くのは4日後、そこから陸路ルードン河に沿って遡り、聖都シリャードに到着するのは7日目の朝である。

 アトラスは懐にしまっていた袋の口を開けた。一粒の真珠が入っていた。形はやや歪だが水の滴の形にも見え、美しい光沢とともに女神リカケーの涙と称されていた。アトラスの妹ピレナの持ち物だった。

「お兄さまのお眼にかなった女性に、そして私の将来のお義姉さまに」

 ピレナはそう言って、大切な宝物を兄に託したのである。そう言った辺り、利発なピレナは、兄がアトランティス議会の父の元に召された理由が政略結婚だと気づいていたのかもしれない。


リーミル 策謀の美少女

 聖都シリャード。年に一度、各国の王は神帝スーインが主催するアトランティス議会に集う。その議会の間、王が住まうための各国の王の館が聖都の中心部に点在している。その一つ、フローイ国王の館の門に明かりが灯った。 王の帰還を察知したフローイ国の執政マッドケウスが、館の門でフローイ国王ボルススを迎えた。

「ご機嫌でお戻りなされましたな」

「話が進展した。リダルは申し出を受けるだろう」

「リダル様は、何か注文でも」

「あとは面会のために良き日取りを決めるのみ」

「我々が決めるのですな」

 王と王が信頼を置く執政の会話だが、腹の探り合いをするような表現になる。分かりやすく言えば、フローイ国がルージ国に何かの申し出をしていて、相手の国王リダルがその申し出を受けそうだ。ただ、申し出を受けるにあたり、何かの条件を突きつけてきたかという事である。

 ボルススは執務室に足を運びつつ言った。

「ふん、分かりきったことを。我が進むべき道が、我らが館以外にあるものか」

 フローイ国が進むべき方向は、議会でも相手国の意図でもなく、この館の中で張り巡らされる策謀のみで決まるというのである。

 

  本人たちに悪気はないが、この人物たちが腹を探り合うような言葉を交わすと、陰謀じみた雰囲気が漂う。質朴な頑強さに、あっけらかんとした明るさを持った陰謀が織り込まれて生きていると表現すれば、フローイ国の人々の気質が分かるだろうか。

 

 神帝スーインの諮問機関たる六神司院ロゲルスリンの神託によって始まるアトランティス議会が、既に3日目を迎えている。議会とはいえ国家間の紛争を調停するのみで、各国の内政に踏み込めるものではない。荒っぽく言えば、各国が勝手気ままな主張をする雑談の場である。有意義な結論が出るわけがない。ただ、宗教的な支柱としてアトランティナ(アトランティス人)をまとめる唯一の拠り所であるに違いない。

 

 しかし、蛮族タレヴォーとの講和以来、その精神の拠り所も蛮族タレヴォーに占拠されている。占領軍の主力をなすアテナイ軍は僅か二千の兵士で、聖域シリャードを人質にしてアトランティスの内政に食い込んで治めているのである。蛮族タレヴォーが社会を乱しているという向きもあるがボルススはそう考えては居ない。もし、シリャードを占拠するアテナイという軍がなければどうだろう。神帝スーインには実質的な政治をとりまとめる権力はなく、アトランティス各国は再び分裂して争うことになるだろう。

 アテナイという軍はアトランティナの敵愾心を煽り、アテナイに向ける共通の憎しみによってアトランティス各国がまとまっている。そういう効用を認めていた。 

 

「リーミルさま、困ります」

 侍女のやや甲高い声音の叫びで、ボルススは母国から呼び寄せた孫娘の来訪を知った。

「いいのよ。人に変わりがあるものですか」

 そう言ったリーミルの言葉に、フローイ国の人々の内情が窺い知れる。彼女が生まれ育ったフローイ国は、絢爛たる文化と学術の中心地シュレーブ国の南西に隣接してはいる。しかし、その境界には深い山岳地帯があり、南西に向かう街道はそこで溶けて消えるように潰え、文化や人の気質が異なる。  フローイにおいて、孫娘が祖父に会うというのに、シュレーブ国のように謁見を求め場所を選んで会うという習慣は無い。用があれば執務室であろうとどこへなりと顔を出す。良く言えば気さくだが、シュレーブの人々から観れば礼儀知らずの田舎物に違いない。

 ただ、聖都シリャードにやってくると、フローイの人々も世間体を取り繕って、シュレーブのごとく堅苦しい礼儀作法が要求される。侍女は皇女にそんな作法を求め、皇女はそれを拒絶してフローイ風に振る舞うと宣言したのである。

嵐を司る悪神バウルも、そなたの行く手を遮ることは出来まい」

 ボルススは笑いながら孫娘を評した。

「おじい様も、お元気ね」

 フローイ国王ボルススは孫娘に首を抱かれつつ、側近に手を振って人払いをせよと命じた。 信頼できる部下たちだが、孫娘との会話ではこの孫娘のペースになる。自然に本音が出、聞かれたくは無い種類のことだった。

「お前も、変わりがないな」

 祖父の言葉を聞き流しつつ、リーミルは無邪気に笑って、傍らの葡萄をつまんで口に運びながら尋ねた。

「グライスの花嫁に続いて、今度は、姉の私にも婿を探してくれたというわけかしら」

 リーミルの言葉もフローイ流に染まっていて言葉の裏がある。弟のグライスを政略結婚の駒として使った後、今度は私を二手目の駒として動かすつもりかと語っている。

 ボルススから見て孫娘の笑顔は作り物ではない、しかし、祖父の真意を伺う好奇心じみたものがある。

(もしも、これが男であったら……)

 ボルススは今までに何回繰り返し考えたかわからぬことを思った。勘のいい孫娘に舌を巻いたのである。王女リーミルをルージ国に輿入れさせて、陸軍と海軍とを誇る両国の関係を強化すれば、アトランティスに覇を唱えることが出来るだろう。

 

 この孫は、自分が聖都シリャードに召しだされたそんな理由に気付いて、祖父に探りを入れているのである。並みの人間なら小賢しいと腹立たしい思いもするのだろうが、孫娘への愛情がその腹立たしさを打ち消した。 そして、唐突な孫娘の質問に、ボルススは本音を答えねばならない。

「ルージ国にアトラスという王子がいる。どうだ?」と率直に言った。

 リーミルはまだ出会ったことも無い人物に眉をひそめて質問を重ねた。

「セキキ・ルシルですって? おじい様は、私に生魚を食えと?」

 その明快な物言いに、ボルスは苦笑した。 “セキキ・ルシル”生魚を喰らう者という意味がある。ルージの人々に対する蔑称である。 ルージは島国であって新鮮な魚介類に不自由しない。新鮮で、火を通さない生の魚の切り身に酢や油で和えた調理方法が存在する。その料理はマリネを想像すれば近い。野蛮だという食べ方ではないが、アトランティナに共通する食習慣ではない。

 ボルスは孫娘を説得するように短く言った。

「まあ、考えてみよ」

「ふぅーん」

 リーミルは興味なさげに、明確な回答を避けて身を翻し、執務室から姿を消した。


リーミルとアトラス

 数刻後、リーミルの姿は聖都シリャード端の市場にあった。

 ギリシャの哲学者プラトンの著作で現在に伝わるアトランティス大陸の姿は、神が大陸を同心円をなす陸地帯と水地帯に分割して作り上げた。その中心地に海神ポセイドンの聖域が位置するという、実に秩序だった姿をしている。

 これは、アトランティス大陸ではなく、アトランティスを代表する都市国家シリャードの姿が伝わったものではあるまいか。

 もともとは、ルードン河の川辺にあった真理の女神ルミリア(ルミリア)の聖域を示す石柱や神殿と巡礼者たちを迎える安宿が、いくつか建ち並ぶだけの貧相な光景であったらしい。

 ある時から、安宿が追い払われ、神殿を囲むように九つの国の国王が集う議会や、国王が居住する館が加わって、それらの区域を守るために堀と城壁が築かれた。もちろん国王に仕える数多くの家臣や召使いの居住区が必要となる。そんな区画が内側の城壁を取り囲んでその外側に堀が作られた。数多くの人々に食糧や物資を供給するための市が立ち、その市が拡大して物資を求める人々が行き交い、それらを守る為に周囲に城壁が築かれて巨大な都市国家となった。

 が、今は、その中央に占領軍たるアテナイの一軍がいる。

 

(ふぅ……)

 リーミルは肩の力が抜ける心地よさを感じていた。市外もこの辺りに来ると雑多な濁った雰囲気が漂い、飾り気のない清濁生の正直さが心地よいのである。彼女自身は堅苦しい王女の衣装を脱ぎ捨てて町娘の衣服を着用している。庶民らしい貧相なサンダルを履いた足が軽やかでこの町の景色に溶けこんでいる。

 

 そんなリーミルの鼻をアトランティナがハラサと呼ぶ柑橘系の果物の香りが刺激した。ハラサ水売りが街路に出している店の軒先である。冷たい井戸水に蜂蜜とハラサの絞り汁で香りづけにハラサの皮を薄く刻んで入れる。庶民の飲み物である。

 リーミルは懐の金袋に手をやって、両替を忘れたことを悔いた。金袋には3粒ほどの銀の小粒が入っている。こんなもので代金を払っても、貧しいハラサ水売りはお釣りを払えないに違いなく、第一、リーミルの身分がばれてしまうだろう。

 

 しかし、ここいらの人々は細やかな配慮をする。リーミルの素振りから彼女が今日は金を持っていないことを悟ったらしく、ハラサ水売りは昨日顔なじみになった客に、カップを差し出した。

「飲みな。どうせ、もう温くなって売り物にゃならねぇや」

 客を待つ間に冷たいハラサ水が温まってしまって売り物にならない。タダで飲めと言うのである。

「ありがと」

 リーミルはそう礼を言って、店の傍らの縁台に腰掛けてハラサ水を喉に流した。冷たく新鮮な感触が、心地よく喉を通過した。彼女はこの区画の雑多な雰囲気に溶けこんで違和感が無い。ただ、リーミルから見ても、この区画は心地よくはあるが、日常の時が流れる退屈さを感じている。

 

(あらっ?)

 そんなリーミルが、ふと目を引かれた姿がある。

(グラトあたりから田舎貴族が迷い込んできたのかしら)

 その青年の姿はどう見ても、目的地を見失って道に迷っている。

 目的地の方向を探ろうとして背伸びをして見たり、

 自分の場所の情報を得ようときょろきょろと辺りを見回したり、

 そして、忙しく行き交う人々やその数の多さに面食らって、人に道を尋ねることが出来ずにいる。何か、眺めているだけで面白い。ただ、その純朴さには好感が持てる。

 

 その青年。ルージから海を渡ってやって来たアトラスである。 アトラスがなすことなく足を止めて一息ついていると、自分を観察するかのような少女と視線を合わすことになる。リーミルとアトラスの初めての出会いと言えた。ただ、リーミルは一瞬にしてアトラスの視線を避けた。別のよからぬ気配がしたのである。

(二人?)

 リーミルは自分の前方から下心を隠しもせずにやって来る男の数を数えたが、背後にもう一つ同じ種類の気配を感じて数を修正した。

(いえ、三人ね)

 この区画には警察権力の手が行き届きにくく、ヤクザな荒くれどもが集まる場所でもある。

「やぁ、お姉さん。ハラサ水じゃなくて、酒をおごってやっても良いぜ」  

男の一人がリーミルにそう声をかけた。リーミルは言葉を聞き流しながら、ハラサ水売りの店主に目配せをして、もっと距離を置いてトラブルを避けなさいと指示をした。

 

 既に、リーミルと男たちの周囲には事の成り行きを見守る人々の輪が出来ている。

「姉さん、お前、耳が聞こえねぇのか?」

「いや、俺たちを見ても驚く様子がないってなぁ、目が見えねぇのかもしれねぇ」  

 リーミルは絡む男たちのねちっこい言葉を聞き流して、カップに残ったハラサ水を飲み干した。彼女は荒くれ男たちなど目に入らぬように微笑んだ。

(あら、なんという勇ましいこと)

 アトラスの姿が目に入ったのである。この種のトラブルはこの区画では珍しいことではない。この区画で生活する人々は、トラブルに興味を示しつつも、男たちが周囲を威圧するように見回す視線を避けてうつむいて避けている。

 

 そんな中で、事の成り行きに戸惑っているが、目の前で見ず知らずの女が荒くれ男に絡まれて難渋するという状況に、アトラスが男たちに向ける視線が鋭い。

 男の一人が返事を促すようにリーミルを脅した。

「お前さん、返事をする口がねぇのか?」

 にやにやと笑う男たちの輪が小さくなってリーミルを囲んだ。

「女が欲しければ、マグニトラにでも行く事ね」

 リーミルはすましてその方向を指差した。ルードン河を挟んだ対岸にマグニトラと呼ばれる歓楽街があり、売春宿が建ち並ぶ。リーミルは男たちに売春婦を買えと言うのである。

「なにぉっ」

 男たちはそう言いつつ息をのんで黙った。彼らを見つめるリーミルの目に威圧感があり、それ以上の言葉を発することが出来ない。この辺り、リーミルは彼らをあしらうのには慣れている。

 リーミルはふと男たちの視線の向きが変わったのに気付いた。

 

 あしらわれた彼らの怒りの矛先が、どうやらリーミルが興味を示しているらしいアトラスに向いていた。周囲の人々に混じって、男たちの視線に向きあうアトラスは一人目立つ。

「あんっ、アレがお前の色男ってわけかい?」

 アトラスにとって迷惑なことに、男たちの感情は怒りから憎しみに変わって、アトラスに向いた。

「おいっ、色男さんよ。女の前で勇敢なところ、見せたかねぇのか」

 そんな言葉の口調を聞いていれば、男たちはアトラスが一人と見て侮る様子が伺える。野次馬が三人の荒くれ男に後ずさりをし、アトラスと男たちを囲む輪になった。

「無礼な」

 アトラスは怒りを見せたが、その怒りが男たちの哄笑を誘った。

「おいおいっ、田舎貴族さまが、俺たちを無礼だとよ」

「無礼なのは、臆病なくせに長刀を帯びてる田舎貴族さまだぜ」

 男たちは自分たちの言葉に興奮を募らせ、三人は短刀を抜いた。

「餓鬼はしらねぇだろうが、刀ってのは、刺されると痛いんだぜ」

「その腰の剣はただの飾り物か」

 真っ正直な性格のアトラスはあしらうということが出来きず、男たちに合わせて剣の束に手をかけた。

「ふうん」

 リーミルは他人事のように感心した。腰の重心を下げ一呼吸で腰を捻って剣を抜き取る様子にあの若者が剣に練達している様子が伺えるのである。ただ、剣の切っ先を人に向けるときの呼吸が荒く、あの若者は人を斬った経験はあるまい。この男たちは争い事を避けるすべも知らず放っておけば殺し合いをするだろう。そして、剣の扱いに慣れた若者は力加減も知らずに剣を振るって三人を切り捨ててしまうに違いない。

 

 あの三人が殺されてもどうと言うことはない。ただ、あの無垢な若者に殺しをさせるというのは気が引ける。リーミルはハラサ水売りが壺の中で蜂蜜をかき混ぜてるのに使っていた棒を手にして立ち上がった。

「ちょっと……」

 リーミルは手にした棒で、手前にいた男の後頭部を突き、こちらに振り返りさせてから、棒を振り下ろし頭部を激しく打った。棒を受けた男は、頭を抑えてうずくまった。もう一人が襲いかかってきたのを、リーミルは身を翻して避けて、足払いをかけた。男はつんのめって店の縁台に突っ込んだ。リーミルはやすやすと棒で男の後頭部を打ち据えて気絶させた。

 リーダー格の男が残った。一瞬、逃げ道を探した気配がある。しかし、周囲の人々の視線に自分の腕力を誇りたいという自己顕示欲が勝った。たしかに、大柄で周囲を圧する体格の男である。

「この女が」

 さらに腕力を誇示するように太い腕を持ち上げて威嚇した。ただ、体格や腕力を誇示する姿勢は酷く無防備になる。

(頭の中まで、ケダモノなの?)

 リーミルは手にした棒をちらちらと振って見せた。先ほど仲間がこの棒に打ち据えられたという印象があり、男の注意がこの棒に集中した。 その刹那、リーミルは右の足を蹴り出した。蹴り出した右のつま先が的確に男の股間を捉えていて、何かがグシャリと潰れたような感触が伝わった。

(きゃっ)

 リーミルはその感触の気色悪さに内心悲鳴を上げた。しかし、男は股間を押さえたまま声も出せずに悶絶して地を転がった。

「これが、フローイの流儀よ。女を侮辱する男はこうなるの。」

 リーミルはそう言い放ち、周囲を眺めて破壊されてしまった店を眺めて、懐に手を入れて小さな金袋を取り出し、店主に投げ与えた。

「これで店を直しなさい」

 再び周囲を眺め回して、使うことのなかった剣を鞘にしまったアトラスの手引いた。

「さぁ、場所を変えましょう」



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