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(3) 吾、豊葦原の瑞穂の国に住まう

 つくばでは、今、農家の皆さんが、田の土を起こし始めています。

 起こされた土のあちこちから出てきた虫を、鳥たちが我先にとついばむ光景は、私にとって、早春を知らせる姿そのものなのです。

 この掘り起こされた田に、水が張られ、稲の苗が植えられていきます。

 ちょうど、ゴールデンウイークの頃です。

 

 そして、つくばの私が通う裏道一帯は、その光景を一変させます。

 一面に水をたたえた田は、私たちコメを主食をとする民族にとって、原風景といってもいいのかもしれません。

 田には、これでもかというくらい、毎日、音を立てて、水が注ぎ込まれます。

 カエルが鳴き始め、シロサギが舞い降りてきて、農家の人が放った鴨も水田を泳ぎ回ります。

 

 古代の日本人は、こうした光景を、「とよあしはらのみずほのくに」と表現しました。

  人々の命をつなぐ稲を豊かに実らせ、そして、国が豊かに栄えるという意味です。

 

 私は、セルフガソリンスタンドより、昔ながらのスタンドが好きです。

 車が入れば、大きな声でいらっしゃいませと声をかけてくれ、さっと寄ってきて、帽子を脱いで挨拶をしてくれるスタンドが好きです。

 ハイオク満タン、と声をかけるや、機敏な動作で作業を進め、その合間に、窓ガラスを拭いてくれ、ゴミを片付けてくれ、時には、エンジンルームも見てくれる、そんなサービスを見ているのが心地よいからです。

 車は単に走ればいいのではなく、多くの人にあれこれ手をかけられて、走るのがいいのです。

 貧しい日本人はそうして機械にさえも愛着を示して、大切にしてきたからこそ、発展をしてきたのだと、そう思っているのです。

 

 つまり、ガソリンスタンドのサービスも、丁寧な稲作文化を持つ日本独自のものだと勝手に思っているのです。

 そのガソリンスタンドの店長が、毎年のゴールデンウイークには数日欠勤となります。

 いつだったか、連休を使って旅行でも行っていたの、混んでたでしょうと声をかけたことがあります。

 とんでもない、親戚の田植えの手伝いですよとさりげなく返事をしてくれました。

 

 なんでも、親戚中が集まって、手伝いをするのだそうです。

 今は、機械がありますから、手伝いといっても大した重労働ではなく、集まっては、畔で飯を食うピクニックみたいなものだと言っていました。

 

 残念ながら、私が通う裏道では、作業の合間に、畔で昼餉をとる農家の人たちの姿は見たことがありませんが、この店長の田では、親戚一同集まり、一年でもっとも大切な行事となっているようです。

 

 その店長が、いつになく、運転席に腰掛ける私に語ったことがありました。

 この辺りは、(つまり、つくばと土浦を指していますが)大きな災害がないんですよと。

 

 確かに、私が取手の学校に勤務している時、小貝川が決壊し、被災した生徒の家を家庭訪問したことがあります。数年前には、鬼怒川が決壊し、つくばの隣町は大きな被害を受けましたが、つくばや土浦といった地域にはそうした大きな災害は見当たりません。

 

 だから、人間がのんびりしていてと頭を掻きながら言うのです。

 

 私は思いました。

 この店長と店長の親戚たちは、きっと、豊かに違いないと。

 物理的に豊かであるかどうかはわかりませんが、精神的にはきっと豊かなはずです。

 あくせくして働き、成果を無用に求めようとせず、人との繋がりを大切にしようとするその姿勢が、私のような客をこのガソリンスタンドに導くのです。

 

 無味乾燥な用事を果たすだけの社会ではなく、そこに一味加えた「関係」があることが、潤いなのだと、私は思ったのです。

 

 文明を誇ったエジプトやチグリス・ユーフラテスが今砂漠化し、かつての栄耀栄華が遺跡としてしか残っていないのには、確かに原因があります。

 都市を作り、ピラミッドを造営することができる高度な技術で、多くの人々を養うために、灌漑を行い、田畑を増やしていったがために、あの強烈な太陽の熱で、次第に、灌漑で広くした土地の水が蒸発し、それがために、地中に含まれていた塩分が地表に浮き出てしまったのです。

 

 そのため、文明の地は、砂漠化し、隆盛を誇った人々たちはその勢力を失っていったのです。

 

 しかし、豊葦原の瑞穂国では、その心配はありません。

 雨として降り注いだ潤沢な水は、地下に蓄えられて、自然な形で排水されていくのです。

 

 同じ文明国のオーストラリアで体験したことですが、水道代がとても高く、洗車する際にも、人がシャワーを浴びるときも、庭の植物に水を撒くときも、随分と遠慮して水を使っていた時がありました。

 水は貴重品であり、住民の誰もが、飲み水は大きなタンクで買っているという始末です。

 

 豊葦原の瑞穂国では、そんなことはありません。

 

 のんびりでもいい、心が豊かであって、人と接することを大切にする気持ちがあることが大事なんだと私は思うのです。

 ガソリンを入れるちょっとの間の、何気ない会話の中にも、豊葦原の瑞穂の国に暮らすありがたさを感じるのです。

 


(4) 尭舜の民の如し

 「三月九日。天気快晴。夜半空襲あり。翌暁四時わが偏奇館焼亡す。」

 

 永井荷風の日記『断腸亭日乗』の1945年3月9日での記載です。

 この日、アメリカ軍は「ミーティングハウス2号作戦」を発動しました。

 この作戦は、高度1600から2200メートルの極めて低い高度で、しかも、夜間、爆撃予定地に侵入し、焼夷弾を投下するというものでした。

 この日、初めて実施された焼き討ち作戦です。

 

 B29は、もはや日本軍戦闘機の反撃がないものと予想し、銃座を取り除き、その分通常の2倍の焼夷弾を積んだのです。

 各機6トンの高性能焼夷弾を積んだB29スーパーフォレストは、その数325機でありました。

 

 折しも、東京上空には春の強い風が吹き荒れていました。

 もちろん、アメリカ軍はその気象情報を熟知した上で攻撃を企図したのです。

 それは、効果的に、そして、壊滅的に東京を焼尽するにはもってこいの気象条件だからです。

 

 「火は初長垂坂中ほどより起り西北の風にあふられ忽市兵衛町二丁目表通りに延焼す。余は枕元の窓火光を受けてあかるくなり鄰人の叫ぶ声のただならぬに驚き日誌及草稿を入れたる手革包を提げて庭に出でたり。」

 

 荷風は、のちにこの日のためにわが断腸亭日乗はあったと言わしめたこの日記をもち、強風の中、逃避行をするのです。

 

 もう一人、強風吹きすさぶ中で、この空襲を目撃した人物を私は知っています。

 その人は、荷風のように日記を残してはいません。ただ、私に何度も何度も語っただけです。

 

 着の身着のまま、煎った大豆をポケットに入れて、ゆっくりと噛み砕き、口の中で団子にして、それでも、まだ飲み込まず、口中にてもてあそび、やっと腹に入れたら、水を飲み、それを腹で膨らませて、飢えをしのぐすべをその人は開発したのです。

 

 その日は、まもなく日が変わる頃に空襲警報が鳴りました。

 防空頭巾を被って、母親に連れられて、家のすぐそばにある中川の土手に上がります。

 B29の銀色に輝く機体が探照灯に照らされて、キラキラと輝き、綺麗だなと思いつつ、怖いなと思い、それでも、怖いもの見たさでその機体が飛行する浅草の方角を見ていたと言います。

 

 しかし、その日は風が強く、女の足で立っているのもままならない状態で、爆音もかき消されるような様子であったと言います。

 そのうち、中川の向こうに流れる江戸川のさらに向こうが真昼のよう明るくなったと言います。

 

 今日は、3月10日の陸軍記念日、それを狙って、敵さんすごい攻撃をしているという誰かの声を耳にしました。

 戦争とは、そういうものなのかと思ったそうです。

 

 しかし、今日の攻撃は尋常なものではないと、子ども心にも思ったそうです。

 強い春の風に煽られ、火の手はますます勢いを増していきます。

 土手を降りて家に入って、寒さをしのいだり、いつ何時こちらに爆弾が落ちるやもしれぬと土手に連れ戻されたり、そんなこんなを繰り返すうちに夜も白々と明け、家に戻って眠りについたと言います。

 

 その日の午後、使いを頼まれ、亀戸あたりまで徒歩で出かけていくと、黒焦げの遺体が道端に積まれ、それを役所の男たちがスコップでリアカーに積んではどこかに運んでいく様子を見たと言います。

 そんな光景を見てもなんとも思わないんだから、どうかしていたと語ります。

 

 これを語ったのは、実は、今は亡き母であります。

 

 記憶は決して確かなものではないと思いますが、しかし、あの東京大空襲を見、それを生き延びた経験談は、子ども心にも鮮烈に響いてきます。

 

 不思議なことに、この母から、アメリカ憎しの声は一言もありませんでした。

 天皇陛下のお言葉があって、戦争が終わったことを知らされた時、ああ、良かった、これで空襲がなくなるとホッとした言います。

 負けた悔しさより、空襲がない安堵感が優先したのでしょう。

 

 政治のことは何も知らされず、ただ、怖い思いをし、その日を生きることに必死になっている人の目からは、大局に立ったものの見方はできないと思いますが、確かに、命を繋ぐ生き様を見て取ることができるのです。

 

 ですから、多少の事実の混濁があろうとも、また、認識の誤差があろうとも、私は、あの時を生きた母の言葉を真に受けているのです。

 

 中川のほとりに、多くの水死体が流れ着いたと言います。

 それは猛火を避けて飛び込み、火に覆われて窒息した人々の骸だと言います。

 人は、戦争という混乱の中で、その生き死にをちょっとした判断で分けるのです。

 

 荷風の『断腸亭日乗』をめくり、1941年12月11日の日の記載に注目します。

 

 「日米開戦以来世の中火の消えたるやうに物静なり。浅草辺の様子いかがならむと午後に徃きて見る。六区の人出平日と変りなくオペラ館芸人踊子の雑談また平日の如く、不平もなく感激もなく平安なり。予が如き不平家の眼より見れば浅草の人たちは尭舜の民の如し。」

 

 庶民を言い得て、誠に妙なる言葉がここには記されていました。

 


(5) 鳥類も少子化?

 新聞にざっと目を通して、デスクに着く頃ーー。

 これまで明けやらぬ状態の東の空が、今はもう、しらじらと明けてきているのです。季節の移ろいとともに、空もまたその趣を変えてきているのです。

 季節の移り変わりを肌身で感じることのできる、これは最高の幸せだと思いながら、早朝の仕事に入ります。

 

 程なく、Macに向かう私の背後にある、出窓の、その向こうからリズミカルな音が聞こえてきます。

 きっと、スズメに違いありません。

 時には、出窓の上に張られているトタン板の上を跳ねているのでしょう、その音が忙しく聞こえてきます。

 

 つくばに暮らしていると、鳥類に接する機会が多くなります。

 

 春のある日、散歩の途次、畑の上空で、ピーチクパーチクとさえずりながら、旋回しているのはきっとひばりに違いありません。

 私は、眩しい上空を見上げて、ひばりを探します。

 一羽の小鳥が確かに上空高く頼りげなく飛び回り、盛んにさえずっています。

 私には、賑やかに、楽しげに聞こえるこのさえずりも万葉の人にはそうでもなかったようです。

 

 <うらうらに照れる春日にひばり上がり心悲しも独し思へば>

 

 大伴家持が天平勝宝年間に詠んだ歌です。

 人の世はいつも切ない、しかし、ひばりはそれに知らんぷり、我が世の春と謳歌する、人事と自然、いつの世も、人にはそんな思いがつきまとっていたのです。

 

 もう少し、暖かくなると、出窓の向こうの電線の上にあって、「デポッポポーデー」と繰り返し鳴き、そして、最後に「ホッ」とため息をつく鳥が現れます。

 キジバトです。

 

 何年か前、庭の木の枝を刈っていた時、その樹の枝振りの中に小さな鳥の巣を見つけました。

 そこには小さな卵がありました。

 ふとあたりを見渡すと道端の電線の上に二羽のキジバトがじっとこちらを見ています。

 私は、その木を刈ることをやめました。

 

 そうして、数日後、そっと、あの巣のあった場所を覗いてみると、一羽のキジバトが目を閉じて、卵を温めていました。

 そして、いくぶん暑さを感じるようになった日の午後遅く、三羽のキジバトが電線の上にあって、伸びきった枝を刈る私を見ていたのです。

 

 ある人が言っていました。

 鳥のさえずりというのは、ほとんどがメジャーな音階であるが、キジバトだけはマイナーな音階で泣くと。

 でも、その時の私には、決して、それが悲しげな鳴き声とは思えなかったのです。

 

 春のきざしが感じられる今、盛んに家の周りにやってくるのは白鶺鴒です。

 人懐っこく、鳥には珍しく、向こうから走るようにして、こちらに寄ってきます。それも、尾っぽを上下に振って、ちょこんと跳ねながら、そして、プイッとよそ見をして離れていくのです。

 

 <我が門にいなおほせ鳥の鳴くなへに今朝吹く風に雁はきにけり>

 

 これは古今集に載っているもので、「いなおほせ」、漢字で書くと、「稲負鳥」で、これがセキレイであるとされています。

 昔も今も、玄関口に来ては、人の心を和ませていたようです。

 

 実は、もう一種、我が家の周りには貴重な鳥が暮らしているのです。

 10年ほど前、近くにある大学の構内でその姿を見かけましたが、今は、私の散歩道である裏道でも、複数のつがいを見ることができます。

 首をちょこっと前にして、二本の足が目にも止まらぬ速さで動きます。

 その姿は、まるで、それを大きくすれば、恐竜のようだと思えるから不思議です。

 

 この鳥こそ、日本の国鳥でもある雉です。

 つくばに来て、雉が間近に見られるのだということに驚きましたが、今では、しっかり子孫を繁栄させて、この地に根を下ろしているようです。

 

 先だって、新聞記事に、都会からカラスやスズメ、それに鳩が大きく減少したというものが載っていました。その一方で、オオタカなどの猛禽類が増えているというのです。

 

 ゴミを漁るカラスへの対策など都会のシステムが作用しカラスが餌をなくしたこと、また、寺社の鳩に参詣者が餌を与えないよう求めたことが大きく影響していると言います。

 それだけならなんということもない記事なのですが、さすがに、新聞記者です、ちゃんと読み応えがあるように記事を作ってくれていました。

 

 それは、餌の減少に伴い、鳥たちにも「少子化」が起こっているというのです。

 

 その少子化がカラスやスズメ、それに鳩などの都会をわがものがおで飛び回っていた鳥たちの減少につながっているというのです。

 そんな記事を読むと、人の行動がある種の生物に多大の影響を与えていることにどこかやるせない気持ちになります。

 

 昔の人は、鳥に託して悲しげな気持ちを詠みましたが、現代人の私たちは、ともすると、自分たちの生活の利便さを追求することで鳥たちを無慈悲に迫害しているのかもしれません。

 そう考えると、現代の私たちの自然に対する感性を高めていくことがますます必要であると痛感するのです。

 

 お互いに、少子化の問題を抱えているのですから……。

 


(6) 内面から痩せて、自分が希薄になっていく感じ

 人というのは、実に不公平に出来ているものであると、時に感じることが私にはあるのです。

 

 いや、決して貧富のことを言っているのではないのです。

 第一、貧富など、価値観の見解であって、貧しいと思えば、人は貧しくなるし、そこそこであればいいと思えば、貧しいとは感じないものです。

 ですから、そのような物的な側面で、不公平にできていると言っているのではないのです。

 

 先だって、久方ぶりに、いとこと遅くまで焼酎の「黒霧島」とピーナッツをほうばりながら語り合いました。

 いとこは、はや70歳の大台にのっています。

 しかも、退職後も、請われてフォークリフトを操る仕事に週4日、一日4時間の仕事についているのです。

 彼は、中学を卒業し、すぐに、今勤めている会社に入りましたから、かれこれ55年も、その会社にいることになります。

 

 その彼が言います。

 俺は学歴というのがないから、自分の身体を張って仕事をしないと食っていけないし、いろいろな人に頭を下げることで、お情けを頂戴して生きてきたんだ。

 だから、この歳になっても、仕事をさせてもらっている、ありがたいことだと。

 

 そこには、確かに、地道に人生を紡いできた満足感がありました。

 

 その一方、私はというと、一体何をしてきたんだろうという思いと、いや、結構頑張ってきたんではないのという自らを慰める思いが折半して心に去来してくるのです。

 

 そんな思いになった時、私の脳裏にさっと出てきたのは、安岡章太郎の『サーカスの馬』という短編小説でした。

 国語の教師として、中学生に教えたことがある作品ですが、ともすると、自分の姿と重なる主人公の姿に驚くこともしばしばなのです。

 

 主人公(やすおか)は、成績も良くはなく、スポーツもさほどではありません。

 学校で生活を送る人間にとって、この二つにめぼしいものがなければ最悪であることは、時代を超えて容易にわかることです。

 加えて、主人公は、性格も良くないときています。

 口癖は、「まあ、いいや、どうだって。」というもので、明らかに怠け者であることがわかります。

 

 生徒に教材を通して教えている自分こそが、もしかしたら、かような人物ではないのかという危惧が常に私にはあったのです。 

 

 小説は、この主人公が、自分が通う学校の近くにある靖国神社で催される祭りの際に見た、一頭の馬に共感することで始まります。

 それは、老いぼれて、情けない馬です。

 共感する原因は、まさにその姿にありました。

 まるで、主人公と同じで、「まあ、いいや、どうだって」という雰囲気を持っていたのです。

 

 しかし、その馬は、何を隠そう、この祭りの中心的存在で、一度人を乗せると見間違えるような姿で、見事な演技をして、観客を沸かしたのです。

 その観客の中に、主人公もいました。

 ダメな馬と思っていたのが、脚光をあびる姿を見て、主人公は思わず拍手をする、という段で話は終わります。

 

 教材としては、文句なしの短編小説です。

 教師にとっては、幅の広い、さまざまな形で指導が可能な教材ということです。

 

 自分を限ってはいけないし、自分を卑下してもいけない、人間には必ず、取り柄というものがあるんだと熱っぽく語っている教壇の私自身の若き姿も同時に思い浮かびました。

 そして、これは私だけが持つ特別な感情ではなく、誰もが持つ普遍的な感情であると、はっと気がつくのです。

 人というのは、実に、弱い存在であって、その弱さは、その人が持つ心の隙間から生じてくるのです。

 それがわかっていても、人は自分の弱さを思い、悲嘆にくれるのです。

 

 しかし、中学しか出ていないいとこは、自分の力とお世話になった人々への感謝を胸に、今、胸を張って生きているのです。

 

 私は、同じ安岡章太郎の『夕陽の河岸』の冒頭の文にある一文を思い起こしました。

 

 「端的にいふと、それ(孤独)は自分自身が内面から痩せて稀薄になつてくるのを自覚させられることではないか……。 」

 

 知らず識らず、私の中に、この孤独が忍び寄っていたのだと私は気がつくのです。

 

 『サーカスの馬』の主人公のように、自分を卑下し、何をやっても情けない人に自分を位置づけていたのだと。

 人に大切なのは、偉そうにすることでもないし、今ある自分を大切に思うことであり、在ること自体を誇ることだと気がついたのです。

 

 不公平という思いを持つことは、自分が自分でないという間違った感じを持っているからなのだと。

 


(7) 昭和もまた、遠くになりにけり

 昭和6年のこと、降る雪や明治は遠くなりにけりと詠んだのは、中村草田男です。

 

 私は、昭和、平成、そして、来るべき次の年号の時代、つまり、三代の御代を、どうやら生きていくことになりそうです。

 父も、大正、昭和、平成を生きましたから、現代の日本人にとって、三代の御代を生きることは何も取り立てて特別なことではないようです。

 

 私にとって、昭和は、青春真っ盛り、悩み、喜び、けなされ、褒められ、落胆し、希望に満ちた時代でした。

 そして、平成は、教師という仕事に熱中し、そして、歴史や文学にも。

 その二つに力を注いだ時代でした。

 

 おそらく、次の御代は私の人生を締めくくる時代になると思います。

 一個の人間にとって、生老病死は避けて通れない宿命です。

 だから、私は、次の御代に、粛々と、それを受け止めていくのです。

 

 そんなようなことを考えていると、私がやっと歩き始めた頃、それがどういう経緯かはわかりませんが、あるいは、もっと大きくなって、私の記憶に刻み込まれたのかもしれませんが、ひとつの記憶が鮮烈に脳裏に宿していることに気がつくのです。

 

 それは、手押しポンプの井戸のそばで、母や近所の女の人たちが、世間話をしながら、楽しげに、洗濯をしたり、野菜を洗ったりしていた光景です。

 

 家々には水道がまだなく、近所に手押しポンプの井戸があって、そこに皆が集まって家事をしていたのです。

 まだ、戦争が終わって10年も経っていない頃のことです。

 

 私が生まれ育ったのは、竹ノ塚に新しく建てられた一戸建ての都営住宅でした。

 近所は、多くの人が東武鉄道に勤める人だったと記憶しています。

 私の祖父は東武伊勢崎線に、隣の竹内さんは東武観光のバスの運転手です。その隣の米沢さんはのちに重役にまでなるおじさんでした。

 

 一軒に与えられた敷地も広く、敷地内で畑を作ったり、子供たちが大きくなると建て増しをしたり、かなり自由に住人たちは自分たちの借家をアレンジしていました。

 

 野菜以外にも、イチジクやらザクロもその実を豊かに実らせていました。

 父の田舎は、九十九里にあり、そこからは煮干しやみりん漬けが山ほど送られてきました。

 母は、それを小分けして、ご近所に、おすそ分けですともっていくのです。

 近所には、同じ年頃の子供たちがたくさんいました。皆、どの家にも少なくても3人くらいは子供がいたのです。

 明るく、賑やかで、うるさいくらいの時代でした。

 

 氷屋さんというのがいて、リアカーに氷を積んで、「コオーリ、コオーリ」と声を出して売りに来ます。

 声をかけられると、氷屋さんは厚い生地で覆われていたリアカーの中から、大きな氷を出して、それをのこぎりである程度まで引きます。

 シャカシャカという、その音の心地よいことを今でも鮮明に思い出します。

 

 そして今度は、鋸の背を切れ目に入れて、パチンと割るのです。その手際の良さにうっとりしている私の姿も目に見えるようです。

 氷屋さんは、それを手にして、台所まで上がってきて、木製の冷蔵庫の上の段に入れてくれるのです。

 

 その氷屋さんも消えていってしまいました。

 電気冷蔵庫が家庭に入ったのです。

 程なく、炊飯器が入り、洗濯機が入ると、母たちはもう井戸端に集うことはなくなったのです。

 私の脳裏に宿る、井戸端のあの光景こそが、私に「昭和の原型」をイメージさせるのです。

 

 日本は戦争に負けたけど、負けたのは男たちであり、女たちは便利な家電を手にして、そのおけげで、有り余る時間までを手にして、その時間をテレビジョンで費やすようになったと誰かが言っていました。

 昭和の、先端を行く技術は、女たちの喜ばしい横着を促し、それまでの面倒な家事から解放していったのです。

 まさに、昭和の女たちは、「戦争」に勝利したのです。

 

 昭和という時代は、画期的な繁栄を実現した、日本の歴史の中で、最も高揚した時代でもあったのです。

 

 平成の今、ついこの間までの昭和の面影は、一切合切なくなりました。

 ものの見事にです。

 そんな姿、日本らしいなって思うのです。

 

 次のまだ名も無い御代が始まると、きっと、数十年して、誰かが平成の御代を懐かしむのではないかと私は容易に察しがつきます。

 その時もまた、平成を懐かしみ、その面影を求めることでしょう。

 

 人の世というのは、いつも、このような繰り返しなのです。

 



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