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歴史(1086)

『エッセイ:後三年の役(ベータ版)』
著者:茜町春彦
概要:後三年の役は源義家の私戦とみなされ、朝廷からの褒賞は無かったにも拘らず、なぜ源義家は関東の在地武士との主従関係を維持できたのか?と云う事について解説します.


時系列

平安時代中期

 

西暦1083年
源義家が陸奥守として国府に着任する.
陸奥国の大豪族、清原氏一族内で内紛が起きる.
源義家が清原氏の領地を二分して、清原家衡と清衡に与える.

 

西暦1086年
清原家衡と清衡が争いを始める.
源義家は清衡側につき家衡を攻めるが、一時退却する.

 

西暦1067年
関東から郎党を呼び寄せた源義家が清原家衡の軍勢を破り、家衡を捕捉し斬首する.
大和朝廷は、源義家に清原家衡追討の許可を出さずに後三年の役を源義家の私戦とみなす.


解説

陸奥守に任命されて工夫に着任した源義家は、奥羽の大豪族清原氏の総領である清原真衡に付け入り、私腹を肥やそうとしました.しかし真衡は一族の揉め事の最中に死亡してしまったのです.

 

そこで源義家は、清原氏の領地を家衡と清衡の異父兄弟に分け与えて紛争の収拾を図りました.

 

しかし取り分に不満を持った家衡は、全ての領地を手に入れようとして清衡を襲撃しました.運よく逃れた清衡は、源義家の支援を取り付けることが出来ました.

 

源義家は、家衡の謀反と断定し、追討を始めました.しかし家衡軍の猛攻により義家軍は退却せざるを得ませんでした.そして更に家衡は、叔父の武衡と連合して徹底抗戦の構えを見せておりました.

 

戦いに負けたまま何もしなければ、武家の棟梁としての面目を失ってしまう.源義家は、関東から郎党を招集して追討を再開しました.そして厳しい戦闘を経て、家衡・武衡の連合軍を殲滅しました.

 

この時、大和朝廷はこの合戦を私戦と判断して、褒賞を出さず、そして戦費の補填もしませんでした.しかし源義家は、私財を使って郎党へ褒賞を出したので、関東の在地武士との主従関係を維持できたのです.

 

また、この源氏嫡流の下での激烈な体験は、関東の武士たちの記憶の中に深く刻まれ、語り継がれました.そして後の源平合戦において、その記憶は世の中を変える大きな力を発動することになるのです.
《了》



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